マイノリティーの声(VOM)


トップページ 国連基準 BURAKU 在日コリアン アイヌ民族 沖   縄
アイヌ 民 族・地球環境28200
アイヌ民族史年表(ユポさん年表ベースに) 3040〜15119 アイヌモシリ回復訴訟の準備ノート 19034御料牧場と強制移住 17551 
シマフクロウ 24191市民会議 22500ウポポイ 16955
日本史で記憶すべき出来事
1910年大韓帝国純宗皇帝の勅諭
「太平洋戦争」 「ポツダム宣言」
「降伏文書」
ユーチューブ
世界の先住民族 アイヌ 国連広報センター 阿部ユポさん5:10
二風谷アイヌ文化博物館など 二風谷の紹介5:13
現代世界をどう捉えるか(9本の動画)
1.あるダムの履歴書:二風谷ダム(1)〜(9)88:48
2.萱野茂さん心の旅(1)〜(3)44:02
3.「アイヌとして生きる」川村兼一さん 出原昌志さん61:41
4.「先住民族サミット」アイヌモシリ2008 結城幸司さん3:50
5.「TOKYOアイヌ」7:21
6.アイヌのイベントに坂本龍一さんを4:48
7.伝統の歌に願いをのせて ウポポ14:41
8.アイヌの言葉で歌いたい 熊谷たみ子さん5:04
9.ポロトコタンの歌姫 本間詩穂さん5:22
アイヌ少女 知里幸恵の闘い(ビデオ)42:30
アイヌの若者たち 結城陸さん 結城幸司さん 結城庄司さん7:48
ハンター門別徳司(あつし)さん3:14
ハルコロ宇佐照代さん1:10
Kinko Itoさんのインタビュー  Have You Heard About The Ainu? Elders of Japan's Indigenous People Speak 1:18:06
アイヌの誇り 北原次郎太さん アイヌ民族の歴史・井上勝生さん25:08
アイヌプリ アイヌの心をつなぐ 秋辺日出男さん  貝澤徹さん 30:00
カムイと共に〜白糠のアイヌ文化〜漁師 磯部雄次さん28:05
踊り(リムセ ホリッパ) 阿寒地方・平取地方 1:00:15




















訴訟関係
二風谷ダム訴訟 505〜2180 木村二三夫さん(一通の嘆願書) /19872 一通の嘆願書 原告と訴訟物 「国有林すべてアイヌ民族に返せ」17039/
アイヌ民族の歴史
 野村義一理事長 1992年12月10日国連演説
 阿部ユポ副理事長 2017年6月IMADR総会
 記念講演373
 二風谷ダム訴訟 505〜1840
 アイヌ わが人生 908
 アイヌの碑(いしぶみ) 1250
 葉月浩林さん 釧路湿原 1022
 漁業権回復の道 1904
 田中宏弁護士 マグナカルタ 2219
アイヌ民族史年表(ユポさん作成の年表をベースに)
 3078〜15119

 今につながる運動の開始 1960年
 縄文文化 3143
 オホーツク文化 3223
 東北エミシ 3571
 @ コシャマインの戦い〜「夷狄商舶往還の法度」の100年間
 3943
  熊本藩の密偵4925
 千島列島4153
 A シャクシャインの戦い 4608  こんぶロード 4885
 三井越後屋 5331
 場所請負制 4148
 B クナシリ・メナシの戦い  6091
 ●フランス革命 近代 6223
 勝海舟 江戸城無血開城 6850
 明治2年8月15日アイヌモシリ消滅 6869
 和人地以外はアイヌモシリ 7612
 榎森先生講演「歴史に見るアイヌ先住権」7612
 入北記7808
 ●「アイヌはアイヌモシリ」 179市町村、ロシアに確認。7267
 ●土地の収奪(明治5年) 小西和(こにし かのう)8020
 ●俵孫一北海道長官の答弁 8418
 準備ノート 土地 1−@ (和人地)『入北記』
 準備ノート4 鹿猟
 海面官有宣言 明治8年12月19日  8689 
 あいぬ物語@明治8年12月 8730
 あいぬ物語A明治19年コレラ天然痘 9895
 10万坪の面積 9938
 あいぬ物語B明治26年帰郷 10456
 150万坪の面積 10714
 あいぬ物語C明治42年冨内村小学校11091
 あいぬ物語D大正2年南樺太地図11232
 ●海の収奪  漁業権回復の道(方法)9414
 ●静狩定置漁業権 9847
 カムイチェプ「鮭川漁禁制」9096 
 海と川の漁業回復に向けた基礎資料 10086 
 片山論文と石狩場所の人口 10086 
 「井上研究ノート」10456
 準備ノート2 鮭漁8954
 明治32年(1899)「保護法」下付地の実態(山田論文)10818
 近文給与地問題 6555
 痛みのペンリウクさん 9670
 対華21カ条の要求 10699
 アイヌ民族の戸口 10205
 アイヌ民族甦生援護ニ関スル歎願 小川佐助さん 12417
 新札幌市史:民族としての復権をめざして12832
 1984年(S59)5月27日  北海道ウタリ協会、総会で
 「アイヌ民族に関する法律(案)」を決議 12417

 アイヌ民族自立化基金 6884
 ●UNDRIPまでの道のり 12062 
 ●1994年萱野茂国会質問 12744 
 1997年二風谷ダム判決 「アイヌ文化振興法」7662
 イオル計画  2005年7月開始(帯広市、釧路市、旭川市、
  平取町、札幌市、新ひだか町、白老)13808

 ●旭川市 14028素晴らしイオル計画
 ●平取町14476 不動産鑑定士
  北海道・民有地に対するの地代の考え方 吉原秀喜さん

 ●二風谷保育所・アイヌ語塾15762
 ●15兆円の訴訟物14894
 ●訴訟物と印紙代14625 釧路湿原をアイヌの国に
 門別徳司さん 八谷麻衣さん  14460 
 2008年5月14日  国連人権理事会の勧告 8318 
 2008年6月6日   ユポさんの講演  8545
 先住民族権利宣言を受けて2008年の動き 10700
 2008年9月17日有識者懇談会加藤忠理事長発言 17248
 2009年7月29日「アイヌ政策の在り方に関する有識者懇談会」の
  報告書並びにその批判的考察(吉田論文)17741

 常本照樹「アイヌ民族と「日本型」先住民族政策」11077
 奴隷補償・植民地補償・北海道の地代 11516
 ●小西和(こにし かなう)15656
 ユポさんの年表は2014年のここまで 17579
裁判準備ノート
アイヌモシリ回復訴訟の準備ノート21033 
 吉田論文 
 再度吉田論文を読む 12700
御料牧場と強制移住 16751 
  準備ノート 強制移住 3ー@   16751 
  「瀧澤論文」15593
  山本融定 『新冠御料牧場史』14767
  入殖詮衡委員会 15583
  土地問題 「鈴江英一論文」 15359
  王子製紙 16854
  近文給与地問題
  準備ノート 強制移住 3ーA  15890
  平山『地図でみる』強制移住 17244
  強制移住 「小川正人論文」18024
  裁判で回復させる先住権 18021   人口推移 25525
  訴訟物18259
  アメリカ合衆国独立宣言17159
シマフクロウ 24191  2021.1.11弁護団
  原告と訴訟物 24002
  「国有林すべてアイヌ民族に返せ」24002
  北大演習林 24226
  常本見解の整理 25059
  有識者懇談会報告書 25393
  「民族の集団的権利」 25651
  準備ノート 土地 1ーA 23749
  本気の謝罪23440
  ●「BURAKU」ハンセン病に飛ぶ
  ハンセン病謝罪裁判23543
  ●訴訟物と貼用印紙額 23849 大きな転換
  立法不作為23629
  野村義一さん 貝澤正さん19557  萱野茂さん
  木村二三夫さん(陳述 遺骨の問題も)26323 
  準備ノート 強制移住 3ーB 24119
  元神部川1 元神部川2  元神部川3 強制移住の原告適格者
  ●先住民族権利宣言を考える 22960
  ●UNDRIPの国際法上の効力 23400
  ●近代の準備 ジョン・ロック『市民政府論』 25105
  わが友阿部ユポさん20783
  「はじめての先住権裁判」25074
  市川守弘『アイヌの法的地位』
  ラポロアイヌネイション・シンポジウム 25329
  北大キャンパス内のアイヌのコタン  28397
新しいアイヌモシリの創造 25329










































市民会議 22500
宇梶静江さん  25820
田澤守さん(樺太アイヌ協会)  24583 /
川村兼一さん /21968
木村二三夫さん /22099
準備ノート3 強制移住 一通の嘆願書 /25986
萱野志朗さん /28833
畠山敏さん /26816 クジラ 冊子「カムイチェプ」22936
井上勝生さん 28542/有識者懇談会「報告書」批判
吉田邦彦さん 15455/
貝澤耕一さん 九州芸術工科大学講演 23854/
石井ポンペさん /15980
秋辺得平さん(長老) /27908
アトイさん(縄文思想) /29243
CDレクイエム /29395
砂澤ビッキーさん(彫刻家) /28652
門別徳司さん(狩人)八谷麻衣さん /14125
日テレ差別 27351
杉田水脈問題 28821
竹田恒泰敗訴 27323
多原良子さん /26035 巡回展「先住民族アイヌは、いま」
市民会議中間リポート /
話者の絶えた樺太アイヌ語 14150 /
竹田恒泰と茂木誠のYouTube /






















































環境問題(やはり環境問題を取り上げます。)(2020.12.1)
斎藤幸平『人新世の「資本論」』 へ飛んでください。(2022.10.5)





















1992年12月10日国連総会「世界の先住民の国際年」記念演説
                          北海道ウタリ協会 理事長 野村義一(当時)
アイヌ民族の権利の実現に向けて
                      
各国の政府代表部の皆さん、そして、兄弟姉妹である先住民族の代表の皆さんにアイヌ民族を代表して、 心からご挨拶を申し上げます。また、ここに招待してくださったブトロス=ブトロス=ガリ国連事務総長、 そしてアントワーヌ=ブランカ国連人権担当事務次官に対し心からお礼を述べたいと思います。
本日は国連人権デーですが、1948年に世界人権宣言が採択されて45周年の、人類にとって記念すべき日に当たります。 また、国際先住民年の開幕の日として、私たち先住民族の記憶に深く刻まれる日になることも間違いありません。

これに加えて、本日12月10日が、北海道、千島列島、樺太南部にはるか昔から独自の社会と文化を形成してきた アイヌ民族の歴史にとっては、特に記念 すべき日となる理由がもう一つ存在します。 すなわち、それは、ほんの6年前の1986年まで、日本政府は私たちの存在そのものを否定し、日本は世界に類例を見ない 「単一民族国家」であることを誇示してきましたが、ここ に、こうして国連によって、私たちの存在がはっきりと認知されたということであります。もし、数年前に、この 様な式典が開かれていたとすれば、私は、アイヌ民族の代表としてこの演説をすることはできなかったことでしょ う。私たちアイヌ民族は、日本政府の目には決して存在してはならない民族だったのです。 しかし、ご心配には及びません。私は決して幽霊ではありません。皆さんの前にしっかりと立っております。

19世紀の後半に、「北海道開拓」と呼ばれる大規模開発事業により、アイヌ民族は、一方的に土地を奪われ、強 制的に日本国民とされました。日本政府とロシア政府の国境画定により、私たちの伝統的な領土は分割され、多く の同胞が強制移住を経験しました。

また、日本政府は当初から強力な同化政策を押しつけてきました。こうした同化政策によって、アイヌ民族は、 アイヌ語の使用を禁止され、伝統文化を否定され、経済生活を破壊されて、抑圧と収奪の対象となり、また、深刻 な差別を経験してきました。川で魚を捕れば「密漁」とされ、山で木を切れば「盗伐」とされるなどして、私たちは 先祖伝来の土地で民族として伝統的な生活を続けていくことができなくなったのです。

これは、どこの地でも先住民族が共通に味わわされたことであります。第二次世界大戦が終わると、日本は民主 国家に生まれ変わりましたが、同化主義政策はそのまま継続され、ひどい差別や経済格差は依然として残ってい ます。私たちアイヌ民族は、1988年以来、民族の尊厳と民族の権利を最低限保障する法律の制定を政府に求め ていますが、私たちの権利を先住民族の権利と考えてこなかった日本では、極めて不幸なことに、私たちのこうし た状況についてさえ政府は積極的に検討しようとしないのです。

しかし、私が今日ここに来たのは、過去のことを長々と言い募るためではありません。アイヌ民族は、先住民の 国際年の精神にのっとり、日本政府および加盟各国に対し、先住民族との間に「新しいパートナーシップ」を結ぶ よう求めます。私たちは、現存する不法な状態を、我々先住民族の伝統社会のもっとも大切な価値である、協力と 話し合いによって解決することを求めたいと思います。私たちは、これからの日本における強力なパートナーと して、日本政府を私たちとの話し合いのテーブルにお招きしたいのです。

これは、決して日本国内の問題にだけ向けられたものではありません。海外においても、日本企業の活動や日本 政府の対外援助が各地の先住民族の生活に深刻な影響を及ぼしています。これは、日本国内における先住民族に 対する彼等の無関心と無関係ではありません。 新しいパートナーシップを経験することを通して、日本政府が、 アイヌ民族に対するだけでなくすべての先住民族に対して責任を持たねばならないことを認識されるものと、私 たちは確信を抱いております。

日本のような同化主義の強い産業社会に暮らす先住民族として、アイヌ民族は、さまざまな民族根絶政策(エス ノサイド)に対して、国連が先住民族の権利を保障する国際基準を早急に設定するよう要請いたします。また、先 住民族の権利を考慮する伝統が弱いアジア地域の先住民族として、アイヌ民族は、国連が先住民族の権利状況を 監視する国際機関を一日も早く確立し、その運営のために各国が積極的な財政措置を講じるよう要請いたします。

アイヌ民族は、今日国連で議論されているあらゆる先住民族の権利を、話し合いを通して日本政府に要求するつ もりでおります。これには、「民族自決権」の要求が含まれています。

しかしながら、私たち先住民族が行おうとする「民族自決権」の要求は、国家が懸念する「国民的統一」と「領土の保全」 を脅かすものでは決してありません。 私たちの要求する高度な自治は、私たちの伝統社会が培ってきた「自然との共存および話し合いによる平和」を基 本原則とするものであります。これは、既存の国家と同じものを作ってこれに対決しようとするものではなく、私 たち独自の価値によって、民族の尊厳に満ちた社会を維持・発展させ、諸民族の共存を実現しようとするもので あります。

アイヌ語で大地のことを「ウレシパモシリ」と呼ぶことがあります。これは、「万物が互いに互いを育て あう大地」という意味です。冷戦が終わり、新しい国際秩序が模索されている時代に、先住民族と非先住民族の間 の「新しいパートナーシップ」は、時代の要請に応え、国際社会に大いに貢献することでしょう。この人類の希望 に満ちた未来をより一層豊かにすることこそ私たち先住民族の願いであることを申し上げて、私の演説を終わり たいと思います。
イヤイライケレ。ありがとうございました。
▼野村義一さんのこの国連演説にアイヌ民族の進むべき道がはっきりと指し示されています。「高度な自治と諸民族の共存」。
先に在日コリアンの勉強をしましたが、そこでの最終目標は「エスニシティ(民族性)の複合と重層を許容する」 日本社会でした。アイヌ民族の問題も結局は同じところに行きつくのだな、と感じました。
「海外においても、日本企業の活動や日本 政府の対外援助が各地の先住民族の生活に深刻な影響を及ぼしています。これは、日本国内における先住民族に 対する彼等の無関心と無関係ではありません。」この指摘もこころしなければなりません。
▼今日改めて野村さんの国連演説を読み返しました。この演説の理念、思想で アイヌモシリ回復の裁判を進めていくべきだとおもいました。それと 「1988年以来、民族の尊厳と民族の権利を最低限保障する法律の制定を政府に求め ています」との運動が大事だとおもいます。 (2020.4.2)
▼野村さん(1914年10月20日 - 2008年12月28日)の生きておられる時まで実現したことを出発点に考えたいとおもいます。(2020.6.3)
1997年(H9)
●「二風谷ダム判決」(3月27日)土地強制収容は違法、アイヌ民族を「先住民族」と認定
●「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」 (5月14日成立、7月1日公布)「北海道旧土人保護法」廃止
この法律に対するユポさんの評価。
*「アイヌ文化の振興、アイヌの伝統等に関する知識の普及」を謳った法律が制定されたのは、日本の歴史上初めて/アイヌ民族が自らの伝統的文化を伝承し、 発展させる活動を、誇りを持って積極的に行える状況ができた。
・1984年「アイヌ新法案」骨抜き、6項目の要求のうち、3番目の教育・文化の文化のみの法律/「先住権」なし/アイヌ民族の 社会的、経済的施策なし/北海道限定の法律(アイヌ民族政策のローカル化)(46都府県は何もしない.基本方針・基本計画・予算)
2019年(H31)
●「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」 (略称「アイヌ施策推進法」4月18日成立)
この法律に対する私の評価。
「基本理念、差別禁止、国及び地方自治体の責務、国民の努力、内閣総理大臣の責任、アイヌ民族の儀式に必要な 林野、内水面の利用、内閣官房長官をトップとした政策推進本部の設置、5年のちの検討、 附帯決議のなかでの「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の趣旨を踏まえること、我が国のアイヌ政策に係る国連 人権条約監視機関による勧告や、諸外国における先住民族政策の状況にも留意し、アイヌの人々に関する 施策の更なる検討に努めることの確認」
といった肯定的な内容も織り込まれています。
これらを活用しながら今後、先住権(土地・資源・自治)を中心1984年の「アイヌ新法案」の内容を実現していくよう アイヌモシリ回復訴訟を含め運動を進めていくことだとおもいます。
この法律に対するユポさんの評価を伺うこと。
アイヌモシリ回復訴訟の内容をまとめること。(2020.6.4)
        トップへ戻る@

アイヌ民族の権利の実現に向けて
                         阿部 ユポ(あべ ゆぽ)北海道アイヌ協会副理事長

明治時代、日本は国策として海外移住を進めたが、移住先での過酷な労働や土地取得の難しさから海外移住をやめ、 今度は北海道に行けと言った。被差別部落の人たちにも北海道に移住しろと言った。これは北海道新聞の「北海道開道100年」に書いてある。

150年前、それまで蝦夷地と呼んでいた私たちの土地を江戸末期に北海道、樺太、千島を探検したことで知られる 松浦武四郎の意見書を参考にして明治政府により北海道と呼びかえられた。

その時まで函館、松前、江差にしか日本人はいなかったが、日本の25%もある広大な土地をアイヌから一方的に取りあげた。そこは、蝦夷地でもなければ、北海道でもない、 アイヌの土地=アイヌモシリだ。人が住む静かな大地という意味である。それをどうして、アイヌ民族に一言の相談もなしに奪い取れるのか。

生家跡のユポさん (2021.11.24)
そしてアイヌ言葉を禁止し、宗教も文化も、何万年も営んできた生業である狩猟、漁労、採集をすべて禁止しただけでなく、 アイヌに和人の姓名を名乗るように強制した。いわゆる「創氏改名」である。 そして、1871(明治4)年から1873(明治6)年にかけて戸籍法を制定して、アイヌ民族を強制的に日本国民にした。

1997年に人種差別撤廃委員会から出された「先住民の権利に関する一般的勧告23」の項目5には 「そこにいた先住民族の同意なしに奪った土地、領土、資源は返しなさい」といった内容が書かれている。
1997年の二風谷ダム裁判でもアイヌ民族を先住民族と認めた。しかし日本政府は判決を20年間も無視している。

自分たちのことは自分たちで決めるという権利を宣言にしたのが、「先住民族の権利に関する国連宣言」(2007年9月)であり、 日本政府も採択に賛成した。

菅官房長官がオリンピックまでにアイヌに関する法律を作る、世界に恥ずかしくない法律をつくると約束した。 もし約束が破られたら抗議しなくてはならない。これからも先住民族の権利を勝ち取るために活動を続ける。

(上記は2017年6月9日 反差別国際運動(IMADR)第29回総会・記念講演での安部ユポさんの報告をIMADR事務局にてまとめたものです。)
▼ユポさんについて。「私は 96 年以来、年に2回、 スイスのジュネーブで開かれていた国連の先住民の 権利宣言作業部会や先住民作業部会に参加し 「先住民族の権利宣言」の採択に向けての活動をしてきました」。
▼以上の講演内容は阿部ユポさんご本人とIMADR事務局の許可を得て掲載させていただきました。 文中の「創氏改名」は植民地化した朝鮮半島において明治政府が朝鮮人に強要したものと同じです。
阿部ユポさんのお話の内容をきっちり理解するために私にとって確認が必要である次の項目を詳しく調べました。
(拡大) 2018.3.27さっぽろ自由学校「遊」発行SDGs北海道の地域目標をつくろう。
(掲載2021.12.6)
先住民族基本法の制定 ユポさんの最終目標が簡潔にまとめられています。(拡大)
松浦武四郎について。クリックしてください。松浦武四郎さんの「知床日誌」が読めます。
「(1818-1888)江戸後期・幕末期の北方探検家。伊勢の人。 函館奉行所属として1856年以降幕府の蝦夷地支配に従事。1869年(明治2年)開拓判官となり、道名・国名の選定にあたったが、 開拓使を批判して辞任した。(角川書店「日本史辞典」) 
松浦武四郎は江戸時代後期の北海道、樺太を広く探検し、地理、アイヌ語地名、 アイヌ人口に関する貴重な調査記録を残したのみならず、普遍的で客観的な視点を持ち、アイヌの人々からの信頼をも得ていた人物であった。 後に、この松浦武四郎の日誌および地理取調図を中心に近世における沙流川流域アイヌに関する文化人類学的、歴史生態学的分析が行われた。」

▲山川力『政治とアイヌ民族』204p 「かつて蝦夷地といわれたこの北の島がいまはもはや日本の 植民地即領土なのだ、とうい現状認識であり、かれの「土人」への同情も、 ……弱者のたちばにたいするいっぺんのあわれみとみたい。」はじめての武四郎批判。(2022.12.9)
▼函館、松前、江差の位置の確認
いづれも渡島(おしま)半島の津軽海峡・日本海に面した沿岸。こんな初歩的なことも確認しておきたかった。 (平凡社「日本大地図帳」)
▼日本の25%もある広大な土地
日本全体の面積は37万7千平方キロ。北海道は8万3千平方キロ。従って北海道は日本全体の22%。日本全体は記憶に残っていたが北海道を確認したのははじめて。
▼人種差別撤廃委員会は人種差別撤廃条約 の第9条に規定されている委員会 のことです。
▼「先住民の権利に関する一般的勧告23」の項目 5 については 「先住民の権利に関する一般的勧告23」 を見てください。
▼今日コメントを追加します。「菅官房長官がオリンピックまでにアイヌに関する法律を作る」との約束は2019.4.19成立のアイヌ新法で果たされた、ということでしょう。 (2020.4.2)
                 

▼次に二風谷ダム裁判にいきます。たまたま判決文に出会いました。読むとアイヌ問題の本質が詰まっています。原告は萱野茂 (かやのしげる)さん(アイヌ文化研究者・アイヌ初の日本の国会議員・1994年から1998年まで参議院議員)と貝澤正さん (元北海道ウタリ協会副理事長)です。 
▼1997年の二風谷ダム裁判 とは
▼日本政府も採択に賛成した 先住民族権利宣言の全文

                               トップへ戻る
二風谷ダム訴訟(概要)
平取(びらとり)町の二風谷ダム建設を巡り、地権者である故萱野茂さんと貝沢耕一さん(父 正さんが亡くなられたあと耕一さんが原告に)が北海道収用委員会に、 土地強制収用の裁決取り消しを求めた行政訴訟。札幌地裁は1997年(平成9年)3月27日の判決で、 アイヌ民族を司法の場で初めて先住民族と認定。ダム建設がアイヌ文化に与える影響について調査を怠り、 アイヌ民族の文化享有権を軽視したと指摘し、国の事業認定と道収用委裁決をいずれも違法とした。 ダム本体が完成していたことを考慮し、請求は棄却した。

▼裁判の場において原告である萱野茂さんと貝沢耕一さんが 「アイヌの声」をどのように届けられたのかを知るのにこれ以上の資料はないとおもいます。 このホームページを読んでくださる方もアイヌの人たちの心情を是非ご自分のものにして 日本社会全体のものにしていただきたいとおもいます。
彫刻家・ 知足院(ともたり)美加子さんのHP を開いてみてください。知足院さんのこころに触れたあと判決文を読んでいってください。

今日、改めて知足院さんのHPを読んでみました。20年前に書かれたものです。 私もほぼ2年、「マイノリティーの声」に没頭しています。お気持ちがよくわかります。(2020.6.17)


二風谷石彫設置プロジェクト
アイヌ民族とニ風谷ダム問題         九州芸術工科大学 知足院(ともたり)美加子(彫刻家)

北海道の二風谷ダムは、古来からアイヌ民族が生活をしてきた大切な土地に建設されました。 アイヌ民族である貝澤氏、萱野氏は、ダム計画に対して「二風谷ダムを盾として、人間としての権利を求め」訴訟を起こし、 「アイヌ民族の先住性」が認められ「ダムは違憲である」との判決を得たにも関わらず(1997年)ダムは施工されてしまいました。
このダムを契機として作られた作品がニ風谷に設置された経緯を、ニ風谷プロジェクトとして報告します。 彫刻台座に碑文をつけました。
「遠い昔から,この豊かな大地で生活してきた先住民族アイヌの人々。 その事実をだれが変えられるだろうか。貝澤耕一氏(父,正氏)と共に,受け継ぐ文化の大切さを訴えた人々にこの像を捧げる」


公共事業の方向性を変えることがこれほど困難なのはなぜなのか、近代の中で構造としての差別が残っていくのはなぜなのか、 また、メディアで流れてくる情報内容と当事者の実感がこれほどかけ離れていくようになったのはなぜなのか、 私たち日本人が「考えること」を後回しにしてきたものの重みを感じ、問い直したいのです。
問いかける力、新たな認識の呼び水になる力が「芸術」に残存していることを期待します。


朝日刊2021.9.17(拡大) 被災地の木で彫刻をつくる

▲ 知足さんが朝日新聞「ひと」の欄に登場されました。二風谷の1999年の制作から22年経過しています。 記事によるとあゆみは少しも変わっておられません。「記憶のみちしるべ」として中越地震、東日本大震災、 九州北部豪雨にもこころを寄せてこられたようです。敬服。(2021.10.3)


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国際人権法と二風谷ダム裁判 大阪弁護士会・専門委員会での田中宏弁護士の講演記録(2005.1.22)
二風谷ダムをめぐる二つの裁判  「札幌行政訴訟フォーラム」での田中宏弁護士講演記録(2013.9.7)
▲貴重です。収用委員会での陳述と裁判での争点の違いが判明しました。(2021.11.5)
二風谷ダム裁判判決文
札幌地方裁判所民事第三部
                 裁判長裁判官 一宮 和夫
                      裁判官 堀内  明
                      裁判官 小原 一人
(三)本件事業計画の実施により失われる利益ないし価値
(1)二風谷地域の住民の民族性
原告らはアイヌ民族であり、アイヌ 民族が「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(以下これ を「B規約」という。)二七条 にいう少数民族であること及び
  二風谷ダム概要 山川力「いま、アイヌ新法を考える」178p
(拡大)
▲猪熊議員の質問は具体的で良い。(2023.3.6)
総貯水量3,150万立法b
一つの想定:深さ30b、幅500b、長さ2,100b

水没面積586ha、
内民有地199ha。
土地所有者153名、
うちアイヌ85人。
   定置漁業権 山川力「いま、アイヌ新法を考える」181p
(拡大)
▲定置漁業権 沖合8キロ(2023.3.6)
二風谷地域にアイヌの人々が居住し、独自の文化を有してい ることは争いがないところ、証拠(証人田中、原告貝澤)に よれば、平成五年四月当時、二風谷地域の人口約五〇〇人の 八割に当たる約四〇〇人がアイヌ民族であること、平成七年 一二月一四日当時、
貝澤耕一さん撮影(拡大)
同地域の人口は五〇〇人弱であり、そ の七割以上がアイヌ民族であることが認められ、この事実と 弁論の全趣旨によれば、本件事業認定時において、本件収用 対象地を含む二風谷地域の人口の多くを占める住民がアイヌ 民族であり、アイヌ民族が多く居住している北海道内の他の 地域と比較しても、その割合は極めて高いものであることが 認められる。

ところが、証拠(乙ロ一八)によれば、本件事 業計画が実施されることにより、本件収用対象地を含む二風 谷地域が広範にわたりダムにより水没し(水没面積は全体で 約五三〇へクタールであり、その予定範囲は、別紙「二風谷 ダム貯水池平面図」のとおりである。)、また住宅等五〇戸が 支障物件になることが認められ、この事実と弁論の全趣旨を 総合すると、本件事業の実施がこの二風谷地域に暮らすアイ ヌ民族に離散をもたらせたり、そうでなくてもその生活やそ の文化に大きな影響を及ぼすであろうことは容易に推認する ことができる。
▼二風谷ダム 全景 (現地案内板 拡大可)2018.7.18撮影
貝澤耕一さん撮影(拡大)
530ヘクタールとはどのくらいの広さか?
1,000m×1,000m=100ha 仮に1キロの幅だとするとが5キロの長さで500haになる。5平方qです。 広大さがすこしイメージできます。今日(2019.11.1)もう一度振り返りました。530ヘクタールを。ヘクタールより平方qの方が考えやすいです。 5.3平方qは 1q×5.3q 0.5q×10.6qが考えられます。 上流まで行っていないので確実なことは言えませんが 現地のイメージからすると0.5q×10.6qでしょうか。 


▼以下は1996年設立日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌 のHPから引用させていただきました。
沙流川(さるがわ)のもとの名前はシ・シリムカ(シ=本当に シリ=辺り ム=詰る カ=させる)だそうです。 そのわけは次の萱野さんの説明で納得です。
(萱野茂「沙流川沿いの地名」より)。


「分かりやすくいうと、大雨が降り水かさが増すと、上流から大量の土砂が流れてきて、 河口が鵡川のほうへ寄ったかと思えば、次の雨では門別の方へ移るという具合であったのです。それで、本当に河口がふさがる川と、 アイヌたちは名付けて暮らしていました。

そこへ、あちこちからのアイヌ語の地名を日本語に付け代えて歩いていた役人が来て(略)、 そうか、河口がふさがるということは上流から土砂が流れて来るのだな、それでは沙の流れる川 沙流川とつけよう、 というわけでシシリムカが沙流川と名前が代えられました。
ちなみに、沙流川の右隣の川の古い名前は、ムカ、これも詰るという意味で、 それが武川になり、左隣がモペッ、これは静かな川というのが門別になったのです」。

『アイヌ わが人生』
(拡大) (拡大)
本田勝一『先住民族アイヌの現在』259p (拡大)
収用委員会での貝澤正さんの陳述「アイヌに狩猟権と漁業権を与えるようにしていただきたい」「100年分の補償を」の貝澤正さんの心情は全くそのとおり。 (2021.11.5)
『同書』261p
(拡大)
明治5年「地所規則」でアイヌ民族の土地を取り上げ、 サケ漁も狩猟も禁止、「保護法」の給与地でやっと生活できるとなった矢先にダムで給与地も取り上げる。これが二風谷ダムの背景。 (2021.11.7)
『同書』262p (拡大)(2021.11.7)
▼次の貝澤正さんのご体験は深刻だとおもいました。 (『アイヌ わが人生』貝澤正 84、104頁)より。
「1882年に明治政府はアイヌを狩猟民族から農耕民族にしようと言うことで、 鍬やタネを与えてアイヌに農業を教えました。

沙流川の川筋は沖積土で土地がよく肥えていたので、 農業を始めた頃は、1反(約10アール=1000平方m)の土地にヒエを蒔いておけば、無肥料で1年間食べられるぐらいの収穫があったそうです。 おかげでその頃の二風谷の生活は裕福で、自給する食糧も豊富になり、大豆もよくできて、 それを馬の背に乗せて門別の浜まで持っていって金に換えて、現金収入も十分あったようです。

しかし、木が切り倒され奥地が乱開発されるようになると水害が起こるようになり、 その度に沙流川の流域は一面にわたって水がたまり海のようになりました。 そのような大きな水害が10年に一度は起こるようになり、二風谷のアイヌは貧乏のどん底になってしまったのです。 1910年、苫小牧に王子製紙工場が出来、沙流川上流の松丸太が乱伐された。」
▼王子製紙は今何を考えているのだろうか? 二風谷から門別まで約20キロ。馬で行くのにちょうどいい距離。

(2) アイヌ民族の文化的特色
証拠(甲二〇、四七、証人大塚、原告ら)によれば、アイ ヌ民族は、主に川筋を生活領域とし、コタンと呼ばれる集落 において地縁集団を形成し、狩猟、採集、漁撈を中心とした生活を営み、アイヌ語と呼ばれる独自の言語を用いるものの、 文字を持たず、その文化を口承伝承し、獣や魚などの自然物との関係を重視し、これら自然の恵みを人間に与える神々と 共生するという自然崇拝の価値観を持っていたこと、アイヌ民族は「イオル」と呼ぶ空間領域をひとつの単位として生活 を営んできたが、そこには、家屋があり、またイオルの人々が共同で用いる生産の場や墓地などが設けられていたこと、 イオルには、それ以外に神話的な伝承を持つ山や川などの特 定の場も存在し、アイヌの人々の生活を体系づけてきたこと、 アイヌの人々にとって、イオルはそこで生まれそこで生涯を閉じるという性格のもので、ここに生きる人々は「出自集団」 として結ばれていたこと、したがって、神話的な伝承を持つ山や川などを含むイオルは、単に歴史的遺産に止まらず、民 族的な文化を現代に持続させるための手段となる極めて重要なものであることが認められる。
▼裁判所によるイオルの解説と定義。アイヌ民族の生活と文化の特質を実に簡潔にまとめられている。川筋でのイオルの復活が回復されるべき姿。(2020.4.3)
 次の貝澤美和子さんのイオルの説明。素人にもよくわかります。
                     2006年 9 月5 日(月)18:00〜19:30 札幌会場
                         講師 貝澤 美和子 アイヌ文化活動アドバイザー
                「イオル(IWOR)とアイヌ語地名」
              https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1705.pdf
「イオルというのは、動物を獲ったり山菜を採る場所のことで、いわば、アイヌ民族にとって生活の場のことで す。
「レジリエントな地域社会」 (拡大)貝澤美和子さん
かつてアイヌたちがこの北海道を「アコロモシリ」(私たちの大地)といって暮らしていたころは、この北海道中 がアイヌのイオルでした。
狩猟採集で生活のほとんどを支えていたアイヌたちは、仲間とのコミュニケーションのた めに、とても丁寧に地名をつけました。普段、私たちがよくなじんでいる地名も、その意味を知ってみると、つくづ く先人たちの知恵に驚きと尊敬を感じます。そして、このアイヌ語地名こそが、北海道がアイヌのイオルだったこと の証しでもあります。
(拡大)画像は貝澤耕一さん
(拡大)泉精一氏イオル地図
私たちの沙流川流域も、ほとんどの山や川は、どこそこのコタンのイオルと決められていて、よそのコタンのイオ ルに侵入することはかたく禁じられていました。
図2(右) は、泉靖一氏が古老に聞いて調査したもので、1952年に発表した 「沙流アイヌの地縁集団におけるIWOR」という論文中にあるものを見やすくしたものです。長い間厳し く守られてきたアイヌ間の決まりごとのおかげで、イオルと同時に北海道の大自然も守られてきました。」
▼「イウオロ」 狩りに行くときの自分の持っている場所。行きつけの山ふところ。 (「萱野茂のアイヌ語辞典」より)2018年7月18日二風谷に行ってきました。辞典も萱野茂二風谷アイヌ資料館で購入しました。
▼イオルの画像は貝澤耕一さんからいただきました。こちらの方が視覚的でよくわかります。 原典は泉精一1952年論文「沙流川アイヌの地縁集団におけるiwor」 『民族学研究』16巻3.4号(2021.10.29)

ハオリン(浩林:中国語読み)修論:イオルについて
葉月浩林 東京外国語大学 修士課程 2 年 地域文化研究科 日本専攻 5204463
(拡大)
「泉(1952)が調査した iwor という概念には狩猟域としての iwor、つまり一定の集団ないし、ある家族が専有する土地とし ての iwor が存在する。泉は「沙流アイヌの地縁集団における IWOR」は「その川筋の住民に専有せられ、他の川筋の住民の無 断侵入は許されない」場所である「領域としての iwor」と「各 kotan によって規制された区域」である「生活の場としての iwor」との二つの概念を提示している(奥田 1998:245)。しかし、アイヌ文化振興法のイオルでは「伝統的生活の場」となっ ているが、概念としては文化的な要素のみが組み込まれ、本来あったはずである生業の領域としての概念が外されている ともいえる。」(3p)
      釧路湿原 写真:宮島岬
公園面積28,788ha
国有地15,338ha
公有地3,458ha
私有地9,992ha(拡大)
「 何度も先住権について述べたが、さいごに先住権とはどのような権利であるか、スチュアート(2002b)による定義をのせ て、この段落をしめくくる。 『先住権は、国民一般の権利(公民権)に加えて、先住民のみが享受する権利であり、先住民が狩猟や漁労などの生業活動 や民族法に基づく自治などの伝統的活動を行なう権利のことである。一方、権原はある行為や動産・不動産の占有を正当化 する法的根拠であり、先住権の場合には、植民地化と国民国家樹立以前から地域に居住し自立的な社会を営んできたとい う先住性(植民地化以前から住んできたこと)に基づいて判断される先住権の法的根拠のことである』」(10p)
「2003 年の秋に、私は阿寒に行った。そこで、私はアイヌのエカシ、山本文利氏と行動を共にし、つれづれに色々なお話を 聞く機会に恵まれたのである。山本氏ご本人は民族復興運動などには参加していないのが、アイヌの古老を独自に訪ね歩 きお話しを聞き、民具などを受け継いだ。山本氏の生活そのものがアイヌ様式であるのだが、山本氏はアイヌ文化振興運動 をしていた故山本多助氏の次男でもある。」(29p)
「ここで全ては述べられないのだが、アイヌの人々が、自分らしくのびのびと空気を吸って生きていくには、この日本とい う国はあまりにも窮屈だと思う。
だからこそ、アイヌの人々が求める先住権などについて日本政府はもっと聞く耳を持っ て、話し合いを続けていく義務があると思う。山本氏の口癖は、この広い釧路湿原をアイヌの国にさせてくれたらいいのに なというものだった。
北海道で暮らしていた人々、アイヌの人々の地に和人が入り、土地を奪い、生活手段を奪い、文化を奪った。それは、アイ ヌの人々のアイデンティティーを脅かし、誇りを奪い、心の平安を奪うことであった。心に負った傷は癒えることなく、その 苦しみを抱えている人はたくさんいる。そのような負担をアイヌの人々に背負わせたのが、この日本という国の歴史であ るのだ。」(33p)
1-3.イオル構想に関する年表

1982 国際連合 「先住民に関する作業部会」
1984 北海道ウタリ協会、総会で「アイヌ民族に関する法律(案)」を決議
1987 北海道ウタリ協会、国際連合「先住民に関する作業部会」に参加
1992 国際連合「世界の先住民の国際年」
1993 平取町二風谷にて国際先住民年フォーラム開催
1994 国際連合「世界の先住民の国際 10 年」

1996 ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会報告書(国) 内閣官房長官の私的諮問機関として有識者による懇談会が設置され、今後の新たな施策のひとつとして、伝統的生 活空間(イオル)の再生が提案された。

1997 アイヌ文化振興法制定 アイヌ文化の振興を目的に、「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」 が制定された。
1998 伝統的生活空間の再生に関する基本構想(北海道) アイヌ関係者と有識者による検討委員会が設置され、地元としての基本的な考え方がまとめられた。
2000 「アイヌ文化振興等施策推進会議」を設置(国)
2002 伝統的生活空間の再生構想の具体化に向けて(北海道) 北海道会議を設置し、イオル適地として 7 地域を選定するなど具体的な提案をまとめる。
2003〜2004 イオル再生等アイヌ文化伝承方策基礎調査(アイヌ文化振興財団) イオル再生の適地とされた地域等を対象に伝承活動の特徴や動植物の分布状況等に関する調査が行なわれた。
2004〜 イオル推進委員会(北海道ウタリ協会) イオルの適地とされた 7 地域で委員会を設置し、アイヌ民族の立場からの検討をはじめた。
2005 イオル再生等アイヌ文化伝承方策報告書(国) 学識経験者や伝承実践者による検討委員会を設置し、イオル再生の基本構想の素案となる報告書がまとめられた。(11p)
▼今日、たまたまこの論文に出会う。貝澤輝一さん(萱野茂さんの弟)を探していた時。 アイヌ民族の歴史を知ればだれでもハオリンさん のようにおもう。「2003 年の秋に、私は阿寒に行った。そこで、私はアイヌのエカシ、山本文利氏と行動を共にし、つれづれに色々なお話を 聞く機会に恵まれたのである。山本氏の口癖は、この広い釧路湿原をアイヌの国にさせてくれたらいいのに なというものだった。」やっぱり!(2021.11.5)
▲論文再読。多くを学ぶ。特に二風谷の取り組みについて。ハオリンさん女性の研究者。たぶん現在48歳くらいだと思う。(2022.1024)
▲田中宏先生から送っていただいた「イオル」に関する大塚教授の見解をここにまとめること。 (2022.8.14)
イオル1
裁判記録341p(拡大)
イオル2
裁判記録349p(拡大)
イオル3
裁判記録349p(拡大)
オキクルミ伝説のハヤビラのチャシのあたり? (拡大)










イオル 1
「アイヌはイオルとよぶ空間領域をひとつの単位として生活をいとなんできました。」
「チセが点在。生産の場。死後の世界である墓地。神話的な伝承をもつ山や川などの特定の場もイオル内に存在。」
「イオルはアイヌにとってイオルのなかで生まれ、そこで生涯を閉じる空間領域。」

イオル 2
「アイヌの人たちは一つのイオルを単位として生活を営んでいる。」
「場全体をセットで一つのイオルという領域を村々が設定していたわけです。」

イオル 3
「そこには当然また様々な神話的な装置といいましょうか、伝承を持つ山、川とかいろんなものがありまして」
「沙流川の今のダムの下流のところの大きな橋のすぐそばのハヤビラのチャシにオキクルミという神がいる」 オキクルミ伝説

オキクルミ伝説と義経神社 http://geo.sgu.ac.jp/geo_essay/2016/140.html
「義経神社は、名前からして義経伝説にまつわるもののように思えますが、実は違います。 江戸時代後期(1798年)に、幕臣の近藤重蔵が北方調査をしてこの地を訪れた時、 アイヌたちが祀っていたオキクルミを源義経と混同してしまいました。そして、1799年、仏師に源義経像を作らせ、 アイヌに与えたのが始まりだそうです。 神社は日本式ですが、祀っていたのは、アイヌの神、オキクルミだったのです。」


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(3) 二風谷地域におけるアイヌ文化
『アイヌの碑』萱野茂
15p(拡大)
ニタイ=密林
「裏山が密林。たくさんの鹿が群れをなしている。目に浮かんできます。」
▲やはりそういう二風谷を取り戻す!(2021.11.8)
証拠一中(三の二、四の一・二、七、九、一一、一四、二〇、 二八、二九、四七、乙一二、証人大塚、原告萱野)及び弁論 の全趣旨を総合すれば、次のアないしエの事実が認められる。

ア  二風谷地域の地域性について
二風谷地域を含む沙流川(さるがわ)の周辺にはサルンクルというア イヌ民族の中での有カなグループが生活していたといわれ、 このサルンクルの伝説等から、二風谷地域を含む沙流川流 域がアイヌ民族の聖地と呼ばれることがある。
『アイヌの碑』
萱野茂さん

二風谷地域に住むアイヌの人々にとって、同地域は一つのイオルであ り、自己の民族的アイデンティティを確認できる地域であ る。また本件収用対象地近くの沙流川右岸には、アイヌ語 の地名が二三箇所もつけられており、その理由はアイヌの人々がその一つ一つにカムイ(神)の存在を認め、水を汲 む場所,山菜の採れる場所各々においてカムイと対話して いたからであるといわれている。
墓標3 「44才の母が8才と12才のこどもを養う、22才の倅と16才の娘を連れていかれ57才の爺一人残される。」
▲血も涙もない「場所」の実態。1858年のこと。維新10年前。(2023.11.6)
(拡大)
墓標2 ▲家主(やぬし)、夫婦もおかまいなく22才〜25才の一番働き盛りの家人が「徴用」された。日本の戦中のようだ。 謝罪の対象。加害者(武士)がい筈だ。その子孫もいる筈。(2023.11.6)
(拡大)
墓標1 ▲まさしく「強制徴用」(2023.11.6)
(拡大)








鮭は、アイヌの人々が主 食を意味するシエペと呼び、アイヌ民族にとって重要な食 料であって、その採取方法、調理方法、食事の儀式等、 鮭に関する独特の食文化を数多く有している。また、鮭の皮を用いて衣服や靴を作る等、食物以外においても鮭は生活 の重要な素材である、アイヌ文化の象徴ともいえる魚である。
本田勝一『先住民族アイヌの現在』228頁
(拡大)
収用委員会での萱野茂さんの陳述「アキアジの捕獲権をアイヌに返してほしい」(2021.11.4)
沙流川は、このような鮭や、ウグイ、鱒等の豊富に獲れる川であり、また二風谷地域は、その周辺にアイヌの 人々の食生活を支えたキノコ、シイタケなどの植物が豊かにに生殖し、北海道の中では気候も温暖で雪も少なく、居住 の条件に恵まれていたことなどから、前記のとおり、同地域には多くのアイヌ民族が生活していた。そして、 この二風谷地域は、アイヌ民族の伝統的、精神的、技術的文化を承継する人々を数多く輩出し、豊かな自然とあいまって、 アイヌ民族の伝統文化が保存されてきた地域である。アイヌ民族の長編叙情詩であるユーカラは、二風谷地域を中心 に育まれ、二風谷地域は、ユーカラの優れた伝承者が数多く、言語学者の金田一京助をはじめ国内外から多くの研究 者等がこの地域を訪れるなど、アイヌ文化研究の発祥地ともいわれている。
▼裁判所の事実認定のキーフレーズ
・二風谷地域を含む沙流川(さるがわ)の周辺  ・有カなグループ サルンクル  ・アイヌ民族の聖地
・一つのイオル  ・民族的アイデンティティを確認できる地域  ・沙流川右岸にはアイヌ語の地名が23箇所
・ユーカラは二風谷地域を中心に育まれた  ・多くの研究者等がこの地域を訪れる  ・アイヌ文化研究の発祥地
▼実際二風谷に行ってみて、景色、風土に触れ、実に住みやすい所と感じました。 そのことを資料館の萱野館長の奥様に話したらここは雪も少なくいい所です、とのことです。我が意を得たり。 矢張りこういうところを選んで先人は住むのだな、とおもいました。
サルンクル=沙流川の人。(「萱野茂のアイヌ語辞典」より)

イ  チプサンケについて

写真はチプサンケに使われる舟
(拡大)画像は貝澤耕一さん
(拡大)画像は貝澤耕一さんから
チプサンケとは、もともとアイヌ民族に伝わる新造舟の舟おろしの儀式のことで、昭和二三年ころまでは新造舟が できたときに行われてきた。近年毎年八月二〇日ころ、二風谷地域で行われているチプサンケの祭りは、昭和四七年
チプサンケの場所●印 (拡大)裁判記録100p
ころから原告萱野らがアイヌ文化の伝承と振興を意図して始めたものであるが、以前から行われてきたチプサンケの 場所(別紙図面(一)のE付近) より上流側で舟を川に下ろし、 以前からのチプサンケの場所で祈りを行ってきている。 その具体的内容は、アイヌの人々がアイヌ民族伝統の丸木舟に地域の住民らを乗せて沙流川を下ったり、事前にイナウ と呼ばれるヤナギの内皮を削った祭具を作ったり、舟の安全に感謝して川の神、舟の神などに祈りの言葉を捧げたり、 和人と一緒に盆踊りをする等して、アイヌ文化の伝承やア イヌの人々と和人との交流を図り、アイヌの人々の主宰に よる地域に密着した祭りとなっている。
本件事業計画が実施されると、チプサンケは、従来行っ てきた場所で開催できなくなる。
▼チプを実際に資料館で見て余りにも大きいのに驚きました。 20メートルくらいあったように思います。大木を切り倒し、それをくりぬいて舟に仕上げるのは大仕事と実感しました。 だから完成の暁には舟おろしの儀式(チプサンケ)=進水式が行われるのもわかりました。 チプ=舟 サンケ=出す 舟を出すの意味(「萱野茂のアイヌ語辞典」より)
ウ  チャシ等の遺跡について
チャシとは、水(河川や海、湖沼)にのぞむ高所に作ら れ、砦、城、柵、見張所、聖なる地などといわれている遺 跡である。
オキクルミ伝説(拡大) 宇田川洋『アイヌ伝承とチャシ』91p
地域別チャシの数
(拡大)
宇田川洋『アイヌ伝承とチャシ』222p平取は日高地方に分類されています。
チャシの種類(拡大) 宇田川洋『アイヌ伝承とチャシ』218p
▼チャシは日本人的感覚では村の鎮守、氏神を祀る神社のような存在か? その後「萱野茂のアイヌ語辞典」を見るとチャシ(casi)は柵、囲い、垣根、城、砦とありました。 するとそれぞれのチャシがどのようななものであったのか具体的に知る必要がありそうです。
▼先月の研修旅行で4/9オキクルミチャシの近くを通りました。(2021.5.9)
▼宇田川洋『アイヌ伝承とチャシ』でチャシの全貌が掴めました。チャシの種類は@闘争伝承、A見張り伝承、B聖地伝承、 C談判伝承、D人文神等の伝承、E説話伝承、に分類されています。全体で203の伝承が1981.5時点で確認されています。 最も多いのはアイヌの内部の闘争の77チャシです。そのうち44が日高・十勝・釧路です。オニクルミはD人文神等の伝承に分類されています。(2021.11.7)
沙流川流域には、近世のチヤシ跡が多く、現在 二七箇所が知られている。
「遺跡の写真」(拡大可)

沙流川流域のチャシ跡 宇田川洋『アイヌ伝承とチャシ』北海道におけるチャシの分布図の部分 (拡大)
二風谷地域には、ユオイチャシ跡、ポロモイチャシ跡、ポンカンカンチャシ跡などの遺跡が分布している。
ユオイチヤシ跡及びポロモイチャシ跡は、 沙流川に面した段丘上に位置しており(別紙図面(二))、 空堀による区画と居住跡などによって構成されている。 これら のチヤシに付属する遺構からは、 近世アイヌ文化を代表する多数の鉄製品などが発見された。また、ポロモイチャシ 跡からは、柱を立てる穴が多数見つかったことから、規模の大きな建造物があったとも推定され、 アイヌ民族の歴史を知る上で重要な遺跡である。
本件事業計画が実施される ことにより、ユオイチャシ跡及びポロモイチヤシ跡を発掘 調査直後の状態で保存することは不可能となる。特にポロモイチャシ跡の場合は、 本件ダムの建設に伴い完全に消滅する。
瀬田内チャシ (拡大)チャシのイメージのために(2021.11.9)
宇田川洋『アイヌ伝承とチャシ』
ユオイチャシと
ポロモイチャシ
ダムの総合案内看板(拡大)
森岡健治学芸員講演 写真、上部が上流。川から一段上がった所にチャシが造られたようです。チャシの柵列の左側の河川敷と川がダムになった。 (2021.11.15)(拡大)
沙流川歴史館森岡健治学芸員講演
森岡健治学芸員講演 チャシのイメージ。右の瀬田内のチャシと雰囲気が似ている。 手前が上流ポロモイシャチ跡、先が下流ユオイチャシ跡。右側に沙流川が流れている。 (拡大)










▼ユオイチャシ、ポロモイチヤシが湖底に沈んでいるのか? 現地に行ってみてユオイチャシはダムの左岸近くでチャシ公園にされていることがわかりました。 ポロモイチヤシを探したのですが見つかりませんでした。判決をよく読んでみると 「ダムの建設に伴い完全に消滅する」とありました。怒りの混じった喪失感を味わっています。
森岡健治学芸員講演
樽前山噴火1667年(拡大)
樽前山(拡大)
1667年の噴火は大きく65`メートル東の二風谷のユオイチャシ、 ポロモイチヤシも火山灰で覆われたようです。
その後当日撮った「遺跡の写真」を見ると上のような1枚がありました。 ポロモイチヤシ遺跡は沙流川上流左岸に沈んだことがわかりました。 ダムの着工前と完成後の写真を掲載しておきました。 この「遺跡の写真」を見ながら想像してください。
▼総合案内図の右上流にカンカン遺跡がありますが、その手前にポロモイシャチがあったのではないか、と思います。(2021.11.15)
▼アイヌ語ポロモイを調べました。ポロ=大きい。モイ=川の曲がり角の水のゆるやかに流れている所。 (知里真志保『アイヌ語小辞典』)(2021.11.8)カンカンは川などが小腸のように屈曲して流れている部分。(同『小辞典』 2021.11.15)
ダム後
平山『地図でみる』195p(拡大)
ダム後
(拡大)
ダム前
(拡大)
「遺跡の写真」(拡大可)
右地図
●1 ユオイチャシ跡
●2 ポロモイチャシ跡 
ダム前

平山『地図でみる』195p
A・B・Cチノミシリ(拡大)
ダム前の説明
平山『地図でみる』195p(拡大)

















▼ 「ダム前」写真の上方が上流。沙流川は手前に向かって流れている。
「川向い」と呼ばれた場所が上流から見て右岸、湾曲した畑地。 ここがダムで沈んでしまっていることが「ダム後」右の写真で確認できる。(2021.4.16)

▲「ダム前」平山『地図でみる』でチプサンケの 舟降ろし□1  舟揚げ□2 場所が確認できる。 (2022.9.7)

▲「遺跡の写真」でユオイチャシ跡とポロモイチャシ跡が正確に確認できる。 (2022.9.7)

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エ  チノミシリについて
文化的景観3次選定 ▲1次、2次の過去の経緯はここで分かる。(2022.10.13)
ルオマナイ
古くから二風谷地域から穂別地域へ抜ける生 活用道路として活用されてきた山道。
二風谷B地区重要構成要素
番号の説明 1にぶたに湖右岸の国有林 2オプシヌプリ 3スルクウンコツ  4ルオマナイ 5イオルの森 6ウカエロシキ 7アイヌ文化博物館 (拡大)
チノミシリは、アイヌ語で我々が祭る場所を意味し、これは、神がアイヌの人々に火事、水難、病気の流行等の吉 凶を教える場所であり、またアイヌの人々がそこにいる神に対しお祈りをする場所であって、アイヌ民族にとって、 神聖な地であり、心の拠り所であるとされている。そして、この他は、アイヌ民族以外の人に漏したり、汚したり、傷 つけたり、地形を変えたりすることをしてはならないとさ れている。二風谷地域におけるチノミシリは、別紙図画一 のAのぺウレプウッカのチノミシリ、同図面のBのカンカンレレケへのチノミシリ、同図面のCの三箇所であるとさ れている。
田中宏弁護士「二風谷ダムをめぐる二つの裁判」 :「現場検証で、ダム建設により三つのチノミシリが影響を受けることが初めて明らかになりました。 うち二カ所は水没。」このチノミシリを知りたい。 チャシの間違い? 2021.11.7
チノミシリ 上村英明さんグループの研究 https://www.keisen.ac.jp/extension/research/peace/pdf/peace_research_2013_02.pdf


ウカエロシキ
=ペウレプウッカ
=熊の姿岩(拡大)

上村グループ研究の写真。ダム水門近くの対岸
にぶたに湖右岸に大きく張り出す 3 段の頂きを持つ特徴的な岩塊。下流側から眺望すると 大きな熊が山を駆け上がる姿のような形状。アイヌの伝説ではオキクルミカムイにより親子連れの熊が岩石にされた岩で、地域の人々 からは「熊岩」と呼ばれている。「平取町文化的景観」より

オプシヌプリ(拡大)
上村グループの写真。

稜線に馬蹄形の穴が開いている特長的な景観が形成、夏至前後には対岸のカンカンチャシの視点場から、こ の穴に夕日が沈むという、期間限定での特別な風景が眺望される。アイヌ伝説では人々に 生活文化を教えたオキクルミカムイが、ヨモギの矢で打ち抜いた穴と伝えられており、 1898(明治 31)年の大水害の時までは、馬蹄形の上の部分が繋がっており、穴の状態だっ たと言われている。「平取町文化的景観」より
被告らは、これらのチノミシリの位置に関する証拠とし ては、原告菅野自身の著作である「おれの二風谷」(甲一一) の関係記事部分と同原告の供述しかないところ、両者は一致していないことや、地元住民もチノミシリの位置を知ら ないこと、更にはダム建設に当たってこれら住民から特に異議がでなかったことを理由として、右図面の各位置にチ ノミシリがあるとは認められない旨主張する。
にぶたに湖(拡大)




オプシヌプリの位置
平取町教育委員会文化財課発行のリーフレット









オプシヌプリ伝説 『おれの二風谷』270p
カンカンレレケヘのことのようだ。(2021.11.19)











スルクウンコツ伝説
 271p









熊の姿岩伝説 272p
ウカエロシキとも、ペウレプウッカともいう。
なるほど、「おれの二風谷」の関係記事部分には、カンカンレレケへのチノミシリについて、オポウシナイ沢とパラ タイ沢の間にある山であると記されていて、それによれば別紙図面(一)のBの位置ではないことが認められるが、これ は原告萱野自身誤記であると自ら認めているところであっ て、しかも右著書の該当箇所にはカンカンレレケへのチノ ミシリについて「カンカンレレケウン チノミシリ」(かんかんの向い側・我ら拝む所)との記載があり、カンカン 沢の向い側に位置すると明示されていることが認められるから、そこが別紙図面(一)に表示されているオポウシナイ沢 とパラタイ沢の間ではなく、 オポウシナイ沢とタイケシ沢の間にあること、すなわち同図面Bの位置にあることが窺えるのであり、 この点の被告らの主張は理由があるとはいえない。

▼(平取町教育委員会文化財課発行のリーフレット「アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観」の 左上の地図(拡大可)「にぶたに湖」上流の右岸に赤い点を挟んで右がオポウシナイ沢、左がタイケシ沢であることが確認できます。)

またぺウレプウッカのチノミシリの位置について は右著書の記事と原告宣野の供述に相異があると評する 程の違いはないと解されるから、この点の被告らの主張も理由がない。

また、原告萱野の指摘する右三つのチノミシ リ (熊の姿岩のチノミシリ、カンカン向かいのチノミシリ、オケネウシのチノミシリ)
裁判記録 三つのチノミシリ 482p(拡大)
チノミシリの位置 (拡大)裁判記録100p
ダム前

平山『地図でみる』195p
Aペウレプウッカ
B オプシヌプリ
C  オケネウシ
のチノミシリ
(拡大)
ダム前の説明
平山『地図でみる』
195p
●1  ユオイチャシ跡
●2 ポロモイチャシ跡
(拡大)

の位置について地元の人々が知らなかった点についても (もっとも、甲七にはその後の工事進行の過程でチノミシ リの一ケ所はクレーン設置のために剥土にされてしまって いる、この工事をみた地元の古老たちは、「神聖な場所をい いかげんな扱いで工事したのだから、やがて事故が起きる であろうと予言していた。」とあり、原告萱野らを除く地元 の人々すべてがこの点を知らなかったかどうか疑問があ る。)、前記チノミシリの秘密性に加えて二風谷地域に居住 するアイヌの人々の年齢やアイヌ文化尊重の程度等の事情によりこれを知る人が少ないとみられることが原告宣野の 供述により認められるから、被告らが主張するこれらの事 情をもってしても、右認定を左右するには足りないという べきである。

▼被告・国側の腹立たしいまでの重箱の隅を突っつくような「反論」。常套手段ではあるが、それでも腹が立つ。 裁判長は「認定を左右するには足りないというべきである」といなしている。当然。
▼上記リーフレットの地図を見るとダムの左岸上流にカンカン遺跡の場所が確認できます。
▼チノミシリを「萱野茂のアイヌ語辞典」ではCi=nomi=si r 我ら祭る所、と説明されています。次のような例文もあります。 「私どもの二風谷では熊の姿岩のチノミシリ、カンカン向かいのチノミシリ、オケネウシのチノミシリ、3か所あって、 そこへ神のお告げが聞こえたら村人全部が気をつけるものだ。」まさしく聖なる場所がチノミシリであることがわかります。 nomi は祭る、祈る、の意味のようです。
▼今回の研修旅行でも4/8、二風谷を見下ろす3箇所にチノミシリがあったと、木村さんから説明をうけました。 (2021.4.16)


(四)本件事業により失われる諸価値に対しなされた配慮
(1)埋蔵文化財等
参加人(国のこと)は遅くとも本件事業認定申請時までには、二風谷地 域がアイヌの人々の多数住む地域であることを認識していた が(乙ロ二〇の一ないし一五、証人田中、弁論の全趣旨)、更に、証拠(乙ロ六ないし一二、一四、一五、二三、二四、二 五、証人田中)によれば、次のア、イの事実が認められる。

ア チヤシ等の埋蔵文化財について
北海道開発局内で本件事業を担当する室蘭開発建設部長(以下「室蘭開発部長」という。)は、昭和五一年(1976年)一一月及 び昭和五七年(1982年)二月の二回にわたり、文化財保護法等に基づ き北海道教育委員会(以下「道教委」という。)に対し、埋 蔵文化財包蔵地の確認調査を依頼したところ、道教委から、ユオイ チャシ跡及びポロモイ チヤシ跡の本体部分につい ては事前の調査が必要であり、また両チヤシの周辺部及び両チャシ間についても遺跡の拡がりが予想される旨の回答を 受け、更に、昭和五八年(1983年)七月二七日付けで、ユオイ チャシ跡及びポロモイ チャシ跡の間に二風谷遺跡も存在すること が確認されたので、工事計画の変更が困難な場合はこれらの遺跡の発掘調査が必要である旨の回答を受けた。このた め、室蘭開発部長は、道教委に対し、ユオイ チャシ跡、ポロモイチヤシ跡及び二風谷遺跡の発掘調査を依頼し、道教 委は、これを受けて、財団法人北海道埋蔵文化センターに発掘調査を依頼した。同センターは、右依頼に基づき発掘 調査を実施し、昭和六一年(1986年)三月二六日、「ユオイチャシ跡 ポロモイ チャシ跡 二風谷遺跡」と題する報告書(乙ロ一二) を作成し発行した。
▼ユオイ チャシ跡 ポロモイ チャシ跡 二風谷遺跡が工事の事前に確認されている。 位置は前述「遺跡の写真」参照。
また、室蘭開発部長は、本件事業認定の申請を行うに当たり、道教委に対し土地収用法に基づく意見照会をしたが、 道教委は、昭和六〇年(1985年)七月一一日、「当該起業地内に、周知の埋蔵文化財包蔵地が別表のとおり所在していることが確 認されています。したがって、当該地域にかかる起業については、文化財保護法に留意し取り扱われるよう願います。」 との回答をしている。 平取町長は、室蘭開発部長に対して、昭和五九年(1984年)九月七日付けの要望書(乙ロ一四)を提出し、文化財保存施設の 設置について要望したが、これに対し、室蘭開発部長は、同年九月一二日付けの回答書(乙ロ一五)において、「埋蔵 文化財の保存施設については、地城の特殊性を考慮し実現できるよう努力します。」と回答した。
▼このダムの問題は昭和五一年(1976年)ころから起きている。
道教委は室蘭開発部長に対し、 昭和六〇年(1985年)「文化財保護法に留意し取り扱われるよう願います」と要請している。にもかかわらず工事は強行された。
平取町長は、昭和五九年(1984年)文化財保存施設の 設置について要望し、室蘭開発部長は「実現できるよう努力します」と回答している。それがどうなったか?
▼今回の現地訪問(2018.7.18)で文化財保存施設の設置は「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」がそれにあたるのかな、とおもいました。 大きなところで遺跡を破壊し、小さな要望は受け入れる、これが二風谷ダムの国の基本姿勢だと感じた。
イ  チプサンケについて
平取町長は、前記要望書において、アイヌ文化の継承の ために、チプサンケなどの行事を本件ダム直下の河川敷地 で行うことができるよう同所を公園広場に利用させてほし い旨要望した。
これに対し室蘭開発部長は、前記回答書に おいて、「ダム直下のダム管理区域は、今後、河道整理をし た後の高水敷で公園広場等に利用可能な敷地については、 ダム周辺環境整備として町と協議し実施します。」と回答し た。
▼このチプサンケは現在おこなわれているようだ。たぶんダム直下の沙流川だとおもう。電話で平取町役場に確認できた。
(2) 本件事業認定申請等
証拠(乙ロ二、三、一八)及び弁論の全趣旨によれば、本件工事実施計画、本件基本計画、本件事業認定申請いずれの 中でも、本件事業がアイヌ文化へ及ぼす影響についての言及は全くなされていないこと、本件事業認定は決定書が作成さ れておらず、申請どおり認定がなされたことが認められる。
▼「実施計画、基本計画、認定申請いずれの中でも、本件事業がアイヌ文化へ及ぼす影響についての言及 は全くなされていない」。信じられない対応。申請者(北海道開発庁室蘭開発建設部長)も 認定者(建設大臣)も国の機関の身内で、全くアイヌ文化へ及ぼす影響などは眼中にないということだ。沖縄、辺野古の国の対応も同じ。 身内が身内に申請して許可する構図は全く同じ。
(3) 被告らの主張について

被告らは、アイヌ文化に配慮した周辺環境整備を進めた と主張し、その根拠として、
開発局が昭和五六年(1981年)及び昭和五 七年(1982年)に農学・文化人類学・経済学等の学識経験者や平取 町議会議員等を構成員とした二風谷ダム周辺環境整備構想 調査会を設置し、
本件ダム周辺地域の生活文化、生活基盤 についての総合的な調査、研究をし、
その報告を受け、昭和六〇年(1985年)には、二風谷ダム周辺地域環境整備調査会を設置 し、
歴史的な文化を活かした地域振興を図るための地域整 備基本計画を作成し、
開発局は、このような調査、研究を 踏まえつつ、
地元平取町、平取教育委員会、二風谷自治会、アイヌ文化保存会等とも協議を重ねてダム周辺環境整備事 業等を行ってきたことを掲げる。 なるほど、証拠(乙ロ二三、証人田中)によれば、被告らが指摘する右事実は認められるものの、各調査会の調査、 研究の内容が判然としないのみならず、
その主な目的は、
本件ダム建設を既定の事実として、地域振興を図ることに ねらいがあったことが
右証拠及び弁論の全趣旨により窺え るのであり、
前掲チヤシ等の埋蔵文化財の保護やチブサン ケの代替場所等の配慮以上に、二風各地域におけるアイヌ 文化の十分な研究に基づいて本件ダム建設による古文化の影響に対する対策を講じたことを窺わせる証拠はない。
▼被告の弁明に対し「対策を講じたことを窺わせる証拠はない」と一刀両断でバッサリ。 被告がやったことはチャシの一部とチプサンケの代替場所だけ。

被告らは、アイヌ文化の象徴である鮭の遡上と本件ダム の建設とは関係がなく(もともと鮭は沙流川下流で門別漁 業協同組合が捕獲していたことから、本件ダムの建設予定 地まで遡上していなかった。)、また本件事業認定時におい て、本件ダムにおいては、ダムまで遡上した魚が更にその上流に遡上できるように魚道を設ける計画が立てられ、そ の設置により、鮭を含む魚類の遡上に大きな支障はないと判断されたと主張し、この点もアイヌ文化に対する配慮で ある旨主張する。
▼被告よ、何も知らない裁判所に何でも言えば通る、とでも思っているのか。
証拠(乙ロ一七、二〇の三ないし五・七、二三、証人田中)によれば、 門別漁業協同組合が従前から沙流川下流の地点に鮭を捕獲するウライを設置しており、 本件事業認定 時には、本件収用対象地付近の沙流川までは鮭が遡上して
元門別町長(拡大)
「あるダムの履歴書
 2-3」

「1985年(昭和60)北海道庁が説得に動く。新たに3箇所の定置網漁業権の提案」「定置網を3か所貰える!!」
▲こうして道庁は町長にダム建設を同意させる。
定置網権は国の権限?道庁の権限?。どれだけのアイヌの人が定置網権を持っているか。この権限も取り戻す事。 アイヌモシリに海岸を含ませること。(2022.8.15)

映像5:07の解説「川に入ったサケは国の財産とされる。」
▲不覚にも知らなかった。ならば川もアイヌモシリ回復の対象。(2022.8.17)



「あるダムの履歴書 6」

「沙流川が清流で心配ないと言ったことに対し町民からおこられます。」「沙流川をだめにしたじゃないかと。」
▲「定置網3か所」で門別町も国にまんまと騙された。(2022.8.15)

門別定置漁業権5号
門別定置漁業権6号
門別定置漁業権7号
▲これを昨日、見つけました。6号の延長線上に7号がある。 浜辺から7キロも沖。こんな、定置漁業権の設定は異例。定置漁業権の面積は一般的に30ha〜60ha。(2023.3.8)



小田(こだ)報告書
1976年(拡大)

「あるダムの履歴書 2」堆砂によるダムの寿命
25年
▲着工前から砂のダムになることがわかっていた。(2022.8.18)


宮田平取町長(拡大) 「あるダムの履歴書 3」
1986年「道庁から15億円の地域振興の基金が提案された。国も協力する。」「町長はダム建設に同意」

▲町長、アイヌの人たちの意見を聞いたか。(2022.8.17)

中道氏は、昭和10年11月14日生、平取町出身、中央大卒。平成4年(1992)7月町長就任
(拡大) 「あるダムの履歴書 5」

「ダム湖周辺環境整備等が進むことによって地域の経済の活性化や産業の振興につながる。 そのへんがダムができるメリットだと思う。」

レイクサイドパーク構想(拡大)
▲この構想はどうなったのか?
いなかったこと、したがって本件用地交渉等の際、原告ら が本件収用対象地付近の沙流川まで鮭の遡上を可能にして 欲しいと要望したこと、これに対し本件事業者側は漁業権の回復は困難又はほぼ不可能であるとの認識を有していた が、北海道や右漁協、更には平取町に陳情、相談したとこ ろ、北海道条例等に照らして不可能であるとの結論は動か なかったこと、本件事業認定時には主として遡河性の魚であるサクラマスの資源保護のため、本件ダムに魚道が設置 されたが、それは特に鮭を対象としたものではなかったこ と、以上の事実が認められる。
そうすると、起業者たる参加人において、原告らの要望を受けて鮭の遡上について関係機関に陳情したことは明ら かであるが、その程度に止まるものであって、本件事業に よつて侵害されたアイヌ文化について特に配慮して行動し たといえる程の評価ができる事実ではないというべきである。

▼おそらく昔は二風谷まで鮭は遡上していたのだろう。 「用地交渉等の際、原告らが本件収用対象地付近の沙流川まで鮭の遡上を可能にして 欲しいと要望」、それを受けて事業者も「北海道や漁協、平取町に陳情、相談」、しかし漁業権の回復は不可能と判断。
ここから見えてくるものは国のみならず北海道行政も門別の漁業協同組合も二風谷が、アイヌ民族の聖地が、 湖底に沈むことを容認していたということ。
アイヌの人たちの現地での四面楚歌の闘いが想像できる。東京の自分も関心を示していなかった。申し訳ない。 なぜ大きな世論にならなかったのかが問題。
しかし裁判所は、起業者たる参加人(すなわち国)が、アイヌのためにやったと主張することにたいし「アイヌ文化について特に配慮して行動し たといえる程の評価ができる事実ではない」とバッサリ。
ウライとは? 川にのぼってきたサケをつかまえる場所・捕獲場で、川をふさいでサケが通れないようにする「しきり」のこと、ヤナともいう。
実際2018年7月18日、現地に行って改めて考えるに、やはり二風谷まで鮭が遡上できるように対処すべきであった。 門別漁業協同組合の対応もひどい。アイヌ民族の土地に植民して、河口で鮭を先取りして、その結果、鮭は二風谷まで遡上していなかった、 と言っているに等しい。 日本社会の少数者、弱者に対する振る舞いの典型を見るようで恥ずかしい。 今からでも二風谷に鮭が遡上できるように対策を講じるべきである。それが21世紀の日本人の責務である。
▼「アイヌ語辞典」を読んでいた。シペ=サケ。アイヌはサケを主食としていたし、定住の場所はサケの来るところまでと決まっていた、とある。 つまり二風谷までサケは遡上していた、ということ。
                                                  トップへ戻る

被告らは、チノミシリの存在については一般に知られていなかったのみならず、本件収用裁決に対する審査請求時 にはじめて原告萱野から主張され、本件事業認定時には原告らを含めて誰からも主張されたことはなかったのである から、これを考慮することは不可能であった旨主張する。
なるほど、証拠(甲一一、乙ロ二二、二三、証人森田、 同田中、原告萱野)によれば、チノミシリについては、前 記「おれの二風谷」と題する書物(甲一一)に言及されて いるだけで、一般にその存在が知られていなかったこと及 び本件事業認定時までに原告らを含めて誰からもチノミシ リについては指摘されなかったことが認められる。
しかしながら、アイヌ文化が明治政府の政策等により衰退を余儀なくされてきたことは後記のとおりであり、このような経 緯やチノミシリの性格等もあって、二風谷地域のアイヌ民 族が神聖な場所であるチノミシリを一般にしらしめなかっ たことや参加人に開示しなかったことが容易に推認できるから、このこと自体無理からぬ事情があったといえるうえ、 むしろ後記のように、アイヌ民族の文化享有権の重要性に照らせば、参加人は本件事業認定時までに本件ダム建設の アイヌ文化への影響を十分調査、研究すべきであったので あり、これを行っていれば、チノミシリの存在についても 確認できた可能性は否定できないということができるから、 被告らの主張を被告らに有利に掛酌することはできない。
▼被告・国側の「知らなかったから考慮することは不可能」との主張に、逆に「十分調査すべきであった」とバッサリ。 小気味がいい。
2 比較衡量
(一)比較衡量に当たっての考え方

土地収用法二〇条三号所定の要件は、事業計画の達成によって得られる公共の利益と事業計画により失われる公共ないし私 的利益とを比較衡量し、前者が後者に優越すると認められる場合をいうことは前記のとおりであるところ、この判断をするに 当たっては行政庁に裁量権が認められるが、行政庁が判断をするに当たり、本来最も重視すべき諸要素、諸価値を不当、安易 に軽視し、その結果当然尽くすべき考慮を尽くさず、又は本来考慮に入れ若しくは過大に評価すべきでない事項を過大に評価 し、このため判断が左右されたと認められる場合には、裁量判 断の方法ないし過程に誤りがあるものとして違法になるものと いうべきである。
本件において前者すなわち事業計画の達成によって得られる公共の利益は、洪水調節、流水の正常な機能の維持、各種用水 の供給及び発電等であって、これまでなされてきた多くの同種事業におけるものと変わるところがなく簡明であるのに対し、 後者すなわち事業計画により失われる公共ないし私的利益は、 少数民族であるアイヌ民族の文化であって、これまで論議され たことのないものであり、しかもこの利益については、次のような点が存在するから、慎重な考慮が求められるものである。
▼「事業計画の達成によって得られる公共の利益は、多くの同種 事業におけるものと変わるところがなく」一方 「失われる公共ないし私的利益は、 少数民族であるアイヌ民族の文化であって、慎重な考慮が求められるものである。」 裁判所は極めて公平な観点に立っている。
漁業権回復の道
新規参入
令和3年(2021) 9月 7日
都道府県水産主務部長 殿
水産庁資源管理部管理調整課長 増殖推進部栽培養殖課長

            新たな漁業権を免許する際の手順及びスケジュールについて

漁業法等の一部を改正する等の法律(平成30年法律第95号)が令和2年 12 月1日 に施行され、漁業法(昭和24年法律第267号。以下「法」という。)が改正された。 改正後の法では、漁場を適切かつ有効に活用している既存の漁業権者の漁場利用を 確保しながら、円滑な規模拡大や新規参入による生産性の向上や漁場の有効活用が図 られるよう規定が整備された。
今般、これらの趣旨及び規模拡大や新規参入に関するニーズを踏まえ、5年に一度 の海区漁場計画作成の時期によらずとも、新たな漁業権(定置漁業権、区画漁業権) を免許する手続が円滑に行われるよう、その想定される手順及びスケジュールを別添 のとおりとりまとめたので通知する。
新たな漁業権の設定を希望する者は、漁業協同組合の組合員を含め、都道府県に対 して直接、漁業権に関する相談を行う場合があるが、これらの新たな漁業権に関する 相談に対し、海面利用制度等に関するガイドライン(令和2年6月 30 日付け2水管 第 499 号水産庁長官通知)に基づき、客観性・公平性・透明性に留意しつつ、関係す る漁業者、漁業協同組合、関係機関等との議論を促進するなどし、漁業調整その他公 益に支障を及ぼさないようにしながら、誠実、かつ責任をもって対応されるよう配慮 願いたい。
▲アイヌの人たちの新たな漁業権取得にこの規定を活用できる。(2023.3.8)

(二) 少数民族が自己の文化について有する利益の法的性質について被告らは、仮に少数民族の自己の文化を享有する等の権利が 尊重すべきものであるとしても、土地収用法上の要件に該当す るか否かを検討するに当たって、これが他の考慮すべき事情に 比べて優先順位を与えられるものと解する根拠はない旨主張す るので、少数民族が自己の文化について有する利益の法的性質 について検討を加えておきたい。
▼被告(国)は「土地収用法上の要件に該当するか否かを検討するに当たって、これが他の考慮すべき事情に 比べて優先順位を与えられるものと解する根拠はない」と主張。いいかげんにしてくれ。元々だれの土地だった!
国側の主張の、少数民族、先住民族に対するあまりにも無知をさらけ出しているのに怒りすら覚える。この裁判は明治時代の裁判ではないのだよ。
このダムは、成長神話がまだ日本人を捉えていた安定成長期に計画され、バブル崩壊後完成している。1997年の判決時は冷戦も終わり 新しい時代作りに差し掛かっている。そのような空気を裁判所も察知しなければいけない時代だった。
(1)B規約との関係
国際連合総会は、昭和四一年(1966年)に「B規約」を採択し、我が国は 昭和五四年(1979年)に国会の批准を受けて同年条約第七号として公布している。 この規約は、人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等のかつ奪い得ない権利を認めることが世界における自由、 正義及び平和の基礎をなすものであり、またこれらの権利が人間の固有の尊厳に由来することを確認するなどの前文の文 言の下に五三箇条から成り、本件のアイヌ民族の文化享有権と関係する条文は、第二条一項、二六条、ニ七条である。
第 二条一項は、
「この規約の各締約国は、その領域内にあり、か つその管轄の下にあるすべての個人に対し、人種、皮膚の色、 性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位等によるいかなる差別 もなしにこの規約において認められる権利を尊重し及び確保することを約束する。」と、
二風谷ダム一宮判決
▲一宮判決の文化的適用の考えを援用すれば、第一条1項と2項を、先住権すなわち 漁業権、狩猟権、森林権の回復に使えそう。
第一条
1 すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、 その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、 社会的及び文化的発展を自由に追求する。
2 すべての人民は、互恵の原則に基づく国際的経済協力から生ずる義務及び国際法上の義務に違反しない限り、 自己のためにその天然の富及び資源を自由に処分することができる。 人民は、いかなる場合にも、その生存のための手段を奪われることはない。
▲「自決権に基づき経済的、 社会的及び文化的発展を自由に追求する。」「自己のためにその天然の富及び資源を自由に処分することができる。 生存のための手段を奪われることはない。」
アイヌ民族はまさしくこのような権利を奪われてきた。この条項を根拠に漁業権、狩猟権、森林権の回復を主張していけそう。(2021.11.9)


第二六条は、
「すべての者は、法 律の前に平等であり、いかなる差別もなしに法律による平等の保護を受ける権利を有する。 このため、法律は、あらゆる差別を禁止し及び人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的 意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生 又は他の地位等のいかなる理由による差別に対しても平等の かつ効果的な保護をすべての者に保障する。」と、
第二七条は、
「種族的、宗教的文は言語的少数民族が存在する国において、 当該少数民族に属する者は、その集団の他の構成員とともに 自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自 己の言語を使用する権利を否定されない。」と、
それぞれ規定している。
参加人たる国は、平成三年(1991年)、国際連合人権規約委員会に対し、B規約四〇条に基づく第三回報告を提出し、アイヌ民族 が独自の宗教及び言語を有し、また文化の独自性を保持していること等から、B規約二七条にいう少数民族であるとして 差し支えないとし、本件訴訟においても、アイヌ民族が同条にいう少数民族であることを認めている(以上争いのない事 実又は当裁判所に顕著な事実)。
▼国はアイヌ民族がB規約27条にいう少数民族であることを認めている、このことは重要。
右によれば、B規約は、少数民族に属する者に対しその民 族固有の文化を享有する権利を保障するとともに、締約国に 対し、少数民族の文化等に影響を及ぼすおそれのある国の政 策の決定及び遂行に当たっては、十分な配慮を施す責 務を各締約国に課したものと解するのが相当である。
▼B規約27条の少数民族の文化享有権を国のそれに対する配慮責務にまで広げた裁判所の解釈は正当である。
そして、アイヌ民族は、文化の独自性を保持した少数民族としてその文化を享有する権利をB規約二七条で保障されているのであ って、我が国は憲法九八条二項の規定に照らしてこれを誠実に遵守する義務があるというべきである。
もっとも、B規約二七条に基づく権利といえども、無制限ではなく、憲法一二条、一三条の公共の福祉による制限を受 けることは被告ら主張のとおりであるが、前述したB規約二七条制定の趣旨に照らせば、その制限は必要最小限度に留め られなければならないものである。
▼有斐閣「判例六法」憲法13条の項に二風谷ダム事件のこの札幌地裁が判例として掲載されている。
(2)憲法一三条との関係
憲法一三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生 命、自由及び幸福追求に村する国民の権利については、公共 の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊 重を必要とする。」と規定する。
この規定は、その文言及び歴 史的由来に照らし、国家と個人との関係において個人に究極 の価値を求め、国家が国政の態度において、構成員としての 国民各個人の人格的価値を承認するという個人主義、民主主 義の原理を表明したものであるが、これは、各個人の置かれ た条件が、性別・能カ・年齢・財産等種々の点においてそれ ぞれ異なることからも明らかなように、多様であり、このよ うな多様性ないし相異を前提として、相異する個人を、形式 的な意味ではなく実質的に尊重し、社会の一場面において弱 い立場のある者に対して、その場面において強い立場にある 者がおごることなく謙虚にその弱者をいたわり、多様な社会 を構成し維持して全体として発展し、幸福等を追求しようと したものにほかならない。
このことを支配的多数民族とこれ に属しない少数民族との関係においてみてみると、えてして 多数民族は、多数であるが故に少数民族の利益を無視ないし 忘れがちであり、殊にこの利益が多数民族の一般的な価値観 から推し量ることが難しい少数民族独自の文化にかかわると きはその傾向はつよくなりがちである。
少数民族にとって民 族固有の文化は、多数民族に同化せず、その民族性を維持す る本質的なものであるから、その民族に属する個人にとって、 民族固有の文化を享有する権利は、自己の人格的生存に必要 な権利ともいい得る重要なものであって、これを保障するこ とは、個人を実質的に尊重することに当たるとともに、多数 者が社会的弱者についてその立場を理解し尊重しようとする 民主主義の理念にかなうものと考えられる。
▼裁判長のすばらしい憲法13条の解釈論。敬意を表します。 特に「少数民族にとって民 族固有の文化は、その民族に属する個人にとって、 自己の人格的生存に必要な権利ともいい得る重要なもの」との理解はすばらしい。
また、このように解することは、前記B規約成立の経緯及 び同規約を受けて更にその後一層少数民族の主体的平等性を 確保し同一国家内における多数民族との共存を可能にしよう として、これを試みる国際連合はじめその他の国際社会の潮 流(甲四一ないし四人、証人相内)に合致するものといえる。
そうとすれば、原告らは、憲法一三条により、その属する 少数民族たるアイヌ民族固有の文化を享有する権利を保障さ れていると解することができる。
もっとも、このような権利といえども公共の福祉による制 限を受けることは憲法一三条自ら定めているところであるが、 その人権の性質に照らして、その制限は必要最小限度に留め られなければならないものである。
▼公共の福祉による制 限。何度も何度も公共の福祉による制限が強調される。どうも気にかかる。
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(三) アイヌ民族の先住性
B規約二七条は「少数民族」とのみ規定しているから、民族 固有の文化を享有する権利の保障を考えるについては、その民 族の先住性は要件ではないが、少数民族が、一地域に多数民族 の支配が及ぶ以前から居住して文化を有し、多数民族の支配が 及んだ後も、民族固有の文化を保持しているとき、(▼先住民族という。国連では特別な権利が認められている。)このような 少数民族の固有の文化については、多数民族の支配する地域に その支配を了承して居住するに至った少数民族の場合以上に配 慮を要することは当然であるといわなければならないし、この ことは国際的に、先住民族に対し、土地、資源及び政治等につ いての自決権であるいわゆる先住権まで認めるか否かはともか く、先住民族の文化、生活様式、伝統的儀式、慣習等を尊重す べきであるとする考え方や動きが強まっていること(甲四五、 四六、証人相内)からも明らかである。
▼この判決の後、2007年国連で 先住民族権利宣言が採択された。「先住民族に対し、土地、資源及び政治等につ いての自決権であるいわゆる先住権まで認めるか否かはともかく、」の部分が時代遅れになっている。(2021.11.9)
▼文化を認めて土地、資源を認めない理屈は成り立たない。(2021.11.17)
(1) アイヌ民族の先住権について検討することとするが、その前提として先住民族の定義について考えたい。
そもそも「先 住民族」の概念自体統一されたものはなく(証人相内)、これ を定義づけることの相当性について疑問がないわけではない が(一口に先住民族であるとはいっても、その民族が属する国家により、その民族が現在置かれている状況、歴史的経緯 等が異なり、そうである以上共通に理解することができない ことは当然である。)本訴においては、被侵害利益であるア イヌ文化の重要性、その文化を享有する権利の保障の程度等を検討することが必要であり、そのためにはアイヌ民族の先 住性に言及することが不可避であるといわざるを得ないと考えるから、必要な限度で定義づけることとする。 証拠(甲四二、四三の二・三、四四ないし四六、証人相内) 及び弁論の全趣旨を総合して考えるに、
先住民族は、歴史 的に国家の統治が及ぶ前にその統治に取り込まれた地域に、 国家の支持母体である多数民族と異なる文化とアイデンティ テイを持つ少数民族が居住していて、その後右の多数民族の 支配をうけながらも、なお従前と連続性のある独自の文化及 びアイデンティティを喪失していない社会的集団であるとい うことができる。(▼下線は引用者)

(2) 次に、アイヌ民族が右にいう先住民族であるかどうかにつ いて、考察することとするが、アイヌ民族が文字を持たない 民族であることは前述のとおりであり、そのため右のような 先住性を証する上で役立つアイヌ民族の手による歴史文書等 がなく、アイヌ民族がアイヌ民族としての社会集団を構成し て北海道あるいは本州の北部にいつごろから定住し始めたの かは、本件全証拠によっても明らかではない。ここでは主に アイヌ民族以外の日本人(原告らの用法に従って、以下「和 人」という。)の手によって記された中世及び近世のアイヌ民 族に関する文献等を主たる証拠として右の意味での先住性を 判断することとする。
証拠(甲五、一九の一・二・三の一・四ないし六・八・一 二・一三、証人田端)及び弁論の全趣旨を総合すれば、

▼以下中世から近世の日本列島でのアイヌ民族の歴史が概括される。
鎌倉 時代の末期ころ(14世紀半ば)までには、
北海道に居住するアイヌ民族と和 人の交易商人との間で、北海道の特産品である魚類や獣類と 和人の物を物々交換する形で、北海道におけるアイヌ民族と 和人との交易による接触は始まつていたこと、

一五世紀の半ばころは、
私人の中小の豪族が函館等の道南を中心に北海道 に居住するようになっていたが、右豪族間あるいは右豪族と アイヌ民族の間で争い事等が繰り返されていたこと(たとえ ば、康正二年(西暦(以下省略)一四五六年)のコシヤマイ ンの戦い)、

一六世紀の中ころには、
松前藩の前身である蠣崎 家と松前地方のアイヌ民族との間に「夷狄の商船往還の法度」 という交易秩序の維持のための御法度が定められたが、その ころのアイヌ民族と和人との交易形態は、北海道の各地の居 住先からアイヌの人々が松前付近に出て来て、和人の商人が 本州からそこへ集まり物々交換をするというものであったこ と、

慶長九年(一六〇四年)には、
松前藩は、江戸幕府によ る幕藩体制の下に入り、同藩は、その家臣らに対し知行地と して商場(交易をする場所)を与え、アイヌ民族と交易をさ せ、それから生じる利益に関税を掛けることなどにより、藩 の財政基盤を確保していたこと、そのころは和人は北海道内 の自由通行を認められていなかつたが、アイヌ民族には許さ れていたこと、
右の地図(拡大可)。赤い所の静内川の河口付近にシャクシャイン城跡があります。 二風谷から東南直線距離で約40q
静内シャクシャイン城跡(拡大)


寛文九年(一六六九年)、
和人とアイヌ民族が関係するシャクシャインの戦いが起こったこと(右の地図)、
遅くとも一 八世紀半ばころには、
和人の商人は、松前藩から近い地域に おいて、独占的に漁場を経営したり、対アイヌ交易を行った りする請負場所を設定し、その請負場所において、漁猟生産の労働カとしてアイヌ民族を使い始めたこと、
▼香港、マカオ的植民地政策のようだ。(2020.4.2)
一八世紀の終わりころには
その地域が北海道東部にまで及び、その請負場 所において、和人によるアイヌの人々の酷使が原因となって、 和人とアイヌ民族との争い事が発生していること(寛政元年 一七八九年のクナシリ・メナシの戦い)、

幕末期には、
沙流川周辺においては山田文右衛門という和人が沙流場所 (現在の苫小牧市から静内町にかけての漁場)を請け負い、右山田はアイヌの人々の主要な働き手を厚岸等の請負場所まで 出稼ぎとして連れて行き、これを酷使していたこと、地域によっては家ぐるみで別の場所に移転させられたこと、

安政五年 (一八五八年)、
北海道(蝦夷地)の調査をしていた松浦武四 郎が二風谷地域を訪れ、同地域に居住するアイヌの人々の人 数、年齢、生活の状況などを記録していること、松前藩は和 人とアイヌの人々を完全に分離し、交易等を通じた接触に止 める政策をとったため、アイヌの人々は民族として和人とは 異なる文化、伝統を維持し得たこと、江戸幕府は、北海道の 地に対するロシア勢力の進出を危倶していたことなどから、

一八世紀後半から一九世紀半ばころまでの間、
アイヌ民族を 和人化させるためにアイヌ民族に日本語を使用させることや 米を食べさせるようにすることなどのいわゆる同化政策を何 度か打ち出したが、アイヌ民族の強い反発などから、結局、 右政策は貫徹されなかったことが認められる。

▼この裁判所の事実認定から言えることは、江戸末期まで北海道は少なくとも松前藩の領地以外はアイヌの大地だった。 今後のアイヌモシリ回復においてこの裁判の意味は大きい。(2020.4.2)
                                      トップへ戻る
右認定事実に弁論の全趣旨を総合すれば、
江戸時代に幕藩 体制下の松前藩による統治が開始される以前に、二風谷地域 をはじめ北海道には、アイヌ民族が先住していた地域が数多 く存在しており、その後も、松前藩による北海道の統治は全 域に及ぶものではなく、アイヌ民族は、幕藩体制の下で大き な政治的、経済的影響を受けつつも独自の社会生活を継続し、 文化の享有を維持しながら北海道の各地に居住していたこと が認められ、
その後、後記(四)認定のとおり、アイヌ民族に対 し採られた諸政策等により、アイヌ民族独自の文化、生活様 式等が相当程度衰退することになつたことが認められる。
しかしながら、証拠(甲四七、証人大塚)、原告らによれ ば、
現在アイヌの人々は、我が国の一般社会の中で言語面で も、文化面でも他の構成員とほとんど変わらない生活を営ん でおり、独自の言語を話せる人も極めて限られているものの、
民族としての帰属意識や民族的な誇りの下に、個々人として、 あるいはアイヌの人々の民族的権利の回復と地位向上を図る ための団体活動を通じて、アイヌ民具の収集、保存、博物館 の開設、アイヌ語の普及、アイヌ語辞典の編さん、アイヌ民 族の昔話の書物化、アイヌ文化に関する講演等を行い、アイ ヌ語や伝統文化の保持、継承に努力し、その努力が実を結ん でいることが認められる。

(3)以上認定した事実を総合すれば、
アイヌの人々は我が国の統治が及ぶ前から主として北海道において居住し、独自の文 化を形成し、またアイデンティテイを有しており、これが我 国の統治に取り込まれた後もその多数構成員の採った政策 等により、経済的、社会的に大きな打撃を受けつつも、なお独自の文化及びアイデンティティを喪失していない社会的な 集団であるということができるから、前記のとおり定義づけ た「先住民族」に該当するというべきである。 (▼下線は引用者)
▼説得力のある事実認定と「先住民族」の定義づけ。すばらしい。
▼「我国の統治に取り込まれた後も」の表現が気に入らない。明治政府によって植民地化された後、と正確に表現すべき。(2020.4.3)

国連は2007年先住民族権利宣言を採択した。
第28条にはつぎのように書かれている。
1.先住民族は、自己が伝統的に所有し、又はその他の方法で占有若しくは使用してきた土地、領域及び資源で、 その自由で事前の及び事情を了知した上での同意なしに、没収され、占拠され、使用され、又は損害を受けたものについて、 原状回復を含む方法により、それが可能でない場合には正当で公平かつ衡平な補償によって、救済を受ける権利を有する。
2.関係する民族が自由に別段の合意をしない限り、補償は、同等の質、規模及び法的地位を有する土地、領域及び資源という形態、 金銭的補償又はその他の適当な救済の形態をとらなければならない。
▼宣言28条を読むと日本政府はアイヌ民族に対して 大きな、大きな仕事をしなければならないことがはっきり見えてくる。

(四)アイヌ民族に対する諸政策
先住民族であるアイヌ民族が我が国の統治に取り込まれた後、 仮に少数であるが故に我が国の多数構成員の支配により、経済 的、社会的に大きな打撃を受け、これがため民族の文化、生活 様式、伝統的儀式等が損なわれるに至るということがあったと すれば、このような歴史的な背景も、本件の比較衡量に当たっ て斟酌されなければならない。

証拠(甲二一の三ないし六・八、証人田端、原告萱野)によ れば、

明治政府は、蝦夷地開拓を国家の興亡にかかわる重要政策と位置付けて、これに取り組み、北海道に開拓使を送ったこ と、
▼蝦夷地開拓を蝦夷地「植民地化」と読み替えること。(2020.4.3)

明治五年九月、
もともとアイヌの人々が木を伐採したり、狩猟、漁業を営んでいた土地を含めて北海道の土地を区画して 所有権が設定され、アイヌの人々にも土地が区画されたが、農 業に慣れていなかったことから、アイヌの人々が農業で自立す ることは困難であったこと、

石狩川(拡大可)

豊平川

発寒川
▼アイヌ民族は狩猟、漁業、林業が生業。農業ではない。(2020.4.3)
改修前の石狩川 (拡大)
明治六年、
木をみだりに切ること や木の皮を剥ぐことが禁止され、また、豊平、発寒、琴似及び 篠路の川の鮭漁に関して、アイヌ民族の伝統的な漁法の一つで ある

ウライ(拡大)
ウライ網の使用(川を杭で仕切って魚が上れないようにし、 その一部分のみを開けておいてそこに網を仕掛けて採魚する漁 法)が禁止されたこと、
豊平のHP
▼豊平のHPを読むと実に無邪気なもので、自分たちがアイヌの大地への植民地主義者・侵略者であった、 との自覚が全く感じられません。(2020.4.3)

アイヌ民族の従来の風習で ある耳輪や入れ墨等が罰則を伴って禁止され、また毒矢を使う アイヌ民族の伝統的な狩猟方法が禁止されたこと、

明治一一年、
札幌郡の川における鮭鱒漁が一切禁止されたこと、
▼鮭鱒漁が一切禁止。これは酷い。なぜここまで追い詰めるのか。(2020.4.3)

明治一三年、

チセ
死者の出た家を焼いて他へ移るというアイヌの人々の風習等が罰則を伴って禁止され、更に、日本語あるいは日本の文字の教 育が施されるようになつたこと、
その後、千歳郡の河川において鮭の密猟が禁止されたり、アイヌ民族の伝統漁法の一つであるテス網による漁が禁止されたりした後、

明治三〇年には、
自家用としても鮭鱒を捕獲することが禁止されたこと、
このように魚類等の捕獲の禁止が強化されていったことや私人がアイヌの人々の開拓した土地を奪うようなことがしばしばあったこと などからアイヌの人々の生活が困窮したため、
▼自家用としても鮭鱒の捕獲禁止。なぜここまで。 明治維新後30年間、アイヌ民族絶滅策が実施されたとしか思えない。明治政府は国外では明治27年に日清戦争を起こしている。 (2020.4.3)

明治三二年

裁判記録
二風谷裁判認定事実

 529p
 530p(拡大)
北海道旧土人保護法が制定され、農業の奨励による生活安定のため の土地給付等が図られたが、アイヌの人々に給与される土地は 法律で上限とされた五町歩をはるかに下回り、しかもその中に二割近い開墾不能地があったことなどから、アイヌの人々の生 活水準は極めて低いままであり、生活の安定を図ることはでき なかったこと、

以上の事実が認められる。

右認定事実に弁論の全趣旨を総合すれば、前記のような漁業等の禁止は、主に漁猟によって、生計を営んできたアイヌの人々 の生活を窮乏に陥れ、その生活の安定を図る目的で制定された北海道旧土人保護法も、アイヌ民族の生活自立を促すには程遠 く、また、アイヌ民族の伝統的な習慣の禁上や日本語教育などの政策は、和人と同程度の生活環境を保障しようとする趣旨が あったものの、いわゆる同化政策であり 和人文化に優位をおく一方的な価値観に基づき和人の文化をアイヌ民族に押しつけ たものであって、アイヌ民族独自の食生活、習俗、言語等に対する配慮に欠けるところがあったといわざるを得ない。これに より、 アイヌ民族独自習俗、言語等の文化が相当程度衰退す ることになったものである。
▼すばらしい認定と評価。(2020.4.4)
▲改めて読み返すと「二風谷ダム」判決は大いに使えそう。(2022.6.2)
▲この認定事実はそのまま国に対する謝罪を求める根拠となる。(2022.8.13)

                                               トップへ戻る
一 争点1 について
(原告らの主張) 本件収用裁決は、憲法二九条三項に違反する。
憲法二九条三項は、私有財産は正当な保障の下にこれを公共の目 的のために用いることができると規定しているが、これは一般原則 を定めたものに止まり、憲法の他の規定は条約更には事柄の性質に 照らして、そもそも収用自体が許されない場合に収用を行うことは 憲法二九条三項に違反するというべきところ、本件収用は次のとお り同条同項に違反する。

すなわち、憲法一三条所定の個人の中には少数先住民族たるアイ ヌ民族に属する原告らが含まれることは明らかであるから、同条は 我が国政府が我が国内に共存するアイヌ民族に対しても民族の尊厳 を最大限尊重し、それを損なったり、その文化そのものやその伝承 にマイナスの影響を与えてはならない義務を負う。
▼弁護団 まず収用は憲法一三条違反と主張。(2020.4.4)

また、我が国は、国連総会が昭和四一年(1966年)に採択した「市民的及び 政治的権利に関する国際規約」(以下これを「B規約」という。)を 昭和五四年(1979年)に批准し公布しており、その二七条は「少数民族の文化 享有等の権利を否定されてはならない」と定めている。それととも に我が国は、条約法条約(いわゆるウィーン条約)を昭和五六年に 批准し、同条約は条約第一六号として公布されており、同条約二六 条には「効力を有するすべての条約は当事国を拘束し、当事国はこ れらの条約を誠実に履行しなければならない」と規定されていて、 締約国の条約遵守義務を定めている。これらの規定と憲法九八条二 項の条約遵守義務の規定とを併せ考慮すれば、我が国政府は、少数 先住民族たるアイヌ民族の権利を侵害してはならないのは勿論として、 その権利行使が不十分でないよう諸々の政策を行うことを義務づけ られているというべきである。

更に少数先住民族であるアイヌ民族は独自の言語と生活様式をも っており、沙流川流域はアイヌ文化を育てた地であり、本件の土地 収用対象地である二風谷地域はその中心地域として、チャシなどの 遺跡が残存し、チプサンケなどの伝統行事が復活し毎年行われ、三 つのチノミシリというアイヌ信仰の聖地が現存している。したがっ て、性質上金銭で補償することが到底できない土地である。

以上によれば、本件収用裁決は、憲法一三条及びB規約二七条等 に違反する違法なものであるから、そもそも収用手続の限界を超え 憲法二九条三項に違反した処分といわざるを得ない。
▼弁護団の説得力ある主張。(2020.4.4)

(原告らの主張)
(二)本件ダムにより失われる利益
アイヌ民族は、歴史的にみて主に本州から北海道に渡ってきた アイヌ民族以外の日本人(原告らの用法に従って、以下「和人」 という。)よりはるか以前に北海道に先住し独自の言語・風俗・風 習を有していた先住民族であることが明らかである。
ところが、明治に入り、明治政府は、そのアイヌの人々の土地、 言葉、宗教、習慣、食物、生活資料の取上げとアイヌ民族消滅政 策ともいうべき民族の同化政策により、アイヌ民族の民族として の存在すら否定しようとしてきたが、アイヌの人々は抑圧され差 別され窮乏化しながらも、アイヌ文化を伝承してきた。
▼「アイヌ民族消滅政策」。私が明治30年の箇所で感じたことを原告の 主張として展開されている。まさに民族抹殺政策だ。(2020.4.4)
▼金達寿著『日本の中の朝鮮文化1』(講談社文庫p34〜p36)を読んでいたら 「大磯の高麗神社は1897年の明治30年に高来神社にされている。…日本の 歴史が一貫して朝鮮というものを消し去ろうとしたことの一つあらわれ」の文章に出会った。 明治帝国主義政府のアイヌ民族、朝鮮民族蔑視の腹の底が見えた気がした。(2020.4.5)

二風谷地 域は、アイヌの人々が最も多く居住しているところであり、アイ ヌの人々の居住人口の割合が高い地域で、民族の伝統的文化がよ く保存されている地域であり、アイヌ文化の心臓部でもある。
元々文化は、目に見える形のあるもののみを指すものではなく 人の生き方人の生き様総体であり誕生から死亡までその 節々において様々な営みを行なう、その総体である。
文化というも のは、各構成要素が点で存在するのではなく、自然環境とリンク して一体となった持続性のあるものである。そして、その中には、 自然と共生するという精神文化も含まれるし、イオルという空間 領域も含まれ、また民族に特有の神話的伝承も含まれる。
▼アイヌ民族の文化を知るのに格好の教材。(2020.4.4)
二風谷地域におけるアイヌ文化の要素等を掲げると、次のとお りである。

オキクルミ伝説(拡大) 宇田川洋『アイヌ伝承とチャシ』90p
▲拡大して読んでください。正しい伝説の場所がわかります。(2022.8.15)
額平川沿いの切り立った山並みが重なり合う 荒々しい景観の中、一際切り立った岩肌が目立つ標高約 180m の崖山。
アイヌの伝承では アイヌに生活文化を教えたとされるオキクルミカムイの好んだ荷負での拠点(住処)とさ れている。 名勝ピリカノカに指定。
「平取文化的景観」より
(1)沙流川自体「サルンクル」と呼ばれる集団が多数居住してお り、オキクルミのカムイ(神)がシンタと呼ばれた「揺りかご」に乗って降りてきて、アイヌ文化を作った場所である。
シンタ(拡大)
▼サルンクル(sar-un-kur un〜所 kur人)=沙流川の人。 門別川の人=モペドンクル(モペツ ウンクル) 鵡川の人=ムカウンクル 静内川の人=シペチャリウンクル 新冠の人=ニカプンクル(ニカプ ウンクル) アイヌが相手を呼ぶ場合たいてい出身地を先に言うものである。サルンクル萱野茂という風に。
オキクルミカムイ=オキクルミの神。アイヌに生活文化を教えた神の名。沙流川に降臨したということでオキクルミの砦伝説などがある。 (「萱野茂のアイヌ語辞典」)
▼二風谷の聖地と言われる由縁がよくわかる。


(2)二風谷地域のアイヌの人々にとって、二風谷地域は「イオル」 空間であり、自己の民族的アイデンティティを確信できる空間 である。「出自集団」として小世界(小宇宙)を作っている。

(3)沙流川に遡上するシェぺ(鮭のこと)は、アイヌ民族の食文 化の中で最も重要なものであり、アイヌ民族は自然との共生を 考えた捕獲方式をとってきた
▼にもかかわらず明治6年石狩川上流の豊平、発寒、琴似、篠路でのウライ網漁は禁止された。(2020.4.5)

(4)チプサンケという伝統的儀式は、これを通じてアイヌ民族の 若者がイナウ等の祭具の作り方を学び、儀式の意義と方法を学 び、その中で民族の自覚を得る重要な機会である。 なお、アイヌの人々は、チプサンケに限らず、季節や生活、 人生の節目にカイムノミという儀式を行い、この儀式に参加す ることで民族的自覚も芽生える。
(5)二風谷地域にはチノミシリという心の拠り所として、汚したり、 傷めたり、地形を変えたりしてはならない場所が三箇所ある。 アイヌの人々は、日常の中でチノミシリを意識しながら生活し ている。
▼「二風谷では熊の姿岩のチノミシリ、カンカン向かいのチノミシリ、オケネウシのチノミシリ、 3か所あってそこへ神のお告げが聞こえたら村人全員が気をつけるものだ。」(「菅野茂のアイヌ語辞典」)
(6)二風谷地域は、民族に特有の神話であるユ−カラ伝承の地で ある。
(7)アイヌの人々は一つ一つの地形を大事にしている。一つ一つ の地形が小さい川であれ、小さい湧き水であれ、文化伝承の場 所とされている。 本件水没地の沙流川右岸には、アイヌ語の地名が二三箇所も 付けられており、その一つ一つにアイヌの人々はカムイ(神) の存在を認め、水を汲む場所、山菜の採れる場所各々において カムイと対話している。

                                               トップへ戻る
以上述べたいくつかの要素等が総体としてアイヌ文化を形成 しているのである。
このように、二風谷地域は、アイヌ民族の歴史、伝説等に照 らし、高度の文化的価値を有する地域であり、その景観的、風 致的、宗教的、歴史的諸価値は、将来にわたり、長くその維持、 保存が図られるべきものである。

本件ダムが建設されると、ア イヌ民族の尊厳が否定されるばかりでなく、それまでの二風谷 地域の環境が損なわれ、土地の地形は著しく変更され、チャシ の遺跡、神聖なチノミシリは破壊され、チプサンケの場所も水 没させられ、また、上流への鮭の遡上は不可能となる。
参加人(国)は、前述したとおり、明治政府成立以来、先住民族であるアイ ヌ民族の土地、言葉、宗教、習慣、食物、生活資料を取り上げ てきたのであり、更に、本件事業認定において、右のような二 風谷地域におけるアイヌ文化の存在そのものを無視したのであ り、アイヌ民族の尊厳は、本件ダム建設により蹂躙されている のである。

仮に、事業認定の目的に沿うダムを建設する必要性があると したとしても、これをアイヌ文化の心臓部である二風谷地域に 建設しなければならない合理的必要性はない。
▼「アイヌ文化の心臓部である二風谷地域」。この叫びを国はどう受け止めているのか。(2020.4.5)

実際に、参加人は、本件事業計画を立案するに際し、本件二風谷地域にダムを 建設する案の外、その上流あるいは下流に建設する計画案を検 討し、結局、コンクリ−トの体積が最も少なく、経済的である という理由により、中流案である二風谷地域を選択しているので あるが、前述のような文化的価値の保全を重視するなら、いか ほどの費用を要するにせよ、 他の土地を選択するべきであった。 (▼因みにダム工事費をダム管理所に問い合わせたら約520億円ということだった。)

比較衡量の結果 土地収用法二〇条三号所定の「事業計画が土地の適正かつ合理 的な利用に寄与するものであること」という要件は、その土地が その事業の用に供されることによって得られるべき公共の利益と、 その土地がその事業の用に供されることによって失われる利益と を比較衡量した結果、前者が後者に優越すると認められる場合に 存在するものであると解されるところ、本件においては前者の公 共の利益は前述したとおり乏しいといわざるを得ない一方、後者 の利益は、世界の先住民の自主的権利尊重の潮流の下で正当に解 釈されるべき憲法一三条、B規約二七条に基づく少数先住民族た るアイヌ民族の何物にも代え難い民族的価値である自己の文化を 享有する権利に属するものであって、このことは、争点1の原告 ら主張において既に述べたとおりである。
▼そのとおり。(2020.4.5)

そうであるとすれば、本件の認定庁たる建設大臣は、本件事業 計画の策定から、事業認定の申請、そして事業認定に至るまでの 間に、不当に軽視してはならずむしろ本来最も重視されるべきア イヌ民族の尊厳や文化的価値を鋭意調査すべきであったところ、 次に述べるとおり、本件において二風谷地域にダムを建設するこ とが持つアイヌ民族に対する民族的影響や文化的影響が考慮され た事実はないのである(文化財保護法に基づく埋蔵文化財として のチャシの調査を行ったのみであるが、この手続は法律上当然行 うべき手続であり、格別アイヌ文化とは関係がない。)。

以上からすれば、本件事業計画は土地収用法二〇条三号所定の 前記要件を満たすものとは到底いえず、本件事業認定とこれを前 提とした本件収用裁決は違法なものであり、取り消されるべきで ある。

1994年萱野茂国会質問
陳述内容
萱野茂
裁判を終えるにあたって1

裁判記録505p(拡大)1

▲この部分はアイヌ語での陳述。日本人にはさっぱりわからない。 逆に言えば明治のはじめ、アイヌ民族はさっぱりわからない日本語の世界へ投げ込まれた。(2022.8.13)

萱野茂さん
「あるダムの履歴書 3」
「日本の国は知らん顔して、しらっぱくれて」
萱野茂
裁判を終えるにあたって2

裁判記録505p(拡大)2

「あなたたちは、日本という、別の国から来た、別の民族なので、アイヌ語を聞いてもわからないのです。」
「その昔にアイヌのおばあさん、アイヌのおじいさんが、日本人を見たら、鬼(nikne-kamuy) よりもおそろしがった」


▲「鬼よりもおそろしがった」、当事者の抱いた感情。アイヌ民族に対する恐怖政治。和人、自覚すべし。(2022.8.13)
萱野茂
裁判を終えるにあたって3

裁判記録506p(拡大)3

「4万箇所のアイヌ語地名があると考えられます。」 「でっかい島を日本人に売った覚えもないし、貸した覚えもない、日本人よ 年貢ぐらいだしたらいいでしょう。(『アイヌの碑』)今もその考えは変わって いないのであります。」

▲「日本人よ 年貢ぐらいだしたらいいでしょう。」 我々の目指す裁判はアイヌモシリ回復と年貢(地代)の請求。(2022.8.13)
萱野茂
裁判を終えるにあたって4

裁判記録506p(拡大)4

「アイヌ語の地名の上を歩きながら 「無主地」とは呆れてものも言えないというのがアイヌ民族、私の偽らざる気持ちです。」

▲どんな法律論よりも説得力がある。(2022.8.13)


萱野茂
裁判を終えるにあたって5

裁判記録507p(拡大)5

「チノミシリ、最後まで誰にも教えたくなかった。民族の心の部分 であったのだ。鮭のことにしても、侵略者によって主食をうばわれた民族は、世界中で、アイヌ民族だけですよ。」

▲謝罪と補償は当然。今準備中の裁判はやはりこの思いの継続。(2022.8.13)























貝澤耕一さん陳述書
 父の願い1

 父の願い2
1996年12月19日
裁判記録508p(拡大)

「あるダムの履歴書 4」(拡大)

「あるダムの履歴書 6」1996年(拡大)
「先祖の残してくれた大地に小屋を建て、湖水の底の人柱となる 決心を固めている。そうでもしなければ、先祖のところへいっても、なんとも弁解のしようもない。アイヌモシリ破壊を認めた責任をとらなければ ならない。」
父はこの言葉を残して1992年この世を去った。


▲左上「チノミシリの一つを削り取って工事用のクレーンを設置」

▲左。ダム建設で壊されたペウレプウッカでご先祖に詫びる儀式を執り行う耕一さん。 つらい光景。
▲耕一さん、だから、やっぱり「アイヌモシリ回復」訴訟ではないですか。 (2022.8.18)

本件事業認定が違法であり、その違法は本件収用裁決に承継されるから、
▼あれあれ、ここからがおかしい!(2020.4.5)

本来であれば本件収用裁決を取り消すことも考えら れるが、既に本件ダム本体が完成し、湛水している現状においては、本 件収用裁決を取り消すことにより公の利益に著しい障害を生じる。
ダムの砂地に雪が積もった 画像貝澤耕一さん(2021.10.31)

▼これはないでしょう、裁判長!これでは違法をやって 先に事実を作った者が大手振って歩くことになるでしょう。法治国家で許されるのですか。(2020.4.5)

他方、チヤシについて一定限度での保存が図られたり、チプサンケについて代 替場所の検討がなされる等、不十分ながらもアイヌ文化への配慮がなさ れていることなどを考慮すると、本件収用裁決を取り消すことは公共の 福祉に適合しないと認められる。
▼違いますね。(2020.4.5)

よって、本件収用裁決は違法であるが、行政事件訴訟法三一条一項を 適用して、原告らの本訴訟をいずれも棄却するとともに本件収用裁決が 違法であることを宣言することとする。
▲これを事情判決というらしい。はじめて知る。『アイヌ民族二人の反乱』から。(2023.11.11)
(拡大)
事情判決1 本田勝一(拡大)
事情判決2 弁護士・房川樹芳
(拡大)
事情判決3 行政事件訴訟法31条1項(拡大)
事情判決4 「先住民族」の認定意義も結論で損なわれた。(拡大)
▼裁判長は法律家として最大限の論理と誠意で原告の主張を吟味して、 国の事業認定を違法、との正しい結論を導きながら、最後の最後で「ダム本体が完成し、湛水している現状」では収用裁決を 取り消すことは「公共の福祉」に適合しないと、とんでもない判断をしてしまっている。
物事の判断というのは、知性よりも、論理よりも、すぐれて人間としての勇気・胆力の問題である。肝心のところで筋を曲げては 人間として尊敬されない。残念である。
この事件の結論はダムを壊し、二風谷に元の景色と生活を回復させることである。 日本人としてアイヌの人たちへの償いと責任である。わたしはそう考える。例えば伊勢神宮がダムで水没してしまう! 多くの日本人はどう思うか。そのような想像をはたらかせてほしい。(2018年7月6日)

▼次の年表を見てほしい。判決が出た1997年はどのような時代であったか。
1989年 H1
スイス・ジュネーブでのILO総会は、過去の同化促進を否定し、先住民族の固有性、社会的、 経済的文化的発展のためILO・107号条約から、ILO・169号条約に改正。
日本政府は、内閣内政審議室を中心に10省庁からなる「アイヌ新法問題検討委員会」を設置
1990年 H2
国連総会は1993年を「世界の先住民のための国際年(略称 国際先住民年 )」とすることを採択。
1991年 H3
国連先住民作業部会エリカ・イレーヌ・ダイス議長一行、アイヌ民族の地位を視察。シンポジウムが東京と札幌で開催された。
1992年 H4
ニューヨーク国連本部総会会議場で行われた国際先住民年(▼コロンブスから500年) の開幕式典に世界の先住民族から18人、2 団体が招待され、 理事長野村義一がアイヌ民族を代表して記念演説
1993年 H5
グァテマラ先住民リゴベルタ・メンチュウ・トゥム(1992年ノーベル平和賞受賞者、国際先住民年国連親善大使) を北海道に招待、アイヌ代表と交流 国際先住民年を記念して様々な催物が日本国中で開催され、アイヌ民族の理解促進が図られる契機となった。
国連は、1994年12月10日から「世界の先住民の国際10年」の開始を決議
1994年 H6
国連は、「国際先住民の10年」の間、毎年8月9日を「国際先住民の日」として祝うことを決議
1995年 H7
連合政権(自由民主党、日本社会党、新党さきがけ)に、アイヌ新法検討プロジェクトチームを設置
「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」(内閣官房長官の私的諮問機関/座長伊藤正巳)設置
1996年 H8
「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」の報告書提出
▼このような動向から見ると「先住民族」を認めた意義はとても大きいが 「公共の福祉」に引きずられた判決と言わざるを得ない。(2018年7月6日)
▼私は今このつづきの裁判を準備しています。(2020.4.5)
▼一宮 和夫裁判長に聞いてみたい。「なぜダム破壊の判決を出さなかったのか」(2021.7.29)

二風谷ダムの建設について http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=251
昭和44年3月 (1969)沙流川水系工事実施基本計画決定
  48年4月 沙流川総合開発事業実施計画調査に着手
    12月 平取町、門別町計画調査に同意
  57年8月 平取町が「生活再建相談所」設置
  59年3月 (1984)「沙流川総合開発事業に伴う損失補償基準」妥結調印
    9月 平取町、ダム着工に同意 ▲議会、二風谷の地元にどのような説明が行われたか? (2022.9.12)
  60年3月(1985) 「水源地域対策措置法」に基づくダム指定
    12月 門別町、ダム着工同意 ▲議会、地元にどのような説明が行われたか? (2022.9.12)
  61年4月 土地収用法に基づく事業認定申請
    9月 二風谷ダム堤体工事発注
    12月 事業認定の告示
  62年11月 (1987)北海道開発局、貝沢正氏と萱原茂氏の所有地の強制収用、明け渡しの採決を北海道収用委
       員会に申請
平成元年2月 (1989)北海道収用委、両氏の所有地の強制収用を認めると採決
    2月 両氏、土地買収の補償金の受取りを拒否
    3月 両氏は、建設省に採決取り消しの審査請求と、強制収用の執行停止を申し立てる
       ▲訴訟の開始(2022.9.12)
  3年3月 札幌国税局、両氏の補償金計2900万円を差し押さえる 所得税など計 570万円を強制徴収
    12月 二風谷ダムアイヌ文化博物館開館
  4年2月 (1992)貝沢正氏死去、子息耕一氏訴訟を受け継ぐ
  5年4月 (1993)建設省、採決不服審査請求、強制収用執行停止の申し立てを棄却
    5月 両氏(原告)、北海道収用委員会(被告)を相手取り、収用採決取り消しを求めて札幌地裁に提訴
    7月 二風谷ダム裁判初回口答弁論
    10月 被告側の国の補助参加認める
  6年2月 (1994)原告側は日本に少数先住民族のアイヌ民族が存在するか、二風谷でアイヌ民族が独自の文化
       をもって暮らしているかについて、被告側に見解を求めた。
    7月 萱野茂氏、参議院議員となる
    10月 被告側は、アイヌ民族は少数民族であり二風谷ダムにアイヌの人々が独自の文化を持ちながら暮らし
       ていると回答
    11月 被告側はアイヌ民族が先住民族かどうかを認否する必要はないと回答
  8年4月 (1996)二風谷ダム試験湛水開始
    6月 試験湛水終了
    8月 ダムの水抜きが行われ、旧会場でチプサンケ(舟おろし祭)が行われる
    12月 裁判結審
  9年3月 (1997)判決・両氏の土地明渡し請求を棄却した。
         ・北海道収用委員の強制裁決は違法である。
          アイヌ民族は先住民族に該当すること、先住民族の文化享有権を認めた。
         ・収用裁決は取り消さなかった。二風谷ダムの水抜きは公共の福祉に適合しないとした。
    4月 国、北海道収用委は控訴せず
       ▲訴訟の終了(2022.9.12)
▲1969年沙流川水系工事実施基本計画決定から1997年裁判の確定まで28年。 1989年強制収用執行停止申立からだけでも8年。「アイヌモシリ回復訴訟」も10年はかかる。(2021.10.31)

▲『アイヌが生きる河』279pより
 数か月後東京で報告会が開かれた。貝澤耕一が壇上に上がった。
「この判決が出て、二風谷で祝ってくれる者はいないのです。」
 
ショック!(2022.8.22)

     7月 「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識及び啓発に関する法律」(アイヌ文化振興
        法)の施行
       「北海道旧土人保護法」の廃止
       アイヌ文化振興・研究推進機構の発足
    8月 ダム下流の代替地でチプサンケ開催
       チプサンケとは別に二風谷湖水祭りが初めて開催
    10月 二風谷ダム完成式典
  10年4月 (1998)二風谷ダム管理所発足
    7月 沙流川歴史館開館
耕一さん願い1 1998.1.25
裁判記録29p(拡大)
耕一さん願い2 裁判記録29p(拡大)
耕一さん願い3 裁判記録30p(拡大)
耕一さん願い4 裁判記録30p(拡大)
耕一さん願い5 裁判記録31p(拡大)








耕一さん願い6 裁判記録31p(拡大)
耕一さん願い7 裁判記録32p(拡大)
耕一さん願い8 裁判記録32p(拡大)
耕一さん願い9
裁判記録33p(拡大)







「願い2」 1988年2月15日の収用委員会で父は「沙流川周辺コタンの裏山にある社有林全部を元の地主であるアイヌ民族に返してほしい。 ただで北海道の土地を取り上げたのであるから、 ただでアイヌ民族に返すこと。」と述べています。

「願い5」 父の訴えたかった事は「自然林を取り戻すための前提として、コタン(村)の裏山(社有林、国有林)を返し、アイヌ民族共有とし、 自然保護、文化伝承の場とすること」であったように思います。

▲耕一さんの父・正さんの「願い」の中で実現していない課題は、 「コタンの裏山をアイヌ民族共有として取り戻すこと」。萱野茂さんの「日本人よ 年貢ぐらいだしたらいいでしょう。」とを合わせると 我々の目指す裁判はアイヌモシリ回復(アイヌ民族共有地)と地代(年貢)の請求。(2022.8.17)

平取町・国有林・民有林 貫気別川両岸、沙流川左岸は民有林
(三井の森5,769ha)
国有林 41,513ha   民有林 21,243ha

(拡大)
(拡大)画像は貝澤耕一さん
▲平取町・国有林・民有林の地図とイオルの地図のFニプタニを合わせると、Fニプタニ・コタンのアイヌの人たちが原告になりニプタニ イオルの国有地、民有地を訴訟物とすることは裁判として成り立つように思う。

今考えている「アイヌモシリ回復訴訟」は貝澤正さん、萱野茂さんの「願い」であり、「二風谷ダム」裁判の継続でもあると思う。 (2022.8.19)


▲原告を「ニプタニ・コタンのアイヌの人たち」に限定する必要はないと思う。この人たちを含む「アイヌモシリの会」 でいいと思う。(20222.9.7)


田中宏弁護士 (拡大)

▲田中宏弁護士訪問(2022.4.5) オフィスの壁に「マグナ・カルタ」
自由なイングランドの民は、国法か裁判によらなければ自由や生命、財産を侵されない。(第38条)

イギリスの現行法令集(Halsbury's Statutes、ハルズベリー法典)に載っている条文は、1225年のヘンリー3世の時代に作られた 新しいマグナ・カルタを、1297年にエドワード1世が確認したものである。
前文と4か条(1条、13条、39条、40条)が廃止されずに残っている。

前文 国王エドワードによるマグナ・カルタの確認
第1条 教会の自由
第9条(1215年の原マグナ・カルタの13条に相当) ロンドン市等の都市・港の自由
第29条(原39条および40条) 国法によらなければ逮捕・拘禁されたり、財産を奪われない(デュー・プロセス、適正手続)
▲デュー・プロセスは日本国憲法31条に受け継がれている。マグナカルタ(1215年)からという意識はなかった。 (2022.4.9)
1232年貞永式目
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/index.html#kazoku
▲1224年親鸞「教行信証」1253年道元「正法眼蔵」。日本の知的水準。(2022.4.11)
権利章典(Bill of Rights 修正第1条〜第10条 1791年)修正第5条
何人も、大陪審の告発又は起訴によるのでなければ、死刑又は自由刑を科せられる犯罪の責を負わされることはない。 ただし、陸海軍において起こった事件、又は戦時若しくは公共の危険に際し、現役の民兵の間に起こった事件については、 この限りでない。何人も、同一の犯罪について、再度生命身体の危険に臨まされることはない。 また、何人も刑事事件において、自己に不利な供述を強制されない。 また、正当な法の手続によらないで、生命、自由又は財産を奪われることはない。 また、正当な賠償なしに、私有財産を公共の用途のために徴収されることはない。
延喜式 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1273518
貞永式目と合わせ勉強すること。(2022.4.12)

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アイヌ民族史年表                                    2018・07・21
                                        北海道アイヌ協会・阿部 ユポ
この「アイヌ民族史年表」は北海道アイヌ協会副理事長の阿部 ユポさんが、北海道の大地の形成から現代まで、 アイヌ民族がどのようにアイヌモシリで生きてきたかを年表の形で纏められたものです。
この年表を2か月間、読んで、勉強して私が強く感じたことは、アイヌ民族の戦いの記録であるということです。 そしてアイヌ民族がこれからどのように生きていくべきかということのユポさんの活動家としての強い思いでもあります。 私は深く共感しながら勉強させていただきました。
この記録は、恥ずかしながら私も含めて普通の日本人にとって常識になっていない歴史でもあります。 多くのわからないところは主にWikipediaのお世話になりました。▼の印の所は私が調べて補足したものです。 ユポさんの意図をできるだけ読み取り、理解するために出典を確認し、出典のないものは調べて入れておきました。

年表のすべてを追っていくことはかなり根気のいる作業ですので、是非とも読んでいただきたい箇所を以下に挙げておきます。 ユポさんの思いが一人でも多くの日本人の常識になることを願っています。(2018年10月4日)
1789年 「クナシリ・メナシの戦い」
1893年(M26)第五回帝国議会「北海道土人保護法」提案  加藤政之助
1923年(T12)知里幸恵「アイヌ神謡集」
1931年(S6)バチラー八重子「若き同族(ウタリ)に」
1946年(S21)「アイヌ民族甦生援護ニ関スル歎願書」
1984年(S59)北海道ウタリ協会、総会で「アイヌ民族に関する法律(案)」を決議
1989年(H元)「ILO169号条約」(Convention concerning Indigenous and Tribal Peoples in Independent Countries独立国における原住民及び種族民に関する条約) 成立。全文本HP「国連基準」の頁に掲載。
1997年(H9)CERD第51会期・「先住民の権利に関する一般的勧告XXV」決議 (全文本HP「国連基準」に掲載)
二風谷ダム判決
2007年(H19)国連総会(第61会期)「先住民族の権利に関する国際連合宣言」採択 (9月13日)。全文本HP「国連基準」に掲載。
2008年(H20)2月13日 豪政府、アボリジニに公式謝罪
6月6日、衆参両議院本会議にて「アイヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議」全会一致で採択
7月1日、国会決議を受け、政府・首相官邸内に「アイヌ政策の在り方に関する有識者懇談会」設置、(委員8名中、アイヌ委員1名) 第2回加藤理事長発言要旨
 〃 (H20)「国連「先住民族宣言」とアイヌ民族」と題する 阿部一司(ユポ)さんの講演
2014年(H26)国連総会での世界先住民族会議(9月22日)成果文書採択。 成果文書本HP「国連基準」に掲載。

(2019.1.14ユポさんの確認が得られましたので順次年表を掲載いたします。アイヌ民族の頁、本日2019.1.31一応完成しました。 これから細部に手を入れます。)

                                                  トップへ戻る
北海道の誕生(アイヌモシリ・蝦夷地)
 ・銀河系宇宙空間に地球が誕生したのは40数億年前
 ・北海道の生成は、1500万年前(北米プレートとユーラシアプレートの衝突)
 ・さらに北海道の原形は、1000万年前
 ・旧石器時代
 ・3万年前、日本列島は大陸と陸続き、マンモスハンター渡って来る(ウルム氷河期=襟裳岬、夕張、上士幌(かみしほ   ろ)、千歳、遺跡)
 ・北海道が島になる
 ・日本列島に土器があらわれる
縄文文化
 ・1万年前、日本列島.縄文文化時代(縄文人)、古代人の往来、交易(大量の遺物.遺跡=千歳キウス.丸子山.有珠遺跡) 千歳キウス周堤墓遺跡  千歳丸子山遺跡   伊達市有珠遺跡   wikipedia縄文遺跡
 ・北海道に石刃鏃.土器があらわれる
ウルク:絵文字発祥の地 現在のイラク領ムサンナー県のサマーワ市からおよそ30キロメートル東にある。(2023.6.5)
絵文字 縄文中期(拡大)
草創期:約16,000年前 - (ただし、縄文文化的な型式の変遷が定着するのは草創期後半から)
草創期後半から始まった縄文土器は、以後、次の段階を経て発展していく。
縄文中期の土器 火焔型土器
▲文字の発明と同時期(2023.6.4)(拡大)
カマン・カレホユック
ヒッタイトの鉄
エジプト新王国と勢力を二分したヒッタイト帝国(紀元前1200〜同1400年)の中心部。トルコ・アナトリア地方の古代遺跡。 (2023.6.5)
縄文晩期(拡大)
早期:約11,000年前 -
前期:約7,200年前 -
中期:約5,500年前 -人類史上で初めて「文字」の起源だと考えられているのは、紀元前3200年頃の西アジアのシュメール人の都市ウルクで使い始められた絵文字だと言われています。
後期:約4,700年前 -
晩期:約3,400年前 - (ただし、晩期から弥生時代への移行の様相は地域によって相当に異なる)
旧約聖書は、紀元前1400年頃から約1000年間にわたる神とイスラエル民族との関わりの歴史と、救いの約束を描いた書物です。 ヘブライ語で書かれ、ユダヤ教の経典でもあります。
メキシコ古代文明
2023.6.15朝日朝刊
(拡大)

マヤ文明の領域
古代メキシコ文明 大河のほとりの「四大文明」とは違う文明。
(拡大)
ギリシア神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ紀元前15世紀頃に遡ると考えられている。
イスラエル・モーゼの時代に飛ぶ
▲旧約聖書、紀元前1400年頃から約1000年間の歴史、縄文晩期。ギリシア神話、物語の始まりは、 およそ紀元前15世紀頃。これも縄文晩期。神話、伝説の世界。火焔型土器は縄文中期。神話、伝説以前の世界。(2023.6.6)
物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』は、 この口承形式の神話の頂点に位置する傑作とされる。口承でのみ伝わっていた神話を、文字の形で記録に留め、神々や英雄たちの関係や秩序を、 体系的にまとめたのは、ホメーロスより少し時代をくだる紀元前8世紀の詩人ヘーシオドスである。
▲紀元前500年の世界をイメージしておくことが大事。(2023.6.6)
三内丸山遺跡 ▲遮光器土偶の時代は西洋・東洋の紀元前500年の世界と同時代。(2023.6.6)
(拡大)
遮光器土偶 宮城県大崎市田尻蕪栗(かぶくり)恵比須田遺跡
(拡大)
亀ヶ岡文化圏
紀元前500年頃

平山『アイヌ語地名が語る』23p(拡大)
亀ヶ岡
(拡大)
紀元前500年頃の世界
孔子(前551年 - 前479年) - 春秋時代の魯の思想家(儒家)・諸国遍歴後に教育に携わる・言行録に『論語』がある
ヘラクレイトス(前540年頃 - 前480年頃?) - エペソス出身の哲学者・万物の根源を「火」とし「万物流転」を唱える
ソポクレス(前496年 - 前406年) - アテナイの悲劇作家・三大悲劇詩人の一人・作品に『オイディプス王』などがある
ヘロドトス(前485年頃 - 前425年頃) - ハリカルナッソス出身の歴史家・ペルシア戦争をもとに『歴史』を著し「歴史の父」と呼ばれる
ソクラテス(前469年頃 - 前399年) - アテナイの哲学者・対話を通じて「無知の知」を探求・弟子にプラトンやクセノポン・死刑にされる
ゴータマ・シッダッタ(シャカ)(前463年 - 前383年、生没年は諸説あり) - 仏教の開祖・釈迦(釈尊)や仏陀とも呼ばれる
 ・続縄文文化時代(続縄文人=アイヌ)(恵山文化.江別文化.東北地方までの拡がり)
 ・擦文文化時代、(擦文人=アイヌ.オホーツク文化=ギリヤーク.土師器文化.鉄器) 
*「アイヌの文化や社会は、考古学の研究成果を踏まえると、遅くとも日本の古代に相当する時期 ≪旧石器.縄文.擦文≫から周辺の諸民族との接触・交易を媒介にして大きな変容を遂げてきている (北東アジア.東南アジア.サハリン.クリール.カムチャッカ.アリューシャン.日本)」
「日本人の起源」洋泉社 (拡大)
アトイの縄文
▲昨日アトイさんの「縄文」を見て聞きました。 この人は思想家。この人の音楽は人間の呼吸そのもの。ペウタンケに人類の、地球の、進む方向が歌われている。 アイヌ・ネノアン・アイヌ=人間そのもの。アトイさんは「アイヌモシリの会」の思想的・文化的支柱かつ表現者、体現者。(2023.3.8)(拡大)
「北海道の新石器人(縄文人)は、北東アジアの先住民族の仲間 と位置づけられおそらくは北東アジアから移住してきたもの と考えられる。」
平山『地図でみるアイヌの歴史』17p(2022.7.27)
▲南からの北上者でなく北からの南下者。頭の切り替えが必要。(2022.9.5)


▼左の時代区分表を見てください。日本本土の縄文時代までは沖縄も北海道も共通です。本土は弥生・古墳・飛鳥・奈良と展開していきますが、 北海道は縄文の次に続縄文擦文時代を経てアイヌ文化期に展開していきます。アイヌ文化期は本土の鎌倉時代に成立しています。

▼続擦文時代にオホーツク文化につづきトビニタイ文化が並行して展開しています。 左の時代区分表はそのことが分かり易く図示されています。作図は篠田謙一さんです。(「日本人の起源」27頁洋泉社 2018.7.5)
▼続縄文文化とは(Wikipediaはwp と略) wp:本州の住民が水稲栽培を取り入れて弥生時代に移行したときに、気候的条件からか水田を作らず、 縄文時代の生活様式を継承した人々が営んだ文化が続縄文文化である。本州が弥生・古墳文化に移行するときまで 本州と北海道の住民は同じ縄文文化を共有していたが、ここで道が分かれることになった。
▲「ここで道が分かれ」この認識に疑問符。平山裕人『アイヌ民族の現在、過去と未来』21p
「北海道・東北地方の新石器文化は東日本の影響と、北東アジアの影響を受けながら、文化を形成していった。」 凄い歴史観。北東アジアの強調。はじめて。(2022.7.20)


▼榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館16頁から。
擦文土器北見市 オホーツクの町北見市(拡大)
江別式土器

(拡大)
江別・北大・擦文土器の分布(拡大)
江別・北大・擦文文化の年代と広がり(拡大)
「続縄文文化期の土器文様に、近世アイヌ文化に特有なアイヌ文様に類似した文様形式が認められ、 かつそれにつづく擦文文化は、集落のありかたや出土遺物のありかたなどから、 アイヌ社会への連続性が非常に強いものといわれている。」


▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館16〜17頁)
擦文文化とは一般的には7・8世紀〜12・13世紀に展開したものとみられている。
主な文化圏は現在の青森県北部から北海道にいたる地域である。
擦文文化の物質的特徴は、土器に付された文様が「縄文」ではなく、幾何学的な「擦痕(さつこん)」の文様を付した「擦文土器」である。
この土器は東北地方の土師器の影響を強く受けて成立したものとされている。
同文化の晩期には金属製品が続縄文文化期よりも遥かに多くなる。 これは日本社会との交易を従来以上に活発に行うようになったことを示している。
▼擦文文化のキーワード: アイヌ社会への連続性・ 文化圏は青森県北部から北海道にいたる地域・ 東北地方の土師器の影響(2020.4.10)
▲擦文土器:刷毛で表面を擦ったような土器。平山「アイヌ語地名が語るアイヌ史の世界」14p。 (2023.6.3)


オホーツク文化
(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館33頁)
オホーツク文化
北方では、古くオホーツク文化にブタ飼育の痕跡が見られ、「アイヌ民族:歴史と現在」7頁
2020.7.11朝日新聞夕刊 北構保男(きたかまえ やすお)さん。 海獣の狩猟と漁撈を営むオホーツク人がつくったオホーツク文化の解明者(拡大)

オホーツク文化とは3、4世紀から12、13世紀にかけてサハリンから北海道のオホーツク海沿岸地域およびクリール諸島(千島列島)の南部地域 (主にクナシリ島とエトロフ島等)にかけて展開した文化で、大陸文化との関係が非常に強い文化とされている。 オホーツク文化は擦文文化とは全く異なる文化なのである。この文化を担った人々は一体いかなる人々だったのだろうか。 筆者はギリヤーク説が妥当だと考えている。
オホーツク文化の人びと
平山『地図でみる』66p

 オホーツク文化1
5世紀頃、サハリン・道北地方に現れ、北海道オホーツク海から千島列島にまで広がった文化。 10世紀にはサハリンに後退し、12世紀頃消滅した。
平山『地図でみる』17p


地図Hトビニタイ遺跡
平山『地図でみる』68p(2022.9.5)
羅臼町飛仁帯
ニブフ=ギリヤーク
(拡大)
オホーツク文化の
遺跡

遺跡からは道北はむしろオホーツク人(ニブフ)が先住民(拡大)
オホーツク文化2
平山『地図でみる』45p
オホーツク文化3
平山『地図でみる』67p(拡大)
 北見市常呂遺跡
トビニタイ文化の存在から、オホーツク文化の人々の一部は擦文文化の人々と混血したことが考えられています。 オホーツク文化のクマを崇拝する風習なども、その後のアイヌ文化に影響を与えたのではないかと考えられています。
(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館33〜35頁)
トビニタイ文化とは北海道の東部地域を舞台にオホーツク文化と擦文文化が「融合」し、9、10〜12世紀ころ 「トビニタイ文化」という独特の文化が形成された。 その担い手は基本的には擦文文化期のアイヌであったとみることが可能であろう。
「自然人類学の視点」
平山『消えた「アイヌ」』より(拡大)
この「トビニタイ文化」が非常に興味深いです。アイヌとギリヤーク(ニブフ)の民族的融合でしょう。 DNAでもそれが篠田謙一さんによって解明されてつつあります。
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ユポさんの年表に戻ります。
BC(before christ)
300年・・・・・本州は弥生時代へ(〜AD200)/北海道は続縄文時代へ(続縄文アイヌ) ↓
AD(Anno Domini) ↓
3C後半〜7C末……本州は古墳時代/北海道は続縄文時代(5〜7C東北地方北部も)            
7C末から13C末……本州は奈良・平安・鎌倉時代 *北海道は擦文時代(擦文アイヌ) 交易の時代=サハリン・大陸・クリール・カムチャッカ・日本
▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』17頁)
須恵器
「アイヌ民族:歴史と現在」8頁

「擦文文化を担った人々(アイヌ)は、日本社会との交易を従来以上に活発に行うようになったことは須恵器、 能登の珠洲焼、金属製品の使用から窺がえる。」
▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』65頁)
「擦文文化期のアイヌは、12世紀以降次第に、「交易の民」へと大きな変容をとげてきていたのである。」
北海道アイヌの移動 7世紀〜8世紀 10世紀後半〜11世紀前半 12世紀前半〜13世紀前半

平山『地図でみる』63p(拡大)
北上、日本海からオホーツク・太平洋、北海道アイヌの移動がよくわかる。(2022.7.31)
▼大変興味深い文章に出会いました。(榎森進『アイヌ民族の歴史』35〜36頁)
「オホーツク文化と擦文文化の関係のあり方を解釈するうえで注目しておきたい問題は、 アイヌ民族の代表的な口承文芸である「アイヌユーカリ」の内容である。「アイヌユーカリ」は一般に「英雄叙事詩」と称されているが、 注目しておきたいことは、この英雄叙事詩の基本モチーフは、ヤウン・クル(内陸の人)とレプウン・クル(沖の人)の戦いとして描写されていること、 ヤウン・クルはアイヌ、レプウン・クルはオホーツク人つまりギリヤークに比定されるのでヤウン・クルとレプウン・クルの戦いは、 擦文文化期のアイヌとギリヤークとの戦いを謳ったものとみられることである。」
なぜか私は日本の万葉集の歌たちを思い浮かべていました。
▼wp :トビニタイ文化とは、北海道の道東地域およびクナシリ付近に存在した文化様式の名称である。 1960年に東京大学の調査隊が羅臼町飛仁帯(とびにたい)で発見した出土物が名称の由来。
12C〜  本州は鎌倉・室町・安土桃山時代
13C〜  北海道は第1期アイヌ文化形成期に入る アイヌ民族交易の時代、日本・サハリン・大陸・クリール・カムチャッカ
▼この交易の時代が、アイヌ民族が一番輝いていた時代であったようにおもわれます。(2018.10.30メモ)
▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』96頁)
「13世紀後半から14世紀を画期に擦文文化が急激な変容をとげ、 その結果「アイヌ」文化と「アイヌ民族」が形成されるに至った。 その最も大きな要因は、日本社会との「交易」の急速な発展にあった。」

▼下の年表。アイヌ文化の位置づけが色ではっきり理解できます。和人文化もせいぜい鎌倉時代から 少し入ってきたことが目で確認できます。
年表(6頁)






『アイヌ民族:歴史と現在―未来を共に生きるために―』表紙の地図『北海道国郡図』松浦武四郎(第9版2018.8公益財団法人アイヌ民族文化財団)

13C〜  道南に和人の移住
▼和人が北海道の渡島に移住を始めたのはやっとこの時期。しかも流刑地として。
ここまでは、ユポさんは大きくアイヌの文化を概括され、以後文献に基づきアイヌ関連の記録を追っていかれます。 まず720年に成立した『日本書紀』の、西暦95年の武内宿禰「東方諸国視察」からです。
▼注意:『日本書紀』の性格付けについて『新版日本文化と朝鮮』(李進熙)に次の指摘があります。
「きびしい資料批判なしに『日本書紀』の朝鮮関係記述を使うわけにはいかないが、 八世紀において、できあがったばかりの律令体制を維持・強化するためには、内にあっては 天皇を「神国の聖王」とし、万世一系の「皇統」をつくり出さねばならなかった。いっぽう、 「夷狄」と「藩屏(はんべい)国」を設定 する必要がある。720年に完成した『日本書紀』は、こうした政治的要求を満たす目的で編纂されたのであった。
「小 中華思想」にもとづく政治書であるために、実際とは関係なしに統一新羅を「藩屏国」だとし、 朝鮮三国が古くから「朝貢」をつづけてきたかのように 修飾した。そしてまた、渡来人を「天皇」の徳化に帰附(きふ)したとして、 「帰化人」にしてしまうのであった。」(85頁)

▼ここで指摘されている「小 中華思想」にもとづいて蝦夷が「夷狄」とされます。
▼現在、佐々克明著「天皇家はどこから来たか」二見書房(昭和51年7月15日4版)を読んでいます。「日本書紀」と「古事記」の謎に迫っています。私たち 日本人が朝鮮半島との関係を抜本的に見直しする必要のある問題提起の書です。(2020.4.19)
95年 (景行天皇25年7月3日条)「武内宿禰を遣わし北陸、東方諸国視察させる」
(景行天皇27年2月12日条)
「東夷(あずまのひな)の中、日高見国(ひたかみのくに)あり、其国人男女並に椎結(かみわけ)身を文(もどろ)げて、 人となり勇悍(いさみたけし)、是を総て蝦夷(えみし)という。土地沃壌(くにこ)えて廣し。撃ちて取りつべし。」 (『日本書紀』上・297頁日本古典文学大系・岩波書店)
▼wp:第12代景行天皇紀25年7月3日条、 同27年2月12日条 武内宿禰は北陸及び東方に派遣され、地形と百姓の様子を視察した。 帰国すると、蝦夷を討つよう景行天皇に進言した。
▼次に倭建命、「蝦夷征伐」の記述に入ります。
110年 (景行天皇40年7月条) wpでは景行天皇40年は西暦110年となっている。
     wikipedia景行天皇 実在したとすれば4世紀前期から中期の大王と推定されるが、
▼『日本書紀』上・302頁の注記・補注には
「以下の蝦夷の習俗・性質に関する記載は、漢籍に夷蛮の習俗として 記すものをそのまま採ったもので、実態を示すものとみるのは疑問。ここは蝦夷に関する初めて出るところなので、日本書紀の編者は後の 記事への導入としてとくに入念な紹介を行おうとしたのであろう。」
とあります。編者たちは漢籍に通じていて時の支配者の意向に沿うように「忖度」して筆を進めたのでしょう。 (2020.4.6)


「東夷の中に、『蝦夷』是れ尤(はなは)だ強(こわ)し。
男女交居りて父子別(かぞこ わきだめ)なし。冬は則ち穴に宿(ね)、夏は則ち巣に住む。毛を衣(しき)、 血を飲みて兄弟(このかみ おとと)相疑う。
山に登ること飛禽(とぶとり)の如く、草を行(はし)ること走(にぐる)獣(けもの)の如し。
恩(めぐみ)を承けては則ち忘れ、怨(あだ)を見ては必ず報ゆ。
是を以って、箭(や)を頭髻(たきふさ)に蔵(かく)し、刀(たち)を衣の中に佩(は)けり。
或は党類(ともがら)を聚(あつ)めて辺界(ほとり)を犯し、或は農桑(なりはひのとき)を伺い以って 人民(おおみたから)を略(かす)む。撃てば則ち草に隠れ、追えば則ち山に入る。故(か)れ往古以来 未だ王化(みおもぶけ=教化服従) に染(したが)わず。」

「願わくば深く謀り(良くない事をたくらむ事)遠く慮(はか)りて、姦(かだま)しき(心がねじけている)を探り、 変(そむ)くを伺いて、示すに威(いきおい)を以ってし、壊(なつ)くるに徳(うつくしび)を以ってして、 兵甲(つわもの)を煩さずして自らに臣隷(まうしたが)わしめよ。
即ち言(こと)を巧みて暴神(あらぶるかみ)を調(ととのえ)え、武(たけきこと)を振いて姦しき鬼を攘(はら)え。」 (『日本書紀』上・302頁日本古典文学大系・岩波書店)
▼『日本書紀』は随分勝手な書き方をしています。ヤマトによる征服、侵略。アイヌ民族から見れば抵抗の歴史はこの時代から始まっている? 
▲下線は引用者。『日本書紀』の時代から対アイヌ政策は変わっていない。(2022.9.17)
367年 *「大和朝廷」成立 
▼367年は『日本書紀』の神功皇后47年に当たります。なお最近読んでいます 『新版日本文化と朝鮮』(李進熙NHKブックス1995.3.24発行)によれば
「私の問題提起をきっかけに好太王碑文を根本史料にして日朝関係史や日本古代史を構築してきたことへの反省が高まり、 古代国家成立の諸条件を検討し直す作業がはじまった。そうして、その成立の時期を6世紀後半にさげるのが今や学会の常識となった。」(50頁)
とあります。『日本書紀』の記述を200年くらいずらす必要があるということ。(2019.2.24)
538年  仏教伝来
607年  憲法17条制定
▼この頃から朝鮮半島の百済・新羅の渡来人による、唐に倣った中央集権律令制の日本の国家作りが始まる。この国の形が1200年以上幕末までつづく。 明治維新によって西欧の先端文化を取り入れ、西欧人の手引で帝国主義国家作りに邁進し、太平洋戦争の敗戦で終結する。 戦後アメリカGHQによる国連平和主義国家の建設に着手するが東西冷戦でアメリカ主導の軌道修正をしながら今日に至る。 こうして日本の国作りを俯瞰してみると、いづれも当時の世界の潮流を受け止めながら渡来人、西欧人、GHQの人たちに頼った 国作りをしてきたといえる。私見ですが。
▼昨日上記私見をメモしておきましたら今朝の朝刊(2019.2.16朝日新聞)で次のような記事に出会いました「政治季評」のコラムです。

「フランスの思想家ルソーによれば、古代ギリシャの諸国には、国の重要な法を外国人が作る習慣が存在したという。国に制度を与える「立法者」は、国内に利害関係をもつべきではない という考えからだ。…ただ、ルソーは「立法者」に高い知性を求める。この観点からすると、日本がGHQの優秀な人材を憲法の起草者に得たことは 、幸運であった。彼らは教養と専門知識を持ち、アメリカ合衆国憲法という世界で最も成功した成文憲法を、これが基づいた古代ギリシャ以来の統治 をめぐる議論とともに継承した人々であった。」(豊永郁子 早稲田大学教授)
渡島
ミシハセ=オホーツク人(拡大)

630年  遣唐使
645年  大化の改新
646年  「戸籍」・人別台帳の作成、納税台帳としての戸籍
658年  第1次「蝦夷」征討、阿倍比羅夫(斉明天皇4年)『日本書紀』
渡島地図 平山『地図でみる』54p(拡大)
▼wp:阿倍比羅夫が蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷(おが)を渟代(ぬしろ)・津軽二郡の郡領 (こほりのみやつこ)に定め、有馬浜(ありまのはま)で渡島(わたりのしま)の蝦夷を饗応。
▼wp:恩荷(おが/おんが)は、飛鳥時代に秋田地方にいた蝦夷の人物。 現在の秋田市周辺の蝦夷の長であった。斉明天皇4年(658年)に阿倍比羅夫の水軍を齶田(秋田)で迎え、 朝廷への服属を誓い、小乙上の冠位を与えられた。
▼渡島:海を渡ったかなたの辺境という意味。(『日本書紀』下・331頁頭注・日本古典文学大系・岩波書店)

659年  遣唐使、道奥(みちのおく)の「蝦夷」男女2人を連れ、唐の天子に謁する。(斉明天皇5年)『日本書紀』
(天子)「これ等の蝦夷の国は何れの方にあるぞや」
    「『蝦夷』の国は、東北(うしとらのかた)にあり」
(天子)「蝦夷は幾種(いくくさ)ぞや」 
    「類(たぐい)3種(みくさ)あり。遠き者をば都加留(つがる)と名(なづ)け、次の者
     をば麁(あら)『蝦夷』(えみし)と名け、近き者をば熟『蝦夷』(にぎえみし)と名
     く」
(天子)「その国に五穀(いつつのたなつもの)ありや」
    「無し。肉(しし)を食ひて、存活(わたら)ふ」
(天子)「国に屋舎(やかず)ありや」
    「無し。深山(みやま)の中にして、樹(こ)の本(もと)に止住(す)む」
               (『日本書紀』下・339〜340頁日本古典文学大系・岩波書店)
▼「類(たぐい)3種あり」は、のちの「日ノ本・唐子・渡島、此三類」と繋がるようにおもえる。
▲日本書紀は蝦夷地まで念頭にない。津軽まで。(2022.9.18)
                                            トップへ戻る
660年  阿倍比羅夫、北征・「沈黙交易」(粛慎・みしはせのくに)
▼wp:沈黙交易についての日本の最古の記録としては、『日本書紀』の斉明天皇6年3月の条における阿倍比羅夫が粛慎(オホーツク人)と戦う前に行なった 行為があげられる。
▼「沈黙交易」にまでユポさんの関心が及んでいることに驚かされます。
712年  『古事記』(現存する日本最古の歴史書、全3巻・712年)
720年  『日本書紀』(?〜697を記す、全30巻、六国史の一)
     「征夷将軍」(日本型華夷思想)「征夷」とは「夷を征討する」の意味
     「東夷(とうい)」「西戎(せいじゅう)」「南蛮(なんばん)」「北狄(ほくてき)」
      中華思想(華夷思想)の「四夷」。 西戎 ― 華 ― 東夷
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』12〜13頁
「古代の中央貴族が都から遠く離れた北越や奥羽地方に住む人を「エミシ」「エビス」と呼び、 「毛人」「夷」「蝦夷」「狄」をあてた。「エミシ」は、「あらぶる者」「まつろわぬ人」敵対者の意味。」
・「安倍氏」(「六箇郡の司」・「東夷の酋長」)六箇郡とは胆沢郡・江刺郡・和賀郡・稗貫郡・斯波郡・岩手郡。
・「清原氏」(「出羽山北(せんぽく)三郡の俘囚(ふしゅう)主」)山北三郡とは雄勝郡・平鹿郡・山本郡。
「郡を建てるということは、そこに郡司を置き、律令制国家の内国なみの支配をおよぼすということを意味している。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』25頁)
▼wp:征夷大将軍は、朝廷の令外官(りょうげのかん)の一つ。令外官とは、律令の令制に規定のない新設の官職。現実的な政治課題に対して、 既存の律令制・官制にとらわれず、柔軟かつ即応的な対応を行うために8世紀末の桓武期の改革の際に多くの令外官が置かれた。 
征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つで、太平洋側から進む軍を率いた。これとは別に、日本海側を進む軍を率いる将軍は征狄将軍(鎮狄将軍)、九州へ向かう軍隊を率いる将軍は征西将軍(鎮西将軍)という。これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めたためとされている。
724年  陸奥(みちのおく)「蝦夷」、大規模蜂起
▼通常の年表では「蝦夷反乱する」となっている。ユポさんはアイヌ民族の立場から「蜂起」または「戦い」と表現される。大事なこと。
725年  陸奥の俘囚(服属蝦夷)144人を伊予へ配し、578人を筑紫に配す 
▼wp:俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。 日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二種の起源がある。
774~811年  陸奥「蝦夷」蜂起、(38年戦争)
                       
ナイ・ペツの
アイヌ語地名分布
平山『アイヌ語地名が語る』10p(拡大)

亀ヶ岡文化圏 平山『アイヌ語地名が語る』23p(拡大)
青森・秋田・岩手のアイヌ語地名 (拡大)
▼wp:宝亀5年(774年)には 按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、弘仁2年(811年)まで特に三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討の時代となる。
▼「蝦夷」の抵抗の歴史はこのあと1789年のクナシリ・メナシの戦いまで1000年つづく。 すごい歴史だ。このことをしっかり記憶に留めたい。
▼右の地図にはアイヌ語の地名が残る場所が赤点で示されている。(「アイヌ民族:歴史と現在」9頁) 陸奥「蝦夷」蜂起とはアイヌ民族の抵抗を物語っている。(2020.4.7)
780年(宝亀11年) 陸奥出羽の俘囚・アザマロ蜂起
▼wp:宝亀の乱(ほうきのらん)とは 奈良時代の日本の東北地方で起きた反乱。宝亀11年(780年)、 陸奥国の一部地域(のちに陸前国、宮城県などと呼ばれる地域)にて、大和朝廷(ヤマト政権、中央政権)に対し、 俘囚の指導者が軍を率いて起こしたもので、首謀者の名を採って伊治呰麻呂の乱 (これはりの・あざまろのらん、これはるの・あざまろのらん)とも呼ばれる。
789年(延暦8年)「蝦夷」(えみし)の首長、大墓公阿弖流為(たものきみアテルイ)、 胆沢(いざわ)に侵攻した「征夷軍」を破る。 アテルイ、モネ
▼wp:アテルイについて。陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)へと侵出した 紀古佐美(きのこさみ)率いる朝廷軍を巣伏(すぶし)の戦いで撃退したが、
巣伏(すぶし)の戦い  衣川
雄物川 秋田ー大曲ー横手
雄物川より北は蝦夷地
(拡大)
衣川(ころもがわ)は、岩手県奥州市および西磐井郡平泉町を流れる北上川水系北上川支流の一級河川である。衣川は平安時代末期まで、 蝦夷の勢力と倭人の勢力とを分ける境界線の川であった。
衣川 横手ー衣川
(拡大)
衣川・北上川・中尊寺 (拡大)
胆沢城 巣伏の戦い (拡大)
2021.3.10朝日夕刊 アテルイ(拡大可)
続く大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)率いる朝廷軍、 坂上田村麻呂率いる朝廷軍にたて続けて敗北。のち自ら降伏し、田村麻呂も助命を嘆願するが、京の公卿達の反対により河内国で処刑された。
▼坂上田村麻呂について。大和に住んだ百済系の漢(あや)人たちは東漢(やまとのあや)であって、その宗家的地位にあった坂上家は多くの武将を出した。 征夷大将軍の坂上田村麻呂はその子孫。(『新版日本文化と朝鮮』李進熙55頁より)
792年  第2次・「蝦夷」征討
2021.3.11朝日朝刊(拡大可)
民族学者・赤坂憲雄
「植民地という言葉は、東北の『蝦夷征討』以来千年の歴史を背負わされています。北海道のアイヌの人々、沖縄、 台湾、朝鮮半島、満州、国民国家としての日本は『帝国』化の歴史の中で、その周縁部に異質な文化や民族をたくさん抱え込んできた。 『内なる植民地』を生み出してきた。」

794年「征『夷』大将軍」 @大伴弟麻呂
797年「征『夷』大将軍」 A坂上田村麻呂  『続日本紀』(797年、全40巻・697〜791年を記す、六国史の二) 
801年(延暦20)第3次「蝦夷」征討・坂上田村麻呂・上渡嶋狄(エミシ)
(この後、平氏政権と織豊政権は「征『夷』大将軍」に任じられず)
   ▼wp:坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征。
802年  アテルイ、モレ(盤具公母礼・いわぐのきみモレ)処刑
    ▼wp:母礼(母禮) 802年9月17日、河内国で処刑された蝦夷の指導者の一人と    見られている人物。
811年(弘仁2)文屋綿麻呂蝦夷征伐終了を奏上。
▼ユポさんの年表にはありませんが38年戦争の一つの区切りとして 挿入しました。
▼wp:閏12月11日、蝦夷を全滅させたことにより、兵士配備の縮小、百姓に対する徴兵の廃止・4年間の課税免除を上奏し、許される。
▼平安時代は貴族社会で軍事力行使のイメージはなかったが、「蝦夷征伐」の歴史を勉強してとんでもない 間違いであったことが分かった。
840年  『日本後紀』(全40巻・792〜833年を記す、六国史の三)
▼六国史とは次の一〜六の歴史書のこと。
▼wp:

六国史の一 720年『日本書紀』
六国史のニ 797年『続日本書紀』
六国史の三 840年『日本後紀』
六国史の四 869年『続日本後紀』
六国史の五 879年『日本文徳天皇実録』
六国史の六 901年『日本三代実録』
869年  『続日本後紀』(全20巻、833〜850年を記す、六国史の四)
878年(元慶2年) 出羽の「蝦夷」蜂起、秋田城を焼く(元慶の乱)・(『日本三代実録』)
▼wp:元慶の乱(がんぎょうのらん)は平安時代に起きた夷俘 (蝦夷)の反乱である。 元慶年間の初頭、干ばつにより全国的に飢饉に襲われ、各地で不動倉が開かれ、賑給※が実施された。

wp:賑給(しんごう/しんきゅう)とは、賑恤(しんじゅつ)とも呼ばれ、律令制において 高齢者や病人、困窮者、その他鰥寡孤独[1](身寄りのない人々)に対して国家が稲穀や塩などの 食料品や布や綿などの衣料品を支給する福祉制度、あるいは支給する行為そのものを指す。)

直接記録に残ってはいないが、東北地方も例外ではなかったと考えられている。それに秋田城司による年来の苛政が重なり、夷俘の不満は頂点に達した。
元慶2年(878年)3月、夷俘が蜂起して秋田城を急襲、秋田城司介良岑近は防戦しかねて逃亡した。 夷俘は周辺に火を放ち、出羽守藤原興世も逃亡してしまう。津軽・渡嶋の蝦夷も蜂起した蝦夷を支援する。
朝廷は左中弁藤原保則を出羽権守に任じて討伐にあたらせることとした。保則は文室有房、上野国押領使南淵秋郷に命じて 上野国兵600人と俘囚300人をもって夷俘に備えさせた。
北秋田市マタギ駅 2023.1.14朝夕刊(拡大)
▲マタギ:アイヌ語でマタンキ=猟(2023.1.16)

これら軍事的措置をすませたうえで、朝廷の不動穀を賑給して懐柔にあたった。 この寛大な政策をおこなって苛政によって逃亡した夷俘の還住を促すことこそ上策であると朝廷に意見した。朝廷はこの意見を容れて3月、 征夷の軍を解いた。
アキタ川(雄物川)
雄物川大曲大平山
雄物川大曲付近
(拡大)
藤原保則は武力によらず寛政によって反乱の鎮撫に成功した一方、夷俘は降伏したが朝廷による苛政をくつがえし、 力を示したことで一定の成功を収めたと考えられる。
▼811年に38年戦争が終わって60数年後の878年にまた大きな戦いが起きている。

アキタ蝦夷
アキタ川以北の独立要求

平山『地図でみる』
59p(拡大)

「三大実録」
元慶2年6月7日(拡大)
和人権力はじめて非を認める
平山『地図でみる』
60p(拡大)



東北エミシの行方
平山『地図でみる』
61p(拡大)
▲元慶の乱を
平山裕人著『アイヌ民族の現在、過去と未来』31pは
「アキタ俘囚の独立戦争」と表現。まったく新しい。
「アキタ俘囚側がアキタ川より北を自分たちの領域として認めよ」という要求を出した。「アイヌモシリ回復」訴訟に通ずる。 (2022.7.20)

▲アキタエミシ、878年、今から1144年前、アキタ川以北の独立要求。その後の東北エミシの行方、 和人社会に同化されていく過程は不吉な予感がする。北海道アイヌ、二の舞にならないことを祈る。(2022.9.18)
▲「三大実録」の当該部分を見つける。元慶2年6月7日だった。大した記録だ。(2022.9.19)
879年  『日本文徳天皇実録』(全10巻、850年〜858年を記す、六国史の五)
901年  『日本三代実録』(全50巻、858年〜887年を記す、六国史の六)
947年   狄(エミシ)坂丸一党、鎮守府使者殺害(『日本紀略』)
▼鎮守府使者殺害。大変なことだっただろう。878年から60数年後。
1062年  前九年合戦、安倍氏滅びる
wp: 陸奥国の土着で、有力豪族の安倍氏は、陸奥国の奥六郡 (岩手県北上川流域)に柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。 陸奥(むつ)の安倍頼時(頼良)が陸奥(むつ)の奥六郡(おくろくぐん)を領しながら, 賦貢・徭役(ようえき)を納めなかったので、1051年朝廷は源頼義・義家父子を派遣して討伐させた。
『ウィキペディア(Wikipedia)』 奥六郡(おくろくぐん)は、律令制下に陸奥国中部(東北地方太平洋側、後の陸中国)に置かれた 胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡の総称。 現在の岩手県奥州市から盛岡市にかけての地域に当たる。
陸奥の国

北上川
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wp:この戦争は、源頼義の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した年数から、 元々は「奥州十二年合戦」と呼ばれており、『古事談』『愚管抄』『古今著聞集』などにはその名称で記されている。 ところが、『保元物語』『源平盛衰記』『太平記』などでは「前九年の役」の名称で記されており、それが一般化して現在に至る。

さらに、「役」の表現には「文永の役」「弘安の役」(元寇)同様、華夷思想の影響が多分に見られ、 安倍氏が支配した東北が畿内から異国視され、安倍氏自体も「東夷」として蛮族視されていたことを物語る。 しかし後世に成立した『平家物語』などでは、安倍氏に同情的な記述も見られる。また、 今日では「前九年合戦」という表記がなされることもある。
▼ユポさんは華夷思想を排除されるから前九年合戦と表記されている。(2020.4.7)

wp:源氏の神話化の原点としての前九年の役
「前九年の役」における河内源氏の源頼義・義家の戦勝は、 河内源氏が武門の家の中でも最高の格式を持つ家である根拠として、中世以降、繰り返し参照されるようになった。 実際、頼義・義家の家系からは後に源頼朝が出て鎌倉幕府を開いただけでなく、室町幕府を開いた足利尊氏も河内源氏であった。 彼らが武門の棟梁の象徴として征夷大将軍を名乗った背景には、頼義が蝦夷を征討した形となった戦役がある。

1087年  後三年合戦、清原氏滅びる・奥州平泉藤原氏台頭

後三年合戦「世界の歴史まっぷ」:
永保3年〜寛治元年(1083〜1087)に奥羽で起きた戦い。 前九年の役後、奥羽に力を伸ばした清原氏の内紛に陸奥守(むつのかみ)として赴任した源義家が介入し、 藤原清衡を助けて清原家衡・武衡を滅ぼしたもの。清衡は奥羽の地盤を引き継ぎ、源氏は東国に基盤を築いた。
▼この後100年間、奥州藤原氏の平泉文化
                                        トップへ戻る
1189年  源頼朝、奥州平泉の藤原氏を滅ぼす

▼wp:関東の後背に独立政権があることを恐れた源頼朝は1189年7月、義経を長らく匿っていたことを罪として 奥州に出兵。贄柵(にえさく)(秋田県大館市)において家臣の造反により泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。

▼東北の豪族は、1062年阿部氏、1087年清原氏、1189年藤原氏、130年かけて源氏により次々滅ぼされる。(2020.4.7)
源頼朝と田村麻呂伝説
1189年、「出羽・陸奥は蝦夷の地」と言われていた。源頼朝は、28万4千騎を率い、平泉藤原氏を滅ぼしている。

源頼政・武士で歌人 2023.5.14朝日朝刊(拡大)
鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には、
源頼朝が平泉を攻め、藤原泰衡らを討伐した後、鎌倉への帰路にある達谷窟(たっこくいわや)に目をとめ、 その名を尋ねると、「それは、達谷窟で、田村麻呂、利仁らの将軍が、綸旨(りんじ)(蔵人所が 天皇の意を受けて発給する命令文書)を受け賜って夷を征する時、賊主である悪路王や赤頭らが、 城塞を構えていた岩屋」だと教えたという。

そして源頼朝の平泉征討は、「坂上田村麻呂」になぞらえて書かれている。
つまり平泉政権に対する戦いは、古代以来の「征夷」の延長として中央権力から位置づけられていたのである。


▼「源頼朝は、28万4千騎を率い」を読み、凄さがイメージできました。「征夷」の意味もよく分かりました。田村麻呂の801年から数えて388年。 朝廷の為政者から見れば約400年かけて悲願を達成したということ。それが延暦20年。天台宗が開かれた時期でもある。都の勢いが地方にこのように「征夷」という形で及ぶ。(2020.4.8)

1191年  強盗・海賊の類を「『蝦夷』島」へ流す。『都玉記』(とぎょくき)

▼『吾妻鏡』に1216年、1235年、1251年に夷島流刑の記述。(榎森進『アイヌ民族の歴史』44頁より)。
オーストラリアが英国の、シベリアがロシアの流刑地であったように北海道が鎌倉幕府の流刑地だったようだ。 そして700年後、明治維新の動乱(佐賀の乱、熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱、西南の役など)が全国各地で起き、 多数の国事犯・重罪人が出たため、明治新政府は、「北海道」を流刑地として囚人を送り込んだ。 1881年(M14)「樺戸(かばと)集治監」設置。以後空知、釧路、網走、十勝。
▼wp:『吾妻鏡』または『東鑑』は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から 第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。 成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。

1192年  源頼朝、「征『夷』大将軍」となる(1190年右近衛大将)           
1200年〜 蝦夷地のアイヌ民族、サハリン進出、ギリヤークと抗争
▼アイヌ民族のサハリン進出にともないサハリンの先住民 のギリヤークとの抗争が絶えなかったということ。
ギリヤークは「オホーツク文化」の担い手であり、アイヌの「擦文文化」と融合して「トビニタイ文化」が生まれたことを 下記の著書、論文から勉強しました。
▼この研究は榎森進『アイヌ民族の歴史』「長く続くギリヤークとの抗争」46頁〜50頁に詳しいです。
また『中世後期における東アジアの国際関係』(大隅和雄・村井章介編・山川出版)のなかの 中村和之「十三〜十六世紀の環日本海地域とアイヌ」の論文もあります。
中村さんは「十三〜十五世紀の北海道の社会は、周辺諸地域との活発な交流のなかで、 近世アイヌ文化の形成に向かう活力に満ちたものでありました。」(147頁)と書いておられます。
少なくとも私のこれまでのアイヌ民族へのイメージを一新させられる論文でした。 アイヌ民族にとって誇りと勇気を与えられる論文だと感銘しました。
▼そして最後に右上の棒グラフ(拡大可)と右の円グラフ(拡大可)です。ユポさんから紹介されました篠田謙一さんの「日本人の起源」(洋泉社)の論文です。
まず右上の棒グラフですが本土日本人と比べてアイヌ民族はピンクのYが多いです。
そして右。
平山『消えた「アイヌ」』 アイヌとオホーツク人のつながり(拡大)
オホーツク文化を担った人たち(円グラフの上から2番目)とアイヌ民族(円グラフの上から3番、4番)は 共通のピンクのYグループのDNAを持っているという研究です。
これで「ユーカリ」の謎が解けます。
「アイヌユーカリ」のレプウン・クル(沖の人)はオホーツク文化を担った人たちで、その人たちのDNAがアイヌの人たちに入っていた。 ということは民族的にも融合が進んでいたということですね。「ユーカリ」の中に登場するのも当然ですね。
1264年  モンゴルとサハリン・アイヌ民族の戦い(以後1308年まで44年に及ぶ戦い)
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』46頁
「『元史』1264年11月辛巳条に「gu-wei(アイヌ)を征(せいばつ)す。 是より先、jilimi(ギリヤーク)内附(ふくぞく)し言わく。其の国の東にgu-wei、yiliyu両部有り、歳(まいとし) に来りて彊(さかい)を侵すと。故に往きてこれを征す。」
▼この1264年はフビライの時代。
38年間の元王朝との戦い 平山『地図でみる』74p(拡大)
▼以下は榎森進『アイヌ民族の歴史』50頁の要約です。
1284年〜1286年の3年間毎年サハリンの「アイヌ」征討実施。
1296年アイヌ・ギリヤーク共同で反元行動。
1297年アイヌ・ギリヤークが元軍と戦う。
  同年7月の戦闘でアイヌ軍が元軍を破る局面も。
  8月ギリヤークが元軍にアイヌを討つことを要請。
1308年アイヌ降伏。
▼アイヌとギリヤークの関係は同盟と抗争がいりまじっています。1297年の7月から8月の1ヶ月に何があったのか。
▲「アイヌ民族は北海道だけの民でなかった。アイヌは日本の中の一つの民族ではなかった。日本とは別に北東アジアの中で 自立して生きてきた民族なのだ。」平山『アイヌ民族の現在、』38p。しっかり記憶しておくこと。(2022.7.20)
外交の不在2 2023.2.5朝日朝刊
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▲外交の不在は鎌倉幕府だけではない。日本にはその後も、それ以前も外交は不在。今も。 (2023.2.15)
外交の不在1 2023.2.5朝日朝刊
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シラヌシ
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落石
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1274年  元軍、九州に来襲(文永の役)
1281年  元軍、再度来襲 (弘安の役)
1296年  僧日持、落石(おっちし)に住む
▼wp:日持(にちじ、建長2年(1250年)- 没年不詳)は、鎌倉時代  中期から後期にかけての日蓮宗の僧。新潟から秋田、青森、函館、松前、江差を経て渡樺し、 本斗郡好仁村(ほんとぐん こうにむら)の白主(しらぬし)、1295年(永仁3年)樺太の本斗郡本斗町阿幸に上陸した後、 北樺太の落石(オッチシ)(アレクサンドロフスキ・サハリンスキー)から海外布教を志し満洲に渡ったとも、 蝦夷地で没したともいう。
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1308年  サハリン・アイヌ民族、元朝に朝貢を約す
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』50頁(もと資料は『元史』)
「元軍と果敢な戦いを行ったアイヌも遂に元軍の圧力に屈し降伏を乞い、 刀や兜を差し出し以後元朝に毎年獣皮を貢納して朝貢することとなった。」
1323年 「聖徳太子絵伝」に「十歳降伏蝦夷所」の図(581年 蝦夷蜂起)
「聖徳太子絵伝」の「十歳降伏蝦夷所」の図
▼「日本における北方研究の再検討」(煎本孝)論文より
聖徳太子絵伝
蝦夷の人物絵
この頃、蝦夷の記事。年表に頻繁に表れる。(2022.9.18)(拡大)
「1323年ころ作成された「聖徳太子絵伝」中「十歳降伏蝦夷所」には、 581年アヤスカをはじめ古代蝦夷の首長たちが大和にある朝廷にやって来て服従の誓言のおり、
聖徳太子絵伝
白馬に跨り指揮を執る太子
太子のもう一つの顔
当時10歳の聖徳太子が敏達天皇に献言して蝦夷の大将アヤカスらを初瀬川のほとりに召して説服されたという、 伝説の場面が描かれている。
これは今日残る最古のアイヌ風俗画とされるものであるが、 『日本書紀』の記載からこれが北海道のアイヌではなく本州の蝦夷(エミシ)を描こうとしたことは明白である一方、 古代蝦夷は、日本の北部地域である現在の青森県、秋田県、宮城県北部に住み、 多くの日本の専門家たちは彼らが形質的にも言語的にもアイヌの祖先と関係ある人々であったと考えている。」

▼1336年室町幕府成立。上記「太子絵伝」は当時の合戦の雰囲気を表わしていると思う。(2022.9.19)
1356年 『諏訪大明神絵詞』(諏訪大進房小坂円忠・諏訪神社神主)
▼「諏方大明神画詞」は、室町幕府で要職にあった諏訪(小坂)円忠が、 編纂した「諏方大明神縁起※」の詞書(文章)部分だけを写本として今日に伝わったもので、 本来は絵画も描かれていました。(2022.9.14メモ) 
「東『夷』蜂(起)シテ奥州騒乱スルコトアリキ、『蝦夷』カ千島ト云エルハ、我国ノ東北ニ当テ大海ノ中央ニアリ、
日ノモト・唐子・渡島、此三類各三百三十三ノ島ニ群居セリト、 
諏訪大明神絵詞
(拡大)
諏訪大明神絵詞アイヌの部分
▲2022.9.14やっと見つける。(拡大)
一島ハ渡島ニ混ス、 其内ニ 宇曾利鶴子別(うそりけ しべつ・箱館)ト 前堂宇満伊犬(まとうまいん・松前)ト云小島トモアリ、 此種類ハ多ク奥州津軽外ノ浜ニ往来交易ス、

夷一杷ト云ハ六千人也、相聚(あいあつま)ル時ハ百千杷ニ及ヘリ、

日ノモト・唐子ンノ二類ハ其地外国ニ連テ、形躰夜叉ノ如ク変化無窮(むきゅう)ナリ、
人倫、禽獣・魚肉ヲ食トシテ、五穀ノ農耕ヲ知ス、九訳ヲ重ヌトモ語話ヲ通シ堅シ、

渡島ハ和国ノ人ニ相類セリ、但鬢髪多シテ、遍身(へんしん)ニ毛ヲ生セリ、言語俚野也ト云エトモ大半ハ相通ス、

此中ニ公超霧ヲナス(霧を起こす)術ヲ伝エ、公遠隠形ノ道(身を隠す方法)ヲ得タル類モアリ、

戦場ニ望ム時ハ丈夫ハ甲冑・弓矢ヲ帯シテ前陣ニ進ミ、婦人ハ後塵ニ随ヒテ木ヲ削テ弊幣(へいはく)ノ如クニシテ、 天ニ向テ誦呪ノ躰アリ、

男女共ニ山壑(やまたに)ヲ経過スト云エトモ乗馬ヲ用ス、
其身ノ軽キ事飛鳥・走獣ニ同シ、 彼等カ用ル所ノ箭ハ遺骨ヲ鏃トシテ毒薬ヲヌリ、纔(わずか)ニ皮膚ニ触レハ其人斃(へいせ)スト云事ナシ・・・・」

▼「諏訪大明神絵詞」は、1365年に、長野県にある諏訪神社の円忠という人が書いた本で、安藤氏の内乱について書いたところに、蝦夷についての 記録がある。(「アイヌ民族:歴史と現在」10頁)
『諏訪大明神絵詞』 左記をクリックしていただくと『諏訪大明神絵詞』を読むことができます。29コマ目が当該ページです。 2行目から「東夷蜂起シテ奥州騒乱」と読んでいけるとおもいます。(所蔵者:愛知県西尾市立図書館(岩瀬文庫)国文学研究資料館の資料です。) この記述は鎌倉末期の「安藤氏の乱」を記述した場面だそうです(榎森進『アイヌ民族の歴史』66頁)。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安藤氏の乱(あんどうしのらん)は、鎌倉時代後期、エゾの蜂起と安藤氏の内紛が関係して起こった乱。 蝦夷大乱、津軽大乱[1]とも呼ばれる。
発端は、1268年(文永5年)に津軽でエゾの蜂起があり、蝦夷代官職の安藤氏が討たれた事件である。 エゾの乱は1333年に滅亡する幕府の腐敗を示す例として評され、幕府衰退の遠因となったとする見解もある[9]。
▲「諏訪大明神絵詞」とアイヌがやっと結び付いた。(2022.9.19)


**蝦夷地における日本民族の植民活動の始まり**(商業植民地)
北海道植民史と近世植民史の一致は、単にその始期を同うするばかりではなく、その活動が主として戦に馴れ、 また封建制度の下に失墜せる勢力を他に求めんとする武士によって始められたことであった。

▼このユポさんの短いコメントに的確な指摘がなされています。「戦に馴れ」がそれです。 日本人は実に「戦」が好きな民族のようです。古代から現代に至るまでも。

「日本における北方研究の再検討」(煎本孝)論文 4頁で、
「アイヌ文化の成立は考古学的には12世紀と考えられているが、12世紀末鎌倉幕府の成立から16世紀末室町幕府 の滅亡までの中世において、奥州の安東の乱の鎮圧の資料として1356年に成った『諏訪大明神絵詞』に(上記の内容が)記されている。
金田一京助(1925年)は「日ノモト」とは東国、すなわち東蝦夷、後の千島アイヌなどであり、 「唐子」とは韃靼海峡を経て満州文化の影響を受けたアイヌ、すなわち後の樺太アイヌなどであり、 「渡党」とは奥州より敗走した……アイヌであると比定している。」
と書かれています。
たまたま『アイヌ民族:歴史と現在』(公益財団法人アイヌ民族文化財団10頁)に「日ノモト」「唐子」「渡党」の勢力図を見つけました。 右の北海道の地図(拡大可)です。元資料は『中世の蝦夷地』(海保嶺夫・吉川弘文館)のようで、162頁に中世蝦夷地(想定図)となっています。 想定図は文章で読むより遥かによくわかります。感謝。
1413年  明、永楽帝時、サハリン・アイヌ民族の記述
▼「1413年の『勅修 奴児干永寧寺記』(ヌルカンえいねいじ)には「海西より奴児干に至り、海の外にある苦夷(アイヌ)の諸民に及ぶまで、 衣服・器用をもってし」たという記述があります。」(大隅和雄・村井章介編『中世後期における東アジアの国際関係』 中村和之「十三〜十六世紀の環日本海地域とアイヌ」論文・山川出版) 「新発見の「重建永寧寺碑」拓本をめぐって」中村和之「会報」No.23 2003.7.1 2003年度第1回研究会報告要旨(その1)
▼ユポさんの年表の一行から中村さんの「新発見の「重建永寧寺碑」拓本をめぐって」にたどり着きました。 この出会いは不可思議です。
永寧時の碑 (拡大)
「新発見の「重建永寧寺碑」拓本をめぐって」より。
「15世紀の初頭、明の永楽帝は女真人の亦失哈(イシハ)を派遣し、 かつて東征元帥府のあったところに奴児干都司(ヌルカンとし)を設置した。
以後、明はアムール川流域・樺太の諸集団に積極的に支配を及ぼしたが、 現地で活躍した官吏のなかには、アムール川流域の住民から登用された者もいた。
明は、貂皮などの朝貢の見返りとして絹織物を下賜したが、 そのなかには竜袍(りゅうほう)・蟒袍(もうほう)などといわれた役人の服が含まれていた。 これが蝦夷錦とよばれるものである。」

▼アイヌの人たちが蝦夷錦をいつ、どのように入手したかに以前から興味があったがやっと疑問が解けた。(2020.4.7)
1443年以降のアイヌ民族の歴史は和人による植民地化の歴史と捉えたほうが事の真相が明確に理解できる。(2020.7.13)

1443年
津軽十三湊(とさみなと)豪族・安東盛季とその配下、「『蝦夷』島」へ逃亡渡島半島南部に「舘」を築く(道南12舘)。
     アイヌ民族の居住権をおびやかし、略奪的交易を強いる
道南12館wikipediaより (拡大)
   ▼道南12舘と位置図(拡大可)(「アイヌ民族:歴史と現在」公益財団法
   人アイヌ民族文化財団14頁より転載  地図の右端から海岸沿いに下記の
   舘が位置しています。)
   志苔館(函館)、箱館(函館)、茂別館(下の国の守護)、中野館、
   脇本館  (知内)、穏内館(福島)、草部館(松前)、大館(松
   前の守護)、禰保田館  (松前)、原口館(松前)、比石館(上
   ノ国)、花沢館(上ノ国の守護)
   ▼これがアイヌ民族の苦難のはじまり。


1456年 (アイヌの大闘争時代1456年〜1789年) 
wikipedia:コシャマインの戦い
  「コシャマインの戦い」(武田信広〔26歳〕蠣崎家の養子に)
      「渡島半島南部に拠った12の舘主は、アイヌ民族との交易権の拡大をめざしたため、アイヌ民族の自由な
       交易活動は次第に制限された。各舘主間の利害は、アイヌ民族および本州地方との交易をめぐって対立
       し、抗争は激化した。その矛盾はアイヌ民族に対する収奪・抑圧に集約され、渡島半島のアイヌ民族の自
       由な生活は急速に破壊された。」(ユポさんのこの文章の出典?)
     ・道南12舘のうち、茂別舘・花沢舘を除く、10舘、陥落
コシャマイン父子を討つ
新羅之記録
コシャマインの戦い
平山『地図でみる』88p(拡大)
            
▼茂別舘は下の国の守護、花沢舘は上ノ国の守護、守りが堅かったのだろう。
     ・花沢舘の武士・武田信広は敗走した和人勢力を再編し、苦戦の末、       謀略を以ってコシャマイン父子を討つ
     ・東は鵡川、西は余市に至る和人居住者、松前上ノ国天の川に移住
     アイヌ民族の歴史年表より。
     1457年5月14日 オシャマンベの首長コシャマインを盟主とするア
     イヌ同盟軍が蜂起。兵力は9千人(東部アイヌ約四千強、北部アイヌ
     約二千強、西部アイヌ約三千)といわれる。総兵力300人の志海苔館はまもな
     く陥落。

     ▲「兵力は9千人」、本当か?(2022.8.4)
▼12舘のうち10舘が陥落とは! 凄いことだ。
コシャマイン父子を討つ、は函館市中央図書館のデジタルアーカイブ の『新羅之記録』で確認できます。 上の画像が『新羅之記録』です。3行目「胡奢魔犬(コシャマイン)父子二人斬殺(キリコロス)」が読み取れます。
▼コシャマイン蜂起の歴史的背景は榎森進『アイヌ民族の歴史』132〜134頁でも確認できます。
「下国安東氏が夷島のみを唯一の経済的基盤にするにいたったということは、 とりもなおさず夷島におけるアイヌ民族との交易権のより一層の強化や夷島に居住する各館主を初めとする 和人集団に対する支配を強化するにいたったことを意味している。 …コシャマインの戦いの大きな要因の一つにこうした事実があったことは間違いないであろう。」
▼アイヌ民族への圧迫がじわじわ忍び寄って来るのが感じられる。と同時にアイヌ民族はすぐに蜂起で応えている。このあと蜂起がつづく。
  Wikipediaコシャマインの戦い
応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起。
現在の北海道函館市にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、 渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬)を中心とするアイヌが蜂起。
最終的には平定され、松前藩形成の元となった。
▼「和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけ」。 米国の黒人差別を思い浮かべる。日常の差別・蔑視が些細なことで大事件に発展する。 これも似ている。これ以降、より一層和人側はアイヌ民族への支配を強化していく。 事件が起きた志濃里から北100qに位置する長万部(オシャマンベ)の首領コシャマインが蜂起を指導した。 (2020.4.9)
                                        トップへ戻る
1494年の世界分割(拡大可)
マルク・フェロー『植民地化の歴史』p94〜p95 ▼1494年トルデシリャス条約(スペインとポルトガルの世界分割)ブラジルを除く南北アメリカ大陸は スペインの支配下。それ以外はポルトガルの支配下。
世界史のこのような状況下での蝦夷地における和人の植民地的支配拡大とアイヌ民族の蜂起であった。(2020.7.13)
1492年のアメリカ大陸(拡大可)
マルク・フェロー『植民地化の歴史』p68(新評論 片桐祐、佐野栄一訳 20173.31発行) ▼地図で確認すると先住民族の居住地は
南北アメリカ大陸の主に太平洋側。

*「戦乱の一世紀」(約100年)
1469年 アイヌ民族蜂起
1471年 アイヌ民族蜂起
1473年 アイヌ民族蜂起
1512年 東部のアイヌ民族蜂起。宇須岸、志濃里、与倉前の3舘陥落、舘主戦死
1513年 アイヌ民族蜂起、大舘で戦闘、舘主相原氏自害
1515年 ショヤ・コウジ兄弟蜂起、光広饗応し和睦を装い斬殺
1525年 「東西」のアイヌ民族蜂起
1528年 蠣崎義広に対するアイヌ民族蜂起
1529年 タナサカシ(セタナイの首長)、工藤氏を破り、和喜舘に攻め入るも、 義広謀略を持って討つ
1531年 蠣崎義広に対するアイヌ民族蜂起、大舘を攻める
1536年 タナサカシの女婿・タリコナ蜂起。義広和議を申し入れ、謀略を以って斬殺
▼この100年の戦いの記録・記憶は被圧迫先住民族にとって、とても貴重だとおもいます。
非常に特徴的なのが、1515年光広饗応し「和睦を装い」斬殺、1529年義広「謀略」を持って討つ、 1536年義広和議を申し入れ「謀略」を以って斬殺。いずれも「謀略」「謀略」。腹黒い・こ狡い和人  卑怯。 対アイヌ民族に対しては恥ずかしい歴史しか和人は持っていない。(2020.4.8)
▼アイヌ民族の歴史年表http://www10.plala.or.jp/shosuzki/japan/ainu%202.htmには
「1536年6月 タリコナ、義広を狙って勝山館を強襲、兵力に劣る蛎崎氏は再び和睦を乞う。 館内での酒宴の最中にタリコナ夫妻を惨殺。これ以後アイヌの攻勢はなくなった。」とあります。(2020.4.9)
▼次の『夷狄の商舶往還の法度』を読んでみてタリコナの蜂起後14年間で蛎崎氏とアイヌ民族の力関係が大きく変わったことに気づきました。 つまり支配に組み込まれた、との印象です。(2020.4.10)

1550年(1551)「夷狄(いてき)の商舶往還の法度」(蠣崎季広)『新羅之記録』天文19(20)年6月23日(蠣崎氏
       と東西アイヌ民族の通商協定)

新羅之記録上巻表紙

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新羅之記録商舶往還
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利別川(勢田内)・知内川(志利内)

渡党の広がり
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夷狄商舶往還の法度
和人とアイヌの条約ともいえるもの。平山『地図でみる』91p

「勢田内の波志多犬(ハシタイン)を召寄せ上之国天河の郡内に居へ置きて西の伊(イン・長官)と為し 亦志利内の知蒋多伊(チコモタイン)を以って東夷の伊と為し、 『夷狄の商舶往還の法度』を定む。
故に諸国より来れる商賈(しょうこ・商人)をして年棒を出さしめ、 其内を配分して両酋長に賚(たま)ふ。之を夷役と謂ふ。
而る後西より来る『狄』の商舶は必ず天河の沖にて帆を下げ休んで一礼を為して往還し、 東より来る『夷』の商舶は必ず志利内の沖にて帆を下げ休んで一礼を為して往還する事、偏に季広朝臣(あそみ) を慫敬(しょうけい・おそれうやまうこと)せしむる処なり。」
▼右の写真は函館市中央図書館のデジタルアーカイブスからの転載で 『新羅之記録』の原本です。 終わりから5行目以降が「勢田内の波志多犬(ハシタイン)を召寄せ…」の記述になっています。
『新羅之記録』表紙

▼今、『熱源』を読んでいますがその中でアイヌを侮蔑する呼び方として「あ イヌ」と出てきます。最初わからなかったのですが古い書籍に ハシタインは波志多犬と書き、コシャマインは胡奢魔犬と書いています。 これがのちに蔑称になったんだなと思いました。不愉快です。(2020.7.2)

「蠣崎政権にとって、アイヌ民族との緊張関係を少しでもやわらげ、そのことによって権力基盤の安定を 確立するうえで大きな役割を果たしたのが『夷狄の商舶往還の法度』であった。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』146頁)
▲榎森先生のこの評価より下記の平山先生の評価のほうが私には説得力があります。 (2022.10.4)

コシャマインの戦いの結果 平山『地図でみる』91p(拡大)

「和人勢力は一時、ヨイチからムカワのラインまで居住しアイヌの人たちと 共住する地域となった。1457年に始まる100年戦争の結果、和人勢力を松前半島の片隅に追いやった」。
この評価はすばらしい。左上「渡党の広がり」参照。(2022.8.5)

▼このころのアイヌ民族はまだまだ和人と戦う力を持っていました。しかしご承知のように 「1543年8月ポルトガル人、種子島に来て鉄砲を伝え」(『新版日本史年表』(1984年・岩波書店))、 和人が鉄砲を手に入れた為にアイヌ民族への支配が決定的になったと思います。

▲改めて1456年コシャマインの戦いから1550年「夷狄商舶往還の法度」までの100年間を振り返りました。 平山先生の「和人勢力は一時、ヨイチからムカワのラインまで居住しアイヌの人たちと 共住する地域となった。1457年に始まる100年戦争の結果、和人勢力を松前半島の片隅に追いやった」の視点が欠落していました。 大きな成果のあった100年の戦いだったと見方が変わりました。平山先生に確認します。(2022.10.4)
1565年 イエズス会宣教師、ルイス・フロイス、「蝦夷」交易を記す
アイヌ民族の歴史年表に下記の記述があります。
1565年 宣教師ルイス・フロイスによりはじめてヨーロッパにアイヌの情報が伝わる、 出羽国の秋田に、アイヌが多数交易にくる様子などを記録
1578年(天正6) 蠣崎正広、安土で織田信長に謁す
▼HP函館市中央図書館のデジタルアーカイブス『新羅之記録』 をクリックしていただくと「天正年…安土ニ於テ信長公ニ謁シ奉ル」と見えます。
1585年 秀吉、関白となる
1586年 秀吉、太政大臣となり、豊臣の姓を賜る
1590年(天正18)蠣崎慶広、上洛し「狄之嶋主」として、聚楽第で豊臣秀吉に拝謁慶広、前田利家、木村秀綱、大谷
     吉忠らと会う      
1592年(文禄元) 慶広、秀吉の朝鮮出兵に応じ、大阪、肥前名護屋に出陣
1593年(文禄2) 豊臣秀吉より、慶広「朱印状」賜る(志摩守に任じる)
「松前に於いて、諸方より来る船頭商人等、『夷人』に対し、地下(じげにん・和人=一般日本人) と同じく非分(ひぶん)の義、申し懸けるべからず。
並びに船役(ふなやく)の事、前々より有り来るが如く之を取るべし。 自然(もしも)此の旨に相背(そむく)族(やから)之在るに於いては、急度言上(きっとごんじょう)すべし、 速(すみ)やかに御誅罰(ごちゅうばつ)を加えらるべきもの也。」
蠣崎志摩守トノへ  文禄2年正月5日 秀吉朱印
・アイヌ民族に対する非法行為の厳禁
・船役(関税)徴収権の公認 
・蠣崎氏、安東氏の支配から自立し、独立の大名となる
・慶広、東西アイヌ民族を集めて秀吉の朱印状を読み聞かせる
▼この秀吉の朱印状は、蠣崎氏を通して中央政権の支配がいよいよ 北海道のアイヌの地に及び始めたということでしょう。(2020.4.11)
                            トップへ戻る
1600年(慶長5) 蠣崎慶広、家康に謁し姓を松前に改める(慶広とその子孫のみの改姓) 『新羅之記録』
1603年 徳川家康、「征夷大将軍」となる
▼家康、夷を征する大将軍か。(2020.4.11)

**前松前藩治時代**
17C~  松前藩(現松前郡松前西舘)の成立、アイヌ民族との交易権の独占
1604年(慶長9) 徳川家康より、「蝦夷交易の制三章」・「黒印状」を下賜される
        ▼下の画像は 徳川家康からの制書で松前町のHPからです。
家康制書 (拡大)

1 諸国より、松前へ出入りの者共、志摩守に相断らずして、夷仁(いじん)と直に商売仕
 (つかまつり)候儀、曲事(くせごと)たるべき事
2 志摩守に断り無く渡海せしめ、売買仕候はば、急度(きっと)言上致すべき事
  付(つけたり)、夷之儀は何方へ往行し候共夷次第に致すべき事
3 夷仁に対し非分の儀申し懸けるは、堅く停止(ちょうじ)の事
  右条々若し違背の輩に於いては、厳科に処すべきもの也。仍(よっ)て件(くだん)の
  如し。
  慶長9年正月27日  家康黒印  松前志摩守とのへ (「松前家文書」読み下し文)

「徳川実録」
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「徳川実録」
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▲平山『アイヌ民族の現在』51p家康の黒印状。「付(つけたり)、夷之儀は何方へ往行し候共夷次第に致すべき事」に注目された。 日本の統一政権がアイヌ民族に対し、「どこへ行こうとも自由」と宣言したものとの読み取りは凄い。(2022.7.24)
・松前藩の成立(松前志摩守慶広)
・無高大名(1万石格)・アイヌ民族との交易独占権によって経済を支える(藩主と家臣団の経済のため)
・幕府に対する軍役奉公
・参勤交代(6年に一度)
・蝦夷地沿岸部を藩主直轄と、上級家臣への知行地として区分
(アイヌ民族の居住地に対応する形で商場を設定し、原則として一つの商場に一つの知行権(交易権)が設定された。)
・「城下交易体制」から「商場知行(交易)制」へ
▼国立国会図書館デジタルコレクションのHP 「徳川実録」 コマ番号57を選んでください。慶長9年の頁最後の4行に「蝦夷貿易之制」 の見出しで「蝦夷交易の制三章を授らる」との記事が出て来ます。
▼函館市地域史料アーカイブで 「松前氏の成立 安東氏より独立」 の頁が出て来ます。以下です。アーカイブの全文を載せておきます。

「室町時代の末頃(1573年滅亡)、東北地方の豪族である安東氏の代官として、入港の商船から税を徴収することが主な仕事であった蠣崎氏は、 徐々にその実権を強化していき、第五代蠣崎慶広(よしひろ)は、天正十八年(1590)十二月京都に上って豊臣秀吉に謁見し、 従五位下民部大輔に任ぜられ、安東氏の支配から脱し、蝦夷島の支配を認められた。 次いで文禄二年(1593)一月肥前の名護屋において秀吉に謁し、志摩守に任ぜられ「朱印の制書」を賜わったのであるが、 その法令の内容は次のとおりであった。(新北海道史第二巻所載)

於松前、従諸方来船頭商人等、対夷人、同地下人、非分儀不可申懸。
並航役ノ事、自前々、如有来、可取之。
自然此旨於相背族在之者、急度可言上、 速可被加御誅罰者也。
文禄二年正月五日 朱印               蠣崎志摩守とのへ 

これを書き下し文にしてみると、 
松前に於て、諸方より来る船頭商人等、夷人に対し地下人と同じく、非分の儀申懸くべからず。
並びに船役の事、前々より有り来りの如く、これを取るべし。
自然この旨に相背く族(うから)これあるに於ては、急度言上すべく、速かに御誅罰加えられるべきもの也
   文禄二年正月五日 朱印            蠣崎志摩守とのへ 

この法令の示すところは、松前に来る船や商人から、従来どおり税を取り立てる権利を認めるという内容で、 実質的には安東氏の臣下を脱して、一国の領主として認めるというものであった。 その後、慶長三年(1598)八月秀吉が没し、政治の実権を徳川家康が握ると、 慶広は慶長四年(1599)十一月家康に謁し、蝦夷島地図及び家譜を奉り、この時から「蠣崎」の姓を「松前」と改めている。 次いで慶長九年(1604)家康から黒印の制書を受け、徳川氏の家臣として秀吉の時よりも、より広い権限を持つことになった。 家康から受けた黒印の制書を、書き下し文で示すと次のようになる。
▼ユポさんの上記「松前家文書」読み下し文がつづき)
かくして松前氏は、徳川氏の臣下となり交代寄合の資格(大名に準ずる格式)で、一藩を形成するに至った。 このように松前藩は、蝦夷地に支配地を持つようになったのであるが、最初の実支配地は、 普通和人地と呼ばれた西は熊石より東は亀田に至る限られた地域が中心であり、 それ以外の蝦夷地と呼ばれた地域には、あまり松前藩の勢力は及んでいなかった。 」
▼1643年のヘナウケの戦いの地図の赤ポイントがセタナイです。セタナイから南40qに熊石があります。亀田は函館です。(2020.4.15)

▼「秀吉の朱印状と比較すると、家康の黒印状は松前氏に対するアイヌ交易の独占権の公認という性格をより明確に規定している点で、 両者間に質的な相違が見られた。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館162頁より)
▼9年前の秀吉の朱印状とこの家康の黒印状をよく読み比べてみてください。

▼マルク・フェローの『植民地化の歴史』(片桐祐・佐野栄一訳・新評論)という634頁に及ぶ、 世界の700年間の植民地化の歴史を概括している著書があります。
翻訳者・片桐裕さん 2022.7.4撮影
2017年4月から3カ月かけて読みました。歴史の息づかいが伝わってくる片桐さんの名訳です。
マルク・フェローはその緒言で
「日本人はロシア人がサハリンに、フランス人がカナダに到着するまえの時代に、 エゾを征服し植民地化していたのである」(13頁)

と書いています。
そして本文の「16世紀には日本人も植民地化へ」 との見出しで
「日本人による領土拡張と植民地化は、西洋世界の伝統的歴史が一般に伝えるよりも古い。 …日本による植民地化は、16世紀に西洋が極東に地歩を固めようとあれこれ試みたと時期を等しくするのである。」(89頁)

▼私は衝撃をうけました。アイヌ民族の歴史を勉強して十分過ぎるほど納得しました。
                                  トップへ戻る
1618年 イエズス会宣教師ジェロニモ・アンジェリス、松前公広に会う。 公広「松前は日本ではない」と語る。
▼宣教師 ジェロニモ・デ・アンジェリスについてのHPの記事です。
「ジェロニモ・デ・アンジェリスは1568年イタリアのシチリア島に生まれました。
元和キリシタン跡地
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キリシタン処刑跡地
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リスボンで司祭となり、カルロ・スピノラと同じ船で日本に向けて出港しましたが、 いろんな事情が生じて、出発から4年後の1602年に到着。伏見や長崎でも働きましたが、 禁教下になってからは主に東北で活動し、北海道にも渡りました。
1621年、江戸に呼び戻されて働いている時に、 密告でシモン遠甫と共に捕縛され、小伝馬町の牢に投獄されました。
1623年12月4日(当時19歳)将軍になったばかりの家光の命により、 芝の札の辻で火刑に処されました。」
キリシタン史 江戸初期の大迫害
元和キリシタン遺跡<芝・札の辻>
1620年 イエズス会宣教師デイオゴ・カリュワーリュ、松前と千軒岳の金山でミサを行う 
▼宣教師 ディオゴ・カルワリオ神父Diogo Carvalho S.J.(1578-1624) についてのHPです。
出典は『北方探検記』H・チースリク編のようです。

和人地

「日本北方史の論理(海保嶺夫著)雄山閣、1974年」(拡大)
渡党の広がり
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平山『地図でみる』91p「和人勢力は一時、ヨイチからムカワのラインまで居住しアイヌの人たちと 共住する地域となった。 1457年に始まる100年戦争の結果、和人勢力を松前半島の片隅に追いやった」
▲この100年戦争の評価はすばらしい。(2022.10.7)
1624年 松前藩、蝦夷島を「和人地」「蝦夷地」に区分 ・「城下交易体制」(蝦夷地唯一の城下町・松前城下での商人とアイヌの交易)から「商場知行(交易)制」へ(~1644)
▲1604年家康黒印状から20年、家光の時代、蝦夷地でも新たな動き。今ではよくわかる。 「BURAKU」の頁 家光の時代へ飛ぶ。 参勤交代で江戸に藩邸がある。幕府の情報が地方の藩でもよくわかる時代。
(2022.10.3)


・蝦夷地沿岸部を藩主直轄と上級家臣への知行地と区分(アイヌ民族の居住地に対応する形で商場を設定し、 原則として一つの商場に一つの知行権(交易権)が設定された。)
・特定地域でのアイヌ民族との独占交易権
・鷹場所設定・[知行地・鳥屋(とや)場](鷹待・たかまち)
・鮭漁の開始・漁業権の設定・知行権(大網による鮭の大量捕獲)
砂金掘り集団
・アイヌ民族の通行圏を蝦夷地に限定、松前地への自由往来禁止
・アイヌ民族の「蝦夷地」封じ込め政策
・不平等交易
・河川の汚染、鮭の大量捕獲でアイヌ民族の生活を脅かす
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館より。
「寛永期(1624〜1643)を画期にして蝦夷地が「和人地」(松前地)と「蝦夷地」 という二つの地域に制度的に区分され、かつそれを前提として「蝦夷地」を対象とした商場知行制が成立すると、 「蝦夷地」のアイヌ民族が交易のために奥羽地方に赴くことはいうまでもなく、松前藩主に対する御目見という 政治的儀礼のために松前に赴くことを除けば、松前藩との交易を主たる目的として城下に行くことは事実上不可能となった。
というのも、商場知行制の成立によってアイヌ民族との主たる交易の場が従来の城下から新たに 「蝦夷地」内に設定された各「商場」へと移行していったからである。

つまり、アイヌ民族は、蝦夷島の制度的分断によって 「蝦夷地」のなかに閉じ込められただけでなく、商場知行制の制度的成立によって、「交易の場」じたいさえもが 「蝦夷地」内の特定の商場のみに限定されてしまったのである。」(175頁)

「「商場」は、まさにアイヌ民族に対する支配と収奪を実現するために、アイヌ社会の内部に上から設定された新たな形の 収奪の場、しかも「蝦夷地」内に網の目のようにはりめぐされた収奪の場であった。」(同179頁)

「「商場」が設置された地域はアイヌ社会の基本的な生産と生活の場である河川流域の漁猟場・漁猟圏で、 交易のあり方は、藩主・上級家臣が各「商場」に毎年交易船を派遣して、「商場」内のアイヌと物々交換をするというものであった。」 (同177頁)

「元和・寛永期(1615〜1643)を画期に盛んになった河川流域での砂金場の開発である。 河川での砂金採取業の発展は、河川への鮭の遡上に障害をもたらしただけでなく、鮭の産卵場を破壊する結果を招いた。」(同179頁)


▼「商場」の成立時期の整理
商場知行制の成立は17世紀初頭
寛永期(1624~1644年)集中的に「蝦夷地」の各海岸部に相次いで商場を設置
貞享期(1684~1688年)松前藩、西蝦夷地ソウヤに藩主の商場設置

▼寛永期(1624〜1643)松前藩がアイヌ社会の生活・生業・交易の場であった漁場を「商場」にすることにより、 植民地的収奪の場に変質させたということ。1623年から1651年まで3代将軍家光の時代。 この時代の実態は私を含めほとんどの日本人に意識されていない。(2018.11.09)

▼今日、改めてユポさんの年表の箇条書を読んだあと、榎森先生の解説を読んでみるとユポさんの意図がよく理解できる。
家光は1623年〜1651年まで28年間将軍の地位に君臨する。和暦は寛永・正保・慶安。 おもな出来事を年表(新版日本史年表歴史学研究会編)で拾う。
1623年キリシタン50人を江戸芝で火刑。
1637年天草・島原の一揆。
1639年鎖国の完成。
1643年蝦夷西部のヘナウケ騒動を起こす。
1650年猟師のほか関東中農民の鉄砲所持を禁ずる。(2020.4.18)
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1639年 幕府、キリスト教禁制通達、松前藩、領内キリシタン106人処刑
『海峡の十字架』 松前の百六人殉教    若林 滋 著
豊臣秀吉の天正禁令に始まる日本のキリシタン迫害史は、そのまま殉教史でもあった。 徳川幕府に引き継がれたキリシタン政策は、三代将軍家光の時代に苛烈さを増し、取り締まりと処刑による殉教が本州各地で引き起こされていく。 その弾圧の刃に追われて北へと逃れ、信者たちは津軽海峡を越えて松前へと渡った。 砂金採取に湧き金掘り鉱夫に寛大な松前で、穏やかな信仰生活を得たかにみえた信者たちを待ち受けていたのは、 1639(寛永16)年夏、強まる迫害の中で起きた松前藩による信者106人の斬首だった。

クリスチャンでも研究者でもない筆者がキリシタン殉教に取り組んだのは、二〇一二年秋急逝した友人の勧めによるものでした。 彼が倒れる直前、ぜひ蝦夷キリシタンの殉教を書いて欲しい、と言われたのです。
殉教ゆかりの地を訪ね資料や文献を読み、命を賭した信仰と伝道に深い感銘を受けると同時に、 徳川幕府と諸大名の迫害の非道さ残酷さ、親と共に殉教した幼子たちの斬首の記述に震えました。

「キリスト信者は自分の幸せのために洗礼を受けるのではない。イエス・キリストと共に愛に生きるため、 神の栄光のために受けるものであり、殉教もお恵みであり、神のなさる業なのである」
続橋師は著書の中でこう述べています。

▼「殉教もお恵みであり、神のなさる業なのである」。 この呪縛から信徒が解かれるのは20世紀ローマ法王ヨハネ・パウロ2世によってである。 1981年。広島のカトリック教会の神父深堀升治さんは 「自身の被爆体験を話すことは神の計らいに愚痴ることになる」と考え、 あの日の思いはずっと封印してきたが、 その考えを変えたのは、ヨハネ・パウロ2世の広島訪問時の「戦争は人間の仕業です」のことばだった。(2019.11.17朝日新聞朝刊) (2020.7.2)

1643年 ヘナウケの戦い(西蝦夷地、シマコマキ、セタナイのアイヌ民族)
▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館180〜181頁)
せたな・島牧・駒ヶ岳 シマコマキはセタナイから約35q北の村、駒ヶ岳は80q南(拡大)

ヘナウケの戦い 平山『地図でみる』108p
「この戦いの後、シマコマキより北の、シャコタン半島周辺やイシカリ湾沿岸でも、商場知行制が行われるように なった。」
▲この指摘、すばらしい。(2022.9.6)
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「1643年のヘナウケの戦いは、松前藩成立(1604)後、最初のアイヌ民族の戦いであった。
松前藩は寛永期(1615〜1643)に集中的に「蝦夷地」の各海岸部に相次いで一方的に商場を設置し、 その結果、セタナイは谷梯(やにはし)氏、シマコマキは並川氏の商場となった。
砂金堀り2
セタナイ・シマコキ(拡大)
『瀬棚町史』(拡大)
こうした商場の設置が、それまでのアイヌ社会内部における一大交易地というセタナイの位置に大きな打撃を与えたであろうことは推察に難くない。
1640年6月13日、駒ケ岳の大噴火。津波により昆布採り船100余隻が一瞬にして波に呑まれ、和人・アイヌ、計700余名の死者を見た。
1631年以降、シマコマキでも砂金の採掘が行われるようになった。砂金の採掘は水路を変え、 砂床を掘るのでアイヌ民族の鮭漁に大打撃を与えたことは推測に難くない。
1643年に、セタナイ地域のアイヌ民族がいち早く一斉に反松前藩の行動に立ち上がった背景には こうした事情が事情が潜んでいたものと見られるのである。」
▼wp:
ヘナウケの戦いは、1643年に渡島半島西部で起こったアイヌの首長ヘナウケによる松前藩との戦い。
寛永20年(1643年)、シマコマキ(現島牧郡島牧村)の首長ヘナウケが松前藩に対して蜂起を開始。
セタナイ今金 地理院地図(拡大)
今金地区は河口から15キロ程上流に突如現れる町。 たぶん往時の金堀り人たちが拓いた町だろう。(2022.2.9)
この蜂起の背景として、まず金掘り(砂金掘り)の存在があげられる。元和2年(1616年)から蝦夷が島(現北海道) においてゴールドラッシュが発生し、
佐渡金山(拡大) 佐渡金山は1601年開山。1603年江戸幕府の天領。この流れに蝦夷が島のゴールドラッシュもあると思う。(2022.2.11)
多数の金掘りが本州から渡って来た。寛永8年(1631年)にはシマコマキでも砂金の採取が始まっている。 また蜂起の3年前にあたる寛永17年6月13日(1640年7月31日)には内浦岳(現駒ヶ岳)が噴火しており、松前では14日から15日にかけて 空が火山灰に覆われ闇夜のような状態になったという。
この噴火によって渡島半島周辺は大きな被害を受け、翌年の夏には亀田の金掘りが津軽に逃亡するという事件も発生している。
この天災が蜂起の一因になったと見られている。
▼二つの見解を読み比べて榎森進氏の分析の深さを実感する。
                                       トップへ戻る
『新羅之記録』 (拡大)
熊本藩の密偵 朝日朝刊2023.5.20
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1646年『新羅之記録』(松前藩の正史・松前景広編)成る。
越前敦賀、三井寺、新羅大明神、奉納  
▲熊本藩を調べる。「天正16年(1588) 加藤清正、肥後北半国19万5千石の領主として隈本城(古城)に入る 慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い。この頃大天守完成 慶長12年(1607) 新城が完成し、隈本を熊本に改称 慶長16年(1611) 清正、49歳で死去。息子忠広が二代藩主となる 寛永9年(1632) 加藤家が改易となり、細川忠利が肥後へ入国」。細川家で今もつながる。(2023.5.21)
1669年 「シャクシャインの戦い」(寛文9年)
「砂金採取や木材伐採で自然を荒らし、暴力的に詐欺的交易を強行、アイヌ民族の漁業を妨げる大網漁業を 蝦夷地に拡げる和人勢力に対して本格的な民族の戦いを組織した。」

平田剛士|2018年11月21日10:30AM
アイヌ英雄像差し替えが暗示する政府の“だまし撃ち”
シャクシャイン像差し替え (拡大)

2018年10月28日、旧像が取り壊され台座のみが残る真歌公園で、最後まで旧像存続を訴えていた顕彰会会員たちがイチャルパ(慰霊の儀式)を執りおこなった。 参加者の一人はこう語った。「350年前と同じことが今またアイヌに対して繰り返されているのではないか」。


「松前藩は、幕府の支援体制のもとに鉄砲を用意、
和人の鉄砲 (拡大)
(拡大) 1543年鉄砲伝来。
1544年国産銃完成。
2023.5.10朝日夕刊 ポルトガル人漂着ではなかった、と。中国船とも(拡大)
シャクシャインの軍勢を破り、 最後は偽りの和睦でシャクシャインを謀殺、松前藩とアイヌ民族の力関係は、決定的な、和人優勢の関係となった。 この力関係を背景に18世紀にはいると経済的関係も変わり、特定の商人に蝦夷地各場所の対アイヌ民族交易、 漁業の権益を与え、かわりに運上金を上納させる「場所請負制」が一般化した。」
砂金堀り シブチャリ(拡大)
平山『地図でみる』107p
英雄時代の定義(拡大) 海保峯夫『日本北方史の論理』78頁
▼砂金採取に関してピクシブ百科事典 の「寛文蝦夷蜂起」を読んでみて驚いたのは
「当時三万とも五万とも居たといわれる本州からの出稼ぎ者。シブチャリには三つの金山があったらしい」 とあります。この記事の真偽のほどはよくわかりませんが、砂金採取の熱狂を伝えていると思います。
日高の歴史 砂金 https://www.hidaka.pref.hokkaido.lg.jp/hk/kks/summaryhidakahistory2.html
・蝦夷地の鉱業は、江戸時代初期からの「砂金が最初だろうが」、1604年(慶長9年)に幕府は松前藩に金山管理を一任。
・しかし寛永年間(1623年〜)をピークに「砂金源は乱採取で急速に枯渇」。
・日高も寛永年間に全盛を極めたが、1668年(寛文8年)のシャクシャインの乱で、和人(採金抗夫)が介在したため、 「これを契機に坑夫が東蝦夷地に入ることを禁じ」、日高鉱場は急速に衰える。

▲「寛文蝦夷蜂起」から
新冠(にいかっぷ)戦  シャクシャイン対佐藤権左衛門季信。
「和睦を祝う酒宴の奇襲戦。酒宴会場となった小屋は焼き討ち、脱出したシブチャリ軍の主要人物も殺害される。 シャクシャイン、カンリリカ、チクナシはこの戦闘で死亡。」
▲佐藤権左衛門季信は74歳だったという。卑怯な策士。(2022.9.6)
▼ 同HP「ピクシブ百科事典」の シブチャリ周辺
「シブチャリ(渋舎利、染退、シベチャリとも)とは現北海道新ひだか町にある河川名。 メナシクル、ハエクル、金堀の各集団がいる」
とあります。メナシクルとはアイヌ語で東の人、という意味。 蜂起が西から東に移ってきた、と感じました。(2020.4.16)
▲平山『地図でみる』107p
「当時、松前の和人の人口は1万人ほどであったが、 1620年に松前に来たカルワーリュは、その人数が昨年 は5万人を越え、本年も3万人以上いるだろうと書いている。 商場知行制はゴールド・ラッシュとともに一気に広がっていったものと思われる。」
商場知行制の広がりをゴールド・ラッシュと結びつける。慧眼。(2022.9.5)
▼wp:北海道アイヌ シャクシャインの戦い前後のアイヌ地域集団
出典が海保峯夫『日本北方史の論理』であることを確認。海保さんの「英雄時代」を勉強すること。(2021.9.25)

墓標の型式・昭和6年調査(拡大) 河野広道『北方文化論』
著作集T 97頁
78p「英雄時代ー初歩的な国家が成立した時代。寛文9年の段階でシャクシャインあるいは他の惣大将が蝦夷地全域の最初の統一的君主となる(真の民族的統一が達成される)可能性を示唆したもの と考えるべきであろう。」
118p「寛文期の五つの地域集団は、17世紀全般にわたるアイヌ民族の国家形成への 胎動期というべき英雄時代の所産であると考える。」

▼海保さんのこの総括はとても重要。昭和6年の河野さんの墓標の型式という文化研究と自身の寛文期の政治勢力分布のという 政治研究を結びつけたこと。さらに寛文期の五つの地域集団を国家形成への胎動期との指摘したこと。二つの大きな功績を感じる。(2021.9.28)

寛文期の5つの集団
(拡大)
海保峯夫『日本北方史の論理』118頁
十勝のアイヌ文化と川
シベチャリチャシ
「十勝のアイヌ文化」(拡大)
シャクシャインとオニビシの勢力図 「十勝のアイヌ文化」(拡大)
▼アイヌの人たちは国家形成の一歩手前行ったが、ついぞ国家を持つに至らなかった。
一方琉球では、「14世紀初頭から15世紀初頭までが三山(さんざん)時代とよばれる時代で、 海外貿易による経済力の拡大とともに、琉球王国 の形成に着実につき進んでいきました。 15世紀にはいると、南部からでてきた按司・尚巴志(しょうはし)が頭角をあらわし、 1422年、北山の今帰仁グスクを、1429年には南山の島尻大里グスクを滅ぼし、琉球王国が誕生します。」
琉球で言う三山時代は、アイヌの場合はシャクシャインを筆頭に五つの地域の英雄時代に相当します。
「アイヌモシリの会」は五つの集団を統合したような準国家的なものにできないか?夢想しています。(2021.9.25)

ピンク色のメナシクル地域の首長がシャクシャイン
Wikipedia(拡大)
シャクシャイン攻撃経路62p(拡大)









『日本北方史の論理』
「西エンヂウ(余市アイヌ)とは北海道、樺太の日本海岸の、かつての山丹交易のルートに沿って分布している系統。」 (115p)「内浦アイヌがシュムクルを通り越してメナシクルと近い関係にあった。」(117p)
上 寛文内浦アイヌ
下 昭和シュムクル
116p(拡大)
上 寛文余市アイヌ
下 昭和西エンヂウ

114p(拡大)
上 寛文石狩アイヌ
下 昭和シュムクル

111p(拡大)
上 寛文メナシクル
下 昭和メナシクル

『日本北方史の論理』
107p(拡大)
上 寛文 サンクル
下 昭和メナシクル
103p(拡大)
▲サッポロはサンクル












▲民族の誇り・英傑シャクシャインと現代アイヌ民族を直結させること。アイヌの英雄をこころの拠り所にしたい。(2021.9.30)
 **搾取植民地**(搾取植民時代)
・不平等交易、オムシャ交易(商人の進出)、鷹狩り、砂金掘り、イオルの破壊 商場交易=商人の進出=商人への経営(交易)権の委譲=請負 近江(近畿)商人の進出、両浜組=近江商人団、荷所船(にどこふね) 商人による松前藩への融資、交易体制
両浜組 https://kousera.exblog.jp/5532564/
1602年(慶長7年)津軽の鯵ケ沢に出店を開設し活躍していた柳川(現在の彦根市)出身の田付新助は、 共に活躍していた同郷の建部七郎右衛門と一緒に、1610年(慶長15年)北海道の松前に渡り、 福山に出店を開いて、本州との交易に従事しました。
岡田八十次 石橋彦三郎
〒047-   : 小樽市
1610年(慶長15年)田付新助は同郷の建部七郎右衛門と一緒に北海道の松前に渡り、福山に出店を開く その後、薩摩(現在の彦根市)出身の宮川権右衛門や八幡商人であった岡田弥惣右衛門、西川伝右衛門たちがつづく
福山 (拡大)

八幡、柳川・薩摩の商人たちは、「両浜商人」と呼ばれ、松前藩との間に場所請負人のとりきめを交わし、幕末まで大いに活躍した
一方、枝村(現在の豊郷町)出身の藤野喜兵衛は
1806年(文化3年)松前藩から数か所の場所請負を許可され
1817年(文化14年)千島、 国後島を手始めに根室、花咲、目梨、色丹島、択捉島を請負って活躍し、北海道や北方領土の産業の発展に尽くした

〒049-    : 松前郡松前町
福島屋   田付新助 柳川出身
材木屋   建部七郎右衛門元重 柳川出身
恵比須屋  岡田弥三右衛門 八幡出身
畑屋     山本七左衛門 柳川(薩摩)出身
住吉屋   西川伝右衛門 八幡出身
近江屋   西川市左衛門 八幡出身
柏屋     藤野嘉兵衛 近江愛知郡下千枝村出
井筒屋    大橋久右衛門 柳川出身
扇屋     柴谷長兵衛 柳川出身

▲2022.6.30小樽平山ツアー。恵比寿神社があった。記憶でメモ。(2022.7.5)

▲このコーナーで北海道と琉球、さらに中国とのつながり、仲介としての富山の位置、これをを明らかにしたかった。 こんぶと薬。北前船。西廻り航路の開拓。いずれも家光の時代から元禄にかけて準備された。この本州の活発な動き。 これの蝦夷地への波及を考えること。(2022.10.3)

琉球「こんぶロード」
こんぶロード (拡大)
京都鰹節 (拡大)
薩摩藩と松前藩、つまり現在でいえば鹿児島と北海道を結ぶ海上交易ルートが存在した。そのメインの商品が昆布だった。
そこに深く関わっていたのが、越中富山の「クスリ売り」と近江出身の「両浜商人」(柳川&薩摩)だったのだ。
北前船のメインの商品は、昆布だった。
そして帰り荷には、珍しい中国の漢方薬の原材料が越中富山に運ばれていた。

北海道・松前→越中・富山→近江→京都・大阪
北海道・松前→越中・富山→(出雲)→下関→大阪
北海道・松前→越中・富山→(出雲)→下関→薩摩→琉球・沖縄→中国(清)
京都鰹節
http://www.kyoto-katsuo.co.jp/konbu.html
北前船 (拡大)
万葉の昔では、貴重な薬として、また平安時代では特権階級の食物とされておりました。
昆布が広く庶民の食べ物として普及していくのは、18世紀西回り航路が開かれ、蝦夷地、東北から大阪まで、 大量に、安く、早く、安全に物資を輸送することが可能となり、北海道と上方との間で物資の売買が盛んに行われるようになってからです。
北前船は当初、北海道と畿内を結ぶルートは、海路で小浜・敦賀に至り、そこから琵琶湖を渡ると言うものでした。
それゆえ中継地点の敦賀では昆布の加工業が早くから盛んになりました。
その後、北海道から下関を経由して、海路のみで大阪に至る西廻り航路が開通し、より多くの昆布が直接、大阪に荷揚げされるようになりました。

富山藩
富山藩主 前田正甫 (拡大)
1639年に加賀藩から分藩した富山藩は多くの家臣や参勤交代、江戸幕府から命じられた委託事業(手伝普請など)、 生産性の低い領地といった要因で財政難に苦しめられていた。そこで富山藩は本家の加賀藩に依存しない経済基盤 をつくるために産業を奨励した。その一つに製薬(売薬商法)があった。
17世紀終期、富山藩第2代藩主・前田正甫(まさとし)(1649年〜1706年)が薬に興味を抱いて合薬の研究をし、 富山では最も有名な合薬「富山反魂丹(はんごんたん)」が開発された。
▲元禄時代にはじまった。(2022.10.3)

・石狩アイヌ首長「ハウカセ」
「松前の殿は松前の殿、われわれは石狩の大将に候えば、松前殿に構え申すべきも無之候。又は松前殿も此の方へ構え申義もなるまじく候。 商船此方へ御越しなられまじく候とも、別にかまいござなく候。 総じて昔より蝦夷は米酒下されず候。魚・鹿ばかり下され、鹿の皮を身に着け、たすかり申すものにござ候。 商船御越成られ候義も御無用の由申し、通路の者返し申し候由。其上商船御越しなられ候わば、一人も通し申すまじく候」 「蝦夷風土記」(新山質)
▼北海道大学北方資料データーベースで 「蝦夷風土記」 が読めます。
蝦夷風土記より

寛文9年
シャクシャインの記事
(拡大)
日高アイヌオムシャの図
(市立函館図書館所蔵)『アイヌ民族の歴史』
p207


ウイマムとオムシャ
(拡大)
wp:オムシャとは、もともと松前藩とアイヌの間の交易上の交歓の意味の儀礼であったが、 後に交易や漁労の終了時のアイヌに対する慰労行事となり、更にアイヌ統治の手段として転化していくことになる。 儀式の執行者は当初は場所請負制の下で請負を行った商人であったが後には松前藩もしくは江戸幕府の役人が行った。
▼右の図。支配の儀式であることがはっきりしている。(2020.1.30)


津軽一統志表紙
1コマ(拡大)
津軽一統志の蝦夷地図

169コマ。170コマから寛文9年の記事(拡大)
ハウカセの啖呵

271コマ。(拡大)
▼上記石狩アイヌ首長「ハウカセ」の歌舞伎の「啖呵」のようなセリフの原典と背景。
これは寛文10年6月24日の津軽藩士牧只右衛門・秋元六左衛門の石狩での聞き取り調査の記録です。 原典は『津軽一統志』です。
原文は「北方史史料集成【第四巻】210頁 翻刻・解説 海保嶺夫1998年6月20日発行・北海道出版企画センター」 に依ると次のようになっていました。
「松前殿は、松前の殿、我等は石狩の大将に候得は、松前殿に講可申様も無之候。
又は、松前殿も此方え構申義も成間敷候。
商船此方え御越可被成も被成間敷にも別て構無御座候。
惣て昔より蝦夷は米酒不被下候。魚鹿計被下、鹿の皮を身に着、 たすかり申物に御座候。
商船御越被成候義も御無用の由申、 通路の者返し申候由。其上商船御越被成候はゝ、一人も通し申間鋪候由と、物語仕候事。」(『津軽一統志』)巻第十之下)

▲イシカリ首長ハウカセ。
「本来のアイヌ文化とは、和人の従属物ではないぞ」という気概がある。
「シャクシャイン後、和人が1年の一定時期に交易に来たら、あとは和人地に戻るようになった。和人の進出に制限を加え、 約200年間和人がアイヌモシリで居住することを止めた。」(平山『アイヌ民族の現在』55p)

つまり明治2年、1869年まで止めた、ということ? (2022.7.25)



日本差別史関係資料集成第8巻
第8巻 日本差別史関係資料集成 (近世資料篇3: アイヌ研究1) The Collected Historical Materials of Japanese Discriminations in Yedo Era (III): The Study of Ainu Race I 〈2012/平成24年5月刊行〉

本巻においては、中世以降、松前藩と大商人による過酷な労働搾取により受難 の歴史を余儀なくされたアイヌ民族の経済的・政治的な支配の歴史を実証するために編纂された。
アイヌ民族の生活・民俗を詳細にかつ美麗な筆で描いた「蝦夷島奇観(えぞがしまきかん)」及び 「蝦夷國奇観(えぞのくにきかん)」、シャクシャインの蜂起とその政治的・経済的な背景を詳述した「津軽一統史」を、 原文に解読文を加えて掲載した。この巻を所蔵している機関は少なく、 編者は、善本と推定される「弘前市立弘前図書館岩見文庫所蔵本」を使用した。

シャクシャインの叛乱
アイヌ民族対大和民族の抗争は、コシャマインの戦い後も一世紀にわたって続き、 最終的には、武田信広を中心にした大和民族が支配権を確立することとなった。しかし、松前藩の成立後も、アイヌ民族の大規模な蜂起は起こっている。
十五世紀頃から始まった交易や幾多の抗争などによって、蝦夷地は文化的・政治的に統合され、十七世紀に至っては、 河川、海浜、山林を中心とした複数の狩猟場、漁労場などの領域を含む、広い地域を政治的に統合する、惣大将と呼ばれる有力首長が現れていた。
シャクシャイン、イシカリの首長ハウカセ、ヨイチの八郎右衛門、シリフカのカンニシコルなどがこれに相当する。 シャクシャインはその中でも武勇に優れたアイヌ民族の指導者であった。  
太平の夢を結ぼうとするこの時代に、蝦夷地を支配していた松前藩と江戸幕府にとっては、一六六九(寛文九)年六月のアイヌ民族の叛乱は、 青天の霹靂のごとき、体制を揺るがすような大事件であったに相違ない。

カンニシコルの訴状(吉田かなっぺHP)
岩内町 (拡大)
「請負人は松前(福山)に住んでいて、雇い人(アイヌ語通訳・帳場・番人など)を漁期になると場所に派遣して、 アイヌを働かせて漁獲物を松前に送ります。 雇い人は漁期が終わると松前に帰りました。」
▲請負人の実態が手に取るように分かる。(2022.9.13)
「シリフカ(堀株)(現岩内町)のアイヌ酋長カンニシコルの訴状 ・・・松前志摩守様の時には、米二斗入り大俵でもって干鮭五束(100本)との御交換でした。近年 蔵人(くらんど)様の扱いになってからは、米七、八升入にて干鮭五束ずつの御交換・・・松前よりお越しになり・・・鮭を自由気ままにとり・・鮭がなくなり、私たちは餓死します・・・ -「津軽一統史」より- 寛文9年(1669年)の頃」


「松前藩は蝦夷地を約 85ヵ所の「場所」と呼ばれる区画に分け,その区画での交易権を知行 (ちぎょう) として上級家臣に与えた。」
徳川幕府の北方政策―蝦夷地の内国化とアイヌへの同化政策 堀込 純一 http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129/ainudoukasaku.html
『アイヌ民族の歴史』(山川出版2015)によると、「元文年代(一七三六〜四二)には、このような場所請負の形になっている例が拡大していて 、藩主直領の場所など数カ所を除いて、その他はすべて請負場所になっていた(「蝦夷商賈聞書」)。一八世紀後半には、 藩主直領も請負場所になっている。」(P.94)のであった。
場所の位置

場所(点から面へ) ▲場所が点でなく面になっている様子がわかる。(2022.9.13) (拡大)

コタン・イオル
(拡大)
場所請負制の盛んな「天明年間(*1781〜89年)には、東蝦夷地場所三八、西蝦夷地〔場所〕四〇、計七八場所あった。」 (『北海道の歴史』山川出版社 1969年 P.68)と言われる。図表5は、同書(P.68)による。
「場所請負人は、当初商場で交易を行っていたが、次第に運上金を回収し更なる収益を挙げるべく、 商場に集うアイヌ集団の領域を面として捉え、大網を導入しアイヌを雇用しての漁業経営を行うようになる。 商場交易から場所経営への転換」(谷本晃久著「近世の蝦夷」 P.86)である。

大西秀之論文2006.1.7 https://www.chikyu.ac.jp/sociosys/PDF/onishi-04.pdf
イオル論
「領域」、「生活の場」を意味する
←コタン(集落)と対概念
←「ナワバリ」的な占有権は含まず?

商場知行制から場所請負制への移行
東蝦夷地:寛政11年(1799年)までに移行
西蝦夷地:文化4年(1807年)までに移行
→場所設置による行政区分
→自立的な生計活動から和人との交易を前提とした活動に移行
→自分稼ぎと請負人による労働力提供

 
この時代の経済情勢を俯瞰してみよう。当時、アイヌ民族は松前城下や津軽や南部方面まで交易舟を出し、 大和民族の生産した鉄製品、漆器、米、木綿などと、彼らの産物である獣皮、鮭、鷹羽、昆布などと交換していた。
しかし、十七世紀以降、幕藩体制が成立すると、幕府によりアイヌに対する交易権は、松前藩が独占して、他の藩には禁じられることになった。
アイヌ民族にとっては、対和人交易の相手が松前藩のみとなったことを意味し、自由な交易が阻害されることとなった。 この事は、松前家の事跡を記した「新羅之記録」により、豊臣秀吉から、蠣崎家に交易の独占を保証する朱印が与えられていることが見て取れる。 江戸時代にあっては、徳川家の歴史を記した「徳川実紀」によれば、徳川家康から黒印状を与えられ、交易の独占権をより強固なものとすることが 可能となった。
年貢としての米を徴収出来ない松前藩にとって、アイヌ民族との一方的な交易は、超過利潤とも言える、莫大な不当利益を得るための、 強権的な搾取システムを形成することになったといっても、過言ではない。五公五民どころではない、 このような搾取のシステムの基本構造となったものが「場所請負制度」と「商場知行制度」である。
幕府権力を背景にした松前藩は、十七世紀後半には、アイヌ人との交易は、松前城下などでの交易から、 「商場知行制度」に基づく交易体制へと移行した。

これは、松前藩が蝦夷地各地に「知行主」(松前藩主、藩主一族、上級藩士など)と彼らの「知行地」である「商場」を設定して、 「知行主」は直接「商場」に出向き、そこに居住するアイヌ民族との交易する権利を与えられた。
その「商場」に居住するアイヌ民族にとっては、和人との交易が特定の「知行主」に限定される不自由な交易体制であった。 この「商場知行制度」により、交易の権利は次第にアイヌ民族に不利なものとなっていった。また、和人からアイヌ民族に交易を一方的に強要する 「押買」の横行や、大名の鷹狩用の鷹を捕獲する鷹侍や砂金掘りの山師が蝦夷地内陸部を勝手に切り開く行為、 松前藩船を用いての大網による鮭の大量捕獲などが、アイヌ民族の生活基盤を脅かし、和人への不満は大きくなっていった。 アイヌ民族が交易に応じない場合、「子供を質に取る」と脅迫していた証言も得られている。

もう一つの搾取の柱が、「場所請負制度」である。徳川幕府からアイヌ民族との交易の独占的権利を一六七二年に保証された松前藩は、 大商人に交易の権利を委託し、彼らから徴収する請負金を藩の収入の源の一つととしていた。その際、アイヌ人との取引は、 法外な利益を大商人にもたらしたのみならず、松前藩にとっても、圧倒的に有利な交易であったと言える。
一例を挙げれば、シャクシャインの戦い前夜の一六六五(寛文五)年には、松前藩は、財政難を理由として、一方的に、 従来の米二斗で干鮭百本の交換比率を、米七升で干鮭百本に改定した。米一斗で乾鮭五十本が、十四本に変更され、 約三倍近くも価格が上昇していることになる。まさに、全国的な飢饉が発生している時期にである。 また、蜂起が起こる二年前の一六六七(寛文七)年、松前藩は米三千俵の拝借を幕府に要請していて、困窮ぶりが窺える。
さらに、前述した、鷹狩り、金採掘、千島列島などでの漁業の際の苦役の強制である。また、戦いの後の和睦のための貢ぎ物のアイヌ人からの 強制的な取得など、法外とも言える搾取の構造はさらに強化されていく。

 シャクシャインの戦いは、一六六九(寛文九)年六月に、シブチャリの首長シャクシャインが指導した、 松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起である。「寛文」年間に発生したことから、「寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)」とも呼ばれる。
事件の経過は以下のように記述される。
シブチャリ以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団メナシクルと、シブチャリからシラオイにかけてのアイヌ民族集団であるシュムクルは、 シブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いを続けていた。
シャクシャインとオニビシの勢力図 「十勝のアイヌ文化」(拡大)
両集団の対立は、文献においては多くの死者が出たとされる一六四八(慶安元)年の春の戦いまで遡ることが出来る。 メナシクルの首長であるカモクタインや、シュムクルの首長であり、ハエに拠点を持つオニビシもまた惣大将である。 シャクシャインはメナシクルの副首長であり、カモクタインが一六五三(承応二)年にシュムクルによって殺害されたために首長となった。
惣大将間の抗争を危惧した松前藩が仲裁に乗り出し、一六五五(明暦五)年、両集団は一旦講和に応じた。 この事件が契機となって、シュムクルと松前藩が接近する。
しかし、一六六五(寛文五)年頃から両者の対立が再燃し、一六六八(寛文八)年五月三十一日(寛文九年四月二十一日)、 オニビシはメナシクルによって殺害される。
シャクシャインにオニビシを殺されたハエのアイヌは、松前藩に武器の提供を希望するも拒否されたうえ、 サルの首長ウタフが帰路に疱瘡にかかり死亡してしまった。このウタフ死亡の知らせは、和人への不信感も相まって、 アイヌ民族には「松前藩による毒殺」と誤って伝えられた。この誤報により、アイヌ民族は松前藩ひいては和人に対する敵対感情 を一層強めることになった。

シャクシャインは蝦夷地各地のアイヌ民族に向けて、松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応した。
こうして事態は惣大将や地域集団同士の争いから、多数のアイヌ民族集団による松前藩に対する蜂起へと移行した。
 一六六九(寛文九)年六月二十一日(寛文九年六月四日)、シャクシャインらの呼びかけにに応じて、 イシカリ(石狩地方)を除く、東は釧路のシラヌカから西は天塩のマシケ周辺において、一斉蜂起が行われた。
鷹待、砂金掘り人、交易商船に乗り組む船員、水主、通詞などを襲撃した。突然の蜂起において、 東蝦夷地では二百十三人、西蝦夷地では百四十三人の和人が殺された。
一斉蜂起の報告を受けた松前藩は、家老の蠣崎広林が部隊を率いて胆振のクンヌイに出陣して、シャクシャイン軍に備えるとともに、 幕府へ蜂起を急報し、援軍や武器及び兵糧の支援を求めた。幕府は松前藩の求めに応じ、津軽藩、盛岡藩、秋田藩に対して、 蝦夷地への出兵準備を命じ、と同時に、松前藩主松前矩広の伯父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣した。 津軽藩兵は杉山吉成を侍大将にして、松前城下での警備にあたった。

シャクシャイン軍は松前をめざして進軍し、同年七月末にはクンヌイに到達して、松前軍と戦闘を展開した。戦闘は八月上旬頃まで続いたが、 シャクシャイン軍の武器が弓矢主体であったのに対し、松前軍は鉄砲を使用していたこと及び内浦湾一帯に居住するアイヌ民族集団と分断され、 協力が得られなかったことなどが原因で、シャクシャイン軍に不利な情勢となった。
このために、シャクシャインは後退し、松前藩との長期抗戦に備えた。同年九月五日(八月十日)には、松前泰広が松前に到着、 同月十六日(八月二十一日)、クンヌイの部隊と合流し、同月二十八日(九月四日)、軍勢を指揮して東蝦夷地へと進撃した。 さらに松前泰広は、幕府権力を背景にした恫喝により、アイヌ民族間の分断とシャクシャインの孤立化を進めた。

シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えを変えなかったために、 戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前藩は謀略をめぐらし、 シャクシャインに和睦を申し出た。
シャクシャインはこの和睦に応じ、十一月十六日(十月二十三日)、 ピポクの松前藩陣営に出向き、和睦の酒宴の最中に謀殺された。
戦いに勝って謀略にやぶれる 山川力(拡大)
この他、アツマやサルに和睦のために訪れた首長なども同様に、謀殺あるいは捕縛された

翌十七日(二十四日)、シャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落した。
指導者層を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。
翌一六七○(寛文十)年、松前軍はヨイチに出陣してアイヌ民族から賠償品を取得し、 各地のアイヌ民族からも賠償品を受け取り、松前藩への恭順の確認を行った。戦後処理のための出兵は一六七二(寛文十二)年まで続いた。

このシャクシャインの戦い以降、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至った。
その後、松前藩はアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文によって服従を誓わせた。 これにより松前藩のアイヌに対する経済的かつ政治的支配は、緩和策をとりながらも、 さらに強化された。
また前掲の「津軽一統志」にみられるように、惣大将というアイヌ有力首長によって統一されていた広大な地域は、 「商場知行制度」や「場所請負制度」が発展及び強化により、場所ごとに分割され、 独自の自立性をもつアイヌ民族の文化や政治的な主権は剥奪され、地域的な政治結合も解体されていった。


▼かなり長い紹介です。しかし、アイヌ民族の内部事情、松前藩・江戸幕府の危機感と対応の狡猾さ、さらに この戦いの後のアイヌ社会の変容も説得力をもって解説されていると思い、長さに対するご批判を覚悟のうえで紹介いたしました。
▼このシャクシャイン以前のアイヌ社会に戻すことが今日的課題。(2020.4.16)

wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%82%A5
金肥(きんぴ/かねごえ)とは、購入肥料(こうにゅうひりょう)とも呼ばれ、 農家がお金を出して購入する肥料を指す[1]。これに対し、 刈敷・草木灰・厩肥など農家による自家生産が可能な肥料を自給肥料と呼ぶ[2]。
日本では江戸時代中期に都市の発達による商品作物流通の増加と貨幣経済の発達が、 金肥の需要・供給の双方の増加をもたらした。この時代の金肥の代表格は干鰯(ほしか)・鰊粕 などの魚粉や菜種油・胡麻油・綿実油などを生産する時に生じる油粕などであり、 特に干鰯は都市に干鰯問屋が形成されるなど広く用いられた。
▲金肥がキーワード。これを作るためにアイヌは強制移住、強制労働させられた。 (2022.10.2)
wikipedia:参勤交代
(拡大)
参勤交代地図 (拡大)
各地方の主な藩の江戸までのおおよその道程・日数・大名行列の諸表[21] 現在の地方 藩 石高 藩庁 道程 日数 行列規模 経費

伊達家・仙台藩 63万石 仙台城 92里(368km) 8-9日 2,000-3,000人 3,000-5,000両
前田家・加賀藩 103万石 金沢城 119里(480km) 13日 2,000-4,000人 5,333両
池田家・鳥取藩 33万石 鳥取城 180里(720km) 22日 700人 5,500両
伊達家・宇和島藩 10万石 宇和島城 255里(1,020km)30日 300-500人 986両
島津家・薩摩藩 77万石 鹿児島城 440里(1,700km)40-60日 1,880人 17,000両
江戸からの距離によって異なるが、参勤交代の費用は藩収入の5%から20%、江戸藩邸の費用を含めれば50%から75%があてられた。
▲この制度の導入も社会的に、経済、文化への影響が甚大だった。ともかく家光の時代の変革は巨大。(2022.10.2)

▲1669年の本州は?「BURAKU」の頁へ(2022.10.2)
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1670年  松前藩、「アイヌ仕置」西蝦夷地ヨイチ(弘前藩領のアイヌを通辞として同行)
「起請文」
1 殿様にどのように仰せられようとも、孫子一同ウタレ男女に限らずそむきません。(子々孫々に至るまでウタリ男女、松前藩への無条件の服従)
2 仲間で逆心する者あれば充分意見致し聞かなければ早急にお知らせ致します。(謀反人の密告義務)
3 殿様の御用にてシャモが浦々に来た場合には手抜かりなくお世話いたします。シャモが自分の用で来ても充分ごちそう致します。 (蝦夷地におけるシャモ通行の保証。遊びでも・ご馳走)
4 鷹侍や金堀にもじゃませず手抜かりなくお世話いたします。(鷹師・金堀夫への乱暴の禁止)
5 商船にはわがままを申さず、他国よりの物は買わず、私たちの産物は他国に売らず、他国の産物など持参するときは仰せの通り致します。 (交易船への乱暴の禁止と他藩との交易の禁止。余所の国)
6 これからは米一俵に毛皮五枚、干し鮭五束とし、交換物は米に応じて取引します。産物の多いときは米に比べて値を下げても良いです。 (交易の価格の規定。交渉の禁止・向後値上げなし)
7 殿様の御用の状使い、鷹送り、伝馬、宿送りには昼夜を問わず手抜かりなくお世話致します。鷹の餌にする飼い犬は無料で早々に差し上げます。 (状使・鷹送り・伝馬・宿送りの保証)
 右の旨孫子一同男女に限らず叛きません。もしそむくものあらば、神様の罰を受け子孫が絶え果てますまで起請文の通り約束を致します。
▼「この起請文は、松前藩への無条件の全面的な服従を強要したものであった。」 (榎森進『アイヌ民族の歴史』204頁)(『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』『蝦夷蜂起』)
▼貝沢正さん『アイヌわが人生』190p「この起請文を読むのさえ私達アイヌの血は怒りに燃えます。 アイヌは骨抜きにされ、シャモに対して従順にさせられた。」今日、この一文に出会いました。全く同感です。 だから貝澤さんの無念を晴らしたいのです。(2021.3.27)
1671年 「アイヌ仕置」東蝦夷地シラオイ
1672年 「アイヌ仕置」噴火湾沿岸クンヌイ
江戸の商人河村瑞賢 (拡大)
寛文11年(1671)冬、幕府より陸奥国伊達地方(福島県)の幕府領地米を江戸に廻漕することを命じられた江戸の商人河村瑞賢は、 数々の工夫をして東回り航路で、その輸送を行っている。
西廻り航路 (拡大)
しかし、翌寛文12年(1672)に、出羽国(山形県)の幕領米の輸送を命じらた時には、 房総半島沖に加え津軽海峡の危険度も考え、距離的には遠いが、運航実績のある北国航路、瀬戸内海航路、江戸上方間航路 を繋いだ西廻り航路を採用した。
東回り航路の出発点となった仙台市南の「荒浜」で、御城米保管用の米蔵が並んでいた所は、今は小学校になっている。 現地を訪れ、何人かの人に尋ねたが、今は何の遺跡もなく、記念碑も立っていない。
一方、最上川河口の「酒田」は、 その後の海運での繁栄を感謝し、日和山公園には瑞賢の銅像を建て、千石船の展示を行うなど、事跡の保存に力を入れている。
▲この物流革命があったからこそ商品経済が飛躍的に発展したと思う。(2022.9.29)
▲飛ぶ BURAKU「家光の時代」へ。(2022.9.30)


三井越後屋 (拡大)

(拡大)
大江戸歴史散歩を楽しむ会
延宝元年(1673)高利52歳のとき、長兄俊次の病死を機に宿願であった江戸進出を果たした。 翌年、日本橋本町1丁目(現日銀新館)に間口9尺(2、7m)の三井越後屋呉服店を開業した。
武家地と町人地 (拡大)
延宝4年(1678)近くに間口7間(12.7m)の2店目を開き両店とも繁盛したが、同業者から蛇蝎(だかつ:へびとさそり)の如く嫌われ、 その迫害と江戸の大火を機に天和3年(1683)日本橋の目抜き通り、駿河町の現在地に移転した。 江戸本店(三越本店)の間口35間(63.6m)、江戸向店(三井本館)21.5間(39.1m)の大店である。
江戸市中には、三河・遠江、駿河など家康の旧領から移住してきた直参の旗本・御家人は武家地に、 商工業者は日本橋など町人地に移り住んだ。
▲延宝元年(1673)から天和3年(1683)は僅か10年。驚くべき急成長。IT革命を見るようだ。(2022.9.29)
▼シャクシャインの蜂起後、松前藩はアイヌ民族に対して、「全面服従」を強要(仕置)した。
1685年 「アイヌ御目見」西蝦夷地のアイヌ(~1686)
西蝦夷地 東蝦夷地(拡大) 海保峯夫『日本北方史の論理』221p
ウイマム(御目見) (拡大)
ウイマム (拡大)
ウイマム (拡大)
「西蝦夷地では、シャクシャインの戦いに参加した主要な地域の大部分の首長が 藩主に御目見するようになっていることが注目される。 しかも、このアイヌ民族の首長の藩主への儀式は、『福山秘府』にあるように、藩主に 「対面致し候節ハ、鉄砲弐百丁・弓数張・大筒等も仕懸け置き見せ申し候」とあるように、武器をちらつかせながら 藩主への忠誠を誓わせる場となっていたのである。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』206〜207頁)
▼「鉄砲」で威嚇しながらの、なんと趣味の悪い儀式。
1684年  西蝦夷地に商場設置(~1688)
▼この商場の設置は、榎森進『アイヌ民族の歴史』の年表17頁によると「松前藩、西蝦夷地ソウヤに藩主の商場設置」と、 藩主によるソウヤでの設置、となっています。商場設置は、大部分は寛永期(1624~1644年)ですが。
▼なぜソウヤなのか。
「ソウヤ商場はサハリンのアイヌ民族との交易の場として重要な商場であった。
サハリンアイヌ
『地図でみる』93p

サンタン交易 『地図でみる』95p(拡大)

1790(寛政2)年にはサハリン南部に初めて松前藩主の商場を設置した。」
(榎森進『アイヌ民族の歴史』314頁)
「サハリンのアイヌ民族は、清朝に朝貢した際に、清朝から「賞賜」として与えられた朝服、緞袍、青布袍、 長棉襖、袴子をソウヤに設置された松前藩主の「商場」を介して和人との交易に活用していたものと見られる。 アイヌ民族にとって清朝に朝貢することは、経済的に極めて多くの利益をもたらすものであったと見て間違い無いであろう。」(同書325頁)
▼ wp: 江戸時代の宗谷郡域は西蝦夷地に属し、慶長8年(1603)、 松前藩によって宗谷に利尻・礼文・樺太を司さどる役宅が置かれた後、 貞享2年(1684)以降ソウヤ場所が開かれていた。
江戸時代後期になると、南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え 文化4年(1807)宗谷郡域は天領とされた。この時は会津藩が警固をおこなった。文化6年以降、 津軽藩がソウヤに出張陣屋を築き警固に当たった。文政4年(1821)には一旦松前藩領に復したものの、 安政2年(1855)再び天領となり今度は秋田藩が出張陣屋を築き警固をおこなった。
1693年 「知行主」がアイヌ民族を「奴僕」化することを禁止
「風俗は格別賤しく、倫理の道も知らず候故、父子兄弟も相嫁し、五穀なければおのずから鳥獣魚物を食とし、山にかけり、 海に入り、偏に禽獣の類にて御座候」 (松宮観山・『蝦夷談筆記(えぞだんひっき)』)
「蝦夷談筆記」のHPです。 上記記録の頁はいずれ見つけます。それにしても偏見に満ちた文章のように思えます。
▼「風俗は格別賤しく、倫理の道も知らず候故、父子兄弟も相嫁し、………偏に禽獣の類にて御座候」は以前読んだことがあります。 たしか、『日本書紀』だったと思います。見つかりました。年表110年を見てください。 720年に成立した『日本書紀』の記述が1000年後のこの時代も知識人、支配階級で共有されていた、ということですね。(2020.4.17)
▼「奴僕」化の禁止令が藩から出るということは「知行主」(実際は商場の請負商人) による搾取が激しかったということ。
18C~ 「商場知行制」から、漁業経営・「場所請負制度」へ
1711年 ロシア人、千島に来 る(シュムシュ=占守島・パラムシュル=幌筵島)
『アイヌ民族の歴史』p299
(草風館2007.3.1)
ギルバート『ロシア歴史地図』 
斜線部分は1478年以降
1710年までのシベリア地方のロシア人移住地

1562年イルクーツク、
1649オホーツク、
1659年ネルチンスク、
1740年カムチャツカ半島のペトロパウロス建設
1850年ニコラエフスク、
1858年ハバロブスク(拡大)


ロシアのシベリア進出


ロシアの千島侵攻 平山『地図でみる』123p

(拡大)
千島列島のアイヌ民族先住に関する資料
(拡大)
北千島と南千島
平山「コタンの歴史」
47p
シムシル島(拡大)
▲マルク・フェロー『植民地化の歴史』88頁(新評論2017.3.31)
「もともと歴代ツアーリは東方への拡大に懐疑的だったといわれる。 にもかかわらず、川から川へと要塞が築かれ、徐々に版図が拡がっていった。1649年にはついにカムチャツカ半島までいたった。」
「千島列島のアイヌ民族先住に関する資料」(1983.5.21北海道ウタリ協会発行)より。
1738年シュムシュ島3コタン44人。
1747年シュムシュ島235人。
1799年エトロフ島700人に過ぎず。
1801年エトロフ島190軒1,118人。
1807年シコタン島のアイヌを花咲(根室)に移す。15戸105人。(強制移住のはじめ)
1808年エトロフ島186戸994人。
1809年クナシリ島132戸555人。
1822年クナシリ島106戸347人。
1830年北千島85人、オンネコタン島99人。
1841年エトロフ島155戸608人。
1854年エトロフ島、ウルップ島間を日露の国境とする。
1856年エトロフ島89戸498人。
1868年(M1)クナシリ島18戸69人。
1873年(M6)エトロフ島78戸378人。
1875年(M8)「樺太・千島交換条約」締結(5月7日)・ 樺太はロシア領、千島を日本領とする
1876年(M9)クナシリ島62人、エトロフ島684人。
1884年(M17)北千島のアイヌ17戸97人、シコタン島に強制移住。
1889年(M22)シコタン島移住の北千島アイヌ、新生児14人加えても66人に減る。
▲97+14=111−66=45つまり97人のうち45人が亡くなった。強制移住は生活の激変。 生きていくのが困難。このことをしっかり肝に銘じて置くこと。生きていくことの否定。人権侵害で片付けないこと。 生きていくことを軸に物事を考え、見ること。(2022.6.14)
1891年(M24)千島全島685戸3,822人。うち335戸1,084人がアイヌ。
1900年(M33)シコタン島15戸62人。
1901年(M34)『北千島調査報文』1875年(M8)の伝聞。エトロフ島、約100年前、日本人が初めてこの島に来たりし時アイヌ人約1500人。日本人が 来たりしより人口減少1875年に450人以下となれり。
▲エトロフ島は明治の100年前、1,000人を超えるアイヌ人が住んでいた。 江戸後期、日本人が行くようになって半分以下になった。ざっとこのような認識。千島アイヌの中でもエトロフ島は特別な位置を占めているようだ。(2022.6.16)
1921年(T10)クナシリ島9戸38人、シコタン島16戸41人、エトロフ島65戸347人。
1929年(S4)ズメナンスキー『ロシア人の日本発見』「18世紀中葉エゾ島3万人以上のアイヌがいた。日本人に服従していたのはマツマイクリール人だけで、 ウルップ、エトロフ、クナシリの住民はそうではなかった。アイヌ民族の人口減少の責任はロシア人、日本人にある。」と書いている。
1935年(S10)エトロフ島68戸309人、シコタン島15戸44人。
1945年(S20)『根室市史』(1968年)択捉・国後、色丹・歯舞の16,000人。アイヌについてはひとことも触れていない。
19頁「島名あるいは地名ひとつひとつがその土地に住んでいる、あるいは住んでいた住民の居住証明とでもいうべきものであることは異論のないところであるが、千島も例外ではない。北海道と同じく 全千島の地名の殆んどがアイヌ語に由来している。
▼「日本における北方研究の再検討」(煎本孝)論文「18世紀にはロシアの南下政策に対する幕府の 蝦夷地調査隊の派遣、さらに第1次の蝦夷地の幕府直轄時代が始まる。」
▼18世紀はやはり新しい時代のはじまりのようだ。
1716年 本州の交易商人への請負(場所請負制度の原形) が、はじまる
*封建領主的特権*(~1736)
一定の運上金(貢租)を納付して、各場所の交易を一手に請負う
「17世紀末から18世紀初頭にかけた時期に、 松前藩によるアイヌ民族に対する政治・経済的な支配が急速に強まっていった。 享保・元文期(1716−1740)ころまでには、多くの商場経営が、アイヌ民族との交易を主体にしたものから、
17世紀末幕藩領主の石高 (拡大)榎森進「日本におけるアイヌ民族の国家的位置」2020.9.19講演

商場内での商人の請負による漁業経営を主体にしたものへと変質 (商場知行制→場所請負制)するに至って、 アイヌ民族は「交易相手」という立場から事実上漁場の下層労務者へと変質させられたのみならず、 共同体そのものが漁場経営のための有力な労働力の供給源として位置づけられた。 そして、各商場内のアイヌ民族が特定の場所請負人の集中的な収奪の対象とされるにつれ、 アイヌ社会の横のつながりは次第に分断され、その結果、本来のアイヌ社会が根底から破壊されるという、 かつて見られなかったような新たな危機に直面していくこととなった。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』209頁〜210頁)
▼榎森進さんのこの分析はすばらしい。アイヌ民族の自由人から半奴隷的境遇への転落。エンゲルスの『イギリスの労働者階級の状態』を思い出す。
▼yahoo知恵袋:松前藩では知行(領地)の代わりにアイヌ民族との交易場であった商場(あきないば)を家臣に与えていました。 これが「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」です。その後、潤沢な資金力を有する近江などの大商人が 蝦夷地に進出してくると松前家臣は商場の交易権を商人に譲渡し、代償として毎年一定額の運上金を受け取るようになりました。 これが次の段階の「場所請負制」です。商人たちが商場から一銭でも多く利益を搾り取ろうとした結果、 アイヌ民族に対する搾取は過酷極まりないものとなりました。商場知行制の成立は17世紀初頭、 場所請負制に移行していったのは18世紀初頭と言われています。
前期場所請負制への移行 平山『地図でみる』126p
1739年頃の商場。
▲松前を中心に商人の請負による商場が密。(2022.9.8)(拡大)

▼商場知行制から場所請負制への移行を見ていると社会を動かす経済の力の大きさを改めて感じる。 銭しか目に入らない商人達に委ねられた場所請負がアイヌ民族の悲劇を生む。
▼17世紀末から18世紀初頭に松前藩による場所請負制度の導入によってアイヌ社会の破壊・アイヌモシリの植民地化が 完璧に進行した、とはっきり認識すること。(2020.7.2)
▲場所請負制に前期と後期を認識すること。
「(前期)1710年代〜1780年代、松前藩士に代わって商人がアイヌと交易する時代、(後期)1789年の クナシリ・メナシの戦いを挟んで、それ以降あたりからアイヌを漁場労働者として使役するようになっていく。その使役が奴隷扱いになっていくのが、松浦 武四郎がアイヌモシリを往来した時期。」(平山『アイヌ民族の現在』56p)(2022.7.24)

▲植民地化の進行と領有化、領知化は別。榎森先生に確認すること。(2023.12.15)
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1720年 新井白石『蝦夷志』(東北諸夷の国)
▼wp: 『蝦夷志』とは新井白石が享保5年(1720年)に松前藩の情報や内外の諸書を参考にして作成した、 体系的な蝦夷地誌(漢文)。現在の北海道、樺太、千島の山川、風俗、産物が記され、 この写本の巻末には十余枚の貴重な彩色アイヌ風俗画が付けられている。 画家は不明であるが、アイヌの衣服など絵画が細密に描かれており、当時のアイヌの風俗を知るうえで重要な文献になっている。 絵師が実際にアイヌ人らの生活を直接観察して描かれ、図版の繊細度、色彩等、現存の写本の中では保存状態がよい。    
▼図4 蝦夷錦 新井白石『蝦夷志』 二十四頁(早稲田大学図書館古典籍データベース) より
蝦夷錦

1721年 松前藩、「沖の口制度」(一種の税関)の整備を行う
▼ニッポニカ「沖の口制度」とは:松前藩が、旅人、諸物資、船舶の出入を管理し、 徴税を行うために、松前、箱館、江差の3港に設けていた役所。
1723年 秋、西蝦夷地イシカリ(石狩)鮭不漁、冬より翌年7月までにイシカリ・アイヌ200人餓死、東蝦夷地シコツで      もアイヌ餓死者
松前藩知行地の拡大 海保峯夫『日本北方史の論理』210p(拡大)
1457年→1669年→1754年→1790年→1800年→1861年


1734年 ロシア人、パラムシル(幌筵)・アイヌ民族にロシア正教を伝える(1748年
     シュムシュ、パラムシルで信者208人に)(1756年 シュムシュに礼拝堂、教
     会と学校を兼ねる)
   ▼wpパラムシル:島の名前の由来はアイヌ語の「パラ・モシル(広い・島)」
1738年 ロシア人、千島列島根室の近くまで探検、翌年仙台付近まで行く(~1739)
1750年 ロシア人、北千島(パラムシル島)アイヌに牧畜を伝える

本州1750年
▲本州の1750年を意識すること。本州では何が進行していたのか。(2022.9.24)

1751年 知行主、知行地での場所の境界争い(~1764) 石狩十三場所
松前屏風
江刺屏風
宝暦年間
(1751〜1763)
小玉龍圓齋貞良(拡大) ▲松前、江刺の繁盛ぶりは目を見張る。全くの想定外。この屏風に出会うまでは。(2023.4.13)
津軽のアイヌ 平山『地図でみる』116p(拡大)

ロシアの千島侵攻
平山『地図でみる』123p
エトロフ島に最初に侵攻した「文明」人はロシア人だった。(拡大)

1754年 松前藩、クナシリ島へ交易船を派遣
▼wpクナシリ:アイヌ語の「クンネ・シリ(黒い・島→黒い島)」
1755年 松前藩財政難、多額の借財の引き当てとして場所を商人に委ねる
1756年 弘前藩(通称津軽藩)、津軽半島のアイヌ民族に同化政策を実施。これを拒んだアイヌは山中に逃亡
1766年 ロシア人、第7島シャシコタン(捨子古丹)ヘ(~1767)
▼wpシャシコタン:アイヌ語の「シャシ・コタン(昆布・村)」
1768年 ロシア人、「ウルップ(得撫)島」、「エトロフ(択捉)島」に来る。アイヌ民族に暴虐、毛皮税徴収
▼wpウルップ:アイヌ語「ウルプ(紅鱒)」、「シャシ・コタン(昆布・村)」「ルシ・オ・ア(毛皮が・そこに・豊富にある)」(この伝統から千島での漁業を。(2023.4.14))
1770年 ロシア人、ウルップ島でエトロフのアイヌ長老を殺害、
1771年 エトロフ、ラショワ(羅処和)のアイヌ民族、ロシア人に報復、21人を殺害 ロシア人、ウルップ島より退去
▼wpラショワ:「ルシ・オ・ア(毛皮が・そこに・豊富にある)」
▼アイヌ民族、すごい。
海の魚(拡大)2022.4.5朝日夕刊 建部凌岱(たてべ りょうたい)1719〜1774弘前藩家老の次男江戸生まれ、弘前育ち。 江戸中期の自由人。一方でこういう人材も活躍していた。上田秋成(1734〜1809)と同時代。(2022.4.14)
1773年 飛騨屋久兵衛、商場経営を請け負う(アッケシ、クナシリほか)
飛騨屋の請負場所と請負山 (拡大)
飛騨屋久兵衛
根室、厚岸、クナシリ島で、最初に交易を行った商人は、飛騨国増田郡湯之島村 (現:岐阜県下呂市)飛騨屋の武川久兵衛である。 松前藩は、飛騨屋に借金があったため、借金返済の変わりに、クナシリなどとの交易権を飛騨屋に与えた。
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』によると
「「クナシリ」と「キイタップ(霧多布)」の両商場の経営を請け負っていた飛騨屋久兵衛が 「クナシリ」と「キイタップ」商場内の「メナシ」地域で鮭・鱒の〆粕生産を開始して以来、両地域のアイヌの首長達を初め 首長以下の「ウタレ」(部下)から「メノコ」(女性)に至るまで〆粕生産に動員され、しかも彼等は冬に至るまで酷使されただけでなく 生産した「〆粕割合の手当」が無いばかりか「雇い代」も極めて少なかった。
その結果、河川での鮭漁、海での漁業や海獣狩猟、山野での狩猟や 採集等のアイヌ民族本来の生産活動である「自分働(じぶんはたらき)」が出来なくなり、 そのため当該地域のアイヌ民族の生活が困窮し、冬には餓死する者さえ生じるに至っていた。」(254頁)
「「商場」は、まさにアイヌ民族に対する支配と収奪を実現するために、アイヌ社会の内部に上から設定された新たな形の収奪の場、 しかも「蝦夷地」内に網の目のようにはりめぐされた収奪の場であった。」(同179頁)

▼飛騨屋の場所請負は商業資本を通り越して産業資本そのものの行動であるとおもわれます。その請負場所の数は上記地図の多さです。 榎森進『アイヌ民族の歴史』292頁によると1739年頃、蝦夷地の53か所の商場のうち46か所が請負経営、 1786年には、85か所全てが請負経営となっていたようです。
▲この頃の本州の状況をここに入れること。(2022.10.6)

1774年 ツキノエ、飛騨屋の交易船を妨害(以後6年交易船の派遣停止)
1778年 ロシア人、ツキノエの案内で、ノッカマップ(根室半島)で松前藩に通商要求(翌年拒否される)
1779年 ロシア皇帝エカテリーナ2世(女帝)アイヌ民族からの毛皮税徴収を禁止(勅令発布)
エカテリーナ二世
対外政策では、オスマン帝国との露土戦争(1768年-1774年、1787年-1791年)や3回のポーランド分割 などを通じてロシア帝国の領土を大きく拡大した。 まず、オスマン帝国との2度にわたる露土戦争(1768年-1774年、1787年-1791年) に勝利してウクライナの大部分やクリミア・ハン国を併合し(キュチュク・カイナルジ条約)、 バルカン半島進出の基礎(ヤッシーの講和)を築いた(南下政策)。 また、エカチェリーナ2世は第1次、第2次、第3次のポーランド分割を主導し、 ポーランド・リトアニアを地図上から消滅させた。
▼エカテリーナの拡張政策の一環としてのロシア人の千島への出没(2020.4.28)

1780年 『福山秘府』全60巻成る (松前広長)
▼ニッポニカ:松前藩関係史料の大集成。全60巻。 1776年(安永5)松前藩主道広(みちひろ)の命を受けて家老松前広長(ひろなが)が編集に従事し、80年12月に脱稿した。
1783年 『赤蝦夷風説考』(仙台藩江戸詰藩医・工藤平助・ロシアとの交易、蝦夷地防衛を説く)。
仙台藩医の工藤平助は、迫りくる北方の大国ロシアの脅威に備えるため「赤蝦夷風説考」を天明3年(1783年)、 当時の幕府老中、田沼意次に献上した。これが田沼の蝦夷地開発の原点になったといわれる。 田沼は、蝦夷地調査団に、まず、経世家の本多利明を招聘しようとしたが、辞退されてしまう。 代わりに本多から推薦されたのが最上徳内であった。
・天明大飢饉、宗谷・目梨アイヌ(900人)・樺太アイヌ(180人)餓死 
天明・寛政の凶作▲本州も14年間大変な時代。 それが松前藩の蝦夷地政策にも影響しているようだ。(2022.9.23)
『東遊記』(平秩東作・へつつ とうさく アイヌの文化・人情・風俗を描く)
▼wp:「赤蝦夷」はロシア人を意味する当時の用語。

▼wp天明の大飢饉とは江戸時代中期の1782年(天明 2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。 江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。

天明飢饉之図 (拡大)
被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い、 人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、 目も当てられない風情にて」と記されている。

1787年(天明7年)5月には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と八千軒以上の商家が襲われ、 無法状態が3日間続いたという。その後全国各地へ打ちこわしが波及した。これを受け、7月に幕府は寛政の改革を始めた。

▼1789年に「クナシリ・メナシの戦い」が起きるがこの飢饉と無縁とは考えられない。
 
「正保御国絵図」ある意味、興味深いHPです。
「1644年(正保元年)、「正保御国絵図」が作成されたとき松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ、
1715年(正徳5年)には、松前藩主は幕府に対し「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
1731年(享保16年)には、国後・択捉の首長らが松前藩主を訪ね献上品を贈っている。
1754年(宝暦4年)松前藩家臣の知行地として国後島のほか択捉島や得撫島を含むクナシリ場所が開かれ、 国後島の泊には運上屋が置かれていた。
1773年(安永2年)には商人・飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、 1788年(天明8年)には大規模な搾粕(しめかす)製造を開始するとその労働力としてアイヌを雇うようになる。
▲1789年にクナシリ・メナシの戦いが勃発。ひどい労働だったんだ。(2022.7.26)
一方、アイヌの蜂起があった頃すでに北方からロシアが北千島まで南進しており、 江戸幕府はこれに対抗して1784年(天明4年)から蝦夷地の調査を行い、1786年(天明6年)に得撫島までの千島列島を最上徳内に探検させていた。」
(このHPは閉じられていることが分かりました。2020.4.27)
▼平秩東作について以下を見つけました。出典:小学館 日本大百科全書。
東作の自由人的な心境は、「井蛙」の題の一首「身を守る かくれ所はこゝこそと ちゑを古井に蛙(かはづ)なくなり」 からもうかがわれる[浜田義一郎]と、ありました。
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1785年 幕府、蝦夷地調査隊派遣、(樺太、クナシリ島)
1786年「蝦夷地新田開発政策案」を提出
wikipedia田沼意次
田沼は、蝦夷地を調べるために幕府メンバーには、青島俊蔵、最上徳内、大石逸平、庵原弥六などがいた。 また、蝦夷地の調査開発をすすめる事務方には、勘定奉行松本秀持、勘定組頭土山宗次郎などがいた。

蝦夷地調査で鉱山開発やロシア交易の実現性を調べ、蝦夷地開発の可否を決定することとなった。
調査隊は4月29日、松前をたち、東から国後、西から択捉の二隊に分かれて進んだ。 翌、天明6年2月、佐藤玄六郎による調査報告があがった。結果、最終的に田沼は蝦夷の鉱山開発、ロシア交易を放棄した[25]。

蝦夷地の鉱山開発・ロシア交易の構想が頓挫したことで、松本秀持は新田開発案に転換した。 田沼失脚後、蝦夷地開発をいったん中止となった。

しかし、この政策は老中を含む幕府の大多数に支持されていた。 開拓反対派である松平定信も早急での開拓に反対しているだけで将来的な蝦夷の開拓自体は肯定派だった。
その後、定信が失脚した後の寛政11年(1799)、幕府は東蝦夷地を直轄とし
中止されていた蝦夷地開発を開始した。
文化4年(1807)には松前から領地を取り上げ全蝦夷地を直轄した。
田沼が提唱した幕府による蝦夷開発計画はその後 は紆余曲折はあったものの文政4年(1821)に中止されるまで
継続していくこととなる[25]。
▲事の善し悪しでなく、和人による蝦夷地植民の端緒は1786年、明治維新の80年前、田沼意次が開いている。 林子平が「三国通覧図説」を刊行。下の地図参照。(2022.9.28)
エトロフ島にわたる、ロシア人と会う。次いでウルップ島にわたる。樺太にて「清朝」から姓長(ハラ・イ・ダ) に任命されたアイヌ民族の首長、ヨウチイテ・アイヌ(中国名・楊忠貞)の子ヤエンクル・アイヌに会う。
*調査中止、蝦夷地開発計画頓挫(老中、田沼意次、失脚)
「お試し交易」「秋味漁」実施
林子平地図全体
天明5年1785年
(拡大)
地図上の色の違い
天明5年1785年
(拡大)
蝦夷地の当時の認識
黄色 和人地
橙 蝦夷地(2022.4.18)
最上徳内地図(拡大) 寛政2年1790年
林子平地図から5年後。これほど地図が正確になったことにおどろき。(2022.3.10)
▼「1778年松前藩が藩主の商場であるソウヤに家臣工藤清左エ門を派遣した際、サハリン西海岸ナヨロのアイヌの 首長「ヤウチウテイ」が交易のため、同商場に来ていたので、工藤が彼の名を聞いたところ、 楷書で「楊忠貞」と記した唐紙を差し出したという。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』325頁) 原資料は最上徳内の『蝦夷草紙』(1790年)のようです。

1789年「クナシリ・メナシの戦い」
クナシリは右上の島メナシは根室・釧路辺り (『アイヌ民族の歴史』p247)(拡大可) チュルイ、シベツを地図で確認すること(2022.12.27)
『新撰北海道史第二巻』2023.4.14(拡大)


▼この戦いの前提に1716年の項の場所請負制の導入がある。 70年間のアイヌ社会破壊の怒りが「クナシリ・メナシの戦い」であった。(2020.7.2)
・エカシ・長老の説得
ノッカマップの処刑(ペウタンケ(危機を知らせる叫び声)・37人処刑、首を塩付けにして松前城下でさらし首、 夷塚、28年でクナシリ・メナシ絶滅)
「クナシリ・メナシ地方のアイヌ民族がこの地で漁場の経営を行っていた。場所請負人らの横暴や、 アイヌ民族への強制的な使役に対して立ち上がり、現地にいた支配人ら71人を殺害した。」
小川正人「「アイヌ学校」の設置と「北海道旧土人保護法」・「旧土人児童教育規程」の成立」1991年3月発表
266頁
まず,幕府・松前藩の政策がアイヌ社会に与えた影響を概観する。
蝦夷地(1)では,場所請負制(2)の展開とともに交易はアイヌにとって収奪同様に行なわれるに 至り,アイヌは交易の主体から漁場における主要で、安価な労働力へと落としめられた。
本来のコタン (3)は川筋などに散在していた(例として[図 1-a] にトカチにおけるコタンの分布を示
コタンの大きさ

「場所」の分布 (拡大)

した)が,「場所」は河口などの海浜に設定された([図 2])。
「場所」の経営が大規模になるに従い,請負人は労働力となるアイヌをコタンから引き離して 「場所」へと徴用した。 更に,場所の収益に比してアイヌ人口が多いと「介抱」の費用がかさむため,議負人はア イヌを他の場所へ出稼ぎさせるようにもなった。例えばアプタ(虻田・アプタ)・モルラン(室 蘭)のアイヌをアツタ(厚田)へ,サル(沙流川流域)のアイヌをイシカリ(石狩),ヲグル(小 樽),アツケシ(厚岸)へ, トカチ(十勝)のアイヌをホロイツミ(幌泉,現えりも前)へ,ア パシリ(網走)とシャリ(斜里)のアイヌをクナシリ(悶後)へ,モペツ(北見紋別)のアイヌ をソウヤ(宗谷)やリシリ(利尻)へなど,多くの地域でアイヌの強制連行が行なわれた。
従事させられる労働も,漁撈にとどまらず,場所の経営が大規模になるにつれ炊夫,小間使や道路の 開削等にも使役された。徴用は 2年 3年という長期に及ぶようになり,青壮年男子のみでなく 女・子供まで駆り出されるに至った。例えば沙流川流域では, 1858年において, 11-50才のアイ ヌのうち男性は82.3%,女性は35.7%が徴用されているから,その後のコタンに残るのは老人, 幼児,病弱者と僅かの婦女子ばかりという有様だった。
278頁
(1)松前藩は,北海道島を,和人村落の所在地であり「内国」に等しい地域として設定した 「和人地」 と,アイヌの居住地であり交易地である「蝦夷地」とに区分した。この地域区分体制は幕府の直轄期 においても継続された。「和人地」は当初渡島半島の南端のみであったが,幕末にかけて徐々に拡大 した。
▲「和人地」の定義がこれで明解。「場所」は「和人地」ではない。 明治2年の時点で和人地は渡島半島とオタルナイで間違いない。(2023.4.14)
(2) 松前藩は,蝦夷地におけるアイヌとの交易場所(「場所」)を家臣への知行として与え(「商場地行制」), 知行主はこれを商人に請け負わせた。これが場所請負制であり,「場所」は交易の場から商人による漁 場経営の場へと変容した。
(3) たとえ一戸でもそれを単位として人が生活していればアイヌコタンである。普通は数戸の規模であ り,十数戸になるとかなり大きいコタンだった。
264 頁
(6) 1916年の調査では 「(アイヌは一筆者注)大体に於て同種族関の通話にはアイヌ語を用ひ和人に 対しては和語を使用す」(『旧土人に関する調査』北海道庁 内務部教脊兵事課, 1919年, 95頁)とされ, 1920年代末の調査では「現在に於て殆どアイヌ語を用ふる者なく,青年等は大体之を知らぬ」(『土人概要』 ,北海道庁 学務部社会課, 1929年 4頁)とされているのを見れば,アイヌ語はとくに1900年 頃より後に生まれた者において徹底して奪われていったことがわかる。
▲アイヌ総合大学の創設でアイヌ語を取り戻す。(2022.7.5)

「場所請負人の飛騨屋は1788年から急に交易中心から、鮭〆粕をつくるためにクナシリやメナシのアイヌ民族を強制的に使役した。」
「1年中毎日働かされて自分たちの冬の食料もとることができない。報酬もまともにもらえない。 番人に棒で打ち殺された女もいた。妻が番人に暴行されたので抗議をしたら逆に償いをとられた。 支配人が女を女房同様にし、子まで産ませた。ほかに多くの女が犯されたので男たちが抗議したが、受け入れられなかった。」

*メナシ領シベツ(士別)では、粕作りが始まってから〆粕割合の手当てというものはまったく無く、 〆粕の雇い代は首長が米一俵にたばこ一把、一般アイヌはたばこ半把にマキリ(小刀)一丁なので、 …自分の荷物も何もなく、土産がもらえるわけでない。去年から〆粕作りが始まっているので冬中食べ物が不足し、 妻子を養うにも難渋している。ことにシトノエというアイヌ女性は、働きが悪いということで薪で強く打たれて病気になり、亡くなった。

*同所(メナシ領シベツのこと)のシリウというアイヌは、妻と妾の二人がともに稼ぎ方の和人たちに密夫(姦淫・凌辱)されたが、 抗議したら逆に道理に合わない文句を言われるので、言えないでいる。

*同所(メナシ領シベツで)働かないと、男女を問わず残らず粕とともに殺すぞ、と稼ぎ方に言われた。

*同所(メナシ領シベツで)稼ぎ方は、当年よりアイヌを残らず殺すといって、犬を縄に縛って川へ沈めて殺した。 シャモ(和人)が多数のアイヌを殺すのだな、とアイヌは推量した。

*メナシ領チュウルイ(阿寒湖には、大島、小島、ヤイタイ島、チュウルイ島の四つの島がある。)では、 稼ぎ方たちが昨夏より大きな釜を三つ用意し、男と女と子供のアイヌに分けて粕とともに煮て殺すと脅し、 実際に子供を背負った女性を釜に入れたが、大勢のアイヌがやってきてこの時はなんとか助かった。

*同所(メナシ領チュウルイでは)ケウトモヒシケは、妻と妾に稼ぎ方が密夫したので、アイヌ式のツグナイを求めたら理不尽にもぶっ叩かれた。

*同所(メナシ領チュウルイの)サンヒルというアイヌが、妻が密夫されたので抗議したら、稼ぎ方は激しく腹を立てて サンヒルの髭をマキリで切ると脅された。

*クナシリのセセキ(セセキ温泉は知床半島の羅臼町にある海中温泉地)という所の支配人左兵衛は、 ウテクンテというアイヌ女性を居所へ引き連れて夫婦同様にして子供を産ませた。その他に密夫している例は多く、 悔しい思いでいるが、抗議すれば逆にツグナイを求められるので黙っている。

*同所(クナシリ)支配人の左兵衛の言うには、当年のお目付け役の勘平は難しい人物で、 アイヌが〆粕作りでしっかり働かないと当島に下さる米、酒、味噌に至るまで毒を入れ、アイヌを残らず殺して、 これまでアイヌが住んでいた所へ町屋をこしらえて江戸より和人を多数取り寄せて商売をすると言ったそうだ。 

南千島アイヌ・北海道アイヌの老人、幼い者も酷使
アイヌ民族への搾取、禁じる者も、監視する者もいない
夷酋列像(1790)
(拡大)
長老による説得(ノッカマップの大虐殺・37人の処刑)
民族共同体の崩壊
飛騨屋の請負、召し上げ
(和人の犯した非道、虐待、クナシリ島の奴隷労働、場所請負人の横暴、暴力、脅迫、餓死者続出、働けぬものは毒殺、女性は姦される)
* 松前藩の失政=財政難・財政破綻・借金=請負商人の横暴を許す
* 「フランス革命」
▲1789年、彼我の差。虐殺と人権宣言。(2022.12.28)
名古屋大学 一七八九年フランス人権宣言前文試訳(石井三記)
「国民議会を構成するフランス人民の代表者たちは、公の不幸と政府の 腐敗の唯一の原因は人の権利にたいする無知、[意図的な]忘却ないし 軽視であると考え、人の生まれながらにもつ、譲りわたすことのできな い、そして神聖な諸権利を、厳正なる宣言で広く示すことを決議した。」
ミネソタ大学 フランス人権宣言全17条
ナポレオン法典原典 フランス革命の初期1804年に制定されたフランスで最 初の近代的な統一民法典である。 交響曲第3番 変ホ長調 作品55『英雄』は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1804年に完成させた交響曲(拡大)
フランス民法典(ナポレオン法典)1804年京都外国語大学
フランス民法典(ナポレオン法典)1804年翻訳立命館大学
京都大学哲学研究会 『キリスト教の本質』1841年に刊行されたフォイエルバハの主著で、彼の名を不朽にした宗教哲学の傑作である。 フォイエルバッハと、関係する哲学者の年代については以下の通り。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル 1770年8月27日 - 1831年11月14日
ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ 1804年7月28日 - 1872年9月13日
カール・マルクス 1818年5月5日 - 1883年3月14日
フリードリヒ・エンゲルス 1820年11月28日 - 1895年8月5日

▲プロイセン民法典との比較も調べておくこと。(202212.31)
松山大学論集 第 31巻 第 7 号 抜 刷 2020 年 3 月 発 行
ドイツ民法832条の生成史(1)銭 偉栄
「1815年にウィーン議 定書(Wiener Kongresakte)によって発案され,ドイツ連邦規約に基づいて結 成されたドイツ連邦(Deutscher Bund)は統一国家たる連邦国家ではなく,「主 権的諸侯と自由都市」が「ドイツ内外の安全と個々のドイツ諸国の独立および 不可侵性の維持」(同規約2条)を目的として結成された領邦国家の同盟にす ぎず,いかなる立法権も有せず,連邦は各邦共通の草案を作成し,その採用 を各邦に勧告しうるにすぎなかった,という状況にあったのである。
1834年,それまで鼎立していた北ド イツ関税同盟(1828年2月成立),中部ドイツ通商同盟(1828年9月成立)お よび南ドイツ関税同盟(1828年1月成立)を統合して小ドイツ(オーストリ アを除く)の大部分地域を包含するドイツ関税同盟(Deutscher Zollverein)が 創設され,全ドイツの政治的統一ないし法統一のための決定的な一歩を踏み出 した。」
▲EUの生成も関税から。(2022.12.31)
池田先生の近代の解説:「近代」とは、
近代・渡辺京二さん 2023.1.12朝日朝刊(拡大)
「日本の近代化…西洋から学びたかったのは軍事力と産業力、中央集権型の国家構造だけ。」 ▲池田先生のご指摘の人権の思想は排除。(2023.1.16)
概ね18・19世紀前後を中心とする市民革命期あるいはその直前の時期で、近代国家誕生の時期。 この時代の歴史性を最も典型的に表現する形容詞は英語で言えばcivilですがこれは「民」ではなく、まして「私」ではない、 むしろ「公」に近接したニュアンスを持つ言葉だったことです。 civilは「キビタスの(に関わる)」という古典ローマの用語法を受け継いだ言葉で、 16世紀から19世紀初頭までのフランスでは、deoit civilは、通常は「民法」ではなく、「国法」と訳します。 (1806年制定のフランス民法典も、「国法典」という意味が近い) もともとcivilに「民の」とか「民的」とかいった意味はありません。 19世紀の80年代辺りまでは「私法」でもありませんでした。 こういうことを述べるのは、幕末の松前藩の施策はもちろん(まだ近世権力ですから)、 明治維新政府の北海道政策、とりわけアイヌ民族への扱いの仕方が全く近代ではありません。 今日人権と叫ばれるのは、その前提に近代法、近代的自我、近代的人格把握等々の 一連の歴史的な段階規定を経た社会思想・国家思想や制度、ルールが一定の前提となっています。
2022.6.15弁護団会議検討会資料
二つの「近代」:
政治的自由主義に対応する「近代」A 
経済的自由主義に対応する「近代」B
自由主義Aは、歴史上、近代ブルジョワ革命期の思潮と内面的関連性が強い。
自由主義Bは、歴史上、産業革命を礎とする産業資本主義時代との関連性が強い。Aの否定でもある。
(因みに、これらの自由主義は、1970代から広まった新・「自由主義」とは概念的に反対物)
「国家」現象の産物である法・法学上、近代法と連関するのは自由主義A Ex) 若干の異物・まじりものはあるが、 自由主義Aを体系的・徹底的に見事に描出したナポレオン法典(1804年)
自由主義Aを通過し、その展開・変容の中で、Bに対応する論理一貫性を示すBGB( Burgerliches Gesetzbuchドイツの民法典) (但し物権は雑多混成)。 1896年公布,1900年1月1日から施行された。
▲日本の明治民法は1898年(明治31)に公布。ドイツの民法典の流れ。 旧民法は1890年(明治23)公布。フランス民法を基本にボアソナードなどが起草。(2023.1.18)

▼ユポさんの「*メナシ領シベツ(士別)では、…」の記述は『アイヌ民族の歴史』榎森進著・草風館出版2007年3月1日発行251頁以下 「メナシ夷共申口」「クナシリ夷共申口」からの引用のようです。
私も読んでみて、ユポさんが取り上げられているのは、松前藩の鎮圧隊の最高責任者・新井田(にいいだ)孫三郎の 「寛政蝦夷乱取調日記」が元資料で、「クナシリ」アイヌの、和人を殺害した14名と、「メナシ地域」アイヌの和人を殺害した23名から、 事の経緯について「申口(もうしぐち)」つまり調査官の聞き取りに対するアイヌの人たちの証言記録からでした。
ただその前の「クナシリ・メナシ地方の…強制的に使役した。」の文章の出典はよくわかりませんが恐らく榎森進さんだろうとおもいます。
▼「クナシリ・メナシの戦い」とは
wp:1789年(寛政元年)、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、 首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、 和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。
wp:鰊粕の製造には大量の薪を必要とするため、北海道の沿岸部では森林破壊が進んだ。 また、先住民族のアイヌは和人商人のもとで鰊粕製造その他の労働に従事させられ、従来の民族コミュニティの変容や破壊がもたらされた。
▼読むと和人に対する怒りが禁じ得ません。蜂起は当然です。この蜂起者たち37名はノッカマップで処刑されています。 「アイヌ民族への搾取、禁じる者も、監視する者もいない」、ユポさんのこころの叫びです。 私の気持もぐんぐんユポさんに引き付けられて行きました。
▼和人のやりたい放題!この歴史を肝に銘じておくべき。ただ、人道主義者・松浦武四郎さんに和人として救われる。

wp:クナシリ・メナシの戦いを鎮圧した後に討伐隊は藩に協力した43人のアイヌを松前城に同行し、 さらに翌年の1790年にも協力したアイヌに対する二度目の謁見の場が設けられた。 藩主・松前道広の命を受けた蠣崎波響は、アイヌのうちもっとも功労があると認められた12人の肖像画を描いた。 これが「夷酋列像」である。
Wikipediaから
イコトイ(乙箇吐壹)の像

山川力『政治とアイヌ民族』
「強制されたなりのひとびとの図を、どうして民族の風俗(「アイヌ絵」)だといえるだろうか。」198p同感。 (2022.12.9)
マウタラケ(麻烏太蝋潔) - ウラヤスベツ惣乙名
チョウサマ(超殺麻) - ウラヤスベツ乙名
ツキノエ(貲吉諾謁) - クナシリ惣乙名
ションコ(贖穀) - ノッカマフ乙名
イコトイ(乙箇吐壹) - アッケシ乙名
シモチ(失莫窒) - アッケシ脇乙名
イニンカリ(乙噤葛律) - アッケシバラサン乙名
ノチクサ(訥窒狐殺) - シャモコタン乙名
ポロヤ(卜羅亜鳥) - ベッカイ乙名
イコリカヤニ(乙箇律葛亜泥) - クナシリ脇乙名
ニシコマケ(泥湿穀末決) - アッケシ乙名
チキリアシカイ(窒吉律亜湿葛乙) - ツキノエの妻、イコトイの母
▼私はこの 「夷酋列像」にある種の違和感を抱いています。
▲山川力『政治とアイヌ民族』読みました。「夷酋列像」に詳しい。私の違和感が当たっていた。(2022.12.5)

▲平山『アイヌ民族の現在』63p「過酷な漁場労働は、クナシリ・メナシの戦いが初期で、それ以降、激しさを増していくようだ。 だから前期場所請負制〜クナシリ・メナシの戦い〜後期場所請負制という流れを提示した。」これは大事な指摘。(2022.7.25)
1792年 ロシア使節アダム・ラクスマン、根室に8ヶ月滞在。住居建設、幕府許可。
松平定信(日本の地ではないので、根室で待つのだ)  四つの窓口 @長崎=オランダ・中国 A対馬=朝鮮 B薩摩=琉球 C松前=アイヌ民族
1798年 *近藤重蔵、エトロフに「大日本恵登呂府」の標柱
**前幕府直轄時代**
1799年 ロシアの南下政策への対応
1799年(寛政11年)第1次幕府直轄〜1821年(文政4年)
ロシア船根室1792年、1796年イギリス船虻田来航
ナポレオンロシア侵略モスクワ炎上 (拡大)

1855年(安政2年)第2次幕府直轄〜1867年
1854年日ロ和親条約
▲蝦夷地の幕府直轄は対外対策。(2021.9.5)
▲市川守弘『アイヌの法的地位』は商場知行制→場所請負制を「幕府の蝦夷地直轄と無関係でなかった」(72p)として、 その時期を享保年間(1716年以降)とするが、年代が合わない。第1次直轄は1799年である。(2021.9.5)
▲市川は場所請負制を1799年以降と考えているようである。cf.83p「19世紀に入ってからの商人による激しい経済的収奪のもとで」(2021.9.5)
東蝦夷地守備 (拡大)『新旭川市史』
1799年 浦河から知床 兵、南部藩、津軽藩各500人
1800年 八王子の千人頭率いる、白糠50人、勇払50人警護、農を兼ねる。 屯田の最初。
1807年 露艦択捉来寇。幕府南部、津軽に守備、厳にさせる。
▲19世紀に入り幕府は本格的にロシア対策に危機感を持って向き合っていることが窺える。(2022.4.18)
幕府直轄による、東蝦夷地仮上知(上地・あげち・幕府による没収)
蝦夷地経営(東蝦夷地では、交易所運上屋を会所と呼ぶ)
・支配人、通辞、帳役、番人を駐在させる 
・アイヌ民族への同化政策(松前藩は禁止してきた日本語・文化)
「三章の法」
1 邪宗門に従う者、外国人に親しむ者、其罪重かるべし
2 人を殺したる者は、皆死罪たるべし
3 人に疵つけ、又は盗する者は、其程に応じ咎めあるべし
*アイヌ民族の風習を全く無視したものであったために、幕府はアイヌ民族の抵抗を恐れて、現実には実施されなかった
* キリスト教を禁止し、クナシリ・エトロフ・ウルップに高札をたて、アイヌ民族に仏教をひろめようとした 「蝦夷三官寺」(仏教・国教の強制・檀家なし、財政・幕府持ち)
幕府のエトロフ島支配 平山『地図でみる』134p
「1803年クナシリ、エトロフ島のアイヌがウルップ島を往来することを禁止。」
▲ひど過ぎますね。江戸幕府はここまで支配の実態をつくろうとした。(2022.9.11)(拡大)
1 有珠・善光寺(浄土宗)
2 様似・等ジュ院(天台宗)
3 厚岸・国泰寺(臨済宗)
「日本語使用の強制・風俗改め」(髭剃・月代・髪結・和服着用)
「農耕奨励」(アイヌの農耕禁止解除、穀食は文明、肉食は野蛮)
「創氏改名」(アイヌ名を日本名に・1876年(M9)年アイヌ民族、1939年(S14)年朝鮮にて創氏改名)
「ウイマム・オムシャ」の強制(裃、羽織の着用義務づけ)
「帰俗土人」・「新シャモ」と呼び、褒賞を与え、帰俗を奨励した。 コタンコロクル(村長・むらおさ)を乙名(おとな)に任命、場所ごとに惣乙名、脇乙名、小使(三役・役土人)、土産取を任命した
* ほとんどの者は、自分の名前を知らず、山にかくれる者、先祖から受けた姿を失い、衆人と交わりをできない(最上徳内「蝦夷草子」)
*風俗改め強制、長万部の首長トンクルは、大勢に押さえつけられ髭をそり落とされ、髪を結われ、以後は和人風になし、 徳右衛門と名乗れと言われ、飲食を絶って死を遂げた。(松浦武四郎・「近世蝦夷人物誌」)
▲平山『アイヌ民族の現在』59p。「コタンコロクル(村長・むらおさ)を乙名(おとな)に任命、場所ごとに惣乙名、脇乙名、小使(三役・役土人)、 土産取を任命した」がアイヌ首長層の土台はしっかり残っている。こういう点もきめ細かく見ておくこと。
▲幕府直轄はアイヌ政策が質的に違う。(2022.7.25)

▲明治初期のアイヌ政策は江戸幕府1799年の焼き直し。(2022.8.5)
▼帰俗とはアイヌの風俗を改め日本風にすることだとユポさんに教わりました。
▼最上徳内「蝦夷草子」のHPです。
▼「従来、幕藩制国家の対外編成上「異域」として位置づけられてきた「蝦夷地」は、「異域」から一挙に「内国」化されるに至ったのである。」 (榎森進『アイヌ民族の歴史』306頁)
「その総てが対ロシア関係を強く意識したうえでの「蝦夷地」の「内国」化を装飾するための政策以外の何ものでもなかった。 アイヌ民族に対する風俗改めや和風化策が和人に近い地域よりも、むしろロシアに接したエトロフ島で最も積極的に行われたという事実は、 そのことを端的に物語っている。」(同書308頁) トップへ戻る
安田雷洲「増訂日本輿地全圖」天保2年(1831) 東北大学デジタルコレクション掲載許可令和2年10月15日東北大学図書館長(拡大)
蝦夷地が日本與地に含まれていないことに注意。2020.10.20
旧国名地図(明治2年までの)(拡大)
1800年 * 富山元十郎、ウルップ島に「天長地久大日本属島」の標柱
1801年 幕府、東蝦夷地を永久上知する、「(蝦夷)箱館奉行」を置く
1804年 蝦夷三官寺建立、善光寺(有珠)・等ジュ院(様似)・国泰寺(厚岸)
1807年 幕府、松前・西蝦夷地を上知(あげち・幕府による没収)
*対ロシアへの防備上、アイヌ民族の同化政策のため(エトロフでもっとも積極的) 松前藩を奥州の梁川(やながわ・福島県)に転封、松前奉行を置く 蝦夷地全域を幕領化 旧国名地図(明治2年までの) https://www.chikumashobo.co.jp/kyoukasho/tsuushin/rensai/man-you-shuu/images/kyuukokumei.pdf
1807年千島・樺太守備 (拡大)1807年択捉島・内保露艦上陸。官兵、津軽兵300人及ばず、幕府兵を増強、露兵去る。1809年露船樺太に上陸。 ▲千島・樺太、日露せめぎ合いの場。先住民を無視して。(2022.4.18)
▼この時期の幕府とロシアへの対応(榎森進『アイヌ民族の歴史』342頁〜344頁)
1804年 レザノフ長崎に漂流民を伴い来航
1805年 レザノフに通商要求拒否の「教諭書」を渡す
1806年 ロシアの軍艦のフォヴォストフらサハリン上陸。アイヌの子供を連行、運上屋を襲撃、倉庫を焼く
1806年 フォヴォストフらエトロフ島のシャナを襲撃。リシリ島付近で日本船襲撃
1807年 幕府、東北諸藩にサハリンを含む蝦夷地へ出兵を命ずる
1809年 幕府、ソウヤのアイヌ民族が「サンタン人」に対する「古借」を返済。「カラフト」を「北蝦夷地」に改称
▼後の日露戦争の火種がこの頃に醸成されているようにおもう。
1809年 このころよりアイヌ民族に御目見(ウイマム)強制(松前奉行) 間宮林蔵、「間宮海峡」発見
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』から
「サハリンのアイヌ民族の歴史で特徴的なことは、北海道・クリル諸島や北東北のアイヌ民族に比して、 中国の歴代王朝との関係がきわめて強かったという点にある。」(323頁)

「1809年 松前奉行が西蝦夷地「クドウ」場所から「北蝦夷地」に至る各場所詰めの幕吏に対して、
 1806年場所一覧3 (拡大)択捉島まで
 1806年場所一覧2   宗谷岬・樺太まで
 1806年場所一覧1 『苫小牧市史』
クドウは熊石の上
以後各場所のアイヌの「乙名」達を3年に1回宛松前奉行に御目見させるよう厳達。
1815年 5年に1回宛松前奉行に御目見を命ず。
この命令によって幕府は、東は「エトロフ」から西は「北蝦夷地」に至る「蝦夷地」全域のアイヌ民族の首長層に対する松前奉行への御目見体制 を名実共に整備・完成させたわけで、こうした体制の整備は、「カラフト島」のアイヌ民族を「日本に従属した民」として 位置づけるうえで歴史的に大きな役割を果たした。

換言するならば、ここに至って、サハリンのアイヌ民族を含めた「蝦夷地」全域のアイヌ民族の「日本」への朝貢体制が整備されたのである。 このことは、サハリンのアイヌ民族を清朝の「辺民制度」から脱却させ、日本=幕藩制国家への朝貢体制に再編したことを意味するものであった。」 (347頁)

▼このような江戸時代末期の、幕府のアイヌ民族への植民地的支配の前提で、 明治維新後のアイヌ民族無視の政策が展開されることになったようだ。
▼今日改めてこの箇所を読んでみると、この江戸期のやり方がそっくり 明治期の琉球王国を清朝から引き離す際にも用いられていることに気づきました。 江戸期と明治期は支配者のあいだでは実によくひと続きであることがわかります。 逆にアイヌモシリ回復訴訟では江戸期の責任を問う根拠にもなると思います。(2020.7.2)

1818〜1830年 石狩アイヌは、「自分稼」「自分商売」で和人と交易 
  伊能小図北海道1818年 (拡大)文化遺産オンライン
1785年林子平地図 1790年最上徳内地図と比べると格段の進化
1843年東蝦夷地守備 (拡大)『新旭川市史』戍(ジュ まもり)を箱館外11の要所に置く。
▲ロシアに対する幕府の危機感。 (2022.4.19)

**後松前藩治時代**
1821年 松前藩、復領(幕府直轄1807〜1821の14年・財政負担の増大)
場所請負人に場所内の経営権と行政権をまかせる(支配搾取体制)
アイヌ人口の激減
渡島、胆振、日高、十勝以外は激減.(拡大)
平山『地図でみる』
ペンリウクさん 1832年生まれる
(拡大)
水戸講道館 1841年斉昭設立
2023.1.16朝日夕刊 儒学、歴史、歌学、医学、蘭学の講義、研究。武術の教練、天文台、神社、孔子廟も設置。▲進んでいた。(2023.2.5)
ワイタンギ条約 1840年締結
2023.1.21朝日朝刊
▲こういう動きもあった。(2023.2.5)









1845年 松浦武四郎この年から6回にわたり蝦夷地調査、アイヌ民族の生活を記録する。
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(男女とも12〜13歳から、働ける者はすべてコタンから強制的に漁場に連行され、コタンの生活は徹底的に破壊され、 人口は激減し、あわや民族全滅の瀬戸際まで追い詰められたといっても過言ではない。)
▼たまたま「共産党宣言」へのエンゲルスの1890年のドイツ語版序文を読んでいたら次のような一節に出会った。 「1848−1849の革命当時には、ヨーロッパの君主たちだけでなく、ヨーロッパのブルジョアもまた、ロシアの干渉を、ちょうどはじめて目ざめつつあった プロレタリアートからの唯一の救いと考えていた。ツァーリはヨーロッパの反動の首領である、と宣言された。」 このようなロシアが樺太に迫っていた、ということ。(2019.11.28)
▼時の皇帝はニコライ1世(ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ1796年7月6日 - 1855年3月2日)。 ロマノフ朝第11代皇帝(在位:1825年12月1日 - 1855年3月2日)

1853年 幕府、ロシアとの領土交渉(「大日本古文書幕末外国関係文書之三」) 「アイヌは蝦夷人のことにて、蝦夷は日本所属の人民なれば、アイヌ居り候ところは即ち日本領に候」
▼1792年の「日本の地ではないので、根室で待つのだ」との整合性は?
日露国境の変遷168p (拡大)片桐さん 良く分かる地図

1854年 「日露和親条約」締結  上村論文ー日露和親条約

エトロフ(択捉)島とウルップ(得撫)島の間を国境とする、樺太は雑居の地とする。(ロシア、樺太の国境画定をせまる)
・ 箱館が開港
幕府、140人余の大規模調査隊を東西蝦夷地、樺太に派遣、松前藩の防衛能力の貧困さとアイヌ民族酷使の実態が報告される    ▼出典は?
市川守弘『アイヌの法的地位』86p
「幕末、徳川幕府は諸外国との間でさまざまな条約を結んだ。ロシアと日露和親条約で国境を定めた。アメリカ、 イギリスとの和親条約で下田、箱館の港を開いた。明治政府はそのまま遵守した。 しかしアイヌとの関係では幕府がとったアイヌとの法的関係をすべて放棄した。幕府・松前藩とアイヌの関係は、1604年(慶長9年)の黒印状以来 、幕府・松前藩とアイヌとの間で守られてきたいわば国際法に基づく関係であった。」
▼この指摘はすばらしい!!(2021.9.6) 
追加:138p
「日本がロシアとの条約で蝦夷地を日本の領土としたとしても、それはあくまで日本の政府が、アイヌコタンとの土地買い取り権を他国に先んじて 得たということにすぎない。千島列島問題も同様。勝手に和人が入り込んだり、 アイヌを強制的に移住させたりすることは当時の国際社会からすれば違法なことであった。」
▼この指摘もすばらしい!!(2021.9.7)

**後幕府直轄時代**
▼「日本における北方研究の再検討」(煎本孝)論文「鎖国から開国へと激動する国内、国際情勢の変化に伴い、 蝦夷地は幕府の第2次直轄時代(1855年〜1867年)を迎える。」

2019年松浦武四郎生誕200年記念展静嘉堂文庫美術館。
1845 松浦武四郎、1回目の蝦夷地踏査(1858 年まで計 6 回)
1855年全蝦夷地守備 (拡大)『新旭川市史』江戸幕府の危機感がひしひしと伝わる。 一方で松浦武四郎さんの調査でアイヌ民族の実態、生活がよくわかる。ほぼ植民地。(2022.4.19)
1855年  幕府、松前周辺を残し、木古内(きこない)、乙部(おとべ)村以北の全蝦夷地を再直轄
     東北諸藩に蝦夷地警備を命ずる(対ロシア対策)
1856年 箱館奉行、アイヌ民族を役土人・平土人とする、日本語の奨励
1857年 アイヌ民族への同化政策再開(蝦夷地の混乱を招く)
1858年 (安政5年) 松浦武四郎「戊午(ぼご) 東西蝦夷山川地理取調日誌」
アイヌ民族への非道の実態を暴く(支配人、番人のメノコ姦奪) アイヌ民族の人口の激減(他場所との縁組を禁止)、 蝦夷地の荒廃(アイヌ虐待、松前藩・御用商人の非道暴露糾弾) 刺客につけねらわれる
松浦武四郎さんの『知床日誌』につぎの報告があります。
奈良女子大学学術情報センターの「知床日誌」のHPです。 有難い研究です。感謝。

「見る影もなく破れて只肩に懸る斗のアツシを着 如何にも菜色をなしける病人等 杖に助りセカチ男子  カナチ女子等大勢其汐干にあさりけるか 我等を見て皆寄来りし故 其訳を聞に

舎利アハシリ両所にては 女は最早十六七にもなり夫を持へき時に至れは  クナシリ島へ遣られ 諸国より入来る漁者船方の為に身を自由に取扱ハれ
 男子は娶る比に成は遣られて  昼夜の差別なく責遣ハれ 其年盛を百里外の離島にて過す事故 終に生涯無妻にて暮す者多く  男女共に種々の病にて身を生れ附ぬ

病者となりては働稼のなる間は五年十年の間も故郷に帰る事成難く  又夫婦にて彼地へ遣らるゝ時ハ 其夫は遠き漁場へ遣し 妻は会所また番屋等へ置て番人稼人皆和人也の慰ミ者としられ  何時迄も隔置れ

それをいなめは聞し由を委に話しけるに 此一事ハ同人も深く心を用ひ居らゝ由にて  懇にうけかひ呉られけるも嬉し
余も今はかゝる事まても彼等の言の訳る迄に其国言に通せしそ嬉しけれは  取敢す一首の腰折を其壁にしるし置ものなり 日数へし程もしられて 蝦夷人の言も聞わくまてに成けり          知床日誌終」

1859年(安政6年) 幕府、蝦夷地を東北6藩の分領支配とする ロシアと樺太の領土交渉
西蝦夷地石狩場所絵図 1860年頃(拡大)
人種主義の歴史1 人種主義の歴史2 平野千果子(拡大)
頭蓋測定
サミュエル・モートン(1799−1851)
1862年(文久2年) ロシアと樺太の領土交渉
▼交渉の経緯をWikipediaで読むとロシアは樺太全部を領有したい意図が見える。
(2018.11.15 取り敢えずここまで完了しました。)

1865年 英国領事館員、森(もり)村、落部(おとしべ)村のアイヌの墓を盗掘する
▼アイヌ人骨盗掘事件。大問題だった。
▼昨晩すでに布団に入っていた私を家内がわざわざ起こしに来てくれた。ETV特集選「アイヌ民族苦難の歴史いまを生きる若者たち」をやっているからと。 北海道大学のアイヌ人の盗掘した頭蓋骨の返還のシーンがあった。アイヌの川村兼一さんの謝罪要求に対して大学側は押し黙って「謝罪」を拒む。 耐えきれず同席していた大学の若い研究者一人涙ながらに謝罪する。このシーンを見て、私は今朝4時半に目が覚めて眠れなかった。 アイヌ民族の無念さが心に刺さったままだった。
大政奉還 容堂の建白だからこそ 2022.11.25朝日朝刊(拡大)

やはり自分はやらなければ、との思いを強くした。(2019.10.27)
1866年 英国公使アイヌ民族に謝罪
1867年(慶応3) 第15代将軍徳川慶喜「大政奉還」
▼マルクス(49)『資本論』発行(マルクス地球環境問題の研究開始いわゆる後期マルクス。  この頃帝国主義はじまる)

1867年(慶応3年)12月9日 王政復古の大号令
王政復古の大号令 (拡大)

 *開拓使・三県・道庁時代**(居住植民地)
1868年(M元)
1・3「鳥羽伏見の戦」
2・27清水谷公考(しみずたに きんなる)、高野保建両公卿、「蝦夷地開拓に関する建議書」提出
3・12 廟議に基づき蝦夷地開拓の大方針樹立
3・9天皇三職(総裁・議定・参与)を召し蝦夷地開拓の可否を下問
3・10 天皇再度三職を召し蝦夷地鎮撫使差遣遅速に関する建言を促す
勝海舟ノート(拡大)
▲海舟、勉強家(2023.2.1)
勝海舟 2023.1.31朝日朝刊(拡大)
江戸城無血開城 https://shirobito.jp/article/313
「勝海舟と西郷隆盛の出会いは江戸の危機から4年前、第一次長州攻めのとき(1864年 海舟41歳 西郷36歳)。 この当時の薩摩藩はまだ幕府側でしたが、幕府がいつまでも長州への攻撃を開始しないので、 動向を探ろうと思った西郷隆盛が勝海舟を訪ねたのです。
このとき勝海舟は西郷隆盛に幕府の政治がもう機能しなくなっていることと、だれでも参加できる共和政治の必要性を説明しました。
▲蘭学を通してヨーロッパの情勢に通じていたようだ。(2023.2.1)
勝海舟は幕臣なのに、外部の人に幕府の批判をしてみせたのですから、驚いてしまいますよね。 もちろん西郷隆盛も驚きましたが、勝海舟にはしっかりと自分の考えを貫く肝の太さがあるのだと感心しました。 一方の勝海舟は、まったく新しい政治構想に純粋な興味を示す西郷隆盛に器の大きさを感じます。 二人はお互いに、初対面から相手に一目置いていたのです。」
▲このような出会いと信頼があったので無血開城につながる。(2023.2.1)
「山岡鉄太郎は西郷隆盛に勝海舟との会談をとりつけ、西郷隆盛は3月13日に急いで江戸の薩摩藩邸に入り、 14日に勝海舟と西郷隆盛の会談が持たれます。」
▲結果は見事というほかない。(2023.2.1)
3・19 清水谷公考等蝦夷地問題に関する再申書を提出
津軽と南部 青森は津軽と南部に分かれていた(拡大)
3・25 副総裁岩倉具視 三職、徴士に対し蝦夷地開拓の事宜三条を策聞
4・12「箱館奉行」を「函館裁判所」に  
4・15 政府、松前・津軽・秋田・南部・仙台・各藩に箱館警備を命ず 
4・17 政府蝦夷地開拓条項7か条指令
5・24「函館裁判所」を「函館府」と改称  
小樽内騒動(※漁民一揆)(4月、御用所襲撃・御用金強奪)
箱館裁判所を箱館府に清水谷公考を知事に
御一新の布告
箱館ハリストス正教会創立
松浦武四郎「蝦夷山川取調調書等」献上
10・20 榎本武揚.幕府脱走軍.函館府を襲撃、清水谷府知事.津軽へ避難
「戊辰戦争」・「明治維新」改元9月8日
「5カ条の誓文」・東京遷都
国会図書館:法令全書
国会図書館:太政官職制沿革原文
政体書1 御誓文(拡大)
政体書2 ▲三権分立を最初に謳っている。
官武一途。
朝廷と武家が一体となって。
政令二途の患いを無くする。
朝廷と幕府が別々の命令を出すことの弊害を無くする。

(拡大)
政体書3 (拡大)
武家か天皇か1 2023.11.25朝日朝刊(拡大)
政体書4 (拡大)
武家か天皇か2 ▲二つの政治軸が一本になった、それが官武一途の意味。(2023.11.28)
(拡大)
政体書b (拡大)
政体書(せいたいしょ)は、明治初期の政治大綱[1]、統治機構について定めた太政官の布告である。 副島種臣と福岡孝弟がアメリカ合衆国憲法および『西洋事情』等を参考に起草し、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に発布された[2]。 同年4月27日頒布[1]。
▲支配階級、進んでいる。今は市民の方が進んでいる。(2023.11.28)
「天皇 蝦夷地開拓方針下問」
▼明治天皇1852年生まれ、御年16歳。側近が政治を動かしたということ。
▼wp:三職
慶応3年旧12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が出されると、依然として強力な政治体制を維持していた 江戸幕府に代わる政治体制の確立が急務となった。そこで、幕府・征夷大将軍・摂政・関白に代わるものとして、
総裁(有栖川宮 熾仁親王・ありすがわのみや たるひと しんのう)
議定(皇族2名・公卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)、
参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)
の三職が任命された。
慶応4年2月の主な人事  [総裁] 有栖川宮熾仁親王 [副総裁・議定] 三条実美、岩倉具視
▼wp:有栖川宮熾仁親王 時の皇族の第一人者として明治天皇から絶大な信任を受けた。熾仁親王の葬儀は国葬
▼wp:参与
議定の会議は上議院ないし上の議事所、参与の会議は下議院ないし下の議事所とよばれていた。 なお同じく参与でも、廷臣出身のそれは上の参与、藩士いいかえれば徴士(ちょうし)からなる参与は下の参与とよばれた。 しかし、下の参与は西南雄藩出身の有力藩士たちであったから、維新政府の実質的な指導部はここにあった。
▼(HP「屯田兵と北海道の開拓」から)
明治新政府は、次のような「蝦夷地開拓条項」(7カ条)を清水谷公考に指令した。(上記年表の4・17 「政府蝦夷地開拓条項7か条指令」は下記の内容)
一、総督に開拓の用務を委任する。
一、蝦夷の呼称をやめ、測量の上、南北二道に分けて呼称を定めること。
一、各藩から土地開拓の権威を招き、総督の管轄の下に現地の実用に応じて順序を建てて開拓を進めること。
一、蝦夷地からの税収は開拓費に充て他用しないこと。
一、開拓を希望する諸藩に土地を割渡し(割譲)してもよい。開拓した場合は検査の上、相応の課税をする。
一、北蝦夷地(樺太)が見える宗谷付近に一府を設定すること
一、蝦夷地開拓の目途がつき次第、北蝦夷地開拓の方策を立てること。
▼2月、3月の動きを見ると明治政府の喫緊の課題が対ロシアのための北海道開拓にあったことがよくわかる。 しかし、そもそも誰の土地を開拓しようとしているのか。 アイヌ民族が全く眼中にない。特に問題は「開拓を希望する諸藩に土地を割渡し(割譲)してもよい」との点。
▼wp:ハリストス(ギリシア語: Χρiστοs, 教会スラヴ語・ロシア語: Христос)は、 中世以降のギリシア語の発音(フリストス)を基にした教会スラヴ語・ロシア語での発音に由来する、日本ハリストス正教会において使われる表記。
1869年(M2)
5・18  榎本武揚・脱走軍・降伏、五稜郭・明け渡し
5・21「蝦夷地開拓御下問書」・「蝦夷地開拓の大方針」
(拡大)精度の進化
1785年林子平地図 1790年最上徳内地図
1818年伊能小図
1869年開拓使地図
「蝦夷地の儀は皇国の北門、山丹・満州に接し、経界祖定といえ共、北部に至りては、 中外雑居致候処、是迄官吏の土人を使役する、甚だ苛酷を極め、外人は頗る愛恤を施し候より、 土人往々我邦人を怨離し、彼を尊信するに至る。
一旦民苦を救うを名とし、土人を煽動する者ある時は、其禍忽ち箱館、松前に延及するは必然にて、 禍を未然に防ぐは、方今の要務に候間、箱館平定の上は、速に開拓教導等之方法を施設し、 人民繁殖の域となさしめらるべき儀に付、利害得失各意見忌憚無き申し出ずべく候事。」
(蝦夷地は日本防衛の北の最重要地であり、国境を粗(あら)く定めたとは言え、 北部(樺太・サハリン)では日本人とロシア人が雑居しており(1855年、日露通交条約で千島の択捉島と得撫島の間に国境を設けたが、 樺太については設けず、1867年の「樺太千島ニ関スル仮規則」で両者の雑居地とみなすと定めた)、日本人は官吏がアイヌを酷使しているのに対して ロシア人は丁重に扱っているので、アイヌは日本人よりもロシア人を信頼している。
もしロシア人がアイヌを煽動したら、その禍は箱館・松前にまで及ぶ。だからそれを未然に防ぐために「箱館平定」 (榎本軍平定)後はすぐに開拓教導し、人民繁殖の域とするべきだ。そのことで十分に意見を出してほしい。)

*天皇から蝦夷地開拓総督中納言議定・鍋島直正への勅宣  鍋島直正の詩が新政府の志向をよく表している。(2022.1.6)
「蝦夷地の開拓は皇威隆替の関する處、一日も忽せにすべからず、汝直正深く国家の重きに荷ひ、 身を以て之に任ずるを請ふ、其憂国済民の至情嘉納に堪えず、獨り恐る、汝高年遽かに殊方に赴くを。 然共朕之を汝に委して、始めて北顧の憂なし仍而督務を命ず。他日皇威を北彊に宣る、汝が方寸にあるのみ、汝直正懋せよ」
(いかに蝦夷地の開拓が国際的に重視されたかを知る)
         
6月「版籍奉還」領地領民を天皇に返上、松前兼広、館藩知事に「知藩事」(藩知事)

「開拓使」設置、開拓使時代へ(1869〜1881)
北海道行政機構のうつりかわり
「カムイチェプ読本」26p(拡大)

北海道庁(ほっかいどうちょう)は、1886年(明治19年)に設置され1947年(昭和22年)まで存在した、 内務省直轄の行政区画北海道を管轄する地方行政官庁である。(ウィキペディア)
青字・橙色区分が北海道11国(渡島・胆振・日高・後志(しりべし)・北見・千島・石狩・天塩・十勝・釧路・根室)
 黒字が現在の14振興局(拡大)


7・8 「開拓使」(明治政府の直轄機関)設置、東京芝増上寺。 長官・佐賀藩主・中納言議定・鍋島直正(8・6退任)
8・15「蝦夷地」を「北海道」と改称、

太政官日誌 (拡大) (拡大) (拡大)
11か国(渡島・胆振・日高・後志(しりべし)・北見・千島・石狩・天塩・十勝・釧路・根室 )86郡を置く、 千島国はクナシリ、エトロフ、「蝦夷地」の「和人地」化(人口6万人、含むアイヌ)
アイヌ民族にとって「アイヌモシリ」の消滅を意味する事
海保峯夫『日本北方史の論理』(拡大) 268p蝦夷地の消滅
『日本北方史の論理』192p和人地の拡大(拡大) 「1865(元治2)年にはヲタルナイ場所が和人地に準ずる「村並」 の穂足内村となるほどだった。」
1833年〜1836年天保の飢饉で東北からヲタルナイに移住者が急増。 大坂拓論文より(2022.5.3)
▼8・15「アイヌモシリ」の消滅。こういう8・15があったことにはじめて気づきました。(2020.7.3)
▼「太政官日誌」で実際の太政官布告を見ました。東京城に甲寅(きのえとら当時の8/15の表記)高札として告知されたようです。 (2021.10.5)
▲海保峯夫『日本北方史の論理』268p
「明治2年(1869)8月、明治政府は蝦夷地を北海道と改称した。 これは、本来、蝦夷人の土地という意味を持つ 蝦夷地に対して、そこが天皇制国家の領土そのものであることの内外への宣言であり、 蝦夷地に対するアイヌ民族の主権を完全に否定したもの と解することができる。」(2021.9.27読む)

「蝦夷地」は「和人地」(シャモ地松前地)と区別された「異域」。
蝦夷地は幕藩制国家の支配の及ばない異域、あるいは異民族の地を指し国家外を意味する。
道は、古代国家に淵源をを持つ領域概念

和人地  和人地の定義
歴史に見るアイヌ先住権  榎森先生講演記録
http://kaijiken.sakura.ne.jp/symposium/online2021/Emori_Susumu_20220123.pdf(2023.2.2見つける)
歴史に見るアイヌ先住権1(拡大) 榎森先生講演記録2022.1.23


入北記
歴史に見るアイヌ先住権2(拡大) ヲタルナイも「和人地」と確認。(2022.5.6)


玉蟲左太夫
(たまむしさだゆう)
榎森先生仙台駅で
2023.1.30
歴史に見るアイヌ先住権3(拡大)
ヲタルナイも含む「松前地」のみが日本国の「領知」であった。 それ以外はアイヌモシリとして回復の対象。(2022.5.15)
歴史に見るアイヌ先住権4(拡大)
アイヌ民族は課税対象外。 明治時代の土地台帳・戸籍には番外地、無号地と表記。
1865年の和人地
▲和人地に関する研究の到達点は上記地図とおもわれる。(2023.2.2)
歴史に見るアイヌ先住権5(拡大) ▲サケマス捕獲権・先住権の証拠。
榎森先生のこの資料は安政4年(1857)・明治維新11年前、 玉蟲左太夫が箱館奉行に随行して巡検した模様を著わした『入北記』に基づいている。当時の道東の「場所」での交易の実態が分かる記録。(2022.5.15)
ドイツ人ケンペル
(拡大)
ケンペルの地図
▲松前だけが日本。北海道のそれ以外は蝦夷=アイヌモシリ(2023.1.30榎森先生から直接いただく。)
▲松前が一つの島とイメージされている。渡島として地名に刻まれている。 蝦夷島とは別の島と考えられていたのだろう。(2023.2.2)














北海道市町村区域地図
和人地現在の市町村
▲渡島総合振興局の11市町と檜山振興局の今金町とせたな町の北部を除く6市町の17市町プラス小樽市の18市町が和人地と思われる。 (拡大)
▲慶応元年1865年の海保地図と重ね合わせると179市町村のうち161市町村がアイヌモシリとなる。この事実の確認をすること。(2023.1.31)(拡大)
▲「北海道市町村区域地図」を見ると14の振興局があり、それぞれの振興局に市町村が包含され、全道で179の市町村があります。 和人地は渡島総合振興局の11市町と檜山振興局の今金町を除く6市町と小樽市の18市町となります。つまり179の市町村から18の市町村を除いた161市町村が 明治2年時点のアイヌモシリとなります。それに南カラフト、千島が入ります。この事実をロシアを含む北海道の161の市町村議会でまず確認決議を行っていただきたいと考えています。(2023.2.1)

▲アイヌMIP回復運動が始動しはじめたら「国連・先住民族権利宣言」 の実現を支援する全国的な市民組織を立ち上げること。(2023.2.1)

北海道179の市町村
石狩・後志振興局
檜山・渡島振興局
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留萌振興局
空知振興局
北海道市町村区域図
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宗谷振興局
上川振興局
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オホーツク振興局
根室・釧路振興局
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十勝振興局
日高振興局
胆振振興局
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▲松前町を筆頭に15の町、函館市、小樽市、北斗市の3市も和人地として確認の議会決議をお願いしたほうがよさそうですね。 (2023.2.2)

9/1 シャマニ228p 9/2 ウラカワ233p 9/2 ミツイシ239p 9/3 シツナイ244p 9/14 ユウフツ269p 9/17 シラヲイ279p  9/19 ホロベツ283p 9/20 モロラン288p 9/21 ウス291p 9/22 アフタ301p
▲玉蟲左太夫さんの行程が見えてきた。秋、季節のいい、道東・道南の巡検の旅。(2022.5.15)
▲『入北記』安政4年(1857)閏5月11日箱館を発ち、西蝦夷地を宗谷まで行き、6/11樺太に渡リ、7/22宗谷に戻り、 オホーツク沿岸を通り、太平洋沿岸の道東・道南を巡り9/27に戻る4ヵ月の玉蟲左太夫さんの巡検随行記である。主人は鎮台堀利熙公、総勢31名の大巡検。 「其節ノ見分筆ニ任セテ記ス」。(2022.5.16)
▲『入北記』を読みます。
スッツ (拡大)
『入北記』シヤマニの箇所(拡大)
▲文化3年(1806)創建天台宗等ジュ院の記述(2022.5.15)
スツツ、和人137軒、土人3軒18人。疱瘡のため56人中38人死亡。 
ヲタスツ、和人150軒、土人ナシ。疱瘡のため土人19人中10人死去、残り9人山中に引き籠り帰らず。
イソヤ、和人116軒、土人3軒。
イワナイ、和人310軒、土人15軒。
ヨイチ、和人60軒、土人84軒。
ヲシヨロ、出稼ぎ102軒、土人30軒。
タカシマ、出稼ぎ123軒、土人18軒。
ヲタルナイ、出稼ぎ280軒、土人25軒。
▲ヲシヨロ、タカシマ、ヲタルナイ、出稼ぎ和人102軒〜280軒で圧倒的に和人の数が多い。 出稼ぎ人で「和人地」の実態を作っている。(2022.5.17)
石狩川、出稼ぎ42人、土人165軒。「この場所は秋味のみ故秋にならざれば出稼人来らざるなり」(5.24記) 「松浦竹四郎(39才)旅宿へ参り(玉蟲は34才)同人案内蝦夷の細工並びに雇小屋等一見したり」 (5.26記)
マシケ (拡大)
ハママシケ、出稼ぎ215人、土人51軒、204人。
マシケ、出稼ぎ768人、土人32軒、99人。
▲マシケの出稼ぎ768人。驚き。ヲタルナイは280軒だが人数が分かればなお良し。(2022.5.17)
ルルモツベ、出稼ぎ368人、土人56軒、199人。「土人大いに支配人等へ服し居るよう見へたり。」
トママイ、出稼ぎ37人、土人26軒、114人。「開墾なるべき所多し。」「石井文左エ門、真実開墾其の外土人の撫育を志居り」
▲最初、和人の支配地とアイヌモシリの区分への関心から人数だけに絞ってメモを取っていたが武四郎さんに会ったとか、開墾のことも目に止まるようになった。 気が付いたことをメモる。(2022.5.19)
テシホ、出稼ぎ数十人、土人62軒、268人。
ソウヤ、出稼人ナシ、土人84軒、395人。
「舟中の景色西リイシリ山を目前に見、北カラフト島を遠望絶景とも云うべし。」
北緯50度の意味 (拡大)『植民地化の歴史』168p
1905年の地図で明らかなように北緯50度はカムチャッカ半島の先端でもあります。 今日片桐さんの地図で気づきました。(2022.5.26)
カラフト北緯50度 (拡大)АТЛАС СССР
樺太コルサコフ (拡大)
▲ここまで来て初めて出稼ぎ人ナシ。逆にアイヌの人の多さに驚く。
次はカラフトに渡る。(2022.5.19)

▲安政4(1857)年7月10日の記録。エンルモコマフ滞留時の記録。
南樺太地図 九春古丹(拡大)
「クンシュンコタン(九春古丹)支配人清水平三郎方へ参り種々談話。ナヨロへ渡来した露人の一条承る。 彼(露人)は50度を以って界と致しき所存。土人は山奥へ隠れ彼に服せざるように見えたり。 近々南部津軽等へ及ぶも知れず。厳重警衛ありたきものなり。」
▲幕府にとっては超一級の情報。(2022.5.22)
クシュンコタン(コルサコフ、大泊)、土人187軒、1,711人。78カ村、内無民家20カ村。役土人帰俗の者名前(例 ラムランケ事 蘭平)、24人。
▲面白い記録の転写。クンシュンコタンの毎日の気温。安政3年(1856)同所詰足軽内藤道太郎の記録。
5/22朝55度、日中62度、夕57度に始まり安政4年2/29朝24度、日中40度、夕29度とまで毎日記録。 華氏で記録。
摂氏に直すと5/22朝12.7度、日中16.6度夕13.8度、
安政4年2/29朝-4.4度、日中4.4度、夕-1.6度。
当時華氏を使っていたことに意外でした。
一番気温の高いのが安政3年7/8日中79度(26.1)、低いのが12/15朝1度(-17.2)です。 玉蟲さんはよほど興味があったのでしょう、克明に転写されています。私も興味がありました。(2022.5.22)

▲カラフト・アイヌの中に帰俗の人が居たということは江戸幕府と何がしかの繋がりがあった、ということ。 (2022.5.19)
樺太シラヌシ(拡大) 明治樺太地図で検索
シラヌシ(白主)、6.26弁天社へ詣でける。嘉永6年(1853)堀鎮台の廻島命を受けた次第を認めた額。
▲7月22日ソウヤに戻る。
エサシ〜チカフトムシ、42軒、169人。
モンベツ〜トコロ、155軒、692人。
ノトロ〜アハシリ〜トウブツ、94軒、376人。
シャリ〜シレトコ〜シャリ〜アヲシマイ、82軒、327人。
子モロ〜ウヱンベ、133軒、615人。
アツケシ〜ウヱンベ、48軒、8村、201人。
8/19台場並びに国泰寺(御朱印百俵45両)。「文化元年(1804)4月〜5月天台・浄土・禅3宗の寺院蝦夷地に建立」(新版日本史年表)。 「仮陣屋佐藤保太夫を尋ねし、数年来の面会兼ねて厳制を敗り、一杯酒を傾けたり」「夜五ツ時ニモナリ」「是より禁杯」。
クスリ、247軒、1,324人。
トカチ、31村、261軒、1,251人。 「地味も宜しく開墾等には極上の地と思わる」
ホロイツミ、27軒、106人。
シャマニ、9月朔日、28軒、183人。「サテ此辺ニ至りテハ大イニ風土変ジ気候宜シク開墾等ニハ極上トモ云ウベシ」
「等ジュ院。御朱印百俵12人扶持御手当48両。気候とてもアツケシ等に比すれば雲泥の異なり。畠抔(など)は自由に開けべし。」
ウラカワ、91軒、467人。
ミツイシ、49軒、226人。「漁業モ可ナリノ由ナリ」
シツナイ、127軒、675人。「地味宜シク開墾ニハ極妙ト云フベキナリ」
ニイカツフ、110軒、410人。「土人家モ数多アリテ西北海岸トハ雲泥ノ違ヒナリ」「地味宜シク…在住ヲ願フ者アラバ此辺第一ト云フベシ」
サル、250軒、1,165人。「其傍ラニ義経ノ像アリ。
コトニ山(三角山) 千歳川 (拡大)
「コトニ、ホンコトニ、シンノシケコトニ、シャクシコトニ、何レモコトニ山ヨリ落ル河ナリ。此辺鹿熊多シ」「ウシウスベツ 鱒多シ」「千歳  鮭サルカニ多シ」「千歳川ハ文化年中ヨリ名付…此川鶴多キユヘ」
ユウフツ、35村、229軒、1,146人。(ユポさんの春日の江戸期の地名 キリカツ村、4軒、19人、下キナウス村、4軒、24人)
シラヲイ、85軒、413人。
ホロベツ、52軒、266人。
モロラン、46軒、264人。
ウス、95軒、481人。
アフタ、138軒、593人。
ヤムクシナイ、84軒、365人。
落部、49軒、179人。
9月27日。「是ニテ終リト致シケル。」

吉川仁論文要点(拡大)

「先住民族としてのアイヌ民族の土地に対する権利・利益を主張する可能性を求めることが重要」
▲ まさしく今回の裁判で取り上げようとしていること。(2022.9.10)
吉川仁論文「アイヌ民族の土地権に関する序論的考察」 https://core.ac.uk/download/pdf/267847804.pdf
ウィキペディア:高島郡
郡発足以降の沿革
北海道一・二級町村制施行時の高島郡の町村(2.高島村 紫:小樽市)
明治2年
分領管轄(拡大) 分領管轄の実際『瀬棚町史』より

8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、後志国および高島郡が設置される。開拓使が管轄。
9月14日(1869年10月18日) - 兵部省の管轄となる(北海道の分領支配)。
明治3年1月5日(1870年2月5日) - 再び開拓使の管轄となる。
▼開拓使と兵部省の勢力争い?加藤好男著「石狩アイヌ資料集」108pを読んでいて。(2021.5.5)

萱野茂
「アイヌはアイヌモシリ、すなわち日本人が勝手に名づけた北海道を日本国へ売った覚えも、貸した覚えもございません。」
▲かつて北海道、千島、南樺太はアイヌモシリであった。 北海道の179市町村と千島、南樺太のロシア当局にこの事実を正式に確認すること。アイヌモシリ回復の準備作業として。 平山先生、榎森先生の協力を得て。(2023.1.1)
市川守弘『アイヌの法的地位』91p
「もし明治政府が蝦夷地の土地を欲するならば、明治政府はアイヌの各コタンと条約を結んで土地を買い取る必要がある。一官庁(太政官外局)にすぎない 開拓使がアイヌの権利・権限に関わる事柄を決定し、執行していたということは、その合法性において大いに問題のあるところである。」
▼この指摘もすばらしい。市川弁護士はここを裁判で確認されたか?(2021.9.6)
追加:147p
「明治政府が条約を締結することもなしに、各コタンが有していた主権や先住権を各コタンの意思にかかわらずに奪うことはやはり合法的とはいえず、 明確に違法行為、つまり日本国家、ときの明治政府による侵略行為であった。したがって、各アイヌコタンは、依然としてその主権や〈先住権〉を回復 する正当な権利を持っているのである。」
▲すばらしい内容だが文章のトーンに弱さを感じる。私が8.28に考えた国連の「先住民族権利宣言」からでなく、 この歴史的事実と1830年代のマーシャル判決以来の国際慣習法を根拠に、アイヌモシリ回復を主張できないか。(2021.9.7)
追加:150p
「私は、アイヌに対し、まずは土地の返還を考えるべきだと思う。」
▲私がこの本を前回読んだのは、2021.2.21。そのときのコメントに、なぜこれをやらないのか?と書いている。今回も同じ 感想を持った。(2021.9.8)
常本照樹「アイヌ民族と「日本型」先住民族政策」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/16/9/16_9_9_79/_pdf/-char/ja
▲上記論文は恰好の批判の対象。市川本と同時に読み進めること。(2021.9.8)

北海道は皇国の北門 ▲この布達の表題は「北海道開拓大義」。「撫育の道を尽くし、教化を広め、風俗を敦すべき事。土人と協和…心を尽くすべき事」 と謳っている。いつから間違え始めたのか。(2022.6.26)(拡大)


「なぜ、アイヌモシリとアイヌ民族は日本に属するのか」津軽藩、南部藩、伊達藩が、青森県、岩手県、宮城県と改称されたのとは質が異なる。
近代天皇制国家によるアイヌ民族への「植民地支配」の開始  
9月 「開拓使」函館出張所、第2代長官・東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)赴任
「場所請負人」(場所請負制度)廃止(松浦武四郎の強い建議)。
翌年「魚場持(ぎょばもち)」と改称(M3年10月)
アイヌ民族を奴隷のように酷使して濡れ手にアワのように大儲けした商人たちは連名で嘆願状を出し 従前どおり搾取を続けた(奸商は開拓使長官と取引、松浦武四郎開拓使判官辞任)
▲武四郎は新政府に期待を掛けた(それは鍋島の詩を地図に書き込んでいることから窺える) が失望したのだろう。(2022.1.6)
10月 根室・宗谷に出張所設置 
▼3月  天皇、東京に転居
▼17歳の天皇が55歳の病身の鍋島直正への勅宣は直正(2年後に亡くなる)への懇請とも聴こえる。
▼8・15「蝦夷地」を「北海道」と改称したときの「北海道」の人口はアイヌ民族を含んで6万人だったようです。 当時日本全体の人口は3,110万人(壬申戸籍による)です。
▼ wp:「開拓使」という名称は、律令制の下で使用された令外官の職名であり、太政官などとともに明治になって再度使われた。 令外官の多くは、〇〇使という名称が充てられた。
開拓使は、北方開拓のために明治2年(1869年)7月8日から明治15年(1882年)2月8日まで置かれた。 明治政府は中央・地方官制に頼らず、国家権力の独自の政策、つまり、「蝦夷地之儀ハ皇国ノ北門」という認識であり、 ロシアに対する危機感とともに開拓自身が近代国家の任務と考えられ、開拓のための臨時の地方行政機関であった。 省と同格の中央官庁の1つで、北方開拓を重視する政府の姿勢の表れだが、 初めの数年は力不足で、内実が伴いはじめるのは明治4年(1871年)からであった。

▼ wp:「開拓使の2代長官・東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)は、農工民約200人をともない、 イギリスの雇船テールス号で品川を出帆。9月25日に箱館に着任した」とあります。 開拓の、侵略の、意気込みが分かります。
 1870年(M3)
* 黒田清隆、5月開拓使次官に就任(参議〈国務大臣〉・陸軍中将、屯田兵統理を兼務) 北海道は黒田王国と呼ばれる
*開拓使の施政方針「開拓見込大略」
開拓見込大略 (拡大) (拡大) (拡大)
開拓見込大略・北海道大学北方資料データベース
1 海漕を利し、以って人民に便し、且諸物品の有無を通すべき事。
2 人民を移し、開拓の基を立べき事。
3 移住人え恒産を制し与え、専ら開墾を勉め、農業を勤むべき事。
4 漁場を増開て、海に遺利無之様致すべき事。
5 地宣(よろしき)を相(み)て、生産を阜(さかん)にすべき事。
6 金銀鉱を開て、貨源を広むべき事。右当務也。
7 内地同様、府県の制を定べき事。
8 海陸軍を置て、防備を厚くすべき事。
9 大小学校を興して、大に皇化布施すべき事。
  右後来見込也。当見込大綱、如此御座候事。
    明治3年5月  開拓使
▼ユポさんは「開拓見込大略」を
アイヌ民族の生存権の無視・否定
アイヌ民族の自決権の無視・否定
「アイヌモシリ」の無視・否定
と断じられる。
▼わたしは、少なくとも1870年以前の、場合によってはシャクシャイン以前の アイヌ社会を取り戻すための訴訟を準備しています。(2020.7.3)
対ロシアへの国防・軍事的観点から見る重要な地
明治政府による「北海道開拓」の最大の目的
和人・シャモによる開拓
*「オムシャ」廃止
*「移民規則」制定 12月
・農家伍組の制を立て、村長および惣取締を置き手当てを支給
*夕張アイヌ民族、強制移住
▼明治政府はもっぱら対ロシアへの国防・軍事的観点から蝦夷地開拓を考えている。
現在の沖縄の米軍基地問題と似ている。
明治政府はアイヌ民族を犠牲にして対ロシア軍事政策、アイヌ民族は眼中にない。
現在は沖縄を犠牲にして対中国・ロシア軍事政策、沖縄人は眼中にない。
いずれも東京の「日本」を守るため。

明治3年のこの「蝦夷地開拓の大方針」がアイヌ民族のその後の運命を決定づけた。
▼オムシャとは、資料を読むとアイヌ民族に服従を強いる儀式。
1871年 (M4)
開拓使布令録
 コマ番号104

開拓使布達31号10.8
(拡大)
「廃藩置県」、館藩(松前藩)は、「館県」に、箱舘は「箱舘県」に
「開拓使」・「北海道開拓10年計画」樹立、黒田清隆 献言
*「投資植民地」から「居住植民地」へ *  
アイヌ民族を、法律によって、生活、生業の全てを拘束した
4月「戸籍法」公布  アイヌ民族を日本国民に「強制編入」 「帰化土人」「古民」「土人」「旧土人」
10・8(開拓使布達)
開拓使への請書1(拡大)
開拓使への請書2(拡大)
*アイヌ民族の風俗習慣の禁止
▲この布達の原文を確認すること。謝罪の第一。(2022.6.20) 国会図書館のデジタルコレクションで確認。(2022.6.23)
・@死亡者の居家焼却、転住の禁止
(これがどういう辛いことだったのか、参照 「旭川アイヌの近・現代史
  川村兼一)

・A女子の入墨の禁止
・B男子の耳輪の禁止
・C日本語の「強制」・アイヌ語の「禁止」
・アイヌ民族の開墾者に日本式家屋、農具を与える
アイヌ民族への新たな支配と差別の始まり
アイヌ民族の日本人化・皇国の臣民化(強制同化政策)
明治の礎「北海道開拓」第ニ章
朝日夕刊2021.9.8 (拡大)「言葉を奪うということはもっとも慙愧すべき罪」
(詩人・茨木のり子)

「黒田清隆が10年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画を建議し、いわゆる「開拓使10年計画」が決定される。」
wikipedia:黒田清隆
明治3年(1870年)5月に樺太開拓使次官。開拓使本庁を札幌に移し、北海道の開拓に本腰を入れなければならないと論じた建議書を提出。
明治4年(1871年)1月から5月まで、アメリカ合衆国とヨーロッパ諸国を旅行した。 旅行中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンが黒田に会って顧問に赴くことを承諾し、他多数のお雇い外国人の招請の道を開いた。
帰国後、10月15日に開拓長官東久世通禧が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂点に立った[5]。
▲やはり洋行している。岩倉使節団より早い。(2023.11.27)
明治4年の国家予算歳出合計は5,773万円。(池田さなえ「皇室財産の政治史」14頁 人文書院)
統計表一覧:財務省
第1期30,505,085
第2期20,785,839(明治元年)
第3期20,107,672(明治2年)
第4期19,235,158(明治3年)
第5期57,730,024(明治4年)
第6期62,678,600(明治5年)
第7期82,269,528(明治6年)
▲20,000,000円の膨らみ。岩倉使節団だろう。(2023.11.27)
第8期66,134,772(明治7年)
明治8年度69,203,242
明治9年度59,308,956
明治10年度48,428,324
▼ wp:明治末以降には、北海道・樺太などの開拓に伴いアイヌ民族を公式に「旧土人」と称した。
1899年(明治32年)(北海道旧土人保護法)新札幌市史によると元々の住民アイヌ民族を旧土人、開拓者を新土人と概念上区分し、 旧土人が官庁用語として残ったとある 。
新札幌市史編集長海保洋子. “近代のアイヌ民族史”. 公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構. 2016年11月15日閲覧。
「「古民」、「土人」は土地の人という意味で、本州で古くから使われているのですが、それを「旧土人」に呼称を統一します。 なぜ「旧土人」かということを申しますと、近世の呼称の「土人」を「旧土人」にしたわけです。では、 「新土人」は誰かといったら、開拓者たちが相当するのですが、もちろん「新土人」という言葉の使われ方はありません。」                                   

岩倉使節団
三条実美 (拡大)
岩倉使節団とは、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)明治6年(1873年)9月13日まで、日本 からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団。
岩倉具視を全権府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。
▲岩倉使節団。すごかった。(2023.11.26)
当初の目的であった不平等条約改正の交渉は果たせなかったものの、 日本近代化の原点となる旅として、明治政府の国家建設に大きな影響を与えたことから、 日本の歴史上でも遣唐使に比すべき意味をもつ使節とも言われる[1]。
wikipedia:遣唐使
▲遣唐使は20回、200年以上つづいた。比較の対象にならない。(2023.11.27)
出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に、太平洋郵船の「ゴールデンエイジ」号で横浜港に帰着した。 留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が争われ、使節帰国後に明治六年政変となった。
wikipedia:征韓論
西郷の使節派遣は西郷自身も失敗を予想した上で開戦を期した主張であり、交渉不成功の場合は政府は面子上開戦を覚悟しなければな らないものだった[25]ため、
征韓論 (拡大)
遣欧使節団の岩倉・木戸・大久保は内治優先論の立場からこれに反対し、 三条や参議大木らもその意見に同調するようになった[26]。
10月14日、朝鮮問題に関する閣議が開催され、西郷は遣使即行を主張し、大久保や岩倉と対立した。 この日は決定には至らず、10月15日に再度閣議が開催され、参議各々に意見を陳述させ、参議を引き取らせた上で 三条・岩倉の間で協議が行われた。
西郷の圧力とそれに伴う軍の暴発を恐れた三条は、太政大臣としての自らの権限 で西郷の即時派遣を決定した[27]。しかしこれに反発した岩倉・大久保らが辞表を提出し[28]、 収拾に窮した三条は病に倒れた[29]。
10月19日、岩倉が太政大臣代理となり[30]、10月23日に三条の裁断による即時派遣か、 岩倉自身の考えである遣使延期かという2つの意見を上奏した[31]。
これを受けて10月24日に明治天皇は遣使を延期する という裁断を行った[32]。政変に破れた西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野することとなった[33]。
明治六年政変
明治六年政変(めいじろくねんせいへん)[注釈 1]は、明治6年(1873年)に発生した政変。 西郷隆盛をはじめとする参議の半数が辞職したのみならず、軍人、官僚約600人が職を辞することとなった。直接の原因が征韓論にあったため、 征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも称される。

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1872年(M5)
3月、「開拓使仮学校」東京芝増上寺に開校。同校と青山開拓使官園にアイヌ子弟35人を「強制連行・強制入学」
(拡大)
三官園 (拡大)
増上寺〜三官園4.5q (拡大)
第一官園は青山学院あたり。
第二官園は青山通りを挟んで国連大学がある。
第三官園は日赤病院あたり。
 「開拓使仮学校跡」
東京・港区の芝公園。その一角に「開拓使仮学校跡」と書かれた小さな石碑があります。
(拡大可)

(拡大可) 中央の民族衣装姿が琴似又市さん
石碑には「1872年、北海道開拓の人材を養成するための学校がここに建てられた」とは書いてありますが、 同じ場所に付属施設「北海道土人教育所」もあったことはわかりません。 明治政府はアイヌの男女38人を強制的にこの「教育所」へ連れてきて、日本語や和食、洋装の強制――つまり「同化教育」を行なったうえで、農業技術などを教えようとしたのです。 しかし、慣れない生活への拒否反応から、衰弱死や脱走が相次ぎ、2年で廃止されました。 2003年以降、毎年8月に、首都圏のアイヌがこの場所に集まり「イチャルパ」(先祖供養)を行なっています。東京に連れてこられて亡くなったり、北海道を離れて関東に移り住まざるを得なかったアイヌの同胞たちを追悼しているのです。 現在、首都圏には個人の活動のほか、「ペウレ・ウタリの会」「関東ウタリ会」 「レラの会」「東京アイヌ協会」「チャシ アン カラの会」など複数のアイヌ団体があります。
▼東京在住アイヌの人を探していたらこの頁に出会いました。 「ペウレ・ウタリの会」「関東ウタリ会」「レラの会」「東京アイヌ協会」「チャシ アン カラの会」に接点を持ってみます。(2021.1.31)

1872年の千歳郡のアイヌ(拡大) 山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』164p
▼胆振国千歳郡がかなり身近にイメージできます。畑は1戸当たり1.7反。裏庭の野菜作りの感覚。(2021.10.6)

5月、日本語教育、和風化教育
* 黒田清隆開拓次官、正院に届書提出〔正院(せいいん):天皇を補佐して国政を統轄する為に設置された太政官の最高官庁で現在の内閣にあたる〕

「元来、北海土人の儀、容貌言語全く内国人とは異種の体をなし、従て風俗も陋習を免れず、即今開拓盛挙の折柄、従前の風習を脱し、 内地と共に開化の域に進み、彼我の殊別なからしめ度」
▲黒田清隆のアイヌ民族への差別・憎悪の塊のような「届書」。容貌・言語異種、風俗陋習。 「陋」は最大の差別、侮辱用語。(白川静『字通』参照)(2022.6.27)
アイヌ民族の風俗習慣は陋習(悪い習慣、いやしい習慣)醜風(みにくい、恥ずべき風習) で北海道開拓の邪魔になるから、内地人と同じように開化しなければならない

9月、「開拓使」本府を札幌に置く

「開拓使」本府

石狩アイヌ大資料集
加藤好男(拡大)
「土地の収奪」
土地売貸規則第1条「原野山林等一切の土地官属及び従前拝借の分、目下私有たらしむる地を除くの外、 全て売下、地券を渡し、永く私有地に申しつくる事。」
地所規則7条「山林川澤、従来土人等漁猟伐木仕來し地と雖、更に区分相立、 持主或は村請に改め是又地券を渡、爾後15年間除租地代は上条に準ずべし。 尤深山幽谷人跡隔絶の地は、姑く此限に非ざる事。」
地所規則8条〜13条「土地売貸規則第1条〜6条に同じ。」
地券発行条例第 15 条「山林川澤原野等は当分総て官有地とし其差支なき場所は人民の望に因り 貸渡し或は売渡すことあるべし。」
地券発行条例第 16 条 「旧土人住居の地所は其種類を問わず当分総て官有地第三種に編入すべし。但し、地方の景況と旧土人の情態に因り成規の処分を為すことあるべし。」

▲やっと土地問題が自分なりに納得できた。土地売貸規則、地所規則、地券発行条例を丁寧に跡付けたことによって。
●土地売貸規則1条「原野山林等一切の土地官属」
●地所規則7条「山林川澤、従来土人等漁猟伐木仕來し地と雖、持主或は村請に改め是又地券を渡」
●地券発行条例第 16 条「旧土人住居の地所は其種類を問わず当分総て官有地第三種に編入」
原野山林官属、山林川澤持主或は村請に改め是又地券を渡、旧土人住居の地所官有地第三種。
北海道の原野、山林、川澤、居住地の地所まで官有地、ということ。
アイヌモシリとして回復しなければならないものはこれらすべて。川も澤も。(2023.4.13)

▲改めて規則、条例を読み直すと詰まるところアイヌモシリの全否定。アイヌの土地を含む山、川、澤への関係性をバッサリ、近代所有権で切り落としたのが 規則、条例の意味するところ。アイヌモシリの回復とはこの規則、条例の全否定。(2023.4.14)
「地券発行条例」
土地売貸規則第1条 (拡大)
土地売貸規則全9条 (拡大)
地所規則その2
(拡大)
地所規則その1
(拡大)











*「開拓使以後のアイヌ民族無視の土地政策」 9.20「北海道土地売貸規則」(全9条)・「地所規則」 16条〜18条参照(全19条) (16条〜18条は売貸規則7条〜9条に同じ。)
北海道は「無主の地」としてすべてを国有地に編入
「深山・幽谷・人跡隔絶の地」を除き、全ての土地を私有地として、開拓者に下付するための政策。
「私有地」としての下付対象者は、「永住寄留人」移住した和人。アイヌ民族は対象外。
「山林川沢、従来土人等漁猟伐木仕来し土地と雖、更に区分相立、持主或は村請に改て、是又地券を渡」・・イオルも和人に譲渡。
和人開拓者に、1人10万坪(33ha)、10年(15年)間 除租。
小西和(こにし かのう)
山川力『いま、アイヌ新法を考える』23p(拡大)
 小西和(こにし かのう)
山川力『いま、アイヌ新法を考える』37p(拡大)
旧土人法は憲法27条違反の可能性の指摘。凄い(2023.3.4)
▲明治5年の「北海道土地売貸規則」(全9条)・「地所規則」(全19条) (「売貸規則」、「地所規」とも太政官布告)が北海道は「無主の地」としてすべてを国有地に編入 、これが大きな間違い。この国有地が御料地になり、また民間に払い下げられていく。 (参照:「無主の地」の払下げ状況 鈴江論文

 小西和(こにし かのう) 1916年6月25日第41回帝国議会の記録。山川力『いま、アイヌ新法を考える』24p(拡大)
俵孫一北海道長官の答弁「彼等ガ北海道一般ヲ彼等の天地トシテ居住シテ居ッタ」。 決定的。アイヌモシリ回復の根拠。(2023.3.4)
国有地は「閣議で了承さえ得れば、官有地第三種の主として「山林・原野・田畑屋敷」等から、官有地第一種の「皇宮地」へ地所名称区分の変更 手続きで事足りる」(『新旭川市史』2巻29p)。つまりマネーロンダリングまがいの土地ロンダリングの温床・装置。(2022.4.1)
▲「売貸規則」第1条の研究。瀧澤論文「明治初期開拓使の土地改革とアイヌの土地―おもに北海道地所規則第7条をめぐって―」 2011.12.20発行.北大史学51号。瀧澤先生から電話で教わる。(2022.6.20頃)
▲萱野さんの「売った覚えも、貸した覚えもない」 これで裁判で国が反証できないのか、を瀧澤先生に確認すること。(2022.6.25) 今回の創設「呼びかけ」を瀧澤先生に送り確認の作業をすること。(2022.11.3)

▲小西和さんと政府委員との質疑で 「アイヌモシリがアイヌ民族の天地であった」ことを北海道長官俵孫一がみずから語っている。 これでアイヌモシリの問題は決着。(2022.12.17)
市川『アイヌの法的地位』99p
「アイヌの人たちが今まで漁猟してきた土地であっても土地を分割して地券を発行して和人へ払下げ ていく、ということにしたのである。したがって、これらの規則によって、それまでコタンが有していた独占的・排他的支配地であった漁猟・狩猟 の土地が奪われたことになる。」

▲こういう事実をまず日本政府に認めさせ、ひろく日本社会に周知したい。 政策はその次。長期戦(2021.9.6)
▲沿岸漁業・鮭鱒漁の回復の勉強を今日から始めますが土地と結びついた漁業権であることに一定の困難が伴いそうだ。(2022.5.2)
▼下記法令の全文を『北海道農地改革史』上巻ですべて確認すること。(2022.1.3)
明治5年「北海道土地売貸規則」(全9条)・「地所規則」(全19条)
明治6年「地租改正条例」
明治8年「山林荒蕪地払下規則」
明治10年「北海道地券発行条例」(全58条)
明治19年「北海道土地払下規則」(全13条)
明治30年「北海道国有未開地処分法」

「地租改正条例」で、山林を国有地に、北海道で明治政府は、発展の見込める原野や森林は皇室財産に組み入れ、 残る地質の良い未開地は、公家や貴族たちに払い下げ、天皇の「御料地」「皇室財産」とした。
▼ユポさんの上記記述は「地所規則」の下記条文に依っています。
第七条「山林川沢従来土人等漁猟伐木仕来シ地ト雖モ更ニ区分相立持主或ハ村請ニ改メ亦地券ヲ渡シ…尤深山幽谷人跡隔絶ノ地ハ姑ク此限ニアラサル事」
第八条「原野山林等一切ノ土地官属…都テ売下ケ地券ヲ渡シ永ク私有地ニ申付ル事」
第九条「売下之地一人十万坪ヲ以テ限リトシテ」
「地所規則」はユポさんご指摘のようにアイヌ民族から土地を収奪したもの。これへの補償が150年後の今、問われています。 私は特に第七条の「従来土人等漁猟伐木仕来シ地ト雖モ」という明治政府の姿勢が許せません。
「1872(明治5)年以降1885(明治18)年までに「北海道土地売貸規則」によって和人に売り下げられた土地は、 2万9239町歩、無償貸し付け地は7768町歩の計3万7007町歩にのぼる。これらの事実は、 和人によるアイヌ・モシリの奪取、しかも法による奪取が確実に進行し出したことを示すものであった。」 (下線は引用者)(榎森進『アイヌ民族の歴史』(395〜396頁))
▼ 3万7007町歩=366平方キロメートル 琵琶湖=670平方kmすなわち琵琶湖の54%が和人の手に渡った。
当時アイヌ人口は16,270人だったようです。
「地所規則」がアイヌの人たちにも適用されていたとすれば 16,270×33ha=536,910 ha=5,369平方kmすなわち琵琶湖の8個に当たる広さの土地がアイヌ民族に割り当てられることになります。
▲仮に個人でなく1戸あたり33haとしても16,270人の5分の1、3,254戸として107,382haとなります。最低でもこの程度の耕地を割り振るべきだったでしょう。 (2022.1.2)

▲北海道地券条例明治10年。私的所有権の登記開始。少なくとも明治19年には手続きが完了していると考えられる。その時点の人口は30万人。 3万ha(琵琶湖6.7万ha)が民有地。現在の民有地は273万ha。270万ha増加。アイヌ民族から取り上げた土地を民間に払い下げた結果ということ。 この民有地から現在、北海道の179の市町村は固定資産税を徴収している。その額年間710億円。しかし本来の地主はアイヌ民族。 アイヌ民族は民有地に「地代」を請求・徴収する権利がある。判例(固定資産税の2.4倍)を基に算出するとその額1000億円(710×1.4)。(2023.12.27)

北海道の開拓と移民
明治2(1869)年に約6万人に過ぎなかった北海道の人口は、開拓使、三県時代を経て、 北海道庁が設置された明治19(1886)年には約30万人になりました。(中略)また、明治19(1886)年に3万町歩(29,730f)にも満たなかった 耕地面積(以下略)。


国民教育 に お け る軍事教育の 形成過程
安 藤 忠
明 治 以後 の 近 代 日本 は天皇 制 中央 集権 体 制 の も とで 富国強兵 を目指 した 。 こ の た め 明 治 5 年 の 学 制 以 降 の 初等教育に お け る 国民 皆 学主 義は 国民 皆 兵 の 前 提 と して の 側 面 を も っ て い た 。 さ ら に 、中 等教 育 以 上 に お い て は 、 指 導者 あ る い は 専門 家養 成 の 面 で 富 強主 義 の 主 導 的役割 を期 待 され た。 こ の こ とか ら、明 治 5 年 の 学制 以 降 の 教 育 制 度 と明 治 6 年の 徴 兵令以 降の 兵役 制度 とは 不 可 分 の 関係 をも ち、そ の 接合点 と して 学校 内の 軍 事教 育 を形 成 して い くこ と と なる 。

▲江戸時代の厳しい「御触れ」の縛りから解かれる間もなく、縛りを解く間もなく、 庶民は「学校と軍隊」で支配者の、お上の、従順な「国民」に仕立てられて、1945年の敗戦でやっと自由になるが、 しかし、江戸時代の身体に染みついた、お上に従順な意識は、無意識も含め今も容易に解放されていない。(2022.9.23)

1873年(M6)
ウライの仕掛(拡大) 知里「小辞典」138p

札幌郡にて、鮭のウライ漁を「禁止」
▲まず鮭のウライ漁「禁止」から漁業権の剥奪が始まっています。(2022.5.2)
「徴兵令」(1月)
「福山騒動」(5月)
「江差騒動」(6月)
「地租改正条例」(7月) 「屯田兵設立建白書」(12月25日)
アイヌ人口16.270人(全道111.196人)樺太348戸2.372人
「福山騒動」について
開拓使が漁権税を引き上げたことに抗して福山、江差周辺の漁村民が強訴し騒擾を起こした事件で、 開拓使は第二鎮台から二個小隊(青森)の派遣を受け鎮圧。北海道に軍事面と開拓両面から屯田兵制度の実施が必要であると確信していた 黒田清隆はこの機をとらえて制度実施の建白を行うこととなる。
▲漁権税から開拓使が手を着けている。手っ取り早くまず漁業から。(2022.5.2)
▼ wp:地租改正は、1873年(明治6年)に明治政府が行った租税制度改革。 この改革により、日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立したことから、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。 上諭(じょうゆ)と地代の3%を地租とする旨を記載した1ヶ条の地租改正法と具体的な規定を定めた 地租改正条例などから成る太政官布告第272号が制定され、明治政府は翌年1874年(明治7年)から地租改正に着手した。
▼ 上諭(じょうゆ)とは、日本国憲法の施行前の日本において、 天皇が法律、勅令または皇室令を裁可し公布する際に、その頭書に天皇の言葉として当該法令を裁可し公布する旨を記した文章のことである
▼ wp:壬申戸籍の項目を見ると、アイヌ人口16.270人(全道111.196人)樺太348戸2.372人がほぼ理解できる。
先の「地所規則」がアイヌの人たちにも適用されていたとすればを訂正します。正しくは樺太348戸2,372人を加えると (16,270+2,372)×33ha=615,186 ha=6,152平方kmすなわち琵琶湖の9個に当たる広さの土地がアイヌ民族に割り当てられることになります。(2020.4.28)
屯田兵設立の経緯
このHPによると明治6年11月18日「屯田兵設立建白書」が開拓使次官 黒田清隆から右大臣 岩倉具視に出され、 太政官は大蔵・陸軍・海軍の関係三省に諮問の結果、いずれの省も屯田兵の設置には基本的に賛成し、12月25日には太政大臣 三条実美から開拓使宛に原則的に黒田の建議を承認する達書を送り、ここに屯田兵制度の設置が決定を見ることになった、となっている。
1874年(M7)
北海道開拓の村
旧納内屯田兵屋
(拡大)
屯田兵村の全体(拡大)
札幌から旭川にかけて多くの屯田兵村がつくられた。(2022.4.19)
*「屯田兵制度」設ける(6月)(古代大和天皇国家武装植民「柵戸経営」)
▼札幌市のHPより
明治7(1874)年に札幌に初めて屯田兵が、 琴似屯田兵村 に入植しました。


屯田兵の目的 山川力「明治期アイヌ民族政策論」45p▲まず琴似村から始まっている。注意。(2023.3.21)(拡大)

山川力「明治期アイヌ民族政策論」
(拡大)
「屯田兵例則」
「台湾出兵」
*鹿の乱獲*
・開拓使「美々鹿肉燻製製造所・脂肪製造所」建設(M17廃止)
(M12・人造硝石床製造所(鹿の臓腑、血液)併設)
・缶詰・鹿皮・角
・10年間に40万頭捕獲、絶滅寸前、アイヌ民族に食糧危機
▼ wp:屯田兵の根拠となる太政官達
屯田兵(拡大) 平山『地図でみる』150p
@〜D屯田兵の移民地
開拓次官の黒田清隆が1873年11月に太政官に屯田制を建議した。樺太と北海道の兵備の必要と、そのための費用を憂え、 「今略屯田の制に倣い、民を移して之に充て、且耕し且守るときは、開拓の業封疆の守り両ながら其便を得ん」
琴似屯田兵村 (拡大)
というものであった。 黒田が考えたのも士族の活用であったが、彼の場合旧松前藩と東北諸藩の貧窮士族を想定していた。 太政官は黒田の提案に賛成し、1874年(明治7年)に屯田兵例則を定めた。 1875年(明治8年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地で、屯田が開始された。
▼ ユポさんの年表になぜ「台湾出兵」なのか不思議でした。榎森進さんの『アイヌ民族史』(379〜381頁)を読んで納得しました。
琉球問題から解き起こされています。
「琉球は、近代初頭に至るまで中国(明朝、清朝)と日本の「両属国家」になっていた。 幕藩制国家が崩壊し、近代天皇制国家の形成を目指す新政府が成立するや、新政府は、琉球を清朝の冊封体制から切り離し、 名実共に日本の支配下に再編しようとする動きをし始めた。
それを実行するうえで恰好の材料となったのが1871(明治4)年11月6日、琉球の宮古島の船員が台湾南部に漂着し、 現地先住民「生蕃(せいばん)」に殺害される事件であった。
まず地ならしとして1872(明治5)年9月14日、一方的に琉球を「琉球藩」、 国王を「藩王」と称するよう勅令を以って示達し、この事件を清国領の領民が日本国民である琉球の人々を殺害した重大な事件である、 との枠組みを用意する。
そして1874(明治7)年5月、台湾蕃地事務都督西郷従道が率いる 3600名の日本兵が台湾南部の先住民の居住地を掃討するにいたった。これが「台湾出兵」である。
その後9月、この問題での清国との交渉過程で琉球人が、清国の冊封体制から離れて「日本国属民」であることを認めさせることに成功する。
明治政府はこれを大きな土台にして1879(明治12)年4月4日、琉球藩を廃止して沖縄県を設置し、 琉球を名実共に日本の一部に編入するに至ったのである。この一連の過程が「琉球処分」と呼ばれるものである。
この台湾出兵問題は、対外関係での「脱亜」にとどまらず近代日本における内なる「脱亜」をも強力に迫ることとなった。 それが「蝦夷地」の内国化とアイヌ民族の日本国民化であった。」
(拡大) 美々鹿肉罐詰所
このような背景が「台湾出兵」を「アイヌ民族の歴史」でユポさんが取り上げられる理由であることに合点いきました。 琉球とアイヌはこうして繋がっています。ユポさんの感覚に脱帽です。
美々鹿肉燻製製造所跡     苫小牧市史
開拓時代の美々(現・新千歳空港周辺)はエゾジカの天国だった。 美々には鹿肉罐詰所と脂肪製造所が設けられましたが、当時 千歳一帯は石狩地方に比べて冬場の積雪が少ないので鹿が食を求めて大挙群集していたのだとか。 鹿の乱獲と大雪による食糧難からの餓死、鉄道の開道による開拓などで、鹿の数が激減し、さらには官 営工場だったこともあって経営は振るわず、明治17年に工場は廃止されています。
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1875年(M8) 「樺太・千島交換条約」締結(5月7日)
・ 樺太はロシア領、千島を日本領とする
         2020.2.17朝日新聞朝刊(拡大) 「「豪州の日」と呼ばれる記念日がある。1788年1月26日に英国の船団が上陸したことを祝う。 しかしそれは先住民からすれば「侵略の日」に他ならない。他者の目で歴史を見る。そのことに私たちは慣れていない。」
私のHPはまさしく「他者の目で歴史を見る」作業です。(2020.5.25)
あいぬ物語@ (拡大)
「明治8年私達の生まれた故郷樺太島は露西亜の領土になって了った。私の長い流転の生涯が此から始まるのであった」山辺安之助「あいぬ物語」 (11p)
函館丸 (拡大)
「九春古丹から函館丸に載せられ北海道宗谷へ送られた。」(13p)
「明治6年10月開拓使本庁が落成しました。」 近代技術の粋を結集。函館丸。開拓使本庁。(2023.9.29)









9月9日〜10月1日 樺太から92戸841名のアイヌ民族を宗谷に「強制移住」( ▲榎森進『アイヌ民族の歴史』407p戸数で26%、人数で35%)
10月7日 石狩原野へ再移住を指示(アイヌ民族、移住反対上申書を開拓使に提出)翌年、 官憲を動員して6月13日から小樽経由で石狩国 対雁(ついしかり)に「強制移住」
樺太アイヌ
「山林荒蕪地払下規則」
海面官有宣言
「太政官布告第195号(明治8年12月19日)  従来人民ニ於テ海面ヲ区画シ捕魚採藻等ノ為メ所用致居候者有之候処 右ハ固ヨリ官有ニシテ本年2月第23号布告以後ハ所用ノ権無之候条 従前ノ通所用致度者ハ前文布告但書ニ準シ借用ノ儀其管轄庁ヘ可願出此旨布告候事」
▼wp:「樺太・千島交換条約」
樺太での日本の権益を放棄する代わりに、エトロフ島以北の千島18島(第1島シュムシュ島…第18ウルップ島) をロシアが日本に譲渡する。
▼日露の都合で翻弄されるカラフト・アイヌ民族
▼(5月23日)「山林荒蕪地払下規則」全8条
「家禄奉還資本金を受け取った者で家産営業の為北海道で地所払下を願出でた場合は、 「北海道土地売貸規則」により、規則に規定された地価の半額を以て払下げ、 規則の2倍に当る20カ年租税を免除し、代金は公債証書も苦しからず。 …明治維新政府が直面した一番大きな問題の一つは士族にたいする政策であった。」(『北海道農地改革史』上巻41頁)
▼維新当時、士族(含む卒)は42万人、その家族を含めると194万人になる(明治5年の族籍別人口表より)。 今風に言えば、42万人の行政マンとその家族を維新というリストラで路頭に迷わせ、 その対策としての北海道開拓が明治政府の考えであった。アイヌ民族そっちのけで。
1876年(M9)
全てのアイヌ民族に「創氏改名」(明治9年7月19日第48号布達)
樺太アイヌ申上書(拡大)
明治9年の「樺太アイヌ申上書」が明治以降のアイヌ民族の活動のはじまり?(2021.12.28) 『アイヌ民族近代の記録』15p

「平民」籍に編入(族称・華族・士族・平民)
解放令によって被差別部落の人たちを「賎民」から「新平民」
「穢多・非人」の身分を廃し身分職業とも平民同様とすること
アイヌ民族の「皇国の臣民化」
アイヌ民族の民族性の抹殺・民族の根絶
「本願寺道路」完成(東本願寺)7月、アイヌ民族強制労働
アメリカから西部開拓を学ぶため、米国第2代農務省長官ホーレス・ケプロン開拓顧問団招聘。10年余で78人を招いた。 太政大臣より高い年棒1万ドルの給与。4年の在任中、3回の来道、北海道開拓のマスタープラン作成。
インデイアン政策をアイヌ政策に実施(ドーズ法)。
開拓使札幌本庁9.30 (拡大)

「風習の洗除」(開拓使布達・9月30日)
「北海道旧土人従来の風習を洗除し教化を興し、漸次人たるの道に入らしめんが為、 辛未(しんぴ・1871年)10月中告諭(趣旨を告げたもの)趣も之有り、既に誘導を加え候処、 未だ其風習を固守候者之有る哉に相聞、旨趣貫徹致さず不都合の次第候。 元来誘導教化は開明日新の根軸に候処、今に右様陋習之有り候ては、往々知識を開き物理(物事の道理)に 通じ事務を知らしめ均しく開明の民たらしむるの気力を振作するの妨害と相成、忽にす可らざる儀候条、就中(なかんずく) 男子の耳輪を着け出生の女子入墨致等、堅相成らぬ旨、父母たる者は勿論、夫々篤く教諭を尽くし、 自今出生の者は尚更厳密検査を遂げ、此風俗を改候予防方法相立取締致すべし。 而して自今万一違反の者之有り候ば、己(やむ)を得ず厳重の処分及ぶべき筈(はず)に付 時々詳細具状致す可きは勿論、予(かね)て能此(よくこの)懲罰あるを戒置(いましめお)くべし。」

▲アイヌ民族の文化の全否定。この開拓使布達も注意。ユポさんの怒り。(2021.10.7)
▲「風習の洗除」。民族の文化の全否定。この明治9年9月30日開拓使布達を明治4年の布達と合わせての原本を読むこと。 謝罪の第一。(2022.6.20)
「アイヌ民族の戸籍」完成
・創氏改名(アイヌ人口1万7千人)
・「鹿猟禁止」(和人の猟師による鹿の乱獲)
改正北海道鹿猟規則(拡大) 明治11年6月29日
乙第20号布達
▲遊猟を認め猟税は職猟の2倍。アイヌにも猟税を課す。猟者の人数の拡大と具体化。 札幌管内職猟500名(遊猟30名)、箱館管内100名(10名)、根室管内130名(10名)。猟税拡大の意図が見える。(2022.5.13)
北海道鹿猟規則(拡大) 明治9年11月11日
乙第11号布達
▲この規則は前文で猟濫殺防止の為と謳い、鹿猟の鑑札制の導入とアイヌの毒矢の禁止を定めている。 職猟者上限600名。出猟は11/1〜翌2/28迄。(2022.5.13)
夕張外三郡鹿猟規則
明治8年11月8日
「達」(拡大)
胆振日高鹿猟仮規則2 明治8年9月30日
「達」(拡大)
▲「規則取扱心得」でアマッポの設置に関しては場所等が危険でなければ願書でなく申立で免許鑑札を交付。 いきなりアイヌの人たちに日本語での行政に無理があったことが伺われる。(2022.5.13)
胆振日高鹿猟仮規則1 明治8年9月30日
「達」(拡大)
▲この仮規則は免許制。アマッポも免許制。猟税徴収。(2022.5.13)












獣猟毒矢禁制1 明治9年9月24日布達甲26号(拡大)
▲毒矢の風習、獣類生息妨害少なからず。(2022.5.13)
獣猟毒矢禁制2 明治9年9月24日布達甲26号(拡大)
▲和人の銃猟は生息妨害が少ない?明治の官僚は理性を失くしているの?(2022.5.13)


(拡大)
萱野茂「アイヌの民具」
154pアマッポ
山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』21p(拡大)
▲「開拓使事業報告附録布令類聚上」で直接規則類を確認しました。 明治8年の仮規則、明治9年布達甲26号の毒矢禁制、布達乙11号の北海道鹿猟規則、仕上げは明治11年布達乙20号の改正狩猟規則。 猟銃が安全でアマッポが危険であるとの立法趣旨ですが合理的理由ではありません。つまり差別法令です。 よって鮭漁の禁止と同様、アマッポ、毒矢を禁止した規則は無効と考えます。(2022.5.14)
・9月30日「胆振日高両州方面鹿猟仮規則」(従来の猟法は「洗除」されるべき「旧習」との理由……山田伸一著書37p) ・仕掛け弓・毒矢猟の「禁止」(9月)(アイヌの事実上の狩猟禁止)
・「北海道鹿猟規則」(11月)
▲山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』19p〜113pに詳しい。(2021.10.1)
「札幌農学校創立」 
「日朝修好条規」
* 開拓使、「官営工場」(官営麦酒醸造所の設置、後に大倉喜八郎 (※Wikipedia:大倉は明治元年(1868年)に有栖川宮熾仁親王御用達)に格安で払い下げ。 他数十件の払い下げ、資本投入1000万円以上、払い下げ価格、数十万円。)
▼ ユポさんがなぜ本願寺道路を特に取り上げておられるのか。調べてみました。
▼ wp:「本願寺道路は、明治初年に東本願寺が石狩国の札幌と胆振国の尾去別(おさるべつ)とを山越えで結ぶ街道として建設した道路で、 1871年(明治4年)に開通した。
本願寺街道(拡大)
建設は東本願寺による北海道開拓政策の中心事業の一つとなるもので、「本願寺街道」「有珠街道」ともよばれる。
現在の国道230号の基礎となった。
アイヌ古老は、結局労働の土台となっていたのはアイヌであると指摘している。」

要するにアイヌ人の労働であったことがわかりました。
▼ 東本願寺は現在この事実をどのように捉えているか、大変興味があります。仏教者としてアイヌ民族への「償い」を考えているのか。

▼『北海道農地改革史』上巻第6章第4節「北海道旧土人保護法による土地処分」では、 アイヌ民族に対する所有権の付与の変遷が97頁〜104頁まで詳述されています。
結論としてその過程が「北米合衆国のインディアン保留地の処分に彷彿たるものがあった。」と締めくくられています。 つまり明治9年に発想されたことがその後のアイヌへの土地政策を規定したといえます。
『北海道農地改革史』上巻は昭和29年、編集・発行の北海道の記録史。

▼ドーズ法についてwp より要約:
ドーズ法は、1887(M20)年2月8日に成立。この法案は、 「小土地所有農民としての自立・同化がインディアンにとって最善である」という信念をもった、 「インディアンの白人同化」を前提とした「人道的」な勢力と、インディアンの土地への欲望に駆られた産業界、 移住者との意向が一致して成立したものであったが、当事者であるインディアンは大部分が反対した。

もともとスー族やシャイアン族、コマンチ族といった大平原と以西の狩猟民族たちにとって、 土地は「狩猟の領域」であり、誰のものでもなかったのである。
インディアンはそもそも大地を母と考え、今でもティーピーの柱を建てる際にも大精霊に許しを乞うような民族である。 個人が土地を割り当てられて農場を強制されたからといって、自給自足が成立するなどという考えは、 そもそもが農耕民族である白人たちの机上の空論に過ぎず、ただ社会を堕落させるのみだった。 同様の問題は、豪州のアボリジニなどに見られ、未だにこれは解決されていない。


▼大地に対する考えはインディアンもアイヌ民族も共通。
そもそも土地は「狩猟の領域」であり、誰のものでもなかったのである。
土地の個人所有という観念が馴染まない。

▼「男子の耳輪を着け出生の女子入墨致等、堅相成らぬ」わざわざ念入りに。
▼「アイヌ民族の戸籍」について。
榎森進『アイヌ民族の歴史』では「このアイヌの戸籍への登録、「日本国民」への編入の問題で見落としてならないことは、 それがアイヌ民族の民族文化の否定策や和人への同化策のみならず、新たな身分差別と並行して行われたということである。」(389頁) と指摘されている。
「風習の洗除」「創氏改名」がそれである。

▼明治9年人口17,000人。記憶しておくべき人数。
▼「鹿猟禁止」について。榎森進『アイヌ民族の歴史』(396〜398頁)
「アイヌ民族の生産や生活に大きな打撃を与えたのが、開拓使が鹿猟に関する新たな規則を定めたことであった。
 ●1875(明治8)年9月30日、「胆振・日高両州方面鹿猟仮規則」により、アイヌがアマッポ(仕掛け弓) で鹿猟を行う場合は、それを設置する場所を届け出る必要があった。
山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』169p
「アイヌ民族の生業活動を否定する際に、さしたる裏付けもなく他の生業で生計が立つだろうという 見通しを開拓使がもち出すのは、1876年10月に根室支庁管内西別川での漁場割渡しに際してアイヌ民族からの出願を却下した時にも、また同年 9月の「北海道鹿猟規則」の制定と毒矢猟禁止の時にも見られ、この時期における開拓使のアイヌ政策の本質につながっていると思われる。」 (2021.10.6掲載)
 ●11月には夕張・空知・樺戸・雨竜、
 ●翌1月には十勝まで適用。
 ●9月には毒矢の使用を禁止し、
 ●11月には北海道全域を対象とした「北海道鹿猟規則」を定めた。 アイヌ民族の生産・生活で大きな役割を果たしてきたのが、河川での鮭漁を初め海での漁業や海獣狩猟と山野での狩猟、 特に鹿猟で捕獲した鹿は、肉は食料として、皮は自家用及び和人向け商品として大きな役割を果たしてきた。 河川及び海での漁業権が一方的に奪われ、しかも鹿猟も禁止され、こうした明治政府の政策のため餓死するアイヌが続出した。」

▼ wp「日朝修好条規」について より。
修好条規は12款で構成され、条文は漢文と日本語で書かれた。 両国の国名はそれぞれ「大日本国」、「大朝鮮国」と表記することとした。
第一款 朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める。
近代国際法の立場から見て、当時の朝鮮をどのように位置づけるかは種々の意見があったが、日本はこの一文を入れることで、 朝鮮を近代国際法に於ける独立国に措定しようとした。「自主の国」=独立国という解釈であった。
つまりそう措定することで清朝が朝鮮に介入する余地を無くそうとした。
             
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海の収奪
定置漁業権 https://www.jfa.maff.go.jp/j/enoki/attach/pdf/gyogyouken_jouhou3-45.pdf
漁業権の免許状況 https://www.jfa.maff.go.jp/j/enoki/gyogyouken_jouhou3.html
準備ノート2 鮭漁
カムイチェプ
カナダ先住民族の漁業権回復訴訟 (拡大)47p
定置網漁
曳網漁法 ▲アイヌの伝統的な川漁とは違って定置網も曳網も大量に捕獲する方法(拡大)

サケマスの捕獲権
榎森先生講演記録2022.1.23
▲「開拓使乙第30号布達」を読むこと。(2022.5.6)

明治6年10月3日 本庁達854p
▲ウライ漁厳禁のこの「達」にもすでにアイヌ民族への差別が感じられる。(2022.5.12)

明治7年8月29日
本庁達856p
▲ウライ漁と夜間漁の厳禁。アイヌへ狙い撃ち。 (2022.5.12)

ウライ/テス (拡大)
明治11年11月20日


本庁布達乙第30号
850p
▲和人の曳網は許可、アイヌの夜間漁、支川漁は一切相ならぬ。露骨な差別法令の完成。(2022.5.12)

明治11年乙第30号布達 1878年10月20日
(拡大)

明治9年9月21日 乙第10号布達
「従来漁場持今般一切相廃シ都(すべて)テ上知申付」(拡大)
明治9年9月21日 乙第10号布達 「漁場持の排除、漁場の自由解放、これが大乱獲の開始、急増であった。」(井上)
(拡大)
明治9年8月28日
乙第9号布達 845p
(拡大)
明治9年8月28日
乙第9号布達 846p
▲テス漁、夜間漁の厳禁。露骨な差別布達。(2022.5.12)
(拡大)










1878年に根本的問題・山田伸一 (拡大)「カムイチェプ」 31p



















▲布達、達、等
●明治6年(1873)10月3日の達、
 ▲ウライ網厳禁のこの「達」にもすでにアイヌ民族への差別が感じられる。(2022.5.12)引網は許すが税金を払え。(2022.8.25)
●明治7年(1874)8月29日本庁達、
 ▲発寒、琴似、篠路の引網漁禁止。豊平も夜間引網漁禁止。ウライ網は一切禁止。
 ▲明治8年(1875)ロシアと千島・樺太交換条約調印。後の鮭鱒政策で千島が特別扱いされている。 そのことに驚く。(2022.8.26)

●明治9年(1876)8月28日 乙布達9号、
 ▲テス漁、夜間漁の厳禁。露骨な差別布達。(2022.5.12)
●明治9年(1876)9月21日 乙布達10号 (漁業、和人へ自由化)、
●明治11年(1878)11月20日 乙布達30号。
 ▲「鮭鱒河漁ノ儀ハ、自今、曳網ノ外都テ差止候、最、曳網タリトモ、 夜中及支川ニ於テハ一切相成ラス」、この一片の布達がアイヌ民族の生活を窮乏の淵に沈める。(2022.6.3)

 ▲その後の禁止の流れ「カムイチェプ」29p山田伸一さんの年表より。
●明治27年(1894)北海道庁「鮭鱒ノ泝上(そじょう)スル河川湖沼ノ漁業並鮭鱒ノ沖網漁業制限」
●明治30年(1897)北海道庁「北海道鮭鱒保護規則」自給のためのサケ漁を禁止
 ▲第10条「鮭鱒は許可を受くるに非れば捕獲することを得ず」一方的に禁止。(2022.8.25)
 ▲第1条1号「特にしてしたる場所」→「鮭鱒場所指定」千島国色丹、得撫、新知、占守の沿岸とエトロフ島北東端〜西南端の東海岸。このように 千島列島まで範囲指定している。(2022.8.26)

●明治34年(1901)漁業法制定
 ▲全35条。34条に「従来の慣行による漁業者は1年以内に出願すれば免許が与えられる」となっている。 アイヌの人たちの「慣行」は明治6年〜明治11年ですでに禁止されていたから対象にならないのか?(2022.8.26)
▲改めて「海面官有宣言」を勉強中。旧漁業法の「慣行」には明治6年〜明治11年に禁止されたアイヌ民族の慣行はことごとく禁止 されているから沿岸漁業(地先2〜3里)の慣行も無視されたことが容易に推察できる。(2023.12.2)
準則漁業組合の府県別内訳 (拡大)
神奈川大学国際常民文化研究機構年報 2 123-148, 2011-08-31
「近代における漁業組合の諸相」
―― 青森県の事例 ―― Some Phases of Fishermen's Associations in Modern Japan : The Case of Aomori Prefecture 小岩 信竹 KOIWA Nobutake
▲明治25年(1892)時点。北海道110組合。この中にアイヌコタンがどれだけ入っているか?ゼロの可能性が大きい。国会図書館と北海道庁に照会すること。 (2023.12.1)

明治漁業法「コトバンク」
日本の漁業制度は明治時代に組合準則(1886),旧漁業法(1901)を経て成立した,いわゆる明治漁業法 (1910)によって確立した。
その体系は海藻貝類の採取業や定置・地引・船引網などの沿岸漁業および養殖業などは漁業権により営む漁業として, 地方長官の免許(専用漁業権は大臣免許)を必要とした。
漁業権制度は明治漁業法(1901)において規定されたもので,定置,区画,特別,専用の4種の漁業権が設定され, これらは免許制に基づいて認可された。このうち,専用漁業権には,おおむね村落を単位に構成された漁業協同組合地区 の地先水面をもっぱら用いて行う地先水面専用漁業権と漁業法以前の慣行に基づいて与えられる慣行専用漁業権の2種があったが, 地先水面専用漁業権は,江戸時代の地先漁業権をほぼそのまま踏襲するものであった(地先漁場地元主義)。

▲アイヌ民族の漁法は地先水面専用漁業権と慣行専用漁業権のどちらかで認可されるべきものであった、 と思われる。(2022.8.27)

地先漁業権のイメージ
沿岸漁業の漁場はそこの集落の縄張りであり、その縄張りの元締めが各漁協にあり、その本拠が第1種漁港であるという図式が目に浮かびます。  だから、こんなにたくさん第1種漁港があるわけですよ。というか、なければならないという事です。
この漁業権は、第26条によると、相続以外は原則他に売り渡すことができないんですね。 そして、この漁業権は都道府県知事が認可するんですが、その際にはそこの地域の漁組員にならないといけませんし、 「海区漁業調整委員会」という組織の意見を常にきかなければ認可できません。
このシステムは、実は江戸時代からずっと続いている、前浜の漁業慣行の仕組みをそのまま引き継いだものです。
つまり、「漁業法」が制定され、漁業権というものが、明治時代に法文化されたわけなんですけど、 それが江戸時代からの漁業慣習に従うというのが基本になったわけです。 つまりは、1漁村に1組合という形をとりました。つまり、一村専用漁場という江戸時代の慣行を1集落1漁組という形で管理させ、 その集落の漁民を「組合員」と位置づけたわけです。そして、それを地先水面専用漁業権という、 「ヨソ者」には漁をさせないというシステムをとったわけです。
そして、漁業権の主体は「集落」に一個の漁組に対して免許を与え、集落の漁組が管理するという形態をとりました。 そして、その漁組に属した集落の漁民=組合員は、各自で前浜で漁をおこない(漁業行使権)、 その利益は各自に帰属するという形をとりました。
現在に至ってもこの仕組みの根本は受け継がれています。つまり、「入会権」的な性質は、 江戸時代から何ら変わっていないので、漁業権はある意味「世襲」のものになり、漁業の廃業も、 新規参入もなかなか出来にくくしている状態が、現在の漁業権であり、その象徴が第1種漁港であるのだということなのです。
北海道の第1種漁港
北海道には282の漁港(H26.4.1)があり、漁船の利用範囲によって、第1種から第4種までの漁港に分類されています。 第1種漁港:その利用範囲が地元の漁業を主とするもの(210港)
北海道の第1種漁港一覧
令和4年4月1日現在 167
漁業権の成立過程 (出村雅晴)
『農中総研 調査と情報』 2005年03月号 第213号 4 〜 8ページ
『コタンの歴史と実態』
平山裕人
日本海岸の各場所
▲各場所にアイヌ集落があり沿岸漁業があった。 これは明治になっても確保されるべきであった。江戸時代、日本海側のほうが場所は密。アイヌの集落も多かったということ? (2022.8.28)
太平洋岸の各場所 ▲やはり地先漁業権は「場所」のコタンに認められるべき。(2023.12.3)
(拡大)
明治政府は、地租改正等土地制度の改正と平行して、漁場についても江戸時代の漁場使 用関係を解消し、新しい制度に切り替えようとした。すなわち、1875年に雑税廃止と海面官有宣言をおこなった。
1901年の明治漁業法(以下「旧漁業法」)では、沿岸漁業は漁業権を中心に組み立てられ、 その基本的な枠組みは江戸末期の漁場利用関係を継承していた。その意味では、従来の「慣行」が 漁業権という形で権利化されたのである。
▲アイヌの「慣行」はどうされたのか。和人の「慣行」で権利化された実態を知りたい。 (2023.11.29)
その実態は、漁業組合に前浜漁場の特権的な地先専用漁業権を与え、その実質的な容認を前提に、個人、組合、会社 などによる排他的な個別漁場の漁業権、すなわち定置漁業権、区画漁業権(養殖漁業)、特別漁業権(地曳網等)を認めるというもの であった。
海面官有宣言
「太政官布告第195号(明治8年12月19日)  従来人民ニ於テ海面ヲ区画シ捕魚採藻等ノ為メ所用致居候者有之候処 右ハ固ヨリ官有ニシテ本年2月第23号布告以後ハ所用ノ権無之候条従前ノ通 所用致度者ハ前文布告但書ニ準シ借用ノ儀其管轄庁ヘ可願出此旨布告候事」

海面官有宣言の取消
領海3里 (拡大)
海は国有地

大坂論文
地先漁業権

(拡大)
▲ならばアイヌ民族の漁法、漁場も権利化されるべきであった。(2022.8.27)
▲これまで大地の回復だけに注意を集中して海を置き去りにしてきた。1875年(明治8)の太政官布告による一方的な海面官有宣言。 大地と同じように目を向けること。



漁業権回復の道。(2023.3.9)

▲仮称「アイヌ・オホーツク漁業協同組合」を立ち上げ、港と船、団地(10世帯50人程度) を政府の責任で整備をチャランケする。 アイヌの海の権利をまったく無視した明治政府のせめてもの償いとして。(2023.12.3)
オホーツクの水産
アイヌ・オホーツク漁業協同組合 (拡大)
アイヌの旗(一例) (拡大)
▲網走と斜里の間(約40q)にアイヌ・オホーツク漁業協同組合の設置を政府にチャランケする。
ロシア政府にもアイヌ・オホーツク漁業協同組合の漁船はオホーツクでの漁を自国漁民と同じ扱いとすることをチャランケする。 漁船には識別できるようアイヌの旗を立てる。(2023.12.4)

鱒浦漁港2 網走漁港と鱒浦漁港の距離4.5q(拡大)
鱒浦漁港 小さな漁港(拡大)
知布泊漁港 小さな漁港(拡大)
鱒浦漁港と知布泊漁港 その距離51q(拡大)
知布泊漁港 (拡大)





▲鱒浦漁港と知布泊(ちっぷどまり)漁港の距離は51q。この中間にアイヌ・オホーツク漁港を造成する。 (2023.12.5)
漁港の画像
知布泊漁港画像
斜里第一漁業協同組合 漁港種別第1種
(拡大)
jicareport
スリランカ・キリンダ
漁港建設
1984年スリランカの事例(拡大)
漁港の建設費 86p(拡大)
▲13億円。50年前のスリランカでの試算。今、北海道で新たに建設 するとなれば3倍強の40〜50億円?(2023.12.5)
▲漁港の形状は知布泊漁港の雰囲気でよいと思う。建設費はキリンダ漁港が参考になる。 (2023.12.6)




北海道の漁港一覧
雅咲内(わかさくない) (拡大)
雅咲内漁港 (拡大)
▲(新設)アイヌ・オホーツク漁港と雅咲内漁港から樺太・千島での漁業の道を切り開く。田澤さんと夜話す。深刻な問題をアイヌの中で 抱えているとのこと。取り組む。 (2023.12.7)
▲第一種漁港はいづれも規模が小さい。(2023.12.9)


静狩付近 (拡大)
静狩 (拡大)
静狩 定置漁業権 ▲静狩の定置漁業権は海面共同共同漁業権の海域の中に設定されている。(2023.3.10)(拡大)
静狩付近の
海面共同漁業権
(拡大)








▲上記作業で他の海面共同漁業権の海域での、例えば様似あたりでのアイヌ民族の定置漁業権設定の方向性が見えた。
和人社会とアイヌ民族の共存の方向で考える。
しかし国の責任で和人の海面共同漁業権設定海域でのアイヌ民族の定置漁業権設定の作業を進めることだと思う。 明治8年海面官有宣言を行った政府のせめてもの回復措置だろう。(2023.3.11)


  能取湖から止別川 網走・久保さん。可能性を探る。(2023.4.23)
  久保征治さん 可能性があることを確認(2023.4.26)
漁業を始める(拡大)
菊地さんの定置漁業権の可能性探る
2023.3.25見つける
菊地修二さん 2023.2.23(拡大)
様似共同漁業権7号 共同漁場は台形(底辺6.4キロ、2キロ、2.8キロ)面積約1,500ha(拡大)
▲様似漁港の東が菊地さんの様似町大通り。共同漁業権の海域を離れた所から定置漁業権の可能性がありそう。左の地図と図で検討。 約50haの定置漁業権の設置をチャランケしていこう。当然設置費用は国の負担。償いのしるし。(2023.3.25)
▲2023.4.25新千歳空港で菊地さんと2時間会う。様似でのアイヌ民族の漁業の可能性はない。翌4.26網走に久保さんを訪ねる。昔のアイヌ民族の漁業基地とわかる。 むしろ網走での復活の可能性を追求したい。(2023.4.28)




鎖塚 (拡大)
▲網走を研究すること。千島をふくめて。(2023.4.28)
網走の水産業 一番最近の数値? 6万トン100億円(令和2年)(拡大)












▲やはりアイヌ民族の漁業権は1901年の旧漁業法の段階で権利化されるべきものであった。 1899年「旧土人保護法」が成立してアイヌ問題がすでに明治政府の課題に浮上しているのだから土地問題のみならず漁業も取り上げるべきであった。 (2022.8.27)

旧漁業法は、その後漁業権の法律的性格の物権化(1910年)をはじめ1933年、1943年と3回の内容的改正を経る。この改正 過程においても、漁場管理利用法としての基本法的性格や枠組みに変化はなかった。
▲漁業法を受けてのつぎの「北海道漁業取締規則」。やっと繋がりが理解できた。(2022.8.27)

●明治36年(1903)北海道漁業取締規則
 ▲全部で73条。アイヌの人たちも和人と同様の縛りを受けることになる。先住権など全く無視されている。 (2022.8.26)
●昭和8年(1933)貝澤清太郎さん「密漁」容疑で検挙
●昭和39年(1964)北海道内水面漁業調整規則
 ▲昭和39年11月12日規則第133号平成6年9月30日第92号改正
  北海道内水面漁業調整規則をここに公布する。
  漁業法(昭和24年法律第267号)第65条第1項及び水産資源保護法(昭和26年法律第313号)第4条第1項の規定に基づき、 並びにこれらの法律を実施するため、この規則を制定する

藻べつ川:定置漁業権設置海域
十勝川:定置漁業権設置海域 二風谷ダム・沙流ふ化場
沙流川:定置漁業権設定海域
石狩川:定置漁業権設置海域

自由学校遊












海と川の漁業回復に向けた基礎資料
▲江戸時代のアイヌの漁業の実態を知るために鮭の獲れた川の確認。交易が行われた「場所」の確認。 漁業復活の基礎作業。(2023.12.18)
▲川の数49本。河口、川沿いにアイヌのコタンがあった、ということ。
平山『アイヌ地域史資料集』から人数を入れる。
読み始めると天然痘の影響が甚大とわかる。調べる。下記論文に出会う。(2024.1.2)

知里真志保 天然痘
ア イ ヌ の 疱 瘡 神 「パ コ ロ ・カ ム イ 」に 就 い て
久 保 寺 逸 彦
知 里 眞 志 保
試 み に 、北 海 道 史(大 正7年 、北 海道廳刊)の 記 す る と こ ろ に徴 す れ ば 次 の 如 く で あ る。
(1) 寛永元年(1624)天然痘
(2) 萬治元年(1658)天然痘
(3) 元祿十一年(1698)天然痘
(4) 寳暦三年(1753)痲疹(はしか)
(5-1) 安永五 年(1776)痲疹(はしか)
(5-2) 安永八 年(1779)天然痘。石狩地方のアイヌが、約650人以上亡くなったと伝えられています。
(5-3) 安永九 年(1780)天然痘留萌以北 に蔓延 し、蝦夷 の死 するもの647人(上記と重複?) 石狩地方最 も惨状 を呈せ り。
(6) 寛政十年(1798)〜寛政十一年(1799)天然痘
(7) 寛政十二年(1800)天然痘死者40余人。敷年の間流行。
(8-1) 文化 二年(1805)天鹽 ・宗谷地方に於て蝦夷の死亡せしもの509人
(8-2) 文化 三年(1806)利尻 ・禮文二嶋 の蝦夷の大部分が滅亡
(8-3) 文化 六年(1809)函館尾札部(ヲサツベ)に天然痘流行し、蝦夷死亡するもの十に七八
(8-4) 文化 十四年(1817)石狩地方天然痘 流行し、蝦夷の死亡せるもの甚だ多く
(9) 文政元年(1818) ・二年(1819)尚流行せ り
▲その後の様子が松前天然痘の記事。

松前天然痘

(拡大)
(1) 寛永元年(1624)初 夏 より天然痘 流行 し和人 ・夷人死す るもの多 く、殊 に小児 は残 るもの 少な し。慶廣 の第八子満廣(18歳)・ 公廣 の長子兼廣(10歳)も 亦死亡せり。(157頁)
(2) 萬治元年(1658)春 夏 の際、天然痘流行し死するもの多し。(233頁)
(3) 元祿十一年(1698)又 西蝦夷地に流行 し、和人・夷人死す るもの多 し。(233頁)
(4) 寳暦三年(1753)秋 、痲疹 流行 し、死傷少 なか らず。(275頁)
(5) 安永五 年(1776)痲疹流行せ り。同八年夏 、西蝦夷地天然痘流行 して増毛に至 り、處 々蝦 夷 の死する者多かりき。同九年に至り一暦猖獗を極め、留萌以北 に蔓延 し、蝦夷 の死 する もの647人 、石狩地方最 も惨状 を呈せ り。(413頁)
(6) 寛政十年(1798)冬、蝦夷地天然痘 流行 して翌年 に至 りぬ。
(7) 寛政十二年(1800)二 月長萬部 よ り來 りし一夷 、東蝦夷地 に於 て、天 然痘 を發 し、忽 ち流行 して死 亡せ しもの40餘人、尋(つい) で虻 田 ・幌別 に傳染せ り。蝦夷男女皆鍋墨 を面 に塗 り、山中に避 難せ り。此疫東蝦夷地 に於 ては、幌別 に止 ま りしが、終 に西宗谷地方 に於 て蝦夷地 に蔓延 し、敷 年の間流行 し。(628頁)
(8) 文化 二年(1805)には四月 より閏八 月に至 る間に、天鹽 ・宗谷地方に於 て蝦 夷の死亡せ しもの509 人 に達 し、同三年 も亦流行 せ り、利 尻 ・禮文二嶋 の蝦夷 の大部分が滅亡 せ しは、蓋 し此際 にあ りと云ふ。 同六年(1809)6箇 場所 の内尾札部に天然痘流行 し、蝦 夷 死 亡 す るもの十に七八、 因 りて同地夷人歩役 金 を減ぜ り。同十四年石狩地 方天然痘 流行 し、蝦 夷の死亡せ るもの甚 だ多く、之が爲め、石狩場所請負人は、介抱に費用を要 し、且つ漁獵減 じたるの故を以て 蓮上金を半減せられたり。(628頁)
(9) 文政元年(1818) ・二年(1819)尚流行せ り。(628頁)
以上 、北 海道 史所載 の記録 を見 て も、疱病 が如何 に蝦夷地 に於 いて猖獗 を極 めて惨 害 を逞 し くしたか を推察す るに難 くない であ ら う。

▲石狩では石狩天然痘 のつぎの記事。(2024.1.4)
石狩での伝染病に関する記録は、安永8(1779)年の天然痘大流行が最初です。 このときは、石狩地方のアイヌが、約650人以上亡くなったと伝えられています。 文化14(1817)年にも天然痘が大流行し、鮭漁のために石狩に集められたアイヌ約2,000人のうち、約900人のアイヌが亡くなったと言われています。 石狩川河口の鮭漁には、石狩川流域のアイヌが広く集められていたため、大量の死者を出したことは、流域のアイヌ社会に大きな打撃を与えました。
明治に入っても天然痘、コレラがたびたび流行しています。明治4(1871)年には、生振(おやふる)村で天然痘が発生し、 生振のアイヌたちが一時的に避難しています。

「樺太アイヌの碑」
(拡大)
明治期コレラの流行
(拡大)
また、明治18(1885)年から翌年にかけて、石狩で鮭漁業をおこなっていた樺太(からふと)アイヌの間にコレラが流行し、 約300人が亡くなりました。八幡(はちまん)墓地には、この時犠牲となった方々を含め明治政府により強制移住させられた 樺太アイヌの人々を慰霊する「樺太アイヌの碑」が建立されています。


川鮭明治21年サケの川の確認(2023.12.17)






西海岸

@天塩川
1807年(文化4)川筋百余里に229人


A浜益川(黄金川)
1855年(安政2)204人
B石狩川

C余市川

D堀株川









E尻別川

F朱太川

G後志利別川

H厚沢部川

I天の川







J石崎川

K及部川






北海岸

@頓別川

A北見幌別川

B湧別川

C猿間川

D網走川

E斜里川








東海岸

植別川〜西別川
@植別川A崎無異川B久根別川C古多糠川D虫類川E伊茶仁川F標津川G床潭川H西別川

I風連川J平戸家川

釧路川〜十勝川
K釧路川L十勝川M大津川










南海岸(紋別川2つあり。十勝と長万部)

南海岸1
@知内川A木古内川B茂辺地川C遊楽部川

南海岸2
D国縫川E長万部川F長流川G幌別川

長万部紋別川

南海岸3
H白老川I鵡川J新冠川K渋退川L三石川

南海岸4
M元浦川N様似川
O十勝紋別川








北海道の面積は
(78,421平方q)
青森から栃木に
(79,453平方q)
匹敵

北海道地図
これから「場所」のデータを地図に入れる。(2023.12.18)
とりあえずの手掛かり東蝦夷地場所1805年(文化2)
@アブタAヤムクシナヰ(山越内)BウスCヱトモDホロベツEシラヌイFユウフツGサルHニイカップIシツナイJミツイシKウラカワLシャマニMホロイズミ NトカチOクスリPアッケシQネモロRクナシリSヱトロフ



寛政期(1789〜1801)
東蝦夷地場所 @ヲヤス(亀田)Aトヰ(亀田)

西蝦夷地場所
西蝦夷地
西蝦夷地
平山裕人『アイヌ地域史資料集』久遠郡セタナイから稚内600q












@久遠郡(ウスベツ、ヲヲタ)
A奥尻郡(オコシリ)
B太櫓郡(フトロ)
C瀬棚郡(セタナイ)
利別川上流、スツキ除く

利別川 砂金?

スツキ







D島牧郡(シマコマキ)
トコマイ場所
E寿都郡(スッツ)
黒松内村除く
F歌棄郡(オタスツ)
G磯谷郡(イソヤ)
H岩内郡(イワナイ)






I古宇郡(フルウ)
J積丹町(シャコタン)
K余市(ヨイチ)
L忍路(オショロ)

L忍路・鰊漁






M高島
Nヲタルナイ

Nかつての小樽内川
N星置川






R石狩13場所
石狩川の全体図
サケがのぼる千歳川・
豊平川(拡大)
石狩低湿地帯
(拡大)
恵庭市:イザリ・モイザリ
恵庭をふくむ石狩低地帯は、初期の松前藩の代表的交易品だった鷹の主要産地であり、一七世紀ごろの寛文年間までに、 多くの「鳥屋場(鷹を捕まえる場所)」が作られていることから、 一七世紀後半には「鳥屋場」の名でイザリ・シママップの二つの場所が成立していたと考えられます。

1808年(文化5年) 石狩アイヌのシレマウ力、イザリ・モイザリの漁業権を訴えでる。
イザリは、アイヌ語で「イチャン」(サケの産卵する場所)からきています。その名の通りイザリ川(漁川)・モイザリ川(茂漁川)は 古くからサケの好漁場で、一八世紀末の寛政期にはイザリ場所だけで年間三万尾以上を出荷しています。
この漁業権問題は、イザリ川・モイザリ川にウラエ(川をせきとめて漁をする場所)を持ち、 サケ漁をしていた石狩アイヌのシレマウカが幕府の東蝦夷地の直轄によってイザリ・モイザリが幕府領となったために 漁を禁じられたことから起こりました。争いは石狩アイヌと勇払アイヌ、石狩の役人・請負人と勇払の役人・請負人の争いに発展し、 解決までに二十数年を要し、ようやくシレマウカの子のシリコノエに漁業権が戻ったのでした。
▲石狩アイヌのシレマウカがはるか上流の、たぶん50q以上も離れたイザリ・モイザリの漁業権を持っていた。おどろき。(2023.12.22)

モイザリチャシ跡 (拡大)
イザリ川・モイザリ川
漁川と茂漁川の位置
(拡大)
1810年ころ(文化年間)
ユウフツ場所惣支配人 山田文右衛門、イザリブト−千歳の千歳越えを開く 一七九九年(寛政一一年)、東蝦夷地は幕府の直接支配に置かれ、島松川を境に恵庭は幕府領となります。 それまでのイザリ・モイザリなどシコツ十五カ所(十六場所)の運上屋は改められ、ユウフツ会所が設けられ、 シコツ場所をふくめた広大なユウフツ場所が生まれました。
▲石狩13場所。勇払16場所。石狩〜勇払ラインの重要性改めて認識。(2023.12.22)

島松〜美々 島松〜千歳は36号線とJRが走っている。いまも重要な交通の幹線。(拡大)
このユウフツ場所とイシカリ場所を結ぶルートは重要な幹線道路で、ユウフツ場所惣支配人山田文右衛門(八代有智)は、文化年間にイザリブト−千歳間の道路を開き、千歳−ビビ間の道路を改修し荷馬車を通わせました。北海道での荷馬車の物資輸送は、この山田文右衛門が最初といわれています。 この千歳越えは、安政年間には、箱館奉行所の新道計画にもとづき、銭函から千歳にいたる 幅二間 (約三・六m)の「札幌越え新道」大道路工事がおこなわれ、一八五七年(安政四)ユウフツ場所請負人 山田文右衛門(十代清富)によってイザリフト−シママップ間が開かれ、交通の要衝としての恵庭の基礎が作られていきます。


島松布・札幌本道 (拡大)
シママップ川左岸に駅逓所 (拡大)
石狩〜苫小牧ルート 北広島の山を越えなければならない(拡大)
北広島市
札幌越新道は、安政4年(1857)江戸幕府が幕臣を石狩に派遣して開削に当たらせ、安政5年(1858)に開通した。こ の時、トヨヒラと千歳の中間地点であるシ ュママップ(島松)に休息小屋が置かれた。


▲そして片山論文に出会いました。(2023.12.26)
1993年片山広子論文 石狩13場所
江戸時代の人口
西蝦夷地石狩場所絵図 1860年頃(拡大)
石狩場所の概観 ▲片山論文で石狩13場所が特定できる。河口からの距離も。すばらしい。
(拡大)
石狩13場所:@トクピタAハツシヤブB下サツホロC上サツホロDシノロEナイギF下ツイシカリG上ツイシカリ HシママップI下夕張J上夕張K下カバタ L上カバタ






片山論文と石狩場所の人口
石狩場所のアイヌ人数 「寛政年間 (1789〜1800) におけ るア イヌの数 は 2万 数千人 とみ なせば大 きな誤 りはない と思われ る。」 ▲文化の時代拡大。文政に激減。
寛政4年657人。文化4年2285人。文化7年3067年。文政4年1158人。安政3年655人。 (拡大)
北海道の人口推移
世帯  人数
元禄 14年(1701) 9月 3 003  20 086
宝永 4年(1707) 12月 2 758  15 848
寛延 2年(1749) … … 21 107
宝暦 6年(1756) 9月 … 22 632
10年(1760) 10月 4 636 21 651
明和 7年(1770) … 5 966 26 604
安永 6年(1777) 冬 6 422 26 633
天明 7年(1787) … 6 705 26 564

データなし(寛政年間 (1789〜1800) 2万 数千人 とみ なせば大 きな誤 りはない)
文化 4年(1807) … 8 479 31 353
天保 10年(1839) … … 41 886
嘉永 3年(1850) 秋 13 301 59 554
6年(1853) 9月 13 787 63 834
19世紀蝦夷地の人口 (拡大)
▲激減の説明
「文 政 元 (1818) 年, 村 山 家 は 「イ シ カ リ場 所」 と 「イシカリ十三場所」 を 『石狩場所』 と して統合 し一括 して請負 うと, アイヌ を集落 に 固定 させず 自在 に動か し, 川や海での漁 に従事 させ る とい う方策 をとった。 同年, 和人が持ち込んだ病気である疱瘡が流行 して アイヌが833人 も死亡 した。 第2表 で示 すとお り, 3,000人 をこえた アイヌが約3分 の1の1,158人 に まで減った。」
19世紀蝦夷地の人口 明治6年(1873)和人105,058人、 アイヌ18,630人、合計123,688人。信憑性高い。 北海道の人口推移はアイヌも含まれていると思われる。 (2024.1.6)
裁判準備ノート人口推移へ飛ぶ

イキコマナイ=雅咲内
咲内(わかさかない)の由来は、アイヌ語の「ワッカサクナイ」(飲み水が・ない・川)当時は飲み水に大変苦労したようである。1840(天保11)年には現在の市街地より北に数キロ行った場所に官設宿泊所が設置され旅人の便を図ったが当時は道なき道だった。 この部落が開発されるのは戦後であり、樺太からの引揚者が多いようである。



宗谷場所
平山裕人『アイヌ地域史資料集』

▲大変興味深い地図。場所は沿岸だけ。オホーツクのアイヌ人口。多い。数える。 漁業復活の基礎資料。(2023.12.21)
▲オホーツクのアイヌ人口2186人。(2023.12.24)








東蝦夷地
東蝦夷地
平山裕人『アイヌ地域史資料集』










▲東西蝦夷地の「場所」の確認、明治20年頃の川漁の川の確認、ここからアイヌ民族の海と川における漁業復活の正当性が見えてくる。(2024.1.1)

井上研究ノート
論文「内村鑑三と石狩川サケ漁、アイヌ民族」

はじめに
千歳川下流 (拡大)
▲実際に見て、支流のイメージ を遥かに超える大きな川でユポさんともども驚く(2022.6.7)
明治19年ころの茨戸付近 アイヌ資料集(拡大)
札幌県勧業課農務係漁猟科御用係、内村鑑三は、1882(明治15)年12月、千歳川サケ漁 を視察し、「復命書」(報告書)を札幌県令調所廣丈(ちょうしょひろたけ 幕末の薩摩藩士)宛に提出した(1)。
北海道最大であり、 日本でも第二位の長さの石狩川、その下流部に流れ込む支流が千歳川である。 千歳川は、石狩川を遡上するサケの「三分ノ一」を占め、石狩川水系、第一位の支流であった。 千歳川のアイヌ民族は、サケを漁し、サケを「常食」として生活を営んできた。

1878年11月、「明治一一年・乙第三〇号」布達で、支流のサケ漁を全面禁止(5)。 サケ漁を引網だけに限定して認め、支流のサケ漁を全面禁止にする。当時の引網漁の主流 は、長さ400間から600間(720m〜1,080m)、漁夫30人ないし50人、船1、2隻を使った 資本力のある和人漁業家の、沿岸部や河口部でなされる大規模漁法である(6)。
井上勝生研究ノート (拡大)2017年3月北大文書館年報
▲和人に沿岸部、河口部で大規模のサケの引網漁(船1,2隻、.網長さ720m〜1,080m、漁夫30人〜50人)を認め、 アイヌに対して支流(上流)のサケ漁を全面禁止した1878年明治11年の開拓使乙第30号布達は、公序良俗に反する差別法令で 近代法の観点からは発令の時点で無効である。依ってサケ漁に関するその後の法令もアイヌ民族には無効である。 (2022.5.8)
▲今、改めて無効だと思う。(2023.3.8)
▲恐らく鹿猟禁止令も同じ構造だと思う。調べること。(2022.5.9)
▲「井上研究ノート」をベースに置く。ラポロネイション訴状はその視点が欠落。(2022.5.10)
▲札幌で井上勝生先生に面談。東学党農民戦争の研究中、と伺う。(2022.6.7)
またさらに、 1882年、開拓使を引き継いだ札幌県は、密漁監視人を支流へ派遣し始めた。(1p)

千歳川合流地点 (拡大)
都市およびその近郊に優良な農地が広がる千歳川流域の低平地は、明治40年頃には広大な湿地でしたが、 治水事業や農地開発、舟運利用などを目的とした幌内運河や馬追運河の開削などによって、 昭和40年頃には豊かな水田となり、その後も治水事業の進展による地下水位低減や、 水田から畑への転換により畑作が盛んになりました。
内村鑑三の復命書別紙の次のような内村自身の文言は、鈴木繁や山田伸一が述べている ように、永く記憶されるに値するものであろう。
依テ彼等(千歳アイヌ民族―井上注)饑餓ノ民ヲ救フ法、他ナシ、彼等ニ千歳川ノ漁ヲ許シ、以テ家計ヲ立テシムルニアリ

サケ禁漁下のアイヌ民族を「饑餓ノ民」と呼んで、彼等アイヌ民族に「千歳川ノ漁ヲ許」 す以外に方法がないと報告する。アイヌ民族、サケ漁業権の問題に係わる重い言葉である。 また、同じ復命書別紙に記された次の文章も重要である。

諺ニ曰ク、飢餓ハ法規ヲ知ラスト、彼土人モ亦然リ、官若シ漁ヲ禁セハ、 餓スルカ法ヲ犯スカノ二途アルノミ(傍点、原文)

札幌県布達の支流禁漁によって、千歳川アイヌ民族は、生存権を侵害されつつあった。 アイヌ民族の生存のための密漁は法を超えた正当性があると言う。
これもアイヌ民族の漁業権に係わる問題であった。 千歳協同組合漁業に資源監視を委任すれば、と同じ別紙の結びで内村は、次のように記す。
彼等ニ漁ヲ許サハ、永ク生計ヲ失ハス、又鮭蕃息(さいそく)ノ基ヲ堅シ、永ク千歳川ノ鮭ヲ保持スルニ至ラン

アイヌ民族が生計を立てることができ、かつまた、永く千歳川のサケを保持することができる、と言う。
内村の提案は、採用されなかった。歴史を見ると、石狩川サケは、絶滅はしなかったが、1893年の大凶漁を画期として、 以後、壊滅的に減少していった。壊滅の画期をなした大凶漁は1876年、 アイヌ民族へのサケ漁規制から17年後――20年も経たなかった――であり、 内村の1882年復命書からわずか11年後であった(11)。内村の提言は、大きな、切実な意味を 持っていた。
ここでは、内村鑑三と石狩川サケ漁について、今まで埋もれていた事実関係 を掘りおこしたい。(2p〜3p)


「支川鮭漁の制」は、「明治九年・乙第九号」布達のアイヌ民族のテス網、夜漁の小規模 漁業の禁止であり、また二年後、「明治一一年・乙第三〇号」布達、支流サケ漁の禁止で ある。 先に説明したように、これは、乙第九号布達の翌月出された乙第一〇号布達、場所持の廃止、 すなわち河口部や沿岸部の広大な漁場の開放と合わせて読まなければならない のである。
奪われた漁場
(拡大)榎森進『アイヌ民族の歴史』393p 「アイヌ民族には、和人の直接生産漁民に与えられたような漁業の権利を与えられなかった。」
▲漁業権回復を求める。このような差別は違法であり、先住民族権利宣言(20条2項、26条、27条、28条) も援用しながら訴えていきたい。(2022.5.2)
定置漁業権の取得のチャランケでこの事実は使える。(2023.3.8)
1876年乙第一〇号布達は、場所持の不当な漁場独占、「人民移住の障害」を排除すると いう文言が入れられていた。漁場持の排除、漁場の自由解放、これこそ、広大な漁場での 移住漁家たちのすさまじい大乱獲の開始、または急増であった。一方では、旧場所請負商 人の廃止は、極論すれば、アイヌ民族の解放のようにも受け取られかねない。だが、すで にその一ヶ月前、開拓使布達によってアイヌ民族は、生存に重要なサケ漁、テス網や夜漁 を明確に禁止されていた。山田伸一も指摘するように、また内村鑑三もこの乙第九号を名 指しで批判したように乙第九号布達は、サケ保護策などの役割をすることはなかった。上 流部での、監視体制未整備やアイヌ民族の生存無視など、現実の施策のないままの禁漁令 は、移住和人の無秩序な乱獲を広げたのであった。(23p〜24p)

(拡大)
 注
 8) 山田伸一『近代北海道とアイヌ民族―狩猟規制と土地問題―』第4章、北海道大学出版会2011、初 出「千歳川のサケ漁規制とアイヌ民族」『北海道開拓記念館研究紀要』32号、2004。
 10) 榎森進「明治開拓期根室地方漁業構造の史的展開」(『北海道経済史研究』19号、1960)の和人漁夫 の分析は、今も、参考になる論文である。
 67) 乱開発をアイヌ民族がどう見ているのか。
たとえば貝澤正『アイヌ わが人生』岩波書店1993の「北 海道収用委員会における貝澤正の申立」に、「僅か一二〇年の間によくも北海道をこんなに荒らしたも のだと驚くのは私だけじゃないと思います。魚を捕り尽くし、木を伐り尽くし、地下資源を掘り尽く し、必要がなくなったといって鉄道を廃止したり、そのうえ、人口が少ないからと北海道を核のゴミ 捨て場にしようとして……」181頁。
貝澤耕一の「あとがき」、「約五〇〇年の間、日本は北海道の資源 を食い尽くした。ニシン、シシャモ、サケ、マス、シカ、クマ等々の動物も失われつつある。そして ついには森林までをも。大自然の北海道といわれているが、北海道に大木はない。大木の生い茂る大 森林などない。……弱々しい木々が立っているだけだ。これだけ森・川・平野を破壊して、災害が起 きないはずはない」334頁。
▲「テス網と夜漁禁止の乙9号は8月28日、漁場持一切廃止の乙10号は9月21日。従来この2つの布達は別個に検討されている。」 (2017.3.31井上研究ノート)
▲山田伸一論文「千歳川のサケ漁規制とアイヌ民族」2004年『北海道開拓記念館研究紀要』32号。井上研究ノートで紹介。山田さん当時36歳。 (2022.6.1)
▲井上論文 注67)で貝澤正さん、耕一さんの指摘が特に取り上げられている。(2022.8.28)



1877年(M10)
「魚場持」(ぎょばもち)制度廃止(ユポさん1876年のようです)、 河川の生態系の破壊、乱獲、漁撈禁止
9月 箱館を函館に改称
11月「北海道在住令」(全4条)
「移住民」募集開始、北海道に籍が無くても、居留して開拓を志す者、 在住官員で開墾志願の者に土地を割譲する、藩解体の藩主、藩士(3ヵ年食料下付)
12月13日「北海道地券発行条例」(全58条)  アイヌ民族の居住地をすべて官有地第3種に一方的に編入
*「旧土人住居の地所は、其種類を問す当分総て官有地第三種に編入すべし」
(第16条・アイヌが将来農耕するための土地として一時国で保管しておく)アイヌ民族は未開の土人であるから、 土地の管理能力が無い、国家が管理する。
「地券発行条例」
地券発行条例その1 (拡大)
地券発行条例その2 「地券発行条例」15条 16条参照(拡大)
地券発行条例その3 「地所規則」7条、8条(全19条)(拡大)
地券発行条例その4 (拡大)
*北海道人口191,170人(アイヌ民族17,098人)
大坂 拓
後志(しりべし)地方の近代アイヌ社会と民具資料収集の射程 ―旧開拓使札幌本庁管下後志国9郡を対象として― 大坂 拓
地券発行条例官有地第三種編入大坂論文
▲市川『アイヌの法的地位』94pによると「北海道地券発行条例」は開拓使達。これだけ大きなことも一片の通「達」で処理してしまう。 (2021.9.6)
▼『北海道農地改革史』上巻(37〜39頁)の「北海道地券発行条例」に依ると
「明治政府は地券発行に際し、…地租を課さない官有地と地券を渡し地租を課する民有地に大別した。
「北海道地券発行条例」でも北海道の土地を官有地と民有地に二大別した。
官に於いて使用管理する土地は勿論、未だ利用の確定しない「山林・川沢・原野等」も悉く官有地とした。
先住民族のアイヌの住居地は、その種類を問わず当分すべて官有地第三種に編入した。(条例16条)」(下線は引用者)

▼榎森進『アイヌ民族の歴史』によると
「新政府は、1869(明治2)年9月、場所請負制を廃止した。
その目的は場所請負人による排他的独占的な漁場及び土地の占有を廃止し、幕末に急成長を遂げてきた直接生産漁民を初め、 新たに北海道に移住する漁民に漁場を与えることにあった。
萱野茂「アイヌの民具」181頁
アイヌ民族には、和人の直接生産漁民に与えられたような漁業の権利は与えられなかった。)
しかし一挙にに廃止することができず、10月には、旧場所請負人を当分「漁場持」とした。
場所請負制が名実共に廃止されたのは、1876(明治9)年に「漁場持」の名称が廃止されてからである。
新たな漁業制度が実施される中で、
鮭の遡上する河川や豊富な海の幸を与えてくれる海での漁業権の多くが 和人の旧場所請負人や新旧の直接生産漁民に与えられた結果、河川や海におけるアイヌ民族の漁場が奪われることとなったのである。」 (393頁)
(下線は引用者)
▼明治政府の10年間はアイヌ民族にとっては生活手段をことごとく奪われ、 文化を破壊され、民族の尊厳は無視され、和人化を強要される10年であった。
土地に対する権利、漁業に対する権利の回復が当然のこととして必要になってくる。
石狩川支流でのサケマス漁の禁止令(拡大)
『アイヌ民族の歴史』p425(草風館)

1878年(M11)
アイヌ民族の呼称を「旧土人」とする
▼「旧土人」の呼称については1871年(M4)の補充を見てください。
* 鮭・鱒の川漁「禁止」10月
▼石狩川支流での川漁の禁止。このことでこの地域の琴似アイヌが旭川に移住せざるを得なくなった。 (2021.5.1)
1879年(M12)
「琉球処分」琉球藩を廃し、沖縄県を設置
▼1874年(M7)「台湾出兵」の補充で「琉球処分」の背景についても触れられています。
1880年(M13)
日高国 佐瑠太学校平取分校開設 有珠村にアイヌ学校開設
1881年(M14)
「官有物払い下げ事件」(国会・北海道議会 開設運動へ)
「樺戸(かばと)集治監」設置(以後空知、釧路、網走、十勝、囚人使役 )
▼ wp:開拓使官有物払下げ事件は、北海道開拓使長官の黒田清隆が開拓使官有物を同郷薩摩の政商五代友厚らの 関西貿易商会に安値・無利子で払下げることを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、 払下げ中止となった事件を指す。
▼明治3年から10年余黒田清隆の開拓使時代の終焉。勢いのある政治家の最後はやはり汚れた形で終わる。 今、日産のゴーン前会長の役員報酬が問われている。
▼「樺戸(かばと)集治監」設置について月方町HPより:
明治維新の動乱(佐賀の乱、熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱、西南の役など)が全国各地で起き、 多数の国事犯・重罪人がでたため、明治新政府は、収容する施設を早急に整備する必要に迫られた。
そこで、当時未開の地「北海道」を流刑地として囚人を送り込めば、反政府の危険分子を隔離することが出来き、 また、農耕に使役して食糧を自給自足すれば経費負担も軽減できるとして、明治13年、内務省から北海道に調査団を派遣しました。
朝日夕刊2020.10.17 日本一の一直線
29.2キロメートル

明治14年、東京・宮城に続き全国で3番目、北海道で最初の集治監「樺戸集治監」が、収容者数約1500人規模の「農事監獄」として始まった。
樺戸集治監は後に北海道の大動脈ともいえる上川道路(札幌→旭川)(国道12号)の開削に着手。 囚人の外役作業として過酷な労働を強いることになった。しかし、このことによって、 北方警備と開拓者としての屯田兵や移民が入植できるようになり、開拓の基礎を樺戸集治監の囚人が担った功績はとても大きい。

▼北海道は鎌倉時代から流刑の地、と中央政権から見られていたようだ。

1882年(M15)
三県地図(拡大) 三県の管轄範囲を確認
※「瀬棚町史」231p「開拓使は、10年計画の終了する明治15年1月をもって廃止。明治5年1月から起算して、ちょうど満10年。」 (2022.2.2補足)
開拓使にかわって「函館」「札幌」「根室」の三県・一局を置く(3年間)


1883年(M16)
鹿鳴館落成の1883年(明治16年)より1887年(明治20年)までの時期がいわゆる鹿鳴館時代である。
▲東京の鹿鳴館時代と北海道アイヌ民族の飢餓が同時進行。(2023.12.30)

市川守弘『アイヌの法的地位』
101pサケ漁より

1873年(明治6年)開拓使8.29布達 札幌市内のウライ漁などの禁止 10.3布達 引網漁の課税対象
1878年(明治11年)開拓使10.17布達 札幌の郡内一切禁止 その後全道の河川で実施されていく。
十勝川の「鮭漁禁止」
・十勝アイヌ民族、飢餓状態となる
「北海道転籍移住者手続」・太政官布達
「旧土人教育基本金」(明治大帝陛下恩賜金・1000円)
*「土人救済方法」
「旧土人教育方法協議会」設立流会



▼榎森進『アイヌ民族の歴史』
「1883(明治16)年の十勝地方の河川での
十勝川・安骨
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鮭の禁漁に伴って生じたアイヌの惨事は目を覆うばかりのものとなった。
すなわち、1883(明治16)年5月、札幌県は、十勝管内大津川より中川郡安骨村字チャシコチャまでを除く(河口から15q)他の河川での鮭漁を禁止したが、 これにより翌1884(明治17)年、十勝川上流のアイヌは、食糧不足から飢餓に襲われ
「漸次食絶エ、飢餓旦夕(たんせき)ニ迫リ、只座シテ死ヲ待ツカ如シ」(『晩成社日記』)状態に追いやられたのである。」 (399頁)
(下線は引用者)
▼明治政府よ、ここまでやるのか!この時から135年経っている。どう償うべきか。これも回復訴訟の対象。(2020.7.3)

▲準備中のbookletに是非この事実を入れること。(2023.12.31)
マルクス死亡(64)
1884年(M17)
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北千島アイヌ民族97人を、色丹島に「強制移住」
6月30日〜7月6日(支度に2日間)
釧路アイヌ民族27戸を阿寒郡セツリに「強制移住」
アイヌ民族に「勧農事業」開始
新冠郡、勇払郡、沙流郡地方のアイヌ民族飢餓状態に陥る。
結核、コレラ、天然痘、免疫のないアイヌ民族に蔓延(コロナの今、よくわかる。2020.7.3)
民族絶滅の危機、エスノサイド(民族絶滅)、ジェノサイド(集団殺戮)
wikipedia:ジェノサイド
Article II In the present Convention, genocide means any of the following acts committed with intent to destroy, in whole or in part, a national, ethnical, racial or religious group, as such:
(a) Killing members of the group;
(b) Causing serious bodily or mental harm to members of the group;
(c) Deliberately inflicting on the group conditions of life calculated to bring about its physical destruction in whole or in part;
(d) Imposing measures intended to prevent births within the group;
(e) Forcibly transferring children of the group to another group.
▼三県時代もアイヌ民族にとっては極めて厳しい時代。ユポさんをして 「民族絶滅の危機、エスノサイド(民族絶滅)、ジェノサイド(集団殺戮)」と言わしめる所まで追い詰めた和人の明治政府。 われわれ日本人の責任。
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』(428〜429頁)
1911(明治44)年、日高の荷負(におい) 尋常小学校(現平取町内)に赴任した青年教師教師吉田厳は、この地のアイヌの悲惨な生活を目のあたりにして、
日高国 荷負(拡大)

その様子を怒りをこめて次のように記している。
「じめじめした室内、暗室の掘立小屋、煤と塵とで埋まってる窓や器物、 不潔狼藉、日光もなく通風もない。奥まった暗がりにキョトンと二つの光った病人の目には時々涙をかわした。 食物の欠乏か、飲料水の不備か、栄養の不良か、生気なく、なえしなび、よぼよぼ風にたへぬオヤジ、 朦朧として炉辺にうつむいているパッコ(老婆)、生けるミイラかとがっかりする。」
(下線は引用者)
▼これはたぶん病気の児童の家庭訪問の時の光景だと思う。心が痛む。その大きな原因をつくり出しているのがわれわれ 日本人であることを思うと、今生き残っているアイヌの人たちに何とか償いをしなければ、という気持ちになる。
1885年(M18)
「旧土人授産事業」開始(農業指導中心、農具種子、10カ年計画)
「天津条約」
「内閣制度」発足
▼12.22「内閣制度」発足、すなわち「太政官制」の廃止。明治は新たな段階に入った。翌1886年1.26北海道庁設置。6.29「北海道土地払下規則」制定。 急速に資本主義制が取り入れられる。「富国強兵」の「富国」とは国家資本主義の導入ということ。 庶民から税金を巻き上げて資本家に廻す、という政策。1889年(明治22)明治憲法公布。北海道の動きも内地の動きを念頭に入れながら見ること。 (2022.1.11)
▼なぜ「天津条約」なのか。Wikipediaより。
◇天津条約(てんしんじょうやく、英語:Convention of Tientsin)は、1884年12月に朝鮮において発生した甲申政変によって 緊張状態にあった日清両国が、事件の事後処理と緊張緩和のために締結した条約。
1 日清両国は朝鮮から即時に撤退を開始し、4箇月以内に撤兵を完了する。
2 日清両国は朝鮮に対し、軍事顧問は派遣しない。朝鮮には日清両国以外の外国から一名または数名の軍人を招致する。
3 将来朝鮮に出兵する場合は相互通知を必要と定める。派兵後は速やかに撤退し、駐留しない。
◇甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月4日に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデタ。 親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。
◇親日派のクーデタが失敗し、多くの独立党の人びとが処刑され、あるいは亡命を余儀なくされたことは、 朝鮮半島における日本の立場を後退させた。親日派の力によって日本の政治的・経済的影響力を強めていこうとする構想はここで頓挫し、 やがて、軍事的に清国を破ることで朝鮮を日本の影響下に置くという構想へと転換していった。
▼明治政府による朝鮮支配と日清戦争を理解するためにユポさんは「天津条約」に注目されたようです。 飽くまでも朝鮮半島を支配したいとの明治政府の意思が鮮明。
1886年(M19)
「北海道土地払下規則」(全13条)〔6月29日〕
岩村通俊 (拡大)
10万坪のイメージ ▲(2023.10.28)
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開拓者1人につき10万坪(33.3ha、これまで通り)国有未開地処分(アイヌ民族対象外)
*「特許植民会社」
*(大資本)強大な統治権
農業植民地への転換
*「北海道庁」設置(三県廃止)

(初代北海道庁長官岩村通俊(いわむら みちとし)・「貧民を植えずして富民を植えん」)
「住民を奨励保護するの道多しといえども、渡航費を給与して、内地無頼の徒を召募し、 北海道をもって貧民の淵藪(えんそう・よりあつまるところ)となす如きは、策のよろしき者にあらず。(中略)
自今以往は、貧民を植えずして富民を植えん。是を極言すれば、人民の移住を求めずして、資本の移住を是求めんと欲す。 よって之を奨励するために、馬耕、農業保護法を設け、一個人又は一会社にして、満五年以内に20町歩以上の土地を懇成したるものには、 その費用(一町歩金70円を以って算す)に対し、懇成後、10カ年間、利子を下付すべし。
民間資本による北海道開拓へ転換
各地で原野を「植民地」として和人に解放、アイヌ民族には一部を生活維持のために「保留地」として確保した。
あいぬ物語A
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不慮の災難
明治19年(拡大)
「三百幾十人という土人が木でも倒れるように吾々を遺して世をさった。虎疫と痘瘡との流行のためであった。」
「コレラ病の始まりは19年の年の夏からで秋までに段々激烈になって行って冬かけて春近くまでに物の沈んで行くように 親戚の人や親しくしていた友達が後から後からみな私を置いて世を去った。翌年の2月になって病気も少し衰えかけた頃私もとうとう 罹って了った」(38p)
▼山辺安之助19歳。

・対雁(ついしかり)の樺太アイヌ民族、コレラと天然痘で300人死亡
▼樺太で生活していた先住民族のアイヌが1875年(明治8年)国籍の選択を迫られ、841名ものアイヌが海を渡り いったん宗谷へ移住後、翌1876年に対雁に強制移住させられたという。(2021.4.28追加)
・日高、網走でアイヌ民族の「強制移住」
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▼「北海道土地払下規則」を調べました。
第一条「北海道官有未開ノ土地」ハ本規則ニ依リ北海道庁ニ於イテ之ヲ払下クヘシ 
第ニ条 土地払下ノ面積ハ一人十万坪ヲ限トス但盛大ノ事業ニシ此制限外ノ土地ヲ要シ其目的確実ナリト認ムルモノアルトキ 特ニ其払下ヲ為スコトアルヘシ
第十三条 明治五年北海道土地売貸規則 明治七年開拓使布達明治十一年開拓使布達ヲ廃止ス

雑誌名「日本人の労働と遊び・歴史と現状」 巻 16 ページ 69-81 発行年 1998-08-06
        「第5章 北海道開拓民の労働と遊び」 桑 原 真 人
さて、初代道庁長官 に就 任 した岩村通俊 は、1887年5月 、全道 の郡長 ・区長 を集 めて行 った 「施政方針演説書」 において、周知 のように 「直接保護」政策か ら 「間接保護」 政 策 へ の転 換 を明 らか に した。 それは、 岩村 の言 をか りるな らば、「自今以往ハ、貧民 ヲ植 エズ シテ富民 ヲ 植 エ ン」 という政策であ り、 「是 ヲ極言 ス レバ、人民 ノ移住 ヲ求 メズシテ、 資本 ノ移住 ヲ是 レ 求 メ ント欲 ス」 とい うものであ った(北 海道庁 「新撰北海道史』第6巻)。 このよ うな間接保護政策 は、 とりわけ、移民政策 において顕著 であ った。す なわ ち、道庁設 置以前の移民を 「渡航費 ヲ給与 シテ、 内地無頼 ノ徒 ヲ召募」 し、北海道全体 を 「貧民 ノ淵藪 」 とす る行 為であ ると批判 す る岩村 は、以後 の移民政策 の重点 を、従来 のよ うな 「貧民」で はな く 「富民」 に、言い換 えれば 「人民ノ移住」 ではな く 「資本ノ移住」 に求 めようと したので あ る。 そのため には、北海道 が 「資本ノ移住」 に とって適合的 な条件 を備 えた地で なければな らな い。具体 的 には、土地政策 の変更 である。
す なわち、明治以降 の北海道 の土地政策 をみ ると、
10万坪のイメージ ▲確かに資本家が進出するには10万坪(600m×555m)は狭い。 11年後の明治30年「国有地未開地処分法」では150万坪に広げられる。 (2023.10.29)
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明治初年 の段階で全道 を無主 の国有地 とみな した政府 は、1872年 に 「北海 道地所規則 」 及 び 「北海道土地売貸規則」を制定 し、 これ によって移住者 への土地処分を行 って いた。 だが、 そ の処分面積 の上限 は1人10万 坪(=33.3町 歩)とされ、 内地の資本家が、 北海道で広大な農場や牧場を経営するにはやや無理があった。

▲資本家が進出するには「1人10万坪」は制限がきつ過ぎる、という意味。(2022.1.2)
そ こで、1886年 に前記 の両規則 は廃止 され、新 たに 「北海道土地払下規則」 が制定 された。 この規則 の最大の特徴 は、 その第2条 にあ った。土地処分面積 は、一応1人10万 坪 を限度 に無 償貸与 されたが、「盛大 ノ事業 ニシテ此制限外 ノ土地 ヲ要 シ、其 目的確実 ナ リト認 ムルモ ノ ア ル トキハ、 特 二其払下 ヲ為 ス コ トアルヘ シ」 という但 し書 きがあ って、制限外の土地処分 を行 うことが可 能であ った。
▲1872年(明治5)に 「北海道地所規則 」 及 び「北海道土地売貸規則」、
1886年(明治19)「北海道土地払下規則」、
1897年(明治30) 「北海道国有未開地処分法」 。
25年かけて植民者のための土地政策を完成させている。この流れの中にアイヌ民族の扱いが入る。 「無主の地」「官有地」の扱い。植民者たちを優遇しようとすれば反射的にアイヌ民族の権利の無視につながる。 (2022.1.2)


事 実、 明治20年 代後半 になると、全貸下面積 に占める10万坪以上貸下 の占め る割 合 は徐々に上昇 し、1894年(明 治27)に は、前 年 の8.6パ ーセ ン トか ら36.9パ ーセ ン トに増加 し、以後 も30パ ーセ ン トを越 えている。 このよ うな大土地所 有形 成の流れは、 まさに内地資本 の要求 に沿 ったものであ り、 それ は、 やがて1897年(明 治30)の 「北 海道 国有未開地処分法」 の制定 に帰結 して いったのであ る。 一方、 こう した北海道 国有未開地 の大量処分 と平行 して、 明治20年 代 に入 ると、 内地農村 か ら多数 の北 海道移民が流入 し始めた。1886年 か ら1922年(大 正11)ま で の36年 間でみ ると、 北海道へ の流入人 口は、明治20年 代後期 の3万 人台が同30年 代 には5〜6万 人 台 とな り、 大正前 期 には最多 の8万 人台 とな って いる。 この36年 間の移住者総数 は約201万 人 に達 してお り、 これ らの人 々が、近 代 の北海 道 開拓 に さまざまな形 で関 わ ったのである。

▼たまたま「BURAKU」の頁を作っていて743年の墾田永年私財法に出会いました。 Wikipediaで読んで見ると1886年の「北海道土地払下規則」に似ていることに気づきました。明治の官僚貴族は王政復興で奈良時代のこのような制度まで 復興させていたことがわかりました。おどろきです。感覚的にはルネッサンス期のヨーロッパ人がその範をギリシア哲学に求めたのに似ています。 おどろきをご自分で実感してみてください。1100年前の法令と目的をWikipediaから引用しておきます。
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)は、奈良時代中期の聖武天皇の治世に、天平15年5月27日(743年6月23日)に発布された 勅(天皇の名による命令)で、墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令である。 古くは墾田永世私有法と呼称した。荘園発生の基礎となった法令である。

勅。如聞。墾田拠養老七年格、限満之後、依例収授。由是農夫怠倦、開地復荒。 自今以後、任為私財。無論三世一身、悉咸永年莫取。其国司在任之日、墾田一依前格。 但人為開田占地者、先就国申請、然後開之。不得因茲占請百姓有妨之地。若受地之後至于三年、本主不開者、聴他人開墾。
  天平十五年五月廿七日 『類聚三代格』より

現代語訳: (聖武天皇が)命令する。これまで墾田の取扱いは三世一身法(養老7年格)に基づき、満期になれば収公し、(国有田として他の耕作者へ)授与していた。しかし、そのために(開墾した)農民は意欲を失って怠け、開墾した土地が再び荒れることとなった。今後は、私財とすることを認め、三世一身に関係なく、全て永年にわたり収公しないこととする。国司の在任中における申請手続きは、三世一身法に準ずるものとする。ただし、耕地を開墾してその土地を占有しようとする者は、まず国に申請すること。その後で開拓せよ。また、公衆に妨げのある土地を占有する申請は認めない。もし許可を受けて3年経っても開墾しない場合は、他の者へ開墾を許可してもよいこととする。   天平15年5月27日

ただし『続日本紀』巻十五の同日条を見ると、同じく天皇による命令形式である詔として出され、その中に次の逸文が入っていたことが分かる。 この部分は、位階に応じて私有面積の上限を定めた規定であるが、この部分が上記の『類聚三代格』では削除されている。

「(悉咸永年莫取。)其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。 六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者、大領少領三十町、主政主帳十町。若有先給地過多茲限、便即還公。 姦作隱欺、科罪如法。((其)国司在任之日。)」

現代語訳: ……(その土地の広さは)
親王の一品と一位には五百町、
二品と二位には四百町、
三品・四品と三位には三百町、
四位には二百町、
五位には百町、
六位以下八位以上には五十町、
初位以下(無位の)庶人に至るまでは十町(とせよ)。
ただし、郡司には、大領・少領には三十町、
主政・主帳には十町とせよ。
もし以前に与えられた土地で、 この限度よりも多いものがあれば、すみやかに公に還せ。不正に土地を所有して隠し欺くものがあれば、 罪を科すことは法の如くにする。……

直木孝次郎ほか訳注 『続日本紀 2』 平凡社〈東洋文庫〉(ISBN 4-582-80489-6)による)

▼位による墾田の広さの違いは明治では資本による違いに置き換えられているだけである。 200万町歩の皇室の御料地の維新政府・貴族官僚の発想も「分かる」気がする。
▼岩村通俊とはwp:北海道開拓の重要性を政府に説き、北海道庁設置を働き掛ける。これが認められ明治19年(1886年) に北海道庁が設置されることとなり通俊が初代長官に任命される。
▼wp:1887年(明治19年)にコレラと天然痘が流行し、移住した樺太アイヌの40パーセントが死亡した。
山辺安之助は「明治十九年の夏から秋まで段々激烈になって冬から春にかけて物が沈んでゆくように 親戚の人や友達が後から後から私を置いて世を去った」
『あいぬ物語』)と語っている。
▼「物が沈んでゆくように」…、つらい。読むだけでもつらいのに、書くことはもっとつらかっただろう。ご冥福を祈ります。 この人たちの無念もふくめて今を生きる和人として償わなければならない。(2019.2.5)
「北海道土地払下規則」によって実際に払い下げられた土地は1896(明治29)年までの11年間に、 42万6,800余町歩。4,221平方q 琵琶湖6個分。(榎森進『アイヌ民族の歴史』423頁を参考にしながら)
▼当時のアイヌ民族の人口は17,098人。開拓者1人につき10万坪(33.3ha)であれば17,062×33.3ha=568,164 ha=5,681平方q 。  琵琶湖=670平方qであるから8.5個分。この規模の土地がアイヌ民族に確保されていてもおかしくない。因みに北海道の広さは 83,450平方q。琵琶湖125個の広さ。125個の広い空間がアイヌモシリだった。そのうちの8.5個分。ささやかな措置。それすら全くなされていない。

1888年(M21)
1887年(明治19年)にコレラと天然痘流行。 1888年(M21)色丹島の北千島アイヌ民族5年間で97人のうち45人死亡。
色丹島の北千島アイヌ民族5年間で97人のうち45人死亡
北海道人口354,812人(アイヌ民族17,062人)
市制、町村制公布
枢密院設置
▼樺太アイヌ、千島アイヌ次ぎ次ぎ死亡。
1889年(M22)
*新十津川村の原野を和人に解放するに当たって、アイヌ民族11戸を、給与予定地を選定し「強制移住」させる
現在の新十津川町

新十津川村http://www.zck.or.jp/site/forum/1213.html
▼このHPでは新十津川村の歴史を語る際アイヌの強制移住は全く触れられていない。驚き。(2021.4.28)
▼右の現在の市街地の写真は今日掲載しました。十津川の人のご苦労もさることながら アイヌの人たちの犠牲の上に築かれていることに思いをいたしてほしい。(2021.12.15)
*美幌アイヌ民族を「強制移住」させる
内大臣・首相・三条実美「華族組合雨龍農場」(三条・蜂須賀・菊亭ら華族)原野49,500町歩 (≒5万ha 1億5千万坪)規則上限の1500倍(1町歩は、約1ヘクタール)
wikipedia:三条実美
三条実美 (拡大)
明治4年(1871年)には制度改革により、太政大臣となった。この太政大臣は律令下のものと異なり天皇の代行者としての役職であり、 「万機条公に決」される体制を目指したものであった[68]。
華族組合雨龍農場
明治19年に北海道庁が設置されると、北海道も本格的な開発計画が推し進められ、 特に北海道内陸部は一気に賑わいを見せます。※「北海道土地払下規則」が公布。
これにより、華族・政商・豪農たちが大農場開拓に手を伸ばします。 明治22年、皇室御料地として全道に200万haが設定され、華族組合雨竜農場へは5万haが払い下げられます。
お公家様にお殿様、高級官僚の皆さま…さて、この華族組合は三条実美公爵・蜂須賀茂韶侯爵・菊亭修季侯爵の連名により、 明治22年10月北海道庁へ申請され同年12月18日付けで許可されます。
明治23年に道庁職員だった町村金称が組合農場の支配人として開墾がはじまります 明治24年に筆頭者の三条実美が死去します。 貴族院の議長でもあった蜂須賀茂詔は、明治26年に雨竜農場の解散を決定します。 支配人として功績があったとして町村金称は、80町歩の土地を譲り受けます。 金称長男の敬貴が牧場経営(現:町村農場)、五男の金五が政治(金五の次男が町村信孝)

「大日本帝国憲法」発布 
1890年大日本帝国憲法と1850年プロイセン憲法の比較
フランス1791年憲法
▲フランス1791年憲法は1947年の日本国憲法に近い。 1850年プロイセン憲法をお手本にしたことによって150年遅れた。回り道をした。(2022.12.26)
▼wp:1889年に起きた奈良県吉野郡十津川村での十津川大水害の被災民がトック原野に入植し新十津川村と称した。 1890 年 600 戸2489 人がトック原野(徳富川流域)に移住。
明治の礎「北海道開拓」。とても参考になるHPです。
明治22年、皇室御料地として全道に200万haを設定、華族組合農場へは未開地5万haが払い下げられます。 公爵三条実美、旧徳島藩主の蜂須賀氏らが設立した華族組合雨竜農場は、このときに払下げを受けて創立されたものです。      
 池田さなえ『皇室財産の政治史』(人文書院2019.3.30)

「本書は、皇室財産のなかでも議会開設直前に設定された膨大な不動産である「御料地」に着目し、その政治史的意義を解明することを通じて 明治立憲制創設後の宮中と府中との実態的関係を考えるものである。およそ君主制をとる国家であるならば、国家を維持するために必要 とされる費用のほかに、大なり小なり君主の「家」を存続させるために特別に設けられた財産を有する」(13頁)
上川離宮予定地 (拡大)
▲アイヌの近文給与地問題を考える際、 当時の明治政府が上川にどういう構想を持っていたのかを知ること。
一つが軍事基地、もう一つが離宮。(2022.3.31)
「御料地は明治22年から23年にかけて集中的に編入された。」(21頁)
▲国会開設が明治23年に迫っていたため「国有財産と未分化であった皇室財産を区別して、皇室独自の私有財産として設定 することにより、国会論議の埒外に置く」(『新旭川市史』第2巻29p)ための編入。(2022.3.31)
「北海道御料林は、拓殖の対象地とされていた官有地の中から約200万町歩という広大な面積を編入して誕生したものであった。しかし、明治 27年にその約3分の2というこれまた広大な面積が北海道庁に下付される。」(36〜37頁)
「北海道御料林除去が明治30年3月27日公布の「北海道国有未開地処分法」を準備することとなった」(329頁)
「新冠御料牧場は明治17年から18年にかけて日高国新冠郡所在官有地約20,800町歩を御料牧場として編入したものである。」(332頁)
「三条は関東鎮将府鎮将を務めていた明治元年9月に記した意見書の中で北海道開拓を主張しているように、かなり早い段階から北海道開発に関心 を有していた。…特に三条は、自らも華族、特に旧公卿華族の代表格として…華族の中でも資力のある蜂須賀茂韶(もちあき)らと組んで三条・華族 組合農場を組織し、場所を雨竜に定めた。」(333頁)
「全道の森林地籍を仮に4百万町歩と算し之を折半し一半を御財産に編入する」(334頁)
「「北海道土地払下規則」は19年6月に公布されたもので、それまでの「北海道土地売貸規則」による大土地所有に歯止めをかける目的で 制定されたものであった。しかし、同規則には大土地所有への抜け道もあり、また大土地所有者への便宜を与える条項もあったため、その後 これは乱用され北海道の大土地所有の隆盛につながったとされている。」(341頁)

井上馨渋沢資料館所蔵(如水会報2020.12)

「殖民ノ気運漸ク熟シ」(これは明治26年4月8日の北垣北海道庁長官の井上内相・後藤農相への内請の一節)(343頁)
榎森進『アイヌ民族の歴史』(429頁)全道人口
明治6年111,196人、
明治11年191,172人、
明治16年239,632人、
明治21年354,821人、
明治26年559,959人
「北垣道庁長官時代(明治25年19日〜明治29年4月6日)は、それまで理念のレベルや漠然とした構想段階にとどまっていた北海道開拓政策が大きく具体化し、現実的条件が整えられていった とされているが、そのための準備として北垣道政の最初に画策されていたのが御料林の官林編入であった。」(344頁)

(328頁)(拡大)
(360頁)(拡大)
左地図
明治23年時点の御料地(色塗り全体)200万ha→ 明治27年の御料地(黒い部分)63万ha


  右地図 明治29年時点の北海道御料地

▼池田さなえさんの論文で北海道の土地政策のつながりが見えてきました。 これまでは年表で断片的だった知識がつながるようになりました。特に御料地の地図は具体的でよかったです。感謝です。(2020.9.3)
▼200万ha=2万平方q 北海道は8万3,450平方q 。つまり北海道の4分の1、琵琶湖30個分を皇室御料地にする(明治23年時点の御料地)。 「華族組合雨龍農場」50,000ha=500平方q 琵琶湖の75%分。
▼「強制移住」をここでまとめること419頁参照
1875年(M8) 9月9日〜10月1日 樺太から92戸841名のアイヌ民族を宗谷に「強制移住」
10月7日 石狩原野へ再移住を指示(アイヌ民族、移住反対上申書を開拓使に提出) 翌年、官憲を動員して6月13日から小樽経由で石狩国対雁(ついしかり)に「強制移住」
1884年(M17) 北千島アイヌ民族97人を、色丹島に「強制移住」
6月30日〜7月6日(支度に2日間)釧路アイヌ民族27戸を阿寒郡セツリに「強制移住」
1886年(M19) 日高、網走でアイヌ民族の「強制移住」
1889年(M22) 美幌アイヌ民族を「強制移住」
1916年(T5)「新冠御料牧場」・姉去のアイヌ民族80戸、平取村上貫別に「強制移住」
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1890年(M23)
浅草凌雲閣 (拡大)
33年後の草凌雲閣
2023.2.2朝日朝刊(拡大)
「屯田兵土地給与規則」
*バチェラー、幌別(室蘭の東)にアイヌ児童教育のため愛隣学校開設
ルーシー・ペイン、釧路にアイヌ学校開設
*旭川近文(ちかぶみ)原野の開放に際して、150万坪をアイヌ給与地に予定
* 英国人ネトロシップ、函館にアイヌ学校開設
「府県制、郡制公布」
第1回帝国議会開会(第1回衆議院選挙)
*「御料地」全国の56%が北海道に(北海道の総面積の4分の1)
▼第一条「屯田兵トシテ北海道ニ移住スル者ニハ一戸凡ソ一万五千坪ノ土地ヲ給与ス」
▼1万5000坪=5町歩=5 ha 





1891年(M24)* 旭川郊外の近文原野、150万坪(500ha)「土人給与予定地」決定 
▼150万坪=500ha=5平方q 私の住んで居る東京調布市は21平方q。 国立市は8平方q。東京ディズニーランド51 ha。500haは約10個分。
1893年(M26)
* 第五回帝国議会「北海道土人保護法」提案   加藤政之助
1894年に飛ぶ
○加藤政之助君(二百二十二番)
 「北海道土人保護法案を提出致しましたる理由を弁明致します、
「1893年、自由民権運動の活動家でもあった加藤政之助(立憲改進党)によって帝国議会に提出」(上村論文207p) ▲納得。(2023.1.26)
我日本国は上に叡聖慈仁なる御歴代の皇帝在しまして、下には仁義の数を以て本と致したる所の国民を以て組織して居ります、
夫が故に我日本国人民は此の世界各国に対しても常に義に依り、義に勇み、強を挫き弱を助くることに於ては世界第一と自らも思ひ、 世間でも称して居ります所の国柄でございます、
この如き国柄でございまる故に、若し欧米の人々にして不道理にも此の弱国に強暴な行を以て臨み、 人種が異った者に対して無礼を加へまするやうなことがございますならば、我々日本国民は常に彼等の挙動を憤慨し、 彼等の挙動を非難して止まざる所でございました、
この如き国民でございます以上は、己れ自らは一点の此の落度もないやうに一点の欠目もないやうに、 強を挫き弱を助ける義に依って此の義に勇むと云ふことは努めなければならぬのである、

然るに私自ら北海道の地に臨んで二回程彼処の地を実見致しましたが、其の結果として我日本国民が当に為すべきの義務を怠って居る、 当に保護しなければならぬ所の責務を怠って居ると云ふことを発見致しました、
夫は何であるかと申しますると云ふと、我日本の一隅即ち北海道に住みて居りまする所の彼のアイノ人種である、 之に対する所の我々同胞兄弟の挙動である、
此の挙動に就いては今日我々が自ら顧みて謹まねばならぬ、 否謹むばかりではなく、自ら進んで彼等弱者を保護しなければならぬと云ふ地位にあると云ふことを考へます、
彼の北海道の土人アイノなる者は其の古、歴史に徴して見ますと云ふと、 北海道ではなくして我内地に住居致して居ったものゝ如くに見えて居ります、
併ながら夫等のことは古に属してほとんど漠然と致して居りますから、夫等の議論は暫く措きまして、 少なくとも彼等アイノ人種は近古迄は北海道即ち日本のほとんど四分の一に当る所の面積を彼等自ら占領致して、 此の北海道の大地を以て己れの衣食の料に供して、己れの生活の資に充てゝ居ったものに疑はござりませぬ

然るに我内地の人々が北海道に参りまして彼等と生存競争を致し、此の生存競争の結果彼等古の人種は
三千の土人
政之助さん三軒の読み違え?
(拡大)『瀬棚町史』

北海道の幕末から明治初期アイヌの人口推移 小川正人論文(拡大)
次第々々此の内地の人々の生存競争に堪へずして、内地に引退いて仕舞ったと云ふ形跡を為して居った、
否尋常一様の競争ではない、
此の内地の人々が彼等の弱に乗じ、彼等の無智なるに乗じて之を虐待したと云ふ事実は、今日まで歴々現れて居るのでございます、
で其の一例を申せば私共が親しく草鞋を穿いて旅行致しました処の後志の国瀬棚郡と云ふ処に於きましては、 ほとんど今より百年前若くは百五十年前までは三千の土人が居りましたと云ふことである、
セタナイ武四郎地図 セタナイ・アイヌ戸口 (拡大)

然るに昨今此の土人がどれ丈に減じたかと申しますれば、僅に数十戸になりまして今や二百人に充たないと云ふ有様に陥りました

で是が何故であるかと申しますると内地の人々が彼等を虐遇致した故である、彼等に対して不穏の挙動をした故である、
独り此の内地の人々が左様な働きを致したと云ふことばかりでございますならば、まだ恕すべきことも出来ますが、 北海道長官即ち北海に在って北海道の人民を撫育しなければならない所の北海道庁の役人等が、彼等を虐遇した、 彼等の金銭を猥に失はしめたと云ふやうな事実が現れて居ります

夫れは何であるかと申しますると、北海道十勝の国大津川と云ふ川があって、此の川はほとんど鮭や鱒其の他の漁が余程多い所でございます、
夫が故に此の川の沿岸には、古より漁場が沢山ございます場所でございます
夫が維新後北海道庁を置かれて漁場の制度抔も立って、古の請負の制度を解いて、之を相当の権利ある者に貸与へ、
若くは之を下与へると云ふことが起こりました時分に、十勝の国の此の大津川の沿岸の土人等は沿岸の漁場を数箇持って居りましたのでございます、
此の漁場を持って居りましたが故に、漁場を他人に貸与へ、若くは他人に売渡すと云ふ結果より致して、 彼等は明治七年にほとんど三万有余円の金を得たのでございます

此の三万有余円の金を如何にしたかと申しますると云ふと、
之を其の儘置いてはいけないと云ふので、政府に保護を依頼してどうか此の金を保護して利殖して貰ひたいと云ふことを 時の北海道庁に申出した処が、
初め此の金をどうしたかと云ふと郵船会社の株券を買ひ、さうして之をやつたのだそうでございます、
夫が此の次だうなつたかと云ふと、知らず識らずの間に彼の北海道のほとんど衰減に垂んとして居る所の製麻会社、 若くは製糖会社の株に此の三万余円の郵船会社の株が変って仕舞ったと云ふことである――、
今日彼等土人の共有金は如何になったか、
分配も碌々受けることは出来ないと云ふ憫れ敢果ない所の境界になって居る、
実に政府たるものが之を為すべき処分でございませうか、
彼等弱者に向ってこの如き計ひをすると云ふは、実に怪しからぬ、
加之其の辺の町村役場の役人等、若くは北海道庁の役人等は土人等の財産ある者に向っては、 ほとんど脅迫同様なる処置を以て之を借り受け、さうして之を濫費したと云ふ形跡も今日まで往々現れて居るのでございます、
でこの如きことを人民も為し又政府の役人も為すと云ふ結果より致して、彼等はほとんど居住に堪へない、
夫が故に内地の人民が一歩北海道に進めば彼等は一歩内地に退くと云ふ今日の形勢に立至りました、
而して彼等の住って居りまする土地も次第々々に内地人民が相当なる現行法律の手続を経て借受け之を自分の所有と為し、
彼等はどうであるかと申しますると無智無育であるから、今日の現行法律の下に立って相当なる手続を経るならば土地を貸下げることが出来る、 開拓することが出来るけれども、其の手続を履むことを知りませぬ、
故に彼等は自分に住って居る所の土地即ちエジツタまで内地の人々に取られて仕舞って、ほとんど住むべき土地もない、流浪の民となると云ふ 今日の有様に陥って居ります、

夫が故に如何にして生活して居るかと申しますれば、土地を所有して居る者抔は皆無と云って宜しい、
唯山海――山に海に唯猟を求めて、さうして其の獲物で生活するか、若くは他人の下に労役に伏して辛き幽けき生活をして居ると云ふ 今日の境遇であるので北海道の土人が今日どれ丈の数がありますかと申しますれば、
一万七千百四十八人と云ふものが今日の現在である、
其の中男が八千四百五十二人、女が八千六百九十六人と云ふ数でございます、
そこで学齢児童はどれ丈あるかと申しますると云ふと、 三千百六十二人、学齢児童の数がある、
然るに此の中で以て学校に就いて居る者が幾人ある、僅に五百七人即ち全数の六分の一 と云ふものほか学校に就いて居らない、
諸君、内地の此の学齢児童がどれ丈今日就学致して居りまして、どれ丈不就学の者がございませうか、
内地を調べて見ると云ふと、七百二十万程学齢児童がある、而して此の就学して居ります所の数が三百十九万あってほとんど 百分の四十八と云ふものが学に就いて居ります、
然るに北海道では僅かに土人の子弟は六分の一弱ほか就いて居らないと云ふ憫れな今日の有様でございます、
加之彼等は衛生の法を知らずして病に罹りましても医者の治療を受けることを知らない服薬することを知らない、
夫が故に次第々々に身体は不健康になりまして、病に罹ったために人種は今日減ずる有様を為して居る、
で彼等の住家はだうかと云ふに十勝、日高辺りで見ますると云ふと、相当の家屋に住んで居る所の者もあるけれども、 極めて少数であって、多くの土人はほとんど内地の乞食にも劣る処の憫れなる小屋に這入って其の日々々を送って居るのでございます、
若し今日の儘に放任して置きましたならば、私は思ふ彼濠太利亜の土人が全く人種が絶滅致しましたと同様に彼の北海道のアイノ人種は 数十年ならずして人種が減するのであらうとか様に考へるのである、

諸君、彼等は北海道の土地全土を有して彼等の生活の料に供して居った所のものである
然るに此の土地を次第々々に内地の人に奪はれて仕舞って、ほとんど住むべき土地もないと云ふ境遇に陥り、 然も強暴にして内地の人に抵抗する所の悪い人種暴悪なる人種でございますれば兎も角、
彼等は至って従順なる人種、至って温厚なる人種である、
内地の人々に向っては、実に温和なる人種でございます、
かくの如く温良なる、かくの如く従順なる北海道のアイノ人種を彼等の住って居る所の土地まで悉く奪ひ去って、 前途彼等は其の人種すら滅せんとする今日、我々が此の義侠の心に富みたる我々日本人民が、 之を保護せずに済みましたならば、天下に向かって日本人は義侠心ありと称することが申せるでありませうか、

私は此の際に是非とも彼等アイノ人種を保護してやらなければならぬと思ふ、
好し一旦敵となりました所のものでござりましても、一たび降参をすれば之を款待すると云ふは常である、
好し王師に抗したりと云ふ人間であっても一たび帰順致したならば是は同じく日本の臣民である、
彼等アイノ人種は北海道の全道を占領して居たる所の者が、今日の境遇に陥ったと致しましたならば、 我々は彼等に向って今日多少の保護を与えて其の生存発達と云ふものを助けなければならぬと思ふ、

併しながら或論者は此の時に於てか様なことを申します、是は優勝劣敗は世の中の自然の勢である、 彼等アイノ人種は劣等な人種である、我内地人種は優等な人種である、此の優等の人種が劣等なる所の アイノ人種に対するときには、彼等が自然消滅すると云ふことは是は勢の然らしむる所で、如何ともすべからざるものである、
夫が故に到底此の前途に絶滅する人種であるとするならば、是等は保護を加ふる必要はない、 か様なことを申しまする所の人々があるかも知れませぬ、
併しながら是は如何にも残酷な議論であると思ふ、
若し此の論法を以て申したならば、ここに不治の病に罹って居る病人があったときに、 彼は不治の病人である、到底医療を加へて治すべからざるものである、 夫が故に彼は自然に任して顧みぬでも宜いと云って、病人を度外すると一般なる話であります、

我々は好し北海道の「アイノ」人種は劣等な者であるので、前途絶滅する者と致しましても、 日本国民の義侠心より致して彼等を救ひ、彼等を保護すると云ふことは多少為さねばならぬとか様に考へるのでござります、
況や私共の見まする所に依りますれば、彼等も左迄劣等な人種ではない、教ふれば随分教へ得る所の民である、
学校に往きまする生徒の成績抔を見ましても、随分物の数も知り商買の勘定をすることが今日出来るやうになって居る者共が余程ござります、
是等の成績に徴して見ますれば、若し彼等に十分教へたならば相当に此の前途に其の人種を続けて参ると云ふことも出来るだろうと考へます、

夫が故に此の仁愛なる此の義侠心に富んだる所の日本四千万の人民に訴へて、私は聊々ながら此の保護案と云ふものを今日通過致して、 彼等北海道「アイノ」人種を保護したいとか様に考えます。」(下線は引用者)


▼ユポさんの年表のたった一行の背後にこのような事実があります。2018年7月札幌ではじめてお会いしたとき年表を頂き、 その次東京でお会いした時この「第5回帝国議会衆議院議事録」を頂きました。
加藤政之助氏の提案理由は時代の制約はあるものの、実に立派です。大事な事実が多く含まれています。
特に
「アイノ人種は近古迄は北海道即ち日本のほとんど四分の一に当る所の面積を彼等自ら占領致して、 此の北海道の大地を以て己れの衣食の料に供して、己れの生活の資に充てゝ居ったものに疑はござりませぬ」 「彼等は北海道の土地全土を有して彼等の生活の料に供して居った所のものである」
との指摘は今日的意味を持ちます。現在の日本政府も受け継ぐべき性質のものだと思います。

因みにこの加藤氏の提出法案は本会議で否決されています。 そして6年後の1899年(M32)に同趣旨趣旨の法律が成立しています。その時の提案趣旨は読むに耐えません。 読むのも憚られます。読み比べて見てください。 
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あいぬ物語B
(拡大)
明治26年(拡大)
「明治26年8月雷札13日河崎船13人で帰郷の途につく。」山辺安之助26歳(52p)
▲ 明治38年日露講和条約で日本南樺太獲得。明治42年12月冨内村小学校完成。安之助42歳。教育への深い思いが完成に。この人の思いを受け継ごう。(2023.10.2)
飛んだ先
1894年(M27)
*旭川 近文原野、「土人給与予定地」150万坪(500ha)のうち45万坪(150ha)のみ、 利権屋の暗躍、北海道庁長官あて請願書
*千歳、十勝、北見などでアイヌ民族が多く住んでいた原野を開放する際、アイヌ一戸当たり五町歩(5ha)以内の「保護地」を設け、 「北海道地券発行条例」の第16条に基づき官有地の第三種の土地とした。
他にも同類の原野がある場合には同様にすべき事を本庁決議で決定した。
「日清戦争」(〜95)
wikipedia下関条約 ▲本州で何が起きていたかを見ておくこと。(2023.5.30)
下関条約1 遼東半島割譲交渉
(拡大)
下関条約2 中国のケーキ(拡大)
下関条約3 李鴻章の覚書(拡大)
▲李鴻章は立派な外交官だった。 はじめて知る。恥ずかしい。1895年、李鴻章72才、伊藤博文54才。(2023.5.30)
下関条約4 講和条件(拡大)
▲陸軍の意向(大連湾、旅順口)と海軍の意向(台湾)。 陸奥宗光は普仏戦争処理を参考に。日本外交の本質。(2023.5.30)
日清戦争・劉公島 (拡大)
日清戦争・劉公島 朝日朝刊(拡大)
日清戦争・劉公島 2023.12.29(拡大)

▼「北海道地券発行条例」第16条 旧土人住居ノ地所ハ其種類ヲ問ス当分総テ官有地第三種ニ編入スヘシ但地方ノ情態ニ因リ成規ノ処分ヲ為ス事アルヘシ(下線は引用者)
▼近文(ちかぶみ)原野の「土人給与予定地」45万坪(=150ha 東京ディズニー3個分)、のちに大きな問題になる。
▼これまでの土地処分・給与のまとめ
1872年(明治5年)「地所規則」和人開拓者1人10万坪(33.3ha)
1886年(明治19年)「北海道土地払下規則」開拓者1人10万坪(33.3ha)
1889年(明治22年)皇室御料地200万ha=2万平方q=琵琶湖30個=北海道1/4、
          華族組合農場5万ha=500平方q=琵琶湖75%(根拠法?)
1890年(明治23年)「屯田兵土地給与規則」1戸5ha
1891年(明治24年)アイヌ近文原野「土人給与予定地」45万坪(150ha)
つまり屯田兵30戸分ということ(2020.4.29)

1896年(明治29年)
(明29.7)新冠御料牧場沿革誌;
左 厚別川と右 新冠川に挟まれた新冠御料牧場 (拡大可)

出版者: 新冠御料牧場; 出版年月日: 明29.7; (国立国会図書館デジタルコレクションの「新冠御料牧場沿革誌」より)
沿革誌 9コマ目に明治26年12月31日現在の牧場の地積と面積が記載されている。 新牧場8,532町歩 旧牧場28,772町歩 ペラリ1,058町歩 牧草地61町歩 耕地32町歩 合計38,455町歩

1897年(M30)
「北海道国有未開地処分法」(3月27日)
(拡大)無償貸付、開墾成功後、無償付与(処分法3条)。4月勅令第98号によって会社・組合はこの2倍。天皇の名において なされる「勅令」という奥の手が、ここでも、こうしてつかわれる。山川力33p
150万坪の面積 500ha(2.5`×2`)1,000ha(3.33`×3`)
(拡大)
明治33年60歳の渋沢栄一 (拡大) 十勝開墾合資会社
3630万坪(12,000ha)
無償貸付(拡大)
(拡大) (拡大)
*「北海道土地払下規則」廃止(処分法22条)
*「自今以往は、貧民を植えずして富民を植えん。是を換言すれば、人民の移住を求めずして、資本の移住を是れ求めんと欲す」
・「大地主」「大資本家」対象、(アイヌ民族対象外)
・無償貸付、開墾成功後、無償付与(処分法3条)
・富豪、資本家、華族、高級官僚、政商
(4月勅令第98号・北海道国有未開地処分法第3条に依る貸付の面積)
・開墾150万坪(500ha)会社・組合はこの2倍
・牧畜250万坪、      同上
・植樹200万坪、      同上
▼「北海道国有未開地処分法」により1908(明治41)年までの12年間に この法律で処分された土地は183万余町歩。18,098平方q 琵琶湖27個分。全北海道の22%。 (榎森進『アイヌ民族の歴史』423頁を参考にしながら)
▲如水会報2023.11号で渋沢達の十勝開墾合資会社に無償貸付された土地は150万坪の2倍=300万坪の12倍。破格。規則は無きに等しい。 (2023.11.26)


(拡大)
第3条の適用の実態(拡大)
山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』
281p 「1戸当たり2町5反で5町歩が明治期の北海道で1戸が農業経営を行うのに適切とされていた面積。生計の確立を図るための基本的 条件を欠くことになる」
298p「下付地中の没収面積の割合を見ると、全道的には約2割という数値が得られた。」
▲「右上表」下付地の面積自体が生計の確立を無視。明治政府は真剣に アイヌ民族の勧農政策を考えていなかった。
「下表」さなきだに少ない下付地面積の内24%の23.8平方qが没収されている。 (2021.10.1)


主な土地問題の整理:
琵琶湖670平方q(67,000ha)を基準 何個分

@明治5年開設・明治21年 新冠御料牧場
 384平方q(38,400ha)     0.57個
A明治19年〜明治29年
「土地払い下げ規則」 4,221平方q(422,100ha) 6.3個
B明治22年
華族組合 雨竜農場 500平方q(50,000ha) 0.75個
C明治27年
 旭川近文原野 1.5平方q(150ha)
D明治30年〜明治41年
「未開地処分法」 18,098平方q(1,809,800ha) 27.0個
E明治32年
「旧土人法」による下付地 96平方q(9,600ha) 0.14個 本来の1/60
▲「未開地処分法」のあとの耕作不能地の下付。 明治19年「土地払い下げ規則」時のアイヌ民族の人口は17,098人。 開拓者1人につき10万坪(33.3ha)ならば17,062×33.3ha=(568,164 ha)=5,681平方q。琵琶湖8.5個分(2021.10.7〜9)

『近代北海道とアイヌ民族』 目次
第一部 明治期の狩猟・漁業規制とアイヌ民族の生業

第一章 「北海道鹿猟規則」の制定過程──毒矢猟の禁止を中心に  
 はじめに
第一節 狩猟規制法規の制定過程  第二節 毒矢猟禁止に対するアイヌ民族の対応  第三節 毒矢猟の一部容認と全道的な禁止へ
 おわりに
第二章 「北海道鹿猟規則」施行後のシカ猟
 はじめに
第一節 自律的な狩猟秩序の破壊  第二節 その後の「北海道シカ猟規則」の改正  第三節 「北海道鹿猟規則」の運用状況 第四節 シカの急激な減少  
 おわりに
第四章 千歳川のサケ漁規制とアイヌ民族
 はじめに
第一節 開拓使によるサケ漁規制  第二節 札幌県の対応  第三節 天然孵化から人工孵化へ
 おわりに
1898年(M31)
勅令第37号「北海道植民地」と書かれる
1899年(M32)
旭川に第7師団設置(師団兵舎造営工事請負、大倉土木組) 大倉土木組大倉喜八郎、道庁の官吏と「土人給与地」を詐取図る
浜田鋭一「北海道鉄道史」25頁
1903(明治 36)年に旭川村を訪れた 徳富蘇峰は町の様子を次のように 語っている。
「上川郡は北海道師団設在地に して、其の発達の模様可驚候。旭川一町に於て、三十一年に五千八百人の人口あり、三十二年に 七千百人になり、昨年に至りて(明治 35)、二万三千三百余人に相成候。一年に師団新設の為に金 の落つること四百万円と申候へば、その突如として繁昌を来したる偶然にあらず候」
▲今日、見つける。(2023.11.4)
*「北海道旧土人保護法」制定
東京大学卒(拡大)
白仁武(しらに たけし)
「人情為さヾるべからざるの責任」

『アイヌ民族近代の記録』452p(拡大)
土地所有権の制限
旧土人法制定時の質疑1 土地所有権の制限
▲法制定時からアイヌ民族の権利の侵害はわかっていた。これはショック。(2023.3.4)
▲19世紀最後の年。旧土人保護法制定。その意図は。白仁武の言葉に当時の世論が的確に表現されている。 (2022.2.13)
明治憲法
「第二十七條 日本臣民ハ其ノ所有權ヲ侵サルヽコトナシ
公uノ爲必要ナル處分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」
北海道旧土人保護法
「第二條 前條ニ依リ下付シタル土地ノ所有權ハ左ノ制限ニ從フヘキモノトス
一 相續ニ依ルノ外讓渡スコトヲ得ス
二 質權抵當地上權又ハ永小作權ヲ設定スルコトヲ得ス
三 北海道廳長官ノ許可ヲ得ルニ非サレハ地役權ヲ設定スルコトヲ得ス
四 留置權先取特權ノ目的トナルコトナシ
前條ニ依リ下付シタル土地ハ下付ノ年ヨリ起算シテ三十箇年ノ後ニ非サレハ地租及地方税ヲ課セス又登録税ヲ徴収セス
舊土人ニ於テ從前ヨリ所有シタル土地ハ北海道廳長官ノ許可ヲ得ルニ非サレハ相續ニ因ルノ外之ヲ讓渡シ又ハ 第一項第二及第三ニ掲ケタル物權ヲ設定スルコトヲ得ス」

第1条・北海道旧土人にして農業に従事する者、又は従事せんと欲する者には一戸に付土地一萬五千坪(5ha)以内を限り無償下付することを得 
第2条・相続に因るのほか譲渡することを得ず
(跡継ぎのいない家、子が家出をして連絡が取れない・没収・不在地主。一般小作農民が群がった。)
北海道長官の許可を得るにあらざれば地役権を設定することを得ず。譲渡、売買禁止。
小作権の設定は可(99年・高利前払い)。
第3条(没収規定・15カ年ごとの手続き)
15カ年を経るも開墾せざる部分はこれを没収す。
(読み書きのできない旧土人、法務局の登記簿台帳は没収、役場の納税台帳は旧土人名義のままで納税をさせていた)
▲第3条の適用の実態を明らかにしたもの。山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』259p〜307p(2021.10.1)
▲更に山田『同書』309p〜328pで第2条第3項の問題を深く理解する事。(2022.8.7)


第10条 北海道長官は共有者の利益のために共有財産の処分を為し、又必要と認めるときは、その分割を拒むことを得。
(共有財産、共有者、アイヌの主権を認めず北海道長官すなわち国家の名においてどうにでもできるという内容)。

「北海道旧土人保護法」同「施行規則」(1899・4・8、内務省令第5号)
同「施行細則」
第1条・保護法第一条に依り未開地の下付を受けんとする者は第一号書式の願書に図面及家族調を添へ北海道庁長官に差出すべし (1899・6・13、北海道庁令第51号)(北海道庁訓令第37号、)(昭和22年3月21日改定後も・新憲法制定後・差別)

*「国有未開地処分」のあと旧土人に農業の奨励土地の給付(初めてアイヌ民族に土地の下付)給与地・1戸につき1万5千坪=5ha=5町歩 アイヌ語の申請不可
*共有財産管理規定(北海道・樺太・千島)(32年10月3日)
[漁業、放牧経営、就業資金、御下賜金、救恤費の余剰金]
[共有財産処分][北海道庁長官管理] 
勧農、日本語教育、日本人化政策、アイヌ民族絶滅政策
2条の2「質権抵当権地上権又は永小作権を設定することを得ず」(S22年3月21日改正削除)

「北海道旧土人保護法提案理由書」
「北海道旧土人の保護については、だれかれの差別無く平等にこれを愛する天皇のお考えを受けて 明治のはじめから施策を講じてきたが、いまだ充分にその目的を達してはいない。
思うに旧土人が天皇の仁政の感化をうける日が浅く、その知識の啓発が大変低いがために 古くからのその生命を託していた自然の恩恵をだんだん内地からの移民に搾取され、 時が経るにつれ生活基盤を失い、ただ飢えと貧困に困り果てるだけの状態になってしまった観がある。
これは優るものが勝ち劣るものが負ける自然の成り行きでありどうすることもできないのだろうか。 しかしながら旧土人も等しく天皇の臣民であり、いまやこのような悲境に落ちぶれているのを目にしてこれに手だてをしないわけにはいかない。 そこでこの救済の方法を設けて災いを除き、窮状を哀れんで適当な産業によりその生活を保全し、 その家計を成すようにするのは、誠に国家の義務であり、天皇のお考えに添うものであると信じるものである。 これがこの法案を提出する理由である。」
▼和人のやってきたことを棚に上げてよくもこのような提案理由を述べられるのかと、怒りがこみあげてくる。加藤政之助さんの比ではない。
ユポさんのコメントは上記のように明治30年(1897年)の「国有未開地処分の後、旧土人に農業の奨励、土地の給付。 初めてアイヌ民族に土地の下付、しかも未開地」。
北海道の土地問題は明治5年(1872年)からはじまり明治32年(1899年)の「北海道旧土人保護法」で 明治政府としては決着をつけたようだ。
しかし、それから100年後の1997年、国連・人種差別撤廃委員会が採択した 「先住民族に関する一般的勧告」及び2007年、国連総会が採択した 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」で先住民族の土地問題が急浮上してくる。

▼「北海道旧土人保護法」の背景を榎森進『アイヌ民族の歴史』(447〜451頁)では次のように指摘されている。
「この法律は1887年米国議会で制定されたインディアンに対する「一般土地割当法」(通称ドーズ法)をモデルとして 立案・制定されたものと解されている。両法は先住民族を農業に従事させる目的で一定面積の土地を私有地として無償で付与していること初め、 先住民族の農民化を促進するために、色々な補助手段を講じている等共通点がある。
しかし大きな違いもある。
「北海道旧土人保護法」では、土地付与の対象が「農業ニ従事スル者又ハ農業ニ従事セント欲スル者」に限定され、 しかも単位面積が「一戸ニ付」5町歩以内と、個人ではなく、家単位に付与されたのに対し、 「ドーズ法」ではインディアン全員、つまり個人が対象であり、その単位面積も世帯主一人当たり160エーカー(65.3町歩)18歳以上の単身者には80エーカー(32.6町歩)18歳未満の単身者及び孤児には40エーカー(16.3町歩)の土地が付与された。
▼「ドーズ法」
世帯主1人65.3町歩=65.3ha
18歳以上の単身者32.6町歩=32.6ha
18歳未満の単身者及び孤児16.3町歩=16.3ha
▼1872年「地所規則」
開拓者1人33.3ha。
アイヌの人たちにも適用を考えた。琵琶湖8個分となった。
「ドーズ法」から見ておかしくなかった。 むしろ「地所規則」は「ドーズ法」を参考に作られた可能性もある、ということか。
「北海道旧土人保護法」は「一戸ニ付」五町歩=5ha。過去の経緯を忘れたか。問題外。(2020.4.29)

ではなぜ時の政府は、「北海道旧土人保護法」を立案・制定するに当たってアメリカの「ドーズ法」を参考にしたのであろうか。 これは、時の政府が大きな課題としていた欧米列強との「条約改正」の問題と密接に関わっていたものと思われる。 外国人が当時のアイヌ民族が置かれていた悲惨な状況を実見し、日本は未だ「非文明」の国との批判を防ぐためににも 先住民族であるアイヌ民族を「保護」するための法的措置を講じることが緊急の課題になったものと推察される。」

▼今後アイヌ民族のアイヌモシリ回復を考えるとき「ドーズ法」が参考になると思っています。 回復されるべき土地の広さ、また農業者だけでなく、家単位でなく、アイヌ人全員が生きていけるモシリの回復が実現されるべきだと私は考えています。 (2018.12.5)
▼旭川に第7師団設置についてwp:第7師団(だいしちしだん)は大日本帝国陸軍の師団の一つ。 北海道に置かれた常備師団として北辺の守りを担う重要師団
1900年(M33)
・道庁、アイヌ給与地を、大倉組に払い下げ決定。アイヌ民族を天塩(てしお)川上流山地に強制移住を命令
・移転反対運動おこる 
・道庁長官、強制移住を撤回、留住を認める。
近文給与地問題
近文給与地問題 このいきさつを旭川市HPで勉強しました。
1894年 (明治27)
近文アイヌ36戸に、給与予定地150万坪のうち49万坪を割り渡す
近文 自衛隊敷地150ha。給与予定地は500haだった。

1899年(明治32)
「北海道旧土人保護法」制定(1万5,000坪(5ha)以内の土地を無償付与、教育・共有財産管理などを規定)。
大倉組、鷹栖村字近文で第七師団建設請負工事着工(1902年竣工)
1900年(明治33)
道庁、近文の給与予定地の大倉組への払下げを決定し近文アイヌに天塩への移転を命じる(第1次給与地問題)。
鷹栖村総代人ら、近文アイヌの給与地移転に反対し「旧土人留住請願書」を道庁に提出(2月)。
鷹栖村有志とアイヌ代表上京、政府要人に給与地移転中止を陳情(4月)。
道庁長官、近文アイヌの留住を認める(5月)。
1903年(明治36)
近文アイヌ38人、道庁に移転嘆願書を提出(第2次給与地問題)
1906年(明治39)
道庁、旭川町にアイヌ給与地として46万坪(152ha)の貸付を許可(旭川町はアイヌに1戸当たり1町歩を貸し付け、残地は和人に有償で貸与
1932年(昭和7)
アイヌ給与地の旭川市への貸付期間満了に伴い第3次給与地問題発生。 旭川市会議員・近文アイヌ代表、給与地付与を求めて上京、各方面に陳情(4月)。近文アイヌの荒井源次郎ら上京、陳情運動を行う(6月、11月)
1934年(昭和9)
「旭川市旧土人保護地処分法」制定(近文アイヌ49戸に、1戸当たり1町歩の土地を付与、残地は共有財産)

▼旭川市のHPでは近文給与地問題は1894年(明治27)からですが、問題の芽はユポさんが取り上げられています 「1890年(M23)旭川郊外近文原野に、150万坪(500ha)「土人給与予定地」予定、1891年(M24)決定」
にあるとおもいます。
その「給与予定地」に第七師団が移転してくることになり、 武器・軍事政商大倉喜八郎(大倉組)が一儲けしようと介入したことが問題を引き起こしたようです。 大倉喜八郎は現在ではホテルオークラの創業者として有名ですが、汚れていますね。
▲『アイヌ民族近代の記録』(小川正人・山田伸一編集 1998.1.20初版 草風館)から抜粋。この記録に運動が詰まっているようだ。 掘り返す事。(2022.2.22)

「天川恵三郎手記」より。
明治32年和人三浦市太郎の甘言、ならば近文の他に天塩のテーネムを貰いたい。 ウソ。北海道庁長官 園田安賢、陸軍大臣桂太郎、大倉喜八郎の悪巧み。三浦市太郎を告訴。
明治33年天川恵三郎に応援求む。上京、内務大臣西郷、大隈重信に会う。甘言取り消し。下付の条件開墾。河田より2000円借金。開墾後も園田下付せず。
明治37年栗山、天川を告訴。9月未決監に入監。38年5月出獄。
明治38年6月旭川町長奥田千春を告訴。奥田に対し、アイヌに返還せよとの判決。 奥田に会い、町役場がアイヌを保護するとの条件で示談。その後も土地はアイヌに返って来ない。栗山は移転願書を出したと聞いている。
▲天川恵三郎は最後は旭川町長奥田千春を頼る。給付地の返還実現せず。(2022.2.22)

「栗山國四郎翁手記」より。
近文は墳墓の地。貸付地でなく給与地。
天川恵三郎は偽書作成、河田某と売買契約書、混乱を作り出す。
明治35年来、運動を開始。天川を訴え、収監される。
明治維新39年道庁は旧土人保護規程を定め管理を旭川町に託す。
願わくば青年諸氏自治自営奮闘努力以って…

▲アイヌ民族の中の活動家の2つの典型。町長にすり寄る天川、自治自営の栗山翁。 今日までつづく。(2022.2.23)
▲「新旭川市史」を勉強中。運動のこと、1984年のアイヌ新法の背景、今と同じような問題が近文の歴史に詰まっている。 (2022.3.21)
                                                 トップへ戻る
1901年(M34)
(拡大)
桂 太郎(1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉- 1913年〈大正2年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。 内閣総理大臣、台湾総督、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣、大蔵大臣、貴族院議員、内大臣、外務大臣などを歴任。 日露戦争時の内閣総理大臣。
第1次桂内閣は、陸軍大将の桂太郎が第11代内閣総理大臣に任命され、 1901年(明治34年)6月2日から1906年(明治39年)1月7日まで続いた。 本内閣の成立後、藩閥政府の主宰の座を山縣有朋から引き継いだ桂と、 元老筆頭の伊藤博文から立憲政友会を引き継いだ西園寺公望が協調、交互に首班となって組閣したことから、 1913年(大正2年)の大正政変までの時期は桂園時代(けいえんじだい)と呼ばれている。
▲1901年〜1913年、桂園時代。日露戦争と韓国併合。ロシアの影響を排除して韓国を植民地化。(2023.4.29)
「旧土人教育規程」・「旧土人学校」設立(10ヵ年計画・21校)
・平取(びらとり)にまず設置、(1909年21校に) 
・和人児童と区別しアイヌ児童に簡易教育(年限・科目)を施す 
・アイヌ語禁止、日本語による教育
1902年(M35)
弁開凧次郎、八甲田山遭難者捜索のため出動
▼wp:日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦したため、 さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、それに向けて準備をしていた。 日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題であった。
八甲田雪中行軍遭難事件が発生した際、凧次郎は、6人以上のアイヌからなる救出捜索部隊を組織し、 2月9日に八甲田山で遭難者の捜索活動を展開する。
地元民から歩兵第5連隊が遭難した周辺の地名を聞き出し、退避しそうな場所を重点的に探索するという遺体収容手法によって注目される。
同年4月22日に、作業終了する。67日間の捜索活動で遺体11体と多数の遺品を発見した。
▼このことが日本人にどれだけ知られているだろうか。私も初めて。

1903年(M36)
 大阪「内国勧業博覧会」、「人類館」事件発生
  ペンリウクさん ▲ペンリウクさんの生涯、1832年〜1903年は植民地主義・帝国主義の時代。 MIPの回復によって痛みを癒す。(2022.12.28)
  (拡大)
▼wp:19世紀半ばから20世紀初頭における博覧会は 「帝国主義の巨大なディスプレイ装置」であったといわれる。
博覧会は元々その開催国の国力を誇示するという性格を有していたが、帝国主義列強の植民地支配が拡大すると、 その支配領域の広大さを内外に示すために様々な物品が集められ展示されるようになる。
生きた植民地住民の展示もその延長上にあった。
1903年に大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、
アイヌ・台湾高砂族(生蕃)・沖縄県(琉球人)・朝鮮(大韓帝国) ・支那(清国)・インド・ジャワ・バルガリー(ベンガル)・トルコ・アフリカなど合計32名の人々が、 民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分たちの展示に抗議し、 問題となった事件である。
▼なんと趣味の悪い博覧会のことよ。
1904年(M37)
米国「セントルイス万国博覧会」、アイヌ民族8人参加
「日露戦争」(〜05)
「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平 https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/2173
森鴎外は軍医部長として日露戦争で第二軍に従軍した。第二軍は広島の宇品(現広島港)から出港し、 遼東半島に上陸、大連から遼陽へと進軍する。鴎外は征途につく前に広島で「第二軍」という歌をつくっている。 1904年(明治37年)3月27日のことだ。太平天国(長髪族)のくだりまでを引く。
 海の氷こごる北国も/春風いまぞ吹きわたる/三百年来跋扈せし/ろしやを討たん時は来ぬ/十六世紀の末つかた/ うらるを踰えしむかしより/虚名におごる仇びとの/真相たれかはしらざらん/ぬしなき曠野しべりやを/我物顔に奪ひしは/浮浪無頼のえるまくが/おもひ設けぬいさをのみ/黒龍江畔一帯の/地を略せしも清国が/長髪族の叛乱に/つかれしからの僥倖ぞ…… (森林太郎「第二軍」『うた日記』春陽堂、1907年(明治40年)(復刻版、1971年、日本近代文学館))(漢字かなの旧字体は新字体に改めた)  「第二軍」には曲がつけられ、戦地に向かう輸送船のなかでうたわれていたという。 記者として従軍した田山花袋が書きのこしている(田山花袋『第二軍従征日記』雄山閣、2011年)。 『うた日記』は鴎外が日露戦争の心模様を歌でつづったものだ。
▼今日、このHPに出会いました。 「ろしやを討たん時は来ぬ/ぬしなき曠野しべりやを/我物顔に奪ひしは」鴎外にしてこの認識。朝鮮半島、北海道、琉球のことは鴎外の頭にはなかったようだ。 時代に巻き込まれることは恐ろしい。自戒すべし。(2021.1.29)

「第1次日韓協約」
▼「セントルイス万国博覧会」に下記のような背景があったことを知りました。紹介させていただきます。
セントルイス万国博覧会と日本 〜公式ガイドおよび関連文献復刻集成〜 (全4巻+別冊解説)Louisiana Purchase Exposition, St. Louis in 1904:A Collection of Official Guidebooks and Miscellaneous Publications監修・ 解説: 大井浩二(関西学院大学名誉教授)

アメリカによるフランスからのルイジアナ購入の100周年を記念し、セントルイスで1904年に開催された万国博覧会は、 世界44カ国より約2000万人が参加、1900年パリ万博の4倍の土地に1500以上の展示用建設物が作られたそれまでで最大規模の万博となり、 まさに「アメリカの世紀」の始まりを予感させる大イヴェントとなりました。
西洋各国や初めて万博に参加した中国などがそれぞれの文化、芸術に関する華やかな展示を催す一方、 米国は統治を始めたフィリピンより連行した多くの先住民族を「フィリピン村」の中に住まわせ「人種の展示」を行い、 それは同時に帝国主義や人種差別など、負の20世紀史の始まりを象徴する出来事であったともいえます。

日露戦争中であった日本政府も、西洋列強と肩を並べつつある国力を背景に、またそのプロパガンダのために積極的に参加し 、従来万博に出品していた美術工芸品に加えて、教育制度に関する展示や工業製品も数多く出品し、 近代化の進む社会を印象付けようと試みました。
しかし一方では、多くの芸者が参加し日本を売り込み、ジャポニズムのイメージがそれまでの万博のように日本の展示を支配していたようです。
また「フィリピン村」に倣うかのように設置された「アイヌ村」で、日本から連れてこられた7人の成人男女と2人の女児が「陳列」されていたことは、 セントルイス万博の白人至上主義的な性格を裏付けています。
さらに、この万博には、民間人や企業の関心も高く、その中には星一(後に星製薬、星薬科大学を設立)のように 日本展のハンドブックを自費出版し、会場で販売するような起業家もあらわれました。(下線は引用者)


「第1次日韓協約」wpこの協約が締結されたとき、日露戦争はつづいていたが、朝鮮半島での日露の戦闘は終了し、 韓国は事実上日本の占領下に入っていた。
協約の内容は、 大韓帝国政府は日本政府の推薦する日本人1名を財務顧問に、外国人1名を外交顧問として雇い、 その意見にしたがわなければならない、また、外交案件については日本政府と協議のうえ決定・処理しなければならないというものであり、 韓国保護国化の第一歩となるものであった。(下線は引用者)
1905年(M38)「第2次日韓協約」
*日露戦争で南樺太を手に入れる、樺太アイヌ帰国
1905年のアイヌモシリ
平山『地図でみる』166p(拡大)
「すべてのアイヌモシリが日本の一部にされた」
▼wp:第二次日韓協約は、日露戦争終結後の1905年(明治38年)11月17日に大日本帝国と大韓帝国が締結した協約。 これにより大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となった。(下線は引用者)

1906年(M39)9代目北海道庁長官・河島 醇
1907年(M40)「第3次日韓協約」
▼wp:第二次日韓協約によって外交上の日本の保護国となり、 すでに直接の外交権を失っていた大韓帝国(朝鮮王朝)は、この協約により高級官吏の任免権を韓国統監が一部権限を持つこと(第4条)、 韓国政府の一部官吏に日本人を登用できること(第5条)などが定められた。
これによって、朝鮮の内政は日本の強い影響下に入った。また非公開の取り決めで、 韓国軍の解散と司法権・警察権の委任が定められた。

1909年(M42)伊藤博文暗殺
▼朝鮮民族の当然の反発。
冨内村小学校
明治42年12月山辺安之助
冨内村小学校 (拡大)

落帆川 (拡大) あいぬ物語C (拡大)
▲ 1909年(明治42年)、山辺はトンナイチャの総代となり、 樺太アイヌのための最初の学校を富内村西部のオチョポカ(落帆)に建設する (佐々木漁場が資金支援をおこなう)。落帆(オチホ)は樺太東海岸、落帆川の河口近くの地名。もとはアイヌ語の オチョポッカ=オチョポホカ(Ocopohka)。「魚がいるところ」が語源であると言われる。 やっぱり教育だ。 (2023.10.1)
                                   トップへ戻る
1910年(M43)
*「外国人の土地所有権に関する法律」  北海道は台湾、樺太(サハリン)同様日本の植民地である
近文(ちかぶみ)アイヌ民族居住地に小学校設置
*「北海道開拓15カ年計画」(9代目北海道庁長官・河島 醇)
道内に7千キロの道路開削
9つの港湾整備/ 主要26河川の治水調査
国有未開懇地払い下げ、開発
北海道の人口を153万人から300万人に増加させる
予算総額7千万円
・ 土地不当払い下げ問題にからむ緩んだ規律の粛清
「韓国併合条約」
▼「外国人の土地所有権に関する法律」
明治43年3月1日第26年度回帝国議会衆議院「外国人ノ土地所有権ニ関スル法律案」委員会議録(速記)第2回の外務大臣小村寿太郎発言
「北海道、台湾、樺太の如き、今まだ植民地の位地に居る此の如き未開の地に於きましては、 土地を基礎と致しまする殖民を成るべく多く移住せしむる必要がありますから、斯る土地に於きましては、 外国人に土地の所有を許さぬことになって居ります」(下線は引用者)

▼「北海道開拓15カ年計画」は壮大な計画だと思い政策の背景を知る必要があると考えました。国土交通省の資料を見つけました。 北海道開拓15カ年計画をクリックしてください。計画の全容が一覧表になっています。 この国土交通省の資料を見ると
明治 2〜14 年「開拓使時代」
・士族授産と北辺防備が主な目的
明治 34〜42 年 「北海道 10 年計画時代」
・日清戦争の勝利により日本経済の発展がもたらされた一方、急激な人口増加、資本主義の発達に伴う貧農の発生などの問題が生 じ、その解決を北海道開拓に求める機運
明治 43〜昭和元年「北海道第 1 期拓殖計画時代」
・日露戦争後、我が国の人口が急激に増加する傾向が現れ、北海道は食糧、資源の供給地として、また、新たに領土となった樺太への基地とし ての役割を担うに至る
昭和 2〜21 年「北海道第 2 期拓殖計画時代」
・北海道の拓殖事業は、国内における人口並びに食糧政策の上からも重要
・一方、北海道の開拓が専ら資源の掠取に走り、また、移民の招来に努めたものの、その生産安定のため政策が不十分であるなど、新たな問題
昭和 22〜26 年「戦後緊急開拓時代」
・戦後の我が国経済を復興し、国民生活を安定させるため、国内資源を開発し、食糧難の打開と人口問題の解決を図ることが急務とされ、 広大な開発適地と豊富な資源を包蔵する北海道の開発が重要な国家的課題として大きくクローズ・アップされる
▼北海道は国家戦略上、明治の初めは士族授産と北辺防備の役割を担い、その後、食糧と資源の供給基地の役割を担ってきたことがよくわかります。
▼明治43年度の歳出は5.7憶円、7千万円は12%に当たる。
▼wp:韓国併合(英: Japan's Annexation of Korea)とは、1910年(明治43年)8月29日、 韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記される。 この後、日本による統治は1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が米国に降伏するまで、35年間続いた。
▼wp:韓国併合ニ関スル条約とは「韓国皇帝が大韓帝国(韓国)の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」 ことなどを規定した条約のこと。
条約公布に際し大韓帝国皇帝(純宗)が公布した勅諭
「皇帝、若(ここ)に曰く、
朕否徳にして艱大なる業を承け、臨御以後今日に至るまで、維新政令に関し承図し備試し、 未だ曽て至らずと雖も、由来積弱痼を成し、疲弊極処に至り、時日間に挽回の施措望み無し、
中夜憂慮善後の策茫然たり。
此に任し支離益甚だしければ、終局に収拾し能わざるに底(いた)らん、
寧ろ大任を人に託し完全なる方法と革新なる功効を奏せいむるに如かず。
故に朕是に於いて瞿然として内に省み廊然として、自ら断じ、
茲に韓国の統治権を従前より親信依り仰したる、隣国大日本皇帝陛下に譲与し、
外東洋の平和を強固ならしめ、内八域の民生を保全ならしめんとす。
惟爾大小臣民は、国勢と時宜を深察し、煩擾するなく各其業に安じ、
日本帝国の文明の新政に服従し、幸福を共受せよ。
朕が今日の此の挙は、爾有衆を忘れたるにあらず、専ら爾有衆を救い活かせんとする至意に出づ、
爾臣民は朕の此の意を克く体せよ。
隆煕四年八月二十九日 御璽」
▼この韓国・純宗皇帝の言葉は日本人として胸が痛む。
1876年(M9)の「日朝修好条規」に始まり、
1904年(M37)「第1次日韓協約」、
1905年(M38)「第2次日韓協約」、
1907年(M40)「第3次日韓協約」、
1910年(M43) そしてついに「韓国併合」。
日本人らしく(いやな意味で)じわりじわり植民地化を進め、 最後に純宗にこのようなことまで言わせている。朝鮮民族の尊厳を踏みにじり、そして朝鮮人差別。 日本人としてこれでいいのか。相手の身になって心を寄せるべき。
▼全くの植民地化(colonization)ではないか。併合(annexation)という生易しいものではない。(2020.3.20)
旅する文学 2022.12.3朝日朝刊
(拡大)1912年 『土』旧日立鉱山155メールの煙突。1914年完成。
▲ 富国強兵の時代。今日の中国。(2022.12.6)


1911年(M44)
帝国劇場 明治44年完成。2月10日新築落成披露会。招待2000名。(拡大)
*「猟虎膃肭獣保護条約」
・アイヌ民族は土人(aborigens・native)=先住民族として狩猟権を認めた(日・英・米・露の4カ国締結の国際条約)
* 北海道人口170万人
▼「猟虎膃肭獣保護条約」の英語原文は 「CONVENTION FOR THE PROTECTION OF FUR SEALS」日本語訳の土人は4条 aborigines、 11条naitivesの2種類が使われている。

*苫小牧に王子製紙進出(「アイヌ わが人生」209p)
あいぬ物語D (拡大)
南樺太地図
知床・胡蝶別・内友・白主・札塔・弥満別・冨内(拡大)
あいぬ物語翻訳
金田一京助全集第六巻(拡大)
1913年(T2)
樺太アイヌ民族山辺安之助口述「あいぬ物語」発刊
▼wp:山辺安之助、アイヌ名「ヤヨマネクフ」(Yayomanekuh)。 樺太アイヌの指導者として、集落の近代化や、子どもたちへの教育に尽力した。
1914年(T3) 
「第1次世界大戦」勃発(セルビア)、日本参戦
中国に21か条の要求
▼日本はなんのために第一次大戦に参戦したのか?濡れ手に泡のような振る舞い。
▼下記の1号から5号の各項目について合計21条にわたって要求。中国にとっては屈辱的。特に第5号。大隈内閣は何を考えていたのか。 日本が中国から攻撃を受けていたわけでもない。以下Wikipediaからの要約。
第1号(4条)山東省について ドイツが山東省に持っていた権 益を日本が継承することなど。

第2号(7条)南満州及び東部内蒙古について 旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長することなど。

第3号(2条)漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について 日中合弁化すること。

第4号(1条)中国の領土保全について 沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと。

第5号(7条)中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力な日本人を雇用することなど。

▼どうも気になりました。中国に21か条の要求。きっちり全体を読む必要があると考えHPに取り込みました。 (2020.7.4)
対華21ヶ条要求
ドイツの捕虜 (拡大)
▼上の記事。
「日本は1914年、中国大陸でドイツの拠点だったチンタオを占領。捕虜として 約五千人のドイツ人を日本各地の収容所に連れてきた。ドイツ人捕虜には比較的若い技術者が多かった。狛江市の市民団体 「ヘルマン・ウオルシュケさん の足跡をたどる会」のヘルマンは戦後も日本に残り身につけていた食肉加工技術を伝えた。」
戦闘はいつの時代も若者。(2022.9.15)
第1号 山東問題の処分に関する条約案
日本国政府及支那国政府は、偏に極東に於ける全局の平和を維持し且両国の間に存する友好善隣の関係を益々鞏固ならしめんことを希望し、 ここに左の条款を締結せり。
1 支那国政府は、独逸国が山東省に関し条約其他に依り支那国に対して有する一切の権利利益譲与等の処分に付、 日本国政府が独逸国政府と協定すべき一切の事項を承認すべきことを約す。
2 支那国政府は、山東省内若くは其沿海一帯の地又は島嶼を、何等の名義を以てするに拘わらず、他国に譲与し又は貸与せざるべきことを約す。 
3 支那国政府は、芝盃又は龍口と膠州湾から済南に至る鉄道とを聯絡すべき鉄道の敷設を日本国に允許す。
4 支那国政府は、成るべく速に外国人の居住及貿易の為自ら進で山東省に於ける主要都市を開くことを約す。其地点は別に協定すべし。

第2号 南満東蒙に於ける日本の地位を明確ならしむる為の条約案
日本国政府及支那国政府は、支那国政府が南満州及東部内蒙古に於ける日本国の優越なる地位を承認するに依り、ここに左の条款を締結せり。
1 両締約国は、旅順大連租借期限並南満州及安奉両鉄道各期限を、何れも更に九九カ年づつ延長すべきことを約す。
2 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、各種商工業上の建物の建設又は耕作の為必要なる土地の賃借権又は其所有権を取得することを得。
3 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、自由に居住往来し各種の商工業及其他の業務に従事することを得。
4 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける鉱山の採掘権を日本国臣民に許与す。其採掘すべき鉱山は別に協定すべし。
5 支那国政府は、左の事項に関しては予め日本国政府の同意を経べきことを承諾す。
南満州及東内蒙古に於て他国人に鉄道敷設権を与え、又は鉄道敷設の為に他国人より資金の供給を仰ぐこと
南満州及東部内蒙古に於ける諸税を担保として他国より借款を起こすこと
6 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける政治財政軍事に関し顧問教官を要する場合には、必ず先ず日本国に協議すべきことを約す。
7 支那国政府は本条約締結の日より九九カ年間日本国に吉長鉄道の管理経営を委任す。

第3号 漢冶萍公司に関する取極案
日本国政府及支那国政府は、日本国資本家と漢冶萍公司との間に存する密接なる関係に顧み且両国共通の利益を増進せんが為、左の条款を締結せり。
1 両締約国は、将来適当の時機に於て漢冶萍公司を両国の合弁となすこと、 並支那国政府は日本国政府の同意なくして同公司に属する一切の権利財産を自ら処分し又は同公司をして処分せしめざることを約す。
2 支那国政府は、漢冶萍公司に属する諸鉱山付近に於ける鉱山に付ては同公司の承諾なくしては之が採掘を同公司以外のものに許可せざるべきこと、 並其他直接間接同公司に影響を及ぼすべき虞ある措置を執らんとする場合には先ず同公司の同意を経べきことを約す。

第4号 中国の領土保全の為の約定案
日本国政府及支那国政府は、支那国領土保全の目的を確保せんが為、ここに左の条款を締結せり。支那国政府は、 支那国沿岸の港湾及島嶼を他国に譲与し若くは貸与せざるべきことを約す。

第5号 中国政府の顧問として日本人傭聘方勧告、其他の件
1 中央政府に政治財政及軍事顧問として有力なる日本人を傭聘せしむること。
2 支那内地に於ける日本の病院、寺院及学校に対しては、其土地所有権を認むること。
3 従来日支間に警察事故の発生を見ること多く、不快なる論争を醸したることも少からざるに付、 此際必要の地方に於ける警察を日支合同とし、又は此等地方に於ける支那警察官庁に多数の日本人を傭聘せしめ、 以て一面支那警察機関の刷新確立を図るに資すること。
4 日本より一定の数量(例えば支那政府所要兵器の半数)以上の兵器の供給を仰ぎ、 又は支那に日支合弁の兵器廠を設立し日本より技師及材料の供給を仰ぐこと。
5 武昌と九江南昌線とを聯絡する鉄道及南昌杭州間、南昌潮州間鉄道敷設権を日本に許与すること。
6 福建省に於ける鉄道、鉱山、港湾の設備(造船所を含む)に関し外国資本を要する場合には、先ず日本に協議すべきこと。
7 支那における本邦人の布教権を認むること。
▼やはり考えが変わりました。中国を部分的に植民地にするという内容です。 よくもここまで中国を見下したものですね。日本人はこの事実を認識したうえで21世紀の今日の日中関係を 考えていく必要があると思います。(2020.7.4)

上貫気別(拡大)

1916年(T5)
「新冠御料牧場」・姉去のアイヌ民族80戸、平取村上貫別に「強制移住」
▼二風谷ダムのある沙流川に流れ込む貫気別川の上流、緑の矢印のあたり。

「第2次旧土人教育規程」公布
▼以下は様似(さまに)小学校開校110周年記念事業の記念誌 からの抜粋です。
「1916年(大正5年)、庁令86号を以て、アイヌの子弟に対する特別なカリキュラム「旧土人教育規程」が公布されました。
アイヌの人たちの学校の教育内容も、修業年限を4年とし、就学年齢のはじまりを7才(一般は6才)よりとしました。 学校では主に修身、国語(日本語)、算術、体操を教え、実業(農業、裁縫)をも教えることとしました。
一方、家事手伝いを認め、週18時間まで、授業時間を減らすことができるようにしました。
しかし、この簡略を旨とした教育、特に、地理、歴史、理科をのぞいた措置は、アイヌの人たちのみならず教師側からも反対があり、 大正11年より本規程を破棄して、他の子どもたちと同じ一般法によることになりました(『日高教育史』(上巻):P.226)。
就学年限は6カ年とし、就学年齢も7才から6才となり、地理、日本歴史、理科、図工も加わりました。 勿論、アイヌ語などアイヌに関することは学習内容として盛り込まれてはいませんでした。」

1917年(T6)
朝日朝刊2020.12.9
駒野さんの記事はいつも示唆に富んでいます。特に私が惹かれたのはウイルソン大統領の理念です。以前からレーニンとの共通性 を感じていたからです。(2020.12.9)
「史上最悪のインフルエンザ」の著者アルフレッド・W・クロスビーは「『戦争というすべての戦争をなくし、人類を 高いモラルを持つ新たなレベルまで引き上げようとする任務』に自ら着手した男であった」と述べています。

「ロシア革命」11月(10月革命・ロシア歴・10月)
レーニン=「平和に関する布告」(無併合・無賠償・民族自決権)
     「土地に関する布告」
1918年(T7)
北海道、開道50年記念博覧会開催

武隈徳三郎「アイヌ物語」発刊
「ソビエト社会主義共和連邦」誕生(1918〜1991)
「アメリカ大統領・ウイルソン」・「年頭教書」
*[14ヵ条の平和原則]発表
・公海の自由・秘密外交の禁止・経済障壁を取り払う
・軍縮をする・無併合、無賠償の原則・国際連盟の創立
・民族自決権による植民地問題の解決
「シベリア出兵」
「第1次世界大戦」終結(11月・ドイツ降伏)
▼開道50年記念博覧会wp:1918年(大正7年)8月1日から9月19日まで開かれた地方博覧会。 東京、大阪以外の地方博覧会としては、かつて見られなかった大規模なものといわれるが、 それだけに博覧会景気も空前の好景気となった。観覧者総数は142万3661人。
▼wp:シベリア出兵(英: Siberian Intervention)とは、1918年から1922年までの間に、 連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が 「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。
日本は兵力7万3,000人(総数)を投入。アメリカが7,950人、イギリスが1,500人、カナダが4,192人、イタリアが1,400人の兵力を投入。
▼因みにInterventionとは干渉。英語は明快、ことの本質を曖昧にしない。
1919年(T8)「ヴェルサイユ条約」締結
▼wp: 第一篇(1条から26条)国際連盟規約
第二篇(27条から30条)ドイツの境界 
第三篇(31条から117条)ヨーロッパ各国の政治について 
第四篇(118条から158条)ドイツの国外権益について 
第五篇(159条から213条)ドイツの軍備について
第6篇(214条から226条)捕虜や抑留者の返還 
第7篇(227条から230条)「前」ドイツ皇帝への訴追条項および一般戦争犯罪の裁判について 
第8篇(231条から247条)ドイツが連合国等に支払う賠償
第9篇(248条から263条)占領に伴う経費等の支払い方法 
第10篇(264条から312条)ドイツにおける関税、通信(万国郵便連合・万国電信連合関係)、債務・私有財産等の扱いについて 
第11篇(313条から320条)航空の分野における連合国の権利について 
第12篇(321条から386条)ドイツの港の利用、ドイツ国内河川の交通と鉄道について 
第13篇(387条から427条)国際連盟の姉妹機関とされた国際労働機関の規約 
第14篇(428条から433条)ドイツに対する監視措置 
第15篇(434条から440条)その他の条項
▼実に膨大な440条からなる条約である。
第一篇で国際連盟、第13篇で国際労働機関の設立が規定されている。
第四篇(118条から158条)ドイツの国外権益についてで、膠州湾租借地と、それに関連する特権は日本に譲渡する(山東問題)。 ドイツが放棄した植民地については、国際連盟に指名された国が統治する委任統治に移行。 マリアナ諸島、カロリン諸島、パラオ、マーシャル諸島すなわち 南洋諸島の受任国は日本となっている。

1920年(T9)
道庁、平取村に「沙流病院」開院
「国際連盟」成立(スイス・ジュネーブ)
・(イギリス・イタリア・フランス・日本・理事国) (新渡戸稲造7年間事務局次長)
・国際労働機関(ILO)成立
・常設国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)成立
▼wp:1920年1月に発効した国際連盟規約第14条では、 「聯盟理事会ハ、常設国際司法裁判所設置案ヲ作成シ、之ヲ聯盟国ノ採択ニ付スヘシ。」 と規定されていた。
1920年6月、国際連盟が任命した法律家委員会が、常設的な司法裁判所の規程の草案を作成し、 判事任命の具体的指針を示した。このようにして作成された常設国際司法裁判所規程(英語版)は、 1920年12月13日にジュネーヴで採択された。

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1921年(T10)「ILO」・[先住民労働者の権利に関する報告書]
1922年(T11)
「旧土人教育規程」廃止アイヌ子弟教育を一般規定に準拠させる
「全国水平社」結成
「日本農民組合」結成
「日本共産党」結成 
▼世界の空気が変わってきたように思う。
1923年(T12)知里幸恵「アイヌ神謡集」発刊
◆アイヌの遺産「金成マツノート」の翻訳打ち切りへ 朝日新聞 2006年08月12日  樺太アイヌ語学研究者の村崎恭子・元横浜国立大学教授は「金成マツノートは、日本語でいえば大和朝廷の古事記にあたる物語で、大切な遺産。アイヌ民族の歴史認識が伝えられており、 全訳されることで資料としての価値が高まる」と話している。
▲「アイヌモシリの会」でやろう!(202310.30)

『アイヌ民族の歴史』p464

金田一京助26歳・啄木と。神謡集は36歳 NHKビデオより
最初の先住民族宣言(拡大)

                    序
マツ・幸恵 マツの母はアイヌの口承文芸の名手と称された金成モナシノウク
▲モナシノウク、マツ、幸恵・真志保の三代でアイヌ文学が継承された。(2023.10.30)
(拡大)
その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。 天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼らは、真に自然の寵児、なんという幸福な人達であったでしょう。
冬の陸には林野をおおう深雪をけって、天地を凍らす寒気をものともせず、山また山をふみ越えて熊を狩り、 夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い?の歌を友に木の葉のような小船を浮かべて、ひねもす魚をとり、 花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久にさえずる小鳥と共に歌い暮らして蕗とり蓬つみ、 紅葉の秋は野分けに穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、 圓かな月に夢を結ぶ。嗚呼何という楽しい生活でしょう。
平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。 僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。
人口変異グラフ 第8小委員会(拡大)
▲知里幸恵さんのこの序文は大正11年(1922)に書かれている。 第2次激減期である。(2022.11.11)
しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、 鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、 なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。
時は絶えず流れる。世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、 いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩を並べる日も、やがては来ましょう。 それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。
けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、 それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。
おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語 の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。
私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。
   大正十一年三月一日
                                     知里幸恵
▼知里幸恵「アイヌ神謡集」序文。
余りにも悲しすぎる。和人の責任。 明治に時代が変わってからのアイヌ民族の苦難、屈辱、切なさをこれ以上に伝える文章に出会っていない。 生活はこのように落ちぶれた。その根本に土地問題があった。

明治以降のアイヌ民族人口推移参照
   アイヌ民族の戸口(拡大) 『近代民衆の記録 5アイヌ』434p〜435

北海道人口の推移(拡大) 榎森『アイヌ民族の歴史』429p
▼北海道人口の推移。
明治6年(1873)11万の人口が大正12年(1923)には240万に急拡大。 その内アイヌ人口は1.6万から1.5万と減少。知里幸恵さん の悲しみはこの現状を吐露されたもの。(2021.5.9)

日本海岸の人口推移1 平山冊子「コタンの歴史と実態」
28p、29p(拡大)
日本海岸の人口推移2 平山冊子「コタンの歴史と実態」
29p、33p、34p(拡大)















▲平山裕人「近代に入る前に、日本海岸の各コタンは壊滅的な打撃を受けていたということが、近代になって、コタンが 軒並み、衰退し、あるいは消滅していく、大きな原因になりました。」30p
▲イシカリ13場所をはじめて知る。平山裕人『コタンの歴史と実態』37p:下サッポロ、上サッポロ、 ナイホウ、ハッシャフ、シノロ、下ツイシカリ、上ツイシカリ、シママッフ。下ユウハリ、上ユウハリ、下カバタ 上カバタ。トクヒラ。(2022.7.6)
太平洋岸の人口推移 平山冊子「コタンの歴史と実態」30p(拡大)
太平洋岸の各場所
平山冊子「コタンの歴史と実態」31p(拡大)

日本海岸の各場所
平山冊子「コタンの歴史と実態」29p(拡大)
▲アイヌ民族の戸口。
文化3年1806年 21,696人
文政5年1822年 21,768人
安政6年1859年 16,136人
明治5年壬申1872年 15,275人。

1822年文政5年から1872年明治5年壬申の50年間に6,493人減。異常。(2021.12.31)

むしろ1822年と1859年を比べる。5,632人減。 この幕末の鰊漁の影響ということを平山先生から教わる。(2022.7.6)

*9月1日「関東大震災」
▼朝鮮人虐殺。本HPの「在日コリアン」のページを見てください。 在日の人たちが最も力を込めてこの問題を取り上げ、憤りをもっておられます。 この後、急速に日本の軍国主義化が強まります。
1924年(T13)
・道庁、アイヌ給与地予備調査、8245町歩のうち成墾地5614町歩、うち45%を和人が賃借地としている
*道庁、アイヌ民族の負債整理、賃貸地管理のために「互助組合」の設立を通達

▼上記写真と文章は「全国水平社創立宣言と関係資料のユネスコ記憶遺産登録をめざして」 に推薦文を寄せられた北海道アイヌ協会加藤忠理事長とそのおことばです。
「全国水平社結成の刺激を受けて、その名を模したアイヌ解放組織「解平社」が1926年に旭川市にうまれ、 「圧迫に堪えかねん、アイヌの団結 水平運動起こる」と新聞報道もされました。」
▼アイヌ民族の闘いと解放同盟とのつながりが確認できました。

1925年(T14)
「治安維持法」
「普通選挙法」
1926年(T15)
「ILO」・[先住民労働者の権利に関する専門部会]設置
▼ユポさん「ILO」の動きに注目される。
1927年(S2)
「十勝旭明社」設立(アイヌ民族教化目的)
1930年(S5)
違星北斗「コタン」発刊
*「北海道アイヌ協会」発足、機関紙「蝦夷の光」創刊
▼『ユーカラ邂逅』天草季紅著・2018年7月1日新評論発行208頁に北斗自身の次の文章がありました。
朝日朝刊2021.9.19 違星北斗歌集(拡大)
「北斗は号であって、瀧次郎と云ふ。小学校をやっと卒業した。シャモに侮辱されるのが憤慨に堪へなかった。 大和魂を誇る日本人のくせに常にアイヌを侮辱する事の多いことに不満でした。
その後東京付市場協会に雇われて1年と6カ月都の人となりました。 見るもの聴くもの私を育ててくれるものならざるはなく、私は始めて世の中を暖かく送れるように晴ればれとしました。
けれどもそれは私一人の小さな幸福であることを悲しみました。
アイヌの滅亡―それも悲しみます。
私はアイヌの手に依ってアイヌの研究もしたい。アイヌの復興はアイヌでなくてはならない。
強い希望にそゝのかされて嬉しかった。東京をあとにして、コタンの人となったのです。」「淋しい元気」 (「落穂帖その一」増補版『コタン』所収)

▼違星北斗の「私一人の小さな幸福であることを悲しみました」の気持は痛いほどわかります。 私が今こうして日本社会の「マイノリティーの声」に注ぐ情熱も北斗さんの気持と同じです。
▼wp:1931年(昭和6年)7月には初めての北海道アイヌの統一組織である「北海道アイヌ協会」が設立されるが、 その主要メンバーの中には北斗の影響を受けた者が多く含まれていたことからも、 北斗が生涯を賭けた運動が及ぼした影響は、決して小さなものではなかったといえる。
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1931年(S6)
バチラー八重子「若き同族(ウタリ)に」発刊
北海道札幌でアイヌ人青年大会開催(尭祐寺参加者71人バチラー主催)
白老のアイヌ民族青年貝沢藤蔵(かいざわとうぞう)「アイヌの叫び」を著す
▼天草季紅著『ユーカラ邂逅』(160頁)バチラー八重子「若き同族(ウタリ)に」から。

「父の家 嗣ぎてつたえよ 孫曾孫に 亡びの子では 無いといふこと 
ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名 誰しかこれを 取り返すべき 

寄りつかむ 島はいづこぞ 海原に 漂ふ舟に 似たり我等は 
死人さへ 名は生きて在る ウタリの子に 誰がつけし名ぞ 亡びの子とは 

古のヌプルクイトプ 知らせけり ポイヤウンペの 行くべき道を 
どん底に つき落とされし 人々の 登らむ梯子 ありなばと思ふ 

たつせ無く 悩み悩みて 死する外に われらウタリの 道はなきかや 

過ぐる日は のどけくありし トットモシリ 今は憂いに とざされにけり 
亡びゆき 一人となるも ウタリ子よ こころ落とさで 生きて戦へ」


バチラー八重子さん
「一人となるも ウタリ子よ こころ落とさで 生きて戦へ」
知里幸恵さん
「いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩を並べる日も、やがては来ましょう。 それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います」
違星北斗さん
「アイヌの復興はアイヌでなくてはならない。強い希望にそゝのかされて嬉しかった。 東京をあとにして、コタンの人となったのです」
▼これらの祈り、願いがユポさんの活動に繋がっているように思います。
▼wp:バチラーの主宰による全道アイヌ青年大会は熱気にあふれ、「我々は最早眠っていてはならない、 私等は声を揃えて眠れるウタリたちを呼び起こそう」というアピールを採択。
1932年(S7)
第3次近文(ちかぶみ)アイヌ地問題
第3次近文(ちかぶみ)アイヌ地問題にまで至る経緯に関する旭川市のHPです。
「アイヌ給与地の旭川市への貸付期間満了に伴い第3次給与地問題発生。旭川市会議員・近文アイヌ代表、給与地付与を求めて上京、 各方面に陳情」
「満州国建国宣言」
英国人マンロー、二風谷でアイヌ民族の診療と研究に従事
朝日朝刊2021.9.19

柳条湖事件(拡大)
先川祐次さん(101歳)「人生の最後に後世のために残したいと思った」(取材:三浦英之記者)
▲やはり最後は「後世のために」となる。三浦記者の取材も立派。
奉天(拡大) 満鉄創設時
(拡大) (拡大)
▼wp:ニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro、1863年6月16日 - 1942年4月11日)は、 イギリスの医師、考古学者、人類学者。エジンバラ 大学で医学を学び、インド航路の船医として29歳で 日本にやってきた日本人女性と結婚し、1905年(明治38年)に日本に帰化した。
1932年(昭和7年)北海道沙流郡平取町二風谷に住所を移し、医療活動に従事する傍らアイヌの人類研究、 民族資料収集を行った。アイヌ文化の理解者であり、アイヌ民具などのコレクションの他、 イオマンテ(熊祭り、1931年製作)などの記録映像を残した。

▲二風谷は10年間だった。萱野さん6才〜16才。マンロー先生69才〜79才。異国の立派なおじいさん、という感じ。(2023.4.7)
1933年(S8)「国際連盟脱退」
1934年(S9)「旭川市旧土人保護地処分法」公布
近文給与地問題の経緯です。
近文(ちかぶみ)アイヌ49戸に、1戸当たり1町歩の土地を付与、残地は共有財産。
▼1町歩では北海道ではやっていけないでしょう。
1936年(S11) 知里真志保・金田一京助「アイヌ語法概説」発刊
「ILO」・[先住民労働者の募集に関する条約]採択・50号条約日本政府、1938(S18)年批准 (国際機関が作った先住民族の権利に関する初の条約)(全文32 条) 
先住民労働者の募集に関する条約
(第50号)(1938年9月8日批准登録)
国際労働機関ノ総会ハ国際労働事務局ノ理事会ニ依リジユネーヴニ招集セラレ 千九百三十六年六月四日其ノ第二十回会議トシテ会合シ右会議ノ会議事項ノ第一項目タル 特殊ノ労働者募集制度ノ規律ニ関スル提案ノ採択ヲ決議シ且 該提案ハ国際条約ノ形式ニ依ルベキモノナルコトヲ決定シ 千九百三十六年ノ土民労働者募集条約ト称セラルベキ左ノ条約ヲ 千九百三十六年六月二十日採択ス
第一条
本条約ヲ批准スル国際労働機関ノ各締盟国ハ土民労働者ノ募集ガ存在シ又ハ将来存在スルコトアルベキ各地域ニ於テ 左ノ規定ニ従ヒ其ノ募集ヲ規律スルコトヲ約ス
▼第1条から第30条までの条約です。募集に関して「土民労働者」を保護することが目的のようです。
▼土民労働者の英語を知りたい!Indigenous Workersだと思われます。 1939年の雇用契約書条約で土民労働者が英語ではIndigenous Workersとなっています。

1937年(S12)
「北海道旧土人保護法」改正公布(給与地譲渡制限緩和、旧土人学校廃止)
「日中戦争」(満州事変から6年、4年後に真珠湾)
wikipedia「国家総動員法」
▼wp:国家総動員法は、1938年(昭和13年)第1次近衛内閣によって第73帝国議会に提出され、制定された法律。 同法によって国家統制の対象とされたものは、以下の6点に大別できる。
1 労働問題一般 - 国民の産業への徴用、総動員業務への服務協力、雇用・解雇・賃金等の労働条件、労働争議の予防あるいは解消
2 物資統制 - 物資の生産、配給、使用、消費、所持、移動
3 金融・資本統制 - 会社の合併・分割、資本政策一般(増減資・配当)、社債募集、企業経理、金融機関の余資運用
4 カルテル - 協定の締結、産業団体・同業組合の結成、組合への強制加入
5 価格一般 - 商品価格、運賃、賃貸料、保険料率
6 言論出版 - 新聞・出版物の掲載制限
国家総動員法は成立後廃止されるまでの間に計3回改正されている。 2回目の1941年の改正は 全50条のうちの25条を改正するという大規模なものだった。 これにより、あらゆるものが統制の対象となった。
wikisource「国家総動員法」
▼wikisourceで条文を実際に読んだ方が実感できます。(2020.7.4)
昭和十三年三月三十一日法律第五十五號(官報 四月一日)
國家總動員法
第一條 本法ニ於テ國家總動員トハ戰時(戰爭ニ準ズベキ事變ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ) ニ際シ國防目的達成ノ爲國ノ全力ヲ最モ有效ニ發揮セシムル樣人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ
第二條 本法ニ於テ總動員物資トハ左ニ掲げる掲グルモノヲ謂フ
兵器、艦艇、彈藥其ノ他ノ軍用物資
二 國家總動員上必要ナル被服、食糧、飮料及料
三 國家總動員上必要ナル醫藥品、醫療機械器具其ノ他ノ衞生用物資及家畜衞生用物資
四 國家總動員上必要ナル船舶、航空機、車輛、馬其ノ他ノ輸送用物資
五 國家總動員上必要ナル通信用物資
六 國家總動員上必要ナル土木建築用物資及照明用物資
七 國家總動員上必要ナル燃料及電力
八 前各號ニ掲グルモノノ生産、修理、配給又ハ保存ニ要スル原料、材料、機械器具、裝置其ノ他ノ物資
九 前各號ニ掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル國家總動員上必要ナル物資
▼第九項があれば勅令で何でも指定できる。(2020.7.4)
第三條 本法ニ於テ總動員業務トハ左ニ掲グルモノヲ謂フ
一 總動員物資ノ生産、修理、配給、輸出、輸入又ハ保管ニ關スル業務
二 國家總動員上必要ナル運輸又ハ通信ニ關スル業務
三 國家總動員上必要ナル金融ニ關スル業務
四 國家總動員上必要ナル衞生、家畜衞生又ハ救護ニ關スル業務
五 國家總動員上必要ナルヘ育訓練ニ關スル業務
六 國家總動員上必要ナル試驗研究ニ關スル業務
七 國家總動員上必要ナル情報又ハ啓發宣傳ニ關スル業務
八 國家總動員上必要ナル警備ニ關スル業務
九 前各號ニ掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル國家總動員上必要ナル業務
▼また勅令。以下すべて勅令。(2020.7.4)
第四條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 帝國臣民ヲ徴用シテ總動員業務ニ從事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ

第五條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 帝國臣民及帝國法人其ノ他ノ團體ヲシテ國、地方公共團體又ハ政府ノ指定スル者ノ行フ總動員業務ニ付協力セシムルコトヲ得

第六條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 從業者ノ使用、雇入若ハ解雇、就職、従業若ハ退職又ハ賃金、給料其ノ他ノ從業條件ニ付必要ナル命令ヲ爲スコトヲ得

第七條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 勞働爭議ノ豫防若ハ解決ニ關シ必要ナル命令ヲ爲シ又ハ作業所ノ閉鎖、作業若ハ勞務ノ中止 其ノ他ノ勞働爭議ニ關スル行爲ノ制限若ハ禁止ヲ爲スコトヲ得

第八條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ物資 ノ生産、修理、配給、讓渡其ノ他ノ處分、使用、消費、所持及移動ニ關シ必要ナル命令ヲ爲スコトヲ得

第九條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 輸出若ハ輸入ノ制限若ハ禁止ヲ爲シ、輸出若ハ輸入ヲ命ジ、輸出税若ハ輸入税ヲ課シ又ハ輸出税若ハ輸入税ヲ揄ロ若ハ減免スルコトヲ得

第十條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ總動員物資ヲ  使用若ハ收用シ又ハ總動員業務ヲ行フ者ヲシテ之ヲ使用若ハ收用若ハ收用セシムルコトヲ得

第二十條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ新聞紙其ノ他ノ出版物ノ掲載ニ付制限又ハ禁止ヲ爲スコトヲ得 政府ハ前項ノ制限又ハ禁止ニ違反シタル新聞紙其ノ他ノ出版物ニシテ國家總動員上支障 アルモノノ發賣及頒布ヲ禁止シ之ヲ差押フルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ併セテ其ノ原版ヲ差押フルコトヲ得

▼すべて勅令。これは法律ではありません。法律の原文に当ってよかったです。(2020.7.4)

1939年(S14)
「ILO」・[先住民労働者雇用契約条約]採択・64号条約 
「第2次世界大戦」
▼「ILO」のHPよりを見ますと条約の英語名は 「Convention concerning the Regulation of Written Contracts of Employment of Indigenous Workers」であり、日本は未批准ですが、外務省の訳は「土民労働者の文書による雇用契約の規律に関する条約」で Indigenous Workersは土民労働者としています。現在であれば先住民労働者と訳すべきでしょう。 また日本語訳は条約ですが、TreatyではなくConventionを使っています。
知恵袋 treatyは2国間で結ばれた条約を指し、conventionは多国間の条約を指します。(2020.7.4)       
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朝日朝刊2020.11.28真山仁の視線
朝日朝刊2020.12.8(拡大可)
1941年の朝の国民学校の様子がリアルに描かれています。当時は小学校4年生10歳の女の子。(2020.12.9)

「日本国民自身が開戦に加担していた。 新聞以上に、国民の戦意発揚を刺激したメディアがある。25年にスタートしたラジオ放送だ。戦争にしても、政治の混乱にしても、“主犯“ は軍人や政治家かも知れない。だが、忘れてはいけないのは、彼らが「好き勝手な行動」を出来たのは熱狂的に支持した世論の存在があってこそだ。」
▼その痛切な反省の上に朝日新聞があると私は考えています。(2020.12.9)
2019.12.8朝日新聞朝刊
▼元軍曹永井敬司(98)さんの
ことば
「若い自衛隊員を戦場に導くような憲法改正には絶対反対。そうしたい政治家は、 戦場に行って撃たれればいい。」
(拡大可)

▼ペリリュー島はパラオ諸島の南端の島

1940年(S15)「日独伊三国同盟」成立
1941年(S16)
「日ソ中立条約」
「ハワイ真珠湾攻撃」
「太平洋戦争」(〜45)
2020.2.8朝日新聞朝刊
▼左の記事。
「日本人はどのくらいこの場所のことを知っていますか」
と問いかけられています。
マレーシア北東部コタバル( 太平洋戦争地図をクリック) は1941年12月、真珠湾攻撃の約1時間前に 日本軍が上陸した場所。
2ヶ月余りで英植民地だったマレーシアとシンガポールを占領したマレーシア作戦はここから始まった。
「二度と戦争をしないためには、学校で『戦争はいけない』と習うだけでは足りません。一人でも多くに事実を伝えたい」 ザフラニさんはふるさとで歴史を 掘り起こす作業を20年以上続ける。

▼恥ずかしながらこの記事で初めて知りました。(2020.2.11)

1942年(S17)「ミッドウエー海戦」 太平洋戦争地図
▼以下の緑字の説明(「サイパン島陥落」「東京大空襲」「米軍沖縄本島占領」)はHP「太平洋戦争地図」より。
1942年6月5日(アメリカ標準時では6月4 日) から7日にかけて行われたミッドウェイ 諸島沖で行われた海戦。アメリカ海軍は航 空母艦1隻に対して、日本海軍は主力航空 母艦4隻とその全艦載機を喪失するという 状況に至った。この結果、日本が優勢であ った空母戦力は均衡し、以後は米側が圧 倒していく事となる。

ウィキペディア(Wikipedia)
ドイツ軍はソビエト連邦第2の大都市レニングラード (現・サンクトペテルブルク)を900日近くにわたって包囲したが、 レニングラードは包囲に耐え抜き、後にスターリンによって英雄都市の称号が与えられた。 ソ連政府の発表では市民の死者は約63万人だが実数は100万人を超えるとも言われる。 また死因の97%は餓死と言われている[2][3][4]。 (拡大)
▲ロシアは1812年のフランス・ナポレオンの侵略、1942年のドイツ ・ナチスの侵略にも耐え抜いた。今回はウクライナを使ってのアメリカの侵略を未然に防ぐ、 これがプーチンの対応の本質。(2022.3.11)
1943年(S18)
「ガダルカナル撤退」
「学徒出陣」
1944年(S19)
「サイパン島陥落」
多くの民間人が戦いの末期にバンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決した。
「本土爆撃」本格化
1945年(S20)
「東京大空襲」(クリックして「沖縄の頁」に飛んでください。)
東京は1944年11月14日以降に106回の空襲を受けたが「東京大空襲」と言った場合、 特に、規模が最も大きい1945年(昭和20年)3月10日に行われた空襲を指すことが多い。太平洋戦争に行われた空襲の中で も、とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲として知られている。
「米軍沖縄本島占領」
1945年(昭和20年)、沖縄に上陸した米軍 と日本軍との間で行われた地上戦。これは 民間人を巻き込んだ日本国内での最大規 模の地上戦であり、また日米最後の組織 的戦闘となった。沖縄戦は1945年3月26日 から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終 了した。その特徴の一つには日本側に軍 人をしのぐ多数の住民の被害(住民虐殺、 「集団自決」、壕追い出しなどにやり必死の 状況に追い込んだこと)が出たことがある。 これらの犠牲者の数はいまだ正確な数は 不明であり、数千人とも言われている
「広島・長崎に原子爆弾投下」
2019年12月25日朝日新聞夕刊
▼左の記事。
8月6日 月曜日 晴天 広島大空襲さる 記憶せよ!
爆心地から約1キロ。兵舎の下敷きになり、流血した左足を引きずりながら、北へ逃げる。 自転車の荷台に乗せられて翌7日に自宅へ。同9日、ソ連の参戦を知る。「満州の五郎兄さんは張り切っておられることだろう」と、思いをはせた。
8月23日 五郎兄さんがぞうりばきで帽子もかぶらず、玄関に現れた。 
8月27日 今日はがっこうへ行くのを中止。翌28日直登は死去。18歳だった。
五郎が原爆の残忍さを挿絵で描いた「おこりじぞう」の朗読を木内みどりさんが各地でつづけた。死にゆく少女を前に、穏やかな地蔵の顔が怒りに変わる。 内容に感銘を受けた木内さんは3年前から計12回朗読会を開いた。その木内さんが11月18日69歳で急逝。

「ポツダム宣言」受諾、
▼以下のコメントは「ポツダム宣言」翻訳者のものです。傾聴に値します。 とくに「天皇制存続」という条件をつけた「降伏」であった、の箇所。
「ポツダム宣言受諾」を巡って「最高戦争指導会議」「御前会議」は 堂々巡りの議論を繰り返し、8月6日の広島原爆、 8月9日の長崎原爆を招き寄せてしまうのである。
そしてやっと8月10日になってポツダム宣言を受け入れるのであるが、 それは、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」 (国体護持変更の要求を含んでいない、という“条件”のもとにポツダム宣言を受諾する)とする受諾声明を発出する。
 ポツダム宣言を受け入れることは、一見日本の無条件降伏のように見えるが、このように「天皇制存続」という条件をつけた「降伏」であった。

▼上記「ポツダム宣言」をクリックして是非お読みください。(2020.4.29)

ポツダム宣言条文 全訳 日本降伏のため確定条項宣言 ポツダムにて 1945年7月26日発出

(1) われわれ、米合衆国大統領、中華民国主席及び英国本国政府首相は、 われわれ数億の民を代表して協議し、この戦争終結の機会を日本に与えるものとすることで意見の一致を見た。

(2) 米国、英帝国及び中国の陸海空軍は、西方から陸軍及び航空編隊による数層倍の増強を受けて巨大となっており、 日本に対して最後の一撃を加える体制が整っている。この軍事力は、日本がその抵抗を止めるまで、戦争を完遂しようとする全ての連合国の決意によって 鼓舞されかつ維持されている。

(3) 世界の自由なる人民が立ち上がった力に対するドイツの無益かつ無意味な抵抗の結果は、 日本の人民に対しては、極めて明晰な実例として前もって示されている。現在日本に向かって集中しつつある力は、 ナチスの抵抗に対して用いられた力、すなわち全ドイツ人民の生活、産業、国土を灰燼に帰せしめるに 必要だった力に較べてはかりしれぬほどに大きい。われわれの決意に支えられたわれわれの軍事力を全て用いれば、 不可避的かつ完全に日本の軍事力を壊滅させ、そしてそれは不可避的に日本の国土の徹底的な荒廃を招来することになる。(以下(4)〜(13)略)
▼この宣言は7月26日です。日本政府は8月10日になってポツダム宣言を受け入れを表明。その間に広島、長崎、ソ連参戦。 今回のコロナ対策を見ていても日本政府の対応は後手後手、信頼に値する政府を持ち得ていない。自戒を込めて、 われわれは信頼に値する政府を作り上げていない、と言うべきか。(2020.4.29)

「降伏文書」調印 (「降伏文書」クリックしてください。)
「連合国軍」本土進駐
「五大改革指令」
財閥解体、経済機構の民主化、農地改革指令、憲法の自由主義化、新選挙法(婦人参政権付与)
・秘密警察廃止
労働組合の結成奨励
教育制度の自由主義的改革
「アイヌ民族にとって、周辺批判、自己自立への時代の夜明け」
「国際連合」成立・本部ニューヨーク(日本は、56年加盟)
*総会・安全保障理事会・経済社会理事会・信託統治理事会
*国際司法裁判所・事務局
*国連憲章・1944年8〜10月米・英・ソ・中国によって作られ、45年6月サンフランシスコ会議で採択10月24日発効
1946年(S21)
*「社団法人北海道アイヌ協会」設立
*「アイヌ民族甦生援護ニ関スル歎願書」(2月・静内町全道アイヌ大会)
「新冠御料牧場」4万町歩下付、日高種馬牧場解放、
・給与地を農地法の適用から除外することを、農林省、宮内省、北海道長官に陳情
・静内新冠両町村民大会開催、「御料牧場」の全面開放要求決議
進駐軍スイング司令官に面会、独立の意思を尋ねられる、10万円の寄付を受ける
「アイヌ新聞創刊号」
我等ウタリーの求むるものは、生活の安定と向上。この為に働かせろ、食ハせろ、家を与へろ、 アイヌの土地を返せという事以外にはない。『近代の記録』235p
簡潔に表現。今も変わらない。(2022.2.23)

高橋真「アイヌ新聞」創刊(S47・5第14号最終)
「天皇人間宣言」
「農地改革」(1次・2次)
「日本国憲法」公布
「北海道旧土人保護法」改正(4・5・6条削除)
4条・貧困者に、農具・種子 給与
5条・傷痍、疾病者に、救療・薬価 給与
6条・傷痍、疾病、不具、老衰、幼少により自活不能者、救助、死亡者に埋葬料給与
▼アイヌ民族甦生援護ニ關スル歎願書の全文です。ユポさんから頂きました。
北海道アイヌ協会創立当時の請願書等について国立アイヌ民族博物館研究紀要第1号(2022) 田村将人(TAMURA Masato) 国立アイヌ民族博物館 資料情報室長(Manager of Collection Management Division, National Ainu Museum)
▲上記紀要、今日みつけました。(2022.12.9)
▲田村さんに2023.2.24ユポさんのご案内で会いました。
▲「歎願」の言葉に引っかかりました。「歎願」ではなく真の地主として自力で道を切り開いていく、 これがMIP回復運動「アイヌモシリの会」の精神。(2023.11.1)
                        社團法人 北海道アイヌ協會
           アイヌ民族甦生援護ニ關スル歎願
北海道ノ先住民族デアリ、十一州ガ未ダ皇化ニ浴セザリシ古昔カラ自力自營デ開拓ノ使徒ニ任ジ 皇國ノ進運ニ寄與セル我等アイヌ民族ノ父祖ガ嘗テ松前封建三百年ノ非同化的藩政ニ禍サレ 祖先以來占有シ續ケテ居ツタ良好ナル農地ヤ漁場ヲ没収セラレ 飽クナキ被厭ヲ蒙リ爲メニ幕末頃マデハ水草ヲ逐フテ原始的生活ニ沈淪スルノ余儀ナキニ至ツタ次第デアリマス
明治初年以降、本土方面ヨリ移住スル和人ガ急激ニ揄チスルニ及ビ 之等ト對等ノ文化ト智育ナキ我等同族ノ父祖ハ常ニ和人ノ搾取奸詐ニ陷リ 遂ニ今日猶悲惨極マル生活状態ニアルモノ其大部分ヲ占メルハ誠ニ悲ムベキ現象デアリマス
斯ル社會ノ缺陷ハ國家ノ御理解アル御同情ニヨリ其對策ヲ仰グト共ニ我々モ又自ラノ進ムベキ道ヲ打開セザルベカラズトシ 全道アイヌ民族ノ総力ヲ結集シ自ラノ向上発展、福利厚生ヲ圖ルベク過般社團法人北海道アイヌ協會ヲ設立スルニ至ツタ次第デアリマス
本協會ノ存立ノ目的ハアイヌ民族ヲシテ農業或ハ漁業等職域的部門ニ於テ其生活水準ガ和人ト併行スルマデ向上セシムルニアリマス
今ヤ國家ハ「ポツダム宣言」ヲ受諾セラレ民主々義國家ヲ確立セラレタノデアリマス、
此ノ秋ニ際シ我等アイヌ民族ヲシテ其生活上眞ニ皇国民タルノ體面ヲ保全シ得ラルヽ樣御廰ノ御理解アル御同情ト御援護ヲ賜リ度ク 左記現況ト沿革ノ一端ヲ具シ此段御願ニ及ビタル次第デアリマス
                記
一、北海道ニ現住スル我々アイヌ民族ハ戸數約三千五百戸、人口約一萬七千デアリマス
此内高等教育ヲ受ケタルモノ僅カ數名、中等教育ヲ受ケタルモノ數十名程度デ其他ハ國民學校修了程度カ若クハ無學文盲ナモノデアリマス
住宅ニ於テハ三千五百戸ノ内、茅葺キ狭隘ナ家屋ニ居住スルモノ二千百六十五戸、其内床ナキモノ單ニ地面ノ上ニ藁類ヲ敷キ ソレニ筵ヲ覆フテ起居シ臥寢シ居ルモノハ五百五十八戸デアリマス
經濟的ニ於テハ數十萬ノ富ヲナスモノ數名、農業或ハ漁業等職域的部門ニ於テ其生活水準ガ和人ト稍々併行スルモノ 約二割程度デ其他ノ大部分ハ至ツテ生活程度ガ低ク殊ニ一般和人ト比較シテハ其水準ニ甚ダシキ經庭アリ、 如何ニ悲惨ナ生活ニ放棄セラレアルカハ前記家屋ノ數字ヨリ見マシテモ實状ハ推知シ得ラルヽノデアリマス

ニ、嘗テ我等ノ父祖ノ多數ハ松前三百年ノ非同化藩政ニ禍サレ文化ノ恩惠ニ浴スルコトナク文化的智育ニ劣ルトハ云ヘ 生活豊ニシテ和人ニ比シ毫モ遜色ナカツタ時代ガアツタノデアリマス、
然ルニ文化的教養ニ惠レテヲル和人ト何等對策ナク同一條件ノ經濟機構ノ下デ統治セラルヽニ及ンデ 我々ノ先祖代々カラ占領シ、開墾シ、耕作シ來ツタ、生活保全ノ爲メ唯一ノ財産デアツタ土地モ文字ヲ解セズ 國法ヲ辨ヘズ所有權擁護ノ法律的ナ手續ヲ知ラザリシ結果奸智ニ長ケタ和人ノ併呑ニ任セ乘ゼラルヽニ至ツタ次第デアリマス

〈原文から削除された部分〉  国立アイヌ民族博物館研究紀要公開日:2022年10月11日 田村将人
斯クシテ我等ノ父祖ガ成墾シ占有シ来ッタ広大ナル耕 地、牧場及ビ漁場ハ始ンド全部ガ和人ノ所有ニ帰シ、 或ヒハ占有スセラレルルニ至ッタコトハ是等ノ事実ヲ 雄弁ニ証明シテ余リアルモノト云フベキデアリマス。

▲この極めて大事な歴史的事実が削除されている。裁判で使う。(2022.12.13)

三、尚ホ國家ハ明治十年十二月十三日第十五號達北海道地券發行條例ヲ發布シ我等ノ父祖ガ多年占有シ來ツタ土地一切ヲ官有地第三種ニ編入シ 其既得權ヲ保管スルニ至ツタノデアリマス
元ヨリ此の立法精神ハ我等ノ父祖ガ和人ニ其所有地ヲ掠奪サルヽヲ防止スル親心デアツタト推察サレマス
即チ同條例第十六條ニ「舊蝦夷人居住地所ハ其種類ヲ問ハズ當分總テ官有地ニ編入スベシ、但シ地方ノ景況ト 蝦夷人ノ情態ニ依リ成規ノ處分ヲナスコトアルベシ」トアルヲ見テモ明カデアリマス
然ルニ明治二十二年法律第三號ヲ以ツテ同地券發行條例ハ廢止セラルヽヤ又々和人ノ 乘ズルトコロトナリタルハ誠ニ慨恨ニ堪ヘヌ次第デアリマス

〈原文から削除された部分〉
(然ルニ、超テ明治二十二年法律第三号ヲ以ッテ同地券 発行条例ハ廃止セラルヽヤ、)当局ハ曩(さ)キノ立法精神ヲ 無視シ之ガ処分ニ関シ、我等生活上ノ脅威ヲ毫モ考慮 セズニ又々和人ノ乗ズルニ任セ、利権争奪ノ資ニ供シ トコロトナリタルハ誠ニ慨恨ニ堪ヘヌ次第デアリマス。

▲当局批判の箇所がバッサリ削除されている。原文作成者は田村氏によると当時の北海道アイヌ協会 常務理事の小川佐助さん(41歳)。(2022.12.13)

wikipedia小川佐助さん
1905年、北海道浦河郡西舎村(後の浦河町)に生まれる[1]。一帯はアイヌ語でホロペツコタンという百数十戸のアイヌの根拠地があったが、
日高種畜牧場跡 幌別川両岸の開けた土地にかつてホロペツコタンがあったのだろう。(2022.12.17)(拡大)
小川の出生時には官営の日高種畜場が建設されており、数多くの人々が牧場内で働いていた[2]。
▲ホロペツコタンは幌別川の上流にあったとおもう。(2022.12.17)
▲「アイヌハは二ヶ所二部落ヲナス」36戸136人。「浦河町史」174p、920p(2023.1.7)
▲日高種馬牧場、明治40年(1907年)6月19日設置。日露戦争によって馬の資質の劣等を知らされた。 宮内省主馬頭藤波言忠(天皇の1歳とし下の学友として7,8歳のころより宮中に出仕した。)、明治39年 自ら現地調査。「浦河町史」176p西周の強制移住は日高種馬牧場の設置が理由。(2023.1.7)
21歳の頃から馬の売買で成功を収めた。小川は弁舌が立ったことから阪神競馬場の青池良佐の勧めで競馬会の役員も務めた[6]。 1986年2月28日をもって調教師を引退[9]。通算成績は日本中央競馬会が発足した1954年以降で6039戦610勝[9]。 翌1987年10月30日、病気のため82歳で死去した[9]。

小川は社団法人化当初の北海道アイヌ協会で常務理事を務めるなど、その活動に主導的な役割を果たした。 1946年には宮内省新冠御料牧場を小作農家へ解放するよう働きかけ、その実現後は最も肥沃な姉去 の土地へのアイヌ小作人の優先的移入を、アイヌ協会の代表者として主張した。
▲小川さん、多才な人。(2022.12.17)

四、斯クシテ國家ハ我等アイヌ民族ノ保護政策ノ確立ヲ企圖シ遂ニ明治三十二年法律第二十七號北海道舊土人保護法ヲ制定シタガ 其第一條ニ「舊土人ニシテ農業ニ從事スルモノ又ハ從事セントスルモノニハ一戸ニ付キ土地一萬五千坪
〈原文から削除された部分〉
四、斯クシテ次デ国家ハ屡(る)次ニ亘ル我等アイヌ民族ノ保護政策ノ失敗ヲ考慮シノ確立ヲ企図シ遂ニ◎〔追記 ノ記号〕、明治三十二年法律第二十七号北海道旧土人保護法ヲ制定シタガ、其第一条ニ『旧土人ニシテ農業ニ従事
▲二つの文章を比較すると「失敗ヲ考慮シ」の当局批判の箇所が削除されている。(2022.12.13)

(面積五町歩)以内ニ限リ無償下付スルコトヲ得」トアリマスガ 之ニ關係ノ土地處分法ニハ無償下付スル土地ハ未開発地ニ限ルトノ規定ガアル爲メ 從來永住シ占有中ノ既墾地ハ折角ノ保護法ニヨル恩典ニ浴スル能ハズト云フ矛盾ガ生ジタ次第デアリマス
昭和十年北海道廰調査(其後數字ニ變更ナシ)ニヨルト同族ノ最モ多キ日高支廰管内ニ於テ舊土人保護法ニヨリ下付サレタル 給與地ヲ參考ニ供シマスト總面積一千八百三十八町四反四畝十九歩ニシテ總戸數一千五百十六戸デスカラ一戸當リ平均一町二反一畝
強トナツテ居リマス、
此内山岳・丘陵等全々不可耕地ノ給與ヲ受ケ開墾不能ノマヽ放任セザルヲ得ヌ面積百八町五反七畝二十歩トナツテ居リマス
〈無償下附の原文〉
無償下附スル土地ハ未開地ニ限ルト規定ガアル為メ、 従来永住シ占有中ノ既墾地ハ折角ノ保護法ニヨル恩典 ニ浴スル能ハズト云フ矛盾ガ生ジタノデアリマス。
而シテ実際ニ下附サレタ土地ハ山岳、丘陵ナドノ劣 悪地ガ多ク、面積モ形式的ナモノニ過ギズ即チ昭和 十年北海道庁調査(其後数字ニ変更ナシ)ニヨルト、 同族ノ最モ多キ日高支庁管内ニ於テ、同保護法ニヨ リ、給与サレタ土地ヲ参考ニ供シマスト、戸数三千壱 千五百十六戸ニ対シ、総面積壱千八百三十八町四反四 畝十九歩ニシテ、一戸当リ平均一町二反一畝弱トナッ テ居リマスカラ、少イモノハ一戸当リ三反歩カ五反歩 ヨリ給与ヲ受ケテ居ラヌ者ガ沢山アル訳デス。此内山 岳、丘陵等全々〔ママ〕不可耕地ノ給与ヲ受ケ開墾不 能ノママニアル面積百〇八町五反七畝二十歩トナッテ 居リマス。

▲原文のほうがはるかに論理的。説得力がある。「而シテ実際ニ下附サレタ土地ハ山岳、丘陵ナドノ劣 悪地ガ多ク、」(このくだりが本文では省かれている。)それ故「此内山岳、丘陵等全々〔ママ〕不可耕地ノ給与ヲ受ケ開墾不能ノママニアル面積 百〇八町五反七畝二十歩トナッテ居リマス」とすんなり通る筋が、本文ではあたかもアイヌの怠慢のような印象になる。 それは本文では敢えて「放任」の文言をご丁寧にも入れて、下附の土地をアイヌ民族が「放任」したかのような表現に変えている。 本文修正者による悪意すら感じる。(2022.12.13)

本道ノ農家ハ沃土デアツテモ面積五町歩以下デハ經營經濟ガ成立セヌ實態デアリマス、
従ツテ以上ノ小面積ノ舊土人給與地デハ到底專農ヲ以ツテ生存シ得ラレヌコトハ自ラ明ラカデアリマス、
依ツテ多數ノ同族ハ有力農家ノ日雇カ或ハ漁場デ稼働スルカニヨッテ露命ヲ繋グノ外ナク好ムト好マザルトニ不拘轉々ト居住ヲ移スニ至リ、 隨テ下層ノ生活ニ追ヒ込マルヽ事ニナツタ次第デアリマス
現在同族ノ中ニモ相當面積ヲ有シ專農經營ノ者ハ和人ニ伍シテ其水準以上ノ生活ヲ營ンデ居ル事實ヲ見マシテモ 專農トシテノ必要量ノ土地ヲ與ヘ其指導ヨロシキヲ得ルニ於テハ毫モ和人ニ劣ルコトナク 必然皇國民トシテノ體面ヲ保全シ得ラルヽ民族ナルコトヲ證明出來得ルモノデアリマス
〈原文から削除された部分〉
即チ法ノ直接運営ニ当ル当時ノ官吏ガ、アイヌ民族ニ 対シ真ノ指導精神モニ欠ケ理解アル同情モヲ有シナ カッタ証左ガ今日、斯ル社会ノ欠陥トシテ残留スルコ トヲ篤ト実状御明察ヲ願上ゲマス。

▲官吏批判。差し障りがあると考えたのだろう。(2022.12.13)

五、次ギニ日高國浦河町ト新冠村ニ居住スル同族ノ亨ケタル土地ノ處置デアリマス
東幌別(拡大) 幌別川左岸の山岳地
西舎にしちゃ(拡大) 幌別川右岸の開けた土地
(拡大) 中央を流れる日高幌別川
即チ往年農林省ガ浦河町字西舎(にしちゃ)ニ日高種馬牧場ヲ創設 スルヤ同地内ニ居住スル 同族ガ其占有地ニシテ未ダ所有權獲得ノ手續ヲセザリシモノハ 是ヲ無償デ没収セラレタノデアリマス、

〈原文から削除された部分〉
未ダ所有権獲得ノ手続キヲセザリシモノハ、是レ ヲ高圧的命令デ、無償没収シ。

▲「高圧的命令デ」が削除されている。(2022.12.13)
▲「西舎(にしちゃ)ニ日高種馬牧場ヲ創設」は明治40年(1907年)のこと。 (日高種馬牧場年表より)新川さん提供資料。2022.12末。(2023.1.6)

又舊土人給與地トシテ既デニ所有權獲得ノ手續ヲ了シタルモノハ舊土人保護法ニヨリ賣買ヲ禁ジラレテアル爲メ 替地ト稱シ農耕全々不可能ナ同町東幌別ノ山岳地ニ移サレル(距離は?) ノ止ムナキニ至リ謂バアイヌ同族ノ生存權ヲ奪ツタトモ稱スベキデアリマス
〈原文から削除された部分〉
(又旧土人給与地トシテ既デニ所有権獲得ノ手 続キヲ了シタルモノハ、旧土人保護法ニヨリ売買ヲ禁 ジラレテアル為メ、)如何ニ農林省トハ云ヘ是ヲ強制的ニ買上サゲル道ナク、 併呑ノ手段トシテハ替地ト称シヲ与ヘラレタルモ、農 耕全々〔ママ〕不可能ナル同町東幌別ノ山岳地ニ移サ レルノ止ムナキニ至リ、斯クシテシ云ハバアイヌ同族 ノ生存権ヲ奪ッタモノデアリマストモ称スベキデアリ マス。

▲「如何ニ農林省トハ云ヘ是ヲ強制的ニ買上ゲル道ナク」「替地ト称シ」「農耕全々不可能ナル山岳地ニ移サ レル」。血も涙もない日本政府。小川佐助さん、無念と怒りで原文を書き上げられたことだろう。 その無念と怒りの部分が削除されている。(2022.12.13)
▲明治40年(1907年)の出来事なので旧土人保護法が明治32年(1899年)に公布されているから 明治政府の苦肉の策となったのであろう。つぎの姉去は大正5年(1916年)、それより9年前の出来事。(2023.1.6)

一方新冠村デハ新冠御料牧場ノ創設ニ際シ是レ又アイヌ同族ガ父祖以來占有シ安住シ來ツタ廣大肥沃ナ農耕地及ビ放牧地ヲ 御料地ニ編入シ百數十戸ノアイヌ同族ハ農耕ニヨリ生活不能デアル遠隔ノ地沙流郡上貫氣別ノ深山高岳地帶ニ轉住ヲ強ヒラレタ 次第デアリマス
▲西周の強制移住は種馬牧場の設置、姉去は牧馬の飼料供給のため。「浦河町史」924p(2023.1.7)

〈原文から削除・改変された部分〉
広大肥沃ナ農耕地ハ勿論、放牧地モ如何ナル理由モ嘆願ヲモ取上ゲズ、一方的強権ヲ以ッテ御料地ニ編入シ

▲この嘆願書は私には小川佐助さんの血の叫びのように響く。ひとことひとこと大事にすべき文章。削除は言うまでもなく、 改変部分も小川さんの叫びが伝わらない表現になっている。(2022.12.14)

然レ共斯ノ事實ハ皇室ニ關係アルダケニ皇國ノ臣民デアル我々同族ハ先祖代々墳墓ノ地ト定メテ永住シテ來マシタ 總テノモノヲ提供シタノデアリマス
▲歴代天皇はこの事実を認識しているか。すくなくとも昭和、平成、令和の天皇からアイヌ民族民族への謝罪のことばを聞いたことがない。 (2022.12.14)

道内デモ浦河ト新冠ノ同族ガ有シテ居ツタ土地ハ極メテ肥沃ナ土地 デアツタゞケニ之等犠牲ニ供セラレタ同族一同ノ打撃ハ將ニ致命的ナモノデアリ、 今日之等關係ノ同族ガ住ムニ土地ナク漂浪同様ナ生活ヲ續ケテ居ルノハ其結果デアリ、爲メニ子弟ノ教育モ思フニ委セズ 智育ノ進マヌヲ以ツテ心ナキ和人ハ事毎ニ侮蔑シ、劣等視シ、自己ハ大和民族トシテ世界ニ冠タル優秀民族ナルガ如キ誤ツタル 優越感念ニ捉ハレアイヌ民族ニ加ヘタル壓迫暴擧ハ枚擧ニ遑ナイ程デアリ、 社會問題トシテ人道問題トシテ由々シキ問題デアリマス
▲浦河町字西舎と東幌別の位置を新川さんに尋ねること。(2022.12.10)
▲新川さんから資料が届きました。その結果、位置の確認のみならず強制移住の顛末もきっちり理解できました。 改めて明治政府への怒りが湧いてきました。(2023.1.6)
「今日之等關係ノ同族ガ住ムニ土地ナク漂浪同様ナ生活ヲ續ケテ居ルノハ其結果デアリ、 爲メニ子弟ノ教育モ思フニ委セズ」。 アイヌ民族のこの現状は新冠、浦河のコタンだけでなくアイヌ民族すべてといっていい現実である。だからアイヌモシリの回復であり、「地代」の徴収であり、 大学の創設であり、生活援助資金の交付である。これがアイヌMIP回復運動の目指すところである。(2022.12.14)

六、現在アイヌ民族中農業經營ノ體験ト勞力トヲ有スルモ土地ト資力ナキタメ各地ニ漂浪的ニ日雇ヲ以ツテ生活シ居ルモノ多數アリ、 又近ク同族專農家ノ子弟デ分家ノ上自力自營ノ必要ニ迫ラレツヽアルモノモ多數アリ、之等合セテ概算二千戸トナリマス
而シテ之等ヲ專農トシテ必要地積一戸ニ付キ五町歩ヲ與ヘルト計畫スルニ於テハ茲ニ 農耕地一萬町歩ヲ必要トシ、 又將來是レニ附隨シ混畜農業ヲ必要ト致シマスノデ一戸當リ十五町歩ノ放牧地ガ必要トスルハ常識ニシテ是レ又三萬町歩ヲ要スル次第デアリマス
即チ我等アイヌ民族ガ農業ノ部門ニ於テ其生活水準ヲ和人ト併行スルマデ向上セシムルニハ先ヅ以ツテ 農耕適地一萬町歩ト放牧地三萬町歩計四萬町歩 ヲ最小必要量トスルモノデアリマス
▲4万町歩=4万ha。この算出は今も参考になる。(2023.11.1)

仄聞スル處、今囘日高種馬牧場並ニ新冠御料牧場ハ廢止セラレ全面的解放サレルヤニ承リマシタ>、
時恰モ狹隘ナル國土ニヨツテ食糧増産ノ必要ニ迫ラレツヽアル時大局的見地ヨリシテ誠ニ機宜ヲ得タルモノト思考セラレマス、 果シテ事實トセバ先ヅ新設當時犠牲ニ供セラレタルアイヌ民族ノ沿革、現在ノ生活状況等ヲ御考慮相仰ギ是レガ更生ノ對象ニ 全地域ノ内ヨリ農耕適地一萬町歩ト放牧地三萬町歩計四萬町歩ヲ我等アイヌ同族ニ御下付相仰ギ度ク御願ニ及ビタル次第デアリマス
〈原文から削除・改変された部分〉
我ガ等社団法人北海道アイヌ協会ヘ同族ニ御 下附相仰ギ度ク出御願ニ及ビタル次第デアリマス。幸 ニシテ御聴許ヲ得ルニ於テハ、我ガ協会ハ其配分ヲ適 正ニシ、

▲「社団法人北海道アイヌ協会ヘ」「協会ハ其配分ヲ適正ニシ」。権利の主体は「社団法人北海道アイヌ協会」ここが大事。 今後の運動も権利の主体は「アイヌモシリの会」。(2022.12.14)

幸ニシテ御聽許ヲ得ルニ於テハ我ガ協會ハ國家ノ施策ニ協力シテ農業經營方針ト其指導ニ萬全ヲ期シ アイヌ民族ヲ以ツテ最モ理想的ナ郷土ヲ作リ食糧生産ヲ以ツテ國家社會ニ貢獻スルト共ニ北海道ノ先住民ニシテ今猶ホ 悲惨ナ生活状況ニアル同族ヲ蔑視差別的冷遇、社會的壓迫等ヨリ起ル幾多悲劇ヨリ救濟シ和人ト併行スルマデ其水準ノ向上發展ニ 全力ヲ注ギ眞ニ皇國民タルノ體面ヲ保全シ得度キ所存デアリマス
〈原文から削除された部分〉
其水準、和人ト併行スルニ於テハ、蔑視モ、差別 的冷遇モ、社会的圧迫モ、自ラ解消スルコトハ、自 明ノ理ニシテ

▲なぜこの箇所が削除されたのか理解に苦しむ。つぎの「斯ル明朗ナル理想郷ノ實現」と続けるために必要だったとおもう。 (2022.12.14)
▲小川佐助さんの「北海道ノ先住民ニシテ」「自ラ解消スルコトハ、自明ノ理ニシテ」は先住民族として貧困を自力解消していく基本的考えは MIP回復運動と同じ。違うのは政府に歎願するのではなく、自力で、「地代」の自己資金で解決していくこと。(2023.11.1)

斯ル明朗ナル理想郷ノ實現ハ我等一萬七千同族ガ等シク夢ニダニ忘レ得ラレヌ唯一ノ希望デアリマス
▲佐助さん、MIP回復運動でやります。(2023.11.1)

以上情状御明察ノ上御聽ノ御理解アル御同情ニヨリ御聽許相仰ギ度此段御願ニ及ビタル次第デアリマス
追伸  本協會ハ別紙添附ノ定款ノ如ク智育程度モ特殊事ニアル同族ヲ特殊教育ニヨル高度化ヲ痛感致シテ居リマス、 又荒廢セル住宅ノ改善、漁業ノ助成、療養施設等其他急ヲ要スル懸案山積事案ニ關シ何レモ遠大ナル計畫立案中ニ付キ 具體的成案ノ上ハ同族向上諸般施策ニ御援助ヲ仰ギ度ク追而請願仕ル所存デアリマス

▲そして、38年後の昭和59年、1984年「アイヌ新法案」となる。この空白はどうしてだろう。 (2022.12.14)
▲1946年(昭和21年)後を追ってみました。
1948年(S23)北海道アイヌ協会、機関紙「北の光」創刊
1960年(S35)北海道アイヌ協会、札幌市において再建大会開催。野村義一、常務理事・書記長に就任する。
1961年(S36)「北海道アイヌ協会」、「北海道ウタリ協会」と名称変更
1964年(S39)野村義一、北海道ウタリ協会理事長に就任。1996年まで、32年間理事長を勤める。
1984年(S59)北海道ウタリ協会、総会で「アイヌ民族に関する法律(案)」(略称「アイヌ新法案」)を決議。
▲空白は1950年代の10年間とわかりました。 反動と生活再建の10年間でした。60年安保で日本社会は息を吹き返しました。北海道アイヌ協会も。(2022.12.15)
wikipediaレッドパージ
第二次世界大戦終結後、日本の占領政策を担ったGHQは民政局(GS)を中心に、 治安維持法などの廃止、特別高等警察の廃止、内務省と司法省の解体・廃止などの、日本の民主化を推進し、 主要幹部が刑務所から釈放された日本共産党も、初めて合法的に活動を始めた。 中国大陸では国共内戦で毛沢東率いる中国共産党が優勢になると、 アジア・太平洋地域の共産化を恐れるジャパン・ロビーの動きが活発化し、 日本では、GHQの主導権がGSから参謀第2部(G2)に移り、共産主義勢力を弾圧する方針に転じた。
wikipedia国鉄三大ミステリー事件
国鉄三大ミステリー事件とは、連合国軍占領下の日本において1949年(昭和24年)の夏に相次いで発生した、 日本国有鉄道にまつわる真相に謎が残る三つの事件の通称[1]。
1949年1月の第24回衆議院議員総選挙では日本共産党が35議席を獲得した。そうしたなかで、1949年(昭和24年)の 下山事件、三鷹事件、松川事件といういわゆる国鉄三大ミステリー事件が、 日本共産党と国鉄労働組合が仕組んだという情報が流れたため、日本共産党・共産主義者排斥を容認する風潮が作られた。
wikipediaレッドパージのつづき
1950年5月3日、マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において 日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日にマッカーサー書簡を受けた 吉田内閣は閣議で日本共産党中央委員24人[注 1][6]、及び機関紙「アカハタ」幹部17人の公職追放を決定し、 アカハタを停刊処分にした[7]。これにより、20日後の6月26日から徳田球一、野坂参三、志賀義雄、伊藤憲一、 春日正一、神山茂夫の6人は国会議員として失職することになり、高倉輝は第2回参院選で当選したものの直後に 公職追放となり当選無効と扱われた[8] 。

以   上
     昭和二十一年 月 日
            北 海 道 廰 厚 生 課 内
      社 團 法 人 北 海 道 ア イ ヌ 協 會
     理 事 長   向   井  山   雄
▼抑制がきき、道理を弁えた歎願書で却って日本人として恥ずかしくなります。 アイヌ民族の「夢ニダニ忘レ得ラレヌ唯一ノ希望」の実現に協力するのが我々日本人の責務だと思います。 
▼四萬町歩=4萬ha=400平方q 琵琶湖670平方qの60% ささやかな歎願との印象です。 
▼上記二つのメモは以前に。全文をお読みいただくのは大変と思い今日(2020.4.30)作業しました。 以下 ポイントの要約です。

●三千五百(3,500)戸、人口約一萬七千(17,000)/ 一戸ニ付キ土地一萬五千坪(15,000坪=面積五町歩) 以内ニ限リ無償下付/ 無償下付スル土地ハ未開発地ニ限ルトノ規定ガアル爲メ 從來永住シ占有中ノ既墾地ハ折角ノ保護法ニヨル恩典ニ浴スル能ハズト

●同族ノ最モ多キ日高支廰管内ニ於テ舊土人保護法ニヨリ下付サレタル 給與地ヲ參考ニ供シマスト
總面積一千八百三十八町四反四畝十九歩ニシテ(1838町4419)總戸數一千五百十六(1516)戸デスカラ 一戸當リ平均一町二反一畝(1町21)/ 本道ノ農家ハ沃土デアツテモ面積五町歩(5町歩)以下デハ經營經濟ガ成立セヌ

●浦河町字西舎ニ日高種馬牧場ヲ創設/同族ガ其占有地 ニシテ未ダ所有權獲得ノ手續ヲセザリシモノハ是ヲ無償デ没収セラレタ/ 所有權獲得ノ手續ヲ了シタルモノハ 舊土人保護法ニヨリ賣買ヲ禁ジラレテアル爲メ替地ト稱シ農耕全々不可能ナ同町東幌別ノ山岳地ニ移サレル

●新冠村デハ新冠御料牧場ノ創設ニ際シ 是レ又アイヌ同族ガ父祖以來占有シ安住シ來ツタ廣大肥沃ナ農耕地及ビ放牧地ヲ 御料地ニ編入シ百數十戸ノアイヌ同族ハ農耕ニヨリ生活不能デアル遠隔ノ地 沙流郡上貫氣別ノ深山高岳地帶ニ轉住ヲ強ヒラレタ

●道内デモ浦河ト新冠ノ同族ガ有シテ居ツタ土地ハ極メテ肥沃ナ土地
●心ナキ和人ハ事毎ニ侮蔑シ、劣等視シ、自己ハ大和民族トシテ世界ニ冠タル優秀民族ナルガ如キ誤ツタル 優越感念ニ捉ハレアイヌ民族ニ加ヘタル壓迫暴擧ハ枚擧ニ遑ナイ程
●二千戸/ 一戸ニ付キ五町歩/ 農耕地一萬町歩 ト 放牧地三萬町歩 計四萬町歩
●日高種馬牧場並ニ新冠御料牧場ハ廢止セラレ全面的解放サレルヤニ承リマシタ

それにしても「五、日高國浦河町ト新冠村ニ居住スル同族ノ亨ケタル土地ノ處置」は酷すぎます。 アイヌモシリ回復訴訟はここから入って充分争えると考えます。(2020.4.30)

▲山川力『政治とアイヌ民族』135p 「アイヌ民族の現在を、そして明日を考えるばあいには、みおとしてはならない文字のひつつひとつであろう。」
(拡大)
▲同感。山川さん、熱い。(2022.12.9)

「民族の集団的権利」その4
山川力『政治とアイヌ民族』137p〜138p 「アイヌ民族がこうむった、そしてこうむりつつある 不平等、差別が、あたらしく憲法をつくる作業のなかにもちこまれ、検討されたことが、 なにがしかでもあるのであろうか。」
この指摘は大変重要。これからでも遅くはない。(2022.12.10)



新札幌市史:民族としての復権をめざして
733 〜 735 / 1021ページ
 敗戦まもない昭和二十一年二月二十四日、日本の民主化を背景に、アイヌ民族有志の自主的な呼びかけにより、 静内町で社団法人北海道アイヌ協会の創立総会が開かれ、道内各地の代表をはじめとする約七〇〇人のアイヌ民族のほか、 北海道庁や北海道大学などから多数の来賓の参加があった。
三月十三日、正式に社団法人北海道アイヌ協会(以下アイヌ協会と略)として認可された(北海道ウタリ協会 50年のあゆみ 平8)。
 ところで、アイヌ協会の定款(昭21・3・26登記)によれば、総則で「本会ハ社団法人北海道アイヌ協会ト称ス。 本会ハアイヌ民族ノ向上発展、福利厚生ヲ図ルヲ以テ其ノ目的トス。本会ハ事務所ヲ札幌市ニ置キ各所ニ支部ヲ置ク」と、目的を明確にしていた。
札幌市にアイヌ協会活動の拠点を置いた理由は、全道会員への伝達を図るのに機能的役割をもっていたからである。
目的を達成するための事業として「教育ノ高度化」「福利厚生施設ノ協同化」「共有財産ノ醸成及其ノ効果的運用」「農事ノ改良」 「漁業ノ開発」「其ノ他右ニ関連スル一切ノ事業」の六項目を掲げていた。
これらのなかで、「教育ノ高度化」を一番目に掲げているのは、アイヌ協会の『昭和二十二年度事業計画書並に昭和二十二年度収支予算書』のなかで、 「ウタリが文化民族として世界水準に達するためには子弟の教育」が重要であり、将来は学界・実業界・政界・その他各分野にアイヌ民族が 輩出することへの願いが込められていたことが知られる。
なお、アイヌ協会の機関誌として『北の光』創刊号が、二十三年十二月十日刊行され、 奥付の住所には「札幌市北二条西五丁目六番地」となっていた。 『北の光』の発刊目的は、札幌市の本部から各市町村の支部への「指導連絡」手段であったと思われる。
 アイヌ協会は、二十一年設立以来二十三年にかけて精力的に、国や北海道庁に対して「北海道旧土人保護法」 (以下「保護法」と略 明32・3制定)の改正やアイヌ民族の給与地に関しては、農地改革法の適用外農地への請願・陳情を繰り返し行った。 特に、二十二年十二月付の「北海道アイヌ民族所有農地ニ関スル嘆願」では、「請願ノ要旨」として 「北海道アイヌ民族ノ所有ニシテ其面積五町歩以内ノ農地ニ対シテハ、自作農創設特別措置法、並ニ、農地調整法ヲ適用セヌ様、 立法措置ヲ講ゼラレタキコト」との文言があり、適用した場合にはアイヌ民族が犠牲となってますます貧困生活から脱却出来ないこと、 この現象は社会問題であり、人道上の問題であって「保護法」の精神に反すること等を強く訴え、 適用外の措置を請願した (社団法人北海道アイヌ協会代表=向井山雄よりダグラス・マッカサー元帥宛文書 北海道ウタリ協会 アイヌ史 資料編3所収)。 このため、二十三年までアイヌ協会の幹部は陸続と上京し、請願運動を行った。しかし、アイヌ民族の期待に反して結局のところ、 一旦は保留していた買収計画は、北海道庁農地部から「旧土人の給与地と雖も一般同様取り扱え」といった、市町村農地委員会宛通牒により、 一気に買収が断行され、同年六月現在、全道の給与地総面積五八四二町歩余のうち農地改革法による買収地の給与地は総面積に対し 二三・八パーセントを占め、これに回収見込み不能貸付地は同総面積に対し一七パーセントの割合を占めたことから、 両地合わせて四〇・八パーセントを喪失する結果となった(北の光 創刊号)。
▲歎願、請願では日本政府は動かない。アイヌ民族は骨身にしみてるはず。MIP回復運動は自力で裁判と世論で現状を変える。 (2023.11.2)
二十三年のアイヌ協会総会以後、記録に残るような活動はほとんど見られないまま、三十五年(1960)四月、札幌市内水産会館における 「再建総会」に至る。翌三十六年度の総会では、「協会名称の『アイヌ』は民族の差別意識を深める憾(うら)みがある」 (昭和三十六年度北海道アイヌ協会総会記録 同前 北海道アイヌ協会・北海道ウタリ協会活動史編)といった理由から 「北海道ウタリ協会」に名称変更した。やがて、三十八年(1963)には、機関誌として『先駆者の集い』創刊号が刊行されるに至る。 これについては、北海道ウタリ協会『アイヌ史 北海道アイヌ協会・北海道ウタリ協会活動史編』に詳しいので参照されたい。 『先駆者の集い』創刊号を刊行した三十八年には、会員数は四二〇人に過ぎなかったが、第2号刊行の四十六年(1971)十月には、 会員数一万一一七人に増加し、三四支部・七支庁四市へと広がった(社団法人北海道ウタリ協会『50年のあゆみ』(平8)によれば、 平成八(1996)年一月一日現在、会員数四一四二世帯、一万五八八二人(一世帯4人弱)、五七支部をもつ、アイヌ民族最大組織である)。
▲15,882人はアイヌ民族のほぼ全員。北海道アイヌ協会は現在会員数は約2000世帯と聞いているので8000人ぐらいの組織だろうか。 アイヌ民族の1/2を結集していることになる。「アイヌモシリの会」の目標も見えてきた。(2023.11.2)

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1947年(S22)
農林省と北海道長官に「新冠御料牧場」の1万7千町歩解放要求、
解放された「新冠御料牧場」姉去にアイヌ民族22戸入植決定
アイヌ民族の有志、衆議院選、知事選、道議選に出馬
  「北海道旧土人保護法」改正(2条の2削除)2条の2・質権、抵当権、地上権、永小作権
▼なぜ1万7千町歩解放要求なのか。
思うに17,000人のアイヌ一人当たり1町歩という計算か?  1万7千町歩=17,000ha=170平方q
「新冠御料牧場」は全体で38,455haだと思われる(「新冠御料牧場沿革誌」地籍は9頁)。 新冠御料牧場沿革誌; 出版者: 新冠御料牧場; 出版年月日: 明29.7;(国立国会図書館デジタルコレクションの「新冠御料牧場沿革誌」より)
9頁に明治26年12月31日現在の牧場の地積と面積が記載されている。
新牧場8,532町歩 旧牧場28,772町歩 ペラリ1,058町歩 牧草地61町歩 耕地32町歩 合計38,455町歩
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』(514頁)に「嘗て同地から他の地域に強制移住させられたアイヌの内、 平取村7戸、様似村2戸、荻伏村1戸、新冠村11戸、静内村1戸のアイヌに旧新冠御料牧場内の土地が与えられ、 ここに新冠御料牧場の解放運動は大きな成果をあげて解決するに至ったのである(『北の光』創刊号)。」との記述があります。
にわかに信じられないおもいです。歎願書で四萬町歩を要求していたアイヌ協会が どれだけの土地を確保できたか知りたいです。
1948年(S23)
国連総会で「世界人権宣言」採択
北海道アイヌ協会、機関紙「北の光」創刊、
▼以下は  呆け天 2020年05月11日  http://boketen.seesaa.net/archives/202005-4.html
からの転載です。 川嶋康男『ラストアイヌ 反骨のアイヌ歌人森竹竹市の肖像 』より(2020.10.4)


「北海道アイヌ協会」の設立に常任幹事として参与した森竹竹市は協会機関紙『北の光』創刊号に 「あいぬ民族の明確化」と題する一文を寄せた。
「私共アイヌ民族は、自分たちこそは真正日本人である自覚の下にアイヌ民族の誇りをもって平和日本建設の為にスタートを切ろう。
嘗て侮蔑の代名詞として冠せられたアイヌー自分たちもさう呼ばれることに依って限りない侮辱感を抱かせられた此の民族称を、 今こそ誇りを以て堂々と名乗って歩かう。(中略)
時々詠草(じじえいそう)
アイヌてふ名をば誇りに起ち上がり
奴隷の鎖 断てよウタリー等
侵された掠められた土地を還せよ
ウタリーは起てり強く雄々しく 」
ときに森竹竹市44歳、激しい主張であり、叫びです。
▲このとき既に森竹竹市さんは土地の返還を主張しておられる。(2022.12.15)
「青年弁論大会」開催
登別温泉に療養所「北星寮」設置
1950年(S25)「レッドパージ」
1951年(S26)
「日米安保条約」調印
「ILO」・[先住民労働者の権利に関する専門部会]再開
*先住民族の権利についての研究
1952年(S27)「破防法」成立
1953年(S28)厚生省、「地方改善事業費」計上(環境改善事業共同浴場作業場)
1954年(S29)防衛庁・自衛隊発足
1955年(S30)北海道、「熊祭り禁止」を通達(全道支庁長、市町村長宛)
イオマンテとは何か?(拡大) 『北方文化論』河野広道著作集T 233頁
▼「日本における北方研究の再検討」北海道大学教授 煎本孝(いりもとたかし)
「熊祭りの背景にある世界観は、人間と神との間の互酬性の反復―すなわち狩猟対象動物とは肉と毛皮をかぶった神であり、 これらを土産物として人間に贈り、人間からは拝礼を受け、木幣、酒、黍餅などの土産物を受け取り、 再び人間界を訪問することを招請されながら神の国に帰還する―という論理によって成り立っている。 この世界観は広く北方ユーラシアと北アメリカ諸文化に共通するものである。」
▼このような高い思想を持つ熊祭りを何故禁止するのか。私には理解できない。 (のちに禁止が解除されたようだが)
▲右『北方文化論』河野広道著作集T 233頁より。「イは物、オマンテは送る。イオマンテは「物送り」の義。「熊祭」と訳するのは誤り。」(2021.9.24)
1956年(S31)「ILO」・[独立国における先住民の生活労働状況に関する報告書]提出
1957年(S32)
「ILO・107号条約」採択
「独立国における種族民又は半種族民で、その社会的及び経済的状態がその国の共同社会の他の部類の者が到達している段階より低い段階にあり、 かつ、その地位が自己の慣習もしくは伝統により又は特別の法令によって全部又は一部規制されているものの構成員」 (第1条(a))を保護しながら、同化させるねらいを持っていた。(アイヌと和人の関係にあてはまる。北海道旧土人保護法と同じ。)
▼「Convention concerning the Protection and Integration of Indigenous and Other Tribal and Semi-Tribal Populations in Independent Countries」( 独立国における土民並びに他の種族民及び半種族民の保護及び同化に関する条約)採択(全文37条)
▼Integration=全体の中に包み込む、つまり同化する。この時点ではILOもまだこういう認識だった。
2021.1.27朝日夕刊(拡大) 北海道179の市町村 アイヌ語由来
 約8割
小泉信一さんの記事
今につながる運動の開始
1960年(S35)北海道アイヌ協会、札幌市において再建大会開催
野村義一、協会常務理事・書記長に就任する。
▲新しい動き。(2022.9.12)
▲1950年代の10年間反動の嵐だったようだ。(2022.12.15)
1961年(S36)
金成(かんなり)マツ (拡大)
知里真志保
厚生省予算の中に初めて「ウタリ福祉対策費」計上
・「不良環境地区改善施設整備費補助」
新札幌市史第5巻通史5(上)494ページ民族としての復権をめざして
「北海道アイヌ協会」、「北海道ウタリ協会」と名称変更
▲新しい動き。(2022.9.12)
▲アイヌを嫌いウタリに。この頃の空気の反映。1964年に野村義一さん、理事長に。変わっていく。(2023.10.30)
・北海道、初めて北海道ウタリ協会に運営費補助(10万円)
▲小バカにした金額。(2022.9.12)
金成マツ(85)、死去     知里幸恵へ
知里真志保(52)、死去
1962年(S37)
「日高地区ウタリ実態調査」7月
(北海道日高支庁・北海道ウタリ協会日高地区各支部)
「うせない荘」建設(翌年竣工・S44売却)
1963年(S38)北海道ウタリ協会機関紙「先駆者の集い」創刊
1964年(S39)
北海道ウタリ協会事務局を北海道庁社会課内に置く(事務局員1名)
▲組織が自立出来ない。(2022.9.12)
北海道ウタリ協会、北海道の委託を受け、授産事業技術指導を行う
1968年ころの
アイヌの若者の意識


「消えていくのがアイヌの幸福」(拡大)
▲悲しい。知里幸恵さんから46年の現実。(2022.11.9)
野村義一、北海道ウタリ協会理事長に就任する[1]。1996年まで、32年間理事長を勤める
1968年(S43)
▲右の資料は1968年出版『現代のアイヌ』著者 元朝日新聞記者 菅原幸助さん。(2022.11.9)
飯島秀明ー『現代のアイヌ』を読む
「私の部落にも純粋のアイヌはいなくなりました。和人との混血がふえ、 和人との結婚をくりかえしているうち、アイヌは消えてゆくというのがアイヌの幸福をつくるあり方だと思います。」
▲1968年出版。この現実。愕然とする。ユポさんも40歳から活動と聞く。50年前はこれがアイヌ社会の空気。 (2023.10.30)
新札幌市史
北海道、開道100年祝典開催
国の行政管理庁より「北海道旧土人保護法」廃止の見解を求められる、北海道民生部、時期尚早と反対
*「北海道旧土人保護法」改正(7条削除)
・「不良住宅改良」援助廃止
1969年(S44)
シャクシャイン死後300年、静内にてシャクシャイン顕彰会設立(以後毎年、シャクシャイン法要祭開催)
北川大さん (拡大)
1669年「シャクシャインの戦い」
▼300年後シャクシャインが蘇った!戦いの再開。国連・国際世論を後ろ盾にしながら。 (2020.7.5)
▲『アイヌが生きる河』218p
「戦後のアイヌをめぐる状況を調べていくと、60年代後半まで、 まるで星一つない漆黒の闇夜のような時代であったかのようだ。」北川大さん、感性すばらしい。
『同書』230p〜232p
「シャクシャイン供養祭はアイヌ復権運動の揺り篭となった。」
(2022.8.21)

▲今考えている「アイヌモシリの会」はシャクシャインの魂の継承。(2022.9.6)
自民党参議院議員西田信一、国会でアイヌ問題をとりあげる。
・秋田大助自治相、「同和対策特別措置法」附則に「アイヌに準用」と書き込むかを、北海道ウタリ協会に下問(ウタリ協会断る)
1970年(S45)
全道市長会、「北海道旧土人保護法」廃止決議
北海道ウタリ協会、「北海道旧土人保護法」廃止反対決議 
*国連、人権委員会、人権小委員会委員エルナン・サンタクルス 「政治的・経済的・社会的及び文化的領域における人種差別の研究」最終報告書提出 
・「先住民族の権利」についての研究
エルナン・サンタクルス
世界人権宣言の歴史 ― 2018年は採択70周年
起草小委員会のメンバーを務めていたエルナン・サンタクルス(チリ)は、次のように記しています。
「私には、人間の至上の価値に関するコンセンサスが生まれた、まさに歴史上の一大事に参加しているというはっきりとした認識がありました。
その価値は、世俗的な権力者の決定ではなく、人間の存在という事実それ自体に由来するものであり、 これによって、欠乏や抑圧のない状態で暮らし、それぞれの個性を十分に育むという不可侵の権利が生まれたのです。
大会議場では…全世界から集まった男女の間に真の連帯感と友愛の雰囲気が漂っていました。 それはいかなる国際舞台でも、私が二度と目にすることのなかった光景でした」
1971年(S46)
「ウタリ福祉基金」の創設計画発表(3億円)
佐藤総理大臣(西田国務大臣同席)、厚生大臣、自民党三役陳情
@子弟の教育 A 住宅 B 生活基盤の安定 C基金の創設
「二風谷アイヌ文化資料館」落成 
札幌支部結成
 札幌市に道内各地から仕事を求めてウタリ(同胞)が集まるようになったのは、昭和三十年代後半からである。 四十六年(一九七一)十二月十二日、呼びかけ人小川隆吉の「ウタリ協会石狩支部結成会へのおさそい」に応えて札幌市民会館で最初の会合があり、 同月二十二日有志二二人によって石狩支部が結成された。
「結成会へのおさそい」文で、「いまなおつづく大小の差別と偏見、生活の苦しみをなくするため、 わたくしたちが味わった苦い経験を二度と、弟や妹、子供たちにはさせない、そして平和で豊かな生活を平等な権利をえるために、 おたがい語りあい、はげましあいたい一心からこうしてよびかけております」と、熱い思いを伝え、 千歳・石狩・恵庭・札幌在住のウタリが中心だったので石狩(のち札幌)支部とし、 会則も次の四カ条を掲げた(祝賀会 支部結成10周年記念 昭57)。
 @生活上の悩みを出しあい助けあっていく。
 A健康で文化的な生活をするため制度の活用を。
 B仕事上のことで困っている事等を相談し助け合っていく。
 Cアイヌ文化を守り発展させる。
*国連、人権委員会、ホセ・マルチネス・コーボ(エクアドルの人権専門家)を特別報告者に任命。 「先住民に対する差別問題の研究」1972年に予備報告書提出
1972年(S47)
宇梶静江さん
72年(38歳ー引用者)2月8日、朝日新聞の家庭欄には、こんなタイトルの投稿
〈ウタリたちよ、手をつなごう〉
「生きるか死ぬかという思い、それぐらいつらい公表だった」
73年には「東京ウタリ会」を設立し、アイヌの権利獲得のための活動を始めた。連日、都議会に出向くなどした結果、 75年、東京都で初のアイヌ実態調査が行われた。さらに都に掛け合い、職業安定所にアイヌのための職業相談員を置くことを認めてもらった。 自らが相談員になって、あちこちの会社に求人の有無を聞いて歩いた。 新聞へ投稿した38歳から還暦を過ぎるまでのおよそ四半世紀。
▲たぶん北海道での動きと自身の内面の鬱積が呼応する形での爆発であったように感じる。(2023.10.31)
1972年 開拓史観への抗議事件

平山『地図でみる』185p
▲個々の抗議の仕方に問題があるかも知れないが 歴史的現象としては当然の流れ。(2022.9.12)(拡大)
「財団法人北海道ウタリ福祉基金」創設(1998年解散)
「北海道ウタリ生活実態調査」実施(北海道民生部)
「旭川アイヌ協議会」発足
*沖縄祖国復帰
*「日中共同声明」
1973年(S48)
「北海道ウタリ対策協議会」第1次「北海道ウタリ福祉対策」決定(8月)
日本社会党「アイヌ民族対策特別委員会」設置(36名)(のちに「アイヌ民族問題特別委員会」) 
自由民主党「北海道代議士会・ウタリ対策推進委員会」設置(15名) 
日本共産党「アイヌ問題対策委員会」設置
1974年(S49)
北海道ウタリ協会事務局を、道民生部から北海道立社会福祉館に置く
第1次「北海道ウタリ福祉対策」実施 
5月「北海道ウタリ対策関係省庁連絡会議」設置(10省庁)
根室市・イチャルパ
ノッカマップイチャルバ
1974年から毎年9月末に、根室半島のノッカマップというところで「イチ ャルパ」 (アイヌ語で供養祭という意味)という催しが行われています。 寛政元 (1789年)のクナシリ・メナシの戦いの犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )の供養のために、 アイヌの人たちが中心になって祭事が催されています。

1789年はフランス革命が起こった年でもありました。蝦夷地でこのような戦いが起こったことも偶然ではなく、世界史の流れの中でとらえようとする考え方もあります。 この戦いは、決して楽しい歴史ではありませんが、北海道にとっても日本にとっても、そしてアイヌ民族の歴史にとっても、大変重要な出来事でした。そして根室市にとっても忘れてはならない歴史ですので、ここに掲載いたしました。 更新日:2018年03月01日
▲根室市のHP。比較的良心的に記述されている。 根室市のアイヌ政策はどのようになっているか興味ある。(2022.12.28)
1976年(S51)
財団法人アイヌ無形文化伝承保存会設立
日教組大会において「アイヌ系日本人」を「アイヌ民族」に
1978年(S53)
「北海道旧土人保護法」・「北方領土」特別委員会設置(ウタリ協会)
シャクシャイン記念館落成(日高郡新ひだか町静内真歌(まうた))
北海道ウタリ協会事務局を道立社会福祉総合センター内に置く
1979年(S54)
「北海道ウタリ生活実態調査」実施(第2回・北海道民生部)
北海道ウタリ協会「アイヌ問題解決のための特別委員会」設置 
・日本政府.国連.「国際人権規約」A.B批准 
▼「国際人権規約」A.Bは当HP「国連基準」を参照してください。
                           トップへ戻る  
1981年(S56)
「北海道ウタリ対策協議会」
第2次「北海道ウタリ福祉対策」実施(〜1987)
第1回沖縄戦没者キムンウタリの塔慰霊祭実施
コーボ報告書「第1次進捗状況報告書」国連人権委員会
*勧告
・先住民族には、固有の権利があること
・「先住民族の権利宣言」を作ること
・そのワーキング・グループを作ること
・先住民の「国際年」を作ること(1992・コロンブス)
▼wp:沖縄戦で北海道出身の兵士が多数戦死しており、その中にアイヌも数含まれていることから、 北海道ウタリ協会が、南北之塔で1981年にイチャルパ(供養祭)を実施し、 その後、1985年・1990年・1995年・2000年・2005年にも実施されている。 アイヌと沖縄の友好のシンボル。「キムンウタリ(kimun-utari)」とは、「山の同胞」という意味。 北海道弟子屈町出身のアイヌ文化伝承者、弟子豊治(てしとよじ)が所属していた部隊が通称「山部隊」と呼ばれていたことによる。
▼キムン:山へ入る、山行き。キムンというと山へ行くというよりも狩りに行く、 すぐにそう思うのが普通である。(『萱野茂のアイヌ語辞典』209頁)
1982年(S57) 北海道ウタリ協会、総会で北方領土の「先住権」・留保を表明
「北海道旧土人保護法」の廃止と、「新法制定」を総会決議
1982年に始まった「アイヌ新法」制定運動は、主体性の点でアイヌ民族史の視点からも画期的であった。 起草作業を副理事長であった貝澤正を座長に開始した。(上村論文210p)
▲基本の一致。こころ強い。(2023.1.26)
「北大医学部アイヌ人骨資料」の返還を求める
「高校教科書検定問題」で文部省に抗議書提出
・文部省、社会科教科書執筆者懇話会、教科書出版会社に対し、高校教科書のアイヌ記述改善を申し入れる

国連として先住民族問題を討議する初めての機関である「先住民族作業部会」が設置 (2006年11月、「先住民族作業部会」での起草開始から20年以上を経て、「宣言」案はようやく国連総会に提出された。藤岡 美恵子 (ふじおか みえこ) )

*un.orgコーボ報告書
「第2次進捗状況報告書」国連人権委員会 
コーボ報告書1 (拡大)
報告書2 (拡大) 報告書3 (拡大)
wikipedia:コーボ報告書
379 先住のコミュニティー、民族及び国民とは、自己の生活領域において発達した、侵略前及び植民地化前の社会と 歴史的連続性を有し自己の領域又はその一部において現在優勢であるところの 社会のなかの他の部分と自己を異なるとみなす者である。
先住住民は、現在、社会の被支配的部分を構成し、並びに民族としての存在が連続していることを基礎として、 その先祖伝来の領域及び民族のアイデンティティーを、自己自身の文化様式、社会制度及び法制度に従って、維持し、 発展させ及び将来の世代に伝えることを決意している。

380 この歴史的連続性とは、次に掲げる要素のうち一以上が、 現在に至るまでの長期にわたる期間において連続していることにより構成することができる。
(A)先祖伝来の土地の占拠又は少なくともその一部の占拠。
(B)(A)に言う土地の始原的な占拠者との祖先の共有。
(C)一般的な意味での又は特殊な表現による文化、(例えば宗教、部族制度の下での生活、 先住民族コミュ ニティの構成員であること、衣服、生活様式など。)
(D)言語(唯一の言語として、母語として、家庭若しくは家族における習慣的なコミュニケーション手段として、 又は重要な、優先的な、習慣性的な言語として使用されているかどうかを問わない)。
(E)国の一定の部分又は世界の一定の地域における居住。
(F)その他の関連ある要素。
381 個人を基準とした場合には、先住民族個人とは、先住民族としてのアイデンティティ ーによって 上記の先住住民に帰属し(集団的自覚)、かつ、その構成員の一人として、 これらの住民により認知され及び受容される(集団による受容)者である。
382 このために、これらのコミュニティーには、外部の干渉なしに、 誰がコミュニティーに帰属するかを決定する至高の権利及び権力が保持される。

wikipedia:先住民族の定義
*国連・人権委員会「先住民作業部会=WGIP」による「先住民族の定義」
1「先住民族とは、別の地域から異文化、異なった民族的起源を有する人々がやってきて、 地元住民を支配、定住その他の手段によって圧倒し、彼らの人口を減少させ、 非支配的な立場、もしくは植民地的な状況へ追い込んでしまった時代に、 現在の居住地域かその一部地域に生活していた人々の現存する子孫たちのことである。
先住民族は現在、主として支配的な人々の集団の民族的、社会的、文化的特徴を取り入れた国家構造のもとで、 彼ら自身を取り込んでしまっている国家の諸制度よりはむしろ、彼ら自身の社会的、経済的、文化的習慣や伝統に従って生活していることが多い。」
2「征服されたり、植民地化された苦しみを味わっていなくとも、国内において孤立しているか、 または辺境へ追いやられた集団についても、以下のような理由により先住民族という概念の枠内でとらえられるべきであろう。
(A)彼らは、異文化や異なった民族的起源をもつ他の集団がその地へやってきた時代に、国内に住んでいた集団の子孫である。
(B)国民の他の部分から隔離されていたため、彼らは祖先からの習慣と伝統をほとんど無垢のままに保存してきた。 それらは「先住民族」として特徴づけられるているものに類似している。
(C)彼らは、少なくとも形式上は、自分たちとは無縁の民族的、社会的、文化的特徴を取り込んだ国家構造の下におかれている。」

*「世界銀行」(4.20, 1991)による「先住民族の定義」
1先住民族は、多くの場合、地理的に隔絶した地域にすみ、文明に適しておらず、文字を使用できず、 貨幣経済の浸透もなく、特殊な環境に依存する経済基盤をもっている。
2隔絶の程度や文化の浸透の程度によって先住民族を四つのグループに分けている。
3まだ接触のない部族の生存を確保し、国内における交流をより活発な段階へ押し上げ、部族の開発を促進すること。

*「世界先住民族会議」(World Council of Indigenous People; WCIP)による「先住民族の定義」
「私たち先住民族とは以下のような集団である。
私たちの現在住んでいる土地に古い時代より住み続け、 祖先から引き継いだ土地に結びつけられた社会的伝統と表現の手段、 および独自の言語を保持するという特徴をもち、さらに特定の民族への強固な帰属意識を抱かせるような 基本的かつ独自の特徴をもつことを自覚している集団のことである。 そして民族としてのアイデンティティを有し、それゆえに他者から峻別される集団のことである。」

*UNHRC(United Nations Human Rights Council)国連人権理事会による「先住民族の定義」
1 征服者によって蹂躙された領土のもともとの住民の子孫である。
2 移動または半移動民。
移動耕作者、牧畜民、狩猟民、採集民であったりする。
労働集約的な農業形態をとり、余剰を生むことはほとんどなく、エネルギーの必要度も低い。
3 中央集権的な政治制度を持っておらず、共同体レベルで組織がつくられており、全員の同意をもとに決定がなされる。
4 少数民族の特徴をすべて有している。
共通の言語、宗教、文化、識別可能な諸特徴と特定の土地との結びつきなど。 しかし支配的な文化・社会によって圧倒されつつある。
5 土地と天然資源を保護し、物資中心主義的ではない態度からなる世界観をもち、支配社会によって与えられた開発とは異なる開発を追求する。
6 自分たちを先住民族と見なしており、集団にも先住民族として受け入れられている個々人を構成員とする。

*「ILO169号条約」(1989年)による「先住民族の定義」
 1 この条約は、次のものに適用する、
(A)独立国における種族民であって、その社会的、文化的、及び経済的な条件が、 その国民社会の他の部門と異なり、かつその地位が全部又は一部それ自身の慣習もしくは伝統、 又は特別の法律もしくは規則によって規律されている者 
(B)独立国における民族であって、征服もしくは植民地化又は現在の国境が画定されたときに、 その国又は国の属する地域に居住していた住民の子孫であるために先住民族と見なされ、 かつ、法律上の地位のいかんを問わず、自己の社会的、経済的、文化的及び政治的制度の一部又は全部を保持している者
2 先住民族又は種族民としての自己認識が、この条約の規定が適用される集団を決定するための根本的な基準とみなされるべきである。
▼種族民=tribal peoples ▼民族=peoples ▼先住民族=indigenous peoples
▼先住民族又は種族民としての自己認識=Self-identification as indigenous or tribal 
▼コーボ報告書へ至る過程
wp:1971年に国際連合人権委員会の下部組織である少数者の差別防止および保護に関する国連人権小委員会 (現:国際連合人権促進保護小委員会)が先住民族差別に関する調査を勧告し、ホセ・マルチネス・コーボを特別報告者として任命した。
1982年にコーボ特別報告者によって「先住民への差別問題に関する調査報告書」が提出 (1972年に予備報告、1981年に第一次進捗報告、1982年の報告についで、1983年には最終報告)され、 この報告に基づいて国際連合先住民作業部会 (Working Group on Indigenous Populations; WGIP) が設置された。


▼北大大学院小内(おない)透教授の論文、見つける。(2020.5.11)
先住民族の復権の動き
1970年代に入ると、先住民族の運動は次第に国民国家の枠組みをこえ、「第四世界」の運動と 言われるようになった。

1973年には、グリーンランド、北カナダの先住民とサーミによりコペンハーゲンで北方民族会議(Arctic Peoples Conference)が開催された。
彼らは、その場で先住民族の土地や水に対する権利や生存権を表明し、世界先住民族会議を結成することが決められた(庄 司 1991: 877)。
この北方民族会議は、北方地域における先住民の国際活動の始まりとされ(Jentoft, Minde and Nilsen eds. 2003: 25)、

1975年にはグリーンランドおよびカナダのイヌイットと北欧の サーミが世界先住民族評議会(WCIP)を組織するまでになった。

「第四世界」の運動と相前後して、国際的に先住民族の権利を検討する動きも強まった。

1971年には、国際連合人権委員会の下部組織である「少数者の差別防止および 保護に関する国連人権小委員会」が先住民族差別に関する調査の実施を勧告し、エクアドル出身のホセ・マルチネス・コーボが 特別担当官として任命された。
コーボは1972年から先住民族差別に関する調査を開始し、同年に予備報告、1981年に第一次進捗報告、 続いて1982年に世界の先住民がおかれた状況に関する報告書(『先住民に対する差別問題の研究』)を提出した2)。 同年、これにもとづいて、国連の経済社会理事会(ECOSOC)が国際連合先住民作業部会(WGIP)を立ち上げた。 同作業部会は先住民族の権利に関する議論を開始し、翌1983年にはこの部会に先住民の代表が参加することとなった。

アイヌ民族も1987年から同部会に参加するようになった。同作業部会が発足してから20年以上にわたる議論の末、 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(2007年)がまとめられた。
 この間、1989年に先住民族の土地と水に関する権利の保障を盛り込んだILO第169号条約(「独 立国における先住民族および種族民に関する条約」)が成立し、1990年6月19日、ノルウェーがこ の条約を最初に批准した。その後、中南米の国を中心に批准国が増加し、2013年1月現在22か国が 批准している3)。

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2020.2.16朝日新聞朝刊
▲駒木さんの記事はすばらしい。
「日本政府もまた、北方領土問題で、史実を曲げる主張を重ねてきた。特に問題なのは、51年のサンフランシスコ 講和条約で日本が放棄した「千島列島」に国後、択捉は含まれないという主張を今も続けていることだ。当時、日本政府が両島をあきらめていたことは 史料などで明らかだ。」
▲しかしよく考えてほしい。元々「千島列島」はアイヌ民族が先住民。
このことを無視して日本もロシアも領土問題を議論することがおかしい。
国際法上、ロシアに帰属しているのであればロシアがアイヌ民族を先住民として尊重すべし。(2020.5.24)
▲この時の思いが「179市町村議会で……」の陳情につながっている。(2023.3.6)
駒木明義論説委員
ウクライナ問題では疑問
2022.7.4朝日朝刊
(拡大)

山川力「樺太、千島をめぐる先住アイヌ民族の復権要求に日ロのだれが耳を傾けたか。」30p
▲まさに今、田澤さんと得平さんでこの問題に取り組む準備をしているところ。(2023.3.4)

千島列島のアイヌ民族先住に関する資料
(拡大)1983年5月北海道ウタリ協会

1984年を記念して
1983年(S58)
北海道ウタリ協会、定例総会において「北方領土」問題に関する基本方針を確認 「全千島における先住民族であるアイヌ民族の地位を再確認する」
「北海道についても先住者がアイヌであったことを明確にすべきであること」
「アイヌ史編集委員会」設置
「北海道アイヌ古式舞踊連合保存会」設立
「二風谷アイヌ語教室」開設
1984年(S59)
北海道ウタリ協会、総会で「アイヌ民族に関する法律(案)」(略称「アイヌ新法案」)を決議。 先住民族宣言ともいうべき、画期的内容の歴史的文書。アイヌ協会において初めて「先住民族法律」提言。
前文・本法を制定する理由(重要)
1・基本的人権.
2・参政権.
3・教育・文化.
4・農業・漁業・林業・商工業等
5・民族自立化基金.
6・審議機関
北海道知事、北海道議会に陳情、関係機関に協力要請(7・12)
「北海道アイヌ古式舞踊」国の文化財に指定
第1回「北海道大学医学部アイヌ人骨イチャルパ」実施
北海道知事の諮問機関、「ウタリ問題懇話会」第1回開催
*「アイヌ民族に関する法律(案)」の具体的な考え方 ―なぜアイヌ民族に関する法律を求めるのか―社団法人北海道ウタリ協会より提案 
▼「アイヌ民族に関する法律(案)」全文を掲載いたします。
▼昨日、亀戸でユポさんにお会いしました。その際「アイヌ民族に関する法律(案)の具体的な考え方」(40頁)を頂きました。条文理解を助けるものです。 茶色の文字で書き込みます。(2020.11.8)
成田得平さん

▲「アイヌ新法案」の起草者の一人、1943年生まれ(当時41歳)。(2023.2.25撮影)
野村義一理事長1914年生まれ(70歳)。
貝澤正副理事長1912年生まれ(72歳)

(拡大)
▲「アイヌ新法案」の起草は貝澤正さん、成田得平さん、もう一人は?『アイヌが生きる河』241p(2022.8.21)

アイヌ民族に関する法律制定についての陳述書 昭和五十九年七月十二日   
陳述団体 社団法人北海道ウタリ協会 理事長 野村義一

当協会は、アイヌの民族的権利の回復を前提にした人種差別の一掃、民族教育と文化の振興、 経済自立対策など、抜本的かつ総合的な制度を確立する必要があるという基本的な考え方に立脚して、 明治三十二年に制定された北海道旧土人保護法を廃止し、新法を制定すべく検討を重ねて参り、 この程別添のとおり成案を得ましたので実現方について特段のご配慮をいただきたく陳述を申しあげます。
                    記
陳述の要旨
一、明治三十二年制定の北海道旧土人保護法は、アイヌ民族差別であり、廃止すること
ニ、北海道旧土人保護法による多年にわたった民族の損失を回復するために、別添「アイヌ民族に関する法律(案)」を制定すること
三、「アイヌ民族に関する法律(案)」の制定は、北海道旧土人保護法の廃止と同時とすること
理由
別記のとおりである
________________________________________
アイヌ民族に関する法律(案)
昭和五十九年五月二十七日   社団法人北海道ウタリ協会総会において可決
前文
この法律は、日本国に固有の文化を持ったアイヌ民族が存在することを認め、 日本国憲法のもとに民族の誇りが尊重され、民族の権利が保障されることを目的とする。

本法を制定する理由
先住民族 山川力「いまアイヌ新法を考える」91p新撰北海道史(拡大)
北海道、樺太、千島列島をアイヌモシリ(アイヌの住む大地)として、固有の言語と文化を持ち、共通の経済生活を営み、 独自の歴史を築いた集団がアイヌ民族であり、徳川幕府や松前藩の非道な侵略や圧迫とたたかいながらも 民族としての自主性を固持してきた。
明治維新によって近代的統一国家への第一歩を踏み出した日本政府は、先住民であるアイヌとの間になんの交渉もなく アイヌモシリ全土を持主なき土地として一方的に領土に組み入れ、 また、帝政ロシアとの間に千島・樺太交換条約を締結して樺太および北千島のアイヌの安住の地を強制的に棄てさせたのである。
土地も森も海もうばわれ、鹿をとれば密猟、鮭をとれば密漁、薪をとれば盗伐とされ、 一方、和人移民が洪水のように流れこみ、すさまじい乱開発が始まり、アイヌ民族はまさに生存そのものを脅かされるにいたった。
アイヌは、給与地にしばられて居住の自由、農業以外の職業を選択する自由をせばめられ、 教育においては民族固有の言語もうばわれ、差別と偏見を基調にした「同化」政策によって民族の尊厳はふみにじられた。
戦後の農地改革はいわゆる旧土人給与地にもおよび、さらに農業近代化政策の波は零細貧農のアイヌを四散させ、 コタンはつぎつぎと崩壊していった。
いま道内に住むアイヌは数万人、道外では数千人といわれる。その多くは、不当な人種的偏見と差別によって 就職の機会均等が保障されず、近代的企業からは締め出されて、潜在失業者群を形成しており、 生活はつねに不安定である。差別は貧困を拡大し、貧困はさらにいっそうの差別を生み、生活環境、 子弟の進学状況などでも格差をひろげているのが現状である。
現在行われているいわゆる北海道ウタリ福祉対策の実態は現行諸制度の寄せ集めにすぎず、 整合性を欠くばかりでなく、何よりもアイヌ民族にたいする国としての責任があいまいにされている。
いま求められているのは、アイヌ民族的権利の回復を前提にした人種差別の一掃、民族教育と文化の振興、 経済自立対策など、抜本的かつ総合的な制度を確立することである。
2021.1.15朝日朝刊 半藤一利さん(拡大)
「半藤さんは、近代日本が犯した多くの誤りを書き残していかなきゃいけないと遺言のように言っていた。いろいろな国に迷惑をかけたことの 歴史的総括をやっておかないと日本信用されない、と。」(保阪正康さん)
▲その一つがアイヌ民族問題(2021.8.3)

2021.1.14朝日朝刊 半藤一利さん(拡大)
民主主義のすぐ隣にファシズムはある
▲至言(2021.8.8)

日本社会に向けられた課題 山川力「いま、アイヌ新法を考える」(拡大)
アイヌ民族問題は、日本の近代国家への成立過程においてひきおこされた恥ずべき歴史的所産であり、 日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる重要な課題をはらんでいる。 このような事態を解決することは政府の責任であり、全国民的な課題であるとの認識から、 ここに屈辱的なアイヌ民族差別法である北海道旧土人保護法を廃止し、新たにアイヌ民族に関する法律を制定するものである。
この法律は国内に存住するすべてのアイヌ民族を対象とする。
▲「政府の責任であり、全国民的な課題である」、和人の課題と明言されている。 同和対策審議会答申「早急な解決こそ国の責務であり,同時に国民的課題である」(昭和40年8月11日 1965年)と似た発想。(2023.3.4)

第一 基本的人権
アイヌ民族は多年にわたる有形無形の人種的差別によって教育、社会、経済などの諸分野における 基本的人権を著しくそこなわれてきたのである。
このことにかんがみ、アイヌ民族に関する法律はアイヌ民族にたいする差別の絶滅を基本理念とする。

第二 参政権
  特別議席の提案
山川力「いまアイヌ新法」を考える106p
▲得平さん「当然のことを書いたまで」 2023.3.5本人に確認(拡大)
  憲法学の課題
山川力「いまアイヌ新法」を考える108p
▲ともかく実質を獲得したい。時間がない。議論は学者に任せたい。江橋崇教授(1942年生まれ)の見識は立派。(2023.3.5)
市民立憲フォーラムでの江橋発言
(拡大)
明治維新以来、アイヌ民族は「土人」あるいは「旧土人」という公式名称のもとに、 一般日本人とは異なる差別的処遇を受けてきたのである。明治以前については改めていうまでもない。
したがってこれまでの屈辱的地位を回復するためには、国会ならびに地方議会にアイヌ民族代表としての議席を確保し、 アイヌ民族の諸要求を正しく国政ならびに地方政治に反映させることが不可欠であり、 政府はそのための具体的な方法をすみやかに措置する。

第三 教育・文化
北海道旧土人保護法のもとにおけるアイヌ民族にたいする国家的差別はアイヌの基本的人権を著しく阻害しているだけでなく、 一般国民のアイヌ差別を助長させ、ひいては、アイヌ民族の教育、文化の面で順当な発展をさまたげ、 これがアイヌ民族をして社会的、経済的にも劣勢ならしめる一要因になっている。
政府は、こうした現状を打破することがアイヌ民族政策の最重要課題の一つであるとの見解に立って、 つぎのような諸施策をおこなうこととする。
1 アイヌ子弟の総合的教育対策を実施する。
2 アイヌ子弟教育にはアイヌ語学習を計画的に導入する。
3 学校教育および社会教育からアイヌ民族にたいする差別を一掃するための対策を実施する。
4 大学教育においてはアイヌ語、アイヌ民族文化、アイヌ史等についての講座を開設する。 さらに、講座担当の教員については既存の諸規定にとらわれることなくそれぞれの分野における アイヌ民族のすぐれた人材を教授、助教授、講師等に登用し、アイヌ子弟の入学および受講についても 特例を設けてそれぞれの分野に専念しうるようにする。
5 アイヌ語、アイヌ文化の研究、維持を主目的とする国立研究施設を設置する。 これには、アイヌ民族が研究者として主体的に参加する。
従来の研究はアイヌ民族の意思が反映されないままに一方的におこなわれ、 アイヌ民族をいわゆる研究対象としているところに基本的過誤があったのであり、 こうした研究のあり方は変革されなければならない。
6 現在おこなわれつつあるアイヌ民族文化の伝承・保存についても、問題点の有無をさらに再検討し、完全を期する。

第四 農業漁業林業商工業等
農業に従事せんとする者に対しては、北海道旧土人保護法によれば、一戸当り15,000坪(約5ヘクタール)以内の交付 が規定されているが、これまでのアイヌ民族による農業経営を困難ならしめている背景にはあきらかに 一般日本人とは異なる差別的規定があることを認めざるをえない。北海道旧土人保護法の廃止とともに、 アイヌ民族の経営する農業については、この時代にふさわしい対策を確立すべきである。
漁業、林業、商工業についても、アイヌの生活実態にたいする理解が欠けていることから 適切な対策がなされないままに放置されているのが現状である。
したがって、アイヌ民族の経済的自立を促進するために、つぎのような必要な諸条件を整備するものとする。
農業
1 適正経営面積の確保
北海道農業は稲作、畑作、酪農、畜産に大別されるが、地域農業形態に即応する適正経営面積を確保する。
2 生産基盤の整備および近代化
アイヌ民族の経営する農業の生産基盤整備事業については、既存の法令にとらわれることなく実施する。
3 その他
「具体的な考え方」農用地面積 一般(9.28ha)アイヌ(3.4ha)
 施策:国及び道有地開放 農地取得資金の特例 負債整理資金の新設

▼国及び道有地開放、ではないでしょう。先住権で当然でしょう。(2020.11.12)
漁業
1 漁業権付与
漁業を営む者またはこれに従事する者については、現在漁業権の有無にかかわらず希望する者にはその権利を付与する。
2 生産基盤の整備および近代化
アイヌ民族の経営する漁業の生産基盤整備事業については、既存の法令にとらわれることなく実施する。
3 その他
「具体的な考え方」専業漁家 全道(32.6%)アイヌ(89%)
 施策:定置漁業権・区画漁業権・共同漁業権の特例付与 入漁権の特例付与 負債整理資金の新設

▼特例付与、ではないでしょう。先住権で当然でしょう。(2020.11.12)
林業
1 林業の振興
林業を営む者または林業に従事する者にたいしては必要な振興措置を講ずる。
商工業
1 商工業の振興
アイヌ民族の営む商工業にはその振興のための必要な施策を講ずる。
労働対策
1 就職機会の拡大化
これまでの歴史的な背景はアイヌ民族の経済的立場を著しくかつ慢性的に低からしめている。 潜在的失業者とみなされる季節労働者がとくに多いのもそのあらわれである。 政府はアイヌ民族にたいしては就職機会の拡大化等の各般の労働対策を積極的に推進する。

第五 民族自立化基金
従来、いわゆる北海道ウタリ福祉対策として年度毎に政府および道による補助金が予算化されているが、 このような保護的政策は廃止され、アイヌ民族の自立化のための基本的政策が確立されなければならない。 参政権の確保、教育・文化の振興、農業漁業など産業の基盤政策もそのひとつである。
これらの諸政策については、国、道および市町村の責任において行うべきものと民族の責任において行うべきものとがあり、 とくに後者のためには民族自立化基金ともいうべきものを創設する。
同基金はアイヌ民族の自主的運営とする。 基金の原資については、政府は責任を負うべきであると考える。 基金は遅くとも現行の第二次七ヵ年計画が完了する昭和六十二年度(1987)に発足させる。
「具体的考え方」22頁〜39頁に詳述。民族自立化基金の原資は政府が用意する。その利息で
1自立更生助成対策 
2就労安定対策
3産業振興対策 
4福祉対策
5住宅対策 
6教育・文化振興対策 
7組織活動推進対策
の事業を民族の責任において自主的に運営する、となっている。
これに要する年間の必要経費は約110憶円。これを基金の利息で捻出するというもの。
▼民族自立化基金の経費の内訳を「具体的考え方」22頁〜39頁を読んでみました。生活の多岐にまでわたり、アイヌの人たちの 日々の生活に直結した政策で、しかも予算も控え目な金額で概ね妥当と思いました。 これは是非実現していくべきものと考えます。(2020.11.9)
「具体的考え方」の試算では昭和62(1987)年時点の1年定期の利率は3.76%なので2,935憶円の 基金の創設となっている。2020年現在は0.25%なので4兆4000億円になる。つまり金利が15分の1なので基金が15倍になってしまう。
「民族自立化基金」の根拠。
@明治以降の日本政府によるアイヌ民族の土地の取り上げ、生活・文化の破壊といったアイヌ民族の犠牲の上で、
A明治期の武士階級の大混乱を収拾するために、
B天皇制の財政基盤の確立のために、
Cさらに先の大戦後の引揚者の受け入れのために、
といった近代日本の歴史の中での北海道の果たした役割を考え、 現在500万人を超える日本人が北海道で生活している現実を踏まえれば、「民族自立化基金」の創設は政府として当然の責任である。(2020.11.10)
▼基金の総額に関して発想の転換。
「具体的考え方」でいくと1987年時点では1年定期預金の金利で110憶円の年間対策費を考えると2,935憶円の基金が必要になる。 それが低金利の2020年では4兆4,000億円となってしまう。しかし発想を変えて1年定期預金の利息ではなく、長期の年金基金の運用のように考えると2%ほどの運用益は可能である。 とすると必要な基金は5,500憶円となる。原資は当然、国が出す。(2020.11.11)
(拡大可)
▼アイヌ民族自立化基金給付・貸付の推移(試算)
年間対策費の内訳は給付金37憶円、貸付金73憶円の合計110憶円となっている。基金の運用利回りを2%とすると、当初5,500憶円の基金が必要
27年後に貸付の償還がはじまり貸付は償還金でまかなえるようになる。37憶円の給付のためには1,850憶円の基金で足りる。 つまり5,500憶円の基金を3,650憶円減少させることができる。詳細は右表。27年後の「アイヌ民族自立化基金」には1,850憶円の基金と1,898憶円のアイヌの人たちへの貸付の債権(詳細参照) の合計3,748憶円の資産で当初から予定されていた110憶円の事業が継続されることになる。
基金を減少させないで給付を37憶円から110億円に増額させることも考えられる。(2020.11.13)
▼「民族自立化基金」の創設を裁判でも主張していきたい。謝罪の具体化の一つ。(2020.11.10)

▼「民族自立化基金」を考えるに際しての一つのイメージ。
「民族自立化基金」から予定されている年間の必要経費は110憶円。110憶円は北海道の人口約530万人、道民一人当たりにすると2,100円。 アイヌモシリに住まわせてもらう地代として年間一人当たり2,100円とも考えられる。 (2020.11.10)
ウィキペディア県民経済計算 奴隷補償
北海道のGDPは2017年度は19兆4,301億円。自立化基金の毎年の必要経費110億円は北海道のGDP比で1万分の5.7。 つまり1万円稼げば「年貢」として5.7円納めるということ。(2021.4.29)


 
「アイヌ民族に関する法律(案)」を決定した
北海道ウタリ協会総会

(『アイヌ民族の歴史』p563)

第六 審議機関
国政および地方政治にアイヌ民族政策を正当かつ継続的に反映させるために、つぎの審議機関を設置する。
1 首相直属あるいはこれに準ずる中央アイヌ民族対策審議会(仮称)を創設し、 その構成員としては関係大臣のほかアイヌ民族代表、各党を代表する両院議員、学識経験者等をあてる。
2 国段階での審議会と並行して、北海道においては北海道アイヌ民族対策審議会(仮称)を創設する。 構成については中央の審議会に準ずる。


▼アイヌ民族に関する法律(案)は素晴らしい!
▼この案と2019年4月18日に成立した「アイヌ新法」を比較検討すること。(2020.5.1)

▲山川力『政治とアイヌ民族』224p「アイヌ民族はこのあたらしい法律の制定を民族の統一目標としてしんぼうづよく じりじりと前進しつつある。」(1989.9.8)
民族の統一目標ではあるが、今では実現を放棄してしまったのが北海道アイヌ協会。だからもう一度これを掲げる、 つまり先住民の権利として。MIP回復運動として。(2022.12.9)

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1985年(S60)
(拡大)
UNDRIP獲得への長い道のり 上村英明

UNDRIPまでの道のり

1987年 野村義一理事長、国連先住民作業部会(UNWGIP)に参加。中曽根発言に抗議、 アイヌ新法制定運動を国際社会に報告。これ以降アイヌ民族は毎年代表団をジュネーブに送る。

1991年 UNWGIPのエリカ・イレーヌ・ダイス議長の日本視察

1992年 「国際先住民年」野村義一理事長の記念講演

1993年 リゴベルタ・メンチュウ・トゥム「国際先住民年親善大使」の来日

1994年 萱野茂、国会議員に。

1995年 日本政府「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」設置

1996年 ウタリ懇の報告書。アイヌ文化の振興、伝統的生活空間の再生。

1997年 3月、二風谷ダム判決。7月「文化振興法」。アイヌ民族の文化活動がしやすくなったことを否定しないが、 「アイヌ新法案」のうち実現したものは6項目のうち0.5項目の「文化」にすぎなかった。「先住権」は認められていない。

2007年 国連先住民族権利宣言(UNDRIP)

2008年 洞爺湖サミット。衆参両院で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」採択。 「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」設置。

2009年 「有識者懇談会」報告書提出。「アイヌ政策推進会議」設置

2019年 4月「アイヌ施策推進法」制定。

(上村論文211p〜212p)

▲簡潔によくまとめられている。1991年〜1997年の動きが力強い。2007年のUNDRIPを生かせていない。我々がやる。(2023.1.27)
北海道ウタリ協会「ウタリ会館(仮称)建設特別委員会」設置
アイヌ肖像権裁判提訴(原告 内藤美恵子)
1986年(S61)
創立40周年記念式典・祝賀会開催
北海道、「北海道ウタリ生活実態調査報告書」発刊
中曽根総理大臣、「単一民族発言」
ILO理事会、107号条約改正問題審議
*コーボ報告書「最終報告書」国連人権委員会「先住民族に対する差別問題の研究」第5巻
“結論、提案及び勧告” “国際的観点からの先住住民の定義のための見解”
1987年(S62)
北海道ウタリ協会、スイス・ジュネーブ「国連人権委員会」第5回「先住民族作業部会」初参加、 以来国連関連会議に継続参加
▼ゴルバチョフ書記長1985年。解放同盟第三期運動・IMADR1988年設立。このような流れが出てきた時期にウタリ協会の 国連活動がはじまった。(2020.7.5)
「ウタリ問題懇話会」今後のウタリ福祉対策について報告
「アイヌ語教室」設置、(平取・旭川) 
*5月、ILO理事会、107号条約改正問題につき各国政府に80項目にわたる質問状送付(9月30日回答締切)
*日本政府、11月4日北海道ウタリ協会に送付、11月16日回答期限
*ウタリ協会、政府に回答送付(11月16日)
*日本政府、ILOに今回は回答しないと連絡(12月)
▼日本政府の不誠実な対応。許しがたい。
1988年(S63)
*「ウタリ問題懇話会」アイヌ民族に関する新法問題について、 新しい法律制定の必要性を提言、知事に報告書提出(3・22)
*{アイヌ民族が求める、2.参政権(特別議席)、3.教育権、4.農林・漁業・林業・商工業等を外す}
▼懇話会の答申の本文、「アイヌ語が国会に響く」248頁で読む。先住権を根拠にした、と常本教授は解説するが内容は生活権に密着していない。 (2021.1.29)
*北海道ウタリ協会、総会で再決議
第3次「北海道ウタリ福祉対策」実施(〜1994)
北海道議会、「アイヌ民族に関する新法問題について」採択
北海道知事、北海道議会、北海道ウタリ協会の三者で「アイヌ新法」制定を国に要請(11・14)
*{アイヌ新法制定運動盛り上がる}
「アイヌ肖像権裁判」和解
*6月、北海道ウタリ協会、独自に「ILO」に80項目を回答 
*北海道議会決議・7月28日「アイヌ民族に関する法律制定についての要望意見書」  
1989年(H元)
二風谷ダム建設、行政不服審査法による審査請求・執行停止の申立(申立人、貝沢正、萱野茂)
政府「アイヌ民族に関する新法問題についての検討委員会」設置(北海道ウタリ対策関係省庁連絡会議)
「ILO169号条約」成立
・先住民族の定義(第1条)
・植民地化、国境画定、自己認識、強制同化政策
・土地権(第13条、第14条、第16条)、資源権(第15条)、領土権
* 日本民族学会研究倫理委員会
「『民族』の規定にあたっては、言語、習俗、その他の文化的伝統に加えて、 人々の主体的な帰属意識の存在が重要な条件であり、この意識が人々の間に存在する時、 この人々は独立した民族とみなされる。アイヌの人々の場合も、主体的な帰属意識がある限りにおいて、 独自の民族として認識されなければならない。」
▼「ILO169号条約」の正式名 Convention concerning Indigenous and Tribal Peoples in Independent Countries 独立国における原住民及び種族民に関する条約(全文44条)
▼北海道庁のHP『アイヌ文化振興法制定までの歩み』から
北海道「ウタリ問題懇話会」の知事への報告書の概要
報告では、北海道旧土人保護法及び旭川旧土人保護地処分法の二つの法律を廃止し、 次のような内容を含む「アイヌ新法(仮称)」を制定することを提言しています。

1 アイヌの人たちの権利を尊重するための宣言
日本国憲法のもとでアイヌの人たちの権利が尊重され、社会的・経済的地位が確立されるよう権利宣言を定めること。

2 人権擁護活動の強化
アイヌの人たちに対する差別が存在している現状を改善するために、人権擁護活動の強化を図ること。

3 アイヌ文化の振興
アイヌ語やアイヌ文化の継承・保存並びに普及に関する活動を援助し、 アイヌ民族文化を総合的に研究する国立のアイヌ民族研究施設を設置すること。

4 自立化基金の創設
アイヌの人たちの自立的活動を促進するために、「アイヌ民族自立化基金(仮称)」を設置すること。
なお、基金の運営にはアイヌの人たちの自主性が最大限に確保され、国の適正な監督が及ぼされるものとする。

5 審議機関の新設 アイヌ民族に係る民族政策、経済的自立を図るための産業政策を継続的に審議するため、アイヌ民族の代表を含む審議機関を新設すること。

▼知事の諮問機関の「ウタリ問題懇話会」よ、あなた方はアイヌ問題の核心がどこにあるか少しも分かっていない。 それとも分かりながら意図的に核心を外しているとしか思えない。
1990年(H2)
北海道ウタリ協会、第1回「アイヌ民族文化祭」開催
国連、1993年を「国際先住民族年」とすることを決議
ネイティヴ・アメリカンにとっての「コロンバス・デー」
「アメリカインディアン運動(AIM)」などによって、毎年この日(10月12日)になると全米各地で抗議行進やデモが行われていて、 その際多数のネイティヴ・アメリカンが逮捕されている。 また、この休日の名称そのものの変更を要求するネイティヴ・アメリカン団体「コロンバス・デー変更同盟」 (The Transform Columbus Day Alliance)も運動を強めている。
1990年夏, 全世界から350の先住民の代表者がエクアドルのキートに集い、 コロンバス・デー500周年祝いを阻止するため、第一回アメリカ先住民国際会議を開いた。 翌年の夏、カリフォルニア州デービスに100種族以上のアメリカ先住民が前年度エクアドル会議のファローアップ会議として集合。 彼らは、500周年に当たる1992年10月12日を「国際先住民結束の日」と宣言した。
▼このようなアメリカ先住民の活動を今日はじめて知りました。(2020.7.27)

北海道新聞「銀のしずく−アイヌ民族は、いま」連載開始(1年半)
「北海道立北方民族博物館」(網走市)開館
カナダにて「スパロウ判決」
▼wp:カナダ最高裁判所による重要な判決のひとつであり、先住民であるファーストネイションの人びとの権利を、 1982年憲法法第35項のもとで憲法の理念に基づいて定着させようとするはじめての試みとなった。 最高裁は、漁業権のような先住民権は、1982年以来現存しており、カナダ憲法のもとで保護され、 政府のカナダの先住民への信託の義務をめぐる事由・根拠の正当化なしに侵害されてはならないとの判断を示した。
▼この判決の先住民権の考えはアイヌの人たちのさまざまの先住民権の回復に役立つと思う。
「自治権」、「土地権」、鮭等の捕獲権、熊・鹿等の狩猟権、各種木本・草本の採集・利用権、言いかえれば河川・山の利用権等。 アイヌから奪われた 「先住民の権利」とは何か 杉田聡 帯広畜産大学教授(哲学・思想史より)
▼杉田論文「先住民の権利」とは何かは素晴らしいです。クリックしてみてください。(2020.7.27)
▼金属資源情報 2014年42号 カナダにおける先住権原に関する歴史的判決とその影響 クリックしてみてください。勉強になります。(2020.6.19)
1990年:R. v. Sparrow, 1 S.C.R. 1075
・ 1982年憲法§35が1982年4月17日以前に失効させられていない全ての先住民の権利を合法的に保護し、 これらの権利に関して英国王に信任義務を課すと判じた。同法廷はまた、同憲法§35の下では、同セクションが保護の対象とする権利は、 2つのテストをパスすることによってのみ制限することができる。
1)“説得力のある、または実質的な”目的を実現する法律によらなければならない。
2)英国王に対して課される信任義務の下で、当該法制が侵害される先住民の利益に優先することを説明しなければならない。

         

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1991年(H3)
政府、関係省庁により「アイヌ新法問題検討委員会」を設置
政府、国際人権規約に基づく第3回報告書でアイヌ民族を初めて日本の少数民族と認める(但し先住民族とは認めず)
*国連先住民作業部会エリカ・イレーヌ・ダエス議長一行アイヌ民族の地位視察のため来日。 東京・札幌にてシンポジウム開催。(日本国憲法98条について言及)
▼98条2項 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
1992年(H4)
北海道ウタリ協会野村義一理事長、国連「世界の先住民の国際年」開幕式典で記念演説
(12・10)オーストラリア・キーティング首相、アボリジニーに謝罪
オーストラリアにて「マボ判決」
朝日新聞「コタンに生きる―‘93国際先住民年に向けて」連載開始
*北海道議会決議・10月14日「アイヌ民族に関する法律の早期制定を求める意見書」
「無主の地」テラ・ヌリウス 年表参照 明治5年
▼wp:マボ判決は、移民が移住してきた時のオーストラリアは、「無主地(テラ・ヌリウス)」だったという従来の考え方を否定し、 先住民たちが先住権原をもっているとして世界で初めて承任された判決。
テラ・ヌリウスについて調べました。 大阪大学大学院のHPです。
「テラ・ヌリウスterra nulliusラテン語で無主の地、誰のものでもない土地を意味する。
国際法では、一般的に、誰も住んでいない地域、または住民が系統だった政府組織を発展させておらず、 土地を改良し耕作していない地域を指して用いられる。ニューサウスウェールズが白人により発見され植民が行われたとき、イギリス政府はその地域をテラ・ヌリウスであると考えていた。
アボリジナルがヨーロッパ人の感覚での土地の所有を行っていなかったからである。 その土地が(イギリス人の定義による)テラ・ヌリウスであるならば、その土地を発見し所有した最初のヨーロッパ人がその土地の所有権を得ると、 イギリス人は信じていた。
連邦最高裁判所は1992年、コモン・ロウに基づく土地の所有権が先住民にあることを認め、 白人による植民が始まった頃のオーストラリアがテラ・ヌリウスだったという考え方を認めない判決を下したとされる。」 (清水寿夫)

▼1990年代に入って先住民に対する空気が明らかに変わってきた。
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1993年(H5)
国連.「国際先住民族年」
*リゴベルタ・メンチュウ・トゥム(ノーベル平和賞受賞者)北海道招待
▼wp:リゴベルタ・メンチュウ・トゥム(Rigoberta Menchu Tum, 1959年1月9日 )はグアテマラのマヤ系先住民族の1つキチェ族の人権活動家・実業家である。 1991年、メンチュウは先住民族の権利に関する国際連合宣言を協議する作業部会に加わった。 1992年にノーベル平和賞、1998年にアストゥリアス皇太子賞国際協力部門を受賞した。
1994年(H6)

▼ここに収められている講演記録は主に1995年5.15〜1996年6.15のアイヌ文化講座での問題提起 とシンポジウムの発言ですです。極めて貴重な記録です。今回の訴訟に大変役に立つと思います。 (2021.1.30)(拡大)
萱野茂質問1 216p 1994.11.24
参議院内閣委員会(拡大)
萱野茂質問2 219p
アイヌと協議をしたのか(拡大)
萱野茂質問3 220p 政府説明員まともに答えていない。(拡大)
萱野茂質問4 223p 政府はアイヌを先住民族と認めない。(拡大)
萱野茂質問5 224p 先住権が怖いのだ。
(拡大)
















萱野茂、参議院議員に繰り上げ当選
社会・さきがけ・自民、連立内閣発足(村山内閣・五十嵐広三官房長官)
自由民主党「内閣部会・アイヌ問題検討小委員会」設置(8月)
自民・社会・さきがけ連立与党「アイヌ新法検討プロジェクトチーム」発足
「北海道立アイヌ民族文化研究センター」(札幌市)開設
国連.第一次「世界の先住民族の国際10年」開始(1994年12月〜2004年12月)
1995年(H7)
政府、「ウタリ対策の有り方に関する有識者懇談会」設置(当事者のアイヌ民族委員が参加していない委員会)
第4次「北海道ウタリ福祉対策」実施(〜2001)
「人権教育のための国連10年」開始(1995〜2004)
1996年(H8)
「有識者懇談会」官房長官に報告書提出・「北海道旧土人保護法」の廃止と、新たな「立法措置」提言(4月)
「アイヌ関連施策関係省庁連絡会議」設置
政府、新法と関連施策の主管官庁を、文部省、北海道開発庁、総理府と決定(12月)
北海道開発庁の位置づけは?
民主党「人権保障調査会・アイヌ新法対策作業チーム」設置
「二風谷ダム裁判」札幌地裁で相内俊一教授「先住民族の定義」証言(11月7日)
オーストラリアにて「ウイック判決」
*北海道議会決議・12月9日「アイヌの人たちに係る新たな施策の早期確立と立法措置を求める意見書」
▲12月19日萱野茂さん二風谷ダム裁判で陳述。その内容。(2023.3.8追加)
▼以下は2009年8月5日のアイヌ文化交流センター(frpac=The Foundation for Research and Promotion of Ainu Cultureアイヌ文化財団)でのー 阿部ユポさんの講演「国連の「先住民族権利宣言」とアイヌ民族」からの引用です。
「和田書記官が、日本政府が批准していないこの条約(ILO169 号条約)のこととコーボ報告書を引き合いに出して、 先住民族の国際定義としてはどうかと発言したことに私(阿部さん)は驚きました。
二風谷ダム裁判に、国連の作業部会に一緒に行って和田書記官の発言を聞いた市民外交センターの相内俊一さんが証人として出廷したのです。
相内さんはジュネ ーブから帰ってきた翌日、1996 年 11 月7日に札幌地方裁判所に出廷したのですが、 そこで「私は、ジュネーブで行われた国連人権委員会の先住民族の権利の宣言草案の作業部会に出席して、 昨日帰ってきました。」と言って、裁判長の前で国連の人権委員会や先住民作業部会の説明をしました。
そして、私が今回出席した作業部会で、日本の政府代表の和田書記官がこのようなことを述べていましたと証言したのです。
それまで政府はアイヌ民族が先住民族であるかどうか分からない、先住民族の定義もないと主張していたのですから、 国連でそんなことを発言しているのかと裁判長も驚いたと思います。
1997 年3月 27 日に札幌地方裁判所で二風谷 ダム裁判の判決が出されました。
北海道はアイヌの土地であった、つまりアイヌ民族は先住民族であると言うべきであるという画期的な判決が出たのです。 その判決が出た時に私は本当に相内さんのお陰だと思い ました。」
▼私は本HPで「二風谷ダム裁判」を既に検討していますのでこのユポさんの講演内容は非常によく理解できました。そして納得しました。
▼ユポさんのことば。「私は 96 年以来、年に2回、 スイスのジュネーブで開かれていた国連の先住民の権利宣言作業部会や先住民作業部会に参加し 「先住民族の権利宣言」の採択に向けての活動をしてきました」。
先住民土地権、先住民土地権原 については大阪大学大学院 文学研究科「オーストラリア辞典」から引用させていただきました。
この辞典は、オーストラリアの歴史的人名、地名、歴史の事項、オーストラリアに特殊な用語、 オーストラリアについて書かれた論文などを、検索エンジンを用いて辞典にしたものだそうです。
以下が先住民土地権、先住民土地権原についての解説です。
「この言葉は、オーストラリアにおいては通常アボリジナルの政治運動と土地所有権について使用される。 先住民の本格的な土地権回復運動は1960年代に始まった。
1992年にオーストラリア最高裁判所が、マボウ判決により先住民の土地権の存在を認め、それが公有地において存続していることを確認すると、 連邦政府もこれへの対応を迫られ、1994年に先住民土地権法Native Title Act(マボウ法)が制定された。
1996年の連邦最高裁判所のウィック判決は、マボウ判決より一歩踏み込んでリース契約が存在する公有地においても 先住民の土地権が存続していることを認めた。」(新林秀亮)

▼アイヌの人たちの土地回復運動の参考になります。2019年から始めましょう。
▼アイヌ文化交流センターでの「オーストラリアにおける先住権」 (2002年【1】 8月7日(火) 14:00~15:30. 【2】 8月8日(水) 14:00~15:30. 講師. 京都精華大学教授. 細川 弘明. ) の講演もアイヌ民族の先住権を考えていくうえでとても参考になります。クリックしてご一読ください。
1997年(H9)
「二風谷ダム判決」(3月27日)
土地強制収容は違法、アイヌ民族を「先住民族」と認定
「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(5月14日成立、7月1日公布)
*「北海道旧土人保護法」廃止
*「アイヌ文化の振興」・「アイヌの伝統等に関する知識の普及」を謳った法律が制定されたのは、日本の歴史上初めて
*アイヌ民族が自らの伝統的文化を伝承し、発展させる活動を、誇りを持って積極的に行える状況ができた。
*付帯決議 5・現在、行われている北海道ウタリ福祉対策に対する支援の充実に、 今後とも一層努めること“34億円が、現在12億円。財団も2億円減額。”“道外居住アイヌ民族対象外”
▼以下はこの法律に対するユポさんの批判
復権の道ユポさんメモ
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このメモはユポさんからいただきました。(2021.7.22)
2007.5.14北海道新聞
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1997年、アイヌ文化振興法が制定されますが、10年後の2007年でも課題山積、という村山健記者の記事です。(2021.7.22)
*「アイヌ新法案」骨抜き、6項目の要求のうち、3番目の教育・文化の文化のみの法律
・アイヌ文化振興策のみ
・「先住権」なし
・アイヌ民族の社会的、経済的施策なし
・北海道限定の法律(アイヌ民族政策のローカル化)(46都府県は何もしない.基本方針・基本計画・予算)
▼今日、「アイヌ新法案」を1984年の総会決議以降の経緯を追ってみました。この時点で(1997年)ユポさんが総括しておられるように 「3番目の教育・文化の文化のみ」になっています。昨日、アイヌ民族自立化基金の具体的考え方を勉強して、現在準備中の裁判になんとか 入れられないものかと考えています。(2020.11.9)
*CERD第51会期
・「先住民の権利に関する一般的勧告XXV」決議
(土地の返還.賠償.補償勧告)
*ILO169号条約を指針とせよ
*日本政府、国連規約人権委員会第4回定期報告書提出
「北海道旧土人保護法」の廃止と「アイヌ文化振興法」の制定、「アイヌ文化振興財団」の設立、財源の補助を強調
カナダにて「デルガムーク判決」
▼wp:カナダ先住民であるギッサン・ネイションおよびウェトスウェッテン・ネイションが、 およそ54,000平方キロメートルの土地に対する権原の確認を求めて起こした訴訟。 ブリティッシュ・コロンビア州最高上訴裁判所(最高裁判所)による1997年の判決は、 カナダにおける先住民権の性質をめぐるもっとも決定的な言明として有名。
カナダにおける先住権原に関する歴史的判決とその影響
1997年:Delgamuukw v. British Columbia, 3 S.C.R. 10108
カナダ先住民

・ Calder判決、Guerin判決、Sparrow判決で打ち立てられた原則を統合し、 先住民の先住権原という文脈において適用した判例。 同法廷は英国王と先住民との関係における権利と義務の独特な性質を確認し、 また、先住民の先住権原を独特なものとしている要因が英国の主権宣言に先立つ専有から生じており、 主権宣言以降の無条件財産相続権とは区別されると述べた。そして先住民の先住権原の主張を評価するにあたり、 慣習法と先住民が同等に重視されると述べた。
・ 同判決はまた、先住民の先住権原の内容について正と負の面から要約した。
1)先住民の先住権原は、その態様によらず様々な目的のために排他的に使用・専有する権利を含む。
2)集団としての先住権原であり、将来世代の土地をコントロールし利益を得る権利を奪ってはならない。
・ 同判決はまた、先住民の先住権原に対する制限は、1982年憲法§35の下でSparrow判決に従って正当化されることを確認し、 同正当化行為を“先住民の社会を、それが所属するより広範な政治的コミュニティに和解させる必要な部分”として説明した。
1998年(H10)
日本政府、国連人権委員会でアイヌ民族を先住民族と認めないと発言
「断固拒否」
萱野茂引退表明、次期不出馬宣言(7月満期)
STV「アイヌ語講座」(ラジオ放送)開始
*「アイヌ民族差別図書裁判」提訴 
1999年(H11)
  北海道、「アイヌ文化の振興等を図るための施策に関する基本計画」を政府に提出
*「アイヌ民族共有財産裁判」提訴
▼wp:アイヌ民族共有財産裁判とは、アイヌの資産管理能力の不足などを名目として 北海道旧土人保護法に基づいて従来北海道知事が委託され管理してきたアイヌ民族の共有財産について、 アイヌ文化振興法(H9)に基づいて公告された所有者への返還手続きに対し、現在までの管理・会計状況の不明瞭さ、 金額の算出根拠の不明確さ、対象を申請者のみに限定していること、アイヌ民族の先住権に対する配慮の不備などから、 北海道ウタリ協会札幌支部理事の小川隆吉をはじめとしたアイヌ民族24人がこの返還手続きの無効の確認を求めた裁判。             トップへ戻る
2000年(H12)
  「アイヌ文化振興等施策推進会議」設置、(文部省(文化庁)、北海道開発庁、北海道、北海道ウタリ協会、アイヌ文化振興財団の五者) 
北海道「アイヌ文化振興等施策推進北海道会議」設置
「ウタリ福祉対策検討会議」設置(北海道ウタリ福祉対策)
支庁別アイヌ人口
『アイヌ民族の歴史』拡大可(p603)
日高と胆振で全体の66.7% 15,851人
石狩10.2% 2,424人

2001年(H13) 
1月、中央省庁再編
国土交通省=国土交通省北海道局企画課アイヌ施策室
文部科学省=文化庁
北海道「アイヌの人たちの生活向上に対する推進方策」発表
北海道ウタリ福祉対策に代わる新政策
1生活の安定
2教育の充実
3雇用の安定
4産業の振興
5民間団体の活動促進
*国連・人種差別撤廃委員会(Committee on the Elimination of Racial Discrimination)(CERD)勧告(ILO・国際労働機関)
1.CERD第51会期「先住民の権利に関する一般的勧告XXV」
「土地に係わる権利の認知及び保護ならびに土地の滅失に対する賠償および補償を呼びかけている。 先住民の権利に関する一般的勧告に締約国の注意を喚起する」
2.原住民および種族民に関するILO169号条約を批准すること及びこれを指針として使用することを慫慂する。
*日本政府の姿勢
・先住民族の定義がない(1996年国連WGIP和田一等書記官の先住民族の定義に対する否定的な発言)
・アイヌが先住民族かどうか慎重に判断したい
・ILO169号条約(独立国における原住民及び種族民に関する条約)の批准は問題が多い 
民主党「民主党北海道選出国会議員会・アイヌ民族政策委員会」設置
「FMピパウシ」萱野茂・二風谷地域ラジオ局
▼人種差別撤廃委員会の英語名=Committee on the Elimination of Racial Discrimination)(CERD)
▼WGIP=The Working Group on Indigenous Populations was a subsidiary body within the structure of the United Nations. It was established in 1982,
2002年(H14)
国連、PFII(先住民族問題のための常設フォーラム)設置
(ニューヨーク・国連本部、日本政府、政府委員代表として東大教授・岩沢雄司を推薦)
▼ PFII=The United Nations Permanent Forum on Indigenous Issues
*「アイヌ民族共有財産裁判」札幌地裁却下判決(3月)
*「アイヌ民族差別図書裁判」札幌地裁却下判決(6月)
二つの裁判いずれも札幌高裁に控訴、2004年却下判決


イオル計画(7347)を跨ぎ2006年(8297)に飛ぶ
▼9月12日(土)ユポさんと一緒に東京四谷で弁護士先生にお会いしました。イオルの資料をいただきました。 イオルと先住権の具体的内容を考えはじめました。(2020.9.15)
▼北海道研修旅行を控え、イオル計画を見直しています。先住権を前提としない計画としては精一杯関係者が取り組んでおられる、 との印象をもちました。対象地区7箇所もアイヌの人たちが居住されている地区(根室・オホーツク地区以外の) であることが「北海道アイヌ生活実態調査」確認できました。 逆に根室・オホーツク地区がイオルの対象になっていないのは理由があるかもしれないとおもいました。(2021.3.21)



7箇所(@帯広市、A釧路市、B旭川市、C平取町、D札幌市、E新ひだか町、F白老)のイオル計画
その資料の中の平成17(2005)年7月のアイヌ文化振興等施策推進会議の 「アイヌ伝統的生活空間の再生に関する基本構想」の一節。基本構想 https://www.mlit.go.jp/common/000015024.pdf
イオルの実現のためには、として
・森林については、利用可能な制度等の活用、所有者との契約による栽培など。
・水辺の自然空間における植物 については、河川区域の占用や土地の借用など。
・魚類・動物については、 漁業協同組合との協働や特別許可取得等の活用など。
と書かれています(「基本構想」7頁)。 この基本構想ではアイヌ民族の先住権が全く念頭に置かれていません。話がアベコベなのです。
現在の北海道の制度の中にイオルが入り込むのではなく、 明治維新以前のアイヌモシリ(大地)が先ずあって、そこではイオルが機能している、 そこに後から和人の生活、制度がイオルを邪魔しない程度と範囲で入れさせてもらう、 このように考えるのが筋道。イオルを復活させるのに障害となる現在の和人の制度、法律にはアイヌ民族の先住権が優先する。 そのことの確認と実現を今回の裁判で獲得する。
▲改めてイオル計画を考えていますが、北海道はアイヌモシリ、まずそれを確認すること、つまり国有地の返還、その後の貸与、 その際先住権は当然貸与の対象から除かれる、このような法律構成にするべき。(2022.3.5)

以下インターネットで資料をさがします。
まず出会ったのが十勝圏誘致促進期成会の平成20年(2008)2月「アイヌ文化振興のための十勝圏イオル基本計画」です。

@ 十勝圏イオル基本計画http://www.museum-obihiro.jp/ioru/iwor1.pdf
(拡大可) ▼白老は平成18年度(2006)から実施中。平取は平成20年度(2008)から実施予定となっています。 その他のイオル計画も見ていきます。(2021.3.14)
平成20年2月25日帯広市教育委員会生涯学習部文化課内「伝統的生活空間の再生」 十勝圏誘致促進期成会
取り組みの経緯(拡大可)










1 伝統的生活空間の再生に向けた取り組みの経緯
平成8年(1996)国のウタリ対策あり方に関する有識者懇談会報告書で「伝統的生活空間の再生」提言。
平成9年(1997)「アイヌ文化振興法」制定。
平成11年(1999)北海道、「伝統的生活空間の再生」に関する基本構想策定。
幕別から上士幌へ (拡大可)
平成12年(2000)十勝圏誘致促進期成会発足。
平成14年(2002)北海道、中核イオルを白老、地域イオルを釧路、十勝、旭川、札幌、静内、平取に決定。
平成16年(2004)国、「アイヌ文化伝承方策検討委員会」設置。
平成17年7月(2005)国、「基本構想」策定。促進期成会の構想(幕別町相川・千住地区ー十勝川沿い)の大幅な変更を求められるもの。
平成18年(2006)白老スタート。 平成20年(2008)平取、実施予定。十勝圏は上士幌町上音更地区(かなり山奥)に意見集約。
▼帯広にも近い十勝川沿いの幕別町相川・千住地区構想から約40q北の山奥の上士幌町上音更地区への変更は 無念で、その決断はアイヌの人たちにとっては厳しかったと推察されます。(2021.3.20)
8 規制緩和の措置とイオル特区
自然素材の確保や育成が、一定のルールの下に自由に行うことができるようにするためには、 森林法や河川法など現行法の可能な範囲において規制緩和の許可措置を講じたり、構造改革特別区域法 に基づくイオル特区を創設していくなど、法的な支援も今後必要になってくると考えます。 国などに対し、事業の円滑な推進のため、規制緩和の措置等を要望します。

▼国などに対し、事業の円滑な推進のため、規制緩和の措置等を要望します、ではなく先住権で解決していくべきもの。 イオル計画そのものが国の政策の枠内のもの。いじけている。(2021.3.17)
帯広市アイヌ施策推進計画骨子(案) https://www.city.obihiro.hokkaido.jp/publiccomment/241000/191202ainu_plan_result.data/0219ainu_plan.pdf
北海道が平成29年(2017)にアイヌの人(※)を対象に実施した「北海道アイヌ生 活実態調査」(以下、H29実態調査という。)によると、十勝管内在住のアイ ヌ民族の人たちは、193世帯、406人となっています。
北海道アイヌ生活実態調査 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/ass/H29_ainu_living_conditions_survey_.pdf
▼「生活実態調査」はアイヌの人たちの現状を知るのに貴重な資料です。じっくり勉強します。(2021.3.14)
▼15p「地区調査」に上述の十勝地区 193世帯 406人が出ています。

●3p 世帯数及び人数を(総合)振興局別(管内の市を含む。)でみると、表2(4p)のとおり、
胆振総合振興局  1,970世帯、4,864人(人数構成比37.1%)
(拡大可)

日高振興局    1,762世帯、3,679人(人数構成比 28.0%)
釧路総合振興局  767世帯、 1,566人(人数構成比12.0%)
根室振興局    278世帯、  807人(人数構成比6.2%)
上位4振興局で人数の83.3%(前回調査85.4%)を占めている。

▼右の地図でこの4振興局を見ると太平洋に面している。つまりアイヌ民族は漁労の民ということ。 コタンもこの地域に多く存在した、ということだと思う。(2021.3.15)
●5p 「生活保護の状況」昭和47年調査以降、アイヌ居住市町村保護率との差は連続して減少しているが、依然として差はある。 市町村との差。
昭和47(1972)年6.6倍  昭和54(1979)年3.5倍  昭和61(1986)年2.8倍  平成5(1993)年2.4倍
平成11(1999)年2.0倍  平成18(2006)年1.6倍  平成25(2013)年1.4倍  平成29(2017)年1.1倍

●7p「大学への進学率」については着実に向上してきているが、アイヌ居住市町村の大学進学率とは、いまだ に12.5ポイントの差(前回調査17.2ポイント)がある。
昭和54(1979)年31.1対8.8    昭和61(1986)年27.4対8.1  平成5(1993)年27.5対11.8 
平成11(1999)年34.5対16.1   平成18(2006)年38.5対17.4  平成25(2013)年43.0対25.8 
平成29(2017)年45.8対33.3
▼「生活保護の状況」「大学への進学率」を見ると和人との格差は否めない。政策課題がはっきり見えてくる。 国・道が実行していないだけ。裁判でどのように問題提起するか。糸口をつかみたい。(2021.3.14)
●8p「産業別就業者」
漁業の市町村の構成比が1.0%に対しアイヌは27.8%で圧倒的に漁業への従事者が高い。

▼つまりアイヌ民族は漁労の民である。 にもかかわらず明治政府はアイヌ民族を奥地に追いやり、農耕に従事させ、海、川での漁業を出来なくした。 貧困の原因になっていると思われる。(2021.3.14)
●10p「1戸当たり農用地面積」
アイヌ3.50haに対し全道は23.81ha。

▼アイヌの3.50haを全道のレベルに引き上げるには7倍の面積が必要ということ。 そういう施策が国・道によって採られる必要があることをこの調査は物語っている。(2021.3.15)
●52p「アイヌ語について」
話すことはできないが、少しは知っている + 話すことも聞くこともできない、合わせて92.7%。 

▼これこそ「同化政策」によって奪われた母語の被害が現在もつづいている実態だと思う。(2021.3.14)
▼「生活実態調査」は全部で62頁です。今の国・道庁の政策の枠内の調査です。われわれが問題にしている「アイヌモシリ」の そもそもの返還、回復などの設問はありません。やはり訴訟をやる必要があります。(2021.3.16)

A 釧路市イオル計画 https://www.city.kushiro.lg.jp/kyouiku/shougaigakushuu/shogai/shogai/page00028.html#container
釧路市教育委員会では、2018(平成30)年度から「釧路地域のアイヌの伝統的生活空間(イオル)再生事業」を開始し、令和2年度からアイヌ政策推進交付金事業に移行し、 「伝統的なアイヌ文化・生活の場の再生支援事業」として実施しています。
釧路地域のイオル計画地
釧路地域では、阿寒湖温泉地区と春採湖周辺地区の2地域を中心に、 その特性を生かした事業を展開していきます。

〜イオルとは〜
イオルの概念図 大西秀之論文(拡大)
 かつて、アイヌの人々は、食料や飲み水が得やすく、災害に遭いにくい川沿いや海沿いの場所を選んでチセ(家)を建て、 数軒から十数軒のチセが集まるコタン(村)を形成しながら、その周りに広がる大自然で狩猟や植物採集を行い、生活していました。  アイヌ語でイオルとは、狩猟・採集をする「狩場」という意味で、 そうした衣食住、儀式等、生活に必要なものの多くをまかなう自然の領域、生活圏のことです。
▲知里真志保「地名アイヌ語小辞典」iwor 狩りや漁の場。あるいは生活資料採取場としての山奥または沖合。私には漁、沖合の意味も含まれることが新しい。 (2022.3.4)

阿寒湖
前田一歩園
1906年(明治 39)
土地約 3,200ha 貸付を受け阿寒湖畔に事務所設立
1910年(明治 43)
土地約 3,800ha、無償貸与、売り払いで取得
1 阿寒湖温泉地区
かつて、アイヌの人々にとって狩猟・採集の場(イオル)であった阿寒湖温泉地区とその周辺は、 現在も雄大な自然が残されており、アイヌの儀式・儀礼が盛んに行われています。
ニタイトーの森 https://www.city.kushiro.lg.jp/common/000166555.pdf
▲ニタイトーnitayto 知里真志保「地名アイヌ語小辞典」(ニ=木 タイ=集合 ニタイ=森 ト=湖)(2022.3.5)
▼令和元年度イオル実績報告書 2頁の 「阿寒湖温泉地区ニタイトーの森・環境省所管地園路整備」との記述に出会いました。ここは環境省の所管地なのだ。 当然アイヌの人たちに返還すべき場所。 少なくとも7箇所のイオル計画地はアイヌの人たちに返還すべき。 先住権の内容が一つ具体的になりました。(2021.3.21)                     
春採湖


2 春採湖周辺地区
 市街地にありながら比較的自然が残されている春採湖周辺地区は、海産物を得やすく、また、 アイヌの人々の生活に必要なオオウバユリ、ガマ、イラクサなどの有用植物が自生し、栽培・育成しやすい環境にあるため、 「自然素材育成の拠点」と位置付け、安定的に有用植物を確保できる環境を作ります。
▼釧路市のイオル計画は2018年から着実に実施されている、との印象をもちました。敬意を表します。 この地域の課題を具体的に知りたいとおもいました。「生活実態調査」によると 釧路総合振興局は767世帯、1,566人で、 アイヌ民族が居住する大きな地域です。 (2021.3.18)

B 旭川市イオル計画(2008年以降)
旭川地域のイオル計画地
川は画面右から左の方向へ流れています(拡大可) 旭川地域イオル計画の位置図
(拡大可)
▼鹿の狩猟の場、サケの捕獲の場が設定されている。やっとイメージしていた構想に出会った。これも現行法の規制緩和、特区ではなく先住権として実現 できるように。(2020.9.16)
吉田初三郎旭川鳥観図
2023.6.10見つける(拡大)


旭川地域のアイヌの人々の生活空間とアイヌ文化
▼旭川市のHPはよく歴史を踏まえて書かれています。現在の私の知識でもすんなり受け入れられました。 (2021.3.18)
旭川地形図 「新旭川市史」第1巻
旭川市地形図(拡大)
旭川市の行政体の歴史は、明治23年、上川郡に旭川、永山、神居の3村が設置されてから平成22年までの120年間に過ぎませんが、それ以前には豊かな大自然に育まれたアイヌの人たちの世界と歴史がありました。 神居古潭より上流の石狩川流域に居住していたことから、ペニ ウン クル(川上に・居る・人) と呼ばれていたいわゆる上川アイヌの人たちは、南北30キロ、東西20キロ、面積440平方キロにわたる 北海道最大の上川盆地を中心にした地域を1つのイオル(伝統的な生活の場)としていたといわれております。
▼440平方キロの上川盆地はアイヌの人に返すべき。考え方としてそれが大前提。(2020.9.16)

旭川地域のアイヌ文化
慶長9年徳川家康より蝦夷地支配の黒印状を授けられ成立した松前藩は、中世以来の蝦夷島(北海道) における和人の経済活動を継承して、その主要な経済基盤をアイヌ交易に置きました。 そして幕府よりその独占権を付与されたアイヌ交易を展開するための施策として、 松前地を除く蝦夷島全域を蝦夷地と称して2つに区分しました。

(拡大可) 西蝦夷地と東蝦夷地
1つは亀田村(現函館市亀田地域)から東へ太平洋岸に沿い根室半島を経て知床半島の知床岬に至る地域で、これを東蝦夷地と称し、
もう1つは熊石村(現熊石町)より日本海岸に沿い宗谷岬、さらにオホーツク沿岸から知床岬に至る地域で、 これを西蝦夷地と称しました。

上川アイヌはこの西蝦夷地域に属していました。

この東西の区分はアイヌの人々の移住や拡散、混住などを大きく規制し、現在に繋がるアイヌの文化の違いともなっています。
現在、アイヌの人々の集団が多数存在し、文化や言語が比較的残され、 アイヌ文化として一般に知られているのは東蝦夷地のものですが、西蝦夷地は歴史的に和人の圧迫が激しく、 西蝦夷地のアイヌ文化、方言のほとんどは失われてしまい、唯一、 旭川地域において言語をはじめとする西蝦夷地のアイヌ文化が残されているともいえます。
▼西蝦夷地と東蝦夷地のちがいはこれまでうっすら感じていましたがこの説明で明確になりました。感謝。 (2020.9.16)

オサラッペ川
聖地としての嵐山(都市公園 嵐山公園)
嵐山は上川盆地の西方に位置しています。 嵐山の名称は、山の形と石狩川の流れが京都の嵐山と桂川によく似ているということで付けられたもので、 1965年(昭和40年)に都市公園として設置され計画的に整備が進められております。
嵐山公園の位置(拡大)
公園面積は142.2ヘクタールで、東はオサラッペ川、南は石狩川、西は江丹別川に囲まれた標高100mから275mの丘陵山地には、北海道北部に自生する多くの植物とエゾリス、キタキツネなどの小動物が生息し多くの自然生態系が保たれています。 石狩川に流入するオサラッペ川口の右岸から嵐山公園を含め、それに続く近文山の台地が石狩川に落ちる所までの一帯は、 上川アイヌの人たちが古くからチ ノミ シリ(我ら・祀る・山)と呼び、「聖地」として崇拝してきた地域です。
▼チ ノミ シリはいい場所。こういう場所にアイヌの人たちは住んでいた。(2021.3.18)

国有林・私有林・河川の活用
アイヌ文化に深く関わりのある神居古潭を含めた神居地区 及び江丹別地区の国有林の旭川市地域内の面積は、
約23、750haと広大で、かつ市街地のすぐ側から深い森を形成しています。

3 国有林及び市有林の活用
この国有林野には、アイヌの人々が伝統的に利用してきた樹木等が豊富で、日常的な生活用品や伝統工芸品、住居等の原材料である自然資源の取得の場として最適であるため、国有林野の活用が必要です。

天然林の豊富な旭川市有林は、国有林と同様に市街地近郊に位置しており、江丹別拓北地区に575ヘクタール、江丹別富原地区に300ヘクタール、神居地区に117ヘクタールの面積を有しています。 国有林と同様にアイヌの人々が利用してきたシナノキやキハダを始めとする樹木、ツルの木、実のなる木、 草本類等が豊富に自生しており、自然素材を採取するため市有林の活用を進めます。

4 河川資源の活用
本市には、石狩川、忠別川、美瑛川、牛朱別川を始め大小すべてを含めると162の多くの河川があります。生息する魚類はフナ、コイ、アメマス、オショロコマなど20種類が確認されています。 かつて主要な食料であったサケは、石狩川の堰堤によってほとんど遡上出来ない状況にありましたが、魚道が設置され、サケが除々に遡上するようになりました。しかし、まだ極めて数が少なく捕獲には難しい状況であるため、アイヌの漁労に関する文化の再現のためにも、今後、サケの遡上が増加するような環境の整備が必要です。 現状では石狩川での捕獲は不可能です。そこで当面は、かつて交流していた天塩川流域におけるサケやサクラマスの捕獲も視野に入れた河川の活用が必要です。
▼参照:上述の「旭川地域イオル計画の位置図」。
国有林、市有林とも当然、先住権の対象。(2020.9.16) 河川は今日気づきました。当然先住権の対象。(2021.3.21)


旭川地域のアイヌの伝統的生活空間の再生に関する基本構想 4旭川地域イオルの展開
▲旭川市のイオル計画はよく出来ています。これをそのまま「アイヌモシリの会」として活用できます。 (2023.6.11)

イオル再生に伴う規制緩和措置
採集、狩猟、漁労の各文化の再現には、国有林野内での樹木類や山菜などの自然素材の利用、 シカやクマなどの捕獲、河川におけるサケの捕獲などをスムーズに進めるための関連法令、 規則等を所管する国及び北海道の理解と協力が不可欠でありますし、関連法令、規則等の規制緩和措置が必要であります。
▼そうではない。イオル再生のためには先住権の確認・承認で済む。むしろ規制緩和、 国及び北海道の理解と協力ではなく、国及び北海道に先住権を認めさせる運動、裁判が必要。 イオル再生は国、北海道その他、和人へのお願い事でなく、アイヌ民族の権利であり、胸を張って、堂々と一千年の償いと 謝罪を求める戦いであり、シャクシャインたち先人の無念を晴らす戦いであると、私は考えています。(2020.9.17)
▼今日、イオル計画を読んでみて、この人たちの考え・思いも包摂して先住権を主張していったほうがいいとおもいました。(2021.3.21)
▲改めて読んでみて1年前と同じ思いです。(2022.3.11)
▲皆さんと相談してアイヌモシリの会として採用したいと思います。(2023.6.11)

強制移住の近文へ飛ぶ

平取町
C 平取町イオル計画 http://www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/pdf/regeneration.pdf
「平取町においてはアイヌ民族文化を継承するとともに、いっそう の振興を図るため、この地域の文化と関わりが深い沙流川の流域全体を対象とし、自然との 共生、そして多文化共生を基調とした「伝統的生活空間(イオル)整備構想」を計画してい る。これは、かつてアイヌの人たちが、個人や集落としての領有意識を一定程度有しながら 狩猟や採集などに利用した土地・空間を「イオル」と位置づけていたという歴史性をふまえ た提案である。また、実現に向けた事業化が進展すれば、部分的にではあれ、流域の原風景 の再生・保全につながるという点で、文化的景観の保存と志向性を共通にするところのある 構想だと言える。」(調査報告書165p第2次選定申出)
▲主たる目的は「文化の継承」。ここに根本的な限界がある。本来のイオルの再生ではない。(2022.10.18)
イオルの森 構想
二風谷地区(拡大)

沙流川水系(拡大)
額平川の源流・幌尻岳

平取町の範囲(拡大可)

沙流川流域地図
(拡大)

チチロ川北は日高町。
ニセウ川南が平取町


日高町の範囲(拡大可)
▲沙流川流域地図の源流(上流)は日高町の行政区域。日高町は二つの地区に分かれている。(2023.1.4)
イオル2002構想 (拡大)

天然林・人工林 (拡大)
施設整備計画 にぶたに湖(拡大)
水辺空間イメージ図 本町地区(拡大)
▼「イオルの森 構想」の左の図は沙流川上流二風谷のイオルの森から平取本町の水辺空間への「川の道」のイメージ。 上流から見ている図であることに注意。(2021.3.22)
▲にぶたに湖周辺施設整備は広さ100ha。予算は?吉原さんに聞くこと(2022.10.13)



「アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観」

          吉 原  秀 喜 (平取町 アイヌ文化振興対策室)

北海道日高地方に位置する平取町が、文化庁に選定の申し出を行った「アイヌの伝統と近代開拓に よる沙流川流域の文化的景観」は、文化審議会の答申を経て、2007(平成 19)年7月 26 日官報によ り重要文化的景観として告示された。
「アイヌ文化の諸要素を現在に至るまでとどめながら、開拓期以降の農林業に伴う土地利用がその上に 展開することによって多文化の重層としての様相を示す極めて貴重な文化的景観」(文化庁発表資料:同年5月) という評価にもとづくものであった。
北海道内では初めての選定で、全国的にも第三番目であった。一番目が滋賀県「近江八幡の水郷」、二番目が 岩手県「一関本寺(いちのせきほんでら)の農村景観」であり、沙流川流域文化的景観は愛媛県宇和島の「遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段畑」 と同時に選定を受けている。
全国文化的景観地区連絡協議会

カラー図版 解説
アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観 (北海道沙流郡平取町芽生(めむ)地区) 10.2ha
芽生地区文化的景観 C区域(拡大)
額平川区域文化的景観  E区域(拡大)
沙流川の支流、額平(ぬかびら)川が刻んだ蛇行する峡谷と、段丘上に崖間際まで広がる耕作地との対照が特徴的 である。もとはアイヌ民族の生活資源確保の場(イオル:C区域 D区域 E区域)だった森林が、林業的伐採や炭焼きにより拓 かれ、牧野や採草地、畑地となっていった。当地では、その過程にアイヌの人たちも関与してきた。
▲イオルの復活をまず優先すべき。(2022.10.17)

「平取町における文化的景観保護の意義」
平取町に広がる山野や河川には、アイヌの伝統と開拓による土地利用の歴史が刻み込ま れており、多様な背景を有する人々と文化が、葛藤と融合を繰り返しながら形成してきた 特色ある文化的景観を成している。
▲「アイヌの伝統と開拓による土地利用の歴史が刻み込まれており」との表現でいいのか? 開拓は侵略であった、との歴史認識が欠落していないか。日本の他の地域の文化的景観とは質が違う。 「葛藤と融合を繰り返しながら」だけでは第3者に伝わらない。(2022.10.15)
▲2007年「国連・先住民族権利宣言」が欠けている。今朝、気付く。(2022.10.16)


第2次選定申出版調査の目的
「この文化的景観は、特に人びとの生活・生業と自然環境との関わりという観点から捉える ならば、アイヌ文化の森林・河川利用のあり方を社会の変化に適応させながら継承すること によって、伝統的な持続型資源管理の精神を維持しようと努めてきた営為を内包していると ころに意義がある。アイヌ文化の諸要素を現在に至るまでとどめながら、開拓期以降の農林 業に伴う新たな土地利用がその上に展開することによって形成された多文化の重層性を示す 極めて重要な文化的景観である。しかし近年になると、大規模な商業的植林、農地開発、二風 谷ダム開発などがこの地の自然環境を大きく変化させ、また、アイヌ文化の継承や河川生態系の回復などの課題も多く、 そのぜい弱な本質的価値は消滅の危機にある。」
▲非常に慎重な言い回し。今後の政策によってどのようにでも展開できる内容。 (2022.10.16)

「平取町文化的景観保護推進事業第 2 年次報告書(平取町教育委員会 2007)において 佐々木高明氏は平取町の文化的景観について
「明治以降に入植した多くの和人と、文化の急激な変容を余儀なくされながら、この地に居住しつづけたアイヌの人たち、この二つの異な る民族の接触と交流の歴史の中で形成され、今日まで残された貴重な文化遺産であると考えて間違いない」 「このような二つの民族の接触・交流の結果、生み出された文化的景観の保護・保全の実践活動は、 当然のことながら二つの民族の人たちによって進められることが望ましい。平取町内には、 すでにそうしたシステムができあがっている」と述べている。それ以降も平取町のアイヌ文化に関する施策はより充実し、 こうしたアイヌ文化の振興の基盤が整っていることも平取町の大きな特徴といえる。」
▲「急激な変容を余儀なく」されたこと、その部分の修復がまずやるべきこと。 出来上がった景観の保全だけではない。(2022.10.16)
文化的景観3次選定 ▲1次、2次の過去の経緯はここで分かる。(2022.10.13)
三井の森・沙流の面積5,769ha
3次選定申出地区(拡大)
▲アベツ・貫気別南地区2,365haの国有地のうち二風谷寄りの1,000haをアイヌ民族共有地に。 (2022.10.17)

1次選定区域面積(拡大)
B地区二風谷1,302ha
 F沙流川河川敷608ha


第1次選定区域(拡大)
B区域(二風谷)町有林 国有林含む。

平取町74316ha・山林82%=60,926ha
国有林41,950ha
町有林3,629ha
民有林15,347ha

1次A〜F 4,381.1ha
2次G   3,097.3ha 
3次H   2,365.0ha
 合計   9,843.4ha
2次選定申出地区(拡大)
     三井の森 
三井の森 3097.3ha
イ)G-2:カンカン地区
民有林(三井物産の森)
ウ)G-3:荷負地区
民有林(三井物産の森)
▲この地区が貝澤正さんの言われる三井の裏山に当たる? カンカン・荷負地区の三井の民有地1,000haをアイヌ民族共有地に(2022.10.15)


2次申請川の流域(拡大)

国有林・民有林(拡大)
文化的景観2次選定(三井の森)
「このように、二次選定申出区域となるこの地域は、豊富な動植物と水源を蓄えた、アイヌ文化 にとっては大切な IWOR(狩場)であったことが伝えられている。このことは、泉靖一が調査の 結果を描いた IWOR 図(第1章 図 1-2 参照)からも読み取ることができ、この地域に大小 8 つ のコタンの IWOR が展開していたことがわかる。そして、各 IWOR には、人々の畏敬の念が込め られたアイヌ文化の伝承地や信仰の対象地も多く点在していることも判明した。加えて、開拓以 降は、周辺地域に多くの人々が移り住み、平取町の経済を支えていた造材や炭焼き、さらに戦後 は造林業といった「林業」を栄えさせた地でもあったことがわった。」
▲「造材や炭焼」。貝澤正さんも若い頃ここで働いておられた?(2022.10.18)
平取町文化的景観保存計画書(三次選定申出)
「アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観」 2018 年(平成30) 1 月26 日

平成 17(2005)年に 新たに施行された景観法及び文化的景観保護制度を活用し、沙流川流域の景観を地域の多様な 文化諸相と関連づけて評価し、また失われた諸要素の復元を検討、実行に移そうとするもので ある。
平成 19(2007)年「アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観」として、平取町内全域の中から 6 区域 A〜F区域が選定され(第一次選定区域と呼称する)、さらには平成28(2016) 年に G 区域が追加選定された。(第二次選定区域と呼称する)。
今回追加選定としてH区域の申し出を行う予定である。(以降、第三次選定申出区域と呼称する)。
各区域の景観特性と保存管理・規制行為の考え方
A:ピラウトウルナイ(ペンケ・パンケ)区域「北海道日高地方における里山的景観」
B:二風谷区域「アイヌの伝統を伝える山野と集落の景観」
C:芽生区域「峡谷との対照が際だつ戦後開拓地の景観」
D:宿主別区域「牧野・牧野林とスズラン群生地の景観」
E:額平川区域「自然とアイヌの伝統、開拓の営為が織りなす多文化な河川景観」
3次選定区域
アベツ・貫気別南区域

アベツ川 貫気別川(拡大)

貫気別川左岸
 (拡大)

針広混交風景
 (拡大)

ニブタニダム地図
アベツ川 貫気別川(拡大)

アイヌ民族共有地(予定)
F:沙流川区域「自然とアイヌの伝統、開拓の営為が織りなす多文化な河川景観」
G:三井沙流山林南区域「IWOR を基層とした、アイヌ文化伝承及び人々の営みを支えてきた里山的景観」
▼三井の森は 3,097haで広い。しかし前田一歩園は3,800ha。払下げの時期を確認すること。(2022.3.5)
H:アベツ・貫気別南区域「アイヌの生活民具などの地域の文化と人々の暮らしを育み想像する豊かな森林景観」
「三次選定申出区域は、アベツ、二風谷、貫気別地域に広がる国有林 2,364.97ha となって いる。当該区域では、天然林が多く、さらに沙流川中流域の植生であったいう針広混交林が多 いことが特徴である。」
「アイヌの人々は豊かな森林・河川空間を使い、暮らしに必要な自然素材を採取する場、 狩猟の場(IWOR)として自然と共生した生活を営みそれらを活かして様々な生活民具を 作り、独自の文化を育み、自然に対する畏敬の念とともに、森林の恵みに感謝する場所で もあっと考えられる。
二風谷コタン(拡大)
Fニブタニ・Gピパウシ
Hカンカン・Kニオイ
二風谷コタン 東西10q

3次のイメージ図(拡大)
二風谷コタン 東西10q

沙流川流域地図(拡大)
明治後半からパルプ用材として針葉樹の造材が始まり、馬搬や流送など地域住民の雇用 の場となり、冬場の生活を支えた。
国有林は今も山菜・茸の採取取や狩猟の場として利用されているが、資源の枯渇も危惧 されることから、豊かな生態系を有する多様な森林環境を回復していくために、自然の力 を利用した天然更新や地域固有の樹種に転換していく森づくりが行われつつある。
平成 25 年に北海道森林管理局、平取町、平取町アイヌ協会と協定が結ばれ「21世紀 ・アイヌ文化伝承の森づくり」として、百年後、二百年後を見越した北海道古来の森づく り、文化伝承に必要な伝統的利用植物の再生などによる持続的提供などを目的とした活動 が始まっている。」
▲素晴らしい。しかし、単なる「伝承の森づくり」ではダメ。IWORの復活まで構想すること。 (2022.10.16)
▲1次より2次、3次と申請の内容が進化している。(2022.10.17)二風谷コタンが軸になっているように感じる。(2022.10.19)
貫気別地区
「沖積平野の農耕適地を開拓民の広大な農地が占め、特に稲作農耕に不 向きな低位段丘上にアイヌの人々の集落が形成されるという「住み分け」が明確に表れている。 開拓期以降の開拓民とアイヌ民族との力関係を如実に表している」(報告書第5章152p)
▲和人としての良心をかすかに吐露している。(2022.10.19)
この枠内はいろいろ思索の跡です。(2022.8.31)
▲今日、三井の森のHPで、三井の森は5,769haであることを見つけた。町役場に固定資産税評価額を聞くこと。
平取町令和2年度固定資産税(1)(土地・家屋・償却資産)調 定 額189,682千円又は 収 入 額185,559千円の内、 森林地の固定資産税評価額とできれば税収?(2022.5.27)
▲平取町税務課に問い合わせ。山林の固定資産評価額1000u、4000円。100haで4,000,000円(2022.5.27)


土地利用計画図2-2-7 ▲クリック。この地図は素晴らしい!(2022.10.15)
沙流川流域地図(拡大可)
チチロ川北は日高町。
ニセウ川南が平取町


日高町の範囲(拡大可)
新冠町の範囲(拡大可)
(拡大可)

釧路湿原国立公園指定:昭和62年7月31日面積:28,788ha(陸域のみ)
国有地15,338ha
公有地3,458ha
私有地9,992ha

葉月浩林
「(山本多助氏の次男)文利氏の口癖は、 この広い釧路湿原をアイヌの国にさせてくれたらいいのになというものであった。」
▲アイヌの人たちのこの思いも実現したい。(2023.6.8)

ユポさん頭首工近く航空写真 (拡大)
ユポさんの頭首工近く地形図 (拡大)川西頭首工のそば









国土交通省土地総合情報システム
▲土地取引全714件の平均金額を算出してみる(2023.9.23)
土地取引1
575万円/ha

土地取引2
501万円/ha

土地取引3 629万円/ha

土地取引4 822万円/ha

土地取引5 172万円/ha

土地取引6 275万円/ha

土地取引7 603万円/ha

土地取引714件 504万円/ha

国有林304万ha×504万円/ha
=15兆3216億円
少なくとも15兆円の訴訟物(2023.10.4)

この結論が間違いであると判明。9.23から1か月。北海道財務局:国有地414万ha 金額7079億円。 (10.24)17.1万円/ha(2023.11.2)


▲ユポさん、鵡川町春日の実家の土地の固定資産税から考えを広げてみよう。
祖母三上シヲイさん鵡川村字チン、明治8年6月15日生まれ。祖父阿部徳平さん 宮城県亘理郡の人。
キリカチ番外地に住まわれる。 昭和18年11月15日土地名称地番変更。
大字生鼈(いくべつ)村字キリカチ番外地→字春日283番地。
父政司さん、母ウメさんと昭和19年10月24日結婚。
ユポさん、勇払郡鵡川村字春日283番地で昭和21年10月6日出生。川西頭首工に移住。出生地より3キロ上流。少年時代過ごされたの場所。
昭和63年8月24日結婚。札幌市に住まわれる。
現在、春日283番地はどなたがお住まいか?土地の固定資産税はいくらか?この地は番外地で元々アイヌモシリ。 税の本来の徴収権・納付先は地主のアイヌ民族・コタンのはず。日本の自治体が土地の固定資産税をいくら徴収しているかを確認して 具体的金額で地代請求の雛型をつくる。(2022.5.27)

令和2年度平取町財務情報
固定資産税
(拡大)純固定資産税185,559千円


















市町村税徴収実績調・日高管区
日高管区固定資産評価状況
(拡大)民有地山林10,042ha
課税標準額 254,921千円 山林評価状況
北海道179市町村の平均課税標準額2,585円/千u
 1万ha=2.6億円 300万ha=780億円(拡大)

国土交通省土地総合情報システム
568 沙流郡平取町 字去場 66万円 5,000m2以上 R05/01-03月
平取去場の1ha当たり132万円 全体の平均504万円/haの26%。かなり低い。


訴訟物と印紙代
▲平取町・山林民有地 10,042ha。
その課税標準額 254,921千円(徴収実績調より)。
その1/10の1,000haだと課税標準額は 25,492千円。その場合の印紙代計算の基礎の課税標準額は25,492,000円×1/4=6,373,000円となり、 印紙代は36,000円。東京地方裁判所窓口で確認。国有地の場合も平取町では条件は同じなので1,000haを訴訟物とした 場合の印紙代は36,000円となるはず。(2022.6.6)



▲北海道国有地全体の場合 10,042ha=254,921千円→3,045,230ha=77,304,628千円≒773億円
訴訟物は国有地と地代で773億円+300億円=1,073億円。これに対する印紙代となりそう。(2023.6.1)


▲10,042ha=254,921,000円 概算1万ha=2.5億円 300万ha=750億円(2023.6.3)
▲300万ha=750億円+300億円=1050億円が訴訟物 1億円の一部請求とする。印紙代は32万円。冨田さん。(2023.6.5)

▲北海道全体179市町村の山林の評価額の平均2,585円/千u。1万ha=2.6億円 300万ha=780億円 
訴訟物  780億円+300億円=1,080億円  1億円の一部請求とする。印紙代は32万円。(2023.6.7)


別の考え方。山林国有地15兆円。この一部請求とする。(2023.10.5)
▲国有地15兆円は間違い。400万ha 7,000億円と判明。北海道財務局。(2023.10.24)

令和3年度北海道市町村税決算の状況 (拡大)北海道全体の
土地の固定資産税714億円


地代関連
▲次に地代の問題。
▲平取町の純固定資産税185,559千円の内訳
土地29,555千円 家屋73,143千円 償却資産82,861千円(平取町税務課2022.6.2電話で)
▲土地に対する固定資産税収入は29,555千円。その30%つまり8,866千円は本来の地主・アイヌ民族に地代 として納めていただくのが筋。その資金は国が負担する。この請求訴訟の印紙代は46,000円。
▲平取町のケースが認められればこれを雛型として北海道全体に広げる。つまり北海道全体の約700億円の固定資産税の30%、 210億円を毎年アイヌ民族に地代として納めていただく。 このような理論構成。(2022.6.5)


長州新聞 https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/18064
2020年7月14日長州新聞
なおF35は1機の当初単価が96億円(2012年)だった。それが2016年には181億円にはね上がり、 今回の売却承認額では1機平均が235億円と約2・5倍になっている。

▲つまり地代は戦闘機1機分ということ。105機購入予定、2.5兆円。(2022.8.6)

▲210億円の使途と政府のアイヌ施策関連予算。(2022.7.2)
▲210億円の使途(100億円総合大学経営 100億円格差是正資金 1億円アイヌモシリの会活動資金 9億円予備費等)
▲政府アイヌ施策関連予算令和3年度総額57億円の内訳(30億円ウポポイ管理運営 20億円施策推進交付金 3億円民族文化財団への補助  生活向上3.6億円)
▲こうして比較してみて視点が全く違うことに気づく。使用財源の規模も。政府予算は令和4年でも66億円。(2022.7.2)

政府アイヌ施策関連予算 http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainusuishin/dai12/sankou3.pdf
令和3年度アイヌ政策関係予算合計 5,752百万円 [103%]
内閣官房アイヌ総合政策室は、各省庁の2022年度アイヌ政策関連予算の概算要求額を取りまとめた。 総額は66億8700万円で、今年度当初予算比で16%伸びた。
苫小牧民報2021/09/02
内閣官房アイヌ総合政策室は、各省庁の2022年度アイヌ政策関連予算の概算要求額を取りまとめた。 総額は66億8700万円で、今年度当初予算比で16%伸びた。 白老町で開業した民族共生象徴空間(ウポポイ)関連では、博物館や公園など施設の管理運営… ここから先の閲覧は有料です。

日本橋鑑定総合事務所 https://nihonbashi-k.co.jp/info/useful/55/
税金のことを定めた税法の中に、法人税法という法律があります。会社の税金に関するルールブックのようなものです。 その法律において、非営利法人の住宅貸付けという行為が収益事業であるかどうかについて判断基準をもうけています。 非営利法人には、宗教法人=お寺などが該当します。 その判断基準は、地代・借地料の金額が固定資産税等の3倍以上かどうかとなっています。
すなわち、この法律は、固定資産税等の3倍が収益事業の最低ラインだとしています。 極端な言い方をすれば、固定資産税等の3倍未満の地代は、収益事業として認めていない『慈善事業レベル』だということです。 ですから、これを敢えて引用すれば、土地の貸付を収益事業として考える場合の地代・借地料の相場は、
不動産鑑定士
三原一洋さん
(拡大)

固定資産税等の最低3倍ということになります。

▲上記考えを参考にすれば固定資産税の30%の地代は「慈善事業以下」となる。(2022.6.9)
日本橋鑑定総合事務所不動産鑑定士三原一洋さん
https://www.youtube.com/watch?v=2U31e7MHSnk
▲不動産鑑定士三原一洋さんによる実際の事例の紹介。
ケース1 公租公課(固定資産税)の8.7倍。
ケース2 公租公課の7.4倍。
ケース3 公租公課の3.0倍。
もちろん私が考えているケースは事例がある筈はないが、かと言ってあながち荒唐無稽な考えでもなさそう。(2022.6.10)

別の考え方。地代。 固定資産税700億円の3.0倍〜8.7倍つまり2,100億円〜6,090億円となる。これを大枠と考えよう。(2023.10.5)
さらに考える。固定資産税700億円の3倍〜5倍つまり2,100億円〜3,500億円と整理。(2023.10.25)
▲今日、判例があると、教わる。下記が見つかる。2〜3倍で「アイヌモシリの会」は請求しよう。(2023.11.15)
固定資産税の2.4倍の地代の判例
https://blog.goo.ne.jp/sumaino1/e/5fc5f979ac425a494bedd4f83a51e910
東京高裁平成9年6月5日判決、判例タイムズ940号280頁以下

ポロシリ岳 平取イメージ図 近世前15p
(拡大)

平取から見たポロシリ岳。
約50q先
(拡大)

ポロシリ岳(現地看板)
ポロシリ岳(現地撮影)
2022.10.22
オキクルミチャシ
平取イメージ図 近世16p
コタン、イオル、チャシがよくわかる。これが回復すべきアイヌモシリの姿だと思う。 (2022.8.31)

(拡大)
オキクルミチャシ
二風谷から北北東の方向
沙流軌道廃線跡
平取イメージ図 近代17p
川が湾曲し、木工場、網羽、沙流軌道の対岸のコタンが二風谷。
沙流軌道による木材の運搬の終着駅が平取。
スズラン群生地区 平取イメージ図 現代18p
二風谷の裏山の植林、林業の部分が元の近世の森に復活させるということだと思う。 (2022.8.31)

沙流軌道廃線跡

沙流鉄道・平取 〜平取 富川〜




















▼ポロシリ(ポロ=大きい シリ=大地:大山)カムイの領域
▲ユポさんの運転で10月22日実際ポロシリ岳に入ってみて先人がカムイの領域だと呼んだ意味が実感できた。人が入る、入れる所ではなかった。(2022.11.4)
▼「イメージ図 近世」でコタン、イオル、カムイの領域の構造がよくわかる。
▼「イメージ図 近代」森の伐採でイオルが破壊される。沙流軌道(王子製紙)による木材の運搬。筏による流送、散流による流送も視覚でわかる。
▼「イメージ図 現代」二風谷ダムをなんとかできないか。そして鮭が遡上してくるようにしたい。(2021.3.23)
「沙流川は、シロザケ、サクラマス、 ウグイなどが産卵のために遡上し豊富に捕れる河川でもあった。これらの魚 類は、かつてアイヌの人々にとっての貴重な食料源であり、特にサケは、食 料としてだけではなく、生活用具の素材としても活用され、信仰対象ともな っており、森に生息するヒグマ、キタキツネなどにとっても貴重な食物とな っている。
当区域では既存保護措置として河川法が適用され、新規保護措置としては景観計画 が適用される。景観計画では木竹の植栽または伐採、水面の埋立または干拓が町長へ の届出が必要となる。また、河川域内のサケ・マス類に関する規制も含まれるが、こ れは逆に緩和措置が検討されるべきである。」

▲鮭の遡上は河口漁協との調整が必要。水門を開け、鮭の遡上を促す。(2022.3.14)
平取町アイヌ施策推進地域計画(2019年)
https://www8.cao.go.jp/ainu/kouhyou/chiiki_keikaku/20190920/kouhyou-biratori.pdf
平取町(拡大可)
平取町は、北海道の道央圏南東部に位置する日高地方の西端にあり、日高町、新冠町、むかわ町、 占冠村に隣接している。
総面積743.09平方kmで東西52.8km、南北41.1km とやや三角 形に似た形で、日高山脈の最高峰ポロシリ(幌尻岳)の裾野に広がる大地を日本一の清流に何度も 選ばれている沙流川(さるがわ)が太平洋に向かって貫流している。
町面積の約85%を森林(631平方q)が占め、そのうち約56%(353平方q)が国有林野となっている。(「地域計画」10頁)
▼東京23区の面積627平方qより平取町743平方qのほうが広い。(2021.3.19)

平取町アイヌ施策推進地域計画
イオル計画1 (拡大)
イオル計画2 (拡大)
イオル計画3 (拡大)
イオル計画4 (拡大)
イオル計画5 (拡大)
イオル計画6 (拡大)
イオル計画7 (拡大)
イオル計画8三井物産 (拡大)
アベツ川流域イオル計画 (拡大)
イオル計画4の補足 (拡大)
イオル計画4の補足 (拡大)
▲この構想はすばらしい。実現の手順はどうなっているのか。 (2022.9.1)

平取イオル計画全体構想 (拡大)

















▲平取イオル計画7を読んで。 
国有林の返還× 再検討の結果 返還は少数派
森林の無償貸付× 再検討の結果 政令でできることもあるのでは
アイヌへの管理委託契約× 再検討の結果 事実上の共同管理は可能か?
▲先住権が前提になっていないからこのような検討結果になる。(2022.3.13)
▲平取イオル計画6を読んで。
文化環境保全センター構想の国土交通省、 美術工芸アカデミー構想の文科省の動きは?資金的にはいくらくらい?(2022.3.13)
 
▲平取イオル計画8に関連。
「平取町文化的景観保存計画書 三次選定申出版」2018 年 1 月26 日 54p
「アベツ川流域は平取本町の IWOR(狩場)と予想されており、豊かな森林環境と河 川環境がアイヌの人々の暮らしを支え、その文化を育んでいった。本地区の特性を伝 承していくためには、国有林、町有林とともに民有林も重要な存在であり、現在の生 業となっている民間企業による林業との調整が重要である。」
(2022.3.14)


21世紀・アイヌ文化伝承の森プロジェクトの経緯

平取森林地域境界線入り 町域の 85%を占める 62,756ha の森林
(拡大)
平取町・国有林・民有林 貫気別川両岸、沙流川左岸は民有林(三井?)
国有林 41,513ha、
民有林 21,243ha

(拡大)
吉原さん (拡大)
◆北海道森林管理局は、白老町と「イオルの森づくり活動に関する協定」(18年 2006)、
平取町内の国有林1090haの重要文化的景観選定に同意(19年 2007)、
北海道と連携してオヒョウニレ探しを開始(21年 2009)、
国際森林年記念シンポジウム(23年 2011)でアイヌ文化を主要課題の一つとするなどの取組を推進。
同シンポを契機にアイヌ政策のさらなる具体化の検討を本格化。

◆平成24(2012)年5月25日(金):平取地域自然素材の利活用などに関わる連絡会議
主催:財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構(現在はアイヌ文化振興財団)
*この会議の席上、北海道森林管理局から<21世紀・アイヌ文化伝承の森>構想が提案された。
◆平成24(2012)年11月6日(火):第1回プロジェクト作業部会(23名出席)
@ サーモン 森と海の絆(ビデオ)
A 三井物産の森について
▲三井物産との協定は?
◆平成25(2013)年4月17日(水):協定締結式(森林管理局/支部/町):町議会議場にて(63名出席、町内49名、町外14名)
「21世紀・アイヌ文化伝承の森再生計画」〜コタンコロカムイの森づくり〜推進のための協定書
◆平成29(2017)年12月14日(木):第2回作業部会(21名出席)重要文化的景観第三次選定に向けて
◆令和2(2020)年4月1日:「21世紀・アイヌ文化伝承の森再生計画」〜コタンコロカムイの森づくり〜推進のための協定書 の一部を改訂しプロジェクトを継続、第2期を開始 *資料の末尾に更新後の協定書
平取町森林整備計画
http://www.town.biratori.hokkaido.jp/wp-content/uploads/2015/03/shinrinseibi_15_04.pdf
T 伐採、造林、保育その他森林の整備に関する基本的な事項
1 森林整備の現状と課題
平取町は日高振興局管内の西端に位置し、日高山脈の支脈とこれを源として流れる日高地域第 一の長流・沙流川に広がる総面積 743.18 平方qの町で、東部は新冠町に接し、西部はむかわ町に、北 部及び南部は日高町に接しています。
平取町森林空間 (拡大)
景観第3次申請 (拡大)
地形は概ね丘陵地が多く、地質は樽前系火山層で、各河川の流域は沖積土で肥沃な耕地に恵ま れ、17の集落を形成しています。
町域の 85%を占める 62,756ha の森林は、
国有林 41,513ha、民有林 21,243ha
▲民有林地の課税標準額と税収は?平取町議会事務局へtel決算書。札幌市議会事務局へtel決算書。(2022.5.26)
森林空間
http://www.town.biratori.hokkaido.jp/wp-content/uploads/2015/12/tenpushiryou.pdf

10
内水面さけ採捕事業を実施する期間、当該内水面さけ採捕事業に使用する漁具その他の内閣総理 大臣が必要と認める事項
@ 当該事業の概要
平取町では、沙流川流域にアイヌ文化が古くから現代まで継承されており、アイヌの人々にとって サケは、カムイチェプ(神の魚)、シペ(本当の食べ物)として、食料のほか履物としても加工さ れ、アイヌの人々の生活にとって欠かすことのできない大切な魚であった。さけが遡上する沙流川 沿いのコタン(集落)では、マレプ(突き鉤)等を使った漁が行われ、秋にはその年の最初に採れ たさけをカムイに捧げる儀式である「アシリチェプノミ(新しいサケを迎える儀式)」が行われてい た。(「地域計画」11頁)
沙流川流域地図(拡大可)
チチロ川北は日高町。
ニセウ川南が平取町
国道237号の終点と国道235号の交差点 (拡大)
国道235号沙流川橋 (拡大)
沙流川は、その源を北海道沙流郡日高町日高山脈に発し、千呂露川等を合わせ、日高町市街部に出て更に渓谷を流下して平取 町に入り、額平川等を合わせ、門別町において太平洋に注ぐ、幹川流路延長 104km、流域面積 1,350平方kmの一級河川である。 (国土交通省「沙流川水系河川整備基本方針」1頁 )
「沙流川水系」2-13頁 https://www.mlit.go.jp/river/basic_info/jigyo_keikaku/gaiyou/seibi/pdf/saru-5.pdf
マレプ漁
平取町では、こうしたアイヌによって継承されてきた儀式等を保存または継承し、儀式等に関す る知識の普及啓発を行うため、2004年にアシリチェプノミを復活させ、以降、毎年継続的に実 施している。このアシリチェプノミは毎年9月の中下旬に沙流川支流の沢で行っており、儀式のほ か、マレプ漁を町民や町外からの来訪者にも見学していただき、サケを使ったアイヌ伝統料理の試 食体験を行うなど、町民や来訪者がアイヌの伝統文化に触れる貴重な機会となっており、アイヌ文  化の伝承と理解の増進のため、今後も継続して実施していく方針である。また、今までは捕獲した サケを捕獲用の水場に移し行っていたが、自然俎上するサケについても沙流川での捕獲を検討した い。(「地域計画」11〜12頁)マレプ漁 https://www.ff-ainu.or.jp/manual/files/2005_11.pdf
沙流川流域地図(拡大可)
チチロ川北は日高町。
ニセウ川南が平取町
アベツ川(拡大可)
オサツ川(拡大可)
A 実施主体
平取町(北海道沙流郡平取町本町 28 番地)
B 採捕の区域
北海道沙流郡平取町
(「地域計画」14〜15頁)
1) 沙流川支川 アベツ川
2) 沙流川本川 二風谷ダム下流域
3) 沙流川支川 オサツ川
4) 沙流川支川額平川 貫気別川合流附近
5) 沙流川支川 ニセウ川 本川との合流附近
位置図 別紙−1のとおり
ニセウ川 本川との合流付近 (拡大可)
 貫気別川合流付近 平取町全体図参照(拡大可)
二風谷ダム下流域(拡大可) 


C 採捕の期間
9〜11月頃(約3か月間)
D 採捕する水産物の種類及び数量
伝承活動・儀礼として50尾/年程度
平取3者協定 ▲平取町の吉原さんから3者協定を送っていただきました。 一歩も二歩も前進ですがやはり国有地の返還、先住権の承認が前提となるべきだと思います。(2022.3.5)(拡大)
▼聖地回復のため二風谷ダムは取り壊しですね。 ダムを壊さない理由として裁判で考慮された「公共の福祉」の役割は果たしていませんし、サケも遡上してこれませんから。 (2020.9.18)
▼その後貝澤耕一さんの見解を知ってダムは取り壊さないで水門を開ける案に賛成です。サケの遡上は確保されなければいけません。 ただ、この「推進計画」を読んで、なぜここまでアイヌの人たちが制約をうけなければならないのか、腹立たしいまでの義憤を禁じ得ない。 やはりアイヌモシリの回復でアイヌの人たちが自分たちのルールを決めてサケを獲れるようにするべき。 (2021.3.19)
(アイヌ施策推進地域計画の認定)
第十条 市町村は、単独で又は共同して、基本方針に基づき(当該市町村を包括する都道府県の知事が都道府県方針を定めているときは、 基本方針に基づくとともに、当該都道府県方針を勘案して)、内閣府令で定めるところにより、 当該市町村の区域内におけるアイヌ施策を推進するための計画(以下「アイヌ施策推進地域計画」という。) を作成し、内閣総理大臣の認定を申請することができる。
二風谷保育所・アイヌ語塾
本田裕子さん 2023.6.15シシリムカ
文化大学(拡大)
▲10条2項2号イ アイヌ文化の保存又は継承に資する事業に該当(2023.6.17)
2 アイヌ施策推進地域計画には、次に掲げる事項を記載するものとする。
 一 アイヌ施策推進地域計画の目標
 二 アイヌ施策の推進に必要な次に掲げる事業に関する事項
  イ アイヌ文化の保存又は継承に資する事業
  ロ アイヌの伝統等に関する理解の促進に資する事業
  ハ 観光の振興その他の産業の振興に資する事業
▲ロ、ハの延長として、このあたりに「自分稼ぎ」の鮭の捕獲、森での伐木、鹿の狩猟、 鯨の捕獲等を入れられないか。昨日吉原さんと話して考えたこと。(2022.3.16)
  ニ 地域内若しくは地域間の交流又は国際交流の促進に資する事業
  ホ その他内閣府令で定める事業
 三 計画期間
 四 その他内閣府令で定める事項
3 市町村は、アイヌ施策推進地域計画を作成しようとするときは、 これに記載しようとする 前項第二号に規定する事業を実施する者の意見を聴かなければならない。
4 第二項第二号(ニを除く。)に規定する事業に関する事項には、アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施 その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物を国有林野 (国有林野の管理経営に関する法律(昭和二十六年法律第二百四十六号) 第二条第一項に規定する国有林野をいう。第十六条第一項において同じ。) において採取する事業に関する事項を記載することができる。
去場入会林野 https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj1984a/70/11/70_11_724/_pdf
入会林野去場共同山 (拡大)
(中略)
9 内閣総理大臣は、第一項の規定による認定の申請があった場合において、 アイヌ施策推進地域計画が次に掲げる基準に適合すると認めるときは、その認定をするものとする。
 一 基本方針に適合するものであること。
 二 当該アイヌ施策推進地域計画の実施が当該地域におけるアイヌ施策の推進に相当程度寄与するものであると認められること。
 三 円滑かつ確実に実施されると見込まれるものであること。
▼事業期間 令和元年度〜令和5年度。事業予算 約27憶円。
アイヌ施策推進法の具体的適用を知ることが出来た。(2020.9.17)

D 札幌市イオル計画 https://www.mlit.go.jp/common/000227151.pdf
札幌。山に近いあたり。
(拡大可)
(拡大可)
(拡大可)
野幌原始林 https://gurutabi.gnavi.co.jp/i/i_12124/
野幌原始林(拡大可)
札幌市は、石狩平野の南西部に位置し、東は石狩川から野幌原始林にかけての低 地帯、西は手稲山系、南は支笏洞爺国立公園に連なる一大山地、北は日本海に隣接 する石狩砂丘地に囲まれた全国屈指の広大な面積(1,121平方km 東京都23区 627平方km 東京23区の2倍弱)を有した都市である。 森林面積は 71,180ha で森林率は約 63%となっており、そのうち約 79%が国有林 で占められている。
札幌市アイヌ施策推進計画(平成22(2010)年9月) http://www.city.sapporo.jp/shimin/ainushisaku/suishin-iinkai/documents/07ainushisakusuishinkeikaku0713.pdf
国の立法等の動向と関連する施策
札幌市アイヌ施策推進計画検討委員会においてアイヌ民族の方々から意見のあっ た、学校におけるアイヌ語等の民族教育、大学への優先入学、アイヌ民族を援助する 大学に対する支援等の教育施策、市職員の特別採用等の雇用施策、市営住宅の優先入 居・ 専用住宅の設置等の住宅施策、特別年金等の施策については、国の立法等の動向 と関連するために、今後の国等のアイヌ政策の動向を見極めながら、札幌市が新たに 設置する協議機関等において検討して行く こととします。
ア イ ヌ 施 策 推 進 地 域 計 画 https://www.city.sapporo.jp/shimin/ainushisaku/documents/200605tiikikeikaku.pdf
アイヌの人たちは、伝統的な儀式に用いるイナウ(木製の祭具)をはじめとする 各種の生活用具を、周辺の森林から採取した樹木の枝・幹等の林産物を材料として 制作してきた。 こうした林産物の採取は、入山や購入に係る手続きの煩雑さから国有林野では行 われておらず、専ら民有林で事前に所有者から了解を得た上で行われているが、採 取する樹木等の減少により、民有林での採取が困難になりつつあり、国有林で採取 できるようにならないかとの要望がアイヌの人々から出されている。 今回の共用林野制度の特例措置により、こうした課題を解決し、アイヌ伝統文化 の保存・継承・振興を図っていく方針である。
▼国有林野での先住権で対応すべきでしょう。(2020.9.18)
▼札幌市の「地域計画」は私には魅力的でなかった。(2021.3.23)

E 新ひだか町イオル計画 https://www8.cao.go.jp/ainu/kouhyou/chiiki_keikaku/20190920/kouhyou-shinhidaka.pdf
新ひだか町(旧静内)は、アイヌ民族の中でも主として静内以東などに居住していた「メナシ ウンクル」と、
ピンク色のメナシウンクル地域の首長がシャクシャイン (拡大可)
胆振から日高西部にかけて居住していた「スムンクル」との境界の地であり、 アイヌの歴史の中で特に重要とされる「シャクシャインの戦い」に関わる遺跡など、未解明の部分 の多いアイヌ文化の解明のために必要な歴史に裏付された貴重な調査・研究資料が多く残されて いる。
現在でも、「シャクシャインの戦い」で松前藩によって謀殺されたシャクシャインの霊を慰め る法要祭が、道内はもとより全国各地のアイヌの人々によって古式に則り厳かに執り行われてい る地域であり、シャクシャイン像の建つ真歌の丘は、アイヌの人々の心の拠りどころとなってい る。 特徴的な面としては、アイヌの人々の自立意識が非常に高い地域であり、アイヌ文化などを観 光化することなく、それぞれの生活、家庭の中で脈々とアイヌ文化を受け継いできた地域でもあ る。
当町は、北海道日高管内のほぼ中央に位置し、東部は浦河町、西部は新冠町に接し、南一帯は 太平洋に面している。地形は丘陵山岳地帯が多く、日高山脈とその支脈が連なるこれらの河川流 域は、地味肥沢で農用地として利用され、山間部は森林地帯を形成し、針・広葉樹林の森林資源 を有している。
森林面積約96ha(民有林31ha、国有林65ha)森林率約84%であり、 国有林の多くは町の北側に位置し、民有林は一円に点在している。 アイヌの人たちは、伝統の儀式に用いるイナウ(木製の祭具・ヤナギ等の枝で作る)をはじめ とする各種の生活用具を周辺の森林から採集した樹木の枝・幹等の林産物を材料として制作して きた。
こうした林産物の採集は、入林や購入に係る手続きの煩雑さから国有林野では行われておらず、 専ら民有林で事前に所有者の了解を得た上で採取が行われてきた。 しかしながら、高齢化が進展し、住居から離れた民有林までヤナギを採取しにいくことが困難 になりつつある中、近隣の国有林野で採取できるようにならないかとの要望がアイヌの人々から 強く出されていた。 今回の共用林野制度の特例措置により、こうした課題を解決し、アイヌ文化の維持及び次世代 への継承を図る方針である。
▼先住権で解決すべき問題。(2020.9.18)
静内川の河口から4q 14p(拡大可)
三石川の蓬莱橋からシカルベ橋まで 15p(拡大可)
アイヌの人々にとってサケは、カムイチェプ(神の魚)、シペ(本当の食べ物)として、食料としては もちろん衣服や履物にもなり、アイヌの人々の生活に欠かすことのできない大切な魚であった。 さけが遡上するシベチャリ川流域のコタン(集落)では、マレク(突き鉤)等を使った漁が行わ れていた。
シベチャリの橋より上流を望む

新ひだか町では、こうしたアイヌにおいて継承されてきた儀式等を保存又は継承し、儀式等に 関する知識の普及啓発を行うため、平成24年より伝統漁法を再現するとともに、保存食である 「サッチェプ」(干し鮭)を造り、さらには伝統的な鮭の調理法を再現する研修講座等を実施 することにより、町民がアイヌ民族の精神文化に触れる貴重な機会となっているところであり、 今後も引き続き継続して実施していく方針である。
     (拡大可)

また、平成25年から新ひだかアイヌ協会と高静小学校が連携し、アイヌの伝統的漁法である マレク漁を地域の子供達に体験してもらい、命の大切さを教える学習の機会を設けているところ であり、今後も引き続きアイヌ文化の伝承と理解の増進を図る方針である。
採捕の区域
【新ひだかアイヌ協会】新ひだか町静内川の河口から4qまでの区域(別添位置図参照)
【三石アイヌ協会】新ひだか町三石川の蓬莱橋からシカルベ橋までの区域(別添位置図参照)
▼静内川河口から4キロとか三石川逢菜橋からシカルベ橋までとか、使う道具は何々とか、ここまでいちいち国が立ち入ることではない。 アイヌの人たちに任せればよいこと。民族の自治の侵害。むしろ推進法を変えるべき。(2020.9.18)
▼「地域計画」淡々と書かれている感じ。(2021.3.24)
F 白老イオル計画 https://www8.cao.go.jp/ainu/kouhyou/chiiki_keikaku/20200323/kouhyou-shiraoi.pdf
白老町においては、町名である「白老(シラウ・オ・イ:虻の多き処)」をは じめ、「社台(シャ・タイ・ペッ:浜側の林の川)」や「ポロト(ポロ・ト:大き い沼)」などアイヌ語由来の地名が多く残されているとともに、安政四(1857)年 時点で、町内白老地区において39戸(209人)、社台地区において7戸(23人)、竹 浦地区において38戸(171人)、虎杖浜地区において3戸(10人)からなるコタンが あったとされ、歴史的にアイヌ文化やアイヌの方々と関わりが深い地域であ る。 本町の歴史における和人とアイヌ民族の共生が育まれてきた史跡白老仙台藩陣屋跡
◆仙台藩白老元陣屋資料館 所在:白老町陣屋町681番地4 現況:昭和59年10月設置。史跡の絵図面や古文書、武具のほか、アイヌ文化 関連の資料・民具などを所蔵し、幕末の白老におけるアイヌ民族と和 人の共生をはじめとした、蝦夷地の歴史を伝える。
事業費約11憶円。
2020.7開業ウポポイ (拡大)
本町は、北海道の南西部、胆振管内の中央に位置し、東は苫小牧市、西 は登別市、北は伊達市及び千歳市に隣接し、南は太平洋に面しており海岸 線の延長は28km、水量豊かな河川地域の平野部に市街地が形成されてい る。 北西から北東にかけては山岳地帯で、そのほとんどが支笏洞爺国立公園 に属している。 森林面積は33,772haで森林率は79%となっており、そのうち約68%が町 北部から国立公園を含む国有林で占められている。その他の地域に点在す る民有林は9,984haで、約29%に過ぎない。 アイヌの人たちは、伝統儀式に用いるイナウをはじめとする各種の生活 用具を、周辺の森林から採集した樹木の枝や幹等の林産物を原料として制 作してきた。 こうした林産物の採集は、入山や購入に係る手続きの煩雑さから国有林 野では行われておらず、専ら民有林で事前に所有者の了承を得たうえで採 集が行われてきた。
今回の共用林野制度の特例措置により、こうした課題を解決し、アイヌ 文化の維持及び次世代への承継を図る方針である。
A 当該事業により採集する林産物の種類、使用目的及び概ねの数量 ・ヤナギ(枝):イナウの材料、約50本 ・ミズキ(枝):イナウの材料、約50本 ・キハダ(枝):イナウの材料、約50本 ・ハシドイ(枝):イナウの材料、約50本 ・エンジュ(枝):イナウの材料、約50本 ・アオダモ(枝):パスイの材料、約50本 ・イタヤカエデ(枝):パスイの材料、約50本 ・エリマキ(枝):パスイの材料、約50本 ・イチイ(枝):パスイの材料、約50本 ・ニワトコ(枝):パスイの材料、約50本 ・オヒョウ(樹皮):樹皮衣の材料、約50本 ・シナノキ(樹皮):樹皮衣の材料、約50本 ・シラカバ(樹皮):樹皮衣の材料、約50本
B Aの林産物を採集する場所及び管轄する森林管理署の名称 ・場所:白老町内 国有林野 ・管轄:胆振東部森林管理署

▼以上7つのイオル計画を見てきたが、計画がいつ立てられ、実施状況がどうなっているのかを、市役所、町役場で確認すること。 (2021.3.19)

ロイター通信 https://jp.reuters.com/article/japan-ainu-idJPKBN1XB378
2019年11月1日2:51 午後1年前更新
(文:Tim Kelly、写真:Kim Kyung-Hoon、翻訳:山口香子、編集:久保信博)
ブログ:「民族共生」施設建設で引き裂かれるアイヌの人々
北海道白老町の緑に囲まれた湖のほとりで、国立のアイヌ文化振興施設の建設が進んでいる。 だが、消えつつある文化を称えるためのこの施設は、 アイヌのコミュニティーを分断する事態も招いている。
2009年に「先住民族の権利に関する国連宣言」に賛同した日本政府は、 アイヌに対する新たな政策の検討を進めてきた。検討の早い段階で、 国立の「象徴的な空間」の整備方針がまとまり、白老町ポロト湖畔で形になりつつある。
アイヌ語で「大勢で歌うこと」を意味する「ウポポイ」という愛称が付けられた同施設には、国立アイヌ民族博物館のほか、 19世紀に日本政府が北海道を植民地化した際、その多くが破壊されたアイヌの村を再現した集落や、 各地の大学で保管されていた数百のアイヌの遺骨を集約した慰霊施設などが整備される。
総事業費約200億円の「民族共生象徴空間」は、来年の東京五輪開幕前の4月24日の開業に向けて順調に工事が進んでいる。 安倍晋三首相によるインバウンド拡大策の一環。
狩りの前に祈りをささげる門別さん(2019年 ロイター/Kim Kyung-Hoon)(拡大)

アイヌの伝統衣装を着た八谷さん(2019年 ロイター/Kim Kyung-Hoon)(拡大)
アイヌの代表者は2018年まで内閣官房と協議し、国有地への法的権利や、アイヌ文化や言語を伝承するための予算の拡充、 政府からの公式な謝罪などの要求を取りまとめた。 だが、これらの要求が考慮されることはなかった。
内閣官房アイヌ総合政策室の小山寛参事官は、国民全体の理解を得られていない中では、行政ができることは限られていると説明。 今日の北海道を作って定住した開拓者から反発が起きる可能性があるなどと語った。
アイヌの伝統的な入れ墨の彫り師をしている 八谷麻衣(はちや まい)さん(36)は、 踊りなどを見ようと観光客が集まるテーマパークになってしまうのではないかと冷ややかだ。
ハンター門別徳司さん
祈りを捧げる門別さんと銃をかつぐ門別さん
(拡大)
ハンターをなりわいとするアイヌの 門別徳司(あつし)さん(36)は、国立施設の建設を含めた政府の対応は無意味だと話す。 門別さんは、政府には伝統的な儀式を行える場所を用意してほしかった、と話した。
▼このロイターのブログは大事な問題点を簡潔に指摘している。
@19世紀に日本政府が北海道を植民地化した
Aアイヌの遺骨を集約した慰霊施設
B小山寛参事官は、国民全体の理解を得られていない中では、行政ができることは限られている。 今日の北海道を作って定住した開拓者から反発が起きる可能性があると説明

@について  海外から見ると明らかに植民地化なのだ。
Aについて  ウポポイの施設ではアイヌの人たちには「慰霊」にはならない。土にかえすことなのだ。
Bについて  国民の理解を得られる仕事を日本政府がやってこなかった、ということ。筋違いの口実でアイヌの代表に対応している。不届き。(2020.9.22)


日経xtech https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00585/071300046/
2020.07.20
「アイヌ文化復興の国立施設「ウポポイ」が北海道・白老町にオープン」
北海道の南西部にある白老町で、日本におけるアイヌ文化復興などに関するナショナルセンター 「民族共生象徴空間(愛称はウポポイ)」が2020年7月12日に開業した。 政府が総事業費約200億円を投じたプロジェクトだ。
 ウポポイは、ポロト湖とポロト自然休養林に隣接する約10万平方m(10ha)の敷地内(中核区域)に位置する。 国立博物館「国立アイヌ民族博物館」と、体験型フィールドミュージアム「国立民族共生公園」、 体験交流ホール、体験学習館などで構成する。
 中核区域から約1.2km離れた、ポロト湖東側の太平洋を望む高台には慰霊施設も設けた。 施設内では公用語としてアイヌ語も使われている。施設の愛称である「ウポポイ」とは、アイヌ語で、 大勢で歌うことを意味する言葉だ。一般投票で決まった。

▲改めてイオル計画を読んでみて「民族再生空間」と「イオル」は似て非なるものと思った。和人の枠内でのイオル的空間を 作り出すもの、これはイオルではない。(2021.8.7)

イオル計画を飛んだ先2006年
2006年(H18)
国連、第1回「人権理事会」において、我が国も賛成するなか、「先住民族の権利に関する国連宣言」採択(6月29日)
wiki先住民の定義
▼国連人権理事会=United Nations Human Rights Council、UNHRC
2007年(H19)
国連総会(第61会期)
「先住民族の権利に関する国際連合宣言」採択(9月13日)
*日本政府2つの留保付きで賛成
1 国家からの分離独立は含まれない
2 集団的権利は国民の公的権利財産権を侵害しないこと
反対4カ国・米国、カナダ、豪州、NZ
(現在、4カ国とも、先住民族に謝罪し賛成、現在反対0)
*北海道ウタリ協会・加藤忠理事長記者会見
「国連宣言に従って、日本政府はまず、アイヌ民族から土地、言葉、文化などを奪ってきた歴史を謝罪してほしい」とのべた。 今後、宣言に盛り込まれた土地に対する権利をもとに、国有地、国有林の利用権を求めるなど、具体的な行動を起こしていく考えも示した。 施行から十年を経たアイヌ文化振興法について、「自立化基金や審議機関の設置などわれわれの要求からかけ離れた内容であり、 宣言を受けて、当然見直しを迫っていく」と表明した。
*北海道アイヌ協会・加藤忠理事長全役員理事監事・全支部長宛「先住民族の権利に関する国連宣言」採択のお知らせ
―喜びの報告と、当面の協会取り組みについて―“新たな法律制定、北海道知事・北海道議会意見書提出”
前述(1996年の二風谷裁判の箇所)で引用しました 阿部ユポさんの講演「国連の「先住民族権利宣言」とアイヌ民族」の中に 「私は 96 年以来、年に2回、 スイスのジュネーブで開かれていた国連の先住民の権利宣言作業部会や先住民作業部会に参加し 「先住民族の権利宣言」の採択に向けての活動をしてきました」とあります。 ユポさんのこのような活動のお蔭で2007年の国連の「先住民族権利宣言」にたどり着いたとおもいます。
▼今日、人権小委員会ダイス議長を調べていましたらたまたまこの論文に出会いました。(2021.1.30)
「先住民族の権利に関する国連宣言」 獲得への長い道のり 上村英明 (恵泉女学園大学、 市民外交センター) http://www.meijigakuin.ac.jp/~prime/pdf/prime27/O7HK300
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2008年(H20) 
2月13日 豪政府、アボリジニに公式謝罪
アボリジニに公式謝罪
すばらしいHPを見つけました。松崎さん、ありがとうございます。掲載させていただきます。
「昨年11月に政権に着いたラッド労働党政府は、2月13日、新政府による初の議会の冒頭議事として、 過去のオーストラリア政府が行ってきたアボリジニ(原住民)への差別抑圧政策への公式の謝罪を行いました。 この歴史的議会には、アボリジニの諸代表や過去の歴代首相も列席しましたが、 この謝罪を頑強に拒否してきた前ハワード首相のみ、姿を現しませんでした。以下は、ラッド新首相が行った公式謝罪の全文訳です。
                
「今日、我々は、この国土の原住民とその人類史上最古の現存する文化を誇りとします。
我々は、過去の彼らへの誤ったふるまいを深く考えます。
ことに我々は、「盗まれた世代」――この国の歴史における最大の汚点――である人々への行為を深慮します。
今や、誤った過去を正し、将来へ向って自信をもって進む、オーストラリアの歴史の新しいページを開く時です。
我々は、オーストラリアの同胞に、大きな悲しみ、苦しみ、そして喪失を与えた、歴代の議会や政府の法律や政策を謝罪します。
我々は、特に、アボリジニやトレス海峡諸島の子供たちが、家族や同胞や郷土から連れ去られたことを謝罪します。
そうした盗まれた世代の、その子孫の、そして取り残されたその家族の、痛み、苦しみ、そして傷つきに、我々は、謝ります、と言います。
そうした父、母、兄弟、姉妹に、家族と同胞の絆を断ち切ったことに、我々は、謝ります、と言います。
そして、この誇り高き人々と文化に与えた、尊厳の破壊と退廃に、我々は、謝ります、と言います。
我々オーストラリア議会は、この謝罪が、この国が与える癒しのいくらかにでも貢献したいとする精神として受け入れられるよう、つつしんで求めるものです。
この大陸の偉大な歴史の新たなページが、今、開かれることを採決し、未来のために、我々はそれを暖かく迎えます。
我々は、本日、過去を認め、あらゆるオーストラリア人に与えられる将来への権利を主張することにより、この最初の一歩とします。
今後、こうした過去の不公正が議会で議決されるようなことは、二度と起こってはなりません。
今後、我々は、寿命、教育水準、経済機会における格差を縮める、すべてのオーストラリア人、原住民、非原住民による決定を採用してゆきます。
今後、我々は、過去の試みが失敗した懸案に対する新たな解決策を取り入れて行きます。
今後、相互の尊重、相互の解決、相互の責任を基礎として行きます。
今後、その生まれが何であろうとも、すべてのオーストラリア人は、真に平等なパートナーであり、同等な機会と、 この偉大な国オーストラリアの歴史の次のページを開く上での、同等な利害関係をえます。」
▼以上が謝罪の全文です。以下は松崎さんのコメントです。

この議決は、野党をも含む超党派的合意を目的としたもので、その分、決定内容は精神的な宣言にとどまっています。 今後、この謝罪にもとずく、補償要求が提出されることが確実ですが、必ずしもこの議決がその補償を約束しているものではなく、 ひとつひとつの裁判において、その決定がなされてゆくものと解釈されています。
ともあれ、「謝ります」 (原文では「sorry」) という言葉が三度も繰り返されていることに、 アボリジニ関係者の間でも、それを歓迎して受け入れる見方が多いようです。
アボリジニに公式謝罪
資料: The Weekend Financial Review, 13 February 2008. 翻訳: 松崎(2008.2.14)
▼日本政府もアイヌの人たちに対してこのような謝罪が必要。

3月26日「アイヌ民族の権利確立を考える議員の会」設立
5月14日 国連・「人権理事会」、日本政府に対し、「先住民族の権利に関する国連宣言」を受けて 日本政府は国連宣言の国内適用に向けてアイヌ民族と対話するようにと勧告 
▼国連・「人権理事会」UPR(普遍的定期的レビュー)でのグアテマラからの勧告。
以下はUPRの審査結果文書。
その前にUPRについてOHCHR(Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights国連人権高等弁務官事務所) の解説を掲載しておきます。

What is the Universal Periodic Review?
The Universal Periodic Review (UPR) is a unique process which involves a periodic review of the human rights records of all 193 UN Member States.

How was the UPR established?
The UPR was established when the Human Rights Council was created on 15 March 2006 by the UN General Assembly in resolution 60/251.
On 18 June 2007, one year after its first meeting, members of the new Council agreed to its institution-building package (A/HRC/RES/5/1)

作業部会の日本に関する報告書
1.2007年6月18日の人権理事会決議5/1に基づいて設立された普遍的定期的レビュー(UPR)作業部会は、 2008年5月5日から19日の間に第2回会期を開催した。
日本の審査は2008年5月9日の第10回会合において行われた。
日本代表団の団長は秋元義孝外務省国連担当大使であった。
2008年5月14日に開催された第14回会合において、 作業部会は日本に関する本報告書を採択した。
46.【日本C】 政府は、アイヌの人々が日本列島北部周辺、取り分け北海道に先住していた ことは歴史的事実であること、 及びアイヌの人々が市民的及び政治的権利に関 する国際規約第27条にいう少数民族であることを認識している。
60.議論において日本に対して以下の勧告が行われた。((19)アイヌ民族に関する部分)
・特にアイヌの人々の土地及びその他の権利の再検討と、それらの権利と「先住民族の権利に関する国際連合宣言」との調和。(アルジェリア)
・「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を履行するために、先住民族と対話を開始する方法の模索。(グアテマラ)
▼アフリカと中南米の国から上記のような勧告が日本になされました。国際会議での日本の後進性が浮き彫りです。

▼単にアイヌ民族の問題だけでなく諸外国から見た日本の人権状況を自覚するために勧告の全文を掲載します。 人権後進国日本が見えてくると思います。(2020.6.21)
U.結論及び/又は勧告
60.議論において日本に対して以下の勧告が行われた。
(1)
・以下の条約の批准又は批准の検討
@自由権規約第一選択議定書及び第二選択議定書(アルバニア)
A拷問等禁止条約選択議定書(イギリス、アルバニア、メキシコ、ブラジル)
B女子差別撤廃条約選択議定書(ポルトガル、アルバニア、メキシコ、ブラジ ル)
C移住労働者権利条約(ペルー)
D障害者権利条約(メキシコ)
E強制失踪条約(アルバニア)
F国際的な子の奪取の民事面に関する1980年ハーグ条約(カナダ、オラン ダ)
・個人通報を受領し、検討する人種差別撤廃委員会の権限の認識(メキシコ、 ブラジル)
・自由権規約第二選択議定書への署名(ポルトガル)
(2)
・可及的速やかにパリ原則に沿った人権機構を設立するべきとの要請(特に自 由権規約委員会及び児童の権利条約委員会からの要請)の実施。(アルジェリア)。
・パリ原則に沿った国内人権機構を設立するために必要な法律をまとめること。 (カナダ)
・国内人権機構の設立。(メキシコ)
・パリ原則に沿った国内機構を設立するための努力の継続。(カタール)
(3)
・人権侵害の申立てを調査するための独立した機構の設立。(イラン)
(4)
・人権理事会の特別手続に対する恒常的な招待の表明。(カナダ、ブラジル)
(5)
・第二次世界大戦中の慰安婦問題に関する国連メカニズム(女性に対する暴力 特別報告者、人種差別撤廃委員会及び女子差別撤廃委員会)からの勧告に対す る誠実な対応。(韓国)
(6)
・平等と非差別の原則に適応するべく国内法の改正。(スロベニア)
・あらゆる形態の差別を定義し、禁止する法律の制定の検討。(ブラジル)
・刑法に差別の定義を導入することの検討。(グアテマラ)
・人種差別、差別及び外国人嫌悪に対する国内法の早急な導入。(イラン)
(7)
・女性を差別する全ての法律上の規定の廃止。(ポルトガル)
・女性の差別に対する施策の継続、特に女性の婚姻最低年齢を男性と同じ18 歳への引き上げ。(フランス)
(8)
・マイノリティに属する女性が直面している問題への取り組み。(ドイツ)
(9)
・在日韓国・朝鮮人に対するあらゆる形態の差別を撤廃するための措置。(北朝 鮮)
(10)
・日本における歴史の歪曲が継続していることは、過去の侵害行為に取り組む ことへの拒否と再発の危険性を示すものであると懸念を表明し、現代的形態の 人種差別に関する特別報告者も要求しているように、このような状況に取り組 むための措置を直ちに講じること。(北朝鮮)
(11)
・性的指向及び性同一性に基づく差別を撤廃するための措置。(カナダ)
(12)
・死刑執行停止と死刑廃止を目的とした死刑執行の早急な見直し。(イギリス)
・国連総会で採択された決議に従って、死刑廃止を目的として死刑を執行せず、 死刑の執行停止を再度適用すること。(ルクセンブルグ)
・死刑廃止を目的とした死刑執行停止の導入。(ポルトガル)
・死刑執行停止の正式な導入を優先事項として検討。(アルバニア)
・死刑執行停止の導入の再検討。(メキシコ)
・死刑執行停止あるいは死刑を廃止している多くの国々に加わること。(スイス)
・死刑に直面する者の権利の保障に関する国際基準の尊重、死刑執行の漸進的 制限、死刑が課される犯罪数の減少、死刑廃止を目的とした死刑執行停止の導 入。(イタリア)
・凶悪犯罪の刑罰に仮釈放のない終身刑を追加する可能性及び死刑の廃止の検 討。(オランダ)
・日本における死刑廃止に関する他国のこれまでの発言の支持。(トルコ)
                           人権意識の低さー東京五輪の新聞切り抜き
(13)
2021.7.28朝日夕刊(拡大) 人権意識の低さ 2
2021.7.23朝日朝刊(拡大) 人権意識の低さ 1
▲2020.6.21この勧告文を掲載しましました。 はからずも今回のオリンピックで日本社会の人権意識の低さが露呈しました。(2021.8.1)
・警察の留置施設にいる被留置者の取調べの組織的な監視・記録、及び刑事訴 訟法の、拷問等禁止条約第15条及び自由権規約第14条3項との適合性の確 保、全ての関連する資料にアクセスできる被告人の権利の保障。(アルジェリア)
・警察と司法機関が被疑者に自白させるために過度の圧力を加えることを避け るために、
@強制された自白の危険性に対する警察の関心をひくように、一層 組織的かつ集中的な取り組み、
A取調べを監視する手続の見直し、
B長期にわ たる「代用監獄」の使用についての再検証、
C拷問等禁止条約第15条に適合 することを確保すべく刑事法の見直し。(ベルギー)
・被拘禁者の拘禁に際して手続保障を強化するメカニズムの構築。(カナダ)
・留置手続が人権法の義務に調和することを確保するため、いわゆる「代用監 獄」制度の再検討、及び留置施設の外部による監視に関する拷問禁止委員会の 勧告の実施。(イギリス)
(14)
・女性及び児童に対する暴力の影響を減らすための施策の継続。特に法執行機 関職員が人権研修を受けることの確保及び暴力被害者が回復・相談するための 施設への資金の供給をすること。(カナダ)
(15)
・特に女性と児童に対する人身取引に対処するための努力の継続。(カナダ)
(16)
・常居所から不正に連れさられたり、又は戻ることを妨げられている子供の早 期帰還を確保するためのメカニズムの構築。(カナダ)
(17)
・あらゆる形態の児童への体罰の明示的な禁止、積極的かつ非暴力な形態のし つけの促進。(イタリア)
(18)
2021.7.28朝日夕刊(拡大) 人権意識の低さ 3

・北朝鮮を含む他国・地域で犯した慰安婦及び過去の暴力にきっぱりと取り組 むための具体的な措置。(北朝鮮)
(19)
・特にアイヌの人々の土地及びその他の権利の再検討と、それらの権利と「先 住民族の権利に関する国際連合宣言」との調和。(アルジェリア)
・「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を履行するために、先住民族と対話 を開始する方法の模索。(グアテマラ)
(20)
・庇護決定を再検討するための手続を拷問等禁止条約及びその他の関連する人 権条約と調和させること、及び必要とする移住者への国による法的援助の提供。 (アルジェリア)
(21)
・入国者収容所を調査する国際的な監視員の受け入れ。(アメリカ)
(22)
・庇護申請を再検討するための独立機関の設立。(スロバキア)
(23)
・不法な状況にあると疑われる移住者を省庁のウェブサイトに匿名で通報する ことを一般市民に求めるために設立された制度の廃止。(グアテマラ)
(24)
・社会的、経済的な発展が必要な国々に対する財政的援助の提供の継続、及び ミレニアム開発目標8に規定されている発展の権利の実現に向けた国際努力に 対する支援の拡大。(バングラデシュ)
(25)
・インターネット上の人権侵害における人権の保護に関する日本の経験の他の 国との共有。(ポーランド)
(26)
・UPRプロセスのフォローアップにおいて、国レベルでの市民社会の十分な 関与。(イギリス)
・審査をフォローアップする過程における、ジェンダーの視点の組織的かつ継 続的な組み入れ。(スロベニア)
61.これらの勧告に対する日本の回答は、第8回人権理事会で採択される結 果文書に含まれる予定である。
62.本報告書に含まれる全ての結論及び/又は勧告は、勧告を行った国及び 被審査国の立場を反映したものである。作業部会全体によって承認されたもの であると解釈されてはならない。
▼以上のような課題が海外から指摘されています。ひとつひとつ取り上げて、解決していかなければなりません。とりわけ パリ原則に沿った人権機構を設立(人権救済のため)、自由権規約第一選択議定書(個人通報制)及び第二選択議定書(死刑廃止)、 拷問等禁止条約選択議定書(冤罪防止のため)が急がれています。(2020.7.5)

6月6日 衆参両議院本会議にて、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議」を全会一致で採択
「昨年九月、国連において『先住民族の権利に関する国際連合宣言』が、我が国も賛成する中で採択された。 これはアイヌ民族の長年の悲願を映したものであり、同時に、その趣旨を体して具体的な行動をとることが 、国連人権条約監視機関から我が国に求められている。」
「我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、 貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を、私たちは厳粛に受け止めなければならない。」
「すべての先住民族が、名誉と尊厳を保持し、その文化と誇りを次世代に継承していくことは、国際社会の潮流であり、 また、こうした国際的な価値観を共有することは、我が国が二十一世紀の国際社会をリードしていくためにも不可欠である。」
「特に、本年七月に、環境サミットとも言われるG8サミットが、自然との共生を根幹とするアイヌ民族先住の地、 北海道で開催されることは、誠に意義深い。」
「政府は、これを機に次の施策を早急に講ずるべきである。
1 政府は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を踏まえ、アイヌの人々を日本列島北部周辺、 とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族と認めること。
2 政府は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されたことを機に、同宣言における関連条項を参照しつつ、 高いレベルで有識者の意見を聞きながら、これまでのアイヌ政策を更に推進し、総合的な施策の確立に取り組むこと。」
右決議する。

6月6日、 町村信孝官房長官がアイヌ民族に関する国会決議を受けて発表した談話は次の通り。
1 本日国会において『アイヌ民族を先住民族と求める国会決議』が全会一致で決定されました。
2 アイヌの人々に関しては、これまでも平成8年の『ウタリ対策の在り方に関する有識者懇談会』報告書等を踏まえ 文化振興等に施策を振興してきたところですが、本日の国会決議でも述べられているように、 我が国が近代化する過程において、法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたアイヌの人々が多数に上ったという 歴史的事実について、政府として改めて、これを厳粛に受け止めたいと思います。
3 また政府としても、アイヌの人々が日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、 独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族であるとの認識の下に、『先住民族の権利に関する国際連合宣言』 における関連条項を参照しつつ、これまでのアイヌ政策をさらに推進し、総合的な施策の確立に取り組む所存であります。
4 このため、官邸に、有識者の意見を伺う「有識者懇談会」を設置することを検討いたします。 その中で、アイヌの人々のお話を具体的にうかがいつつ、我が国の実情を踏まえながら、検討を進めてまいりたいと思います。
5 アイヌの人々が民族としての名誉と尊厳を保持し、これを次世代へ継承していくことは、 多様な価値観が共生し、活力ある社会を形成する「共生社会」を実現することに資するとの確信のもと、 これからもアイヌ政策の推進に取り組む所存であります。
▼下線を引いた法的には等しく国民でありながらも差別され、 がアイヌモシリ回復訴訟で最低限問いたいところ。(2020.7.5)
▼ユポさんのこの講演は2008年春。12年後の2021年春の今読んでみて状況がまったく変わっていないことに愕然としました。 (2021.6.3)
ユポさんの講演1
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ユポさんの講演2
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ユポさんの講演3
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ユポさんの講演4
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ユポさんの講演5
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ユポさんの講演6
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2007.5.14北海道新聞(拡大)
復権の道ユポさんメモ(拡大)





「復権の道ユポさんメモ」はユポさんからいただきました。
「2007.5.14北海道新聞」アイヌ文化振興法が1997年、制定されますが、10年後の2007年でも課題山積、 という村山健記者の記事です。(2021.7.22)

先住民族権利宣言を受けて2008年の動き
▲2007.9.13国連先住民族権利宣言 2008.5.14国連人権委員会日本政府に勧告  2008.6.6衆参両院本会議国会決議 2008.6.6町村信孝官房長官談話
1997年3.27二風谷ダム判決を踏まえると 立法、行政、司法の三権がアイヌ民族を先住民族と認めたことになる。常々ユポさんが仰っていること。しっかり腹にしまい、意識すること。 (2022.4.29)


カナダ首相による元インディアン寄宿舎学校生徒への謝罪に関する研究:謝罪への過程とその論理
鹿児島純心女子大学学術リポジトリに飛びます。そこで「カナダ首相による元インディアン寄宿舎学校生徒への謝罪に関する研究」 が出ています。HIROSE-KO17をクリックしてください。論文がdownloadsできます。
この論文は これから日本政府が今後歩まなければならない「アイヌ先住民族への謝罪の道」を示してくれているように感じました。
▼カナダのハーパー首相が実際どのような謝罪をしたかを示しておきます。
ハーパー首相のインディアン寄宿舎学校制度へのこころからの謝罪
ハーパー首相のインディアン寄宿舎学校制度へのこころからの謝罪
Prime Minister Harper offers full apology on behalf of Canadians for the Indian Residential Schools system
11 June 2008
Ottawa, Ontario

The treatment of children in Indian Residential Schools is a sad chapter in our history.
インディアン寄宿舎学校における子ども の扱いは、わが国の歴史の悲しい一章であります。
For more than a century, Indian Residential Schools separated over 150,000 Aboriginal children from their families and communities.
一世紀以上もの間、インディアン寄宿舎学校は、15万人以上もの先住民族の子ども達を、その家族やコミュニティから 引き離しました。
In the 1870's, the federal government, partly in order to meet its obligation to educate Aboriginal children, began to play a role in the development and administration of these schools.
1870年代に、連邦政府は、アボリジニの子供たちを教育するというその義務を部分的に果たすために、これらの学校の開発と運営において役割を果たすようになりました。
Two primary objectives of the Residential Schools system were to remove and isolate children from the influence of their homes, families, traditions and cultures, and to assimilate them into the dominant culture.
レジデンシャルスクールシステムの2つの主な目的は、子供たちを彼らの家、家族、伝統、文化の影響から取り除き、彼らを支配的文化に同化させることでした。
These objectives were based on the assumption Aboriginal cultures and spiritual beliefs were inferior and unequal.
これらの目的は、先住民の文化や精神的信念が劣っていて不平等であるという仮定に基づいていました。
Indeed, some sought, as it was infamously said, "to kill the Indian in the child".
その目的は、「インディアンをその子ども時代に殺すこと」だったのであります。
Today, we recognize that this policy of assimilation was wrong, has caused great harm, and has no place in our country.
本日、カナダは、この同化政策が誤ったものであり、大きな傷害の原因となるものであったこと、そしてわが国にはこのような政策が存在する余地がな いこと認めます。
 教皇の謝罪(拡大)    2022.4.3 朝日朝刊
▲「同化政策によって文化とアイデンティティーが大きく損なわれた」 アイヌ民族も同じ。(2022.4.14)

One hundred and thirty-two federally-supported schools were located in every province and territory, except Newfoundland, New Brunswick and Prince Edward Island.
ニューファンドランド、ニューブランズウィック、プリンスエドワードを除く全て の州および準州に、132年もの間カナダ政府が支援する学校がありました。
Most schools were operated as "joint ventures" with Anglican, Catholic, Presbyterian or United Churches.
その殆どは、アングリカン教会、カトリック教会、プレスビテリアン教会、ユナイテッド・チャー チとの合同事業として運営されました。
The Government of Canada built an educational system in which very young children were often forcibly removed from their homes, often taken far from their communities.
カナダ政府は、幼い子どもをしばしば家庭から、しばしば、そのコミュニティから強制的に引き離すという教育制度を設立しまし た。
Many were inadequately fed, clothed and housed.
多くの子ども達に与えられた食事、衣類、住居は不適切なものでありました。
All were deprived of the care and nurturing of their parents, grandparents and communities.
子ども達はみな、親や祖父母の養育を剥ぎ取られました。
First Nations, Inuit and Metis languages and cultural practices were prohibited in these schools.
これらの学校では、ファース トネーションズ、イヌイット、メイティの言葉を話すことや文化的な実践を行うこと が禁じられました。
Tragically, some of these children died while attending residential schools and others never returned home.
悲しいことに、寄宿舎学校滞在中に亡くなり、二度と帰宅できなかった子ども達もいました。
The government now recognizes that the consequences of the Indian Residential Schools policy were profoundly negative and that this policy has had a lasting and damaging impact on Aboriginal culture, heritage and language.
カナダ政府は、インディアン寄宿舎学校のもたらしたものは誤ったものであること、 そして、この制度が今も先住民族の文化、遺産、言語に、引き続き、打撃を与えてい ることを認めます。
While some former students have spoken positively about their experiences at residential schools, these stories are far overshadowed by tragic accounts of the emotional, physical and sexual abuse and neglect of helpless children, and their separation from powerless families and communities.
寄宿舎学校での体験を肯定的に語る元生徒がいる一方で、このよ うな話は、頼る縁のない子どもたちに対する情緒的虐待、体罰、性的虐待、養育放棄、 子ども達を引き離されることを阻む権限をもたない家族やコミュニティからの別離に まつわる悲話に、圧倒的に凌駕されるのであります。
The legacy of Indian Residential Schools has contributed to social problems that continue to exist in many communities today.
インディアン寄宿舎学校の負の遺産は、今日、数多くのコミュニティに存続している社会問題の原因ともなっていま す。
It has taken extraordinary courage for the thousands of survivors that have come forward to speak publicly about the abuse they suffered.
それは彼らが被った虐待について公に話をすることを先にやってきた何千人もの生存者にとって並外れた勇気を要しました。
It is a testament to their resilience as individuals and to the strength of their cultures.
それは個人としての彼らの回復力と彼らの文化の強さに対する証です。
Regrettably, many former students are not with us today and died never having received a full apology from the Government of Canada.
残念なことに、元学生の多くは今日私たちと一緒ではなく、カナダ政府から完全な謝罪を受け取ったことがないために死亡しました。
The government recognizes that the absence of an apology has been an impediment to healing and reconciliation.
政府は謝罪の欠如が癒しと和解の妨げとなってきたことを認識しています。
Therefore, on behalf of the Government of Canada and all Canadians, I stand before you, in this Chamber so central to our life as a country, to apologize to Aboriginal peoples for Canada's role in the Indian Residential Schools system.
したがって、カナダ政府とすべてのカナダ人を代表して、私は国としての私たちの生活の中心であるこの議会で、 インドの寄宿舎学校制度におけるカナダの役割について謝罪するためにみなさんの前に立っています。
To the approximately 80,000 living former students, and all family members and communities, the Government of Canada now recognizes that it was wrong to forcibly remove children from their homes and we apologize for having done this.
およそ8万人の元生徒のみなさん、そのすべてのご家族、地域に対し、カナダ政府 は今、強制的に家庭から子ども達を連れ去ったことが誤りであったと認め、謝罪致し ます。
We now recognize that it was wrong to separate children from rich and vibrant cultures and traditions that it created a void in many lives and communities, and we apologize for having done this.
カナダ政府は今、豊かで生き生きとした文化、伝統から子ども達を引き離した ことは誤りであり、それが多くの方々、地域の生活に喪失感を生み出したことを認め、 謝罪致します。
We now recognize that, in separating children from their families, we undermined the ability of many to adequately parent their own children and sowed the seeds for generations to follow, and we apologize for having done this.
カナダ政府は今、子ども達を家族から引き離したことで、自らの子ど も達を適切に養育し、世代を継承する種を撒く能力を損なわせてしまったことを認め、 謝罪致します。
We now recognize that, far too often, these institutions gave rise to abuse or neglect and were inadequately controlled, and we apologize for failing to protect you.
カナダ政府は今、これら寄宿舎学校が、あまりにもたびたび、児童虐 待あるいは養育放棄を引き起こしたこと、そして不適切な経営がなされたとこを認め、 みなさんの保護に失敗したことに対し謝罪致します。
Not only did you suffer these abuses as children, but as you became parents, you were powerless to protect your own children from suffering the same experience, and for this we are sorry.

このような虐待は、みなさんが子どもの時分に味わったというだけでなく、みなさんが親となった時にも、みなさん が味わったのと同じ経験を子ども達にも味合わせることとなり、無力感を味あわせて しまいました。このことに対し、おわび申し上げます。
The burden of this experience has been on your shoulders for far too long.
この経験の重荷はあなたの肩にずっと長い間ありました。
The burden is properly ours as a Government, and as a country.
その負担は、政府としても、そして国としても、私たちの責任です。
There is no place in Canada for the attitudes that inspired the Indian Residential Schools system to ever prevail again.
カナダには、インディアンの寄宿舎学校制度に再び影響を与えた態度があります。
You have been working on recovering from this experience for a long time and in a very real sense, we are now joining you on this journey.
あなたがたは長い間この経験から回復することに取り組んできました、そして非常に現実的な意味で、我々は今この旅であなたがたに加わっています
The Government of Canada sincerely apologizes and asks the forgiveness of the Aboriginal peoples of this country for failing them so profoundly.
カナダ政府は、この国のアボリジニの人を非常に惨めな境遇に陥れたことにに謝罪と赦しを乞います。

Nous le regrettons
We are sorry
Nimitataynan
Niminchinowesamin
Mamiattugut

In moving towards healing, reconciliation and resolution of the sad legacy of Indian Residential Schools, implementation of the Indian Residential Schools Settlement Agreement began on September 19, 2007.
インディアンの寄宿舎学校の悲しい遺産の癒し、和解、解決を目指して、2007年9月19日にインディアンの寄宿舎学校との和解協定の実施が始まりました。
Years of work by survivors, communities, and Aboriginal organizations culminated in an agreement that gives us a new beginning and an opportunity to move forward together in partnership.
長年にわたる生存者、委員会、アボリジニ組織の活動によって合意に達し、それが 新たな始まりとパートナーシップの元で共に前進する契機となりました。
A cornerstone of the Settlement Agreement is the Indian Residential Schools Truth and Reconciliation Commission.
和解合意の礎は、インディアンの寄宿舎学校の真実和解委員会です。
This Commission presents a unique opportunity to educate all Canadians on the Indian Residential Schools system.
この委員会はすべてのカナダ人をインディアンの寄宿舎学校システムで教育するユニークな機会を提供します。
It will be a positive step in forging a new relationship between Aboriginal peoples and other Canadians, a relationship based on the knowledge of our shared history, a respect for each other and a desire to move forward together with a renewed understanding that strong families, strong communities and vibrant cultures and traditions will contribute to a stronger Canada for all of us.
アボリジニの人々と他のカナダ人との間の新しい関係、私たちの共有する歴史の知識に基づく関係、互いの尊重、 そして強い家族が強いという新たな理解とともに前進するという願いは、前向きなステップとなるでしょう。地域社会、活気に満ちた文化、 伝統は私たち全員にとってより強いカナダに貢献するでしょう。
On behalf of the Government of Canada
The Right Honourable Stephen Harper,
Prime Minister of Canada

※日本語訳は大部分、広瀬健一郎さんの「カナダ首相による元インディアン寄宿舎学校生徒への謝罪に関する研究」 を使わせていただきました。

▼日本政府の安倍晋三首相もカナダ政府のステヴァン・ハーパー首相に倣ってアイヌ民族にこのような 謝罪をしてアイヌモシリの回復をふくめた政策を打ち出すべき。

カナダ先住民学校
朝日朝刊2021.6.6(拡大) カトリック教会
記録の公開に抵抗
カムループス(拡大)
▼現代とは過去のあやまちを正す時代(2021.6.6)
朝日朝刊2021.9.29(拡大) 先住民学校の闇1 先住民学校の闇2
朝日朝刊2022.4.3(拡大) 教皇の謝罪














▼カナダの建国1867年。明治維新1868年。先住民政策は日本も同じ。ある意味こういう時代でもあった。 しかし100年後の対応が違う。1990年のスパロウ判決、2008年の首相の謝罪、2016年カナダ・クイーンズ大学の調査、 2021年先住民学校の発覚への対応。(2021.10.2)
▲そして2022.4.1遂に教皇が謝罪した。このカナダの事例は遺骨問題謝罪の参考になる。(2022.4.29)


6月28日 北海道議会決議・「アイヌ民族を先住民族と位置づけるための措置に関する決議」
▼北 海 道 議 会
 平成20年第2回定例会において提出のあった決議案
決議案第1号 アイヌ民族を先住民族と位置づけるための措置に関する決議
    [20.6.27 蝦名 大也議員ほか4人提出/20.6.28原案可決]
さきの国会において、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で可決され、 また政府は、この決議を受けて、アイヌ民族が先住民族であるとの認識を示す内閣官房長官談話を表明した。
国会決議において示された 「我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、 貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を、私たちは厳粛に受け止めなければならない」という認識を、私たちも共有しなければならない。
私たちは、政府が、国会決議にある「先住民族の権利に関する国際連合宣言における関連条項を参照しつつ、 高いレベルで有識者の意見を聞きながら、これまでのアイヌ政策をさらに推進し、総合的な施策の確立」を速やかに実現することを期待する。
また、総合的な施策については、アイヌ文化の振興や保存・伝承、教育の充実、就業支援などの生活の向上の視点で、 国の責務として拡充を図ることが求められるものであり、道においても、アイヌ施策の推進に主体的に取り組む必要がある。
よって、本議会は、アイヌの人たちの民族としての誇りを尊重し、社会的、経済的地位の向上を図るために、 アイヌの人たちの意見を取り入れ、実効性のある施策が進められるよう、道民と一体となって取り組む決意を表明するものである。
   以上、決議する。
  平成20年6月28日                          北 海 道 議 会
上記決議のHPです。 アイヌ民族を先住民族と位置づけるための措置に関する決議


7月1日 国会決議を受け、政府・首相官邸内に「アイヌ政策の在り方に関する有識者懇談会」設置(委員8名中、アイヌ委員1名)
7月7日〜9日 G8サミット・洞爺湖
洞爺湖サミット (拡大)
9月17日 第2回有識者懇談会 加藤理事長発言要旨 
1 「同化政策」
2 「土地と資源」
3 「法制史」
4 「アイヌ民族の生活実態」
  「政府に対するこれまでの要請」
2008年9.17加藤忠理事長発言
9月17日第2回 アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会  

       加藤忠理事長発言要旨                 首相官邸 2階小ホール

9月の初めに、残念ながら福田首相が辞意を表明されましたが、 この懇談会の今後につきましては、引き続き所期の目的を果たすべく、 アイヌ民族にとって、また日本政府、国民にとっても意義のある成果が導き出せますことを強く望みます。 

第1回有識者懇談会終了後の福田首相との面談の際、日本はアイヌ民族を含めた「多民族国家」であるとのお話がありました。 その認識については委員の皆さんとも、間違いなく共有せれているものと思います。そして、この懇談会の審議では、 アイヌ民族が「多民族国家」日本における、「先住民族」であることを前提に取り運ばれるものと考えておりますし、 各委員さんからも共感とご支持いただいているものと考えております。
あわせて、このことは取りも直さず、懇談会の開催趣旨や付託されて主な検討事項を話し合うにあたっての、 根幹となる欠くべからざる要件であると思います。

さて、昨年9月の国連総会における「先住民族の権利宣言」採択に際して、 ビクトリア・タウリ・コープス国連先住民族問題常設フォーラム議長が、私やアイヌの多くの仲間の考えと、同じ趣旨の発表をしておりますので、 ご紹介いたします。
「国際連合における宣言起草に多くの時間を費やしたのは、先住民族が固有の民族としての権利を持ち、そしてすべての関係者による 建設的な対話が、多様な世界観と文化に関するより良い理解やお互いの立場の再調整を促すものであるという確信があったからであります。 そして、より公正で持続可能な世界に向けた、国家と先住民族とのパートナーシップの構築が、何よりも大切であるという信念があったからなのです。 この宣言は、先住民族の状況に関する意識を喚起し、その進展をモニターし、さらに先住民族の権利を保護し、尊重し、 達成するための重要な手段であり、道具であります。これら宣言内容が先住民族に適用され、人権に基づく取り組みの具体化とその運用に貢献し、 あわせて国家や国連機関、先住民族と市民社会が、「第2次世界大戦の先住民族の国際10年」のテーマである 「行動と尊厳のためのパートナーシップ」を実現するための主要な枠組みとなることでしょう。」と述べ、結びに 「この宣言を効果的に遂行できるかどうかで、国家そして国際社会全体が先住民族の集団的および個人的人権を保護し、 尊重し、達成するための姿勢が試されます。この歴史的な任務に立ち上がり、人類共通の未来のために、 「先住民族の権利に関する国連宣言」を生きた文書とするよう要請します。」と呼びかけています。

今後、世界の先住民族との相互連帯によるネットワークづくりが進み、国連システムの取り組みとも相まって、 ますます活動が活発になっていくものと思われます。ニューヨークで毎年春開催される国連先住民族問題常設フォーラムは、 多くの先住民族が精力的に学び合いながら、自らの諸問題の解決について国連機関や各国政府との間で、 対話と協調の精神を持って活動を続けております。
日本における「アイヌ民族の位置づけ」について、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を参照しつつ、 どの様に定め、その政策を進めていくべきかを考えるとき、この「権利宣言」や国連人権条約監視機関が日本政府に求めている 勧告や懸念事項に法的拘束力がないとの理由によって、決してこれらを軽視すべきではないとおもいます。
なぜなら、むしろ再三再四「単一民族国家」との発言があった日本において、先住民族に関する国際的な人権基準には、 これから取り組むべき多様な価値観を導入し、物事の本質を捉えた、豊かさと希望への架け橋となる英知が込められていると思うからです。 そこには、多くの先住民族を抱えた国々や関係者、ならびに、先住民族当事者の貴重な経験に基づく、祈りにも似た「願い」が 潜んでいるからであります。
ここで、多くの国の代表と国際機関、先住民族の仲間が出席する昨年5月の国連先住民族問題常設フォーラムにおいて、 私からの「願い」であり、理事長の立場で発言したスピーチの一部をお伝えします。
「ちなみに、第二次大戦前に日本の植民地であった台湾、サハリンでは、現在、自国内の原住・先住民族の存在を認め、 具体的な施策を法的措置や漁業権の確保などにより取り組んでおります。 国家との間で条約も結べなかった弱い立場の先住民族の一つであるアイヌ民族が、 パーマネントフォーラム出席の皆さんにその主張の正当性と国連の定義を持ち出すまでもなく 日本政府がアイヌ民族を先住民族であると認知すべきであることをしっかりと確認していただきたく資料を示して情報提供いたします。
日本ではアイヌ文化振興会が制定されたことによってアイヌ民族に対する法整備が整ったわけではありません。 日本国の現行憲法には民族規定を想定しておらず、先住民族の国連権利宣言の結実や国内での先住民族の認定が無ければ、 アイヌ民族の人権進展が促進されない状況なのです。当協会は、資料1のとおり昨年12月20日に 政府高官に先住民族の認知と国レベルでの審議機関の設置を求め、現在のアイヌ文化振興会の拡充やアイヌ民族の 経済的、社会的、文化的など広範囲にわたる法的措置に基づく施策の確立を求めるなど、 民族間の格差是正のための抜本的な取り組みをするよう要請しております。
過去の日本国のアジア地域の植民地化はアイヌ民族への植民地化から始まりました。
日本国が歴史的事実を直視しアイヌ民族に対する責任遂行としての政策に取り組むことは、資料2にある日本国における植民地主義の 本当の意味の終焉と人権の主流化を実践すると同時に、国際社会での平和構築と社会正義の実現のために必須のことと考えます。 日本国が真の人権国家となっていくことを期待しその実現を信じております。 ご来臨の皆様のご理解と今後のモニタリングを含めたご支援をお願いいたします。」と発表しました。

 国際連合を尊重するという日本政府の一貫した方針及び国際的なルールを尊重するという憲法98条2項の精神などを踏まえ、 先住民族であるアイヌ民族には、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を十分に、そして余すところなく尊重していただき、 これからの日本国内における政策立案を積極的に導き出すことができるよう、心から期待をしているところであります。
一方で、日本における先住民族アイヌは、他国の国情及び先住民族の状況と異なるものがあるのも事実であります。 「人権」や「民族」の概念などに関してかねてから教育の機会での理解の必要性が日本文化人類学会によって指摘せれておりましたが、 この6月の国会決議の前日にも同様な趣旨の見解を配布資料のとおり表明しております。 第二次大戦前の公教育において、小中学生の国定教科書は、おおむね全国一律同じ教科書が用いられておりましたが、 その地理、国語、歴史の教科書には、大和民族と並んで明確に土人としてアイヌ民族のことが記載されておりました。  北海道ウタリ協会では、自らの組織名を、来年から、「ウタリ」から本来の民族呼称である「アイヌ」に変えることにしました。 名称の変更をすればまた弱い子供たちに対する差別が惹起するとか社会のアイヌ民族理解がまだ醸成されていなく時期尚早との意見があり、 不安が無いとは決して言えません。しかし、この機会に勇気をもって日本社会に働きかけをする決意なのです。
戦後日本は、戦前の極端な自民族(大和民族)中心主義の反動からか、「民族の枠組みからの国家論」を排除する方向での 国民国家づくりを進めました。少数のアイヌ民族は排除され、そして同化され消滅してしまったと一方的に決めつけられたのです。 すべて民族呼称や民族存在の有無さえも、その決定の主体は多数者の論理でした。
これまでの「何時の世もすべて少数者の意見は反映されても最後になるのが当然だ」、「民主主義は基本的に多数者の論理が優先するんだ」 という誤った考えが、私たちを置き去りにした大きな原因です。挙句の果てにアイヌ民族の身体的差異をあげつらって 人種差別的発言をされるのでは、何ら立つ瀬がないのではないでしょうか。
例え少数であろうとも、その個人の出自に由来する民族としての背景はすべての「人」が持っており、 その基本的人権が守られるべきなのが前提です。
すべての人間はこの世に生まれるときに産声を発声します。 産声はどの個人もさほど変わりはないのですが、人間は母親、父親から発せられる言語によって、また、その言語を育んできた集団の文化によって、 社会によって育まれ、初めて人間となるのです。 その社会や集団から身につけた言語、知恵や技術などを次の世代へ受け渡すのが文化伝承です。

 アイヌ民族の場合には、大正から昭和初期のころ、アイヌ民族の日本人化を積極的に加速する「旧土人小学校」が全道に25校設置されており、 授業科目も和人の学校より少ない分離差別教育が行われていました。アイヌ語から日本語へとその言語の変換が政策的に推し進められました。 急激な変化にアイヌ文化も打撃をうけ、アイデンティティの揺らぎまでへと進んできたのです。 その頃は、アイヌ語しか理解できないアイヌ人のグループ、アイヌ語と日本語両方が理解できるグループ、 日本語しか理解できないグループが同時に存在していた時代です。
昭和12年、戦時色が色濃くなった頃、北海道旧土人保護法の大きな改正がありました。 アイヌ語しか理解できないアイヌのグループが段々少なくなるにつれ、同時に戦況も厳しくなり、 ついにはアイヌ施策が行われなくなったのです。
北海道は戦前は内務省が管轄しており、北海道旧土人保護法が制定された頃には、北海道議会は存在しておりませんでした。
ちなみに、明治元年には、北海道の人口はアイヌ民族を含め、6万人程、和人のほとんどが道南の渡島半島内に住んでおり、 一方、アイヌ民族の多くは、それ以外の地域に住んでおりました。
アイヌ語を話し、明治20年頃までは自らの生業に関し、一定の自由度を保っていたのです。
明治維新による大きな社会構造変革のひずみを、北海道への殖民政策が一手に引き受けました。
いわゆる元年組と言われるハワイ、グアムへの明治初期の移民が現地で奴隷のように処遇されたことから、 海外移民は明治18年まで禁止となり、専ら北海道への移民のみが奨励されたのです。
「北海道旧土人保護法」制定の前年、明治31年には、全道人口853,239人、内アイヌ総数17,573人、そのわずか20年後、 大正7年には、全道人口2,167,356人、内アイヌ総数17,619人と統計資料に掲載されています。
世界のどこにも類例の無いほど、一定の地域に怒涛のごとく移民が押し寄せたかが分かると思います。
現在、北海道の総人口は560万人となっております。
その様な経緯に加え、戦後は「北海道旧土人保護法」の積極的な保護的支援施策は 進められるどころか「自作農創設特別措置法」改正に伴い、同法によりアイヌに下付された給与地が適用となり没収などの憂き目にあいました。
河川や道路工事に伴う給与地売買の許認可と共有財産の管理のみ北海道知事が行っていました。
アイヌ施策は完全ななおざり状態が16年間続いたのです。
戦後、国家の立て直しの中、新憲法発布と同時にアイヌ民族は、実質、法的に無視されたのです。
 昭和36年にウタリ協会の活動再開に合わせ、ようやく行政が福祉政策として対応することとなりました。
それからも、国は「単一民族国家」の標榜を、平成3年まで続けてきたのが実態です。
このようにアイヌ民族にとって四面楚歌のような社会と認識の土台の上に「先住民族」の概念さらに「先住民族」の権利を主張できる 当事者であることを理解してもらうのには大変な努力が必要です。
それでも何とかこれまでは社会の無理解に抵抗しながら、
<しかし、このことは人によっては国家にあらがう不満分子のように、また、ひどい場合は差別権利を求めるように 誤解される方もおられるようですが>、
北海道に支援も受けながら、組織の活動資金もない中、自らの啓発を進めてきたのです。 いよいよ当協会の活動資金も底をつき、現在、理事会旅費はすべて自費であるばかりか、 この懇談会への対応や、国会や政府への要請活動が資金的にできなくなる寸前の状況であることも現実なのです。
かつて「アイヌ民族に関する法律」制定要望に際し、アイヌの自主性が最大限に確保され、国の適正な監督が及ぼされる性格のものとして、 アイヌの自立的活動を促進するための自立基金の創設を要望しましたが、アイヌ民族自らの活動を支援することについては、 国の支援は必要不可欠です。現在、アイヌ文化振興会の活動についても、多くのボランティアの負担を強いているのが実態です。

 先住民族の主体的なあらゆる活動を活性化することを含め、新しいアイヌ政策の検討に当たっては、まさに国連宣言条項にもある 「国家からおよび国際協力を通じての資金的および技術的な援助を利用する権利」を検討課題として取り上げていただきたいと思います。
「単一民族国家」発言の話題が持ち上がったころには、啓発活動はアイヌの力だけで行っていましたが、 日本文化人類学会は、はっきりと理解と応援をしていただいてきております。
「民族」と「文化」は、まさに関連性が強く、理解されやすい領域です。しかし、歴史学や法制史を含めた法律学、教育学など、 体系的な学問領域からの啓発や理解不足解消への取組みはなかなか進まず、研究体制は十分とは言えません。 これら領域の取組みを進めていただくことはとても重要です。いずれにしましても、日本国内でのアイヌ民族理解が驚くほど乏しいこと、 諸課題の解消を難しくしている大きな要因の一つは、前回、山内委員、佐々木委員から発言がありました、 これまでのアイヌ民族に対する公教育をはじめとした国民の理解や学問的な研究の取組みが、不十分であったという指摘に、 私も全く同感であります。何よりも政府を初めとした国家の責任においてしっかりとした人道主義の柱を打ち立てて、 公的で専門的な啓発、教育をしてもらわなければ立ちゆきません。
 そこでこれは私からの提案ですが、例えば、この審議会の報告書の骨子が固まる頃に、 社会的な影響力が絶大である各委員の先生が主体となって、個人の資格で率先して講演会などを催すなどの機会を検討していただけないでしょうか、 可能であるならば全国エリアのテレビや新聞などで、国民への啓発活動をしてもらうことを内閣官房の事務局へもお願いしたいとおもいます。 その様な切っ掛けを作っていただき、理解促進の気運を高めていただければ、ありがたいと思います。
実現できれば率先の取り組みとなるでしょう。国民の理解には教育や啓発によって目を開いてもらうことが必要です。 この国民の理解促進は、短期、中期、長期の仕分けには馴染まない事柄です。それぞれの場面や状況に応じ、 効果的な手法とその影響を想定して、今後、恒常的な対応をしてもらう事柄と思っております。
 次も同じく、大きな影響力のある文化行政的な側面での提案です。
人間文化研究機構の各研究機関には国立民族学博物館を除き、 アイヌ民族関連も研究スタッフがおらず、取り立てて窓口がありません。
人間文化を取り扱うのであれば、同じ人間のアイヌ民族を仲間はずれにしないで国家プロジェクトの側面として強化していただくことを 検討して欲しいと思います。
 次にその啓発とこれからの政策立案の方策に当たり、特に訴えるべき観点について述べていきたいと思います。
一つ目は、「同化政策」に焦点を当てた観点です。一概に「同化政策」とは言いますが、換言しますと、 「日本国民」に強制的に組み込まされること、「民族的アイデンティティ」、内心への脅迫なのだ、ということを、 先ず始めに想像していただきたいのです。先住民族であるアイヌ民族は、江戸時代の後期からの歴史的過程において、 繰り返し、同化政策を強いられてきました。民族独自の文化や言葉を捨てさせられてきたことです。 アイヌ民族に対する同化政策は、江戸時代の幕府直轄時代にロシアの南下との関係で、 そして明治政府の近代化、植民政策の脈絡のつどに、進められてきました。 江戸時代から中央と地方の関係や流通商業による不平等な交易、労働力の搾取など民間人と統治体制との構造的な枠組みの中に位置づけられ、 国家間の政治的な要因や国際間の法秩序との関連性などにも大きく影響されました。 いずれも「ロシアの動静」及び「国内事情や法制度」と「国際関係」との相互バランスが基底となってきているのですが、 「同化政策」の動機付けは、アイヌ民族にとって全てが外部からの影響、翻弄にすぎなかったのです。 同化政策と同時に、隣国ロシアとの間に結ばれ数度にわたり変更された国境線画定や領土問題に絡む国際条約締結などにおいて、 否応なく、樺太アイヌ、千島アイヌが居住の地から移住させられました。
二つ目の観点は、「土地と資源」です。アイヌ語では概念が異なってきますが「モシリ」、「イオル」、「アエプ」などで対応するものです。 アイヌ民族が古くから居住し、山川海すべての大地や海洋にある動植物との密接な関り合いの中、広義の文化享受と自らの民族の生命を託してきた、 いわゆる「土地と資源」が、自らが他の場所に移動することなく、居ながらにして他者に奪われたことです。 また、あまり知られてはおりませんが、道内市町村史にも記録されているように小樽、旭川、釧路、網走など、 入植者の都合により、北海道内においても居住に適した土地から別の不適な土地へと、多くの強制的な移住がお行われました。 アイヌ民族の生活は、基本的に「土地と資源」から生産される一次的な自然資源の生産物とその交易により成り立っていました。 自らの日々の生活を営むため、子孫を育むため、自然との調和が取れた社会を維持し、発展させるための可能性や自らの世界観、価値観の基盤となる、 様々な「人」と「土地・資源」との繋がり、「神々」との繋がりが分断されました。 そしてそれが継続できなくなってきたという厳然とした事実があるということです。

三つ目の観点は、「法制史」です。「法制史」の変遷過程とそれら時代背景や実効性を検証することがこの懇談会審議に重要であると考えます。 憲法でいう国家の三要素「領土」、「人民」、「主権」との関係もありますし、先刻の国会決議にある「我が国が近代化する過程において、 多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも、差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を厳粛に受け止めなければならない」、 とのくだりは、実質的に、一方的に無主の地として日本領土に組み入れた後、地券発行条例などの4つの土地法などを定め施行してきたという 具体的内容を共通認識としなければなりません。「同化政策」も「土地・資源」の収奪も抑圧される側への法制度などとしての 押しつけがあったからに他ならないからです。その権力側からの多くの与奪に法律や制度が関わってきたからです。 「民族」としての対策の一貫性が保てなかったことと「先住民族」と認めたがらなかったことは、表裏一対で、 もちろんその政策判断や効果の検証なども曖昧なままにされてきたのです。
 「同化政策」、「土地と資源」、「法制史」の三つの観点から、アイヌ民族と日本、日本人との関係性を述べましたが、 基本的な問題は「民族の自決権」、当事者の存在尊重、そのとらえ方とあり方、そのものが重要視されてこなかったことです。 このように述べる一番の理由は、今回の政策を考えるに当たっての根幹の思想を設定するに当たって、 認識の過ちをしないためであります。また、私たちが現在、歴史認識を訴える際に紹介している資料は、 逆照射的ではありますが、和人松浦武四郎の紀行集でもあるのです。その紀行集は、当時、公正で人間的な眼差しをもって記録されており、 少なからずその様な人たちとアイヌ民族との交流があったことも事実であり、その記録は、現在の私たちの主張を下支えしてくれていますし、 時代を超えて人々の胸を打つ、普遍的な価値を持っています。このような歴史のつながりあいを考えると、 差別する側と差別される側だけの構図で物事を強く主張しすぎると、個人レベルの観点の欠落や反発がつきまとうことにもなりますので、 慎重に丁寧に理解促進を図っていかなければなりません。歴史認識や評価、相手のある交渉ごとなどでは、 複眼的にあるいは俯瞰して遠くから引いてみるなどのものの見方や考え方、寛容さなどが必要です。
最も大切なことは、相互にお互いの内心にある良心を感じ合い、立場などを尊重し合い、愛されうる主体になろうと努力することです。 誠意を持って真摯に取り組む態度、姿勢、そのものの貴重さなのではないでしょうか。  これら、るる述べてきたことが私たちの本当に訴えたい対話の姿勢であり、お互いが納得するための知恵なのです。 その様な意識を持ちながら、四つ目の観点であるアイヌ民族の「生活実態」や、政府に対するこれまでの要請の変遷等に触れて参りたいと思います。 平成18年度北海道アイヌ生活実態調査の報告については、高橋委員(知事)の方から詳しく報告がありますので、 説明を省きますが、北海道ウタリ協会は、昭和54年に行われた第2回目の北海道ウタリ生活実態調査の結果と 当時の北海道ウタリ福祉対策の効果について協議し、当時、実効性の無くなっていた「北海道旧土人保護法」の存廃などを検討した結果、 これまでの施策体系の実施ではなく抜本的、新たな総合的な民族対策でなければ、アイヌの社会的地位の向上は図れないとの判断に至りました。 昭和59年北海道ウタリ協会総会において、「アイヌ民族に関する法律(案)」を決議し、 国に対して新しい法律の制定と「北海道旧土人保護法」などの廃止を求めるため、同年7月、 北海道知事及び北海道議会議長に新法実現に向けて協力要請を行いました。その新しい法律の要望骨子は、
第一「基本的人権」
第二「参政権」
第三「教育・文化」
第四「農林漁業、商工業及び労働対策」
第五「民族自立化基金」
第六「審議機関」
の六項目を列挙し、抜本的かつ総合的な制度を法的措置によって国の責任のもと確立することでした。
その後、北海道段階での審議を経て、北海道、北海道議会、ウタリ協会三者が、参政権に関する要望は憲法論議に発展するとのことで削除し、 民族教育を含め教育一般も抜け落ちた形で、国にその制度を要望したのです。
結果的に、前回、平成8年の国の有識者懇談会において、立法措置に基づく新しい施策の概要をアイヌ文化振興を柱とした報告書として提言されました。  しかし、この報告書は、アイヌの先住性、民族性、文化の特色そして我が国の近代化の4点から、アイヌ民族の特質や歴史につて述べていましたが、 アイヌの先住性と民族性については個々の記述に止まり、それらを統合する概念としての先住民族については 時代の制約から明確には言及できませんでした。
また、北海道ウタリ福祉対策(現行、アイヌの人たちの生活向上に関する推進方策「北海道アイヌ生活向上推進方策」)については、 この実施をもってしてはアイヌの生活向上に十分に応えうるものとは必ずしも言えないと評価しています。 現在も依拠する法律がないままその施策が進められ、単年度の事業総額は、年々減少の一途をたどってきています。 アイヌ文化振興法制定当時、衆参両院内閣委員会での附帯決議に「「北海道ウタリ福祉対策」に対する支援の充実に、今後とも一層努める」 とあるにも関わらず、当時の予算総額34億円から16億に、アイヌ文化振興法の総額も2億円減額となっているのです。
さらに、北海道から道外へ転居したアイヌに対しては、必ずしも十分とは言えないとされた、その対策すらも適用されないという施策の限界、 属地主義に阻まれた矛盾もそのままになっております。
 本年3月、福田首相宛で新しくアイヌ民族政策として属人的な立法措置を求めたことは、 この度、国際連合の「先住民族の権利に関する国連宣言」などの国内対応や北海道アイヌ生活向上推進方策の拡充など、 前回有識者懇談会で整理されていた大きな積み残された検討課題であり、今後の取り組みが期待される審議課題とまさしく符合しているものなのです。 立法措置による新しい総合施策がなければ、我々が望む、幼児期からの一貫した手厚く効果的な教育支援制度、 文化に直接携わっていない事業者支援、熟年層への職業訓練などの諸施策、道外アイヌへの施策実施やお年寄りへの あらゆる角度からの生活面へのセーフティネットづくり、無年金者や健康保険未加入者、低賃金所得世帯の支援、 保護世帯からの脱却などの問題解決は図られません。
 前回も申し上げましたが、50歳のアイヌ男女の60%が中学校までしか卒業していなく、 そのすぐ上の世代は、おそらく70%以上が中学校は卒業すれども、ほとんど満足に修学できていないのです。 現在、大学進学率は北海道平均の2分の1です。その原因には、アイヌ語から日本語へと言葉を換えざるを得なかった、 私の祖父母時代の世代、親の世代が受けた人種偏見や民族差別と貧困、社会への不適応なども含めた、複合的な要素が絡んでいると考えています。
此のままの対策の継続では低所得、低学歴の再生産が延々と続きます。
そもそも全国でも最下位ランクの北海道の大学進学率38.5%と比較するのではなく、 全国の大学進学率55.3%とアイヌ民族の進学率17.4%とを比較するべきで、道外のアイヌも支給されるべきではないでしょうか。
いずれにしても、現行施策には現状の進学率をようやく維持してはいるものの、昭和50年代にウタリ協会が想定したとおり根本的、 飛躍的な向上には結びついていないのです。
教育機会の充実と多様化には、幅広い知見を生むことになり、就労や労働、生活意欲などを促していきます。 デジタルディバイトなど、所得格差から生じる教育環境の整備、学力、知力の向上支援を積極的に促進することが必要です。
 あわせて、民族的アイデンティティの涵養などを柱とした、民族教育的側面の教育機会の充実は、 アイヌ青少年の健康な発育に欠かせない要素です。現状の文化対策をも超えたアイヌ自身が自民族の文化教育を可能とし、 民族教育の実践ができる体系的な教育施設整備や人的体制を含めたシステムづくりが必要です。
理解の促進について、公教育へのアイヌ文化、歴史の導入も大変意味をもつものになると思います。 オーストラリアで実施されている遠隔地の青少年への教育、一般と民族双方の教育に対応するインターネットの活用など、 アイヌ民族専用で、さらに広く一般社会にも活用の手立てが工夫されるなどの新しい発想による象的な施設整備や施策の創設を望んでおります。
国立のアイヌ研究センターは残された課題の一つとなっていますが、これまでの文化対策にも増してアイヌ民族自らが文化実践、研究を担う主体となり、 国民理解につながる研究施設、国際的な先住民族理解に結びつく教育やアイヌ語を始めとした総合的なアイヌ民族学院のような 象徴的な施設の設置も切望します。
 現在、アイヌ語の基礎データを始め、文化振興の最も柱となるあらゆるアイヌ民族関連の基礎的情報の収集、集積、社会還元などに関する 取り組みが遅れております。今後、本格的に取り組んでいくためには、アイヌ語、アイヌ文化の専門家養成、 特に、時間が掛かる人的養成、体制を作り上げることが欠かせません。是非、強力に推進していただきたいと思います。
 人類学の分野では、江戸時代後期にイギリスとの外交問題となったアイヌの人骨盗掘事件が起こっています。 また、盗掘の結果、全国の大学に収集されたアイヌ人骨の返還や、人類学研究のあり方とその対応策を進め、 全国的な啓蒙と和解の象徴となるような施設の設置ができればと考えております。
 そもそも文化とは人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果であり、生活の様式と内容を含む広い概念で、 アイヌ文化もこの広義の文化なのです。しかし、アイヌ文化振興法は、このアイヌ文化をごく狭い意味の狭義の文化でとらえ、 「人」を認定しないで進められています。アイヌ文化振興をより理想的な形にするには、本来の文化の実践及び振興の方向に近づける工夫が必要です。 例えば文化振興と付随する文化関連の経済行為とが並行、付随するような工夫があれば、その裾野が広がります。 「土地・資源」を収奪された先住民族の広義の文化実践には、形を変えた特別な公有地、公有林などの利活用・貸与、管理などの方策を 取っていただきたいと思います。文化は、集団的、時間的な要素で成り立っていますが、先住民族文化は、 さらに「土地・資源」の要素に大きく依存して成り立つものなのです。
また、これまでの観光産業に携わるアイヌの仲間の努力が大きな柱となってアイヌ文化伝承を支えてこたことも事実です。 このような集住した観光地での民間努力を後押しする、工芸学院などを設置したり地域やコミュニティを包括し、 大きな網をかぶせたモデル的支援対策をとって、さらに力強い文化振興の核づくりとすることも提案したいとおもいます。
 故萱野茂参議院議員は、アイヌは北海道を売った覚えも、貸した覚えもないと話していましたが、 文化振興に限らずせめて私有地を除いた公有地や公有林の利活用や考えられる雇用創出の便宜供与など、 明治初期、生活のための捕獲を保障されていた共有漁場などを奪われた歴史的経緯などから、漁業権の一般の権利侵害を伴わない範囲での 一部付与などは、必要、不可欠な事柄です。



国民の理解や法律問題など根本的、複雑な課題が横たわっているものとは思いますが、実現の可能性を模索し、 早急な検討課題としていただきたいと思います。また、かつて協会総会で考えられた、 参政権の特別付与は、海外の先行事例に倣い、アイヌ民族の意見が政治、行政に反映される方途として例示したものです。 やはり国内では、政治的なアイヌ民族に対する支援の優先度が低く アイヌ民族の将来に向けてなかなか真剣に取り組んでいただけていない感は否めなかったのです。 従って、参政権の特別な付与については、それに対応するアイヌ民族自らの議会を整備することによって、進めていきたいと考えております。
「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に関連し、このような政治における歴史的、社会的な因果要素を多くはらんだ問題は、 これまでの理解の枠組みや慣習、現状の社会システムとぶつかるなどの障壁が立ちはだかります。
公教育へのアイヌ文化、歴史の導入や公有地の土地資源の利活用、知的財産権の整備、漁業権や雇用機会の開拓など、 さらには土地・資源の賠償補償、参政権などの事柄など、「先住民族」の課題解決のは、この様な検討課題が多岐にわっています。
当事者からの要望を国家の責任において、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に照らして、解決していただきたいと思います。
 アイヌ文化振興法の趣旨を実践し、その取り組みを促進するには、それを中心に支えるアイヌ民族個々人の生活支援から 始めなければなりません。今は、文化活動に携わろうにも一部のものしか参加できなく、当然、経済活動にも結びつかず、 どっちつかずの状況になっているのではないかと感じています。
 オーストラリア、ニュージーランドでは先住民族専門の省、アメリカでは局が設置されておりますが、 日本においてもそのような窓口機関を内閣府に設置して欲しいと思います。
国連事務総長が設置を促すトライパタイトコミッティのような審議機関をその内閣府の窓口機関に据えるなど、 継続的な審議をすることも延長線上で望んでおります。
アイヌ民族の意見を聴取し、機能性も兼ね備えつつ、継続的な支援体制を担保するもの、そして、その成果をモニタリングするためには、 複数のアイヌ代表や学者など、さらに国際機関などを交えた仕組みのものが考えられると思います。 そしてより効果的な施策の検証、確立のためには、専門的な国の実態調査も必要と考えます。
これら施策実施に係る資金については、これまで当協会などが要望していた自立化基金を創設するにも、国費を継続確保するにも、 いずれにしても、国民すなわち国会での理解を得た予算を伴う立法措置が不可欠です。
そして多くの課題を、整理しつつ、取り組み手順を定めていくこと、これには作業の長さ、問題解決のために、時間をかけることが 前提のものなどもあります。合理的で納得のできる結果になればありがたいと考えています。
(トライパタイト(Tripartite) 政府・企業・市民社会という三つの分野が協働する)
「先住民族の権利に関する国連宣言」を忠実に施行していくためには、この懇談会の主な検討事項に上げられていたように、 諸外国における先住民族政策など、反対票を投じた4ヶ国や台湾などの先行事例に学び、現地調査ができれば特に有効と思いますが、 それら施策の考え方を十分に取り入れて、アイヌ民族政策を立案すべきと思います。 
最後に、国会決議の際に述べられた町村内閣官房長官の談話が、最も充実した形で結実されますことを期待しております。
長時間にわたる発表、ご静聴に預かり感謝申し上げます。
▼緑字にしたところは特に重要と考えています。(2020.7.6)
▲読み直しました。すばらしいです。「報告書」に一部反映されています。土地の利活用について。 しかし「アイヌモシリの会」が求めるのは国有地のアイヌモシリ化です。ここが根本的にちがいます。(2023.11.15)

10月5日 北海道議会決議・「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に関する意見書  「国においては、これを機に、この宣言におけるアイヌ民族の位置づけや盛り込まれた権利を審議する機関を設置されるよう要望する。」

10月5日 北海道議会決議「本議会は、アイヌの人たちの民族としての誇りを尊重し、社会的、 経済的地位の向上を図るために、アイヌの人たちの意見を取り入れ、実効性のある施策が進められるよう、 道民と一体となって取り組む決意を表明するものである。」

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2009年(H21)
7月29日「有識者懇」官房長官に「報告書」提出  問題点 
*アイヌ民族の歴史を正確に記していない
*「先住民族の権利に関する国連宣言」の関わりが不充分
*「国連宣言」のアイヌ民族適用という大きな課題があるのにも係らず、意識的に無視した、避けている内容になっている
▼私も「アイヌ政策の在り方に関する有識者懇談会」の報告書 を読んでみました。ユポさんの上記コメントと同じ感想です。文化政策に特化した内容です。懇談会の有識者はちっとも勉強していないのですね。 加藤理事長の重大な、渾身の力を振り絞った発言をただ聞き流しているだけ。全く真剣味が足りない。 このような報告書からまともな政策がでてくることは期待できません。
▼18頁:
平成 18(2006)年度の北海道アイヌ生活実態調査によれば、道内には23,782人のアイヌの人々が居住している。 また、昭和 63(1988)年の東京都調査によれば、都内に約 2,700人のアイヌの人々が居住していると推計されている。
アイヌ民族の人口 23,782人+2,700人=26,482人 
アイヌモシり回復の観点からいうと26,482×33.3ha=8,918平方q 琵琶湖13個分となる。
▼23頁:
国としての政策展開との関係において必要な限りで 定義を試みると、先住民族とは、 一地域に、歴史的に国家の 統治が及ぶ前から、国家を構成する多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ民族として居住し、 その後、その意 に関わらずこの多数民族の支配を受けながらも、なお独自の文化とアイデンティティを喪失することなく 同地域に居住している民族である、ということができよう。アイヌの人々は日本列島北部周辺、 とりわけ北海道の先住民族であると考えることができる。
この先住民族定義、文化に偏りすぎていませんか。

▼たまたま市川守弘『アイヌの法的地位』を読んでいたら論文: 常本照樹「アイヌ民族と「日本型」先住民族政策」 (https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/16/9/16_9_9_79/_pdf/-char/ja) に出会いました。有識者懇談会の委員を務めた北大の憲法学の教授とのこと。(2021.9.8)
論文の核心=常本氏の本音
「懇談会報告書は、先住民族と は事実としての先住性を有する少数民族であ り、その少数民族に対して国がその同意を得る ことなく、結果としてであれ打撃を加えた場合
常本照樹「アイヌ民族と「日本型」先住民族政策」は2011.9の論文

「アイヌ語が国会に響く」収録の論文は1997.5.1頃

1997年42歳から2011年55歳までの14年の間に常本氏に何があったのか。

2000年(平成12年)4月 北海道大学大学院法学研究科教授

2006年(平成18年)12月 北海道大学大学院法学研究科副研究科長・副法学部長(2008年(平成20年)12月まで)

2007年(平成19年)4月 北海道大学アイヌ・先住民研究センター長(初代 2009年(平成21年)3月まで)

2008年(平成20年)12月 北海道大学大学院法学研究科長・法学部長(2010年(平成22年)12月まで)

▲2006年51歳から大学の要職に就いている。ここから「変質」がはじまったのだろう。
2011.9の論文は自身の1997.5論文によって説得力ある論拠で反論されている。むしろ我々の訴訟の理論的根拠に1997論文は使える。(2022.3.13)
に、それによる損害を回復する強い責務を国が 負うという考え方を採った。
これは民族の権利 というより、国が負う責務の強さとその理由(民 族側の同意の欠如)に着目する考え方であり、 手続的先住民族概念と呼ぶことができよう。  それでは、手続的先住民族概念をとった場合、 国がその責務によって回復すべき民族の利益 とは何か。懇談会報告書において、回復すべき 利益とされたのが文化であった。」

▲先住権を認めない報告書=常本論文の立場は裁判では耐えられない。 少なくとも国際司法裁判所の判断に耐えられるはずがない。政府、自治体は報告書の枠組みで動いている。 (2022.3.12)
常本論文1 1997論文(拡大)
権利主体・集団としての民族の権利主体性と個人主義両立可能(102p)。 誰が先住民族か、除籍謄本を遡る方法(108p)。
▲まず有識者懇談会の委員を確認しておきます。
懇 談 会 委 員 名 簿
(座長)
佐 藤 幸 治 京都大学名誉教授
安 藤 仁 介 (財)世界人権問題研究センター所長
加藤 忠 (社)北海道アイヌ協会理事長
佐 々 木 利 和 人間文化研究機構 国立民族学博物館教授 (論文「強制コタンの変遷と構造について」市川本172p)
高 橋 は る み 北海道知事
常 本 照 樹 北海道大学大学院法学研究科長・法学部長 北海道大学アイヌ・先住民研究センター長
遠 山 敦 子 (財)新国立劇場運営財団理事長
山内 昌之 東京大学教授
議論は常本氏が主導していたものと推測されます。(2021.9.9)
2011.9常本論文より

「国際社会においては、先住民族とは、国連宣 言が掲げているような自決権や土地に対する 権利を中心とした特別の実体的権利を享有す る民族であると考えられることが多い。ここで はこれを実体的先住民族概念と呼ぶことにし たい。
しかし、このように権利に基づいて先住 民族をとらえる実体的先住民族概念について は、アイヌ民族が日本の実情に適合しないとい う問題が生ずる恐れがある。例えば権利主体の 問題である。すなわち権利享有主体としてのア イヌは誰か、誰がどのような基準に基づいて決 定するのか、これは容易な問題ではない。権利 を実現するために行われる何らかの給付の受 給権者としてのアイヌを定める場合に、自認の みで決定することは困難であろう。
集団的権利の問題もある。土地の権利や言語権など、国連 宣言に含まれている先住民族固有の権利の中 には、民族が権利主体となるものが少なくない が、欧米の法体系を継受した日本では権利主体 は原則として個人とされている。
 これに対して懇談会報告書は、先住民族と は事実としての先住性を有する少数民族であ り、その少数民族に対して国がその同意を得る ことなく、結果としてであれ打撃を加えた場合 に、それによる損害を回復する強い責務を国が 負うという考え方を採った。
これは民族の権利 というより、国が負う責務の強さとその理由(民 族側の同意の欠如)に着目する考え方であり、 手続的先住民族概念と呼ぶことができよう。  それでは、手続的先住民族概念をとった場合、 国がその責務によって回復すべき民族の利益 とは何か。懇談会報告書において、回復すべき 利益とされたのが文化であった。
▲常本氏の 「権利を実現するために行われる何らかの給付の受 給権者としてのアイヌを定める場合に、自認の みで決定することは困難であろう。」との断定は非科学的。客観的に証明できる戸籍があるとユポさんから聞いている。 (2021.9.8)
▲常本氏の独自概念、実体的先住民族概念と手続的先住民族概念に大きな違和感を抱いています。検討します。(2021.9.9)

▲常本氏はウポポイの運営主体「公益財団法人アイヌ民族文化財団」の理事長。研究者としての常本氏の先住民族概念、非科学的。裁判で十分覆せる内容。 手続的先住民族概念がなぜ文化にしか限定されないのか、説得力がない。当然土地、資源(鮭漁、鹿猟、鯨漁等)にも適用される手続き。 (2022.3.11)
▲昨晩吉原さんの話を伺って、常本論文は単に報告書の解説、本心は1997.5論文にある、と考えよう。(2022.3.16)
▲1997.5常本論文は土地権を認めている。国公有地の返還は憲法29条の問題は生じない、と。国・道への貸与と賃借料の徴収で民族自立化基金の財源に 充てることまで提案されている。私は貸与の場合の条件としてアイヌ民族の「先住権」(鮭・鹿・伐木・鯨)を確保したうえで貸与する、と構成することで 我々の求めている目的が達成できるのではないかと考える。賃借料を幾らにするかはユポさんに考えてもらう。 675億円の北海道の土地に対する固定資産税(2020年度)が基準になると思う。(2022.3.17)


▼阿部ユポさんから今日(2019.8.21)下記論文のコピーをいただきました。これから勉強させていただきます。

アイヌ民族の補償問題 ―民法学からの近時の有識者懇談会報告書の批判的考察  吉 田 邦 彦

▼まだ読んでいませんでした。しかし私がこれから具体的に取り組もうとしているアイヌモシリ回復訴訟の理論的根拠がこの論文の中にありそうです。 今日読んでみます。(2020.5.3)
先住権の内容にもっと立ち入っていただきたい、というのが率直な感想です。時間をおいて読み返します。(2020.5.4)
▼吉田邦彦さんの論文読み終えました。網羅的でした。具体的にこの論文から裁判で活用していく論拠、争点を絞ってみたいと思います。 (2020.10.18)
この論文は関西大学法学研究所2011年6月発行「ノモス」第28号に掲載されたもののようです。今日わかりました。(2020.10.29)
▼今日、吉田邦彦先生と連絡がとれました。年明けに電話でお話することになりました。 この間、「人新世の資本論」「コモンズ論再考」を読み、アイヌモシリ回復訴訟の位置づけが変化してきました。前回、吉田先生の論文を要約した時と 要約を読み返してみて私の意識が変わっていることに気づきました。
吉田論文をベースに訴訟を展開していければ、と考えています。(2020.12.25)
▼改めて下記吉田論文の要約を読み返して見ますと「人新世の資本論」の「私富」「国富」「公富」の視点が踏まえられていること が確認できました。(2021.1.5)
再度吉田論文を読むも参考にしてください。(2021.1.26)

「日本における先住民族であるアイヌ民族の歴史を振り返ると、民法 の基本的な制度である所有とか集団的不法行為(その救済方法としての補償)とかの考察を抜き にすることはできず、これを基礎に据えて今後のアイヌ政策を考えていくことが不可欠だという ことである。」(19p)

「(アイヌ問題の核心としての所有権問題)何故アイヌ民族の問題において、民法問題が実は核 心的かということを、再度敷衍しておくならば、アイヌ民族(先住民族)問題の根底には、所有 権侵奪・征服の問題があるからである。従って、その集団的とも言える不法行為の救済問題(補 償問題)に直面することにならざるを得ない(後述のように、わが国のアイヌ政策論議では、不 思議にこの点は明示的になされていないが、その状況は日本特殊であることは諸外国の議論を比 較参照すればすぐわかる。そうした財産収奪、漁場(共有財産)の剥奪などの歴史的事実につい ては、まずはそれを克明に伝えることが重要であり、安易な博物館構想(イオル建設〔野外博物 館〕事業)には、眉に唾する必要もある。」(21p)

「 象徴的問題として、「共有財産問題」、「平取ダム問題」8)がある。すなわち、前者(「共有財産問 題」)は、従来からのアイヌ民族の征服の歴史の清算としての ―補償問題にも繋がる ―重要問 題であるのに、これについて、北海道ウタリ協会〔2009年 4 月から、北海道アイヌ協会に名称変 更〕があっさり放棄するのは、理解に苦しむ。また後者(「平取ダム問題」)は、環境の世紀に逆 行する動きであり、国家予算が逼迫するのに、大変な無駄遣いである。画期的だとされた二風谷 ダム判決からのレッスンを何故生かそうとしないのか。ダム建設を前提とした環境アセスメント も、本末転倒で理解できない(故貝沢正エカシが存命だったら、どのように反応されただろうか)。 また、アイヌ民族の伝統的な「入会」的な土地利用形態における環境保護思想から、今こそ学ぶ 時であろう。」(22p)

「(先住民族の権利に関する国連宣言(2007年 9 月))先住民族の権利に関する国連宣言は、2007 年 9 月13日の国連の本会議で採択され、そこには言うまでもなく、関連する重要な条項がある。 例えば、土地・資源への権利(26条)、同意なく没収され、損害を与えられた場合、土地、領土、 資源の返還、賠償を求める権利(28条)がそれである。また、同化・文化破壊されない権利( 8 条)、集団的権利(35条)に関する項目もある。日本政府は、留保〔集団的権利を認めず、国益を 害さないことを条件とする〕を付して、賛成したが、当時日本政府は、アイヌ民族をそこでの先 住民族とも認めていなかった。民族的政治参加(民族議席)を認めないのも政府の立場(憲法学 者でも支持するものが多い〔例えば、常本教授〕)であるが、多文化社会化の今日、いずれも疑問 であり、再考が必要だろう。(この点で例えば、台湾における先住民族に関する民族議席が事実上 認められていたという歴史は興味深い9))」(22p)

アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書(2009年 7 月)
次のような問題があると思われ、その提言の斬新さはあまりないようである。
 第 1 に、やはり、文化復興という文化面への限定がなされているところ(言語、音楽、舞踊、 工芸、土地利用形態等広く捉えるべきだとするが)(24頁、30頁以下)は問題で、土地利用の再検 討として考えられるのは、イオルであり、これは博物館類似の公共工事であり、現実のアイヌの 人々の貧困対策とは無縁であり、眉唾であろう。
 第 2 に、それに関連するが、アイヌ民族の歴史の根幹は 、所有権侵害ないし広義の財産権侵 害 (例えば、旧土人保護法という差別的立法による金融上の損害)であることが看過され それに対する救済法理として、補償問題 (集団的不法行為問題 )が伏在することへの理解が 、欠落し ている (報告書を取りまとめた常本照樹教授によれば、意識的に回避したとのことである)12)。そ の結果として、謝罪がなされていない(この点も、同教授によれば、道義的・倫理的非難につ いては、政府が主体的に判断し、また過去の問題に留意した政策の展開でカバーするという回答 であった。しかし補償問題についての救済は、そういうものではないであろう)。  また、アイヌの福祉政策・生活向上施策の背後には、補償問題があることが閑却されて、そ れゆえに、あまり保護すると逆差別になる等の論理を滑り込ませている(26-27頁では、特別扱い する合理的理由が必要だとする)。(24p)
 第 3 に、アイヌ民族の集団的アイデンティティと言いながら、個人権的保護をベースにして いて(27頁以下)、限界がある。どうして、民族の集団的権利を認めようとしないのかにも、疑問 がある(これは論理必然のものではないだろう。しかし集団的権利を否定するという日本政府の 公式的立場の踏襲とのことである(常本教授))。「入会団体類似」ならば、その名義での土地権、 補償に対する権利はあってよいし、民族的アイデンティティのためには、その集団的・民族的な 政治的権利(例えば、民族議席)なども、あってよいだろう。(25p)

和人とアイヌ民族との抗争、抑圧・征服・同化の歴史は、1000年以上に及ぶ。しかし明治維新 以降に、その侵食の度合いが一層高まり、所有法上悲惨な状況になっているということが、押さ えられなければいけないだろう。(25〜26p)

@(無主物先占(民法239条 2 項)の論理から)
明治維新以降は、明治 5 (1872)年の北海 道地所規則、明治10(1877)年の北海道地券発行条例によって、「旧土人住居ノ地所」は、官有地 とされて、ここには、いわゆる「無主物先占」的発想があり、その反面で、それまでのアイヌ民 族の何千年間の土地利用権は、無視されていることは見逃されるべきではない。  そしてその上で、本州から移動してきた和人に対して、北海道(アイヌ・モシリ)の大量の土 地払い下げ(明治19(1886)年北海道土地払い下げ規則、明治30(1897)年北海道国有未開地処 分法)がなされたわけである。
A(アイヌ民族の生業の締め付け)
他方で、アイヌに対しては、狩猟禁止(明治22(1889)年)、 鮭の禁漁化(明治29(1896)年)の措置がとられた。その関連で、従来、濫獲などによる不漁・ 飢餓問題が強調されていた(故高倉新一郎教授)が、それは、それまでのアイヌ民族の豊かさ、 ないし明治体制によるアイヌの生業奪取、財産搾取を隠蔽する効果を持ったことに注意を要する (井上勝生教授)18)。(26p)

 その上で、明治政府は、アイヌ民族に対して、農耕を強制しようとし、そのための土地として、 「アイヌ民族保護」と称して、概して不毛の未開拓地を賦与するという対策を取るわけである。こ れは、明治16―17(1883―84)年根室県・札幌県管内旧土人救済方法に始まり、明治32(1899)年 法律27号北海道旧土人保護法として結実した(そしてこのような法的スキームは、平成 9 (1997) 年の廃止まで存続した)。(27p)

B(先住民の土地利用との関係)@の措置(本法律によるアイヌ民族に対する 5 町歩( 5 ha)の下付)、 裏面として、それまでのアイヌ民族の土地利用を 無視・黙殺しているということであり、それを前提とした先住民族の土地利用侵害という集団的 不法行為については、補償問題が伏在している。わが国では、未だ近時の有識者懇談会の報告書 でも、これに触れようとしないが、かかる対応は極めて異例であり、アメリカなどでは、アメリ カンインディアンとの関係で、民法(所有法)の問題として、議論が蓄積されていることに注意 を喚起しておきたい。(27p)

C(旭川近文アイヌの特別扱い)旭川の近文アイヌに対しては、近くに第 7 師団という軍事基地 があったこともあり、特別法である昭和 9 (1934)年旭川市旧土人保護地処分法により、不利益 待遇がなされ、下付されたのは、通常の 5 分の 1 の 1 町歩( 1 ha)に止まった( 1 条)。そして残 りの 5 分の 4 は、次述の「共有財産」として処遇され、同庁長官の管理下に置かれたが、その管 理たるや不明朗且杜撰で、20世紀末の返還手続きも諸外国の研究者に話すことも憚られるほど、 いい加減なものであった(算定もいわゆる名目主義であった)(27〜28p)

 (共有財産問題とは別の土地補償問題)以上は、とくに近代土地所有システムの土俵上の財産 (所有権)保障の問題だが、さらに、アイヌ地の土地侵略・征服にかかわる「補償」(reparation) の問題は残る。その具体的対策(貧困対策など)の検討が重要であろう。つまり、福祉対策の背 後には、責任ないし補償の問題があることに、留意される必要があろう。(31p)

 (二風谷・平取ダム問題)既に触れたように、近時は、平取ダム建設の問題が浮上しており、 改めて、二風谷ダム訴訟(札幌地判平成9.3.27判時1598号33頁)は活かされているのかが問われ なければならない。
貝沢耕一氏の土地トラスト(ナショナルトラスト)的な「チコロナイ」による植林 活動27)は、注目に値する。二風谷ダム一帯が、国有地ならば、それを目的指定で、アイヌ民族管 理のトラスト化はできないか(脱ダムの時代に巨額をかけて、環境ないし先住民族文化遺跡破壊 のダム建設の歴史を繰り返すよりも)。そしてこれは、部分的な土地返還の基盤ともなりうるので はないかと思われる。(32p)

 (先住民族による「環境保護的なコモンズ論」の復権・再検討の必要性)
@(アイヌ民族に見て取れる「環境保護的コモンズ論」)考えてみると、北海道の「アイヌ・モシ リ」は、近代的・個人主義的土地所有システム導入により、和人の搾取の対象となり、それが濫 伐など環境破壊の事態も招いた。しかし、 ―紋別アイヌの自然環境保護の主張の仕方にも垣間 見られるように ―アイヌ民族本来の土地利用権は、環境に配慮し、共同所有・共同利用的な土 地利用(いわば「生活空間利用」)であり、
(この点で、チカップ美恵子氏は、アイヌ民族の大地と のハーモニー、共生の思想を、神話・昔ばなしにおける不滅の精神世界に求める〔だから、欧米 式の近代的所有的な「大地(聖地)を切り売りする」などということは考えられないとする〕33)
環境の世紀である21世紀において、本州における「入会」(それによる森林保護)とともに、注目 されてよいであろう。
Aなお、近時の民族学・環境社会学の開発途上国民族の実証研究では、個人主義ではなく、団体 的・共同的な民族(クラン)土地所有・利用で、しかも他者に対して排他的でもなく、「所有」と 「利用」とは重なりあう、重層的コモンズだとされ(ソロモン諸島マライタ島の場合)(宮内教 授)36)、しかも境界ははっきりしない「ルースなコモンズ」だとされて(カリマンタンの場合) (井上教授)37)参考となる。
しかしだからと言って、そのような重層的・共同的な利用形態が、アイ ヌ民族のようにトータルとして無視・閑却される場合に、補償しなくてもよいということにはな らないであろう。  そして、漁撈における伝統的鮭の狩猟の復権論も、コモンズに配慮したもので、今だからこそ 注目に値すると言えるであろう。またこれらは、資源枯渇にならないような草の根のコモンズ管 理組織についての制度論的研究(オストロム研究)38)などとも、通じてくることになるし、生物多 様性条約等の趣旨にも適合的である。(33〜35p)

(差別問題)差別問題については、民族的アイデンティティの高まりによる変化はあると言う ものの、依然根深い問題であることは否定できない。(35p)
 因みに、阿寒コタンのアイヌ民族が同化を免れ、道内でも有数の結束の固い有力なアイヌ民族 集団を形成している48)のは、前田一歩園(とくに故前田光子氏)による ―私的補償的な ―無 償でのコタン土地提供の意義が大きい。それは、知的所有権レベルでの搾取も免れるという効果 ももたらしていることが注目されよう49)。(38p)

(「補償アプローチ」の意義と可能性 ―その否定への疑問)
近時の有識者懇談会報告書でも、 アイヌ民族に対する歴史的不正義に関する補償論は、避けられている50)(ウタリ対策のあり方に 関する有識者懇談会の報告書では、明示的にそうである)が、その理由は、不明である(こうし た言説は、アイヌ民族の若者にも浸透しているようである51))。
しかし、「補償」論は、比較法的 に視野を広げれば、少数民族・先住民族問題にアプローチする際には、王道ないし正論であり、 その回避こそが、特殊日本的状況であることがわかる。
ここでは、もし「補償アプローチ」を採ったならば、どうなるかを試論的に示してみよう。なお、補償については、「対立的モデル」と 「償いモデル」との対比的考察もある(ブルックス教授)52)が、ここでは融合的・包括的に考えて 進めていこう。(38p)
比較法的には、アメリカにおける黒人、先住民族、ハワイ 原住民に対する補償論54)、特に黒人の奴隷制ないし差別・虐待に関する黒人補償(black reparation) に関する議論55)が比較材料として、参考になろう。(39p)

(アイヌ民族への補償の見取り図(その 1 ))
 すなわち第 1 に、過去の不正義に鑑みて、加害者側でその歴史的事実を認め その歴史的責任 を認めつつ、まずは 、謝罪を行う べきである。この点で、報告書には、肝心の謝罪が、欠落しており、欠落に関する理由は、理解に苦しむ。
 第 2 に、所有権返還 に関して、
 @まず、共有財産返還に関しては、再施すべきである。また、 そこには補償的意味合いがあることから、増額評価して行うべきで、名目額で返還するやり方に ついては、配慮に欠けたとして、謝罪しつつ改めるべきである。(39p)
 A土地返還は、一般論として難しいが、国有地の一部を象徴的にアイヌ協会に ―目的・利用 方法等を指定しつつ ―返還するということはあってよい(特に、その要望のある二風谷など。 現にアイヌ民族のイニシアティブのチコロナイによる自然保護の取り組みを見ていても、非現実 的とは言えないだろう)。
環境適合的な持続可能な資源利用としての「アイヌ民族ならではの土地 所有形態」の実験場となるならば、今世紀的取り組みとしても、注目されるであろう。

 もっとも、諸外国においては、所有権返還は、珍しくない。例えば、1999年カナダの先住民族 イヌイットにヌナブット準州が設立された(さらに、14年間にわたる十億米ドルの補償金支払 い)。1978年には、デンマークからグリーンランド先住民族に対して、自治政府も設立された。
他方で、オーストラリアでは、1986年にアボリジニー土地権利法で、先住民族アボリジニ―に対す る土地返還が開始された(なお、1992年マーボ判決では、無主地宣言は、無効とされたし、1993 年の先住権限法で、先住民共同体の慣習による土地利用・管理が認められた)。そしてオーストラ リア全土の16%、北部特別地域(northern territory)の約50%が返還された。
 この点で、阿寒のアイヌコタンに対する前田一歩財団の対応(コタンに対する土地の使用貸借 の提供、入会権の容認)は、一種の私的補償的なものであり(これについては前述)、注目されよ う。(39〜40p)

イオル構想については、榎森進教授も、「現在のアイヌ民族の生活に資する機能を持たせなけ ればならない」「これでは、アイヌ民族の伝統文化を伝承し、『再生』するための単なる『野外博 物館』と言っても過言ではないだろう」「アイヌ民族にとって、どれだけ役に立つものなのか、大 きな疑問を抱かざるを得ない」とし、「この『イオル』の『再生』事業をよりアイヌ民族に有利 で、アイヌ民族の生産・生活基盤を保障する性格を有したものへ変えていく」必要性を説かれて いる56)。(40p)

(有識者懇報告書の問題点)
有識者懇談会の報告書の立場では、先住権の侵略侵奪の問題、従って、 それゆえの補償問題という 先住民族の所有権 ・知的所有権問題の根幹問題を打ち出さず、 アイヌ民族支援の根拠を明らかにせず 、またそれが北海道のローカルな問題に止まらず、日 本の近代化に伴う所有侵略問題ゆえの全国的問題であることを説得的に示し得ておらず、それゆ えに、その成果としての政策的展開にも繋がっておらず、従来路線の域を出ておらず、折角の国 連の先住民族の権利宣言、それを受けた国会の先住民族決議にもかかわらず、今後の方向付けと して、成功していないと言わざるを得ず、遺憾な事態である。(45〜46p)
▼アイヌモシリ回復裁判を念頭において以上のように抜粋しました。(2020.10.29)
▼その後、訴訟物をめぐって違いがある(2021.2.26)ことに気づきました。(2021.8.17)

▲今日改めて吉田論文を読んでみて、報告書に対する批判は適切であるが、その先の裁判の課題、「補償」の内容について 妥協的であることがわかった。それが訴訟物の検討で明確になった。1年前の出来事であった。常本論文をきちんと批判しておくこと。その作業を今日やります。(2022.3.10)

奴隷補償・植民地補償・北海道の地代
朝日朝刊2019.9.11
今年は1619年にアフリカから奴隷約20人が米国独立前の英植民地ジェームズタウンに圧上陸して400年。 現在はハンプトン。
黒人の市長は「アフリカにルーツを持つ人がいなかったら、米国ははるかに貧しかったでしょう」と記念式典であいさつ。

▼謝罪と補償。必定。世界的流れ。(2020.10.17)
朝日朝刊2019.10.5
▼左の記事は、ポーランドでドイツの戦争責任に対して「100兆円の賠償請求」が検討されている、との内容です。 日韓問題について政府は日韓請求権協定で補償問題は解決済みとの立場ですがそうはいきません。現在最悪の日韓関係の根本に65年のいい加減な「解決」 があることは自明です。いずれポーランドのような問題に発展していくでしょう。(2019.10.7)
▼アイヌ民族に対しても。(2021.8.14)

アイヌ民族自立化基金
北海道のGDPは2017年度は19兆4,301億円。自立化基金の毎年の必要経費110億円は北海道のGDP比で1万分の5.7(5.7/10,000)0.057%。 つまり1万円稼げば「年貢」(地代)として5.7円納めるということ。100年分で現在の1年間の消費税8%にも満たない5.7%。 まずささやかに「自立化基金」の財源確保からスタート。(2021.4.29)
▼既に4.29にここまで考えていました。改めて奴隷補償・植民地補償の観点からも「自立化基金」を根拠づけたいとおもいます。(2021.8.14)
▲北海道全土の土地に対する固定資産税は2020年度決算で675億円。110億円は16.2%。 通常、地代は300%〜500%と専門家の話。(2022.3.11)
▲675億円の導き方を明確にしておくこと。(2022.3.25)

アメリカ合衆国独立宣言
独立宣言
1776 年 7 月 4 日第 2 回大陸会議により採択
13 のアメリカ連合諸邦による全会一致の宣言

「独立宣言の執筆に当たり、ジェファソンは、自然権と個人の自由という理念を重視した。 これらは、17 世紀の哲学者ジョン・ロックらによって広く提唱されていた理念であった。」

5人委員会・中央 1776年、ジェファーソン33才。(拡大)
人類の歴史において、ある国民が、他の国民とを結び付けてきた政治的なきずなを断ち切り、世界の諸 国家の間で、自然の法と自然神の法によって与えられる独立平等の地位を占めることが必要となったとき、 全世界の人々の意見を真摯に尊重するならば、その国の人々は自分たちが分離せざるを得なくなった理由 について公に明言すべきであろう。
われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているという こと。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づい て正当な権力を得る。そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったと きには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が 最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の 権力を組織する権利を有するということ、である。(以下省略)
▲牛尾先生から興味深い論文(トマ・ピケティ)を頂きました。(2021.8.14)
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▲やっと掲載の作業が終わりました。多くのことを学びました。 在日、アイヌ民族、琉球の問題に応用できそうです。(2021.8.14)
ハイチは大坂なおみさんのお父さんの国の話しです。


2009年(H21)
7月3日 北海道議会決議「アイヌ政策の推進を求める決議」
12月 「アイヌ政策推進会議」設置(座長・内閣官房長官・首相官邸)(構成員14名・うちアイヌ委員5名)
「アイヌ政策推進会議」の下に2つの作業部会設置
・「民族共生の象徴となる空間作業部会」
・「北海道外アイヌ生活実態調査作業部会」
2010年(H22)
*北海道議会決議・10月5日・11月25日「北海道開発の枠組みの堅持と北海道局の存続に関する意見書」
2011年(H23)
両作業部会が、報告書取りまとめ
「アイヌ政策関係省庁連絡会議」開催(関係省庁局長級で構成)
「アイヌ政策推進会議」の下に「政策推進作業部会」設置
*「国連持続可能な開発会議」(リオ+20)・国内準備委員会」参画
2012年(H24)
「アイヌ政策関係省庁連絡会議」が「民族共生の象徴となる空間基本構想」を決定
12月25日「アイヌ政策推進北海道議会 議員連盟」設立・90名
2013年(H25)
「アイヌ政策を推進する議員の会」設立・29名※これは国政レベル?
2014年(H26)
6月26日カナダ 先住権原に関するチルコットイン判決
カナダにおける先住権原に関する歴史的判決とその影響
2014年6月26日、カナダ連邦最高裁判所はカナダの先住民の 一つであるTsilhqot’in Nationが主張する土地所有権を含む先住権原(Aboriginal Title)を認め、 ブリティシュコロンビア州(BC州)が同権利を制限するにあたりTsilhqot’inに対して事前協議を行う義務に違反したとの判決を下した。
国連本部・国連総会・世界先住民族会議(9月22日)
*先住民族世界会議として知られる総会ハイレベル本会議 成果文書採択
ILOのHPより
「1989年のILO総会における先住民・種族民条約(第169号) の採択、 2002年の国連・先住民問題に関する常設フォーラムの開設、 2007年の「先住民族の権利に関する国連宣言」の採択といった、 国際的な先住民族の権利の認識と参加の促進をもたらした
過去30年間における重要な歩みの一つとして、
ニューヨークで開かれている国連総会の枠内で9月22〜23日に各国首脳と先住民族代表が初めて顔を合わせる 先住民族世界会議が開かれます。
会議では世界のリーダーらによる先住民族の権利に対する公約の再確認が行われると共に 先住民族の権利の実現に向けて先住民族と協力して国内で行う具体的な行動に関する誓いが示されることが期待されます。
会議はまた、国連諸機関が各国で展開する先住民族関連活動の強化に向けた歩みを始動させるものと思われます。
(会議を前に作成された9月18日付の論評記事)」
▼世界先住民族会議の成果文書は本HPの「国連基準」をご覧ください。
▼「北海道開発協会」の広報誌に掲載された北海道アイヌ協会主任佐藤幸雄(前常務理事・事務局長)さんの 「アイヌ政策の展開に向けて」(2015.2)は大変貴重な論文です。
「大正 8 (1919)年の第41回帝国議会衆議院において、一度だけアイヌ自治区の設置が論議されたことがありました」との記述があります。 わたしがイメージしています和人としてのアイヌ民族への「償い」の形はまさしくそのようなものでした。 小西和 (こにし かなう)
都立中央図書館で臨川書店刊の議事録を読みました。「第41回帝国議会衆議院北海道旧土人保護法中改正法律案委員会義録(速記)第2回」です。 その中での小西和(こにし かなう)議員の発言です。
「土人自身に満足を与え、安心して生活の出来るようにしてやる方が宜しいと思う、 それについて例えば日高の平取沙流川の沿岸の如き一区域を成して居る所に於いて、其の沙流川の流域全体を土人の為に、特別の場所として其の土地を 土人の自由に生活する天地として、それを国有にするなり、或いは土人の集団の共有にするなり何方でも宜しい」
▼ロシア革命のコルホーズ、ソホーズの発想ですね。

▼同じく広報誌(2014.10)に掲載された北海道大学アイヌ・先住民族研究センター長の常本照樹教授の 「海外の先住民族政策」〜日本との比較の視点〜 もアメリカインディアンのケースが取り上げられていて参考になります。
「基本的な法原則は合衆国最高裁判所の判例によって定められてきた。
合衆国とインディアン部族 の関係の基本的枠組を定めたのが、部族を「合衆国内の従属的国家」と位置づけ、両者は国対国の関係にあると したCherokee Nation 対 Georgia判決(1831)、Johnson対 McIntosh判決(1823)、Worcester 対 Georgia判決 (1832)の 3 つの判決であり、これらから導かれた三原則がインディアン法体系の礎石となった。
すなわち、
@インディアン部族は、その先住性に由来する人及び領土に関する主権的権能を有する。
A合衆国はこの主権を制限若しくは剥はく奪だつすることができるが、州にはその権能はない。
B部族の固有の主権が制約されており、したがって合衆国に依存せざるをえないことから合衆国の「信託(後見)責任」が導かれる。
信託責任法理とは、
合衆国とインディアン部族との関係を定める最も基本的な法理であって、後見人たる 合衆国が被後見人たる部族に対して保護責任を負うとするものである。
その法的意義としては、合衆国議会によるインディアン部族に関する立法は、 部族を保護するという責任と合理的な関連性を有しなければならないとされ、かつ、その種の立法は、 インディアンに有利に解釈されなくてはならないとされるのである。
準主権国家としての部族は、三原則が示すように領土たる保留地内の人及び物に対する統治権を有してお り、多くの部族が伝統的な部族法と合衆国法をモデルとした近代法とを融合させた法体系を備え、独自の政 府、議会及び裁判所を有している。
このような領土及び統治権は合衆国が部族と締結した条約等によって具体化されている。
すなわち、部族が、合衆国の独立以前から保有していた土地の一部を合衆国に割譲し、合衆国 は残余部分の土地(保留地)を保障するとともに、そこでの自治を承認するという内容の条約が各部族と個 別に結ばれたのである。」

▼小西和さんの言われる「自由の天地」に、アイヌ民族の準国家が形成されることが日本社会の取るべき道だと考えます。(2019.2.7)
▼アメリカインディアン運動(AIM)をWikipediaで勉強しました。アイヌ民族の今後についても参考になるところが多いです。要旨を掲載します。 (2020.7.14)
Wikipedia: アメリカインディアン運動(AIM)
AIMはアメリカインディアンの権利運動団体。 AIMの旗。黒、黄、白、赤の4色はそれぞれ、四つの方角と、黒人、東洋人、白人、インディアンの連帯を示している。

「AIM」は、1968年にミネソタ州ミネアポリスで結成されて以来、全米に支部を置き、 多数のインディアン権利団体と連携する全米最大のインディアン組織である。
1960年代、全米のインディアン部族は絶滅的危機にあった。100を超えるインディアン部族が連邦条約を打ち切られ、 保留地の保留を打ち切られ、路頭に迷うこととなった。
都市部のスラムに流入したインディアンたちは極貧の生活の中、白人社会の人種差別と暴力にさらされ、 ささいな理由で刑務所に送られた。ミネソタ州の刑務所の囚人の7割は常にインディアンが占めていたのである。
「AIM」は、こうした刑務所暮らしを強いられた若いインディアンたちによって起こされた。
「AIM」の綱領は、1972年に決行した「破られた条約のための行進」の際に、ヴァイン・デロリア・ジュニアによって理論支援され、 ハンク・アダムスによってまとめられたものである。それは以下のようなものである。
@1871年に連邦議会で打ち切られた、インディアン部族との条約締結の復活
1871年 議会は「もはや合衆国はインディアン部族を独立国家と認めない、したがって今後は条約は結ばない」と決議した
Aインディアン部族が新しく条約を締結するための権限の設立
Bインディアンの主導者たちの連邦議会での発言権
Cインディアン条約の責務と違反の再調査
D未批准のインディアン条約を上院に送る
Eすべてのインディアンを条約関係に置くこと
F条約違反下にあるインディアン国家の救済
G条約によるインディアンの権利認識
Hインディアンとの関係の再建に関して連邦とインディアン国家間の共同議会の設立
Iアメリカ合衆国下のインディアン以外も含むすべての先住民国家への、45万km2の土地の返還
J権利を打ち切られたインディアン部族の再建
Kインディアン以外も含む先住民国家の、州による管轄権の撤廃
Lインディアンへの犯罪に対する、連邦政府によるインディアンの保護
M「BIA」(インディアン管理局)の廃止
N連邦政府とインディアン部族との新しい事務所の設立
O新しい事務所による、米国とインディアン以外も含む先住民国家との間の憲法に規定する関係の修復。
P先住民国家を、連邦の商取引、収税、貿易の制限外に置く
Qインディアンの宗教の自由と文化の保護
Rインディアン国家内での議決権の確立、連邦政府の支配からのインディアン国家の脱却
Sすべてのインディアンの人々のための健康、住宅、雇用、経済発展と教育の再構築
1974年、インディアンの権利を国際的に訴えるため、スイス・ジュネーブの国連会議に事務所を置く、 全米のインディアンの代表組織「国際インディアン条約会議」(IITC)を結成。
1975年、「国際インディアン条約会議」(IITC)が国連内で非政府組織として認可される.
1977年、ラッセル・ミーンズらの参加した「IITC」は国際NGO会議に出席し、満場一致で「我々の民族名はアメリカインディアンである」 との宣言を行った。この時期、合衆国政府ではインディアンの保留地の保留を解消し、 自治権を剥奪するための絶滅法案が続々と上下院に提出されていた。まさにアメリカインディアンは、民族存亡の危機にあったのである。
12月、デニス・バンクスはこの民族浄化の動きに対し、「平和的な抗議行動で全米の注目を浴びる以外に方法はない」として、 インディアン・アスリートのジム・ソープを記念し、「破られた条約のための行進」を再現して、 サンフランシスコのアルカトラズ島からワシントンD.C.まで、徒歩で大陸横断する「ロンゲスト・ウォーク」(最長の徒歩) を提案。全会一致で採択された。

「破られた条約のための行進」は、「AIM」がインディアン部族の生存権と条約遵守を訴えるため、 西海岸から合衆国首都ワシントンD.C.まで、 自動車による抗議の行進(1972年10月3日−11月2日)を行ったもの。

1978年2月11日、「ロンゲスト・ウォーク」(最長の徒歩)が実行された。 インディアンだけでなく黒人や白人、東洋人、世界中の民族、平和団体が参加したこの行進は、 聖なるパイプを掲げ太鼓を携えた宗教的行進でもあった。日本からは日本山妙法寺大僧伽も参加したこの行進は5ヶ月に及び、 4000人に参加者を増やした。
また、「ロンゲスト・ウォーク」を援護して、「AIM」 の若いメンバーがミネアポリスからカンザス州ローレンスまで約800kmを駆ける「生き残りのランニング」(Run For Survival)を実行。
7月15日、「ロンゲスト・ウォーク」はワシントンD.C.でゴールを迎え、 インディアンたちはホワイトハウスの門前に和平のティーピーを建てた。 この平和的行進は全米の反響を呼び、多数の上下院議員らの賛同を得て、 「インディアン絶滅法案」を廃絶に追い込んだ[10]。

カナダ・クイーンズ大学各国の先住民族政策の推進度
おそらく、西洋の民主主義が民族文化の多様性に対処する方法の最も顕著な変化は、 アメリカインディアン、カナダのイヌイット、ニュージーランドのモアリ、 またはスカンジナビアのサミなどの先住民の地位に関連しています。
1960年代まで、先住民族は別個のコミュニティとして姿を消すと広く考えられていました。 彼らは現代世界の厳しさを乗り切ることができなかった「消えゆく人種」と見なされていました。 先住民族は彼らの土地の権利を奪われ、彼らの自律的な法的および政治的制度は抑圧され、 彼らは同化主義的な形態の教育を受けました。
しかし、1970年代以降先住民族のためのMCP( Multiculturalism Policy )インデックスは、次の9つのポリシーの採用を検討することにより、 過去30年間のこの変化の程度を追跡することを目的としています。
@土地の権利/所有権の認識
A自治権の認識
B歴史的な条約を支持し、および/または新しい条約に署名する
C文化的権利の認識(言語;狩猟/漁業)
D慣習法の承認
E中央政府における代表/協議の保証
F先住民族の明確な地位の憲法上または立法上の確認
G先住民の権利に関する国際文書の支援/批准
Hアファーマティブ・アクション
これは、先住民の独特の地位を認識または受け入れることを目的とした、 考えられるあらゆる形態の公共政策の網羅的なリストではありません。 しかし、このリストは、そのようなグループに関連する「多文化主義の転換」の核となる要素を捉えていると私たちは信じています。
インデックスの国別スコアは、これらの政策の強さにおいて、時代や国によってかなりのばらつきがあることを示しています。 ただし、基本的な傾向線は明らかです。1980年から2000年、2010年にかけて、西側の民主主義の平均スコアは一貫して増加しており、 実質的に逆転や後退はありません。
▼ 上記の部分は今朝、追加しました。(2021.3.25)
各国の先住民族政策の推進度
(拡大)

Table 2: Multiculturalism Policies for Indigenous Peoples Scores for Each Indicator,
1980, 2000, 2010
調査対象国(縦の欄上から):オーストラリア カナダ デンマーク フィンランド 日本 ニュジーランド ノルウエー スウェーデン 米国
調査項目(横の欄左から);1土地権 2自己決定権 3条約締結権 4文化権 5中央政府との協議 6特別な地位 7先住権国際条約批准 8格差是措置 9総合点
(拡大)
▼ 指標を見ますとこの30年間、
日本の土地権、自己決定権といった肝心の指標が 0 で先住民政策がいかに遅れているかが一目瞭然です。
総合点でも
1980が0、 2000が1、 2010が3
です。

オーストラリアの総合点は
1980が1、 2000が4.5、 2010が6
で5ポイントも大幅に改善されています。
しかも土地権は0から1になっています。

カナダの総合点はトップでほぼ満点の8.5です。

こうして国際比較のデータを見ますと日本国内ではメディアはほとんど報道しませんが課題が浮き彫りになってきます。
▼アメリカインディアンの勉強をしていて、インディアンは合衆国と条約を締結している、との事実を知りました。 つまりインディアンの領地は準国家的扱いなのです。 一覧表の「3 条約締結権」がそれに該当します。カナダ、ニュジーランド、米国が先住民の領地を準国家として認めています。 日本では当然アイヌ民族がそのような立場にあることは言うまでもありません。(2020.7.16)
ユポさんの年表は2014年のここまで。 17579

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ウポポイ  16955
▼下記のアイヌ新法が2019.4.18国会で成立。
https://blog.goo.ne.jp/ivelove/e/1b39fc41af77f8d7ea38687c5c1323a4
北海道新聞 02/16 15:40
▼下記の「アイヌ新法」(略称「アイヌ施策推進法」)のなかで特に重要とおもわれる条項を緑字にしておきました。(2020.5.1)
アイヌ施策推進法 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」(略称「アイヌ施策推進法」)
目次
第一章 総則(第一条―第六条)
第二章 基本方針等(第七条・第八条)
第三章 民族共生象徴空間構成施設の管理に関する措置(第九条)
第四章 アイヌ施策推進地域計画の認定等(第十条―第十四条)
第五章 認定アイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置(第十五条―第十九条)
第六章 指定法人(第二十条―第三十一条)
第七章 アイヌ政策推進本部(第三十二条―第四十一条)
第八章 雑則(第四十二条―第四十五条)
附則
第一章 総則
(目的)
第一条 この法律は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であるアイヌの人々の誇りの源泉である アイヌの伝統及びアイヌ文化(以下「アイヌの伝統等」という。)が置かれている状況並びに近年における
2020.6.6朝日新聞夕刊
アイヌ民族文化財団理事長・元北大総長中村睦男さん(81)

先住民族をめぐる国際情勢に鑑み、アイヌ施策の推進に関し、基本理念、国等の責務、政府による基本方針の策定、 民族共生象徴空間構成施設の管理に関する措置、市町村(特別区を含む。以下同じ。)によるアイヌ施策推進地域計画の 作成及びその内閣総理大臣による認定、当該認定を受けたアイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置、 アイヌ政策推進本部の設置等について定めることにより、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、 及びその誇りが尊重される社会の実現を図り、もって全ての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の 実現に資することを目的とする。
(定義)
第二条 この法律において「アイヌ文化」とは、アイヌ語並びにアイヌにおいて継承されてきた生活様式、 音楽、舞踊、工芸その他の文化的所産及びこれらから発展した文化的所産をいう。
2 この法律において「アイヌ施策」とは、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及 及び啓発(以下「アイヌ文化の振興等」という。)並びにアイヌの人々が民族としての誇りを持って生活 するためのアイヌ文化の振興等に資する環境の整備に関する施策をいう。
▲「アイヌ施策」とは、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発文化の振興等に資する環境の整備に関する施策。これに限定されるのか?(2023.7.31)
3 この法律において「民族共生象徴空間構成施設」とは、 民族共生象徴空間(アイヌ文化の振興等の拠点として国土交通省令・文部科学省令で定める場所に整備される国有財産法 (昭和二十三年法律第七十三号)第三条第二項に規定する行政財産をいう。)を構成する施設(その敷地を含む。) であって、国土交通省令・文部科学省令で定めるものをいう。
第三条第二項 行政財産とは、次に掲げる種類の財産をいう。
一 公用財産 国において国の事務、事業又はその職員(国家公務員宿舎法(昭和二十四年法律第百十七号)第二条第二号の職員をいう。) の住居の用に供し、又は供するものと決定したもの
二 公共用財産 国において直接公共の用に供し、又は供するものと決定したもの
三 皇室用財産 国において皇室の用に供し、又は供するものと決定したもの
四 森林経営用財産 国において森林経営の用に供し、又は供するものと決定したもの公用財産
▲元々はアイヌモシリ。(2023.7.31)

2020.6.9朝日新聞夕刊
「民族共生象徴空間」内覧会白老町 2020.7.12朝日新聞朝刊
ウポポイ開業

(基本理念)
第三条 アイヌ施策の推進は、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重されるよう、 アイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統等並びに我が国を含む国際社会において重要な課題である 多様な民族の共生及び多様な文化の発展についての国民の理解を深めることを旨として、行われなければならない。
▲「国民の理解を深めることを旨として」 具体的にどういう対策か?(2023.7.31)



2 アイヌ施策の推進は、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができるよう、 アイヌの人々の自発的意思の尊重に配慮しつつ、行われなければならない。
▲「民族としての誇りを持って生活することができるよう」 具体的にどういう対策か?(2023.7.31)



3 アイヌ施策の推進は、国、地方公共団体その他の関係する者の相互の密接な連携を図りつつ、 アイヌの人々が北海道のみならず全国において生活していることを踏まえて全国的な視点に立って行われなければならない。
▲「アイヌの人々が北海道のみならず全国において生活していることを踏まえて全国的 な視点に立って行われなければならない。」具体的に何を全国的視点で取り組んでいるのか。(2023.7.31)
第四条 何人も、アイヌの人々に対して、アイヌであることを理由として、 差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。
▲杉田水脈の問題、どう対応したのか。(2023.7.31)


ウポポの絵(拡大)
(国及び地方公共団体の責務)
第五条 国及び地方公共団体は、前二条に定める基本理念にのっとり、アイヌ施策を策定し、及び実施する責務を有する。
2 国及び地方公共団体は、アイヌ文化を継承する者の育成について適切な措置を講ずるよう努めなければならない。
▲国、都道府県、市町村はどのようなアイヌ施策を策定したのか。(2023.7.31)

  2020.7.19朝日新聞朝刊
「同じクラスの彼女は顔の彫りが深くほんの少し色の濃い肌は「北海道出身だからスキー焼け」と言いました。ずっと 後になってからアイヌ民族であることを打ち明けられました。」
▼差別を受けるマイノリティーの共通した心情。せつない。(2020.7.20)
「カナダなどの先住民族との交流にも参加。独自の文化を奪われた怒りと民族の 尊厳と誇りが伝わってきました。「ウポポイ」いつか訪れたいです。今は亡き彼女の魂がそこにあると思えるのです。」

3 国及び地方公共団体は、教育活動、広報活動その他の活動を通じて、アイヌに関し、国民の理解を深めるよう努めなければならない。
▲国、地方公共団体の具体策を知りたい。(2023.7.31)


4 国は、アイヌ文化の振興等に資する調査研究を推進するよう努めるとともに、地方公共団体が実施するアイヌ施策を推進するために 必要な助言その他の措置を講ずるよう努めなければならない。
▲アイヌ文化の振興等に資する調査研究を推進の具体策を知りたい。(2023.7.31)



(国民の努力)
第六条 国民は、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される 社会の実現に寄与するよう努めるものとする。
▲国民の努力義務を果たすために来ました。(2023.7.31)


第二章 基本方針等
(基本方針)
第七条 政府は、アイヌ施策の総合的かつ効果的な推進を図るための基本的な方針(以下「基本方針」という。)を定めなければならない。
▲どのような基本方針が定められているのか。(2023.7.31) 2019.9.6閣議決定 基本方針


2 基本方針には、次に掲げる事項を定めるものとする。
 一 アイヌ施策の意義及び目標に関する事項
 二 政府が実施すべきアイヌ施策に関する基本的な方針
 三 民族共生象徴空間構成施設の管理に関する基本的な事項
 四 第十条第一項に規定するアイヌ施策推進地域計画の同条第九項の認定に関する基本的な事項
 五 前各号に掲げるもののほか、アイヌ施策の推進のために必要な事項
3 内閣総理大臣は、アイヌ政策推進本部が作成した基本方針の案について閣議の決定を求めなければならない。
4 内閣総理大臣は、前項の規定による閣議の決定があったときは、遅滞なく、基本方針を公表しなければならない。
5 政府は、情勢の推移により必要が生じたときは、基本方針を変更しなければならない。
6 第三項及び第四項の規定は、基本方針の変更について準用する。
2020.7.8朝日新聞朝刊
国立アイヌ民族博物館初代館長・文化人類学者佐々木史郎さん(62)

(都道府県方針)
第八条 都道府県知事は、基本方針に基づき、当該都道府県の区域内におけるアイヌ施策を推進するための方針 (以下この条及び第十条において「都道府県方針」という。)を定めるよう努めるものとする。
2 都道府県方針には、おおむね次に掲げる事項を定めるものとする。
 一 アイヌ施策の目標に関する事項
 二 当該都道府県が実施すべきアイヌ施策に関する方針
 三 前二号に掲げるもののほか、アイヌ施策の推進のために必要な事項
3 都道府県知事は、都道府県方針に他の地方公共団体と関係がある事項を定めようとするときは、 当該事項について、あらかじめ、当該他の地方公共団体の長の意見を聴かなければならない。
4 都道府県知事は、都道府県方針を定めたときは、遅滞なく、これを公表するよう努めるとともに、関係市町村長に通知しなければならない。
2020.8.27朝日新聞朝刊社説
赤羽一嘉国土交通省はウポポイを「観光の起爆」と視察中に発言したり、萩生田光一文部科学大臣は記者会見でアイヌ民族を 「原住民」(正しくは「先住民族」)と呼んだうえで、「開拓民との間で様々な価値観の違いがあった」と述べた。
▼中心になって進めてきた両省の大臣がこの程度の認識。先がおもいやられる。裁判できっちりと批判したい。(2020.10.8)

5 前二項の規定は、都道府県方針の変更について準用する。

第三章 民族共生象徴空間構成施設の管理に関する措置
第九条 国土交通大臣及び文部科学大臣は、第二十条第一項の規定による指定をしたときは、 民族共生象徴空間構成施設の管理を当該指定を受けた者(次項において「指定法人」という。)に委託するものとする。
2 前項の規定により管理の委託を受けた指定法人は、当該委託を受けて行う民族共生象徴空間構成施設の管理に要する費用に充てるために、 民族共生象徴空間構成施設につき入場料その他の料金(第二十二条第二項において「入場料等」という。)を徴収することができる。
3 前項に定めるもののほか、第一項の規定による委託について必要な事項は、政令で定める。

第四章 アイヌ施策推進地域計画の認定等
(アイヌ施策推進地域計画の認定)
第十条 市町村は、単独で又は共同して、基本方針に基づき(当該市町村を包括する都道府県の知事が都道府県方針を定めているときは、 基本方針に基づくとともに、当該都道府県方針を勘案して)、内閣府令で定めるところにより、 当該市町村の区域内におけるアイヌ施策を推進するための計画(以下「アイヌ施策推進地域計画」という。) を作成し、内閣総理大臣の認定を申請することができる。
二風谷イオル計画概念図 ▲この計画はどこまで進んでいるのか(2023.8.2)
吉原構想実現の可能性?
▲市町村全体で年間20億円の交付金では百年河清を待つではないか。(2023.8.7)
(拡大)
2 アイヌ施策推進地域計画には、次に掲げる事項を記載するものとする。
 一 アイヌ施策推進地域計画の目標
 二 アイヌ施策の推進に必要な次に掲げる事業に関する事項
  イ アイヌ文化の保存又は継承に資する事業
  ロ アイヌの伝統等に関する理解の促進に資する事業
  ハ 観光の振興その他の産業の振興に資する事業
▲「観光の振興」が特に入っている。なんていうことか!(2023.8.2)
  ニ 地域内若しくは地域間の交流又は国際交流の促進に資する事業
  ホ その他内閣府令で定める事業
 三 計画期間
 四 その他内閣府令で定める事項
3 市町村は、アイヌ施策推進地域計画を作成しようとするときは、これに記載しようとする 前項第二号に規定する事業を実施する者の意見を聴かなければならない。
4 第二項第二号(ニを除く。)に規定する事業に関する事項には、アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施 その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物を国有林野(国有林野の管理経営に関する法律(昭和二十六年法律第二百四十六号) 第二条第一項に規定する国有林野をいう。第十六条第一項において同じ。)において採取する事業に関する事項を記載することができる。

「アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施,
アイヌ文化の振興等に利用するための林産物を国有林野において採取する事業の保存若しくは継承
又は儀式等に関する知識の普及及び啓発に 利用するためのさけを内水面において採捕する事業、」

このような限定的なさけの採捕、 林産物の採取が推進法で認められている。しかも内閣総理大臣の承認で。だれの川、だれの林野だと思っているのか。ひどい話し。(2023.8.2)

5 前項に定めるもののほか、第二項第二号(ニを除く。)に規定する事業に関する事項には、アイヌにおいて継承されてきた 儀式若しくは漁法(以下この項において「儀式等」という。)の保存若しくは継承又は儀式等に関する知識の普及及び啓発に 利用するためのさけを内水面(漁業法(昭和二十四年法律第二百六十七号)第八条第三項に規定する内水面をいう。)において 採捕する事業(以下この条及び第十七条において「内水面さけ採捕事業」という。)に関する事項を記載することができる。 この場合においては、内水面さけ採捕事業ごとに、当該内水面さけ採捕事業を実施する区域を記載するものとする。
6 前二項に定めるもののほか、第二項第二号(ハに係る部分に限る。)に規定する事業に関する事項には、 当該市町村における地域の名称又はその略称を含む商標の使用をし、又は使用をすると見込まれる商品又は役務の需要の開拓を行う事業 (以下この項及び第十八条において「商品等需要開拓事業」という。)に関する事項を記載することができる。 この場合においては、商品等需要開拓事業ごとに、当該商品等需要開拓事業の目標及び実施期間を記載するものとする。
7 第二項第二号イからホまでのいずれかの事業を実施しようとする者は、市町村に対して、 アイヌ施策推進地域計画を作成することを提案することができる。この場合においては、基本方針に即して、 当該提案に係るアイヌ施策推進地域計画の素案を作成して、これを提示しなければならない。
2020.12.31朝日新聞朝刊 アイヌ文化への関心(拡大)

8 前項の規定による提案を受けた市町村は、当該提案に基づきアイヌ施策推進地域計画を作成するか否かについて、 遅滞なく、当該提案をした者に通知しなければならない。この場合において、アイヌ施策推進地域計画を作成しないこととするときは、 その理由を明らかにしなければならない。
9 内閣総理大臣は、第一項の規定による認定の申請があった場合において、 アイヌ施策推進地域計画が次に掲げる基準に適合すると認めるときは、その認定をするものとする。
 一 基本方針に適合するものであること。
 二 当該アイヌ施策推進地域計画の実施が当該地域におけるアイヌ施策の推進に相当程度寄与するものであると認められること。
 三 円滑かつ確実に実施されると見込まれるものであること。
10 内閣総理大臣は、前項の認定を行うに際し必要と認めるときは、アイヌ政策推進本部に対し、意見を求めることができる。
11 内閣総理大臣は、第九項の認定をしようとするときは、その旨を当該認定に係るアイヌ施策推進地域計画を作成した 市町村を包括する都道府県の知事に通知しなければならない。この場合において、 当該都道府県の知事が都道府県方針を定めているときは、同項の認定に関し、内閣総理大臣に対し、意見を述べることができる。
12 内閣総理大臣は、アイヌ施策推進地域計画に特定事業関係事項(第四項から第六項までのいずれかに規定する事項をいう。以下同じ。) が記載されている場合において、第九項の認定をしようとするときは、当該特定事業関係事項について、 当該特定事業関係事項に係る国の関係行政機関の長(以下単に「国の関係行政機関の長」という。)の同意を得なければならない。
13 内閣総理大臣は、アイヌ施策推進地域計画に内水面さけ採捕事業に関する事項が記載されている場合において、 第九項の認定をしようとするときは、当該アイヌ施策推進地域計画を作成した市町村(市町村が共同して作成したときは、 当該内水面さけ採捕事業を実施する区域を含む市町村に限る。)を包括する都道府県の知事の意見を聴かなければならない。
14 内閣総理大臣は、第九項の認定をしたときは、遅滞なく、その旨を公示しなければならない。
(認定を受けたアイヌ施策推進地域計画の変更)
第十一条 市町村は、前条第九項の認定を受けたアイヌ施策推進地域計画の変更(内閣府令で定める軽微な変更を除く。) をしようとするときは、内閣総理大臣の認定を受けなければならない。
2 前条第三項から第十四項までの規定は、同条第九項の認定を受けたアイヌ施策推進地域計画の変更について準用する。
(報告の徴収)
第十二条 内閣総理大臣は、第十条第九項の認定(前条第一項の変更の認定を含む。)を受けた市町村(以下「認定市町村」という。)に対し、 第十条第九項の認定を受けたアイヌ施策推進地域計画(前条第一項の変更の認定があったときは、その変更後のもの。 以下「認定アイヌ施策推進地域計画」という。)の実施の状況について報告を求めることができる。
2 国の関係行政機関の長は、認定アイヌ施策推進地域計画に特定事業関係事項が記載されている場合には、 認定市町村に対し、当該特定事業関係事項の実施の状況について報告を求めることができる。
(措置の要求)
第十三条 内閣総理大臣は、認定アイヌ施策推進地域計画の適正な実施のため必要があると認めるときは、 認定市町村に対し、当該認定アイヌ施策推進地域計画の実施に関し必要な措置を講ずることを求めることができる。
2 国の関係行政機関の長は、認定アイヌ施策推進地域計画に特定事業関係事項が記載されている場合において、 当該特定事業関係事項の適正な実施のため必要があると認めるときは、認定市町村に対し、 当該特定事業関係事項の実施に関し必要な措置を講ずることを求めることができる。
(認定の取消し)
第十四条 内閣総理大臣は、認定アイヌ施策推進地域計画が第十条第九項各号のいずれかに適合しなくなったと認めるときは、 その認定を取り消すことができる。この場合において、当該認定アイヌ施策推進地域計画に特定事業関係事項が記載されているときは、 内閣総理大臣は、あらかじめ、国の関係行政機関の長にその旨を通知しなければならない。
2 前項の規定による通知を受けた国の関係行政機関の長は、同項の規定による認定の取消しに関し、内閣総理大臣に意見を述べることができる。
3 前項に規定する場合のほか、国の関係行政機関の長は、認定アイヌ施策推進地域計画に特定事業関係事項が記載されている場合には、 第一項の規定による認定の取消しに関し、内閣総理大臣に意見を述べることができる。
4 第十条第十四項の規定は、第一項の規定による認定の取消しについて準用する。

第五章 認定アイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置
(交付金の交付等)
第十五条 国は、認定市町村に対し、認定アイヌ施策推進地域計画に基づく事業(第十条第二項第二号に規定するものに限る。) の実施に要する経費に充てるため、内閣府令で定めるところにより、予算の範囲内で、交付金を交付することができる。
2 前項の交付金を充てて行う事業に要する費用については、他の法令の規定に基づく国の負担若しくは補助又は交付金の交付は、 当該規定にかかわらず、行わないものとする。
3 前二項に定めるもののほか、第一項の交付金の交付に関し必要な事項は、内閣府令で定める。
(国有林野における共用林野の設定)
第十六条 農林水産大臣は、国有林野の経営と認定市町村(第十条第四項に規定する事項を記載した 認定アイヌ施策推進地域計画を作成した市町村に限る。以下この項において同じ。)の住民の利用とを調整することが 土地利用の高度化を図るため必要であると認めるときは、契約により、当該認定市町村の住民又は当該認定市町村内の 一定の区域に住所を有する者に対し、これらの者が同条第四項の規定により記載された事項に係る国有林野を アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物の採取に共同して使用する権利を 取得させることができる。
2 前項の契約は、国有林野の管理経営に関する法律第十八条第三項に規定する共用林野契約とみなして、 同法第五章(同条第一項及び第二項を除く。)の規定を適用する。この場合において、 同条第三項本文中「第一項」とあるのは 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(平成三十一年法律第号)第十六条第一項」と、 「市町村」とあるのは「認定市町村(同法第十二条第一項に規定する認定市町村をいう。以下同じ。)」と、 同項ただし書並びに同法第十九条第五号、第二十二条第一項及び第二十四条中「市町村」とあるのは「認定市町村」と、 同法第十八条第四項中「第一項」とあり、及び同法第二十一条の二中「第十八条」とあるのは 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律第十六条第一項」とする。
(漁業法及び水産資源保護法による許可についての配慮)
第十七条 農林水産大臣又は都道府県知事は、認定アイヌ施策推進地域計画に記載された内水面さけ採捕事業の 実施のため漁業法第六十五条第一項若しくは第二項又は水産資源保護法(昭和二十六年法律第三百十三号) 第四条第一項若しくは第二項の規定に基づく農林水産省令又は都道府県の規則の規定による許可が必要とされる場合において、 当該許可を求められたときは、当該内水面さけ採捕事業が円滑に実施されるよう適切な配慮をするものとする。

(商標法の特例)
第十八条 認定アイヌ施策推進地域計画に記載された商品等需要開拓事業については、 当該商品等需要開拓事業の実施期間(次項及び第三項において単に「実施期間」という。)内に限り、次項から第六項までの規定を適用する。
2 特許庁長官は、認定アイヌ施策推進地域計画に記載された商品等需要開拓事業に係る商品又は役務に係る地域団体商標の商標登録 (商標法(昭和三十四年法律第百二十七号)第七条の二第一項に規定する地域団体商標の商標登録をいう。以下この項及び次項において同じ。) について、同法第四十条第一項若しくは第二項又は第四十一条の二第一項若しくは第七項の登録料を納付すべき者が当該商品又は 役務に係る商品等需要開拓事業の実施主体であるときは、政令で定めるところにより、当該登録料 (実施期間内に地域団体商標の商標登録を受ける場合のもの又は実施期間内に地域団体商標の商標登録に係る 商標権の存続期間の更新登録の申請をする場合のものに限る。)を軽減し、又は免除することができる。 この場合において、同法第十八条第二項並びに第二十三条第一項及び第二項の規定の適用については、 これらの規定中「納付があつたとき」とあるのは、「納付又はその納付の免除があつたとき」とする。
3 特許庁長官は、認定アイヌ施策推進地域計画に記載された商品等需要開拓事業に係る商品又は役務に係る 地域団体商標の商標登録について、当該地域団体商標の商標登録を受けようとする者が当該商品又は役務に係る 商品等需要開拓事業の実施主体であるときは、政令で定めるところにより、商標法第七十六条第二項の規定により 納付すべき商標登録出願の手数料(実施期間内に商標登録出願をする場合のものに限る。)を軽減し、又は免除することができる。
4 商標法第四十条第一項若しくは第二項又は第四十一条の二第一項若しくは第七項の登録料は、商標権が第二項の規定による 登録料の軽減又は免除(以下この項において「減免」という。)を受ける者を含む者の共有に係る場合であって持分の定めがあるときは、 同法第四十条第一項若しくは第二項又は第四十一条の二第一項若しくは第七項の規定にかかわらず、 各共有者ごとにこれらに規定する登録料の金額(減免を受ける者にあっては、その減免後の金額)にその持分の割合を 乗じて得た額を合算して得た額とし、その額を納付しなければならない。
5 商標登録出願により生じた権利が第三項の規定による商標登録出願の手数料の軽減又は免除(以下この項において「減免」という。) を受ける者を含む者の共有に係る場合であって持分の定めがあるときは、これらの者が自己の商標登録出願により生じた権利について 商標法第七十六条第二項の規定により納付すべき商標登録出願の手数料は、同項の規定にかかわらず、各共有者ごとに同項に規定する 商標登録出願の手数料の金額(減免を受ける者にあっては、その減免後の金額)にその持分の割合を乗じて得た額を合算して得た額とし、 その額を納付しなければならない。
6 前二項の規定により算定した登録料又は手数料の金額に十円未満の端数があるときは、その端数は、切り捨てるものとする
(地方債についての配慮)
第十九条 認定市町村が認定アイヌ施策推進地域計画に基づいて行う事業に要する経費に充てるため起こす地方債については、国は、 当該認定市町村の財政状況が許す限り起債ができるよう、及び資金事情が許す限り財政融資資金をもって引き受けるよう特別の 配慮をするものとする。

第六章 指定法人
(指定等)
第二十条 国土交通大臣及び文部科学大臣は、アイヌ文化の振興等を目的とする一般社団法人又は一般財団法人であって、 次条に規定する業務を適正かつ確実に行うことができると認められるものを、その申請により、全国を通じて一に限り、 同条に規定する業務を行う者として指定することができる。
文化財団組織図 (拡大)
国のアイヌ施策図解 ▲もっぱら文化、文化、文化。先住権など毛頭、頭にない。(2023.8.2)(拡大)
▲指定法人は誰?→公益財団法人 アイヌ民族文化財団 理事長常本 照樹 アイヌ民族文化財団(2023.8.1)
この度、2018年4月1日をもちまして、公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構は、一般財団法人アイヌ民族博物館と合併いたします。 合併にともない、名称が「公益財団法人アイヌ民族文化財団」と変わります。
国立アイヌ民族博物館が別にある。(2023.8.1)
▲博物館の田村将人資料情報室長に2023.8.1、組織を聞きました。 文化財団の中に博物館が含まれることを確認できました。(2023.8.2)
▲国の担当部局→内閣官房アイヌ総合政策 内閣官房アイヌ総合政策室 政策の概要

2 国土交通大臣及び文部科学大臣は、前項の申請をした者が次の各号のいずれかに該当するときは、同項の規定による指定をしてはならない。
 一 この法律の規定により罰金の刑に処せられ、その執行を終わり、又は執行を受けることがなくなった日から二年を経過しない者であること。
 二 第三十条第一項の規定により指定を取り消され、その取消しの日から二年を経過しない者であること。
 三 その役員のうちに、次のいずれかに該当する者があること。
  イ 禁錮以上の刑に処せられ、又はこの法律の規定により罰金の刑に処せられ、その執行を終わり、 又はその執行を受けることがなくなった日から二年を経過しない者
  ロ 第二十七条第二項の規定による命令により解任され、その解任の日から二年を経過しない者
3 国土交通大臣及び文部科学大臣は、第一項の規定による指定をしたときは、当該指定を受けた者(以下「指定法人」という。)の 名称、住所及び事務所の所在地を公示しなければならない。
4 指定法人は、その名称、住所又は事務所の所在地を変更しようとするときは、あらかじめ、 その旨を国土交通大臣及び文部科学大臣に届け出なければならない。
5 国土交通大臣及び文部科学大臣は、前項の規定による届出があったときは、当該届出に係る事項を公示しなければならない。
(業務)
第二十一条 指定法人は、次に掲げる業務を行うものとする。
 一 第九条第一項の規定による委託を受けて民族共生象徴空間構成施設の管理を行うこと。
 二 アイヌ文化を継承する者の育成その他のアイヌ文化の振興に関する業務を行うこと。
 三 アイヌの伝統等に関する広報活動その他のアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発を行うこと。
 四 アイヌ文化の振興等に資する調査研究を行うこと。
 五 アイヌ文化の振興、アイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発又はアイヌ文化の振興等に資する調査研究を行う者に対して、 助言、助成その他の援助を行うこと。
 六 前各号に掲げるもののほか、アイヌ文化の振興等を図るために必要な業務を行うこと。
(民族共生象徴空間構成施設管理業務規程)
第二十二条 指定法人は、前条第一号に掲げる業務(以下「民族共生象徴空間構成施設管理業務」という。) に関する規程(以下「民族共生象徴空間構成施設管理業務規程」という。)を定め、国土交通大臣及び文部科学大臣の認可を受けなければならない。 これを変更しようとするときも、同様とする。
2 民族共生象徴空間構成施設管理業務規程には、民族共生象徴空間構成施設管理業務の実施の方法、 民族共生象徴空間構成施設の入場料等その他の国土交通省令・文部科学省令で定める事項を定めておかなければならない。
3 国土交通大臣及び文部科学大臣は、第一項の認可をした民族共生象徴空間構成施設管理業務規程が 民族共生象徴空間構成施設管理業務の適正かつ確実な実施上不適当となったと認めるときは、指定法人に対し、 これを変更すべきことを命ずることができる。
(事業計画等)
第二十三条 指定法人は、毎事業年度、事業計画書及び収支予算書を作成し、当該事業年度の開始前に (第二十条第一項の規定による指定を受けた日の属する事業年度にあっては、その指定を受けた後遅滞なく) 、国土交通大臣及び文部科学大臣の認可を受けなければならない。これを変更しようとするときも、同様とする。
2 指定法人は、毎事業年度、事業報告書及び収支決算書を作成し、当該事業年度の終了後三月以内に 国土交通大臣及び文部科学大臣に提出しなければならない。
(区分経理)
第二十四条 指定法人は、国土交通省令・文部科学省令で定めるところにより、 民族共生象徴空間構成施設管理業務に関する経理と民族共生象徴空間構成施設管理業務以外の業務に関する経理とを区分して整理しなければならない。
(国派遣職員に係る特例)
第二十五条 国家公務員法(昭和二十二年法律第百二十号)第百六条の二第三項に規定する退職手当通算法人には、指定法人を含むものとする。
2 国派遣職員(国家公務員法第二条に規定する一般職に属する職員が、任命権者又はその委任を受けた者の要請に応じ、指定法人の職員 (常時勤務に服することを要しない者を除き、第二十一条に規定する業務に従事する者に限る。以下この項において同じ。)となるため退職し、 引き続いて当該指定法人の職員となり、引き続き当該指定法人の職員として在職している場合における当該指定法人の職員をいう。 次項において同じ。)は、国家公務員退職手当法(昭和二十八年法律第百八十二号)第七条の二及び第二十条第三項の規定の適用については、 同法第七条の二第一項に規定する公庫等職員とみなす。
3 指定法人又は国派遣職員は、国家公務員共済組合法(昭和三十三年法律第百二十八号) 第百二十四条の二の規定の適用については、それぞれ同条第一項に規定する公庫等又は公庫等職員とみなす。
(職員の派遣等についての配慮)
第二十六条 前条に規定するもののほか、国は、指定法人が行う第二十一条に規定する業務の適正かつ確実な遂行を図るため 必要があると認めるときは、職員の派遣その他の適当と認める人的援助について必要な配慮を加えるよう努めるものとする。
(役員の選任及び解任)
第二十七条 指定法人の第二十一条に規定する業務に従事する役員の選任及び解任は、 国土交通大臣及び文部科学大臣の認可を受けなければ、その効力を生じない。
2 国土交通大臣及び文部科学大臣は、指定法人の第二十一条に規定する業務に従事する役員が、 この法律若しくはこの法律に基づく命令若しくはこれらに基づく処分若しくは民族共生象徴空間構成施設管理業務規程に 違反する行為をしたとき、同条に規定する業務に関し著しく不適当な行為をしたとき、 又はその在任により指定法人が第二十条第二項第三号に該当することとなるときは、指定法人に対し、 その役員を解任すべきことを命ずることができる。
(報告の徴収及び立入検査)
第二十八条 国土交通大臣及び文部科学大臣は、この法律の施行に必要な限度において、 指定法人に対し、その業務に関し報告をさせ、又はその職員に、指定法人の事務所に立ち入り、業務の状況若しくは帳簿、 書類その他の物件を検査させ、若しくは関係者に質問させることができる。
2 前項の規定により立入検査をする職員は、その身分を示す証明書を携帯し、関係者の請求があったときは、これを提示しなければならない。
3 第一項の規定による立入検査の権限は、犯罪捜査のために認められたものと解してはならない。(監督命令)
第二十九条 国土交通大臣及び文部科学大臣は、この法律を施行するため必要があると認めるときは、 指定法人に対し、第二十一条に規定する業務に関し監督上必要な命令をすることができる。
(指定の取消し等)
第三十条 国土交通大臣及び文部科学大臣は、指定法人が次の各号のいずれかに該当するときは、 第二十条第一項の規定による指定を取り消すことができる。
 一 この法律又はこの法律に基づく命令に違反したとき。
 二 第二十一条に規定する業務を適正かつ確実に実施することができないおそれがある者となったとき。
 三 第二十二条第一項の規定により認可を受けた民族共生象徴空間構成施設管理業務規程によらないで 民族共生象徴空間構成施設管理業務を行ったとき。
 四 第二十二条第三項、第二十七条第二項又は前条の規定による命令に違反したとき。
 五 不当に民族共生象徴空間構成施設管理業務を実施しなかったとき。
2 国土交通大臣及び文部科学大臣は、前項の規定により第二十条第一項の規定による指定を取り消したときは、その旨を公示しなければならない。
(指定を取り消した場合における経過措置)
第三十一条 前条第一項の規定により第二十条第一項の規定による指定を取り消した場合において、 国土交通大臣及び文部科学大臣がその取消し後に新たに指定法人を指定したときは、 取消しに係る指定法人の民族共生象徴空間構成施設管理業務に係る財産は、新たに指定を受けた指定法人に帰属する。
2 前項に定めるもののほか、前条第一項の規定により第二十条第一項の規定による指定を取り消した場合における 民族共生象徴空間構成施設管理業務に係る財産の管理その他所要の経過措置(罰則に関する経過措置を含む。)は、 合理的に必要と判断される範囲内において、政令で定めることができる。

第七章 アイヌ政策推進本部
(設置)
第三十二条 アイヌ施策を総合的かつ効果的に推進するため、内閣に、アイヌ政策推進本部(以下「本部」という。)を置く。
(所掌事務)
第三十三条 本部は、次に掲げる事務をつかさどる。
 一 基本方針の案の作成に関すること。
 二 基本方針の実施を推進すること。
 三 前二号に掲げるもののほか、アイヌ施策で重要なものの企画及び立案並びに総合調整に関すること。
(組織)
第三十四条 本部は、アイヌ政策推進本部長、アイヌ政策推進副本部長及びアイヌ政策推進本部員をもって組織する。
(アイヌ政策推進本部長)
第三十五条 本部の長は、アイヌ政策推進本部長(以下「本部長」という。)とし、内閣官房長官をもって充てる。
2 本部長は、本部の事務を総括し、所部の職員を指揮監督する。
(アイヌ政策推進副本部長)
第三十六条 本部に、アイヌ政策推進副本部長(次項及び次条第二項において「副本部長」という。)を置き、国務大臣をもって充てる。
2 副本部長は、本部長の職務を助ける。
(アイヌ政策推進本部員)
第三十七条 本部に、アイヌ政策推進本部員(次項において「本部員」という。)を置く。
2 本部員は、次に掲げる者(第一号から第八号までに掲げる者にあっては、副本部長に充てられたものを除く。)をもって充てる。
 一 法務大臣
 二 外務大臣
 三 文部科学大臣
 四 厚生労働大臣
 五 農林水産大臣
 六 経済産業大臣
 七 国土交通大臣
 八 環境大臣
 九 前各号に掲げる者のほか、本部長及び副本部長以外の国務大臣のうちから、 本部の所掌事務を遂行するために特に必要があると認める者として内閣総理大臣が指定する者
(資料の提出その他の協力)
第三十八条 本部は、その所掌事務を遂行するため必要があると認めるときは、関係行政機関、地方公共団体、 独立行政法人(独立行政法人通則法(平成十一年法律第百三号)第二条第一項に規定する独立行政法人をいう。) 及び地方独立行政法人(地方独立行政法人法(平成十五年法律第百十八号)第二条第一項に規定する地方独立行政法人をいう。) の長並びに特殊法人(法律により直接に設立された法人又は特別の法律により特別の設立行為をもって設立された法人であって、 総務省設置法(平成十一年法律第九十一号)第四条第一項第九号の規定の適用を受けるものをいう。)の代表者に対して、 資料の提出、意見の表明、説明その他必要な協力を求めることができる。
2 本部は、その所掌事務を遂行するため特に必要があると認めるときは、前項に規定する者以外の者に対しても、必要な協力を依頼することができる。
(事務)
第三十九条 本部に関する事務は、内閣官房において処理し、命を受けて内閣官房副長官補が掌理する。
内閣官房アイヌ総合政策室を見てください。)
(主任の大臣)
第四十条 本部に係る事項については、内閣法(昭和二十二年法律第五号)にいう主任の大臣は、内閣総理大臣とする。
(政令への委任)
第四十一条 この法律に定めるもののほか、本部に関し必要な事項は、政令で定める。
第八章 雑則
(権限の委任)
第四十二条 この法律に規定する国土交通大臣の権限は、国土交通省令で定めるところにより、その一部を北海道開発局長に委任することができる。
2 第十六条の規定による農林水産大臣の権限は、農林水産省令で定めるところにより、その一部を森林管理局長に委任することができる。
3 前項の規定により森林管理局長に委任された権限は、農林水産省令で定めるところにより、森林管理署長に委任することができる。
(命令への委任)
第四十三条 この法律に定めるもののほか、この法律の実施のため必要な事項は、命令で定める。
(罰則)
第四十四条 第二十八条第一項の規定による報告をせず、若しくは虚偽の報告をし、又は同項の規定による検査を拒み、妨げ、 若しくは忌避し、若しくは同項の規定による質問に対して陳述せず、若しくは虚偽の陳述をした者は、三十万円以下の罰金に処する。
2 法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務に関し、 前項の違反行為をしたときは、行為者を罰するほか、その法人又は人に対して同項の刑を科する。
第四十五条 第二十九条の規定による命令に違反した者は、五十万円以下の過料に処する。
附則
(施行期日)
第一条 この法律は、公布の日から起算して一月を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。 ただし、附則第四条及び第八条の規定は、公布の日から施行する。
(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律の廃止)
第二条 アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(平成九年法律第五十二号)は、廃止する。
(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律の廃止に伴う経過措置)
第三条 前条の規定の施行前にした行為に対する罰則の適用については、なお従前の例による。
(準備行為)
第四条 第二十条第一項の規定による指定を受けようとする者は、この法律の施行前においても、その申請を行うことができる。
(漁業法等の一部を改正する等の法律の一部改正)
第五条 漁業法等の一部を改正する等の法律(平成三十年法律第九十五号)の一部を次のように改正する。
附則に次の一条を加える。
(アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律の一部改正)
第八十条 アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(平成三十一年法律第 号)の一部を次のように改正する。
第十条第五項中「第八条第三項」を「第六十条第五項第五号」に改める。
第十七条中「第六十五条第一項」を「第百十九条第一項」に、「第四条第一項若しくは第二項」を「第四条第一項」に改める。
(内閣府設置法の一部改正)
第六条 内閣府設置法(平成十一年法律第八十九号)の一部を次のように改正する。
第四条第三項第五十四号の四の次に次の一号を加える。
五十四の五アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(平成三十一年法律第 号) 第十条第一項に規定するアイヌ施策推進地域計画の認定に関すること及び同法第十五条第一項の交付金に関すること。
(国土交通省設置法の一部改正)
第七条 国土交通省設置法(平成十一年法律第百号)の一部を次のように改正する。
第三十三条第一項第二号中「第三十四号まで」の下に「、第四十二号」を加える。
(政令への委任)
第八条 附則第三条及び第四条に定めるもののほか、この法律の施行に関し必要な経過措置は、政令で定める。
(検討)
第九条 政府は、この法律の施行後五年を経過した場合において、この法律の施行の状況について検討を加え、 必要があると認めるときは、その結果に基づいて所要の措置を講ずるものとする。
理由
 アイヌの伝統及びアイヌ文化が置かれている状況並びに近年における先住民族をめぐる国際情勢に鑑み、 アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するため、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発 並びにこれらに資する環境の整備に関する施策の推進に関し、基本理念、国等の責務、政府による基本方針の策定、 民族共生象徴空間構成施設の管理に関する措置、市町村によるアイヌ施策推進地域計画の作成及びその内閣総理大臣による認定、 当該認定を受けたアイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置、アイヌ政策推進本部の設置等 について定める必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。

第198回国会閣法第24号 附帯決議
アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律案に対する附帯決議
 政府は、本法の施行に当たっては、次の諸点に留意し、その運用について遺漏なきを期すべきである。
一 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の趣旨を踏まえ、並びに過去の国会決議及び本法に基づき、 アイヌ施策を推進するに当たっては、我が国が近代化する過程において多くのアイヌの人々が苦難を受けたという歴史的事実を厳粛に受け止め、 アイヌの人々の自主性を尊重し、その意向が十分反映されるよう努めること。
二 アイヌ文化の振興等に資する環境の整備に関する施策の推進に当たっては、 アイヌの人々の実態等の把握に努めるとともに、国、地方公共団体等の連携の強化を図ること。
三 アイヌの人々に対する差別を根絶し、アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と共生社会の実現を図るため、 アイヌに関する教育の充実に向けた取組を推進すること。
四 アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と我が国の多様な生活文化の発展を図るため、 アイヌの人々の生活支援及び教育支援に資する事業や、存続の危機にあるアイヌ語の復興に向けた取組、 アイヌ文化の振興等の充実に今後とも一層努めるとともに、アイヌの人々が北海道のみならず全国において生活していることを踏まえて、 北海道外に居住するアイヌの人々を対象とする施策の充実に努めること。

五 本法に基づく措置、とりわけ交付金制度については、本法の目的に沿ってアイヌ施策を適正かつ効率的に推進するため、 制度の適切な運用を図ること。
六 本法において特例措置が設けられる認定アイヌ施策推進地域計画に係る地域団体商標の取得を契機に、 アイヌ文化のブランド化の確立など産業振興を図るために、交付金制度の活用や国等からのノウハウの提供等により、 アイヌの人々の自立を最大限支援すること。
七 内水面におけるさけの採捕や国有林野における林産物の採取といった本法の特例措置に関し、 アイヌにおいて継承されてきた儀式の保存又は継承等を事業の目的とする趣旨に鑑み、 関係機関と緊密な連携の下、アイヌの人々の視点に立ち、制度の円滑な運用に努めること。
八 民族共生象徴空間への来場により国内外におけるアイヌの伝統等に関する理解の促進が一層図られるよう、 広報活動やアクセスの改善等を図ること。また、民族共生象徴空間に関し、適切な運営が図られるよう指定法人に対する指導監督に努めること。

アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律案に対する附帯決議
平成三十一年四月十八日
参議院国土交通委員会
政府は、本法の施行に当たり、次の諸点について適切な措置を講じ、その運用に万全を期すべきである。

一 過去の国会決議や本法等に基づくアイヌ施策を推進するに当たっては、我が国が近代化する過程におい て多くのアイヌの人々が苦難を受けたという歴史的事実を厳粛に受け止め、アイヌの人々の自主性を尊重 し、その意向が十分反映されるよう努めること。
二 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の趣旨を踏まえるとともに、我が国のアイヌ政策に係る国連 人権条約監視機関による勧告や、諸外国における先住民族政策の状況にも留意し、アイヌの人々に関する 施策の更なる検討に努めること。
三 アイヌ文化の振興等に資する環境の整備に関する施策の推進に当たっては、アイヌの人々の実態等の把 握に努めるとともに、国、地方公共団体等の連携の強化を図ること。
四 アイヌの人々に対する差別を根絶し、アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と共生社会の実現を図る ため、アイヌに関する教育並びにアイヌへの理解を深めるための啓発及び広報活動の充実に向けた取組を 推進すること。あわせて、本法第四条の規定を踏まえ、不当な差別的言動の解消に向けた実効性のある具 体的措置を講ずること。
五 アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と我が国の多様な生活文化の発展を図るため、アイヌの人々の 生活支援及び教育支援に資する事業や、存続の危機にあるアイヌ語の復興に向けた取組、アイヌ文化の振 興等の充実に今後とも一層努めるとともに、アイヌの人々が北海道のみならず全国において生活している ことを踏まえて、北海道外に居住するアイヌの人々を対象とする施策の充実に努めること。

六 本法に基づく措置、とりわけ交付金制度については、本法の目的に沿ってアイヌ施策を適正かつ効率的 に推進するため、制度の適切な運用を図ること。あわせて、市町村によるアイヌ施策推進地域計画の作成 に当たり、アイヌの人々の要望等が十分に反映されるよう、適切な指導を行うこと。
七 本法において特例措置が設けられる認定アイヌ施策推進地域計画に係る地域団体商標の取得を契機に、 アイヌ文化のブランド化の確立や販路拡大などの産業振興を図るため、交付金制度の活用や国等からのノ ウハウの提供等により、アイヌの人々の自立を最大限支援すること。
八 内水面におけるさけの採捕や国有林野における林産物の採取といった本法の特例措置に関し、アイヌに おいて継承されてきた儀式の保存又は継承等を事業の目的とする趣旨に鑑み、関係機関との緊密な連携の 下、アイヌの人々の視点に立ち、制度の円滑な運用に努めること。
九 国内外においてアイヌの伝統等に関する理解が一層深まるよう、民族共生象徴空間への誘客促進に向け た広報活動やアクセスの改善等を図ること。また、民族共生象徴空間に関し、適切な運営が図られるよ う、指定法人に対する指導監督に努めること。
十 本法の施行後、本法の施行状況について適時適切に検討を行い、その結果に基づき得られた課題に関し、 必要な措置を講ずること。なお、その際にはアイヌの人々の意見を十分踏まえること。
右決議する。


▼上記
2019.5.14朝日新聞朝刊(拡大) テッサ・モーリス=スズキさん
「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」 に対する私の考えは 2019.5.14朝日新聞朝刊「私の視点」に掲載されたテッサ・モーリス=スズキ豪国立大学名誉教授と基本は同じです。 この法律は条文の多さに比べて 中身が、先住民族の先住権が、空っぽです。
50年前の1969年に成立した、同じく日本のマイノリティーの被差別部落への同和対策の特別措置法はたった11条でした。 しかしその法律の下で33年間で15兆円もの事業が行われました。 今回の「アイヌ施策推進法」は建築でいえば 門構えは立派ですが中身は空疎との印象です。
2008年9月17日第2回「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」 でのアイヌ協会加藤理事長発言と比較してみてください。 (2019.5.14)

▼「アイヌ施策推進法」もう一度じっくり読んでみました。評価できる点をピックアップします。(2020.5.5)
(基本理念)
●第三条 アイヌ施策の推進は、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重されるよう、 アイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統等並びに我が国を含む国際社会において重要な課題である 多様な民族の共生及び多様な文化の発展についての国民の理解を深めることを旨として、行われなければならない。
2 アイヌ施策の推進は、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができるよう、 アイヌの人々の自発的意思の尊重に配慮しつつ、行われなければならない。
3 アイヌ施策の推進は、国、地方公共団体その他の関係する者の相互の密接な連携を図りつつ、 アイヌの人々が北海道のみならず全国において生活していることを踏まえて全国的な視点に立って行われなければならない。
●第四条 何人も、アイヌの人々に対して、アイヌであることを理由として、 差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。
(国及び地方公共団体の責務)
●第五条 国及び地方公共団体は、前二条に定める基本理念にのっとり、アイヌ施策を策定し、及び実施する責務を有する。
2 国及び地方公共団体は、アイヌ文化を継承する者の育成について適切な措置を講ずるよう努めなければならない。
3 国及び地方公共団体は、教育活動、広報活動その他の活動を通じて、アイヌに関し、国民の理解を深めるよう努めなければならない。
4 国は、アイヌ文化の振興等に資する調査研究を推進するよう努めるとともに、地方公共団体が実施するアイヌ施策を推進するために 必要な助言その他の措置を講ずるよう努めなければならない。
(国民の努力)
●第六条 国民は、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される 社会の実現に寄与するよう努めるものとする。
●第七条3 内閣総理大臣は、アイヌ政策推進本部が作成した基本方針の案について閣議の決定を求めなければならない。
●第十条4 第二項第二号(ニを除く。)に規定する事業に関する事項には、アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施 その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物を国有林野において採取する事業に関する事項を記載することができる。
●第十条5 前項に定めるもののほか、第二項第二号(ニを除く。)に規定する事業に関する事項には、アイヌにおいて継承されてきた 儀式若しくは漁法(以下この項において「儀式等」という。)の保存若しくは継承又は儀式等に関する知識の普及及び啓発に 利用するためのさけを内水面(漁業法(昭和二十四年法律第二百六十七号)第八条第三項に規定する内水面をいう。)において 採捕する事業(以下この条及び第十七条において「内水面さけ採捕事業」という。)に関する事項を記載することができる。 この場合においては、内水面さけ採捕事業ごとに、当該内水面さけ採捕事業を実施する区域を記載するものとする。
●(国有林野における共用林野の設定)
第十六条 農林水産大臣は、国有林野の経営と認定市町村(第十条第四項に規定する事項を記載した 認定アイヌ施策推進地域計画を作成した市町村に限る。以下この項において同じ。)の住民の利用とを調整することが 土地利用の高度化を図るため必要であると認めるときは、契約により、当該認定市町村の住民又は当該認定市町村内の 一定の区域に住所を有する者に対し、これらの者が同条第四項の規定により記載された事項に係る国有林野を アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物の採取に共同して使用する権利を 取得させることができる。
2 前項の契約は、国有林野の管理経営に関する法律第十八条第三項に規定する共用林野契約とみなして、 同法第五章(同条第一項及び第二項を除く。)の規定を適用する。この場合において、 同条第三項本文中「第一項」とあるのは 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(平成三十一年法律第号)第十六条第一項」と、 「市町村」とあるのは「認定市町村(同法第十二条第一項に規定する認定市町村をいう。以下同じ。)」と、 同項ただし書並びに同法第十九条第五号、第二十二条第一項及び第二十四条中「市町村」とあるのは「認定市町村」と、 同法第十八条第四項中「第一項」とあり、及び同法第二十一条の二中「第十八条」とあるのは 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律第十六条第一項」とする。
(漁業法及び水産資源保護法による許可についての配慮)
●第十七条 農林水産大臣又は都道府県知事は、認定アイヌ施策推進地域計画に記載された内水面さけ採捕事業の 実施のため漁業法第六十五条第一項若しくは第二項又は水産資源保護法(昭和二十六年法律第三百十三号) 第四条第一項若しくは第二項の規定に基づく農林水産省令又は都道府県の規則の規定による許可が必要とされる場合において、 当該許可を求められたときは、当該内水面さけ採捕事業が円滑に実施されるよう適切な配慮をするものとする。
●(アイヌ政策推進本部長)
第三十五条 本部の長は、アイヌ政策推進本部長(以下「本部長」という。)とし、内閣官房長官をもって充てる。
2 本部長は、本部の事務を総括し、所部の職員を指揮監督する。
●(アイヌ政策推進副本部長)
第三十六条 本部に、アイヌ政策推進副本部長(次項及び次条第二項において「副本部長」という。)を置き、国務大臣をもって充てる。
2 副本部長は、本部長の職務を助ける。
●(アイヌ政策推進本部員)
第三十七条 本部に、アイヌ政策推進本部員(次項において「本部員」という。)を置く。
2 本部員は、次に掲げる者(第一号から第八号までに掲げる者にあっては、副本部長に充てられたものを除く。)をもって充てる。
 一 法務大臣
 二 外務大臣
 三 文部科学大臣
 四 厚生労働大臣
 五 農林水産大臣
 六 経済産業大臣
 七 国土交通大臣
 八 環境大臣
 九 前各号に掲げる者のほか、本部長及び副本部長以外の国務大臣のうちから、 本部の所掌事務を遂行するために特に必要があると認める者として内閣総理大臣が指定する者
●付則(検討)
第九条 政府は、この法律の施行後五年を経過した場合において、この法律の施行の状況について検討を加え、 必要があると認めるときは、その結果に基づいて所要の措置を講ずるものとする。
●第198回国会閣法第24号 附帯決議
アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律案に対する附帯決議
 政府は、本法の施行に当たっては、次の諸点に留意し、その運用について遺漏なきを期すべきである。
一 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の趣旨を踏まえ、並びに過去の国会決議及び本法に基づき、 アイヌ施策を推進するに当たっては、我が国が近代化する過程において多くのアイヌの人々が苦難を受けたという歴史的事実を厳粛に受け止め、 アイヌの人々の自主性を尊重し、その意向が十分反映されるよう努めること。
二 アイヌ文化の振興等に資する環境の整備に関する施策の推進に当たっては、 アイヌの人々の実態等の把握に努めるとともに、国、地方公共団体等の連携の強化を図ること。
三 アイヌの人々に対する差別を根絶し、アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と共生社会の実現を図るため、 アイヌに関する教育の充実に向けた取組を推進すること。
四 アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と我が国の多様な生活文化の発展を図るため、 アイヌの人々の生活支援及び教育支援に資する事業や、存続の危機にあるアイヌ語の復興に向けた取組、 アイヌ文化の振興等の充実に今後とも一層努めるとともに、アイヌの人々が北海道のみならず全国において生活していることを踏まえて、 北海道外に居住するアイヌの人々を対象とする施策の充実に努めること。
七 内水面におけるさけの採捕や国有林野における林産物の採取といった本法の特例措置に関し、 アイヌにおいて継承されてきた儀式の保存又は継承等を事業の目的とする趣旨に鑑み、 関係機関と緊密な連携の下、アイヌの人々の視点に立ち、制度の円滑な運用に努めること。
付帯決議
●アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律案に対する附帯決議
平成三十一年四月十八日
参議院国土交通委員会
政府は、本法の施行に当たり、次の諸点について適切な措置を講じ、その運用に万全を期すべきである。
一過去の国会決議や本法等に基づくアイヌ施策を推進するに当たっては、我が国が近代化する過程におい て多くのアイヌの人々が苦難を受けたという歴史的事実を厳粛に受け止め、アイヌの人々の自主性を尊重 し、その意向が十分反映されるよう努めること。
二「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の趣旨を踏まえるとともに、我が国のアイヌ政策に係る国連 人権条約監視機関による勧告や、諸外国における先住民族政策の状況にも留意し、アイヌの人々に関する 施策の更なる検討に努めること。
三アイヌ文化の振興等に資する環境の整備に関する施策の推進に当たっては、アイヌの人々の実態等の把 握に努めるとともに、国、地方公共団体等の連携の強化を図ること。
強制不妊1 強制不妊2 2023.6.13朝日朝刊(拡大)
強制不妊3 大阪高裁2022年「除斥期間の適用は著しく正義・公正の理念に反する」(拡大)
▲アイヌの問題についても明治以降の政府の政策について実態調査を求めていこう。(2023.6.13)
▲この条項を使った実態調査を政府に求めたか?実態調査を求める。 (2023.6.13)
アイヌ施策の進捗状況(2023.7.31)
▲アイヌ語講座などの実際の取り組みに興味がある。(2023.8.8) (拡大)
推進法見直しの取組み 解放新聞2023.6.15
多原良子さん(拡大)
四アイヌの人々に対する差別を根絶し、アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と共生社会の実現を図る ため、アイヌに関する教育並びにアイヌへの理解を深めるための啓発及び広報活動の充実に向けた取組を 推進すること。あわせて、本法第四条の規定を踏まえ、不当な差別的言動の解消に向けた実効性のある具 体的措置を講ずること。
五アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と我が国の多様な生活文化の発展を図るため、アイヌの人々の 生活支援及び教育支援に資する事業や、存続の危機にあるアイヌ語の復興に向けた取組、アイヌ文化の振 興等の充実に今後とも一層努めるとともに、アイヌの人々が北海道のみならず全国において生活している ことを踏まえて、北海道外に居住するアイヌの人々を対象とする施策の充実に努めること。

▼上記のようにピックアップしました。
基本理念、差別禁止、国及び地方自治体の責務、国民の努力、内閣総理大臣の責任、アイヌ民族の儀式に必要な 林野、内水面の利用、内閣官房長官をトップとした政策推進本部の設置、5年のちの検討、 附帯決議のなかでの「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の趣旨を踏まえること、我が国のアイヌ政策に係る国連 人権条約監視機関による勧告や、諸外国における先住民族政策の状況にも留意し、アイヌの人々に関する 施策の更なる検討に努めることの確認、
といった肯定的な内容も織り込まれています。
これらを活用しながら今後、先住権(土地・資源・自治)の内容を取り込んでいくように運動を進めていくことだとおもいます。
昨夜解放同盟の大賀さんに1時間半「同対審」答申の評価に関する運動の歴史をうかがいました。 それを踏まえての今朝の作業でした。(2020.5.6)
▲やはり先住権が決定的に欠落。文化のみの推進法。(2023.8.7)
▲推進法を否定はしない、文化の特別法と位置付ける。文化を含む先住権を保障する総合的立法を準備する。 運動としてはこの発想が王道だろう。(2023.8.8)

▼今日、2019.6.15明治学院大学で「先住民族の声は届いたか」をテーマとするシンポジウムが開かれました。副題が先住権なき「アイヌ新法」と書かれているように 今回の「新法」はアイヌの人たちに厳しい受け止めがなされています。 会場にはテッサ・モーリス=スズキさんの姿もありました。
わたしが特にこころを惹かれたのは 葛野次雄(くずのつぐお)さんの、ご先祖の遺骨返還を求めるアイヌ語の詩です。
葛野次雄さん
イホッパ シンリツ シサム エシカ オルシペ ウタリ アネカンホク クニ
(亡くなったご先祖を和人が盗んだ話 同胞を我々が迎えるために)。

聞き終えると悲しくなりました。 日本語訳を紹介します。

昔から
たくさんの和人たちが
この尊い北海道に
やってきてよくよく生活していた
アイヌたちを消すために
(様々なことを)したせいで
山猟も
漁業も
他、風習も自分らしく生きることも
出来なくなりました。

じいさん方、ばあさん方が、
和人たちをひどく苦しめたことが
何かあったでしょうか?
和人たちも
ヤイサマ 城野口 ユリ フチが伝承した唄
私のコタン
私のコタン
私のコタン
私のコタン

お母さんのそばへ
お父さんのそばへ
お母さんのそばへ
お父さんのそばへ
お母さんのそばへ

海をこえて
山をこえて
海をこえて
山をこえて
海をこえて

鳥のように羽があったら飛んでいきたい
鳥のように羽があったら飛んでいきたい
鳥のように羽があったら飛んでいきたい
鳥のように羽があったら飛んでいきたい
鳥のように羽があったら飛んでいきたい

カラスよ
鳥の神よ
パスクルカムイよ
パスクルカムイよ
私の言葉をコタンの父母に伝えてください

私の言葉をコタンの父母に伝えてください
私の言葉をコタンの父母に伝えてください
私の言葉をコタンの父母に伝えてください
私の言葉をコタンの父母に伝えてください
私の言葉をコタンの父母に伝えてください


同じようにただ住んでいたのに
アイヌたちだけが
静かに穏やかに
土の中で
休んでいた
亡くなった祖先を
村から他人に掘り起こされて
研究され、そうして
村へ帰ることも出来ません
骨も身体も無いので
蘇ることも出来ません
和人たちは
我々に謝ることも無く、
アイヌたちだけが
我慢しているのが現状だ

お金も謝罪も
無くたって、石の墓標の代わりに
我々はアイヌのやり方で墓標を作って
立てているから
ご先祖たちを
我々の村へ返して
下さい。

▼パネリストの発言でこころに残っていますのは宇梶静江さんの 「首から上だけで考えないでください。足を大地につけてからだ全体で考えてください。」 とのことばです。このことばを何度も何度もおっしゃっていました。
遺骨返還について「魂が成就できません。」と、訴えておられた。 今日はさながら掘り返され、持ち去られ、 研究室に眠るアイヌの先祖の人たちの慰霊祭のように感じました。
「新法」に関して新井かおりさんの 「第四条 何人も、アイヌの人々に対して、アイヌであることを理由として、 差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。」 は「ヘイトスピーチ解消法」よりも一歩踏み込んでいる、との指摘はハットしました。(2019.6.15)


2020.5.28朝日新聞朝刊 「大きな動きをつくろう」
私にはこの言葉はアイヌモシリ回復訴訟の提起と聞こえています。 (2020.5.30)
(拡大)
2020.8.22朝日朝刊 (拡大)
▼左は詩人・アイヌ文化伝承者宇梶静江さん(87歳)
上京したのは23歳。自分からアイヌであることを明らかにするような発言や態度はとったことはありませんでした。群衆の中に紛れ込んでいられるのであれば 、それに越したことはないという思いがありました。
(民族の団結を呼びかけるメッセージを投稿)
私の内なる「アイヌ」が臨界点に達していたのでしょう。周囲の反応は冷たかった。せっかく東京に 来たのだから放っておいてほしいなどと言われた。
(拡大)
(サケ捕獲で官庁と対立)
サケは「カムイチェプ」と呼ばれる神の魚。捕獲は「先住民族アイヌの権利」です。
先住民族の権利は国際人権規約などで認められていることを、いま一度思い起してほしいと心から願っています。 (「アイヌ漁業権回復を目指して」2017.3.18 アイヌ政策市民会議講演
▼先住権に基づいた裁判を準備中です。まもなく宇梶さんのお考え通りの裁判になると思います。(2020.10.8)

20歳で中学に   アイヌ解放に尽力の宇梶静江さん語る学生時代https://jisin.jp/domestic/1928509/
記事投稿日:2020/12/21 11:00「女性自身」2020年12月29日号 掲載

昨年、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(アイヌ新法)」 が施行され、日本政府はようやく正式に、アイヌをこの国の先住民族として認めた。 今年の夏には北海道白老町に、博物館や慰霊施設などからなる「ウポポイ(民族共生象徴空間)」も開業。 先述のアニメの人気も含め、多くの人がアイヌに注目し、彼女らを取り巻く環境も変化してきているようにも思えるのだが。
ウポポイについて記者が尋ねると、静江さんは刺繍の手を止め、大きなため息を一つついた。
「中身はなにもないです。あれは、アイヌのための空間ではない。和人の理想の、和人が作った和人のための施設だと思います」
政府やアイヌ以外の人を「和人」と呼んだ。そこに長年、差別や偏見と闘ってきた彼女の怒りと悲しみが、にじみ出ているようだった。
「(子供の頃、)犬を飼ってる家の前を通ったら、そこの子が犬を私にけしかける。ほえる犬が足元まで来て、私がおびえると、 その子の親は止めることもなく笑って見てる……そんないじめは日常茶飯事でしたよ。 小学校では、先生からアイヌの子には目をかけなくてもよろしい、というおふれがあったようですね。 だから、どんなにいじめられていても、放っておかれました。先生に認められるなんてことは、夢にも思えなかった」

父は昆布漁、木材の伐採などで家族を養っていたが、戦争が長引き食糧難になって「子供にひもじい思いをさせまい」 と農業に転向。6人きょうだいの上から3番目、次女の静江さんが10歳のときだ。
しかし、当初は凶作が続き、家はますます貧しくなった。そうした貧しいアイヌの子は、農作業や奉公に出て働くのが当たり前、 学業は二の次だった。 だから、静江さんの10代は、ひたすら父を手伝い必死に田畑を耕し続ける日々だった。魚の行商で成功したこともあったが、 心の片隅にはいつも「勉強したい」という思いがくすぶっていた。
19歳の秋。親戚が集まったいろり端でのこと。「静江も来年は二十歳、嫁に行かなきゃな」と不意に言われ、 とっさに彼女は「嫁には行かない!」と宣言する。

母は泣き出したが、父が助け舟を出してくれた。 「将来、子育てする女が学校に行くのも、決して悪いことじゃない」 家長の発言に、兄が続いた。 「静江、行くなら札幌にしろ。それで学校の先生になってくれ」 札幌の中学校では、いじめや差別は一切なかったというが、アイヌということがネックになって就職は困難だった。

こうなったらもう、東京に行くしかない。そう決心し両親を説得。頑固な父も最後は根負けした。 それどころか、どこからか工面してきた2万円という大金を、餞別として汽車に乗る娘にもたせてくれた。
こうして静江さんは56年3月、大都会・東京に。23歳だった。

その後結婚し、詩人として、そしてアイヌの誇りを持った古布絵作家として活動を続けていく静江さん。 87歳になった今も、夢がある。それは、アイヌらしい暮らしぶりを知る最後の世代として、 次の世代の同胞たちに民族の誇りを持ってもらうこと。そのため、いまもコロナ禍のなか、精力的に全国を回っているーー。

“アイヌ”告白は生死かけた決意   宇梶静江語る解放運動の覚悟 https://jisin.jp/domestic/1928542/
記事投稿日:2020/12/21 11:00 最終更新日:2020/12/21 11:00「女性自身」2020年12月29日号 掲載

宇梶静江さん(87)は、詩人で、アイヌの解放運動の先駆者であり、俳優・宇梶剛士さん(58)の母でもある。 生まれ育った北海道浦河郡では、道を歩けばはやしたてられ犬をけしかけられ、まともに学校にも行けなかった。

23歳で東京に出て、アイヌ解放活動を始めてから四半世紀の間、手ごたえを得られずに苦悩していたとき、目の前に現れた「古布絵」。 それは天啓だったーー。
上京後は、喫茶店のウエートレスをしながら、定時制高校に通った宇梶さん。青春を謳歌しながら、どこかでこんなふうに考えていた。 「もう、アイヌのことなんて忘れてしまおう」 一目で同胞とわかる人とすれ違うことが何度もあった。でも、互いに目をそらすのが常だった。 そして、差別のなかった夫と結婚。子宝にも恵まれる。
平穏に暮らしながら、でも、静江さんのなかで「何かが違う」という違和感が募っていた。 その後、「浦川恵麻」のペンネームで詩を書き始めた。
「でも、内心では忸怩たる思いもあって結局ね、アイヌの詩を書けないわけ。アイヌを表現したいのに、 『アイヌだ!』と言われてしまうのが怖くて書けない。そんな自分が許せなかった
35歳になったある日、静江さんは激しい頭痛とめまいに襲われる。病院へ駆け込むと、 脳炎の一種「眠り病」と診断された。働きすぎや過度のストレスが原因とされる大病だ。検査を受けながら、生まれて初めて、死を意識していた。
「やっぱり死んだら、先に逝ってしまった母ちゃんや姉ちゃんのもとにいきたかった。 そのためにはアイヌらしい自然な形で死を迎えたい、そう思ったんだ」
東京で暮らしながら、ずっと抱え込んできた違和感が、いよいよ臨界点に達しようとしていた。
〈ウタリたちよ、手をつなごう〉
72年(38歳ー引用者)2月8日、朝日新聞の家庭欄には、こんなタイトルの投稿が掲載された。 「ウタリ」とはアイヌの言葉で、同胞、仲間の意味だ。その内容は、まず自らがアイヌだという告白に始まり、 アイヌがさまざまな差別に苦しんできたこと、さらに首都圏に暮らす同胞に向けて、ともに語り合う場を持とうと呼びかけるものだった。
そう、静江さんはついに「私はアイヌです!」と声を上げたのだ。
「生きるか死ぬかという思い、それぐらいつらい公表だったよ」 反響は大きかった。「私もいわれなき差別を受けてきました」「勇気ある発言に驚きました」と、多くの便りが寄せられた。 しかしほとんど、和人からのもの。同胞の反応は冷ややかだった。 「せっかくアイヌであることを隠し平穏に暮らしてきたのに、なぜ寝た子を起こすようなまねを!」。 なかには「自分だけいい格好して、いったい何さまのつもりだ!」と怒鳴られることも。
▲2023.7.22「アイヌ力」の事務所でやっと宇梶静江さんにお会いできました。幌村司さんのご案内です。 山丸和幸さん、井上千晴さんも居てくださいました。驚くほど話が盛り上がり「アイヌモシリの会」の準備会の日程にまで話が進みました。 第一段階クリアです。うれしいです。(2023.7.24)
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MIP回復運動

▲はじめてMIP回復運動を話す。
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それでも、静江さんは諦めなかった。「このままではアイヌは前に進めない」と、果敢に動き続けた。
▲「寝た子を起こ」さないといけない。50年前も同じ。(2023.10.7)

73年には「東京ウタリ会」を設立し、アイヌの権利獲得のための活動を始めた。連日、都議会に出向くなどした結果、 75年、東京都で初のアイヌ実態調査が行われた。さらに都に掛け合い、職業安定所にアイヌのための職業相談員を置くことを認めてもらった。 自らが相談員になって、あちこちの会社に求人の有無を聞いて歩いた。 新聞へ投稿した38歳から還暦を過ぎるまでのおよそ四半世紀。成果は乏しく、彼女は悩み続けていた。
95年の暮れ。静江さんは「もっとアイヌの文化を深く知らなくては」と、つてを頼って札幌へ。



2023.7.25掲載
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「あれは4月、札幌のデパートで催されたボロ布、古布の展示会を見に行って。幼いころ、 よくボロ布を繕って着たりしてたから懐かしくてね。でもそこで、雷に打たれるような衝撃を受けたんです。 『え、布で絵が描けるの!?』って。描きたくても紙も鉛筆もなくて地面に棒で描いていた子供時代を思い出してね。 瞬間的に、幼いころから探し求めていたものが見つかったとわかったんです」
すぐに作品制作に没頭した。真っ先に描いたのは、アイヌの村の守り神、見開いた真っ赤な目が特徴的なシマフクロウ。 赤い目に「アイヌはここにいるよ、見えますか?」という思いを込めたのだった。
以降、作品の展示と併せて「アイヌに生まれて」と題した講演活動も行ってきた。 「63歳にしてカムイが古布絵に導いてくれた。本当に感謝です」
▼宇梶さんのこの思いを必ず実現させます。(2021.1.3)
▲この記事(思い)の延長上に私が2023.7.22訪ねた宇梶さんがいらっしゃった。気持ちが合うはず。今日読んでみて改めて思う。 (2023.7.25)


▲MIP回復運動について11/18(土)3時から報告する。そのレジメ。(2023.10.6〜)

@何はさておいても、明治以降の日本政府の不正義にたいして謝罪を求める。

Aアイヌモシリの回復。取り敢えず国有林306万ha(504万円/ha)金額にして15兆円。当然、鮭の遡上する川も含まれる。 (国有林を含む北海道全体の私有林、道有林、市町村有林の全部だと554万ha 28兆円)
(504万円/ha)の算出:
2022年7月から2023年6月までの北海道の山林取引は714件。金額にして1億4014万円、取引面積は278ha。1ha当たりの取引額は504万円となる。 (国土交通省土地総合情報システムより)

Bアイヌモシリ回復の根拠:アイヌモシリを日本政府に売った覚えも貸した覚えもありません。(萱野茂さん)
国連・先住民族権利宣言26条。
1.先住民族は、自己が伝統的に所有し、占有し、又はその他の方法で使用し、又は取得した土地、領域及び資源に対する権利を有する。


C回復の対象からはずす民有地からはしかるべき「地代」を国からいただく。
土地に対する民有地の固定資産税は全北海道で714億円。 (令和3年度市町村税決算の状況) 
その3倍〜5倍が不動産業界の相場だという。 つまり2100億円〜3500億円の枠内での「地代」となる。

国連・先住民族権利宣言28条。
1.先住民族は、自己が伝統的に所有し、又はその他の方法で占有若しくは使用してきた土地、領域及び資源で、 その自由で事前の及び事情を了知した上での同意なしに、 没収され、占拠され、使用され、又は損害を受けたものについて、 原状回復を含む方法により、 それが可能でない場合には正当で公平かつ衡平な補償によって、救済を受ける権利を有する。


D地代の自己資金で教育機関をつくる。
子どものころからアイヌ語が自然に話せる例えばアイヌ語塾のような組織・仕組みを作る。若者には職業教育を。 大学ではアイヌ民族の歴史、文化、法制を学び・研究する。すべて無償の教育機関とする。先住民族の国際交流も活発化する。
これらは1984年「アイヌ新法案」で政府の責任で実現することが想定されているが待てない。「地代」の自己資金で実現していく。

E林業、漁業、農業、牧畜、酪農の生産基盤を自己資金で整備する。これも1984年「アイヌ新法案」で政府の政策として実現が期待されている。待てない。
漁業に関しては、アイヌ民族の漁業権を無視した明治8年の一方的な海面官有宣言を見直す。

F1984年「アイヌ新法案」で想定されている40年前の「民族自立化基金」構想を現代風に手直し、 年金、住宅、教育等の生活面における格差是正のための生活支援を自己資金で実現する。必要な資金は年間100億円は優に超えると予想される。

G北海道と東京にアイヌ会館を建設する。東京は宿泊施設も完備する。「アイヌモシリの会」の活動と交流の拠点とする。もちろん自己資金で。

H道有地、市町村有地のあり方は個別に考える。大規模な社有地に関しても個別に考える。特に里山のあり方に関して。 北大のキャンパス、演習林、東大の演習林は具体的に詰める。元はいずれも国有地。つまりアイヌモシリ。

Iこのような諸課題の解決の先にアイヌ民族と和人社会の共存が見えてくる。


宇梶静江さんの講演ーアイヌ漁業権回復を目指して 2017.3.18
▲時代の空気。最近の新聞から。MIP回復運動も若い人たちの運動に。(2023.8.19)
若い人たちの運動に1 10歳のこどもにも
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若い人たちの運動に2 声上げたミュージシャン(拡大)
若い人たちの運動に3 声上げる若手「刑弁」
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若い人たちの運動に4 語り継ぐ3世
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若い人たちの運動に5 次世代に受け皿を
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水平社創立 2019.5.29博物館訪問時入手(拡大)
▲アイヌのすべての人が自分の立ち位置、居場所に納得し、誇りを持ち、互いに尊敬、尊重しあえる 理論、思想、文化を作り上げること、これが当面の課題。違いを離反、排除、分裂の理由にするのではなく、理解、尊重、寛容の精神で アイヌ共同社会を再構築していく、「アイヌモシリの会」はこのことを目指す。(2023.8.21)

▲4年前水平社博物館を訪問。たまたまその時購入した「図録」を読む。解説シートNO.11 「全国水平社創立まで」に《全国水平社創立へ》 が目に留まる。MIP回復運動の立ち上げを準備しているだけに惹きつけられる。(2023.8.27)
                    

2019.6.8朝日新聞

▼なぜこの記事が私の注意を惹いたかと申しますと、「現代産婦人科の父」と呼ばれるシムズ像が撤去されたからです。85年前の1934年から ニューヨーク・マンハッタンのセントラルパークにあったようです。
シムズは奴隷貿易の中心地、アラバマ州モンゴメリーで開業し、奴隷の黒人女性の体を治療法の実験(麻酔なしの手術17歳に30回)に使っていたとのことです。 住民からの要望を受けて、ニューヨーク市の委員会はシムズの墓があるブルックリンの墓地に像を移設するよう勧告し、実行された(2018.4.17)、とのことです。 このような歴史の見直しはアイヌ民族の問題でもこれから日本で行われなければならないとおもう。(2019.7.8)

2019.11.25解放新聞

2018.11.26解放新聞
古い切り抜きから見つけました。島田さんの寄稿文はおだやかでほんのりしました。 2018年が7回目だそうです。(2020.11.4)
▼右は解放新聞に寄せられた島田あけみさんの投稿記事です。 その中からアイヌ語研究者中川裕先生の話を紹介します。
「人間と動物の関係は、人間が動物を殺してその肉を食べるという一方的な関係ではなく 動物の命が人間の命に置き換わる、そういう形で人間も含めて生きものたちが相互に支え合って生きている。」
▼この思想はアイヌの人たちのものでもあります。
チャシ アン カラ(自分たちでつくった砦)の会(代表島田あけみ)は、 東京にアイヌの集いの場をめざしています。
▼応援していきたいです。(2020.1.18)

▼左の朝日新聞。
2020.1.4朝日新聞朝刊

オーストラリアの先住民(アボリジナルピープル)の記事です。

「1788年に英国の入植が始まったころ、オーストラリア大陸には推計75万人の先住民が暮らしていた。
1920年代には推計7万人まで減った。先住民は「死に絶える人々」とされ、当局はその生活を居留地に制限して、文化の継承を否定。
同時に白人との同化を進めようと、子どもたちを、親元から引き離して施設に居れたり、白人家庭の養子にしたりした。
2016年の国勢調査で先住民は約65万人で全人口の2.8%。」

▼写真はオペラ歌手のデボラ・チータムさん。
2018年合唱歌「平和のための戦争鎮魂歌」を発表。テーマは、19世紀半ば、入植者 との衝突で数千人の先住民が犠牲になった事件。「多様性の力があれば、私たちは価値ある地球市民になれる。私は音楽を通じて、そんな理解を広めて いきたい。音楽は真実を伝え、人々の心を開くから」
▼いまや日本社会も単一民族ではない。チータムさんのことばが力強く響く。(2020.1.20)
結城幸司さん (拡大)
▼右は『現代の理論』2018春号の表紙とそこに掲載されたアイヌアートプロジェクトの結城幸司さんがピースボートで「アイヌ民族の歴史と文化を 日本人の常識にしたい」のタイトルで講演された内容です。抜粋します。

「道東出身の私にとって北方諸島の問題は、未だ焦点の合わない近代のアイヌの歴史として 合点いっていないのが正直なところです。」
「北海道の植民地化という歴史が国内であっても一般常識とされていない故に、…国からの正式コメントや謝罪もありません。ましてや 『北方領土は日本の領土です』などと近代の歴史をアイヌ側からはまるで明かさない日本のあり方も違和感だらけであります。」
「クナシリメナシの戦い、この異民族同士の戦いがどの戦争よりも先に明確に歴史に刻まれて然り、そこから北海道が日本に植民地に されていったと歴史を語って欲しいですね。」

「私は釧路出身で、祖母は北方諸島の人、祖父結城庄太郎はメナシウンクル(道東のアイヌ)。1789年にクナシリメナシの戦いがあった。 場所請負制度のもと若いアイヌは和人商人から奴隷のように扱われ、コタンに帰ることも許されず、コタンでは和人によるレイプも頻発した。 やむにやまれず10代の若いアイヌたちが蜂起し172人の和人を殺した。
皆殺しの報復を恐れた若者たちは、エカシたちに何とかしてくれ、と相談する。 このエカシたちは蠣崎波響の絵画「夷酋列像」で知られる。
交易で稼ぐエカシたちは蜂起に賛同せず、38名が松前軍の前に差し出された。命までは奪わない という話のはずが、若者たちは一人一人耳を削がれ、最後には殺されてしまった。このときアイヌは「ペウタンケ」(危急の声)を発し、恐怖した 松前軍は太鼓を鳴らしてその声をかき消したという。松前にある耳塚はこの時のもの。」

「根室半島のノッカマップで、毎年9月に犠牲者を弔うイチャルパ(供養の儀式)が行われる。そこではペウタンケが再現される。 私の父・庄司この儀式をはじめた。沈黙を強いられ苦しみ 涙してきた世代のアイヌに対して、国による謝罪が必要だ。それがないとアイヌ民族の歴史と文化がこの国の常識にならない。」

「先住民族サミットなどで土地権や自治権をアピールしてきたが、政府は聞き入れていない。アイヌ政策推進会議の常本照樹氏(北海道大学教授)は海外で「アイヌは 先住権を欲しがらないユニークな人たちだ」と講演するような状態で問題がある。」
▼私が今日までアイヌ民族について勉強してきて自分自身の感情感覚としてきたものと結城さんの感情感覚がぴったり一致していることを 確認できてほっとしています。 私も結城さんと同じ考えで日本社会に対しアイヌ民族の土地権と自治権に関して言挙げの準備をしているところです。(2020.2.2)

秋辺日出夫さん
1960年阿寒湖温泉にて生まれる。
佐藤智子の 秋辺日出夫さんへのインタビュー
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周辺を埋めるためのアイヌの使われ方って昔からあったのよ。そうじゃなくて、最初からアイヌが中心で、アイヌと相談して、アイヌと一緒に脚本を作って、 アイヌのプロデュースとかを受けながらちゃんと作ったのは、これが初めて。
―― 記念すべき作品ですね。
俺、今、60歳だけど、人生最後の目標は映画を自分の脚本で作ることだよ。

―――― 長老って、何をもってして、長老に決まるんですか。
発言力、人間力、貫禄。一番大事なのは儀式をつかさどって仕切れるというところかな。 だから、アイヌ語に堪能で、祝詞言葉が上手でも選ばれない人もいるよ。
親父の時までは長老が跡取りを指名していたけれども、俺の時には、もうそんなのはなくて、 合議制で、俺たちの先輩が集まって、「次は誰よ」「あいつだ、あいつだ」といって決まる。今は、俺はその決められた長老のサブ。

―― 住人の皆さんに今回いろいろ話を聞いて、これだけアイヌがブームになったのは、 やっぱり今の世の中にアイヌの考え方、例えば、自然と共生するとか、そういうのが合っているんじゃないかって、 おっしゃっていたんですけれども、デボさんはどう思います?
今、処方箋になると思われているよね。アイヌの伝統的な考え方がね

―― イオマンテをする気持ちはどういうふうに言えばいいですか
やっぱり命に対して感謝して、命によって人間は支えられているということと、 大事に育てて泣きながら殺すということの心の重さを伴った儀式をやれる。 要するに、牛や豚を生産物として育てて殺すということとは全く違う次元にアイヌがいて、尊敬を持って殺すということ。ほふるということ。

自分なりに勉強をしていくと、アイヌって素晴らしいし、素敵だな、大好きだなってだんだん思ってくるんだけれども、ユーカラ座というのがアイヌコタンにあって、舞台で演劇を、それもアイヌの伝統の神話とかをやっているんだよね。 神話だから、そこには一切差別はないわけよ。 アイヌが伝える神々の世界観がめちゃくちゃ素敵で。
▲アイヌ民族、琉球民族、朝鮮民族はそれぞれ誇れる文化を持っている。 部落にはそれがない。差別をはね返す「水平社宣言」が誇れる遺産かな。(2023.8.4)
―― その儀式、イオマンテを復活させたいと思われているんですよね。
要するに俺が主催だと実力も伴っていないし、人望も伴っていない。そんな中でクマを送るということは、そのクマの儀式が、軽くなっちゃうでしょう。そういう成熟したアイヌになっていないから、カムイが許さなかったんだべなと思い当たったから。 賛同されて初めてやれることであって、きれい事で文化を伝承する、伝統ですなんて、 そんな言葉ではやっちゃいけないことだと俺は思ったんだ。たかが文化じゃない。

若い時よりずっと生き死にに対する気持ちが強くなったよね。若い頃なんか、 犬が死のうが猫が死のうが、泣くなんてことはあり得なかった。だんだん弱くなってきてね。

▲以下は縄文人を伝える現代におけるアイヌ民族の価値について。(2023.8.5)
弥生人は稲作を始めて。その前の縄文時代、米とか麦を栽培しない時はどうだったのといったら、 アイヌと一緒でしょう。
―― そうですね。だから、アイヌは、日本人の祖先だとも思える。
いやだから「私たちの祖先もそうでしたよ」って言っていいんだよ。 たまたまアイヌが近現代までその暮らしをやっていたというところに価値があって。
―― そうなんです。
見方を変えると、ずっと遅れたままでよかったねということなの。
―― だから1万年前の伝統的な考え方を継承している、そういうことなのかなあと。
それが世界中にいる先住民族なんですよ。
▲秋辺日出夫さんの考え、思想はアトイさんと瓜二つ。(2023.8.5)
▲弥生時代、年代としては紀元前10世紀から紀元後3世紀中頃。 3000年前からおかしくなりだした。ホモサピエンス20万年の歴史からみれば19万7000年後の3000年でわずかな時間しか経過していない。 弥生以前のほうがはるかに長い。ここ3000年のうちに多くの人類が失ったものを先住民族は持っているということ。この価値が今、見直されている。 (2023.8.5)

草下健夫 / サイエンスポータル編集部
人類は誕生後、700万年の大半を狩猟採集で過ごしてきたが約1万年前、地球が比較的温暖な間氷期に入ると農耕や牧畜を始め、 世界に広がって現在に至る。
▲世界史的には1万前から生産活動に入ったとなっているのだろう。 この議論を踏まえると700万年の歴史の1万年前から人類は自然との 共生を忘れるようになる。この物差しで考えるに699万年の自然との共生後の1万年の自然破壊ということ。自然破壊ではなく、すなわち自然との共生の歴史のほうが 人類の歴史にとっては主流。いずれにしても地球上の先住民族は狩猟採集の生活。自然との共生。アイヌ民族の場合、自然と共存するカムイの世界。 現代人、未来の人類が取り戻すべき生活の基本がそこにある。(2023.8.6)

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監督へのインタビューその1
自分は北海道の伊達市で育ったんですが、高校卒業までちゃんとしたアイヌの教育は学校の中でされていなかったし、 アイヌのことを知れる機会を持てなかったんですよね。
wikipedia:ミネソタ州
ミネソタ州では古来から、
シャイアン族、
アラパホー族、
オジブワ族(チッペワ族)、
ダコタ族、
フォックス族、
ミズーリ族、
オマハ族、
アイオワ族、
オート族、
オッタワ族、
ソーク族、
ポンカ族、
ウィンネバーゴ族、
ワイアンドット族(ヒューロン族)
といった、農耕型と狩猟型のインディアン部族が混在していた。 中でも最大勢力はチッペワ族とダコタ・スー族であり、この二部族はかつては宿敵として何度も交戦している。
2010年時点で、5,303,925人のうちインディアンは1.1% 。
▼大きく見ると北海道アイヌに近い。 ミネソタ「ブラックライブズマター」の地(2023.8.26)
ミネソタ州はネイティブアメリカンが多く、彼らの文化に興味を持ち出しました。
ヨーロッパからの移民が先住民の土地を奪ってアメリカという国が成り立っている歴史的な事実を再認識したりするうちに、 初めてやっと自分の生まれ育った北海道にも先住民族のアイヌがいて、そのことを何も知らないで自分はきてしまったということで、ハッとして。
監督へのインタビューその2
自分は和人という立場で、アイヌの映画を皆さんと一緒に撮るんだというのはすごく大事なことだと思っていたんですね。

朝日夕刊2020.10.16 (拡大)
映画「アイヌモシリ」 (拡大)
▼右の映画「アイヌモシリ」。「国境を超え誰もが共振できる普遍性を持つ」と林瑞絵・映画ジャーナリスト。 監督はNYを拠点に活動してきた福永壮志さん。やはり女性ジャーナリストの視点はいいですね。 さすがです。これからの時代を象徴しています。 (2020.10.17)






                  アイヌモシリ回復訴訟の準備 21033

▼いよいよ今日からアイヌモシリ回復訴訟に向けた準備に入ります。これまで勉強してきたことを元に何を、どのように裁判で訴えていくべきか、 私なりに整理しておきたいと思います。(2020.6.4)
▲2020.6.4をベースにして今の時点での訴訟構想を再度整理すること。
明治2(1869)年8月15日からはじまる本州の国名・行政制度の導入、 土地収奪、鮭漁禁止、鹿猟禁止、日本語の強要(アイヌ語の衰退)、風習の禁止、これらを法的にどのように評価するかという課題が残されている。
すなわちこれら明治期日本政府の措置は約140年後の2007年国連人権宣言で言うところの先住権の否定である、 従ってその回復を訴訟物とできないか、ということ。(2021.10.9)
▲大事なポイント。
●主な土地問題の整理:大きさ・広さの基準 琵琶湖:670平方q 何個分
@明治5年開設・明治21年 新冠御料牧場 700平方q→384平方q 1.04個→0.57個  新冠御料牧場
A明治19年〜明治29年「土地払い下げ規則」 4,221平方q 6.3個
B明治22年 御料地 20,000平方q 30個 華族組合 雨竜農場 500平方q  0.75個
C明治27年 旭川近文原野 1.5平方q
D明治30年〜明治41年「未開地処分法」 18,098平方q 27.0個
E明治32年「旧土人法」による下付地 96平方q 0.14個 本来の1/60
▲アイヌ民族への下付地は「未開地処分法」のあとの2割の耕作不能地を含む下付。 仮に明治19年「土地払い下げ規則」をアイヌ民族にも公平に適用したならば当時のアイヌ民族の人口は17,098人、 開拓者1人につき10万坪(33.3ha)ならば17,062×33.3ha=568,164 ha=5,681平方q。 琵琶湖8.5個分が分配されなければいけないことになる。(2021.10.7〜9)
●主な出来事
鵡川 (拡大)
鵡川沙流川 (拡大)
鵡川村チン (拡大)

@明治維新1868年 ユポさん母方曾祖父ウエンカトム17歳(鵡川村チン
A蝦夷地から北海道へ1869年(M2)ウエンカトム18歳
Bアイヌ民族の風俗習慣の禁止1871年(M4)ウエンカトム20歳
C「地所規則」1872年(M5)ウエンカトム21歳
D「創氏改名」「アイヌ民族の戸籍」「風習の洗除」「北海道鹿猟規則」1876年(M9)ウエンカトム25歳
E 鮭・鱒の川漁「禁止」1878年(M11)ウエンカトム27歳
F十勝川の「鮭漁禁止」1883年(M16)ウエンカトム32歳
G「北海道土地払下規則」アイヌ民族対象外1886年(M19)ウエンカトム35歳
H皇室御料地、全道に200万ha(2万平方q北海道の約1/4)を設定、華族組合農場へ未開地5万haが払い下げ1889年(M22)ウエンカトム38歳
I加藤政之助「アイノ人種は近古迄は北海道即ち日本のほとんど四分の一に当る所の面積を彼等自ら占領致して、 此の北海道の大地を以て己れの衣食の料に供して、己れの生活の資に充てゝ居ったものに疑はござりませぬ」1893年(M26)ウエンカトム42歳
J「北海道国有未開地処分法」1897年(M30)ウエンカトム46歳
K「北海道旧土人保護法」制定1899年(M32)ウエンカトム48歳
▲ウエンカトムさん17歳から48歳までに身に降りかかった事件の大要です。 一人の人間の人生として一番多感で充実すべき時期にこのようなことを和人・日本政府がウエンカトムさんに強要したのです。 知里幸恵さん(1903年(M36)〜 1922年(T11))はウエンカトムさんの次の世代です。亡びゆく弱きもの、と悲しませた時代です。 今を生きる和人のなすべきことは自ずと明らかです。(2021.10.10)


目次
T 野村義一理事長の国連演説(1992年)から
U アイヌ民族の一致した綱領「アイヌ民族に関する法律(案)」(1984(S59)年)
V 萱野茂さんのことば
W アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会  加藤理事長発言(2008年(H20)9月17日第2回)
X 国連「先住民族権利宣言」からの抜粋
Y 「二風谷ダム判決」(1997年(H9)3月27日)
Z  第五回帝国議会「北海道土人保護法」提案  加藤政之助(1893年(M26))
[ 土地をめぐる少なからずの法的根拠
\ 明治政府の土地政策(アメリカ・モデル)
] 生業(なりわい)破壊
I@ ほろびゆく民族の悲哀
IA 海外の先住民族政策 ユポさんから3本の論文紹介
IB 裁判で獲得を目指す訴訟物


T 1992年の野村義一理事長の国連演説から。
本日12月10日が、北海道、千島列島、樺太南部にはるか昔から独自の社会と文化を形成してきた アイヌ民族の歴史にとっては、特に記念 すべき日となる理由がもう一つ存在します。 すなわち、それは、ほんの6年前の1986年まで、日本政府は私たちの存在そのものを否定し、日本は世界に類例を見ない 「単一民族国家」であることを誇示してきましたが、ここ に、こうして国連によって、私たちの存在がはっきりと認知されたということであります。

19世紀の後半に、「北海道開拓」と呼ばれる大規模開発事業により、アイヌ民族は、一方的に土地を奪われ、強 制的に日本国民とされました。日本政府とロシア政府の国境画定により、私たちの伝統的な領土は分割され、多く の同胞が強制移住を経験しました。

また、日本政府は当初から強力な同化政策を押しつけてきました。こうした同化政策によって、アイヌ民族は、 アイヌ語の使用を禁止され、伝統文化を否定され、経済生活を破壊されて、抑圧と収奪の対象となり、また、深刻 な差別を経験してきました。川で魚を捕れば「密漁」とされ、山で木を切れば「盗伐」とされるなどして、私たちは 先祖伝来の土地で民族として伝統的な生活を続けていくことができなくなったのです。

私たちアイヌ民族は、1988年以来、民族の尊厳と民族の権利を最低限保障する法律の制定を政府に求め ていますが、私たちの権利を先住民族の権利と考えてこなかった日本では、極めて不幸なことに、私たちのこうし た状況についてさえ政府は積極的に検討しようとしないのです。

アイヌ民族は、今日国連で議論されているあらゆる先住民族の権利を、話し合いを通して日本政府に要求するつ もりでおります。これには、「民族自決権」の要求が含まれています。

しかしながら、私たち先住民族が行おうとする「民族自決権」の要求は、国家が懸念する「国民的統一」と「領土の保全」 を脅かすものでは決してありません。 私たちの要求する高度な自治は、私たちの伝統社会が培ってきた「自然との共存および話し合いによる平和」を基 本原則とするものであります。これは、既存の国家と同じものを作ってこれに対決しようとするものではなく、私 たち独自の価値によって、民族の尊厳に満ちた社会を維持・発展させ、諸民族の共存を実現しようとするもので あります。
▼この国連演説を基本に据えたいとおもいます。

U アイヌ民族の一致した綱領。1984(昭和59)年「アイヌ民族に関する法律(案)」
アイヌ民族に関する法律(案)
昭和五十九年五月二十七日   社団法人北海道ウタリ協会総会において可決
「アイヌ民族に関する法律(案)」 を決定した
北海道ウタリ協会総会

(『アイヌ民族の歴史』p563)

前文
この法律は、日本国に固有の文化を持ったアイヌ民族が存在することを認め、 日本国憲法のもとに民族の誇りが尊重され、民族の権利が保障されることを目的とする。

本法を制定する理由
北海道、樺太、千島列島をアイヌモシリ(アイヌの住む大地)として、固有の言語と文化を持ち、共通の経済生活を営み、 独自の歴史を築いた集団がアイヌ民族であり、徳川幕府や松前藩の非道な侵略や圧迫とたたかいながらも 民族としての自主性を固持してきた。
明治維新によって近代的統一国家への第一歩を踏み出した日本政府は、先住民であるアイヌとの間になんの交渉もなく アイヌモシリ全土を持主なき土地として一方的に領土に組み入れ、 また、帝政ロシアとの間に千島・樺太交換条約を締結して樺太および北千島のアイヌの安住の地を強制的に棄てさせたのである。
土地も森も海もうばわれ、鹿をとれば密猟、鮭をとれば密漁、薪をとれば盗伐とされ、 一方、和人移民が洪水のように流れこみ、すさまじい乱開発が始まり、アイヌ民族はまさに生存そのものを脅かされるにいたった。
アイヌは、給与地にしばられて居住の自由、農業以外の職業を選択する自由をせばめられ、 教育においては民族固有の言語もうばわれ、差別と偏見を基調にした「同化」政策によって民族の尊厳はふみにじられた。
戦後の農地改革はいわゆる旧土人給与地にもおよび、さらに農業近代化政策の波は零細貧農のアイヌを四散させ、 コタンはつぎつぎと崩壊していった。
いま道内に住むアイヌは数万人、道外では数千人といわれる。その多くは、不当な人種的偏見と差別によって 就職の機会均等が保障されず、近代的企業からは締め出されて、潜在失業者群を形成しており、 生活はつねに不安定である。差別は貧困を拡大し、貧困はさらにいっそうの差別を生み、生活環境、 子弟の進学状況などでも格差をひろげているのが現状である。
現在行われているいわゆる北海道ウタリ福祉対策の実態は現行諸制度の寄せ集めにすぎず、 整合性を欠くばかりでなく、何よりもアイヌ民族にたいする国としての責任があいまいにされている。
いま求められているのは、アイヌ民族的権利の回復を前提にした人種差別の一掃、民族教育と文化の振興、 経済自立対策など、抜本的かつ総合的な制度を確立することである。
アイヌ民族問題は、日本の近代国家への成立過程においてひきおこされた恥ずべき歴史的所産であり、 日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる重要な課題をはらんでいる。 このような事態を解決することは政府の責任であり、全国民的な課題であるとの認識から、 ここに屈辱的なアイヌ民族差別法である北海道旧土人保護法を廃止し、新たにアイヌ民族に関する法律を制定するものである。
この法律は国内に存住するすべてのアイヌ民族を対象とする。

第一 基本的人権
アイヌ民族は多年にわたる有形無形の人種的差別によって教育、社会、経済などの諸分野における 基本的人権を著しくそこなわれてきたのである。
このことにかんがみ、アイヌ民族に関する法律はアイヌ民族にたいする差別の絶滅を基本理念とする。

第二 参政権
明治維新以来、アイヌ民族は「土人」あるいは「旧土人」という公式名称のもとに、 一般日本人とは異なる差別的処遇を受けてきたのである。明治以前については改めていうまでもない。
したがってこれまでの屈辱的地位を回復するためには、国会ならびに地方議会にアイヌ民族代表としての議席を確保し、 アイヌ民族の諸要求を正しく国政ならびに地方政治に反映させることが不可欠であり、 政府はそのための具体的な方法をすみやかに措置する。

第三 教育・文化
北海道旧土人保護法のもとにおけるアイヌ民族にたいする国家的差別はアイヌの基本的人権を著しく阻害しているだけでなく、 一般国民のアイヌ差別を助長させ、ひいては、アイヌ民族の教育、文化の面で順当な発展をさまたげ、 これがアイヌ民族をして社会的、経済的にも劣勢ならしめる一要因になっている。
政府は、こうした現状を打破することがアイヌ民族政策の最重要課題の一つであるとの見解に立って、 つぎのような諸施策をおこなうこととする。
1 アイヌ子弟の総合的教育対策を実施する。
2 アイヌ子弟教育にはアイヌ語学習を計画的に導入する。
3 学校教育および社会教育からアイヌ民族にたいする差別を一掃するための対策を実施する。
4 大学教育においてはアイヌ語、アイヌ民族文化、アイヌ史等についての講座を開設する。 さらに、講座担当の教員については既存の諸規定にとらわれることなくそれぞれの分野における アイヌ民族のすぐれた人材を教授、助教授、講師等に登用し、アイヌ子弟の入学および受講についても 特例を設けてそれぞれの分野に専念しうるようにする。
5 アイヌ語、アイヌ文化の研究、維持を主目的とする国立研究施設を設置する。 これには、アイヌ民族が研究者として主体的に参加する。
従来の研究はアイヌ民族の意思が反映されないままに一方的におこなわれ、 アイヌ民族をいわゆる研究対象としているところに基本的過誤があったのであり、 こうした研究のあり方は変革されなければならない。
6 現在おこなわれつつあるアイヌ民族文化の伝承・保存についても、問題点の有無をさらに再検討し、完全を期する。

第四 農業漁業林業商工業等
農業に従事せんとする者に対しては、北海道旧土人保護法によれば、一戸当り15,000坪(約5ヘクタール)以内の交付 が規定されているが、これまでのアイヌ民族による農業経営を困難ならしめている背景にはあきらかに 一般日本人とは異なる差別的規定があることを認めざるをえない。北海道旧土人保護法の廃止とともに、 アイヌ民族の経営する農業については、この時代にふさわしい対策を確立すべきである。
漁業、林業、商工業についても、アイヌの生活実態にたいする理解が欠けていることから 適切な対策がなされないままに放置されているのが現状である。
したがって、アイヌ民族の経済的自立を促進するために、つぎのような必要な諸条件を整備するものとする。
農業
1 適正経営面積の確保
北海道農業は稲作、畑作、酪農、畜産に大別されるが、地域農業形態に即応する適正経営面積を確保する。
2 生産基盤の整備および近代化
アイヌ民族の経営する農業の生産基盤整備事業については、既存の法令にとらわれることなく実施する。
3 その他
漁業
1 漁業権付与
漁業を営む者またはこれに従事する者については、現在漁業権の有無にかかわらず希望する者にはその権利を付与する。
2 生産基盤の整備および近代化
アイヌ民族の経営する漁業の生産基盤整備事業については、既存の法令にとらわれることなく実施する。
3 その他
林業
1 林業の振興
林業を営む者または林業に従事する者にたいしては必要な振興措置を講ずる。
商工業
1 商工業の振興
アイヌ民族の営む商工業にはその振興のための必要な施策を講ずる。
労働対策
1 就職機会の拡大化
これまでの歴史的な背景はアイヌ民族の経済的立場を著しくかつ慢性的に低からしめている。 潜在的失業者とみなされる季節労働者がとくに多いのもそのあらわれである。 政府はアイヌ民族にたいしては就職機会の拡大化等の各般の労働対策を積極的に推進する。

第五 民族自立化基金
従来、いわゆる北海道ウタリ福祉対策として年度毎に政府および道による補助金が予算化されているが、 このような保護的政策は廃止され、アイヌ民族の自立化のための基本的政策が確立されなければならない。 参政権の確保、教育・文化の振興、農業漁業など産業の基盤政策もそのひとつである。
これらの諸政策については、国、道および市町村の責任において行うべきものと民族の責任において行うべきものとがあり、 とくに後者のためには民族自立化基金ともいうべきものを創設する。
同基金はアイヌ民族の自主的運営とする。 基金の原資については、政府は責任を負うべきであると考える。 基金は遅くとも現行の第二次七ヵ年計画が完了する昭和六十二年度に発足させる。
第六 審議機関
国政および地方政治にアイヌ民族政策を正当かつ継続的に反映させるために、つぎの審議機関を設置する。
1 首相直属あるいはこれに準ずる中央アイヌ民族対策審議会(仮称)を創設し、 その構成員としては関係大臣のほかアイヌ民族代表、各党を代表する両院議員、学識経験者等をあてる。
2 国段階での審議会と並行して、北海道においては北海道アイヌ民族対策審議会(仮称)を創設する。 構成については中央の審議会に準ずる。

▼アイヌ民族に関する法律(案)は素晴らしい!

V  萱野さんのことば 「アイヌはアイヌモシリ、すなわち日本人が勝手に名づけた北海道を、日本国へ売った覚えも、貸した覚えもございません。」 がアイヌモシリ回復の原点。「マボ判決」が補強してくれます。(2020.6.5)
▼1992年(H4)オーストラリアにて「マボ判決」
▼wp:マボ判決は、移民が移住してきた時のオーストラリアは、「無主地(テラ・ヌリウス)」だったという従来の 考え方を否定し、 先住民たちが先住権原もっているとして世界で初めて承認された判決。
▼テラ・ヌリウスについて 大阪大学大学院のHPです。
「テラ・ヌリウスterra nulliusラテン語で無主の地、誰のものでもない土地を意味する。 国際法では、一般的に、誰も住んでいない地域、または住民が系統だった政府組織を発展させておらず、 土地を改良し耕作していない地域を指して用いられる。ニューサウスウェールズが白人により発見され植民が行われたとき、 イギリス政府はその地域をテラ・ヌリウスであると考えていた。 アボリジナルがヨーロッパ人の感覚での土地の所有を行っていなかったからである。 その土地が(イギリス人の定義による)テラ・ヌリウスであるならば、その土地を発見し所有した最初のヨーロッパ人がその土地の所有権を得ると、 イギリス人は信じていた。
連邦最高裁判所は1992年、コモン・ロウに基づく土地の所有権が先住民にあることを認め、 白人による植民が始まった頃のオーストラリアがテラ・ヌリウスだったという考え方を認めない判決を下したとされる。」 (清水寿夫)

W 2008年(H20)9月17日第2回 アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会  加藤理事長発言要旨 
これからの政策立案の方策に当たり、特に訴えるべき観点について述べていきたいと思います。

一つ目は、「同化政策」に焦点を当てた観点です。一概に「同化政策」とは言いますが、換言しますと、 「日本国民」に強制的に組み込まされること、「民族的アイデンティティ」、内心への脅迫なのだ、ということを、 先ず始めに想像していただきたいのです。先住民族であるアイヌ民族は、江戸時代の後期からの歴史的過程において、 繰り返し、同化政策を強いられてきました。民族独自の文化や言葉を捨てさせられてきたことです。 アイヌ民族に対する同化政策は、江戸時代の幕府直轄時代にロシアの南下との関係で、 そして明治政府の近代化、植民政策の脈絡のつどに、進められてきました。 江戸時代から中央と地方の関係や流通商業による不平等な交易、労働力の搾取など民間人と統治体制との構造的な枠組みの中に位置づけられ、 国家間の政治的な要因や国際間の法秩序との関連性などにも大きく影響されました。 いずれも「ロシアの動静」及び「国内事情や法制度」と「国際関係」との相互バランスが基底となってきているのですが、 「同化政策」の動機付けは、アイヌ民族にとって全てが外部からの影響、翻弄にすぎなかったのです。 同化政策と同時に、隣国ロシアとの間に結ばれ数度にわたり変更された国境線画定や領土問題に絡む国際条約締結などにおいて、 否応なく、樺太アイヌ、千島アイヌが居住の地から移住させられました。

二つ目の観点は、「土地と資源」です。アイヌ語では概念が異なってきますが「モシリ」、「イオル」、「アエプ」などで対応するものです。 アイヌ民族が古くから居住し、山川海すべての大地や海洋にある動植物との密接な関り合いの中、広義の文化享受と自らの民族の生命を託してきた、 いわゆる「土地と資源」が、自らが他の場所に移動することなく、居ながらにして他者に奪われたことです。 また、あまり知られてはおりませんが、道内市町村史にも記録されているように小樽、旭川、釧路、網走など、 入植者の都合により、北海道内においても居住に適した土地から別の不適な土地へと、多くの強制的な移住がお行われました。 アイヌ民族の生活は、基本的に「土地と資源」から生産される一次的な自然資源の生産物とその交易により成り立っていました。 自らの日々の生活を営むため、子孫を育むため、自然との調和が取れた社会を維持し、発展させるための可能性や自らの世界観、価値観の基盤となる、 様々な「人」と「土地・資源」との繋がり、「神々」との繋がりが分断されました。 そしてそれが継続できなくなってきたという厳然とした事実があるということです。

三つ目の観点は、「法制史」です。「法制史」の変遷過程とそれら時代背景や実効性を検証することがこの懇談会審議に重要であると考えます。 憲法でいう国家の三要素「領土」、「人民」、「主権」との関係もありますし、先刻の国会決議にある「我が国が近代化する過程において、 多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも、差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を厳粛に受け止めなければならない」、 とのくだりは、実質的に、一方的に無主の地として日本領土に組み入れた後、地券発行条例などの4つの土地法などを定め施行してきたという 具体的内容を共通認識としなければなりません。「同化政策」も「土地・資源」の収奪も抑圧される側への法制度などとしての 押しつけがあったからに他ならないからです。その権力側からの多くの与奪に法律や制度が関わってきたからです。 「民族」としての対策の一貫性が保てなかったことと「先住民族」と認めたがらなかったことは、表裏一対で、 もちろんその政策判断や効果の検証なども曖昧なままにされてきたのです。

 そもそも文化とは人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果であり、生活の様式と内容を含む広い概念で、 アイヌ文化もこの広義の文化なのです。しかし、アイヌ文化振興法は、このアイヌ文化をごく狭い意味の狭義の文化でとらえ、 「人」を認定しないで進められています。アイヌ文化振興をより理想的な形にするには、本来の文化の実践及び振興の方向に近づける工夫が必要です。 例えば文化振興と付随する文化関連の経済行為とが並行、付随するような工夫があれば、その裾野が広がります。 「土地・資源」を収奪された先住民族の広義の文化実践には、形を変えた特別な公有地、公有林などの利活用・貸与、管理などの方策を 取っていただきたいと思います。文化は、集団的、時間的な要素で成り立っていますが、先住民族文化は、 さらに「土地・資源」の要素に大きく依存して成り立つものなのです。

 故萱野茂参議院議員は、アイヌは北海道を売った覚えも、貸した覚えもないと話していましたが、 文化振興に限らずせめて私有地を除いた公有地や公有林の利活用や考えられる雇用創出の便宜供与など、 明治初期、生活のための捕獲を保障されていた共有漁場などを奪われた歴史的経緯などから、漁業権の一般の権利侵害を伴わない範囲での 一部付与などは、必要、不可欠な事柄です。
▼非常に抑制のきいた北海道社会にも受け入れられる要求だと思います。(2020.6.12)

国民の理解や法律問題など根本的、複雑な課題が横たわっているものとは思いますが、実現の可能性を模索し、 早急な検討課題としていただきたいと思います。また、かつて協会総会で考えられた、 参政権の特別付与は、海外の先行事例に倣い、アイヌ民族の意見が政治、行政に反映される方途として例示したものです。 やはり国内では、政治的なアイヌ民族に対する支援の優先度が低く アイヌ民族の将来に向けてなかなか真剣に取り組んでいただけていない感は否めなかったのです。 従って、参政権の特別な付与については、それに対応するアイヌ民族自らの議会を整備することによって、進めていきたいと考えております。
「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に関連し、このような政治における歴史的、社会的な因果要素を多くはらんだ問題は、 これまでの理解の枠組みや慣習、現状の社会システムとぶつかるなどの障壁が立ちはだかります。
公教育へのアイヌ文化、歴史の導入や公有地の土地資源の利活用、知的財産権の整備、漁業権や雇用機会の開拓など、 さらには土地・資源の賠償補償、参政権などの事柄など、「先住民族」の課題解決のは、この様な検討課題が多岐にわっています。
当事者からの要望を国家の責任において、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に照らして、解決していただきたいと思います。

X 国連の動き。先住民族権利宣言からの抜粋。
先住民族が、特に植民地化並びにその土地、領域及び資源のはく奪の結果として歴史的に不正に扱われてきたこと、 それによって特に自己の必要と利益にしたがって発展の権利を行使することを妨げられていることを憂慮し、
先住民族の政治的、経済的及び社会的構造並びにその文化、精神的伝統、歴史及び哲学に由来する先住民族の固有の権利、 特にその土地、領域及び資源に対する権利を尊重し、及び促進することが緊急に必要であることを認識し、
また、条約、協定及びその他の国との建設的な取決めで確認された先住民族の権利を尊重し、及び促進することが緊急に必要であることを認識し、
先住民族が、政治的、経済的、社会的及び文化的向上のため、並びにあらゆる形態の差別及び抑圧が生じたときはどこでもそれを終わらせるため、 団結していることを歓迎し、
先住民族並びにその土地、領域及び資源に影響を及ぼす開発に対する先住民族による管理が、先住民族が、その制度、 文化及び伝統を維持し並びに強化し、並びにその願望及び必要に合致する発展の促進を可能にすることを確信し、
先住民族の知識、文化及び伝統的慣習の尊重が、持続可能で衡平な発展及び環境の適正な管理に寄与することを認識し、
先住民族の土地及び領域の非軍事化が、平和、経済的及び社会的な進歩及び発展並びに世界の諸国及び諸民族の間の理解及び友好関係に 寄与することを強調し、

第28条
1.先住民族は、自己が伝統的に所有し、又はその他の方法で占有若しくは使用してきた土地、領域及び資源で、 その自由で事前の及び事情を了知した上での同意なしに、没収され、占拠され、使用され、又は損害を受けたものについて、 原状回復を含む方法により、それが可能でない場合には正当で公平かつ衡平な補償によって、救済を受ける権利を有する。
2.関係する民族が自由に別段の合意をしない限り、補償は、同等の質、規模及び法的地位を有する土地、領域及び資源という形態、 金銭的補償又はその他の適当な救済の形態をとらなければならない。
▼この条文が特に大事。(2020.5.12)

第32条
1.先住民族は、その土地又は領域及びその他の資源の開発又は使用のための優先順位及び戦略を決定し、及び発展させる権利を有する。
2.国は、特に鉱物、水又はその他の資源の開発、利用又は採掘に関連して、 先住民族の土地又は領域及びその他の資源に影響する計画を承認する前に、先住民族の自由で事情を了知した上での同意を得るため、その代表機関を通じて、当該先住民族と誠実に協議し、及び協力しなければならない。
3.国は、このような活動に対する正当かつ公平な救済のための効果的な仕組みを設けなければならず、また、 環境的、経済的、社会的、文化的又は精神的な悪影響を軽減するため、適当な措置をとらなくてはならない。
▼二風谷判決の見直し。ダム建設の前に「(国は)計画を承認する前に、先住民族の自由で事情を了知した上での同意」は得られていない。(2020.5.12)
第33条
1.先住民族は、その慣習及び伝統に従って、自己のアイデンティティ又は構成員を決定する権利を有する。これは、先住民である個人が、自己が居住する国の市民権を取得する権利を害するものではない。
2.先住民族は、自己の手続に従って、先住民族の機関の構成を決定し、及びその機関の構成員を選ぶ権利を有する。
▼私がイメージしてきた自治州、自治区的発想とつながる条文だとおもいます。(2020.5.12)

第46条
1.この宣言のいかなる記述も、国、民族、集団又は個人が、国際連合憲章に反する活動に従事し、又はそのような行為を行う権利を有することを意味するものと解してはならず、また、主権独立国の領土保全や政治的統合の全部又は一部を分割し、又は害するいかなる行為も是認し、又は奨励するものと解してはならない。
2.この宣言に掲げる権利の行使に際しては、すべての人の人権と基本的自由が尊重されなければならない。 この宣言に掲げる権利の行使は、法によって定められ、かつ、人権に関する国際的な義務にしたがって課される制限にのみ服する。 この制限は差別的であってはならず、他の人の権利及び自由の十分な承認及び尊重を確保する目的並びに民主的な社会の正当で 最も重要な要請にこたえるという目的のためにのみ真に必要なものでなければならない。
▼現在の北海道社会との調整が不可欠。ここはよく考えながらアイヌモシリの具体的回復を考えていかなければならない。 (2020.5.12)

Y 1997年(H9)「二風谷ダム判決」(3月27日)で裁判所によって認定されている事実
(四)アイヌ民族に対する諸政策
先住民族であるアイヌ民族が我が国の統治に取り込まれた後、 仮に少数であるが故に我が国の多数構成員の支配により、 経済 的、社会的に大きな打撃を受け、これがため民族の文化、生活 様式、伝統的儀式等が損なわれるに至るということがあったと すれば、 このような歴史的な背景も、本件の比較衡量に当たっ て斟酌されなければならない。
証拠(甲二一の三ないし六・八、証人田端、原告萱野)によ れば、
明治政府は、蝦夷地開拓を国家の興亡にかかわる重要政策と位置付けて、これに取り組み、北海道に開拓使を送ったこ と、
明治五年九月、
もともとアイヌの人々が木を伐採したり、狩猟、漁業を営んでいた土地を含めて北海道の土地を区画して 所有権が設定され、 アイヌの人々にも土地が区画されたが、農 業に慣れていなかったことから、アイヌの人々が農業で自立す ることは困難であったこと、
明治六年、
木をみだりに切ること や木の皮を剥ぐことが禁止され、また、豊平、発寒、琴似及び 篠路の川の鮭漁に関して、 アイヌ民族の伝統的な漁法の一つで あるウライ網の使用(川を杭で仕切って魚が上れないようにし、 その一部分のみを開けておいてそこに網を仕掛けて採魚する漁 法)が禁止されたこと、) アイヌ民族の従来の風習で ある耳輪や入れ墨等が罰則を伴って禁止され、また毒矢を使う アイヌ民族の伝統的な狩猟方法が禁止されたこと、
明治一一年、
札幌郡の川における鮭鱒漁が一切禁止されたこと、
明治一三年、
死者の出た家を焼いて他へ移るというアイヌの人々の風習等が罰則を伴って禁止され、 更に、日本語あるいは日本の文字の教 育が施されるようになつたこと、
その後、千歳郡の河川において鮭の密猟が禁止されたり、アイヌ民族の伝統漁法の一つであるテス網による漁が禁止されたりした後、
明治三〇年には、
自家用としても鮭鱒を捕獲することが禁止されたこと、
このように魚類等の捕獲の禁止が強化されていったことや私人がアイヌの人々の開拓した土地を奪うようなことがしばしばあったこと などからアイヌの人々の生活が困窮したため、
明治三二年
北海道旧土人保護法が制定され、農業の奨励による生活安定のため の土地給付等が図られたが、 アイヌの人々に給与される土地は 法律で上限とされた五町歩をはるかに下回り、 しかもその中に二割近い開墾不能地があったことなどから、アイヌの人々の生 活水準は極めて低いままであり、 生活の安定を図ることはでき なかったこと、
以上の事実が認められる。

右認定事実に弁論の全趣旨を総合すれば、前記のような漁業等の禁止は、主に漁猟によって、 生計を営んできたアイヌの人々 の生活を窮乏に陥れ、その生活の安定を図る目的で制定された北海道旧土人保護法も、 アイヌ民族の生活自立を促すには程遠 く、また、アイヌ民族の伝統的な習慣の禁上や日本語教育などの政策は、 和人と同程度の生活環境を保障しようとする趣旨が あったものの、いわゆる同化政策であり 和人文化に優位をおく一方的な価値観に基づき和人の文化をアイヌ民族に押しつけ たものであって、 アイヌ民族独自の食生活、習俗、言語等に対する配慮に欠けるところがあったといわざるを得ない。 これに より、 アイヌ民族独自習俗、言語等の文化が相当程度衰退す ることになったものである。
▼この裁判所の認定を援用する。(2020.6.4)

Z 1893年(M26) 第五回帝国議会「北海道土人保護法」提案  加藤政之助
○加藤政之助君(二百二十二番)
 「北海道土人保護法案を提出致しましたる理由を弁明致します、

我日本国は上に叡聖慈仁なる御歴代の皇帝在しまして、下には仁義の数を以て本と致したる所の国民を以て組織して居ります、 夫が故に我日本国人民は此の世界各国に対しても常に義に依り、義に勇み、強を挫き弱を助くることに於ては世界第一と自らも思ひ、 世間でも称して居ります所の国柄でございます、
この如き国柄でございまる故に、若し欧米の人々にして不道理にも此の弱国に強暴な行を以て臨み、 人種が異った者に対して無礼を加へまするやうなことがございますならば、我々日本国民は常に彼等の挙動を憤慨し、 彼等の挙動を非難して止まざる所でございました、
この如き国民でございます以上は、己れ自らは一点の此の落度もないやうに一点の欠目もないやうに、 強を挫き弱を助ける義に依って此の義に勇むと云ふことは努めなければならぬのである、
然るに私自ら北海道の地に臨んで二回程彼処の地を実見致しましたが、其の結果として我日本国民が当に為すべきの義務を怠って居る、 当に保護しなければならぬ所の責務を怠って居ると云ふことを発見致しました、

夫は何であるかと申しますると云ふと、我日本の一隅即ち北海道に住みて居りまする所の彼のアイノ人種である、 之に対する所の我々同胞兄弟の挙動である、 此の挙動に就いては今日我々が自ら顧みて謹まねばならぬ、 否謹むばかりではなく、 自ら進んで彼等弱者を保護しなければならぬと云ふ地位にあると云ふことを考へます、

彼の北海道の土人アイノなる者は其の古、歴史に徴して見ますと云ふと、 北海道ではなくして我内地に住居致して居ったものゝ如くに見えて居ります、 併ながら夫等のことは古に属してほとんど漠然と致して居りますから、夫等の議論は暫く措きまして、
少なくとも彼等アイノ人種は近古迄は北海道即ち日本のほとんど四分の一に当る所の面積を彼等自ら占領致して、 此の北海道の大地を以て己れの衣食の料に供して、己れの生活の資に充てゝ居ったものに疑はござりませぬ
イサベラ・バードの見た明治11年頃の
アイヌの家族
榎森進『アイヌ民族の歴史』401頁

此の内地の人々が彼等の弱に乗じ、彼等の無智なるに乗じて之を虐待したと云ふ事実は、今日まで歴々現れて居るのでございます、

で其の一例を申せば私共が親しく草鞋を穿いて旅行致しました処の後志の国瀬棚郡と云ふ処に於きましては、 ほとんど今より百年前若くは百五十年前までは三千の土人が居りましたと云ふことである、
然るに昨今此の土人がどれ丈に減じたかと申しますれば、僅に数十戸になりまして今や二百人に充たないと云ふ有様に陥りました

で是が何故であるかと申しますると内地の人々が彼等を虐遇致した故である、彼等に対して不穏の挙動をした故である、
独り此の内地の人々が左様な働きを致したと云ふことばかりでございますならば、まだ恕すべきことも出来ますが、 北海道長官即ち北海に在って北海道の人民を撫育しなければならない所の北海道庁の役人等が、彼等を虐遇した、 彼等の金銭を猥に失はしめたと云ふやうな事実が現れて居ります

夫れは何であるかと申しますると、北海道十勝の国大津川と云ふ川があって、此の川はほとんど鮭や鱒其の他の漁が余程多い所でございます、
夫が故に此の川の沿岸には、古より漁場が沢山ございます場所でございます
夫が維新後北海道庁を置かれて漁場の制度抔も立って、古の請負の制度を解いて、之を相当の権利ある者に貸与へ、
若くは之を下与へると云ふことが起こりました時分に、十勝の国の此の大津川の沿岸の土人等は沿岸の漁場を数箇持って居りましたのでございます、
此の漁場を持って居りましたが故に、漁場を他人に貸与へ、若くは他人に売渡すと云ふ結果より致して、 彼等は明治七年にほとんど三万有余円の金を得たのでございます


此の三万有余円の金を如何にしたかと申しますると云ふと、
之を其の儘置いてはいけないと云ふので、政府に保護を依頼してどうか此の金を保護して利殖して貰ひたいと云ふことを 時の北海道庁に申出した処が、
初め此の金をどうしたかと云ふと郵船会社の株券を買ひ、さうして之をやつたのだそうでございます、
夫が此の次だうなつたかと云ふと、知らず識らずの間に彼の北海道のほとんど衰減に垂んとして居る所の製麻会社、 若くは製糖会社の株に此の三万余円の郵船会社の株が変って仕舞ったと云ふことである――、
今日彼等土人の共有金は如何になったか、
分配も碌々受けることは出来ないと云ふ憫れ敢果ない所の境界になって居る、
実に政府たるものが之を為すべき処分でございませうか、
彼等弱者に向ってこの如き計ひをすると云ふは、実に怪しからぬ、
加之其の辺の町村役場の役人等、若くは北海道庁の役人等は土人等の財産ある者に向っては、 ほとんど脅迫同様なる処置を以て之を借り受け、さうして之を濫費したと云ふ形跡も今日まで往々現れて居るのでございます、
でこの如きことを人民も為し又政府の役人も為すと云ふ結果より致して、彼等はほとんど居住に堪へない、
夫が故に内地の人民が一歩北海道に進めば彼等は一歩内地に退くと云ふ今日の形勢に立至りました、
而して彼等の住って居りまする土地も次第々々に内地人民が相当なる現行法律の手続を経て借受け之を自分の所有と為し、
彼等はどうであるかと申しますると無智無育であるから、今日の現行法律の下に立って相当なる手続を経るならば土地を貸下げることが出来る、 開拓することが出来るけれども、其の手続を履むことを知りませぬ、
故に彼等は自分に住って居る所の土地即ちエジツタまで内地の人々に取られて仕舞って、ほとんど住むべき土地もない、流浪の民となると云ふ 今日の有様に陥って居ります、

夫が故に如何にして生活して居るかと申しますれば、土地を所有して居る者抔は皆無と云って宜しい、
唯山海――山に海に唯猟を求めて、さうして其の獲物で生活するか、若くは他人の下に労役に伏して辛き幽けき生活をして居ると云ふ 今日の境遇であるので北海道の土人が今日どれ丈の数がありますかと申しますれば、
一万七千百四十八人と云ふものが今日の現在である、

其の中男が八千四百五十二人、女が八千六百九十六人と云ふ数でございます、
そこで学齢児童はどれ丈あるかと申しますると云ふと、 三千百六十二人、学齢児童の数がある、
然るに此の中で以て学校に就いて居る者が幾人ある、僅に五百七人即ち全数の六分の一 と云ふものほか学校に就いて居らない、
諸君、内地の此の学齢児童がどれ丈今日就学致して居りまして、どれ丈不就学の者がございませうか、
内地を調べて見ると云ふと、七百二十万程学齢児童がある、而して此の就学して居ります所の数が三百十九万あってほとんど 百分の四十八と云ふものが学に就いて居ります、
然るに北海道では僅かに土人の子弟は六分の一弱ほか就いて居らないと云ふ憫れな今日の有様でございます、
加之彼等は衛生の法を知らずして病に罹りましても医者の治療を受けることを知らない服薬することを知らない、
夫が故に次第々々に身体は不健康になりまして、病に罹ったために人種は今日減ずる有様を為して居る、
で彼等の住家はだうかと云ふに十勝、日高辺りで見ますると云ふと、相当の家屋に住んで居る所の者もあるけれども、 極めて少数であって、多くの土人はほとんど内地の乞食にも劣る処の憫れなる小屋に這入って其の日々々を送って居るのでございます、
若し今日の儘に放任して置きましたならば、私は思ふ彼濠太利亜(オーストラリア)の土人が全く人種が絶滅致しましたと 同様に彼の北海道のアイノ人種は 数十年ならずして人種が減するのであらうとか様に考へるのである、

諸君、彼等は北海道の土地全土を有して彼等の生活の料に供して居った所のものである、
然るに此の土地を次第々々に内地の人に奪はれて仕舞って、ほとんど住むべき土地もないと云ふ境遇に陥り


然も強暴にして内地の人に抵抗する所の悪い人種暴悪なる人種でございますれば兎も角、
彼等は至って従順なる人種、至って温厚なる人種である、
内地の人々に向っては、実に温和なる人種でございます、
かくの如く温良なる、かくの如く従順なる北海道のアイノ人種を彼等の住って居る所の土地まで悉く奪ひ去って、 前途彼等は其の人種すら滅せんとする今日、我々が此の義侠の心に富みたる我々日本人民が、 之を保護せずに済みましたならば、天下に向かって日本人は義侠心ありと称することが申せるでありませうか、

私は此の際に是非とも彼等アイノ人種を保護してやらなければならぬと思ふ、
好し一旦敵となりました所のものでござりましても、一たび降参をすれば之を款待すると云ふは常である、
好し王師に抗したりと云ふ人間であっても一たび帰順致したならば是は同じく日本の臣民である、
彼等アイノ人種は北海道の全道を占領して居たる所の者が、今日の境遇に陥ったと致しましたならば、 我々は彼等に向って今日多少の保護を与えて其の生存発達と云ふものを助けなければならぬと思ふ

夫が故に此の仁愛なる此の義侠心に富んだる所の日本四千万の人民に訴へて、私は聊々ながら此の保護案と云ふものを今日通過致して、 彼等北海道「アイノ」人種を保護したいとか様に考えます。」(下線は引用者)

▼上記は1893年(M26) 第五回帝国議会における加藤政之助衆議院議員の「北海道土人保護法」の提案説明です。 正義感と明治人の気概と人間としての矜持にあふれた物言いです。
「北海道即ち日本のほとんど四分の一に当る所の面積を彼等自ら占領致して、 此の北海道の大地を以て己れの衣食の料に供して、己れの生活の資に充てゝ居ったものに疑はござりませぬ」
はとくに重要です。
萱野茂さんだけが「北海道を日本国へ売った覚えも、貸した覚えもございません。」 と言っておられるわけではありません。
アイヌモシリ回復の主張はここが出発点だと思います。(2020.6.5)

[ 土地をめぐる少なからずの法的根拠
1872年(M5)の「土地の収奪」
*「開拓使以後のアイヌ民族無視の土地政策」 
9.20「北海道土地売貸規則」(全9条)・「地所規則」(全19条)
北海道は「無主の地」としてすべてを国有地に編入
「深山・幽谷・人跡隔絶の地」を除き、全ての土地を私有地として、開拓者に下付するための政策。
「私有地」としての下付対象者は、「永住寄留人」移住した和人。アイヌ民族は対象外。
「山林川沢、従来土人等漁猟伐木仕来し土地と雖、更に区分相立、持主或は村請に改て、是又地券を渡」・・イオルも和人に譲渡。
和人開拓者に、1人10万坪(33ha)、10年(15年)間 除租。
「地租改正条例」で、山林を国有地に、北海道で明治政府は、発展の見込める原野や森林は皇室財産に組み入れ、 残る地質の良い未開地は、公家や貴族たちに払い下げ、天皇の「御料地」「皇室財産」とした。


▼ユポさんの上記記述は「地所規則」の下記条文に依っています。
第七条「山林川沢従来土人等漁猟伐木仕来シ地ト雖モ更ニ区分相立持主或ハ村請ニ改メ亦地券ヲ渡シ…尤深山幽谷人跡隔絶ノ地ハ姑ク此限ニアラサル事」
第八条「原野山林等一切ノ土地官属…都テ売下ケ地券ヲ渡シ永ク私有地ニ申付ル事」
第九条「売下之地一人十万坪ヲ以テ限リトシテ」
▼「地所規則」はユポさんご指摘のようにアイヌ民族から土地を収奪したもの。これへの補償が150年後の今、問われています。 私は特に第七条の「従来土人等漁猟伐木仕来シ地ト雖モ」という明治政府の姿勢が許せません。
「1872(明治5)年以降1885(明治18)年までに「北海道土地売貸規則」によって和人に売り下げられた土地は、 2万9239町歩、無償貸し付け地は7768町歩の計3万7007町歩にのぼる。これらの事実は、 和人によるアイヌ・モシリの奪取、しかも法による奪取が確実に進行し出したことを示すものであった。」 (榎森進『アイヌ民族の歴史』(395〜396頁))
▼ 3万7007町歩=366平方キロメートル (琵琶湖=670平方km)すなわち琵琶湖の54%が和人の手に渡った。 当時アイヌ人口は16,270人だったようです。「地所規則」がアイヌの人たちにも適用されていたとすれば 16,270×33ha=536,910 ha=5,369平方kmすなわち琵琶湖の8個に当たる広さの土地がアイヌ民族に割り当てられることになります。
▼上記の計算には樺太が入っていませんでした、樺太348戸2,372人を加えると (16,270+2,372)×33ha=615,186 ha=6,152平方kmすなわち 琵琶湖の9個に当たる広さの土地がアイヌ民族に割り当てられることになります。(2020.4.28)
▼和人開拓者に1人10万坪(33ha)。これをアイヌ人居住者18,642人にも適用する。すると6,152平方km。 琵琶湖9個に当たる広さの土地がアイヌ民族に割り当てられることになる。この考えが最低の出発点。(2020.6.4)
▼因みに北海道の広さは 83,450平方q。琵琶湖125個の広さ。125個の広い空間がアイヌモシリだった。 そのうちの9個分。ささやかな措置。それすら全くなされていない。
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』429頁アイヌ人口の推移。今日再確認しました。(2020.6.9)
1873(M6)年16,272人
1878(M11)年17,098人
1883(M16)年17,232人
1888(M21)年17,062人
1893(M26)年17,280人
▼いまもこの時のおもいは変わっていません。もっと強くなっています。(2020.6.9)

▼「北海道土地払下規則」を調べました。
第一条「北海道官有未開ノ土地」ハ本規則ニ依リ北海道庁ニ於イテ之ヲ払下クヘシ 
第ニ条 土地払下ノ面積ハ一人十万坪ヲ限トス但盛大ノ事業ニシ此制限外ノ土地ヲ要シ其目的確実ナリト認ムルモノアルトキ 特ニ其払下ヲ為スコトアルヘシ
第十三条 明治五年北海道土地売貸規則 明治七年開拓使布達明治十一年開拓使布達ヲ廃止ス

▼たまたま「BURAKU」の頁を作っていて743年の墾田永年私財法に出会いました。 Wikipediaで読んで見ると1886年の「北海道土地払下規則」に似ていることに気づきました。明治の貴族官僚は王政復興で奈良時代のこのような制度まで 復活させていたことがわかりました。おどろきです。感覚的にはルネッサンス期のヨーロッパ人がその範をギリシア哲学に求めたのに似ています。 おどろきをご自分で実感してみてください。1100年前の法令と目的をWikipediaから引用しておきます。

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)は、奈良時代中期の聖武天皇の治世に、天平15年5月27日(743年6月23日)に発布された 勅(天皇の名による命令)で、墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令である。 古くは墾田永世私有法と呼称した。荘園発生の基礎となった法令である。

勅。如聞。墾田拠養老七年格、限満之後、依例収授。由是農夫怠倦、開地復荒。 自今以後、任為私財。無論三世一身、悉咸永年莫取。其国司在任之日、墾田一依前格。 但人為開田占地者、先就国申請、然後開之。不得因茲占請百姓有妨之地。若受地之後至于三年、本主不開者、聴他人開墾。   天平十五年五月廿七日 『類聚三代格』より

現代語訳: (聖武天皇が)命令する。これまで墾田の取扱いは三世一身法(養老7年格)に基づき、満期になれば収公し、(国有田として他の耕作者へ)授与していた。しかし、そのために(開墾した)農民は意欲を失って怠け、開墾した土地が再び荒れることとなった。今後は、私財とすることを認め、三世一身に関係なく、全て永年にわたり収公しないこととする。国司の在任中における申請手続きは、三世一身法に準ずるものとする。ただし、耕地を開墾してその土地を占有しようとする者は、まず国に申請すること。その後で開拓せよ。また、公衆に妨げのある土地を占有する申請は認めない。もし許可を受けて3年経っても開墾しない場合は、他の者へ開墾を許可してもよいこととする。   天平15年5月27日

ただし『続日本紀』巻十五の同日条を見ると、同じく天皇による命令形式である詔として出され、その中に次の逸文が入っていたことが分かる。 この部分は、位階に応じて私有面積の上限を定めた規定であるが、この部分が上記の『類聚三代格』では削除されている。

「(悉咸永年莫取。)其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。 六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者、大領少領三十町、主政主帳十町。若有先給地過多茲限、便即還公。 姦作隱欺、科罪如法。((其)国司在任之日。)」

現代語訳: ……(その土地の広さは)
親王の一品と一位には五百町、
二品と二位には四百町、
三品・四品と三位には三百町、
四位には二百町、
五位には百町、
六位以下八位以上には五十町、
初位以下(無位の)庶人に至るまでは十町(とせよ)。
ただし、郡司には、大領・少領には三十町、
主政・主帳には十町とせよ。
もし以前に与えられた土地で、 この限度よりも多いものがあれば、すみやかに公に還せ。不正に土地を所有して隠し欺くものがあれば、 罪を科すことは法の如くにする。……

直木孝次郎ほか訳注 『続日本紀 2』 平凡社〈東洋文庫〉(ISBN 4-582-80489-6)による) ▼五百町≒500ha=5平方q 羽田飛行場が15平方q。(2020.6.9)

▼位による墾田の広さの違いは明治では資本による違いに置き換えられているだけである。 200万町歩の皇室の御料地の維新政府・貴族官僚の発想も「分かる」気がする。
▼岩村通俊とはwp:北海道開拓の重要性を政府に説き、北海道庁設置を働き掛ける。これが認められ明治19年(1886年) に北海道庁が設置されることとなり通俊が初代長官に任命される。
▼wp:1887年(明治19年)にコレラと天然痘が流行し、移住した樺太アイヌの40パーセントが死亡した。
山辺安之助は「明治十九年の夏から秋まで段々激烈になって冬から春にかけて物が沈んでゆくように 親戚の人や友達が後から後から私を置いて世を去った」 (『あいぬ物語』)と語っている。

▼「物が沈んでゆくように」…、つらい。読むだけでもつらいのに、書くことはもっとつらかっただろう。ご冥福を祈ります。 この人たちの無念もふくめて今を生きる和人として償わなければならない。(2019.2.5)


1889年(M22)
*新十津川村の原野を和人に解放するに当たって、アイヌ民族11戸を、給与予定地を選定し「強制移住」させる
*美幌アイヌ民族を「強制移住」させる
内大臣・首相・三条実美「華族組合雨龍(うりゅう)農場」原野49,500町歩(≒5万ha 1億5千万坪)規則上限の1500倍(1町歩は、約1ヘクタール)
▼wp:1889年に起きた奈良県吉野郡十津川村での十津川大水害の被災民がトック原野に入植し新十津川村と称した。 1890 年 600 戸2489 人がトック原野(徳富川流域)に移住。
明治の礎「北海道開拓」とても参考になるHPです。
明治22年、皇室御料地として全道に200万haを設定、華族組合農場へは未開地5万haが払い下げられます。 公爵三条実美、旧徳島藩主の蜂須賀氏らが設立した華族組合雨竜農場は、このときに払下げを受けて創立されたものです。
▼200万ha=2万平方q 北海道は8万3,450平方q 。つまり北海道の4分の1、琵琶湖30個分を皇室御料地にする計画であった。 「華族組合雨龍農場」50,000ha=500平方q 琵琶湖の75%分。
▼今回のアイヌモシリ回復訴訟では皇室御料地、華族組合雨竜農場も当然取り上げることになります。(2020.6.9)

▼これまでの土地処分・給与のまとめ
1872年(明治5年)「地所規則」和人開拓者1人10万坪(33.3ha)
1886年(明治19年)「北海道土地払下規則」開拓者1人10万坪(33.3ha)
1889年(明治22年)皇室御料地200万ha=2万平方q=琵琶湖30個=北海道1/4、
          華族組合農場5万ha=500平方q=琵琶湖75%(根拠法?)
1890年(明治23年)「屯田兵土地給与規則」1戸5ha
1891年(明治24年)アイヌ近文原野「土人給与予定地」45万坪(150ha)つまり屯田兵30戸分ということ(2020.4.29)
これに次の1897年(M30)「北海道国有未開地処分法」(3月27日)が追加され土地問題は終わるようです。(2020.6.12)

1897年(M30) 「北海道国有未開地処分法」(3月27日)
*「北海道土地払下規則」廃止(処分法22条)
*「自今以往は、貧民を植えずして富民を植えん。是を換言すれば、人民の移住を求めずして、資本の移住を是れ求めんと欲す」
・「大地主」「大資本家」対象、(アイヌ民族対象外)
・無償貸付、開墾成功後、無償付与(処分法3条)
・富豪、資本家、華族、高級官僚、政商
(4月勅令第98号・北海道国有未開地処分法第3条に依る貸付の面積)
・開墾150万坪(500ha)会社・組合はこの2倍
・牧畜250万坪、      同上
・植樹200万坪、      同上
▼「北海道国有未開地処分法」により1908(明治41)年までの12年間に この法律で処分された土地は183万余町歩。 18,098平方q 琵琶湖27個分。全北海道の22%。 (榎森進『アイヌ民族の歴史』423頁を参考にしながら)

▼「強制移住」のまとめ(榎森進『アイヌ民族の歴史』相次いで行われた強制移住(402〜433頁参照))
●1875年(M8) 9月9日〜10月1日 樺太から92戸841名のアイヌ民族を宗谷に「強制移住」  10月7日 石狩原野へ再移住を指示(アイヌ民族、移住反対上申書を開拓使に提出) 翌年、官憲を動員して6月13日から 小樽経由で石狩国対雁(ついしかり)に「強制移住」
●1884年(M17) 北千島アイヌ民族97人を、色丹島に「強制移住」 
          6月30日〜7月6日(支度に2日間)釧路アイヌ民族27戸を阿寒郡セツリに「強制移住」
●1886年(M19) 日高、網走でアイヌ民族の「強制移住」
●1889年(M22) 美幌アイヌ民族を「強制移住」
●1905年(M38)日露戦争で南樺太を手に入れる、樺太アイヌ帰国
●1916年(T5)「新冠御料牧場」・姉去のアイヌ民族80戸、平取村上貫別に「強制移住」
●1947年(S22)「嘗て同地から他の地域に強制移住させられたアイヌの内、 平取村7戸、様似村2戸、荻伏村1戸、新冠村11戸、静内村1戸のアイヌに旧新冠御料牧場内の土地が与えられ、 ここに新冠御料牧場の解放運動は大きな成果をあげて解決するに至ったのである(『北の光』創刊号)。」 との記述が榎森進『アイヌ民族の歴史』(514頁)にあります。
▼これらの「強制移住」に対してどのような補償がなされたのか? このことも今回の裁判で問われなければならない。(2020.6.5)

\ 明治政府の土地政策(アメリカモデル)
1876年(M9)
アメリカから西部開拓を学ぶため、米国第2代農務省長官ホーレス・ケプロン開拓顧問団招聘。 10年余で78人を招いた。 太政大臣より高い年棒1万ドルの給与。4年の在任中、3回の来道、北海道開拓のマスタープラン作成。 インデイアン政策をアイヌ政策に実施(ドーズ法)。

▼明治新政府の準備もたいしたもんだ。(あまりいい意味ではないが)(2020.6.6)

1899年(M32)「北海道旧土人保護法」
▼私は「旧土人法」を明治政府の土地政策の集大成とおもいますが、 その背景を榎森進『アイヌ民族の歴史』(447〜451頁)では次のように指摘されています。
「この法律は1887年米国議会で制定されたインディアンに対する「一般土地割当法」 (通称ドーズ法)をモデルとして 立案・制定されたものと解されている。 両法は先住民族を農業に従事させる目的で一定面積の土地を私有地として無償で付与していること初め、 先住民族の農民化を促進するために、色々な補助手段を講じている等共通点がある。

しかし大きな違いもある。「北海道旧土人保護法」では、土地付与の対象が「農業ニ従事スル者又ハ農業ニ従事セント欲スル者」に限定され、 しかも単位面積が「一戸ニ付」5町歩以内と、個人ではなく、家単位に付与されたのに対し、
「ドーズ法」ではインディアン全員、つまり個人が対象であり、その単位面積も世帯主一人当たり160エーカー(65.3町歩)、 18歳以上の単身者には80エーカー(32.6町歩)18歳未満の単身者及び孤児には40エーカー(16.3町歩)の土地が付与された。」
▼「ドーズ法」 世帯主1人65.3町歩=65.3ha
18歳以上の単身者32.6町歩=32.6ha
18歳未満の単身者及び孤児16.3町歩=16.3ha
▼1872年「地所規則」では開拓者1人33.3ha。
▼もちろん「ドーズ法」の目的には賛成できないが、アイヌモシリの回復訴訟では少なくとも「ドーズ法」的に個人単位で考えるべき。 つまり1人33.3haということ。これが最低限の出発点。(2020.6.8)



近文給与地問題 このいきさつを旭川市HPで勉強しました。
1894年 (明治27)
近文アイヌ36戸に、給与予定地150万坪のうち49万坪を割り渡す
1899年(明治32)
「北海道旧土人保護法」制定(1万5,000坪以内の土地を無償付与、教育・共有財産管理などを規定)。
大倉組、鷹栖村字近文で第七師団建設請負工事着工(1902年竣工)
1900年(明治33)
道庁、近文の給与予定地の大倉組への払下げを決定し近文アイヌに天塩への移転を命じる(第1次給与地問題)。
鷹栖村総代人ら、近文アイヌの給与地移転に反対し「旧土人留住請願書」を道庁に提出(2月)。
鷹栖村有志とアイヌ代表上京、政府要人に給与地移転中止を陳情(4月)。
道庁長官、近文アイヌの留住を認める(5月)。
1903年(明治36)
近文アイヌ38人、道庁に移転嘆願書を提出(第2次給与地問題)
1906年(明治39)
道庁、旭川町にアイヌ給与地として46万坪の貸付を許可(旭川町はアイヌに1戸当たり1町歩を貸し付け、 残地は和人に有償で貸与
1932年(昭和7)
アイヌ給与地の旭川市への貸付期間満了に伴い第3次給与地問題発生。 旭川市会議員・近文アイヌ代表、給与地付与を求めて上京、各方面に陳情(4月)。近文アイヌの荒井源次郎ら上京、陳情運動を行う(6月、11月)
1934年(昭和9)
「旭川市旧土人保護地処分法」制定(近文アイヌ49戸に、1戸当たり1町歩の土地を付与、残地は共有財産)

▼旭川市のHPでは近文給与地問題は1894年(明治27)からですが、問題の芽はユポさんが取り上げられています 「1890年(M23)旭川郊外近文原野に、150万坪(500ha)「土人給与予定地」予定、1891年(M24)決定」
にあるとおもいます。
その「給与予定地」に第七師団が移転してくることになり、 武器・軍事政商大倉喜八郎(大倉組)が一儲けしようと介入したことが問題を引き起こしたようです。 大倉喜八郎は現在ではホテルオークラの創業者として有名ですが、汚れていますね。

] 生業(なりわい)破壊
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』奪われた生産・生活の場(392〜402頁)
1874年(M7)
・開拓使「美々鹿肉燻製製造所・脂肪製造所」建設(缶詰・鹿皮・角)(M17廃止)
・鹿の乱獲 10年間に40万頭捕獲、絶滅寸前、アイヌ民族に食糧危機
▼開拓使美々鹿肉罐詰製造所跡のHP
開拓時代の美々(現・新千歳空港周辺)はエゾジカの天国だった。美々には鹿肉罐詰所と脂肪製造所が設けられましたが、 当時 千歳一帯は石狩地方に比べて冬場の積雪が少ないので鹿が食を求めて大挙群集していたのだとか。
鹿の乱獲と大雪による食糧難からの餓死、鉄道の開道による開拓などで、鹿の数が激減し、 さらには官 営工場だったこともあって経営は振るわず、明治17年に工場は廃止されています。
▼「鹿猟禁止」について。榎森進『アイヌ民族の歴史』(396〜398頁)
「アイヌ民族の生産や生活に大きな打撃を与えたのが、開拓使が鹿猟に関する新たな規則を定めたことであった。
 ●1875(明治8)年9月30日、「胆振・日高両州方面鹿猟仮規則」により、アイヌがアマッポ(仕掛け弓) で鹿猟を行う場合は、それを設置する場所を届け出る必要があった。
 ●11月には夕張・空知・樺戸・雨竜、
 ●翌1月には十勝まで適用。
 ●9月には毒矢の使用を禁止し、
 ●11月には北海道全域を対象とした「北海道鹿猟規則」を定めた。
アイヌ民族の生産・生活で大きな役割を果たしてきたのが、河川での鮭漁を初め海での漁業や海獣狩猟と山野での狩猟、 特に鹿猟で捕獲した鹿は、肉は食料として、皮は自家用及び和人向け商品として大きな役割を果たしてきた。 河川及び海での漁業権が一方的に奪われ、しかも鹿猟も禁止され、こうした明治政府の政策のため餓死するアイヌが続出した。」
1878年(M11) 鮭・鱒の川漁「禁止」10月
1888年(M21)色丹島の北千島アイヌ民族5年間で97人のうち45人死亡
▼概略でまず全体を仕上げること。細部はあとで充実させる。(2020.6.7)
▼以上がアイヌモシリ回復訴訟における主張の骨子です。(2020.6.7)

I@ ほろびゆく民族の悲哀(「知床日誌」「アイヌ神謡集」序)
1858年 (安政5年)
松浦武四郎「戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌」

アイヌ民族への非道の実態を暴く(支配人、番人のメノコ姦奪)
アイヌ民族の人口の激減(他場所との縁組を禁止)、
蝦夷地の荒廃(アイヌ虐待、松前藩・御用商人の非道 暴露糾弾)
▼ユポさんのこのコメント。和人に対するアイヌ民族としての怒りと松浦武四郎さんへの尊崇の念が伝わってきます。(2020.6.8)

松浦武四郎さんの『知床日誌』(文久3年(1863))に関する 奈良女子大学学術情報センターの「知床日誌」のHPです。 有難い研究です。感謝。
シャリ場所のアイヌ
松浦武四郎『知床日誌』
『アイヌ民族の歴史』367頁

「見る影もなく破れて只肩に懸る斗(ばかり)のアツシを着 如何にも菜色をなしける病人等 杖に助り、セカチ(男子)  カナチ(女子)等大勢其汐干にあさりけるか 我等を見て皆寄来りし故 其訳を聞に

舎利(シャリ)アハシリ両所にては 女は最早十六七にもなり夫を持へき時に至れは  クナシリ島へ遣られ 諸国より入来る漁者船方の為に身を自由に取扱ハれ
男子は娶る比(ころ)に成は遣られて昼夜の差別なく責遣(せめつか)ハれ 其年盛を百里外の離島にて過す事故 終に生涯無妻にて暮す者多く 男女共に種々の病にて身を生れ附ぬ

病者となりては働稼のなる間は五年十年の間も故郷に帰る事成難く  又夫婦にて彼地へ遣らるゝ時ハ 其夫は遠き漁場へ遣し 妻は会所また番屋等へ置て番人稼人皆和人也の慰ミ者としられ  何時迄も隔置れ それをいなめは辛き目に逢ふか故只泣々日を送る事也

(中略)

聞し由を委に話しけるに 此一事ハ同人も深く心を用ひ居らゝ由にて  懇にうけかひ呉られけるも嬉し

余も今はかゝる事まても彼等の言の訳る迄に其国言に通せしそ嬉しけれは  取敢す一首の腰折を其壁にしるし置ものなり 日数へし程もしられて 蝦夷人の言も聞わくまてに成けり
                                            知床日誌終  」
▼「知床日誌」はこころある和人が客観的に見聞きした幕末のころのアイヌ民族の現実です。(2020.6.9)

知里幸恵(19歳)さん 『アイヌ民族の歴史』464頁
                  序
その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。 天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼らは、真に自然の寵児、なんという幸福な人達であったでしょう。
冬の陸には林野をおおう深雪をけって、天地を凍らす寒気をものともせず、山また山をふみ越えて熊を狩り、 夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い?の歌を友に木の葉のような小船を浮かべて、ひねもす魚をとり、 花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久にさえずる小鳥と共に歌い暮らして蕗とり蓬つみ、 紅葉の秋は野分けに穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、 圓かな月に夢を結ぶ。嗚呼何という楽しい生活でしょう。
平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。 僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。
しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、 鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、 なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。
時は絶えず流れる。世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、 いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩を並べる日も、やがては来ましょう。 それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。
けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、 それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。
おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語 の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。
私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。
   大正十一年三月一日
                                         知里幸恵

▼こちらは大正十一年(1922)のアイヌの人の当事者のおもいです。私を含め和人はこういう過去を背負っています。 責任を果たさなければなりません。アイヌモシリ回復訴訟はその責任の果たし方のひとつと考えています。 共感していただける和人の方どうぞご協力ください。(2020.6.9)

IA 海外の先住民族政策
 オーストラリア政府、アボリジニに公式謝罪(2008年2月13日)
▼すばらしいHPを見つけました。松崎さん、ありがとうございます。掲載させていただきます。
「昨年11月に政権に着いたラッド労働党政府は、2月13日、新政府による初の議会の冒頭議事として、 過去のオーストラリア政府が行ってきたアボリジニ(原住民)への差別抑圧政策への公式の謝罪を行いました。 この歴史的議会には、アボリジニの諸代表や過去の歴代首相も列席しましたが、 この謝罪を頑強に拒否してきた前ハワード首相のみ、姿を現しませんでした。以下は、ラッド新首相が行った公式謝罪の全文訳です。」

「今日、我々は、この国土の原住民とその人類史上最古の現存する文化を誇りとします。
我々は、過去の彼らへの誤ったふるまいを深く考えます。
ことに我々は、「盗まれた世代」――この国の歴史における最大の汚点――である人々への行為を深慮します。
今や、誤った過去を正し、将来へ向って自信をもって進む、オーストラリアの歴史の新しいページを開く時です。
我々は、オーストラリアの同胞に、大きな悲しみ、苦しみ、そして喪失を与えた、歴代の議会や政府の法律や政策を謝罪します。
我々は、特に、アボリジニやトレス海峡諸島の子供たちが、家族や同胞や郷土から連れ去られたことを謝罪します。
そうした盗まれた世代の、その子孫の、そして取り残されたその家族の、痛み、苦しみ、そして傷つきに、我々は、謝ります、と言います。
そうした父、母、兄弟、姉妹に、家族と同胞の絆を断ち切ったことに、我々は、謝ります、と言います。
そして、この誇り高き人々と文化に与えた、尊厳の破壊と退廃に、我々は、謝ります、と言います。
我々オーストラリア議会は、この謝罪が、この国が与える癒しのいくらかにでも貢献したいとする精神として受け入れられるよう、つつしんで求めるものです。
この大陸の偉大な歴史の新たなページが、今、開かれることを採決し、未来のために、我々はそれを暖かく迎えます。
我々は、本日、過去を認め、あらゆるオーストラリア人に与えられる将来への権利を主張することにより、この最初の一歩とします。
今後、こうした過去の不公正が議会で議決されるようなことは、二度と起こってはなりません。
今後、我々は、寿命、教育水準、経済機会における格差を縮める、すべてのオーストラリア人、原住民、非原住民による決定を採用してゆきます。
今後、我々は、過去の試みが失敗した懸案に対する新たな解決策を取り入れて行きます。
今後、相互の尊重、相互の解決、相互の責任を基礎として行きます。
今後、その生まれが何であろうとも、すべてのオーストラリア人は、真に平等なパートナーであり、同等な機会と、 この偉大な国オーストラリアの歴史の次のページを開く上での、同等な利害関係をえます。」

▼以上が謝罪の全文です。日本政府もアイヌの人たちに対してこのような謝罪が必要。
資料: The Weekend Financial Review, 13 February 2008. 翻訳: 松崎(2008.2.14)

  カナダ・クイーンズ大学各国の先住民族政策の推進度調査
Indigenous Peoplesをクリックしてください。resultsへ行って下さい。指標のTableが出て来ます。
Table1が要約、Table2が各項目別です。
Table 2: Multiculturalism Policies for Indigenous Peoples Scores for Each Indicator,
1980, 2000, 2010

調査対象国(縦の欄上から):オーストラリア カナダ デンマーク フィンランド 日本 ニュジーランド ノルウエー スウェーデン 米国
調査項目(横の欄左から);1土地権 2自己決定権 3条約締結権 4文化権 5中央政府との協議 6特別な地位  7先住権国際条約批准 8格差是措置 9総合点
(拡大可)

▼上の指標を見ますとこの30年間(1980年、2000年、2010年)、日本は土地権、自治権の承認といった先住民政策にとって最も肝心の指標が0で、 いかに遅れているかが一目瞭然です。総合点(9点満点)でも1980年が0、2000年が1、2010年が3です。
オーストラリアの総合点は1980年が1、2000年が4.5、2010年が6で大幅に改善されています。しかも土地権は0から1になっています。
カナダは総合点トップでほぼ満点の8.5です。米国は8、ニュジーランド7.5です。
こうして国際比較のデータを見ますと日本のアイヌ先住民族に対する課題が浮き彫りになってきます。 今回のアイヌモシリ回復訴訟は主に土地権、自治権承認の問題です。(2020.6.10)

▲上記ペーパーを2020年6月14日ユポさんに渡しました。
IB裁判で獲得を目指す訴訟物
私のイメージの中では今回の裁判は

@二風谷ダムの取り壊しと平取地域でのアイヌ民族のイオルの復活、すなわち先住権に基づく国有林への入山、 沙流川での鮭漁の復活
A新冠牧場から強制移住させられた厚別川と新冠川に挟まれた地域のアイヌの人たちの復帰と二つの川での鮭漁の解禁

この二つが軸になると思います。この二つが獲得できればそのほかのイオルの問題も根は共通ですから前進すると思います。(2020.9.27)
B明治以降の日本政府のアイヌモシリの植民地化とアイヌ民族同化政策の謝罪。(2020.10.5)

むしろB、@、Aの順番で訴状は構成されたほうがよいとおもいます。(2020.10.6)
亀戸で上記方針をユポさんと確認。(2020.10.10)

▼さらに次のように考え直ししました。(訴訟物
@明治以降の日本政府のアイヌモシリの植民地化とアイヌ民族同化政策の謝罪。 その償いの一つとして「アイヌ民族自立化基金」(5,500憶円)
A二風谷ダムの取り壊しと平取地域でのアイヌ民族のイオルの復活、すなわち先住権に基づく国有林への入山、 沙流川での鮭漁の復活
B新冠牧場から強制移住させられた厚別川と新冠川に挟まれた地域のアイヌの人たちの復帰と二つの川での鮭漁の解禁

A、Bが認められればほかのイオルの問題も根は共通ですから前進すると思います。(2020.11.14)


▲2021.12.31ユポさんに訴訟物の確認を再度しました。北海道の国有地の返還と明言されました。 つまり304万haの国有地の返還ということ。2007年国連の先住民族権利宣言28条に基づく回復である、と。これを中核とします。(2022.1.1)

▼ユポさんから下記論文届く(2021.6.27)
関西大学学術リポジトリ http://hdl.handle.net/10112/11635
ジェームス・アナヤ「国連・先住民族の権利に関する特別報告:ニュージーランドにおけるマオリの人びとの現状」(2017.11.15)

ジェームス・アナヤ
▼アナヤさんの特別報告のみならず、角田猛之さんの翻訳と注釈がすばらしい。マオリの活動と実践はアイヌ民族の行く道を 指し示しているように思えた。(2021.6.30)
目 次
マリオの人びと(拡大) 先住民族の権利保護(拡大)
訳者「まえがき」
[概要]
T.序
U.マオリの人びと
V.ワイタンギ条約
A.背景 B.真のパートナーシップ確立の機会 C.ワイタンギ条約違反に対する救済 D.諸々の条約体制と優れたケース
W.マオリの諸権利の憲法上の保障 A.マオリの諸権利の憲法上の保障の欠如 B.前浜・海底法
X.マオリの発展
A.有益な展開と優先地域における現在進行中の挑戦 B.ファーナウ・オラ
Y.結論と勧告
A.ワイタンギ条約に関する問題 B.マオリの権利に対する国内法による保障 C.マオリの発展
深山直子さん講座2022.11.21 ワイタンギ条約 https://drive.google.com/file/d/1BmodGpocgpNiGptfbMJpOkc7gKOSzyQF/view
●自由学校「遊」「先住民族の森川海に関する権利―海外の事例から」第1回講座 上村先生 2022/10/24
先住民族の権利特別報告者ヴィクトリア・タウリ−コープス(Victoria Tauli-Corpuz)の国連総会報告 2019(A/73/176)より
角田猛之さん翻訳 https://www.kansai-u.ac.jp/ILS/publication/asset/nomos/46/nomos46-06.pdf
「59.土地と天然資源の管理に関する先住民族の伝統的知識と実践は、土地や天然資源の利用に関 する慣習法とともに2030アジェンダ目標15(自治と持続可能な開発のための)[陸域生態系の保護、回復、持続可能な利用の推進、持続可能な森 林の経営、砂漠化への対処、ならびに土地の劣化の阻止・回復及び生物多様性の損失を阻止す る]と直接に結びつくものである。
それは土地と結びついた生活様式であって、領域内のエコ システムの保護と復元、持続可能な利用や持続可能な森林の管理、砂漠化や土壌劣化、生物多 様性消失への対策の推進、等々を含んでいる。先住民族の領域や地域と、高度な生物多様性と 生き生きとした森林とが相関関係にあることを示す多くの証拠が存在する(A/71/229)15)脚注。
先住 民族は世界の土地の22%を占めているが、80%の世界の生物多様性は彼らの土地と領域のなか 見いだされる。このような相関性は、主として先住民族の土地や領域、天然資源との関係を規 定している彼らの統治システムと慣習法によって説明されることができる。土地と天然資源を 集団的に所有し、管理をすることに関することがらがこれらの慣習法の必須の構成要素である。」
2030アジェンダ2015 年 9 月 25 日第 70 回国連総会で採択 https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000101402.pdf
15)World Resources Institute and the Rights and Resources Initiative 参照
世界資源研究所 https://www.wri.org/
権利と資源イニシアチブ https://rightsandresources.org/

「特別報告者の Victoria Tauli-Corpuz さんは、先住民族の広く重要な問題は「自治」と考えており、その土台に「慣習法」を明示している。」
▲この上村先生の「慣習法の報告」は裁判に使える。(2022.11.22)

明治学院大学学術リポジトリ http://hdl.handle.net/10723/1074
孫占坤「先住民族の権利保護について:自決権と集団の権利を中心に」(2011.12)
福岡大学学術リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1316/00003716/
守谷賢輔「カナダ先住民に関する判決」(2016.3)

解放新聞2021.9.25(拡大) 北米先住民族の現在
▲先住民族の故郷。核開発の現場。核と先住民族が結びついている。原発と貧困が結びついている。(2021.10.3)



▼この緑の囲いの部分は裁判を想定した記述に成り始めている。今日気づく。(2021.3.13)
木村二三夫さん(一通の嘆願書)

御料牧場と強制移住
1896年 (明29.7)新冠御料牧場沿革誌; 出版者: 新冠御料牧場; 出版年月日: 明29.7;(国立国会図書館デジタルコレクションの 「新冠御料牧場沿革誌」より 9頁地積、37頁姉去・滑若)明治26年12月31日現在の牧場の地積と面積が記載されている。
御料牧場・地積9頁(拡大可)
新牧場8,532町歩 旧牧場28,772町歩 ペラリ1,058町歩 牧草地61町歩 耕地32町歩 合計38,455町歩
左厚別川と右新冠川に挟まれた新冠御料牧場(拡大可) この場所が新冠御料牧場の旧牧場。その後現在の新ひだか町の、新冠川右岸に拡張された部分が新牧場。ここに龍雲鶴もある。
新冠牧場全体37頁(拡大) 新冠川河口から北西の奥地まで約50q、北西の端から北東のペラリまで約45q、 新冠川から厚別川は約15qの広大な台形状の一帯が新冠牧場
新旧牧場・ペラリ・地積37頁(拡大可) 升目の区画されているところが新牧場・旧牧場は区画されていない場所・右上ペラリ
姉去・滑若37頁(拡大可) 新冠川沿いに姉去村・上流に滑若村がある
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/kn/kss/ksn/grp/H200708atsubetsu.pdf
厚別川水系河川整備基本方針・北海道
厚別(あつべつ)川は北海道の脊梁をなす日高山脈の南西部に位置するリビラ山(標高 1,291m)にそ の源を発し、山間部の渓流を集め、西流してくる支川里平(りびら)川を合流させた後、北海道沙流郡門別町と新冠町の境界を貫流しながら、 支川比宇(びう)川、元神部(もとかんべ)川を合流させ、太平洋に注ぐ流域面積290.7km2 、幹川流路延長 42.8kmの二級河川である。

遠くの200m程の山々は元神部川源流
2021.4.9の元神部
元神部川源流の等高線188 206に注意  
(拡大)元神部川源流と新冠川約2.5q
元神部川源流1
本流に合流して左(西)へ厚別川をめざす
等高線156に注意 源流あたりに人家がある。木村さんご先祖の生地?

元神部川源流2
右上青線元神部川源流
上等高線156 228源流目印

下等高線265 268つぎに繋がる目印
元神部川源流3 町有元神部牧野
元神部川源流との距離3.6q(拡大)

河川名は、一説によると、アイヌ語のアプペツに由来し、「釣(つりばり)川」(魚を捕る川) の意と言われており、流域内にはチャシ跡をはじめ、アイヌ文化を知ることが出来る貴重な遺 跡が多数存在している。
▼新冠牧場の地図と厚別川整備基本方針の記述を合わせると牧場の北端は上貫気別あたりまで来ていたことは間違いない。 更によく見るとペラリの西を流れる川は染退川と書かれている。シベチャリ川のことで今は静内川と呼ばれている。 地形地図をよく見ると貫気別山 とペラリ山を結ぶ北の線と南の線は海岸に沿って厚別川から静内川までを結ぶ台形状の70,000haが当初御料牧場地として計画されたことが窺われる。 その後、見直され明治26年には地図に載せられている38,000haに縮小されたのであろう。 従って上貫気別はこの時点でも御料牧場の一部を形成していて大正5年に姉去から 強制移住をさせられたのであろう。元神部は木村さんのふるさと。いいところだった。やっと追跡ができた。(2021.4.18)

新冠牧場 http://www.nlbc.go.jp/nikappu/ayumi/ayumi.pdf
▼昭和22年5月大蔵省が所管 51,771,266坪=17,257町歩=17,257ha=172平方q(『天皇家の財産』p176)
『新冠御料牧場沿革誌』9頁に明治26年12月31日現在の牧場の地積と面積が記載されている。
新牧場8,532町歩 旧牧場28,772町歩 ペラリ1,058町歩 牧草地61町歩 耕地32町歩 合計38,455町歩
昭和22年5月の大蔵省への移管時は約半分の17,257町歩であった。残りはどこへいった?
大蔵省への移管前にアイヌの人たちに返還されたのか。
昭和22年時点17,257ha。現在2,000ha。15,000haはどこへいった?(2020.9.19)

(明29.7)新冠御料牧場沿革誌;
Wikipedia琵琶湖
伊藤博文の七言絶句(『新冠御料牧場史』39p) 御料牧場は伊藤にとっては「皇謨(天皇の計画)辺牧に及るを喜ぶ」だが、アイヌ民族にとっては最大の悲劇。
この年伊藤はハルピン駅頭で暗殺される。69歳。当時の民衆の命をかけたせめてもの抵抗。(2021.2.11)(拡大)
伊藤博文のアイヌ蔑視(『新冠御料牧場史』432p) (拡大)読むのも憚られる伊藤の言葉。その伊藤の肖像が1963年11月1日から 1986年1月4日まで発行された千円札に採用。 (2021.12.26)
明治5年70,000ha→ 明治26年38,455ha→ 昭和22年17,257ha→ 現在2,000ha 琵琶湖は66,926haです(周囲の長さ235.20km)。70,000haの御料牧場は66,926haの琵琶湖より大きいということ。(2021.2.12)

「家畜改良センター新冠牧場の 20 年」より。
新冠牧場は、明治5(1872)年、北海道開拓使長官黒田清隆により創設され、間もなく 140 年を迎える歴史と伝統ある牧場です。創設当時は、馬改良のため、日高地方の新冠 ・静内にまたがる約7万 ha の敷地を有しておりましたが、幾多の変遷を重ね、現在は新 ひだか町静内御園に事務所を置き、総面積約 2,000ha、900 頭のホルスタイン種を飼養し、 我が国乳用牛の育種改良に貢献することを使命に、活動しています。
2006 年9月7日、国際顕微鏡学会議等で来道中の天皇・皇后両陛下が、新冠牧 場 をご視察されました。当場は、旧御料牧場で皇室にゆかりがあり、過去には、伊藤 博 文公爵や皇太子殿下(大正天皇、昭和天皇)など、多くの皇族や賓客を迎えました。
新ひだか町 http://www.shinhidaka-hokkaido.jp/hotnews/detail/00000170.html 新冠牧場を語るのに忘れてはならないのは二十間道路の桜並木です。二十間(約 36m)の幅で約7km に渡り美しい桜が咲き誇る一本道は、桜の名所として「日本の道百 選」「桜の名所百選」などに選ばれています。
(拡大)東西に走る桜並木。正面は日高山脈。
皇族の行啓道路として 1916 年(大正 5) 年から 3 年かけて近隣の山々の桜が移植されたもので、毎年 5 月の桜祭りには、全国 から 20 万人を超える花見客が訪れます。

二十間道路桜並木の様子 https://www.youtube.com/watch?v=njuSKOtQ0kE&feature=youtu.be
▼今日、見ました。このyoutubeを見ると不思議な感覚になります。
現大富(旧姉去)の地形(拡大可)
瀧澤先生に確認 (拡大)2022.4.7

姉去のアイヌの人たちのことは全くなかったかのような。これでいいのだろうか。
すばらしい大地です。アイヌの人たちのもの!なんとかしないといけない。(2021.2.8)
▲250町歩の私共開墾はこのあたりにほぼ間違いない。瀧澤正先生に確認すること。(2021.12.8)
▲瀧澤論文「明治初期開拓使の土地改革とアイヌの土地」

「蝦夷地の自然に対するアイヌの権原を措定できないであろうか」「アイヌの土地利用は単に売買・譲渡される地面だけでなく、漁業権・狩猟権さらに農耕地・山林 の利用等を包括したものであった。」「開拓使の土地政策はこれを分解し地面の私有化をもたらす、 つまり「近代的土地所有権を法によって生ぜしめる」事業であった。」
▲これはおもしろい。新しい何かが生まれそう。先生に確認すること。(2022.6.18)
▲確認しました。論文は2011.12.20発行、北大史学51号に掲載。上記の箇所、だれも注目してくれていない、とのこと。池田先生にお伺いをたてたい。 (2022.6.18)

新冠町沿革p27〜p30
https://www.niikappu.jp/shokai/gaiyo/documents/2020tyouseiyourann.pdf
▼沿革では大正5年(1916年)の姉去アイヌの強制移住が全く触れられていない !(2021.2.8)

旧牧場はまさしく新冠町(拡大)
上貫気別・地図の最上部の地区(拡大)
▼左の説明。
姉去から上貫気別まで約50qの山の中を強制移住でアイヌの人たちは
「道のないところを歩いていったことを思い出します。馬もぬかって、それは 大変でした。」(『新冠御料牧場史』149頁 山本アキさん証言)
左の写真から山の中を歩いていったアイヌの人たちの無念さを想像します。
日高国地図(拡大) 新冠川河口に近い西岸に去童、上流東岸に姉去、さらに上流に万揃、 その上流西岸に滑若。御料牧場は滑若から新冠川を越えて東にあります。(2021.12.4)
▲右上の説明。厚別川東岸〜新冠川西岸に囲まれたところが御料牧場の地域。現在新冠町。
「ここには明治6年ころには大狩部村、葉朽村、受乞村、元神部村、比宇に計29戸137人、高江村、姉去村、去童村、万揃村、滑若村、泊津村に計88戸398人、両地域 で合計11カ村、117戸、535人が居住していた。」『アイヌ民族の歴史』421頁。 「瀧澤研究」
資料@の地図(拡大)
私共開墾このあたり? 資料@の地図の場所は新冠川を挟んで優俊記念館から 明和牧場までのあたりとおもわれる(2021.12.2)
手書き地図の現在地(拡大) 今日、地理院地図で確認する。(2022.2.8)

新冠町古岸102番地の土地台帳で確認すること。
姉去橋から上流3.6q明和橋から下流900m。新冠川右岸の場所。(2022.2.10)

古岸102番地 グーグル
(拡大)

▲古岸102番地 土地台帳で確認(木村さん)。21,239u・所有者下山実。アイヌの人ではないようだ。
姉去の人はどこへ?「にいかっぷ」証言者・川越貢さんのお孫さん道彦さん今は万世80-2にお住まい。土地台帳で確認すること。
結局アイヌの人は 戦後上貫気別から万世に戻られたようだ。約30haの地域だと思う。250haの開墾で戻されたのが30haだと思う。

姉去の肥沃な土地には期農同盟の人たちが移住したようだ。中心人物芳住均さんの子息が大富161-6芳住牧場の所有者となっている。 (2022.3.3)

芳住牧場(拡大)
航空写真で確認(2022.3.6)
瀧澤正先生資料@

この事実を新冠町の沿革では触れていない。(2021.2.10)
▲『アイヌ民族の歴史』421頁〜422頁の記述の出典は『殖民状況報文・日高国』『新冠町史』『続新冠町史』。これにあたる事。 榎森進先生に電話すること。(2021.12.3)
▲「私共開墾」の250町歩に集中するあまりそもそもこのあたり一帯は『アイヌ民族の歴史』 に記述されているようにアイヌの人たちが古い昔から住んでいた場所ということを忘れてはいけない。 250町歩も大事だがその前提がもっと大事。(2021.12.2)
新冠町地区の旧名と新名
高江村 → 高江、新冠、節婦、朝日、西泊津
大狩部村 → 大狩部
葉朽村 → 共栄、大狩部
受乞村 → 共栄、東川
元神部村 → 東川
比宇村 → 美宇、里平、新和、太陽
泊津村 → 西泊津、東泊津、朝日、大富
去童村 → 緑丘、古岸、朝日、高江
姉去村 → 東泊津、朝日(優俊記念館)優俊記念館の土地台帳・土地地図を入手すること(2021.12.1)、大富  
万揃村 → 万世、明和(明和牧場)、大富  
滑若村 → 泉、若園、新栄、岩清水、古岸

安政2年(1855)「ニイカップ御場所蝦夷数人別書上書」(『新冠町史』243頁〜244頁)
タカエサラ村18軒 61人 男29人 女32人 
ソリハラエ村13軒 52人 男29人 女23人
ア子サラ村 16軒 71人 男39人 女32人
マウニソロ村6軒  29人 男17人 女12人
フルケシ村 9軒  37人 男14人 女23人
ヲシヤマニ村 9軒 45人 男24人 女21人
アツヘツ村 21軒 91人 男37人 女54人
総家数   92軒 386人  男189人 女197人
▲明治以降の村名を調べること。(2021.12.13)

 明治4年の姉去・去童の地図  (拡大)『新冠町史』81頁
明治4年の朝日地区のアイヌ人口は姉去18戸106人・去童18戸75人・万揃外8戸38人合計44戸219人(『新冠町史』80頁)

明治30年(1897)「北海道殖民状況報文」(『新冠町史』274頁)
昭和5年(1930)『北海道旧土人保護沿革史』334頁
高江村 31戸115人→ 16戸56人
葉朽村 8戸52人
受乞村 10戸47人→ 21戸72人
元神部村 7戸100人→ 13戸49人
比宇村 現在者なし→ 5戸23人
去童村 16戸67人→ 12戸41人
泊津村 17戸55人→ 23戸87人
姉去村 36戸119人→ 4戸12人
万揃村 23戸92人
滑若村 明治28年万揃、姉去に移転→ 15戸69人
大狩部       →4戸19人
節婦        →14戸63人
明治30年総戸数 148戸 647人→昭和5年127戸 442人  
姉去・去童の戸数・人口
明治4年36戸181人→明治30年52戸186人→昭和5年16戸53人
姉去の戸数・人口
安政2年16軒71人→明治4年18戸106人→明治30年36戸119人→昭和5年4戸12人
『アイヌ民族の歴史』419頁(拡大) この一覧表は強制移住の20箇所の主だった対象地と理由をまとめたもの。

なんと「小川正人『近代アイヌ教育制度史研究』北海道大学図書刊行会1997年による」となっていました。 小川論文を精読していて確認しました。(2022.8.10)

▲強制移住は姉去村の悲劇と結論付けることができる。「姉去・万揃・古岸一帯の地は、所謂新冠川沖積土で、土地は 肥沃で農耕の適地であったから御料牧場は飼育畑として耕作した。」(『新冠町史』83頁)とある。つまり御料牧場から 狙われたと結論付けることができる。「一通の嘆願書」と重ねるとアイヌを姉去に集め、開墾させ、終わったら上貫気別に追いやった、 というのが歴史の事実。(2021.12.13)
強制移住
▼ 樺太アイヌ協会の田澤守さんの講演へ飛ぶ。講演の一節
「明確なビジョンは、アイヌ自身 が未来を自己決定するってことだと思います。 それをみなさんと一緒にできて、和人の人はサポートしながら、アイヌに「決めなさいよ」と、一緒にやってくれたらいいなと思ってます。」
▼まさに田澤さんの仰る通りです。この人にも原告になっていただきたい。(2021.2.12)
原告になっていただきたい方をリストアップ(私見)。
萱野さん、貝澤さん、木村さん、田澤さん、川村さん、もちろんユポさん。(2021.4.7)

一通の嘆願書 一通の嘆願書参照
▼山本融定『新冠御料牧場史』(1985年)より。
融定先生とユポさん (拡大)

「立派な『新冠町史』はあるが、御料牧場が姉去アイヌを上貫気別に強制移住させた事や、義務人夫のことなどほとんど書かれていない。」 (142頁)
▼この一文を今日、見つけた。新冠町沿革に触れられていないのを納得。たぶん引揚者が町を仕切っていて、 負の遺産を思い出したくないのだろう。(2021.2.10)
▼その後『新冠町史』(1966年)、『続新冠町史』(1996年)を読みました。『続新冠町史』はアイヌ問題が詳細に記述されています。山本先生の感想は『続新冠町史』の発行以前のものでした。(2021.12.23)



▼Wiki沖積地:
一般には水害の危険が高いが利水しやすく、肥沃で平らであるため農耕に適する。 多くの文明が沖積平野で発祥している。(2021.2.18)
ナムワッカ
259頁(拡大可)
▼新冠川中流域のナメワッカ・スネナイ(現在若園)10戸49人・8戸36人のコタン。 明治中期、18戸のアイヌはアネサル・マニソロに強制移住(2021.2.17)
強制移住対象コタン
190頁(拡大可)
▼平取の山奥・上貫気別に強制移住させられたのは新冠川流域のナメワッカ・マニソロ・アネサルの アイヌの人たちのようだ。(2021.2.9)


新冠町太陽・引揚者

261頁(拡大可)
▼「戦後旧御料地に、太陽と里平だけで132戸も満州や樺太からの引揚者が入地した」と記述されている。 (2021.2.9)
新ひだか町 大富地区
191頁(拡大可)
▼かつてのアネサル「大富は、新冠川東岸の最も肥沃な沖積地」と記述されている。(2021.2.9)

















▼「強制移住」のまとめ。
明治中期、新冠川西岸のナムワッカ・スネナイのコタンが新冠川東岸のアネサル・マニソロに 強制移住させられ、さらに大正5年、アネサル・マニソロのアイヌが平取の上貫気別に強制移住させられた、ということ。
新冠川を挟んで西岸地域が新冠町、東岸が新ひだか町。新冠町の沿革には強制移住のことが触れられていない。新冠町には親和、美宇、東川にも アイヌのコタンがあった。歴史から消えたのか、消されたのか。せめて事実を法廷で明らかにして後世に残したい。(2021.2.17)

札幌市と同じ広さの牧場 18頁
御料牧場から追われ
143頁
芦沢保さんの証言
「自分の家の土地が給与地(アイヌの人たちに割り当てられた土地のこと)の区分では山の上にあることになって おり、とても開墾できる土地ではなかった、という」「上貫気別のアイヌの給与地は、上貫気別の一番奥地に位置し、 貫気別川の支流イタラック川以東」
▼役人たちは現地を見ないで図面だけで割り当てたのだろう。(2021.2.10)

強制移住(拡大) 『アイヌ民族の歴史』419頁
飛んできた先:「強制移住」のまとめ
▼HP:ユポさんの年表1889年(M22)に次のまとめがあります。
「強制移住」をここでまとめること『アイヌ民族の歴史』419頁参照


1872年(M5)〜1873年(M6)
余市:市街地のアイヌを市街地外へ
1875年(M8)
9月9日〜10月1日 樺太から92戸841名のアイヌ民族を宗谷に「強制移住」
10月7日 石狩原野へ再移住を指示(アイヌ民族、移住反対上申書を開拓使に提出)
翌年、 官憲を動員して6月13日から小樽経由で石狩国対雁(ついしかり)に「強制移住」 6月30日〜7月6日(支度に2日間)

対雁 石狩川河口から
20キロ上流


色丹島
(拡大) 阿寒郡セツリ 釧路から25キロ北の山中 鶴居村
1884年(M17) 北千島アイヌ民族97人を、色丹島に「強制移住」
1885年(M18) 釧路アイヌ民族27戸を阿寒郡セツリに「強制移住」
1886年(M19) 日高、網走でアイヌ民族の「強制移住」
1889年(M22) 美幌アイヌ民族を「強制移住」
1916年(T5)「新冠御料牧場」・姉去のアイヌ民族80戸、平取村上貫別に「強制移住」

▼明治・大正政府、1875年(M8)〜1916年(T5)の41年、アイヌ民族支配完遂の41年。(2021.2.18)
1870年(M3)*夕張アイヌ民族、強制移住
1872年(M5) 3月、「開拓使仮学校」東京芝増上寺に開校。同校と青山開拓使官園にアイヌ子弟35人を「強制連行・強制入学」

▼修正:1870年(M3)〜1916年(T5)の46年。アイヌ民族支配完遂の46年。(2021.2.18)
▼「強制移住」を地図上に落として視覚化すること。説得力がある。この作業をやること。(2021.2.22)

▲地図に落とし込みをしてあるものを見つけました。平山『地図でみる』強制移住です。(2022.9.9)
平山『地図でみる』強制移住 (拡大) (拡大)
▲mickymagicabcのHPに出会いました。よく整理されているので活用させていただきます。
アイヌの主な強制移住(準拠:榎森進『アイヌ民族の歴史』) https://mickymagicabc.hateblo.jp/archive/2021/02/26
▲以下「強制移住」以外についてmickymagicabcのHPさんの前触れ。(2022.10.8)
アイヌの人口
1804(文化元年) 21,697名【戸数 不明】
1822(文政5) 22,176名【戸数 4824】
1854(安政元年)16,136名【戸数 3297】
1873(明治6) 16,270名【戸数 不明】
1883(明治16) 不明 【戸数 3768】

1872(明治5)「北海道土地売貸規則」と「地所規則」が公布された。両規則は「深山幽谷、人跡隔絶ノ地」を除いて山林、川沢の別なく、 その所有者を明らかにして、一人10万坪=33.3町歩に限り売り下げるというものだったが、「私有」の対象は、和人であり、アイヌは対象外とされた。

1872〜1885(明治5〜18)まで、北海道土地売貸規則によって和人に売り下げられた土地(一人に付き10万坪に限り)は、 計1,222万坪=4,073町歩(内 鉱工業用地 886万坪=2,953町歩)が和人の手に渡った。もっとも、これらの地は、主に札幌を中心とする石狩と 渡島、後志、胆振などの道南地方に限られ、他の地域では、ごく僅かに過ぎなかったから、 これによって全道のアイヌ民族が一斉に土地を取り上げられたという訳ではなかった。

1877(明治10)「北海道地券発行条例」が制定された。地租改正に相当するもので、 アイヌ民族の居留地を「牧場と同様、官有地第三種」に編入した。これは アイヌ民族の保護という意味もあった。 実際これによって土地を確保できたアイヌは、1881(明治14)で、石狩、天塩、北見、後志、胆振、十勝の724戸だった。 一戸平均310坪の土地だった。
▲310坪×724戸224,440坪=74.8町歩。和人2人分。72,400,000坪=24,133町歩割り当てるべきであった。 (2022.1.11)

▲いよいよ「強制移住」 の付いているのがmickymagicabcさんのHPから。(2022.10.8)
『アイヌの主だった強制移住 1870〜90代』(姉去村の強制移住は1916年の大正5年ですがこちらに加えています)
●1872〜73(明治5〜6) 余市、市街地のアイヌを市街地外へ
●1875〜76(明治8〜明治9)日露国境確定の為。樺太→江別(対雁) 樺太から宗谷へ翌年対雁へ 【92戸、841名】江別(対雁)でコレラ、天然痘が流行し 約300名の死亡者を出した。 1905年日露戦争の講和条約により南樺太が日本領になり 多くのアイヌが樺太に帰った。
コレラの流行
https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/50/1/ssr4-46.pdfより
コレラはコレラ菌で起こる伝染病で、もともとインドの風土病だったが、19世紀に世界各地に感染が広がった。日本で初めて流行 したのは江戸時代後期の1822(文政5)年、ついで幕末の1858(安政5)年だった。安政の五カ国条約が調印されたこの年のコレラの 流行は、多くの人々を不安と混乱におとしいれた。1877(明治10)年は西南戦争が勃発、戦線でコレラが発生し、帰還兵によっ て全国に感染が広がった。以後、1879、82、86年も多くの犠牲者が出た。

小樽市街から高島へ (拡大)
高台の高島 高島はまさしく高台(2022.6.30)(拡大)

小樽のアイヌの墓地跡に建つ神社 ▲2022.6.30平山ツアーで訪問
平山先生 (拡大)

●1880〜81(明治13〜14)小樽、市街地のアイヌを高島町へ【21戸、67名】
●1883(明治16)アイヌ救済の為。足寄郡、郡内4ヵ村→足寄村 【18戸】
●1884(明治17年)日露国境確定の為。北千島→色丹島【19戸、97名】
急激な自然環境の相違から移住直後から死亡者が相次ぎ1889(明治22)には66名に減少。 政府は様々な対策を講じたが、1939年第二次世界大戦直前には僅か数名に数えるに過ぎなくなっていた。
1885(明治18)以降、移住和人の増加、市街地の発展、移住和人用の植民地区画の設定等により、 道内でもアイヌ民族の強制移住が相次いで行われた。
▲明治18年以降の市街地化のための強制移住、丹念に調べること。
「場所」の分布(拡大) 地図の掲載2022.1.11 「場所」とその後の市街地開発は明らかにつながっている。
(拡大) 小樽 番屋と鰊御殿 和人の御殿とアイヌの窮乏(2022.6.30)

江戸時代の「場所」との関連がありそう。
それと御料牧場、 第七師団の創設、明治の富国強兵政策との関係が見えてきそう(2021.12.24)。

wikipedia. 第7師団は1896年(明治29年)5月12日に編成された。
▲明治33年第7師団の近文移転問題(2021.12.24)

●1885(明治18)アイヌ救済の為。釧路→セツリ川上流【27戸】政府はセツリ川を鮭の天然孵化場にするため鮭の遡上時期に鮭の捕獲を禁止した。 アイヌは移住先を離れ釧路近郊に再移住する者があった。
●1885年(明治18)アイヌ救済の為。河東・上川両郡(十勝)→両郡のアイヌを音更・芽室太・ケネの三ヶ所へ【53戸】
●1886年(明治19)門別川上流→沙流郡こナツミ(沙流川西岸)【12戸】
●1886(明治19)沙流郡ピリカ・シウンコツ・サラバ・沙流川西岸のアイヌ→沙流川東岸へ【計 89戸】
●1886(明治19)沙流郡カバリ村賀張川畔→厚別村字カバリ【31戸】
●1886(明治19)沙流郡ナヌニ村→厚別村字アカム 【数戸】
●1886(明治19)網走→市街地のアイヌを市街東方へ【30戸】
●1889〜90(明治22〜23)網走郡美幌外6ヵ村→各村のアイヌを美幌村アシリベツクシへ【16戸、93名】
ワッカウエンベツ(拡大) 新十津川町の更に奥地
ウスシベツ(拡大) 新十津川町の中心街
正に地形がトック凸の形
『新十津川町史』より

殖民地区画2(拡大)

殖民地区画1(拡大) わが国において一般殖民地に区画制度を採用したのは明治22年トック原野への施行が最初。
●1890(明治23)樺戸郡トック原野→各地のアイヌをウスシベツへ【11戸】▲約80haの土地
奈良県吉野川一帯が豪雨の為に大被害を受け、十津川郷6ヵ村、和人600名の住人が北海道に移住する事となり、 その入植地がトック原野だった。トック原野は、 明治20年北海道庁が調査を行い、農耕適地として選定されていました。 その後、石狩川の氾濫や十津川移民の開墾の進展等あり、 1910年(明治43)十津川村(移民が開墾した地)奥地のワッカウエンベツに集団移転した。
▲『新十津川町史』殖民地区画1と殖民地区画2を拡大して読んでください。 上貫気別の給与地はA机上においておおよその…のケースであったことがよく理解できます。(2022.1.31)
小川正人「アイヌ学校」の設置と
●1894(明治27)上川盆地→各地のアイヌを近文(旭川)へ【36戸】
●1894(明治27)天塩川沿岸→名寄盆地のアイヌを内淵(名寄)ほかへ【29戸、102名】
内淵(拡大) 奥地に

●1894(明治27)保護地設定の為。十勝平野→平野内のアイヌを数ヶ所の保護地へ
●1895(明治28)新冠御料牧場の為、新冠郡滑若(ナメワッカ)村→同郡姉去・万揃2ヵ村【十数戸】
1872(明治5)開拓使は日高の地を牧場の適地とし同郡を中心に2億余万坪(現新冠町を中心にして西は沙流郡門別町から 日高郡新ひだか町静内にわたる地域)を牧場用地として選定した。アイヌは両地域で合計11ヵ村に117戸・535名が居住していた。
新冠牧場を設置するや集落は共にまるごと牧場内に取り込まれた。新冠中心部は肥沃の土地で、アイヌは農場内で農業に従事したり
強制移住平山地図178p 1872年(m5)開設。1888年(m21)天皇家所有、(帝国議会開設前)アイヌを姉去に集める。 1916年(t5)上貫気別へ強制移住。
(拡大)
牧夫として生活をしていた。宮内省御料局→宮内省主馬寮管轄となり新冠御料牧場に改名。 御料牧場内に取り込まれた滑若村のアイヌは 1901(明治34)新冠御料牧場を視察にきた皇族の 閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)に、先祖が開墾したアイヌの地をアイヌ民族に返還して欲しいと直訴したのである。 その要求は受け入れられず、他地域に強制移住させられた。
●1916(大正5)新冠御料牧場が宮内大臣管轄になり、宮内省主馬寮頭の藤波言忠が同牧場を視察した際、 姉去村を御料牧場直営の飼料用地と決定した。姉去村のアイヌ全員【70戸、300名】を沙流郡貫気別村上ヌキベツ (現沙流郡平取町字旭)の和人移住給与地だった地に強制移住させた。当時は雑木林に覆われた山中で、耕作可能な地は僅かであった。 その為、実際入植した20戸近くのアイヌのうち、耕作地の開墾が成功したのは15戸前後だった。
『アイヌ民族近代の記録』 480p昭和4年(1929)5月14日 
「新冠村姉去に肥沃なる土地を占有し安全に生活したる土人を、御料局の都合により何らの補助をも与えずして 交通不便の奥地に移住を強制したるものにして、普通一般の土人給与地とは趣を異にし居り 今風聞の如く該土地を土人と何ら関係なき補助移民に給与せむか、之等土人は生活の安定を求むるに由なく、益々官庁の措置を恨むに至るべきものと思料 せられ候」
山田伸一近代北海道とアイヌ民族 (拡大)

『アイヌ民族近代の記録』483p昭和3年(1928)11月10日 
「上貫気別給与地。姉去御料地内に居住したる土人を御料局の都合に依り他に転せしむが為に120戸分を区画給与したるものなりと云う。」 「区画給与せられたるは120戸分なるも、其の内急傾斜地等多く農耕適地は30戸に過ぎず。 故に入地せし者にて自己の給与地を耕作せるは10戸に過ぎず。」
▲強制移住を公式に認める記録。(2022.8.7メモ)

山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』286p
ここには(没収地には)宮内省主馬寮頭の藤波言忠が新冠御料牧場内姉去村のアイヌ民族に対する貸与地を牧場経営に利用することを構想し、牧場側の意向 を受けた北海道庁が、「保護法」による土地下付によってその代替地を確保したものが含まれている。言うまでもなく姉去での土地の「貸与」自体が 、従来のアイヌ民族の土地利用の自由を奪ったうえに成り立っていたものであり、この土地取り上げと下付はそのさらなる侵害を意味するものである。
山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』287p〜288p
ここで注目したいのは、地味・交通の便などにおいて好条件地であるという認識が、アイヌ民族への土地処分を回避する理由を構成する一要素に位置づけられて いるという点である。ここには「保護法」が「寛大」なものであると見る視線と、地域開発を重視し土地整理の都合を優先する態度が現れている。
▲山田研究、すばらしい!(2022.8.8)

弟子屈・屈斜路 (拡大)
●1896(明治29)屯田兵屋建築の為、門別郡湧別村ヌブボコマナイ→同地のアイヌを湧別川西岸へ
●1897〜1902(明治30〜35)弟子屈が御料農地となった為。弟子屈→屈斜路 (弟子屈コタンのアイヌを屈斜路コタンに移す



御料牧場解放運動1 榎森進『アイヌ民族の歴史』512〜513頁
御料牧場解放運動2 同 514頁
日本民族の一大汚点
『北の光』創刊号(2022.4.21)
▲「ここに新冠御料牧場の解放運動は大きな成果をあげて解決するに至ったのである(『北の光』創刊号)。」 と『アイヌ民族の歴史』514頁で括られている。私は疑問。この問題はもっと追求すべし。(2021.11.2)
▲その後図書館をお煩わせして『北の光』創刊号を読んだ。そこでは「日本民族の一大汚点」と総括されている。 このことは榎森先生にもお伝えした。(2022.4.21)


                    入 殖 詮 衡 委 員 会

入殖詮衡委員会記録
(拡大)
入殖詮衡委員会地図(拡大) ▲期農同盟の中心の芳住均氏はRを割り当てられている。大富161-6。現在芳住牧場。肥沃な地。 (2022.3.6)
芳住牧場 (拡大)
新冠御料牧場基礎資料1
『続新冠町史』276p

新冠御料牧場基礎資料2
『続新冠町史』275p
(拡大)

新川さん
2022.4.6
郷土資料館を訪問
▲新冠郷土資料館の新川剛生さんから「入殖詮衡委員会」の資料をいただきました。 その中に右下の地図がありました。(2021.12.24)
     給与地現況調査(拡大)
谷川健一編『近代民衆の記録 5 アイヌ』282p〜283p「北の光」
「昭和22年11月23日に、たった1年賃貸した故を以って、農革法の尺度に当てはめ、約束を無視し、実情の如何を問わず、 近隣の情誼もかまわず取り上げると言う如きは日本民族でなければ出来ない芸当だ。」
「農革法が公布されるや、北海道アイヌ協会は保護地に対し之が除外運動を掲げて起った。」
▲農革法により買収された土地1,217町歩。(2021.12.29)
農革法 https://www.garyusha.com/wp/?p=4267
「地主と小作農との間の契約で譲渡出来ることになつてゐた第一次の改革方式をやめて、 市町村農地委員会のたてた計画により政府が地主から土地を買収し、これを小作農に売り渡すといふ方式をとるようになつたことである」























『近代民衆の記録 5』 (拡大)
▲昭和23年6月現在の給与地現況調査。
姉去・万揃のアイヌ
「御料牧場は180町歩土地を用意しアイヌ1戸に2町歩前後の土地を貸与した。70戸ほど。」(山本融定60p)
▲戦後の御料牧場開放で少なくとも180町歩は姉去・万揃の土地を割り振るべきであった、と思われる。(2021.12.29)
『アイヌ民族近代の記録』

小川正人・山田伸一編
(拡大)

旧土人に関する調査
大正7年

558p(拡大)
農耕地適地5,384町歩。自作反3,088町歩。貸付反985町歩。買収反1,211町歩。 自作耕地以外、つまり小作に出していた貸付反985町歩と買収反の1,217町歩の合計2,202町歩は農地改革で没収された。
その不当性が「北の光」で詳述されている。
土地問題は
@地券発行
A御料牧場での開墾と戦後の開放に伴う入殖詮衡委員会の土地割り当て
Bさらに農地改革
と大きく3つの問題がありそう。(2021.12.26)

▲強制移住の問題は入殖詮衡委員会でも解決されていないようだ。食糧供給の為の御料牧場開放。 昭和22年に開放された面積は10,860町歩。(2021.12.27)
▲入殖詮衡委員会で取り扱われた面積は147町歩のようだ。(2021.12.28)

▲『アイヌ民族近代の記録』558p大正7年(1918)旧土人に関する調査より
土地の面積12,184町歩。うち旧土人保護法による給与地9,656町歩。
農耕地11,334町歩。うち既墾地7,852町歩。
農業戸数2,320戸(全戸数4,430)、人口10,377人(全人口18,664)。
この事実をまず念頭に置いておくこと。 (2021.12.28)
▲既墾地7,852町歩を農業戸数2,320戸で割ると1戸平均3.38町歩となる。(2022.4.20)

▲昭和23年(1948)6月現在の給与地現況調査では
農耕地適地5,384町歩。自作反3,088町歩。貸付反985町歩。買収反1,211町歩。
貸付反985町歩と買収反の1,217町歩の合計2,202町歩は農地改革で没収。

要するに自作反3,088町歩しかアイヌの人たちの元には農地がなかった。 仮に農業戸数2,320戸とすると平均1.3町歩となる。農地改革の没収2,202町歩がなければ3,088町歩+2,202町歩=5,290町歩となり平均2.3町歩となる。 1町歩の闘いだった。これも視野に入れておくこと。(2022.4.20)


▲副読本「にいかっぷ」に川越貢さんの強制移住の証言が掲載されている、とのこと。取り寄せること。 (2021.12.29)
▲年明け新川さんから届きました。小学校3年生用の副読本でした。よくわかります。副読本「にいかっぷ」と山本融定先生の『新冠御料牧場史』を 合わせて読みます。(2022.1.3)


姉去から上貫気別へ 山本融定『新冠御料牧場史』
58p〜59p


副読本「にいかっぷ」
 川越貢さんの証言1 
副読本「にいかっぷ」
 川越貢さんの証言2 

上貫気別から姉去へ2
アイヌ協会関係 22戸(2021.12.30)
川越きたさん証言「現在万世には川越武雄・清水梅吉・川越貢の3戸位でしょうか。」 山本『牧場史』252p 254p

▲一通の嘆願書の問題は「詮衡委員会」では解決されていない。この問題の解決方策を瀧澤先生 に相談しなければ、と思う。(2022.3.7)


川越貢さんの現在
万世80-2(拡大)
上貫気別から姉去へ1
「詮衡委員会」ではアイヌ協会へは30町歩しか割り当てられていないようだ。(2021.12.30)
山本『牧場史』250p〜251p 
アイヌの人の入植地は万世
(拡大)
「戦後40年経っての和解。」
 山本『牧場史』121p〜122p 

大富姉去橋付近 (拡大)






















芳住さんと川越さんの割り当て面積の比較 (拡大)
芳住牧場と川越さんの位置と距離 (拡大)
▲以上のように土地問題は余にも多くの問題を今も孕んでいる。(2021.12.30)
▲明治5年の地所規則から昭和22年の入植詮衡委員会までを丁寧に検証する必要がある。(2022.1.3)
▲これまでの調査結果を自分なりにまとめること。(2022.1.4)
土地台帳によると芳住均さん、旧姉去(現大富)の土地、面積24,412u (2.4ha)。
川越貢さん、旧万揃(現万世)の土地、 面積11,636u (1.1ha)、芳住さんの約2分の1。詮衡委員会の詮議衡平の名に悖る割り振り。
上の土地地図は比較のため大富の地図と万世の地図を近づけてスキャンしてます。(2022.4.19) 右上は芳住牧場と川越さんの位置と距離です。1.2q。なお姉去から御料牧場まで約10q。毎日歩いての通い。(2022.4.20)

ここまでの事実確認を「一通の嘆願書」「瀧澤研究」と結びつけると以下のようになる。

「一通の嘆願書」
大正14年3月の文書
明治25年頃下姉去に移した。戸数は七十戸ばかり。
姉去に移ってから我々は御料の農園に労働をするあいまあいまに御料の言いつけで 姉去、万揃、去童などの新地250町歩ばかりも伐木して開墾。
明治36年頃10年間一しょけんめいに開いた250町歩の耕地を無理やりに取り上げてしまいました。
我々が開いた250町歩の内、我々に二、三町歩づつ貸した土地は全部で120町歩位。残り130町歩位の土地は御料から借りて奥山吉五郎、浅川義一、宮下丹次郎、近藤信吉、 温泉茂平と言う人々が 自分も耕作し又他の人々に又かしをして利益を取って居りました。

「瀧澤研究」
資料@の地図(拡大)
今日、地理院地図で確認する。(2022.2.8)
新冠町古岸102番地の土地台帳で確認。21,239u・所有者下山実さん
瀧澤正先生資料@

明治31年12月5日の文書
明治27年中、姉去、万揃に転宅。荒地2町歩宛て割り渡しを受ける。開墾。
明治31年9月大洪水。別紙図面の箇所、即ち27年まで私共開墾したる元の畑地1戸2町歩宛て拝借の儀 (地図を見ると拝借の場所は古岸、万世、明和の250町歩と思われる)。

「一通の嘆願書」と「瀧澤研究」を合わせると明治25年頃の姉去への移住、250町歩の開墾、「一通の嘆願書」では約120町歩の貸与、 明治31年12月5日の文書では250町歩、その場所は31年の図面通り、明治31年の文書のほうが信憑性が高い。
このような事実がまず見えてくる。 そして貫気別への強制移住と戦後の帰還の際「詮衡委員会」の出した結論が今をつくっている。
「詮衡委員会」は歴史的経緯を考えれば31年の図面に基づき衡平な措置をとるべきであった、と結論づけられる。(2022.4.22)


▲土地問題
▲以下に調査・研究した結果を要約しました。 明治5年の地所規則から明治30年の国有未開地処分法までが土地問題の大きな物語であると理解できました。(2022.1.7)
つぎは強制移住です。今日の作業です。(2022.1.7)

地所規則2 (拡大)明治5年
地所規則1 (拡大)明治5年
▲「地所規則」は
第1条で大原則である、私有地に地券を発行すると宣言し、
第7条で「土人」の漁猟伐木の地も持ち主、村請に区分して地券を発行すると、
第8条で原野山林は官属にし、(今後)売り下げて地券を発行し私有地にすると決める。これは先住民族権利宣言28条に違反している。
それはさておき第6条の地代上納に及ばず、の意味が理解できない。(2022.1.5)

地券発行条例45条 (拡大)明治10年
地券発行条例16条 (拡大)明治10年
地券発行条例1条 (拡大)明治10年
▲地券発行条例第16条は第1条・第45条の原則に矛盾する。

45条では「耕地宅地は何人に拘わらず人民各自之を所有せしむべし」となっている。
しかし第16条で「旧土人住居の地所は当分総て官有地第3種に編入すべし」としている。45条「何人に拘わらず人民各自之を所有せしむべし」 と矛盾する。(2022.1.5)



国有未開地処分法3条勅令 (拡大)明治30年
国有未開地処分法 (拡大)明治30年
▲明治30年の国有未開地処分法。マネーロンダリングという言葉があるように、国有未開地処分法は全く明治政府による土地ロンダリング。アイヌの土地を官有地とし、 それを企業・法人に開発を条件に無償払下げ。 なんという露骨な明治政府と資本家の饗宴だろう。明治41年までに饗宴に使われた土地は183万町歩。北海道の全面積の20%強。 (2022.1.5)


▲土地問題に関する鈴江論文
▲幸運にも下記論文に出会う。(2022.1.5)
▲鈴江論文は土地問題の大枠を理解するのに大変役立つ。(2022.1.13)

鈴江 英一 「辺境に蓄積するアーカイブズ」―内国殖民地北海道の文書における国家と地方―アーカイブズ学研究 No.20 (2014.5)
79頁
「明治維新政府の北海道経営とは、資源の国家独占と、その後の資源再分配であった。」
85頁
「近代初頭の諸村が近世的村秩序から脱却し、村内に一人持(私有財産化)が貫徹されていくという、近代 への移行期の様相を窺うことができる。」
85頁
「3−2.国有未開地¥分における国家の自由
次に第二の国有未開地¥分を「地所規則」による土地の国家独占と分配に見ることとしよ う。1872 年(明治 5)9 月付開拓使布達 「地所規則」は、原野山林などについて、私有化を次の ように規定する(以下、下線は筆者)。

「第七条 山林川沢従来土人等漁猟伐木仕来シ地ト雖モ、更ニ区分相立持主或ハ村請ニ改 メ、是亦地券ヲ渡シ爾後十五ヶ年間除税、地代ハ上条ニ準ス可シ。尤深山幽谷人跡隔絶之地 ハ姑ク此限ニアラサル事」
「第八条 原野山林等一切ノ土地官属及ヒ従前拝借ノ分、目下私有タラシムル地ヲ除ノ外都 テ売下ケ地券ヲ渡シ、永ク私有地ニ申付ル事」(1872 年(明治 5)9 月開拓使布達「土地売 貸規則」第 1 条)

さらに 1877 年(明治 10)12 月 13 日、「地券発行条例」第 15 条及び第 16 条(開拓使達第 15 号。開拓使乙第 25 号布達「地所区分制限及ヒ地券申請証印税収納等ノ条款」第 2 条など)では、 原野山林の官有地化、「旧土人」(アイヌ民族)にかかる地所を次のように規定した。

「第十五条 山林川沢原野等ハ当分総テ官有地トシ、其差支ナキ場所ハ人民ノ望ニ因リ貸渡 シ或ハ売渡ス事アルヘシ」
「第十六条 旧土人住居ノ地所ハ其種類ヲ問ハス当分総テ官有地第三種ニ編入スヘシ。但地 方ノ景況ト旧土人ノ情態ニ因リ成規ノ処分ヲ為ス事アルヘシ」
注)官有地第三種は、旧官有地、堤塘、道路、鉄道敷地、人民の所有権を失った土地な どで、地券を発行しない。

「地所規則」「地券発行条例」の制定によって、北海道内における所有権未確定の土地の官有化と 個人への所有権付与が法的に根拠づけられた。

その後、1886 年(明治 19)1 月 26 日に北海 道庁が設置されると政府は、同年 6 月 29 日に「北海道土地払下規則」(閣令第 16 号)を制定す る。さらに 1897 年(明治 30)3 月 30 日付で「北海道国有未開地処分法」(法律第 26 号。旧法) を公布した。同法は、また 1908 年(明治 41)4 月 15 日、全文改正がなされている(法律第 57 号。新法)。これらの法令によって無主≠フ土地を国有未開地≠ニして処分、民有化することになる。」

「無主の地」の払下げ状況
国有未開地払下処分の進行 ▲明治19〜29、明治30〜41、明治41〜大正8の10年単位。 明治30年からの10年は貸与地が急増。明治40年からの10年は売払等が急増。王子製紙払下げ明治39年、40年。前田一歩園明治43年。 明治37年、38年、日露戦争の為の国債乱発。引き受け手としての官有地の払下だろう。つまりアイヌ民族の土地を没収して戦費を賄ったということ。(2022.3.7) (拡大)
戦費・帝国書院 統計資料 https://www.teikokushoin.co.jp/statistics/history_civics/index05.html
明治37年(1904)673,020千円 予算の81.9%
明治38年(1905)730,614千円 予算の82.3%
明治39年(1906)378,736千円 予算の54.4%
▲このあと予算の50%以上になるのは昭和11年(1936)日中戦争前年。
▲明治37〜38年 国債4.8億円 ポンド債8200ポンド(8億円)発行(1904年 1000万ポンド=9763万円) イギリスのポンドで日露戦争を遂行した。(2022.3.8)
▲帝国書院 統計資料を見ると明治元年(1868)から昭和20(1945)年までの77年間日本は軍事国家であったことが予算から見えてくる。 帝国憲法公布の1889年29.6%、以後30%を下回ることはない。1905年日露戦争で82%、太平洋戦争敗戦前年の1944年は85%。(2022.3.8)

王子製紙
社史
(拡大)
「国家の自由≠ネ国有未開地払下処分を 前提として、大農場、屯田兵村、会社・組合移民、一般 移民の開拓が進行し、図 12 関秀志原図「北海道移住・ 開拓図」に見るように、1910 年代までには開拓地が北 海道を充填し、未開拓の空白部分は山岳地帯のみとなっ た。」
▲ロンダリングにつかわれた土地は、上記「国有未開地払下処分の進行」 に見るように北海道面積834万町歩の1/2の415万町歩だった。明治政府もやりますね。 100年経ちましたがこのredressはきちんとやらせてもらいます。鈴木栄一論文はすばらしい!(2022.1.6)
▲この払下げの大きなものをリストアップできないか?(2022.1.23)
●王子製紙苫小牧1906年(明治39)133万6000坪=441ha無償。王子製紙社史より(2022.2.2)
●三井物産が北海道に保有する社有林(約35,000ヘクタール)(2022.2.3)
●以下HPより。王子ホールディングが圧倒的。(2022.2.4)

王子木材緑化社有林 127,000ha(拡大)
住友林業社有林 18,000ha(拡大)
マテリアル社有林 11,431ha(拡大)
三井の森社有林 35,692ha(拡大)
三井の森社有林
35,692ha(拡大)
▲琵琶湖の広さ67,000ha。4社の社有林192,123ha。琵琶湖2.9個分。
▲昨日社有林を調べました。上記が主だったものです。redressの方向が見えてきました。まず社有林取得のいきさつを企業に深く自覚してもらうこと、 それを踏まえたうえでの企業とアイヌの人たちのイオル的生活の復活の調整がredressの内容だと考えるようになりました。(2022.2.5)

王子製紙社有林
北海道の所在地 地図
『王子製紙社史 資料編』147p(拡大)
王子製紙社有林
山林別面積
『社史 資料編』146p(拡大)
王子製紙社有林
山林別面積(拡大)
『社史 資料編』147p
105箇所
101,851ha
(1997.4.1現在)
王子は理想の地発見(拡大) 苫小牧村は道庁長官に誘致の陳情 『社史 本編』45p
年表から『社史 本編』512p〜

1904年(明治37)
9月、新工場建設地を求めて北海道へ渡る。
1905年(明治38)
3月、水力工場新設と製紙業経営の許可を北海道長官に出願、4.15認可。
年表つづき

1906年(明治39)
6月、落合、鵡川、阿寒、愛別、天監、斜里、厚岸の 官有林払下げを北海道庁長官に出願。工場敷地として苫小牧村未開地47万坪余の売払願書を北海道庁長官に提出。
6月、第2発電所用水利使用願提出(7.16認可、苫小牧)。
7月、苫小牧川漁業権を一時金50円にて永久譲受。 9月、苫小牧村未開地33万7000坪(111ha)および99万9000坪余(333ha)の2口無償借受認可。
1907年(明治40)
6月、鵡川、沙流、厚岸各官有林払下げを出願(10.15認可)
年表つづき

1908年(明治41)
5月、苫小牧工場の建設に着手。 8月、工場―支笏湖間に敷設の専用軽便鉄道運転開始
1909年(明治42)
11月、千歳川水力発電所用堰堤工事および水溜工事竣工。 12月27日、工場建物全部完成。
1910年(明治43)
6月24日、チップ製造開始。9月12日、苫小牧工場開業(営業活動開始)
1911年(明治44)
5月、三井物産と、同社所属の苫小牧―佐瑠太間軽便鉄道の共同経営を契約
1913年(大正2)
7月、苫小牧軽便鉄道(株)設立
12月、十勝官有林年期払下売買契約を北海道庁と締結
王子製紙苫小牧工場 敷地50,799坪(16.8ha)(拡大)
支笏湖・苫小牧20q
地図(拡大)
王子製紙王子工場
如水会報2022.2(拡大)













▲明治37年から明治43年の開業までの王子製紙苦闘の7年間。北海道の未開地・官有林払下げ、水利権利用、漁業権買い取り、 軽便鉄道・発電所設置等すべての問題が王子製紙に凝縮されている。課題と今後を考えたい。
社史を読む限り苫小牧の地がアイヌモシリ(ヤウンモシリ)であったことは全く意識されていない。 北海道の各市町村の町史・市史も同じ。和人の開拓の苦労から歴史が始まっている。この社史も同じ。
琴似発寒川西野13条8 ▲手稲山に王子製紙の森がある2022.6.29訪ねる。(拡大)
王子製紙の山 ▲人家が迫っている。活動には適している。王子木材緑化の手稲鉱業所 「岩石の採掘及び製品製造。建設・工業用資材等に活用されています。」とHPで。ここまでやるのか、との感想(2022.7.3)(拡大)
苫小牧村略図 ▲明治45年時点で御料林、大学演習林だけが決まっていてあとは植樹適地、 牧場適地、水田適地、畑適地と色分けされているだけ。(拡大)
王子製紙の鉄道 ▲沙流軌道が見える。(拡大)
明治43年の開業後、沙流川流域でどれだけの犠牲・災害が山の伐採のために起きたかは触れられていない。その歴史を踏まえたうえで 共生の方向を考えるべき。(2022.2.16)
おそらく大正2年の苫小牧軽便鉄道(株)設立後のことだと思う、二風谷の上流で伐木が進み川の氾濫が起き被害が大きかったことは 萱野さんの著書にも書かれている。(2022.2.17)


平取3者協定 ▲平取町の吉原さんから3者協定を送っていただきました。 一歩も二歩も前進ですがやはり国有地の返還、先住権の承認が前提となるべきだと思います。 (2022.3.5)(拡大)
▲『レジリエントな地域社会』2020.3発行 20p貝澤耕一さん
「私が国際森林年の札幌フォーラム(2011.11.23)で発表した際に、 アイヌの土地を返して欲しい、と言ったことがきっかけで、林野庁の森林管理局と、 平取町の国有林をアイヌ文化伝承に使うための取り決めができました。」
この「取り決め」を入手すること。ヒントがありそう。 (2022.2.26)


▲右の3者協定は平取アイヌ協会、森林管理局、平取町の3者協定。さらに平取アイヌ協会、三井物産、平取町の3者協定も結んでいるか。 吉原さんに確認すること。もう一歩、門別漁協とはどうか。(2022.3.15)
▲昨日吉原さんに確認できました。鮭の遡上、三井物産のこと、常本論文のこと、旭川市のこと、貴重なお話を伺うことができました。(2022.3.16)

76頁
図 1 に掲げるのは、近代初頭の北海道 の歴史的・地理的・政治的状況を反映し た、明治維新翌年を刊記とする松浦竹 (武)四郎「北海道国郡全図」である。 この年 1869 年、明治維新政府は、開拓 使を設置し、「蝦夷地」を「北海道」と 命名し、国・郡名を命名した(道・国・ 郡名は「北海道国郡全図」の作者松浦武 四郎の考案とされている)。

松浦武四郎 は、ヨーロッパの地理学の成果を踏まえ つつ、オホーツク海を中心に北海道本 島、樺太、千島列島を一幅の図に納め た。この図は、今日眼にする日本の多く の地図と異なり、本州を最上部に位置さ せ、北を下部に南を上部に描き、通常見 ている北海道が上下、逆さに描かれてい る。全体は、ロシアの地図を下敷きにし て作成した図といわれており、北海道本 島は、内陸を含めて地形を概略記載し、沿岸の地名を記載している。南樺太は当時、日露雑居の 地となっており、国境は画定していなかった。一方、中部・北千島はこの時点では、ロシア領で あったが、1875 年(明治 8)、樺太千島交換条約によって、日本は、南樺太の領有権を放棄し、 千島列島全域を領有することになる。この「北海道国郡全図」は、樺太千島交換条約以前に作成 されているが、北海道と同じ手法をもって、全千島、全樺太も内陸の山川が描かれている。見慣 れない北海道とその周辺図であるが、その余白を利用して、北海道に関わった政府高官、民部卿 伊達宗城の題言、初代開拓使長官鍋島直正の詩、2代長官東久世通禧の和歌を挿入している。
ここでとくに取り上げるべきは、鍋島の讃「赫々中興、威被遐域、爰経爰営、以定郡国、厥 男知耕、厥女知織、皇化所霑、陋俗如拭」である。その意は、「輝かしい中興(王政復古) によって威勢は遠国をも被い、この地域を経営することとなり、国郡を定めた。異境の男は耕作 を知り、異境の女は織ることを知る。かくして皇化によって恵み潤うところとなり、未開の風俗 は拭い去られる」というのである。国家の支配が北海道に及び、アイヌ民族を含めてこの地域が 皇威≠ノ服すことによって文明化するとの意である。
北海道という名称を選定し、国内にふさ わしく国名、郡名を付すという、まさに帝国の拡大≠ヨの志向をこの詩は表出している。
▲松浦武四郎が新政府に掛けた期待の大きさが鍋島のこの詩を明治2年の地図に書き込ませたと思う。 しかし翌明治3年に開拓使の職を辞すると共に、従五位の官位を返上した、とウイキペディアで確認。信念の人。(2022.1.6)
▲土地問題の大きな物語はほぼ見えた。つぎは強制移住の典型を拾う。(2022.1.6)
▲大きな物語のつぎは強制移住です。今日の作業です。(2022.1.7)

参照:「強制移住」のまとめへ飛ぶ
▲強制移住問題
▲強制移住の取り上げるケースは@樺太アイヌ、千島アイヌの場合。A旭川の近文。B新十津川村の成り立ち。C新冠御料牧場の姉去から 上貫気別への大正5年の移住。D釧路市街から鶴居への移住。
@は日露の領土問題に関連。Aは帝国軍隊の師団設置。 Bは朝廷と特別な関係にあった奈良県十津川村の災害対策。Cは御料牧場の整備。Dは釧路の和人の街づくり。


まずD釧路のケース。
1885年(M18) 釧路アイヌ民族27戸を釧路から60キロ北の山中の阿寒郡セツリに「強制移住」。 鶴の飛来で有名になっている鶴居村にセツリ地区はあります。
弟子屈・屈斜路 (拡大)
鶴居村セツリ (拡大)
釧路・鶴居 (拡大) 
▲釧路の海で生きてきたアイヌの人が60キロ山奥でどうして暮していけるのか。 強制移住には生業の大変さが全く配慮されていない。(2022.1.7)
釧路市史を見ること。(2022.2.26)

小樽のアイヌを参照(2022.2.27)

つぎにB新十津川村の成り立ちのケース。
1890(明治23)樺戸郡トック原野→各地のアイヌをウスシベツへ【11戸】
明治22年奈良県吉野川一帯が豪雨の為に大被害を受け、十津川郷6ヵ村、和人600名の住人が北海道に移住する事となり、 その入植地がトック原野だった。その後、石狩川の氾濫や十津川移民の開墾の進展等あり、 1910年(明治43)十津川村(移民が開墾した地)奥地のワッカウエンベツに集団移転した。
ワッカウエンベツ(拡大) 新十津川町の更に奥地 ワッカウエンペツ区画地図
ウスシベツ土地台帳1  ▲買得者の名前、伏せた方がよい。人権問題に発展し兼ねない。(2022.2.2)  
ウスシベツ土地台帳2  ▲買得者の名前を見えなくするために(拡大)を止めます。 
ウスシベツ(拡大) 新十津川町の中心街
正に地形がトック凸の形
『新十津川町史』より

ワッカウエンベツ
土地台帳 
(拡大) 
▲ ウスシベツ土地台帳を見ると アイヌの人たちが付与されたのが明治32年12月4日。26人。一人(1戸)5町歩。かなり広い。しかし 翌明治33年1月6日には和人が買い取っている。多くが33年の1月中に和人の手に渡っている。明治43年1月25日はすべて和人の手に渡ってしまっている。 明治43年8月1日ワッカウエンベツに14戸が移住している。この事実から何を考えるべきか。(2022.2.1)
▲「土地台帳」が確実な手掛かりになる。姉去でも「土地台帳」を調べられないか。(2022.2.1)

給与地は蛇行部分の上部 『新十津川町史』(拡大)
蛇行部分が袋地に変化 グーグル地図(拡大)
給与地は袋地の上部分・現在は田んぼ
地理院地図(拡大)









更には@樺太アイヌ、千島アイヌの場合。ユポさん年表から
1809年 幕府、ソウヤのアイヌ民族が「サンタン人」に対する「古借」を返済。「カラフト」を「北蝦夷地」に改称。 松前奉行が西蝦夷地「クドウ」場所から「北蝦夷地」に至る各場所詰めの幕吏に対して、 以後各場所のアイヌの「乙名」達を3年に1回宛松前奉行に御目見させるよう厳達。
1815年 5年に1回宛松前奉行に御目見を命ず。
この命令によって幕府は、東は「エトロフ」から西は「北蝦夷地」に至る「蝦夷地」全域の アイヌ民族の首長層に対する松前奉行への御目見体制 を名実共に整備・完成させたわけで、 こうした体制の整備は、「カラフト島」のアイヌ民族を「日本に従属した民」として 位置づけるうえで歴史的に大きな役割を果たした。
日露和親条約 国境線 北千島→色丹島 (拡大)
1853年 幕府、ロシアとの領土交渉(「大日本古文書幕末外国関係文書之三」) 「アイヌは蝦夷人のことにて、蝦夷は日本所属の人民なれば、アイヌ居り候ところは即ち日本領に候」
1854年 「日露和親条約」締結。 エトロフ(択捉)島とウルップ(得撫)島の間を国境とする、樺太は雑居の地とする。 (ロシア、樺太の国境画定をせまる)・ 箱館が開港
1875年(M8)
対雁 石狩川河口から25q上流、千歳川との合流あたり(拡大)
「樺太・千島交換条約」締結(5月7日)・ 樺太はロシア領、千島を日本領とする。
9月9日〜10月1日 樺太アイヌ民族92戸841名を宗谷に「強制移住」。
10月7日 石狩原野へ再移住を指示(アイヌ民族、移住反対上申書を開拓使に提出)。
翌年6月13日から官憲を動員して小樽経由で石狩国 対雁(ついしかり)に「強制移住」。
1884年(M17) 北千島アイヌ民族97人を、色丹島に「強制移住」。 6月30日〜7月6日(支度に2日間)
1886年(M19) 対雁(ついしかり)の樺太アイヌ民族、コレラと天然痘で300人死亡
▼wp:1887年(明治19年)にコレラと天然痘が流行し、移住した樺太アイヌの40パーセントが死亡した。 山辺安之助は「明治十九年の夏から秋まで段々激烈になって冬から春にかけて物が沈んでゆくように 親戚の人や友達が後から後から私を置いて世を去った」 (『あいぬ物語』)と語っている。
▼「物が沈んでゆくように」…、つらい。読むだけでもつらいのに、書くことはもっとつらかっただろう。 ご冥福を祈ります。 この人たちの無念もふくめて今を生きる和人として償わなければならない。(2019.2.5)
1888年(M21) 色丹島の北千島アイヌ民族5年間で97人のうち45人死亡
1905年(M38)日露戦争で南樺太を手に入れる、樺太アイヌ帰国 ▲30年振り(2022.2.3)
1945年に戦争が終結して、多くの日本人が(樺太=サハリンから「内地」に)引き揚げてきます。 その中に樺太アイヌも「引き揚げ」……てはきません、「移住」してきます。(樺太アイヌ協会の田澤守さん)
旭川・近文 (拡大)
旭川地形図 (拡大)
旧土人開墾予定地 橙色部分(拡大)
▲この「開墾予定地」の地図に「近文アイヌの移転先」を重ねと移転先が見える。 (2022.3.17)

第七師団関係記録(拡大) 『新旭川市史2巻』21p
▲日清戦争後の陸軍大拡張計画に基づき最初の師団として明治29年(1896)創設された。 (2022.4.18)
▲日本政府は樺太アイヌ、千島アイヌの人たちへ最低「謝罪」は必要でしょう。 (2022.2.5)

つぎは旭川・近文 強制移住の近文
▲給与地の問題と第七師団の創設を並行させて分析すること。(2022.2.11)
旭川市鳥観図1 1930年(拡大)
石狩川右岸に近文駅、第7師団
旭川市鳥観図2 (拡大)
忠別川右岸に市街地
旭川市鳥観図3 手前上川神社、遠くに大雪山
第7師団は1885年(明治18年)に北海道の開拓と防衛を兼ねて設置された屯田兵を母体とし1896年(明治29年)5月12日に編成された。
1898年1月からは全道11ヵ国に徴兵令が施かれた。もともと北海道の中央、上川地域に師団司令部を置き、 ここに大兵団を設けて北方警備の中心地とする計画であったため、7月16日の鉄道開通後の1899年、敷地を買収、 6月から兵舎その他の工事を始める。[3]
上川アイヌコタン 36戸のコタンの場所
2020.6.2「あさひかわ新聞」(拡大)
旭川のポロメムとポンメム@


明治期の鉄道開業 苫小牧市史編纂室蔵
上川郡戸口明治23年〜35年(拡大) 43戸(202人)〜11,198戸(49,366人)
▲圧倒的な数の和人が旭川に押し寄せた。200人の村に49,000人が怒涛の如く押し寄せた。 勝手に軍事基地を造り、市街地を造った。その中での強制移住の問題。和人にはアイヌの人など眼中になかっただろう。 (2022.3.15)
●1894年(明治27)近文アイヌ36戸に、給与予定地150万坪(500ha)のうち49万坪(160ha)を割り渡す。
●1899年(明治32)「北海道旧土人保護法」制定(1万5,000坪(5ha))以内の土地を無償付与、教育・共有財産管理などを規定)。 大倉組、鷹栖村字近文で第七師団建設請負工事着工(1902年竣工)
●1900年(明治33)道庁、近文の給与予定地の大倉組への払下げを決定し近文アイヌに天塩への移転を命じる(第1次給与地問題)。 鷹栖村総代人ら、近文アイヌの給与地移転に反対し「旧土人留住請願書」を道庁に提出(2月)。 鷹栖村有志とアイヌ代表上京、政府要人に給与地移転中止を陳情(4月)。 道庁長官、近文アイヌの留住を認める(5月)。

1901年10月30日、師団司令部、師団監督部、旭川陸軍糧飼部、旭川陸軍経営部が、上川郡鷹栖村大字近文歩兵第28連隊兵舎に移転[4]。
1902年10月21日、師団司令部は鷹栖村大字近文の新築庁舎に移転した[5](現在の旭川駐屯地の近く、春光4条7丁目)。
同年10月25日、師団法官部、札幌衛戍監獄が鷹栖村大字近文の新築庁舎に移転[6]。
▲第2次給与地問題の本質は? 移転嘆願書の内容を知ること。「旭川町史」を勉強すること。(2022.2.17)
移転先 木戸調「旭川における…民族運動の変遷」
https://www.cais.hokudai.ac.jp/wp-content/uploads/2019/07/ainureport06_01.pdf
上川アイヌ (拡大)
近文・永山・忠別川
8キロ四方に点在

石狩川右岸・左岸
と忠別川流域
上川盆地のアイヌ地域集団 石狩川の合流点が川尻ケシ(尻)ウンクル。 石狩川の上流をパ(上)ウンクル。忠別川辺りをペペ(水たまり)ウンクル
移転嘆願書786p 第2次給与地問題
移転嘆願書787p 『新旭川市史3巻』
移転嘆願書788p (拡大)









●1903年(明治36)近文アイヌ38人、道庁に移転嘆願書を提出(第2次給与地問題)
●1906年(明治39)道庁、旭川町にアイヌ給与地として46万坪(150ha)の貸付を許可 (旭川町はアイヌに1戸当たり1町歩を貸し付け、残地は和人に有償で貸与)
▲第1次の給与地の場所と違う場所のようだ。ここで期限付きの貸与を許可されたようだ。 その期限が昭和7年に切れることで第3次給与地問題が起きたようだ。 「町史」で詳しく辿ること。(2022.2.19)
第2次給与地問題 木戸調 論文(拡大)
木戸論文で明らかになったのは「移転嘆願書」の内容のように実現しなかった、 天川構想の枠内で移転だけがなされた、ということ(2022.2.25)
▲『新旭川市史』の移転嘆願書を読んで次のことが分かりました。
@近文は狩猟民族には豊かな地であった、農耕では生きていけない
A狩猟文化と農耕文化の衝突・出会い、縄文と弥生の出会った場面 もこのようだっただろう、と想像した。
B出願地域を知ること。
贈与でなく30年の期限付き貸与でこの場面を道庁は収めた。30年後の「保護地処分法」制定で貸与が下付に切り替えられた。流れは理解できた。 (2022.2.20)

▲移転嘆願書で求めているのは狩猟民族として生きていける場所だったと思うが、実際は市街地に近い所。 これでは単に市街地化のための移転ではないか、と思う。(2022.2.23)
▲天川主導の移転嘆願書だった。狩猟民族として生きていけるような文言は「甘言」だった。 (2022.2.24)
安政期前後の上川アイヌ居住地 「新旭川市史」310p
▲元々は安政期前後の地図のように石狩川のかなり上流までコタンがあった。 それが最終的には近文の第7師団近くの鷹栖寄りに移転させられた、ということ。(2022.3.18)

移転先の現在地? (拡大)
近文アイヌ移転先 (拡大)
▲移転先は市街地から離れ、広さも150haから51haへと狭くなり、 100haの共用地問題という厄介な種を宿した。(2022.3.18)
この給与地に琴似栄太郎さんの名前が見える。(2022.3.30)
開墾予定地 前・後 (拡大)
▲橙色部分「開墾予定地」(150ha)の地図に右の「近文アイヌの移転先」(51ha) を重ねと移転先と広さが見える。(2022.3.18)
琴似栄太郎居所 (拡大)
▲琴似栄太郎居所 上から2段目 模範農場 川上コヌサアイヌ 琴似栄太郎 (2022.3.31)
●1932年(昭和7)アイヌ給与地の旭川市への貸付期間満了に伴い第3次給与地問題発生。 旭川市会議員・近文アイヌ代表、給与地付与を求めて上京、各方面に陳情(4月)。 近文アイヌの荒井源次郎ら上京、陳情運動を行う(6月、11月)
●1934年(昭和9) 「旭川市旧土人保護地処分法」制定(近文アイヌ49戸に、1戸当たり1町歩の土地を付与、残地は共有財産)
▲第七師団が進駐した後も給与地問題がつづいている。その真相は?(2022.2.11)
▲『アイヌ民族近代の記録』を読みはじめました。
近文実行委員会1 第3次問題(拡大)
近文実行委員会2 第3次(拡大)
近文実行委員会3 第3次(拡大)
明治以降の本格的な闘いは近文土地問題がはじめてだとおもいます。 これまで旭川は違う、との印象を持っていましたがこの闘いの歴史が受け継がれていることに気づきました。 上記「近文実行委員会」の記録はすばらしいです。これからの裁判闘争のお手本になります。(2022.2.18)
▲明治以降の本格的な闘いは既に十勝で起きていました。1892年。井上勝生 ページ参照。(2022.2.28)
▲旭川アイヌの人たちは特別の歴史を持っているようだ。「町史」を研究すること。小樽、ひだか、苫小牧、強制移住で取り上げた町はすべて「町史」 でおさらいをしておくこと。(2022.2.20)


最後は御料牧場
▲「ここに新冠御料牧場の解放運動は大きな成果をあげて解決するに至ったのである(『北の光』創刊号)。」 と『アイヌ民族の歴史』514頁で括られている。私は疑問。この問題はもっと追求すべし。(2021.11.2)
▲その後の私の調査。 まず何よりも一通の嘆願書の問題。それを受けての瀧澤先生の研究、ここから入っていく。(2022.2.20)
嘆願書
「二、明治二十五年頃かと思ひますが、新冠御料の黒岩場長殿が牧場のために我々があちこちと 散在して居ては都合が悪いというて永いあいだ住んでおった土地も無理に取り上げて下姉去に移した」
「三、其の時黒岩場長殿の 申し渡しにはお前達に永久無料で給與地を貸すから」
「四、姉去に移ってから我々は御料の農園に労働をする あいまあいまに御料の言いつけで 姉去、万揃、去童などの 新地二百五十町歩ばかりも伐木して開墾しました。」
▲確認できる事実。明治25年頃。永久無料貸与の給與地。姉去、万揃、去童で250町歩開墾。
万揃村(川左岸) → 明和(明和牧場)、万世、大富
去童村 (川右岸)→ 古岸、緑丘、朝日、高江
姉去村 (川左岸)→ 大富、朝日(ここだけ右岸 優俊記念館)、東泊津、
▲上流の明和・古岸から下流の東泊津・高江まで約9キロ。 川を挟んで両岸200bくらいで開墾地は250町歩(250ha)ほどになる。
万揃村(川左岸) 明和・万世(拡大)
万揃村(川左岸) 大富(拡大)
去童村(川右岸) 古岸・緑丘(拡大)
去童村(川右岸) 朝日・高江(拡大)
姉去村(川左岸) 大富・朝日・東泊津(拡大)






瀧澤先生の研究
瀧澤正先生資料@ 瀧澤正先生資料@
資料@の地図(拡大)
地図の面積149町歩
元々明治27年に開墾した土地のうち洪水被害の後、 当該地を31年に拝借願いを提出。許可されたようだ。(2022.2.21)
私共開墾このあたり? 資料@の地図の場所は新冠川を挟んで優俊記念館から 明和牧場までのあたりとおもわれる(2021.12.2)
手書き地図の現在地(拡大) 今日、地理院地図で確認する。(2022.2.8)
古岸102番地
グーグル(拡大)

▲新冠町古岸102番地の土地台帳で確認すること。姉去橋から上流3.6q明和橋から下流900m。 新冠川右岸の場所。(2022.2.10)
▲一通の嘆願書、瀧澤研究の事実、この事実のredressをどのように考えるべきか。全般的な土地問題は国有地の返還、 民有地の地代相当額の毎年の支払いによって償われる。 強制移住はいまとなっては「事実の確認」と「謝罪」でしかredressできない問題か。(2022.2.22)

▲「強制移住」に関する小川正人論文
▲下記の1991年の小川正人論文は「強制移住」の政策の背景・根拠を理解するのに不可欠。 (2022.1.13)
小川正人 「アイヌ学校」の設置と「北海道旧土人保護法」・「旧土人児童教育規程」の成立―「強制移住の概観」 北海道大學教育學部紀要, 55, 257-325(1991-03)

https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29364/1/55_P257-325.pdf

273頁
(3) 居住地の「後退」、強制移住とアイヌの生活破壊
@ アイヌ居住地の「後退」
「蝦夷地」が北海道となって,移民が旧「和人地」以北へも入り込むようになり,
「和人地」拡大の歴史(拡大) 海保峯夫『日本北方史の論理』192p
▲「和人地」はせいぜい渡島(おしま)半島の久遠(くどう)〜長万部(おしゃまんべ)だろう。 (2022.1.9)

各地に,順次,集落や市街が形成されていった。
初期の移民には,アイヌの道案内によって入植し得た者が少なくない 。そして. 「最初に住 みついた和人…が入地したのは明治20年ころのことで,アイヌ人ははじめて見るシャモに好奇の 目を見張って小屋まで見物に来る者が多かった」ようなことに始まって,アイヌが移民と食 料の交換をしたり. 「ヒエの作り方,食べ方はコタンから教わったものです」というように生 活の援助をしたりしたことも,かなりあったようである。だが,移民の増加による集落や市街地 の形成によって,アイヌは自分たちの漁猟の場ひいては生活自体を脅かされることになる。 「この付近にはかなりのアイヌ人が住んでいたのは確かなようです。
又,新十津川地方に
ワッカウエンベツ(拡大) 新十津川町の更に奥地
ソラプチプツ=空知太,現砂川市も見えます

住んでいたアイヌの人たちがこの地方にきて熊をとったり丸木船であきあじ取りなどして明治ニ十 四,五年頃まで開拓者と入植していた空知太の人々との交際もあったようですが,いつのまにか これらアイヌの人たちの姿は見えなくなったということです。」(ソラプチプツ=空知太,現砂川市)

274 頁
「…明治十年ニハ戸数凡五十戸トナル是頃迄 『アイヌ』十六戸アリシガ和人ノ移住年ヲ追テ増 加スルニ従ヒ或ハ十勝国広尾ニ転ジ或ハ本道西海岸ニ出稼ギシテ帰ラズ或ハ死亡シテ 現在(1899 年末一筆者注)ニ戸十人アルノミ」(幌泉村,現えりも町) (52)
▲ウイキペディア…戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、 大宝律令の国郡里制を踏襲して幌泉郡が置かれる。やはり王政復興。701年の大宝律令を持ち出している。凄い国だ。 (2022.1.9)

といった記述は,道内の市町村史,郷土史類の多くに見ることが出来る。
このようなアイヌ居住地の「後退」は,前述した旧「和人地」 を始めとして,早くから和人の 移住があった後志(しりべし)・石狩地方,さらに寄留漁民の多かった宗谷・北見地方等から,のち開拓の進 行に伴って各地に及んでゆくことになる。 これらの「後退」は,「いつのまにか」おこったことではなかった。

小樽のアイヌは,海岸沿いに市街地が形成されたため, 1872年頃には勝納(かちない)川|沿いに移っていたが,
▲鮭の遡上が見れる勝納川…こういう情報がインターネットにありました。 アイヌの人たちが住んでたのだ。(2022.1.9)
小樽市街から高島へ (拡大)
小樽の海岸→勝納川|沿い→高島→浜益

更に1880年から翌年にかけて,開拓使の「御内命」により
▲開拓使の「御内命」。権力の正式な行為。しかし民法の不法行為に当たる。国の謝罪の対象。 この場合の民法724条の20年の除斥期間は 国連「先住民族権利宣言」を踏まえ不適用とすべき。ここは新しい解釈。(2022.7.17)

当時は市街地外だった高島町に移 転させられている。
移転の理由について小樽郡長は「小樽郡旧土人の義ハ市街各所ニ散居シ依然 笹草等ヲ以テ家屋ヲ構ヒ火災ノ憂ハ勿論甚ダ不潔ヲ極メ虎利刺蔓延ノ候ニハ瞬間二発病シ往々支 障ヲ生ジ候ニ付人家隔絶ノ箇所へ移転ノ義…」(53)と述べた。市街地に「散居」するアイヌを「人家隔絶」の地に排除する為にアイヌの生活慣習に対する蔑視を喧伝したのである。
▲「甚ダ不潔ヲ極メ」これが本音だろう。(2022.1.9)

小樽から50キロ離れた対岸の浜益へ(拡大)
酷過ぎる明治日本政府(2022.1.9)
こうして高島へ移されたアイヌは,後にそこへも市街地化の波が押し寄せてくると,更に浜益などへ移転して いく。

余市でも, 1872年に市街地の形成に際してそこに住んでいたアイヌを 「市街地外ニ転居」 させている (54)。

同じく網走でも, 1886年に市街地のアイヌを市街東部に転居させ,移転先を字 アイヌ地と称した (55)。
これらの例は,開拓政策による市街地の形成がそこに先住していたアイ ヌの排除を伴って行なわれたことを示している。各地におけるアイヌの「後退」も,かかる排除 と同根であると見るべきである。
▲「排除」と認識すること。不当な差別。当然謝罪の対象。若かりし頃のすばらしい論文。(2022.8.10)
強制移住の概観1 強制移住の概観2 (拡大)
▲この表でいう「救済」は小川論文指摘の明治政府のアイヌ排除。 明治22年「明治憲法」成立以降は「保護地」に変わる。(2022.1.13)

A アイヌ「救済」による生活破壊と強制移住
鹿や鮭は,アイヌの主要な食料であると同時に,その皮を衣服や履物に使う等,幅広く生活を 支えてくれる生き物であり,アイヌは自分たちの必要以上には獲らないという慣習を持ってい た(56)。
だが,地域により差はあるものの,各地で和人による乱獲,激減そして捕獲制眼ないし 禁猟という経過を辿り,アイヌはこれらを自由に獲ることが出来なくなった。この状態は, 1878 -79年(明治11−12)の大雪による魚獣の激減に見舞われるや,たちまちアイヌの飢餓をもたらした。その状況 は,例えば以下の如くである。
「昨冬官吏ヨリ捕鮭禁止ノ令アリシカパ,土人ハ漸次食絶エ飢餓旦タニ迫リ,只座シテ死ヲ 待ツガ如シ…」(57)
注(57)十勝川中・上流のアイヌの状況。 『北海道娩成社第三回報告』高倉『アイヌ政策史』507頁より重引。

「…海浜に住するものは魚肉,海草を得るに容易なるも,山間に住するものは積雪の為め被害一層甚しく, 農作物の種子,干魚等悉く食ひ尽し,秘蔵する処の宝物を持ち出し,山を越えて 静内郡,千歳郡又は石狩郡に至り,同地の旧土人と雑穀,干魚等と交換して食を求めしが,静内, 千歳等の旧土人も食料の欠乏を告げしかば,十七年四月頃には草根ムケカシ,ムー,アハ等を食 せしが,漸次採掘し尽きたれば,ニハル(和名ホヤと唱ふるものにして,多く槲(ヤドリギ)の古枝に生ゆる 宿年草なり。旧土人と難も,平常之を食するを好まず,飢餓に迫りし時に食ふと云ふ)を採り, 海草等を交へて辛ふじて露命を保ちたり。四月十日の本郡荷負,長知内,幌去,貫気別村の旧土 人数十名は,救助を嘆願せん為め佐瑠太に来れり。
275頁
当日は日既に没したれば翌日之等の旧土人を 戸長役場に呼集め,願意を問ひ且つ調査の上救済すべきを諭して帰らしむ。」(58)
注(58)沙流川沿いのアイヌの状況。阿部正巳編『札幌県旧土人沿革調査』(河野編 『アイヌ史資料集』第 2期第 4巻所収) 3 - 4頁

このような事態の「救済」として,行政側(1882年に開拓使廃止,函館,札幌,根室の 3県を 設置)は,一部で応急的に食料を給付したほか,アイヌに農地を貸与し農耕に従事させるという 政策を採った。
ところで,アイヌがほんらい農耕を行なわなかったわけではない。魚獣のように中心的な食物 では無かったものの,コタンの周辺でヒエ・アワなどを作り,地力が減退すれば耕作地を他へ移 していた。だがこのとき県がアイヌに行なわせようとした農耕は,いわゆる集約的な,言い換え れば,所定の農地にアイヌを定住させるものであった。 アイヌに対する農耕の奨励は,前述したごとく開拓使も行なっていたが,このアイヌの飢餓の 「救済」を契機として組織的かつ大規模に推進されることになった。その骨格となったのが,札 幌・根室両県が政府に稟議のうえ行なった「旧土人救済方法」(以下,たんに「救済方法」とする。1883年(明治16)実施) である (59)。その内容は両県ともほぼ同じで,アイヌに土地を貸与し,種子や農具を給与(但し 初年度限り)して開墾させ, 「竣功」すればその土地を無償で下付するとしていた。 農耕の「指導」のため「勧業課員」(根室県)や「農業教育者」(札幌県)を現地に派遣し,アイヌを五戸一組に して「協力」させたり(根室県),各戸から少なくともニ名以上が農耕に従事することを定めた り(札幌県),農耕に従事しないアイヌへは「戒諭督責」(根室県)や「食料補給(農耕に従事す る者に初年度限り与えるとしていた一筆者注)ヲ停止シ尚適宜譴責」(札幌県)すると定める など,強制的に農耕に従事させようとする傾向がうかがえる。
しかしその実施経過を見ると (60) 例えばアショロ(足寄)では農耕に不適な土地を選定しア イヌを強制的に移転させ,酷暑の中で耕作させたため熱病が流行し,土地を放棄してしまうアイ ヌも出た。担当の役人は手を焼いた挙げ句に責を「土人ノ気質」に着せて,まず「海辺ノ旧土人 ヲシテ…山間地方ノモノノ亀鑑トナ」すべきと述べる有様で(61)最も窮乏している山のアイヌ から着手するという当初の方針を放棄している。クスリ (釧路)ではアイヌをセツリ川上流へと 移転させたが,移転理由に「旧土人ヲ其侭(釧路に一筆者注)土着為致置キ候ハ,土地ノタ メ最モ宜シカラズ」(62)と述べたように,これは前述した小樽などの例と同様の市街地形成に際 してのアイヌの排除でもあった。しかも漁業組合の出願によりセツリ川を鮭の天然孵化場にすべ く鮭の漁獲を禁じたため,
「漁業組合の出願により」がショック。民間の和人もアイヌ民族の生活手段を奪うのにひと役買っていた!政府だけではなかった。 (2022.1.10)
アイヌは「大ニ食料ヲ得ルニ苦シミ,往々他へ転住シ或ハ全ク死絶セ シモノアリ 」(63)という事態に陥り,セツ川を捨て釧路近郊のハルトル(春採・ハルトリ)へと 再移住するものもあった。
また沙流川流域では,高台に住んでいたアイヌを農耕のため河岸の低地に移転させた。 そのために1898年(明治31)の同川の洪水でそれらの土地はことごとく浸水し,アイヌは 大きな痛手を蒙った。各地とも農耕の成績は挙がらず,また貸付地の多くが和人の手に渡ってい る。「商人等ニ雇ハレ諸方ニ離散」していたアイヌを呼び戻して農耕に従事させたり (64),「農業 ノ余暇ハ漁猟ニ従事スルコトヲ得ルト雖モ担当官吏ノ承認ヲ受ケシムヘシ」(札幌県「救済方法」 第13条)と定めたりしたものの,漁猟等の代替となる生計を 「救済方法」は示せなかったのだか ら,アイヌの被雇用化の傾向は変ることはなかった。「生活ノ困難,実ニ憫然ノ模様ニ御座候」(ピボロ=美幌, 1891年(明治24)) (65)といったアイヌの状態が各地でもたらされているのである。しかも, アイヌの窮乏・離散がより早くから進行していた旧西蝦夷地や函館県内では,このような「救済」 は行なわれなかった。
▲凄い研究だ。(2022.1.10)
▲生活困窮。明治11-12年大雪飢餓。明治16年「救済方法」(機能せず)。 明治17年平取・千歳・静内の飢餓。明治24年美幌。明治31年平取洪水。
結局明治16年までに土地のみならず鹿を奪われ、鮭を奪われ、生活基盤・生活手段を奪われたためその後飢餓と貧困に苦しむ。今もその延長上にある。(2022.1.10)


276 頁
アイヌにとって重大だったのは, 「救済方法」の施行にあたって,両県が,アイヌをそれまで のコタンから農耕地として選定した土地へ強制的に移転させたことである。これらの移転は,ア イヌが本来のコタンに散在していては 「督促及教法上,手廻兼侯」(66)とされたことに端的に見 られるように,アイヌを「寄セ集メ」ることでその掌握・管理の強化を進めた点が重要である。 「救済方法」による強制移住の実施が,上述した足寄・釧路のほか日高の各地や美幌など,アイ ヌが山あいに散在していた地域に多いことが,その目的をよく示している。
▲この普遍化は重要。姉去の場合特によく当てはまる。(2022.1.10)
しかも「救済方法」で、は, 「之(アイヌを指す一筆者住)ニ産業ヲ授ケ漸次教育ヲ施シテ其 習俗ヲ改良セシメ」(67) 「其習俗ヤ漸次教育ニヨリ変化セシメザルヲ得ズ」(68)といった考えに基 づき,強制移住も「救済取締又学校設置ノ都合上」(69)であり, 「救済事務」の「扱所」も「戸長 ノ事務ヲ授ケ兼テハ教育,衛生及勧業ノ事ヲモ扱ハシメ」(70)るもの,というように学校・教育 を位置付けていた。これらがこの時すぐには実現したわけではなかったが,かつて松本十郎が「其 実却テ難シ」とした学校の設置は,一方で開拓の推進のためアイヌを排除し,他方で同時にその 掌握・管理を強めるという施策のうえに構想されるに至ったのである。
▲コロナ対策と同じように無策。支離滅裂。(2022.1.10)
コタンにおけるアイヌ固有の生活や文化は,この頃にはなお各地に,とりわけまだ和人の移住 が及ばなかった地域には,根強く残っていた。 1878年(明治11)に平取を訪れたイギリス人イサベラ・バー ドは, 「ギターに似たもので,三本か四本あるいは六本の弦がついていて,それは海辺iこ打ち げられた鯨の腱で作」った楽器の演奏を聴いている (71)。この楽器は恐らくトンクル(五弦琴)で, 少なくともこの時期まではこの地のアイヌの簡にこの楽器が伝承されていたことになる。
また,和人の優越意識を相対化する精神も健在であって,戸籍編成に際して姓を「日の本」と付けよう としたアイヌがいたが(72) 開拓使仮学校へ連行したアイヌに東京の「開化Jを見せようと連れ 歩いたが,そのアイヌを見物する野次馬で道がごった返す様子を見たアイヌは「こんな和人が自 分たち以上に開化しているとは想えない」と答えたり (73) といった事例を見ることができる。
また困窮の度合いから言えば,むしろ一般移民(士族団体や屯田兵などと異なり,零細な, 国家による庇護を殆ど受けない移民を仮にこう概括する)のほうがコタンの暮らしよりも切迫して いただろう。そのような一般移民にとって,アイヌから生活の知恵を教わることは何よりの恩恵 であって,そこにアイヌ蔑視が根付くことはなかっただろう (74)。
しかし,そこに開拓政策によ るアイヌの生活基盤の否定・剥奪と居住地からの排除が加わるとき,アイヌ差別が浸透する基盤 が形成されてゆくのである。
▲差別構造のこの指摘も重要。
▲第一章第一節の註が(78)項目に及ぶ。貴重。(2022.1.10)
▲ところで強制移住は明治憲法22条に違反していないか。少なくとも施行の明治23年(1890年)11月29日以降の分は。 (2022.1.8)
大日本帝國憲法 明治二十二年二月十一日(1889年)公布
第二十二條 日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ居住及移轉ノ自由ヲ有ス
▲1885年(M18)12.22「内閣制度」発足、すなわち「太政官制」の廃止。明治は新たな段階に入った。 翌1886年1.26北海道庁設置。6.29「北海道土地払下規則」制定。 急速に資本主義制が取り入れられる。 「富国強兵」の「富国」とは国家資本主義の導入ということ。 庶民から税金を巻き上げて資本家に廻す、という政策。 1889年(明治22)明治憲法公布。北海道の動きも内地の動きを念頭に入れながら見ること。 (2022.1.11)
305p
「ここで 「保護」論者達が言うアイヌの「従順」「温良」さとは,寧ろ日本国家による近世以来の徹底した政治的経済的支配がア イヌに及んでいる状態を指すものと見るべきだろう。こうした認識は多くのアイヌ 「保護」論に共通していたのであって (2) 慈恵的な「保護」の提唱は武力による徹底した支配の上でこそ可能になったことなのである。」
308p
「先住民族に対する抑圧・排除が同法(旧土人保護法)の本質的機能だと先ず規定すべきではないだろうか。」
▲小川論文、いいね。30年前のこの元気は今も健在か?(2022.8.9)

裁判で回復させる先住権
1870年(M3)〜1916年(T5)の46年間の植民地化と強制移住の歴史を解明すること。 先住権の根拠はこの46年間に詰まっている。(2020.9.26)
▲いま改めてこの項を読んでみると当時考えたことが蘇ります。再度きちんと検証すること。(2022.1.14)


1870年(M3)*夕張アイヌ民族、強制移住
1871年(M4)アイヌ民族を、法律によって、生活、生業の全てを拘束した
4月「戸籍法」公布  アイヌ民族を日本国民に「強制編入」
10・8(開拓使布達)*アイヌ民族の風俗習慣の禁止
・@死亡者の居家焼却、転住の禁止 ・A女子の入墨の禁止 ・B男子の耳輪の禁止 ・C日本語の「強制」・アイヌ語の「禁止」
▼改めて戸籍への編入、風俗習慣の禁止は問い直しされるべき。まず開拓使布達は撤回すべきもの。 国籍についてはアイヌの人たちは国籍選択の自由がある筈。(2020.9.22)
1872年(M5) 3月、「開拓使仮学校」東京芝増上寺に開校。同校と青山開拓使官園にアイヌ子弟35人を「強制連行・強制入学」 5月、日本語教育、和風化教育
▼アイヌ子弟35人を「強制連行・強制入学」。謝罪すべき行為。(2020.9.22)
9.20「北海道土地売貸規則」(全9条)・「地所規則」(全19条) 北海道は「無主の地」としてすべてを国有地に編入
「深山・幽谷・人跡隔絶の地」を除き、全ての土地を私有地として、開拓者に下付するための政策。 「私有地」としての下付対象者は、「永住寄留人」移住した和人。アイヌ民族は対象外。 「山林川沢、従来土人等漁猟伐木仕来し土地と雖、更に区分相立、持主或は村請に改て、是又地券を渡」・・イオルも和人に譲渡。 和人開拓者に、1人10万坪(33ha)、10年(15年)間 除租。
「地租改正条例」で、山林を国有地に、北海道で明治政府は、発展の見込める原野や森林は皇室財産に組み入れ、 残る地質の良い未開地は、公家や貴族たちに払い下げ、天皇の「御料地」「皇室財産」とした。
▼この明治5年の「北海道土地売貸規則」(全9条)・「地所規則」(全19条)はそもそも無効。 百歩譲って適用するのであれば、明治5年のアイヌ民族への適用を根本から見直すべし。先住権は具体的にここに端を発する。(2020.9.22)
1873年(M6) 札幌郡にて、鮭のウライ漁を「禁止」
▼先住権に基づき当然復活すべきもの。
1874年(M7) *鹿の乱獲*10年間に40万頭捕獲、絶滅寸前、アイヌ民族に食糧危機
▼アイヌモシリでの和人による略奪行為。損害賠償の対象になる。(2020.9.22)
1875年(M8) 「樺太・千島交換条約」締結(5月7日)・ 樺太はロシア領、千島を日本領とする。 9月9日〜10月1日 樺太から92戸841名のアイヌ民族を宗谷に「強制移住」 10月7日 石狩原野へ再移住を指示(アイヌ民族、移住反対上申書を開拓使に提出)翌1876年(M9)、 官憲を動員して6月13日から小樽経由で石狩国 対雁(ついしかり)に「強制移住」
対雁に移住させられた樺太アイヌ https://blog.goo.ne.jp/maruo5278/e/b98477e8654624d5e25d7e3a871675e6
樺太アイヌは、1905年日本が日露戦争に勝利し樺太の南半分が返還されるとほとんどの者が樺太に帰っていったという。 太平洋戦争によって再び樺太がロシア(当時はソ連)領となってしまった。樺太アイヌのほとんどが日本に強制送還されたらしい。 しかし、中には樺太にそのまま居ついたアイヌもいたということだ。
▼樺太アイヌは1875年の「樺太・千島交換条約」によって宗谷→対雁に強制移住させられ、 30年後の日露戦争後の1905年に樺太に帰り、 さらに40年後の太平洋戦争後の1945年にまた日本に強制送還される。
たとえばある樺太アイヌの少年が10歳で樺太から宗谷・対雁に来て、 40歳で樺太に戻り、80歳でまた日本に送還される、こうような人生が想像される。現在も樺太アイヌの末裔がいらっしゃる。日本政府は当然 謝罪を含めたしかるべき対応をすべき。ロシア政府も。(2020.9.22)

1876年(M9) 全てのアイヌ民族に「創氏改名」(明治9年7月19日第48号布達) 「平民」籍に編入(族称・華族・士族・平民)
アイヌ民族の「皇国の臣民化」
アイヌ民族の民族性の抹殺・民族の根絶
▼この明治9年がとくにひどい。
「風習の洗除」(開拓使布達・9月30日)
・創氏改名(アイヌ人口1万7千人)
・「鹿猟禁止」(和人の猟師による鹿の乱獲)
・「北海道鹿猟規則」
・仕掛け弓・毒矢猟の「禁止」(アイヌの事実上の狩猟禁止)
「鹿猟禁止」について。榎森進『アイヌ民族の歴史』(396〜398頁)
「アイヌ民族の生産や生活に大きな打撃を与えたのが、開拓使が鹿猟に関する新たな規則を定めたことであった。
 ●1875(明治8)年9月30日、「胆振・日高両州方面鹿猟仮規則」により、アイヌがアマッポ(仕掛け弓) で鹿猟を行う場合は、それを設置する場所を届け出る必要があった。 (Wikimedia:アマッポは、かつてアイヌが狩猟に用いていた自動発射式の弓矢である。 これを獣道に仕掛け、矢毒を塗った矢を発射させてヒグマやエゾシカを狩った。 )
 ●11月には夕張・空知・樺戸・雨竜、
 ●翌明治9年1月には十勝まで適用。
 ●9月には毒矢の使用を禁止し、
 ●11月には北海道全域を対象とした「北海道鹿猟規則」を定めた。
アイヌ民族の生産・生活で大きな役割を果たしてきたのが、河川での鮭漁を初め海での漁業や海獣狩猟と山野での狩猟、 特に鹿猟で捕獲した鹿は、肉は食料として、皮は自家用及び和人向け商品として大きな役割を果たしてきた。 河川及び海での漁業権が一方的に奪われ、しかも鹿猟も禁止され、こうした明治政府の政策のため餓死するアイヌが続出した。」
▼「北海道鹿猟規則」は今はどうなっているか分からないが廃止すべし。先住権による漁業権、 狩猟権の復活。(2020.9.23)
1877年(M10)
「魚場持」制度廃止、河川の生態系の破壊、乱獲、漁撈禁止
11月「北海道在住令」(全4条)「移住民」募集開始、北海道に籍が無くても、居留して開拓を志す者、 在住官員で開墾志願の者に土地を割譲する、藩解体の藩主、藩士(3ヵ年食料下付)
北海道の人口推移 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/tuk/920hsy/18.htm#jump-3
          人口と世帯数
明治2(1869)年 【58 467】 12 017
明治3(1870)年 【66 618】 13 182
明治4(1871)年 【89 901】 17 623
明治5(1872)年 【111 196】 24 744
明治6(1873)年 【121 310】 30 393
明治7(1874)年 【171 491】 34 072
明治8(1875)年 【179 688】 34 114
明治9(1876)年 【183 630】 35 843
明治10(1877)年 【188 602】 36 734
明治11(1878)年 【191 172】 38 149
明治12(1879)年 【205 643】 38 296
明治13(1880)年 【219 466】 39 480
明治14(1881)年 【223 290】 40 082
明治15(1882)年 【240 391】 43 672
明治16(1883)年 【239 632】 48 716
明治17(1884)年 【246 456】 52 405
明治18(1885)年 【276 414】 57 151
明治19(1886)年 【303 746】 62 745
明治20(1887)年 【321 118】 67 544
明治30(1897)年 【786 211】 164 408
明治34(1901)年 【1 011 892】 189 526
明治40(1907)年 【1 390 079】 259 662
明治42(1909)年 【1 538 738】 291 206
大正06(1917)年 【2 088 455】 378 662
昭和03(1928)年 【2 506 883】 471 163
昭和10(1935)年 【3 068 282】 545 387
昭和21(1946)年 【3 488 013】 651 659
昭和23 (1948) 年 【4 021 050】 747 229
昭和35(1960)年 【5 039 206】 1 194 470
▼人口の推移を見ると明治10年の「北海道在住令」の効果が徐々に出てきている。
明治43(1910)年「北海道開拓15カ年計画」の中で北海道の人口を153万人から300万人に増加させるという計画が立てられる。 1910(明治43)年は朝鮮を植民地にした年。
25年後の昭和10(1935)年北海道の人口は300万人に達する。昭和6(1931)年には満州事変が起き、翌昭和7(1932)年満州国建国となります。 北海道の歩みは日本の植民地主義、帝国主義とその方向と軌を一にしている。
敗戦直後の昭和23年北海道の人口は急増している。引揚者によるものとおもわれます。 こうして明治以降の北海道の人口推移を見ると明治期、敗戦直後と2度にわたって大きな役割を北海道の大地は果たしている。記憶しておくべき事柄。
因みに平成31(2019)年の北海道の人口は5,304,413人。北海道がなければ500万人はどこへ行く。(2020.9.25)

12月13日「北海道地券発行条例」(全58条)  アイヌ民族の居住地をすべて官有地第3種に一方的に編入 *「旧土人住居の地所は、其種類を問す当分総て官有地第三種に編入すべし」
▼「北海道地券発行条例」で官有地第三種に編入された土地はその後どうなったのか?(2020.9.24)
裁判準備ノート人口推移
北海道の人口推移 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/tuk/920hsy/18.htm#jump-3
             世帯  人数
元禄 14年(1701) 9月 3 003   20 086
宝永 4年(1707) 12月 2 758   15 848
寛延 2年(1749) … …   21 107
宝暦 6年(1756) 9月 …   22 632
10年(1760) 10月 4 636   21 651
明和 7年(1770) … 5 966   26 604
安永 6年(1777) 冬 6 422   26 633
天明 7年(1787) … 6 705   26 564
文化 4年(1807) … 8 479   31 353
天保 10年(1839) … …   41 886
嘉永 3年(1850) 秋 13 301  59 554
6年(1853) 9月 13 787   63 834
明治 2年 … 12 017    58 467
3年 … 13 182    66 618
4年 … 17 623    89 901
5年 … 24 744    111 196
6年 1月 1日 30 393   121 310
7年 〃 34 072   171 491
8年 〃 34 114   179 688
9年 〃 35 843   183 630
10年 〃 36 734   188 602
11年 〃 38 149   191 172
12年 〃 38 296   205 643
13年 〃 39 480   219 466
14年 〃 40 082   223 290
15年 〃 43 672   240 391
16年 〃 48 716   239 632
17年 〃 52 405   246 456
18年 〃 57 151    6 414
19年 〃 58 745    286 941
19年 12月31日 62 745   303 746
▲北海道の人口推移の世帯・人数のなかにアイヌが入っているのか?道庁に確認すること。(2024.1.6)
明治6年以降入っている。道庁に確認。(2024.1.10)



















https://www.unic.or.jp/files/indige05.pdf
国連広報センター:先住民族と法的背景
▲明治2年12,017世帯 58,467人。
明治5年24,744世帯 111,196人。
明治19年58,745世帯 286,941人。
明治5年から明治19年にかけて3万4千世帯増。耕地面積3万町歩。1世帯1町歩。理解できる。(2023.12.28)

1877年(M10)「地券発行条例」*北海道人口191,170人(アイヌ民族17,098人)
明治19(1886)年に3万町歩(29,730f)にも満たなかった 耕地面積
1872(明治5)年以降1885(明治18)年までに「北海道土地売貸規則」によって和人に売り下げられた土地は、 2万9239町歩、無償貸し付け地は7768町歩の計3万7007町歩にのぼる。これらの事実は、 和人によるアイヌ・モシリの奪取、 しかも法による奪取が確実に進行し出したことを示すものであった。」 (下線は引用者)(榎森進『アイヌ民族の歴史』(395〜396頁))
改めて読みなおす。3万4千世帯増。3万7007町歩。やはり1町歩。ほぼ間違いない。(2023.12.28)

▲明治32年「旧土人法」による下付地 96平方q=9,600ha。アイヌ人数17,098人。 4人家族として4200世帯。2.3ha/世帯。いまMIP回復運動で400万haを取り戻そうとしている。(2023.12.28)
明治5年以降のアイヌの人口 (拡大)
明治3年和人人口 (拡大)
▲とりあえず明治3年和人79,792人 明治5年アイヌ15,275人から出発。(2024.1.6)
▲そうではない明治5年111,196人を使う。その内アイヌは15,275人、和人は95,921人だった。
この年「北海道土地売貸規則」(全9条)・「地所規則」(全19条)が施行。
▲明治10年地券発行条例施行。全人口188,602人。アイヌ16,966人。和人171,636人。
▲明治18年耕地面積30,000町歩。171,636人の和人の手に渡った。琵琶湖の面積は67,558町歩。44%の広さ。 一方明治32年「旧土人法」による下付地 96平方q=9,600ha=9,679町歩。(2024.1.7)
▲「未開地処分法」による18,098平方q(180万ha)の大資本家と華族たちの宴のあとの 「旧土人保護法」による96平方q(0.96万ha)の残り物の下付!?(2021.10.30)

確認のために:北海道開拓の村
明治2(1869)年に約6万人に過ぎなかった北海道の人口は、開拓使、三県時代を経て、北海道庁が設置された明治19(1886) 年には約30万人になりました。その後、急激に増加を続けて明治34(1901)年には100万人を超え、開道50年にあたる大正7(1918) には217万人を数えるまでになりました。
また、明治19(1886)年に3万町歩(29,730f)にも満たなかった耕地面積も大正7(1918)年には約80万町歩(792,800f)に達しました。
北海道の現在の耕地面積
2020年(令和2)の北海道の耕地面積は約114万3,000haで、全国の耕地面積の4分の1近くを占めています。また、農家1戸あたりの耕地面積は30.2ha
▲大正7(1918)年には既に70%開拓済み。(2024.1.7)
北海道耕地面積の推移
耕地面積の構成割合 (拡大)
北海道耕地面積の推移 (拡大)
▲耕地面積・畑に牧草地も入ることの確認。北海道の特徴。
▲推移グラフを見ると昭和32年93.2万ha、大正7年79.3万haと比べて14万ha増。 概ね大正7年で大仕事は終わっていると見て間違いない。(2024.1.8)

1.01 都道府県別人口・面積・県内総生産・使用電力量(その1)から(平成26年2014年)。
民有地の構成割合
民有地面積平成24年1月1日 27,403平方q内主なもの 宅 地1,034平方q(10万3400ha) 田2,374平方q(23万7400ha) 畑8,573平方q 山 林10,959平方q
見直す事。 耕地面積


1878年(M11)
* 鮭・鱒の川漁「禁止」10月
▼これも先住権に基づき解禁。(2020.9.24)
1883年(M16)
十勝川の「鮭漁禁止」・十勝アイヌ民族、飢餓状態となる
▼先住権に基づき鮭漁復活。損害賠償の対象にもなる。(2020.9.25)

(拡大可)襟裳岬から
西へ新冠 沙流川 勇払平野  東へ十勝川 釧路川(セツリ)


(拡大可)襟裳岬

1884年(M17)
北千島アイヌ民族97人を、色丹島に「強制移住」6月30日〜7月6日(支度に2日間)
釧路アイヌ民族27戸を阿寒郡セツリに「強制移住」
アイヌ民族に「勧農事業」開始 新冠郡、勇払郡、沙流郡地方のアイヌ民族飢餓状態に陥る。 結核、コレラ、天然痘、免疫のないアイヌ民族に蔓延 民族絶滅の危機、エスノサイド(民族絶滅)、ジェノサイド(集団殺戮)
▼「強制移住」。結核、コレラ、天然痘の蔓延。ユポさんは民族絶滅の危機すら感じられた。記憶しておくべし。(2020.9.25)
1886年(M19)
「北海道土地払下規則」(全13条)〔6月29日〕 開拓者1人につき10万坪(33.3ha、これまで通り)国有未開地処分(アイヌ民族対象外) 農業植民地への転換。民間資本による北海道開拓へ転換。各地で原野を「植民地」として和人に解放、 アイヌ民族には一部を生活維持のために「保留地」として確保。
・対雁(ついしかり)の樺太アイヌ民族、コレラと天然痘で300人死亡。・日高、網走でアイヌ民族の「強制移住」
▼「北海道土地払下規則」を民間資本による北海道開拓への転換、農業植民地への転換とのユポさんの指摘は的確。すばらしい。参照:年表1889年欄池田さなえ 論文
▼1875年(M8) 樺太から92戸841名のアイヌ民族を宗谷に「強制移住」 翌1876年(M9)、 対雁(ついしかり)に「強制移住」。この樺太アイヌ841人のうち300人が死亡、92世帯だから1世帯3人が亡くなった、ということ。 (2020.9.25)

1888年(M21)
色丹島の北千島アイヌ民族5年間で97人のうち45人死亡。   北海道人口354,812人(アイヌ民族17,062人)
▼4年前の1884年、色丹島に北千島から強制移住させられたアイヌの人たち。半分が死亡。痛ましい。(2020.9.26)
1889年(M22)
*新十津川村の原野を和人に解放するに当たって、アイヌ民族11戸を、給与予定地を選定し「強制移住」させる
*美幌アイヌ民族を「強制移住」させる
▼明治22年、皇室御料地として全道に200万haを設定、華族組合農場へは未開地5万haが払い下げ。
公爵三条実美、旧徳島藩主の蜂須賀氏らが設立した華族組合雨竜農場は、このときに創立。

▼「強制移住」の記述は榎森進『アイヌ民族の歴史』p417〜p424に詳しい。(2020.9.26)
1894年(M27)
*旭川 近文原野、「土人給与予定地」150万坪(500ha)のうち45万坪(150ha)のみ、 利権屋の暗躍、北海道庁長官あて請願書
*千歳、十勝、北見などでアイヌ民族が多く住んでいた原野を開放する際、アイヌ一戸当たり五町歩(5ha)以内の「保護地」を設け、 「北海道地券発行条例」の第16条に基づき官有地の第三種の土地とした。
1916年(T5)
「新冠御料牧場」・姉去のアイヌ民族80戸、平取村上貫別に「強制移住」
▼二風谷ダムのある沙流川に流れ込む貫気別川の上流、緑の矢印のあたり。

榎森進『アイヌ民族の歴史』(p421) 1873年(明治6)頃の新冠地域のアイヌ民族の居住状況
厚別川東岸
大狩部村1戸・10人、葉朽村5戸・16人、受乞村7戸・39人、元神戸村9戸・45人、比宇村7戸・27人 計29戸・137人
新冠川流域
高江村22戸・96人、姉去村20戸・94人、去童村9戸・47人、万揃村7戸・35人、滑若村15戸・67人、
泊津村15戸・59人 計88戸・398人                     両地域合計 11村・117戸・535人
1872年(明治5)新冠牧場設置。滑若村は牧場の中心部。1872年(明治28)滑若村のアイヌを姉去村と万揃村に強制移住。1916年(大正5) 姉去村のアイヌ(70戸・300人)を沙流郡貫気別村上ヌキベツへの強制移住。実際入植したのは20戸近く。
▼上記の村々は地図で見ますと厚別川と新冠川に挟まれた河口から約20キロ以内の川沿いにあります。 先住権を根拠にして新冠牧場の返還と二つの川での鮭漁の解禁によって姉去村の強制移住を含めた問題の解決が図れると考えます。 (2020.9.26)

IB裁判で獲得を目指す訴訟物
私のイメージの中では今回の裁判は

@二風谷ダムの取り壊しと平取地域でのアイヌ民族のイオルの復活、すなわち先住権に基づく国有林への入山、 沙流川での鮭漁の復活
A新冠牧場から強制移住させられた厚別川と新冠川に挟まれた地域のアイヌの人たちの復帰と二つの川での鮭漁の解禁

この二つが軸になると思います。この二つが獲得できればそのほかのイオルの問題も根は共通ですから前進すると思います。(2020.9.27)
B明治以降の日本政府のアイヌモシリの植民地化とアイヌ民族同化政策の謝罪。(2020.10.5)

むしろB、@、Aの順番で訴状は構成されたほうがよいとおもいます。(2020.10.6)
亀戸で上記方針をユポさんと確認。(2020.10.10)

▼さらに次のように考え直ししました。(訴訟物
@明治以降の日本政府のアイヌモシリの植民地化とアイヌ民族同化政策の謝罪。 その償いの一つとして「アイヌ民族自立化基金」(5,500憶円)
A二風谷ダムの取り壊しと平取地域でのアイヌ民族のイオルの復活、すなわち先住権に基づく国有林への入山、 沙流川での鮭漁の復活
B新冠牧場から強制移住させられた厚別川と新冠川に挟まれた地域のアイヌの人たちの復帰と二つの川での鮭漁の解禁

A、Bが認められればほかのイオルの問題も根は共通ですから前進すると思います。(2020.11.14)


▲2021.12.31ユポさんに訴訟物の確認を再度しました。北海道の国有地の返還と明言されました。 つまり304万haの国有地の返還ということ。2007年国連の先住民族権利宣言28条に基づく回復である、と。これを中核とします。(2022.1.1)

▼吉田邦彦先生の「アイヌ民族の補償問題 ―民法学からの近時の 有識者懇談会報告書の批判的考察」論文に依拠する。(2020.12.31)
▲再度吉田論文を読む(2021.1.14)
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アイヌ民族の補償問題 https://www.kansai-u.ac.jp/ILS/publication/asset/nomos/28/nomos28-02.pdf
●本研究構想の実現は、死後になるかもしれない(20p)
●所有法の問題として扱いたい(20p)
●補償問題(集団的不法行為の後始末の問題)(20p)
●アイヌ問題の核心としての所有権問題(21p)
●財産収奪、漁場(共有財産)の剥奪などの歴史的事実については、まずはそれを克明に伝えることが重要(21p)
●「一本の苗木」とされた(故萱野茂エカシ)文化振興へのなだれ込み現象がある。(22p)
●象徴的問題として、「共有財産問題」、「平取ダム問題」がある(22p)
●「共有財産問題」は、従来からのアイヌ民族の征服の歴史の清算としての―補償問題にも繋がる―重要問題であるのに、 これについて、北海道ウタリ協会〔2009年 4 月から、北海道アイヌ協会に名称変更〕があっさり放棄するのは、理解に苦しむ(22p)
●(先住民族の権利に関する国連宣言(2007年 9 月))先住民族の権利に関する国連宣言は、2007 年 9 月13日の国連の本会議で採択され、 そこには言うまでもなく、関連する重要な条項がある。
例えば、土地・資源への権利(26条)、同意なく没収され、損害を与えられた場合、 土地、領土、 資源の返還、賠償を求める権利(28条)がそれである。また、同化・文化破壊されない権利( 8 条)、 集団的権利(35条)に関する項目もある。(22p)

脚注
8)2008年度の平取ダム関連事業に35億2800万円が計上されている〔朝日新聞2008年 1 月 7 日24面〕。 2016年度完 成を目指し、既に総事業費約1300億円の内7 割が執行されていたが、2009年10月 9 日に事業一時凍結とされた 〔前原国交相大臣(当時)表明〕。これに対し、川上満平取町町長は、事業継続要望を出し(2009年10月16 日)、高橋はるみ同知事も、 現地視察し、治水・利水のために、ダム事業は必要と述べたとのことである(2010 年 1 月)〔苫小牧民報社ウェブ参照〕。(22p)

10)北海道新聞(道東版)(夕刊)2008年 6 月10日11面では、これを機に、政府による過去の謝罪、 賠償と権利回復を求める議論を始めるべきで、過去から現在に続く国家責任を明らかにすべきだ。協会内には、 土地所有等の権利問題を正面から議論することに慎重論もあるが、テーマを絞らずに議論すべきだとされている(秋辺得平氏)。 また、松本成美「『アイヌ先住民族』国会決議の意義」久摺12集(釧路アイヌ文化懇話 会、2008) 9 頁、11頁は、国会決議をうけて、 今後の展開として、日本政府は、過去のアイヌ政策の非を認め、アイヌ民族と正面から向き合って謝罪の言葉があって 然るべきだと強調されていた。(23p)

●アイヌ民族の集団的アイデンティティと言いながら、個人権的保護をベースにしていて(27頁以下)、限界がある。 どうして、民族の集団的権利を認めようとしないのか。(25p)
本件は、アイヌ民族への歴史的不正義 (集団的不法行為 )に対する救済としての権利回復という側面が強いのである。(25p)
●明治維新以降は、明治 5 (1872)年の北海道地所規則、明治10(1877)年の北海道地券発行条例によって、「旧土人住居ノ地所」 は、官有地とされて、ここには、いわゆる「無主物先占」的発想があり、その反面で、それまでのアイヌ民族の何千年間の土地利用権は、 無視されていることは見逃されるべきではない。そしてその上で、本州から移動してきた和人に対して、 北海道(アイヌ・モシリ)の大量の土地払い下げ明治19(1886)年北海道土地払い下げ規則、明治30(1897)年北海道国有未開地処分法) がなされたわけである。(26p)
●……以上については、共有財産としての扱いがそもそも不利益処分であり、さらに、戦前・戦中の 共有財産処分に関しては、 管理責任を問う余地があり、農地改革時の強制的処分にも、同様の問題があり、そうした管理責任は、道庁(知事)の共有財産管理態勢から 解放された平成 9(1997) を責任追及の期間制限の起算点とできるが、もう10年の時効期間は経過しており、 後は、自然債務ないし道義的な補償責任を問題にできると言うことになろう。(31p)
▼これを突破口にしていこうとういう戦略?
●「補償」論は、比較法的に視野を広げれば、少数民族・先住民族問題にアプローチする際には、 王道ないし正論であり、 その回避こそが、特殊日本的状況であることがわかる。(38p)
●補償法を別途検討しておかしくない。   補償をする際の難点としては、
@ 関係者の確定の問題、それと関連して、
A 歴史的不正義との 因果関係の問題、
B 期間制限との関係、
C 国家無答責との関係があろう。
しかし道義的責任にレベルを拡げて、償いモデル的に補償を考えると、そうした制約も無くなるということが、 戦後補償実践の教えるところである。(39p)
比較法的には、アメリカにおける黒人、先住民族、ハワイ 原住民に対する補償論54)、 特に黒人の奴隷制ないし差別・虐待に関する黒人補償(black reparation) に関する議論55)が比較材料として、参考になろう。(39p)
●所有権返還に関して、
@ まず、共有財産返還に関しては、再施すべきである。また、 そこには補償的意味合いがあることから、 増額評価して行うべきで、名目額で返還するやり方に ついては、配慮に欠けたとして、謝罪しつつ改めるべきである。(39p)
A 土地返還は、一般論として難しいが、国有地の一部を象徴的にアイヌ協会に―目的・利用 方法等を指定しつつ―返還 するということはあってよい (特に、その要望のある二風谷など。 現にアイヌ民族のイニシアティブのチコロナイによる自然保護の取り組みを見ていても、 非現実的とは言えないだろう)。環境適合的な持続可能な資源利用としての「アイヌ民族ならではの土地所有形態」の実験場となるならば、 今世紀的取り組みとしても、注目されるであろう。(39p)
諸外国においては、所有権返還は、珍しくない。例えば、
1999年カナダの先住民族イヌイットにヌナブット準州が設立された(さらに、14年間にわたる十億米ドルの補償金支払い)。
1978年には、デンマークからグリーンランド先住民族に対して、自治政府も設立された。
他方で、オーストラリアでは、 1986年にアボリジニー土地権利法で、先住民族アボリジニーに対する土地返還が開始された (なお、1992年マーボ判決では、無主地宣言は、無効とされたし、1993年の先住権限法で、 先住民共同体の慣習による土地利用・管理が認められた)。そしてオーストラリア全土の16%、 北部特別地域(northern territory)の約50%が返還された。(39〜40p)
●埋葬品・遺骨の盗掘関連についても
かつての北大研究者によるアイヌ人骨の盗掘・考古学的研究の問題は、北大の問題でもあるので、同大学キャンパス内で、誠実な謝罪文、過去の事実の説明・責任の表明とともに、納骨堂、 慰霊堂などを充実させる方向で考えるべきものであろう(この問題について、長年検討してきた 小川隆吉エカシも同意見である)(40〜41p) アイヌ墓地には、軽々に手を触れるべきではないとする見方も有力なのである63)。
63)
例えば、横山孝雄・アイヌの歴史Aイシカリ神うねる河(汐文社、2009)94頁には、
「ワシらのしきたりで は、墓地は埋葬のとき以外は踏み込んではならん場所だ。」との発言もあるし

また、同・北の国の誇り高き 人びと――松浦武四郎とアイヌを読む(かのう書房、1992)328-330頁でも、
アイヌの生死観は、シャーマニ ズム的な世界で、死者は生者に悪霊を放ちかねない存在で、葬送も古くは、風葬で遺体は自然サイクルに帰るという縄文時代の日本では普遍的な習俗で、生者にとって死は霊魂との絶縁でなければならず、死霊が漂泊する墓地への立ち入りは、あってはならず、墓参りなどはもってのほかの行為で、先祖供養は、あくまで 家で行う という重要な指摘をされている
(そして、江戸期の同化政策として、仏式葬祭の強要があり、松浦 武四郎が、アイヌの墓参り行為を描く (『近世蝦夷人物誌』参編巻之上孝子伝)のも、アイヌの孝養を仏教観、儒教的道徳観にすり替えて和人にわかりやすく説いたためだとする)

チカップ美恵子・前掲(注 5 ) 月のしずくが輝く夜に(2003)208頁では、
「アイヌ民族には墓に近寄ると、死霊に取り憑かれるという世界観があ〔り〕、墓に近寄ることを非常におそれ、またきつく戒められた」 と指摘する。(42p)
●補償アプローチならば、どこかで補償金の額を決めなければいけない (その額の設定は容易ではない)が、 歴史的不正義に対する諸外国の補償額は、莫大なものではない。(45p)
●初心に立ち返り、アイヌ民族の社会問題の本質を見抜く必要性があり、狭隘な利権に捕われず、 真に社会的な本質問題にメスを入れていく姿勢が問われている。   また大所高所から、アイヌ民族の団体的結束、ネットワークの形成の重要性に注意する必要があり、 アイヌ民族自身の主体的統治力、企画力も問われていると言えよう。 とくにプロボノ的な法律家の役割が重要である。(45p)
●有識者懇談会の報告書の立場では、先住権の侵略・侵奪の問題、従って、それゆえの補償問題という、先住民族の所有権・知的所有権問題の根幹問題を打ち出さず、アイヌ民族支援の根拠を明らかにせず、またそれが北海道のローカルな問題に止まらず、日本の近代化に伴う所有侵略問題ゆえの全国的問題であることを説得的に示し得ておらず、それゆえに、その成果としての政策的展開にも繋がっておらず、従来路線の域を出ておらず、折角の国連の先住民族の権利宣言、それを受けた国会の先住民族決議にもかかわらず、今後の方向付けとして、成功していないと言わざるを得ず、遺憾な事態である。 アイヌ協会(ウタリ協会)の方でも、これに対する要望とか、批判的コメントとかがあってしかるべきではないか69)。
69) 因みに、秋辺日出男氏は、国連に「日本政府の審議状況や内容をチェックし、『先住民族の権利に関する国連宣言』に沿った 『アイヌ民族に関する先住民族法』の制定を促進させる勧告をしてほしい」とする (2009年 8 月ジュネーブにおける「国連先住民族の権利に関する専門家機構」会議にて) (北海道新聞(道東版)(夕刊)2009年 9 月 1 日11面参照)。

●諸外国の先住民族の所有権侵奪等の民法問題の諸事例との比較で、「補償問題」はやはり根幹的地位を占め、 それを回避すべくレールを敷いてしまうという今のやり方は、戦後補償について責任回避をはかるという日本社会特殊の構造的問題と通じており、 抜本的問題を孕んでいると思われる。 (46p)

▼吉田論文を読むのは3回目です。
2021.1.17調布市図書館から借りる
アイヌ先住民族補償と民法学

1回目は年表2009年の 「有識者懇談会報告書の批判的考察」です。2回目は上記の再度吉田論文を読む(2021.1.14)です。3回目は右の著書に収録された 「アイヌ先住民族補償と民法学」です。前2回で触れられていない問題を拾います。
194頁 宇梶静江さんの「アイヌ的価値」、217頁 萱野茂さん、貝沢正さんの「土地返還問題」、226頁 「企業の社会的責任」 について簡潔にまとめておきます。(2021.1.26)

@宇梶静江さん教示・示唆の「アイヌ的価値」
@困った人を放っておけず面倒を見る人間性
A自然に対して謙虚に対話しつつ、神からの戴きものとして大事にする点
B火・水・風、そして動植物、人間すべてが、各々の役割を持つものとして、各人の才能・長所を大事にし、「命の平等」の思想を持ち(男尊女卑もない) 個人の尊重・自信回復に繋げる
C侵略・侵略のための武器製造・仇討ちの歴史がない
D「財産」「所有」に執着しない
E刺繍等の価値(整理は吉田教授)
A土地返還
@萱野茂さん「国有林すべてアイヌ民族に返せ」
A貝沢正さん「三井の山のアイヌへの返還」
B企業の社会的責任
北海道の多くの多くの森を維持・管理する製紙会社などが、近時の企業の社会的責任に鑑みて、アイヌ民族に所有権レベルで名義を移しその信託的 譲渡をし、その維持・管理は従前どおりにするなどというやり方をすることは、21世紀において社会的注目を浴びることになるだろう。
▼「訴訟物」について。
まずは「謝罪」、その補償として「アイヌ民族自立化基金」の創設を考えてきましたが、萱野さん、貝沢さん の思いの深さから、国有林、企業所有林の返還も視野に入れる必要を感じました。と同時にそもそも「北海道」の呼称も変えなければいけない、 と思うようになりました。「北海道」をやめて「アイヌモシリ」に戻すことも補償の中身に入れる。これは象徴的意味を持つとおもいます。 (2021.1.28)

▲今日改めて吉田論文の抜粋を読み返す。よく整理されている。念頭に入れながら訴訟物の整理に活かそう。(2022.8.8)


シマフクロウ
シマフクロウ=コタンカラカムイ(アイヌの国土を作った神様)           撮影 井上光興 道東で.2010.

弁護団
▼アイヌモシリ回復訴訟の初顔合わせ2021.1.11、九段下の早稲田リーガルコモンズ事務所で。 北海道から阿部ユポさん、吉田邦彦先生、それに訴訟を担当してくださる以下の7人の弁護士の先生方が出席。三宅弁護士は第2回から。 久道弁護士は2022.11.10から。












原告と訴訟物(2021.2.12弁護団からの宿題)
萱野志朗さん「国有林すべてアイヌ民族に返せ」
令和2年度調査報告書
https://www.mlit.go.jp/totikensangyo/content/001428362.pdf
国土交通省:平成27年度(2016年3月)土地所有・利用概況調査報告書
  土地所有主体別面積10頁 

土地所有主体別面積
北海道行政面積8,342,422ha
国有地3,045,230ha国有林2,933,233ha
▲国有林を除いた国有地(国有地−国有林)111,997ha=11.2万ha=1,120ku 1,120kuの内460kuを自衛隊が 使用しているということらしい。(2023.10.21)
北海道森林管理局企画課ナカカギさんに国有林2,933,233haをまず確認すること。


▲日本国土全体の把握は国土交通省と思う。それによると北海道の国有林は293万ha。 しかし農水省・林野庁の国有林面積は306万ha。この差は? まず国土交通省と農水省林野庁の面積の差を解決 したうえで財務省に金額を確認する。

▲国土交通省内線28652で確認。令和4年度最新数値。国有地3,027,636ha国有地国有林2,915,580ha。 これで財務省に金額を確認する。(2023.10.24)
道有地630,937ha市町村有地479,448ha 民有地2,735,325haその他1,451,482ha(拡大)
全国の国有地面積7,434,889ha
北海道3,045,230ha(40.95%)
土地所有主体別面積令和2年度 北方四島を除く数値(拡大)
土地所有主体別面積令和2年度 その他の面積960,201ha
(拡大)
▲その他面積は全体から国有地、道有地、市町村有地、民有地を覗いた面積。道路、橋梁、河川、海岸、港湾及び漁港など。 具体的な数値は分からない、とのこと。国土交通省内線28652 オバラさん。(2023.11.24)
●「北海道在住のアイヌ人口が今、2万4000人。 北海道外のアイヌを入れたら最低でも3万人はいるだろうと想像できます。 その3万人に北海道の面積の6割以上を占める国有地を返せ、と」。 「われわれは権利だけを返してもらう。それを日本政府に貸し付ける形にして地代をいただき、 森林の管理業務は引き続き日本政府にアイヌ民族が委託するという形を取る」。
▼地代は「アイヌ民族自立化基金」とする。
▼この考えを一致したアイヌ民族の訴訟として提起する。東京で。(2021.2.13)
▼「北海道の面積の6割以上を占める国有地」とは、北海道の民有地32.8%を除いた67.2%のことを指しておられる。 (2021.2.17)
運動のスローガン:国有地をアイヌモシリに!(2023.5.30)

米軍専用・共用施設規模(平成30年(2018年)3月31日現在)土地面積4,274(千m2)=4.27平方q
自衛隊の基地の面積 460平方q 国有地は30,452平方q 基地面積は国有地の1.5%
地主として一定の条件を付ける。日本国憲法の枠内等。(2023.5.31)
国有地30,452平方qの評価額?

有永明人:論文「北海道の国有林問題」 国有林の起源
北海道の国立公園地図 環境省所管
国立公園地図 (拡大)
@阿寒摩周国立公園9.1万ha
A大雪山国立公園22.6万ha
B支笏洞爺国立公園9.9万ha
C知床国立公園3.9万ha
D利尻礼文サロベツ国立公園2.4万ha
E釧路湿原国立公園2.8万ha S.62.7.31指定
               合計50.7万ha

▲北海道の国有地は農水省林野庁の国有林(304万ha ○○億円)、環境省の国立公園(50.7万ha ○○億円)、 防衛省の演習場(4.6万ha  1兆7769億円 推定)が主だったもの。面積とB/S上の価格を確認しておくこと。(2023.10.20)
▲国有林、国定公園の金額は北海道の林野庁では分からなかった。財務省に確認すること。(2023.10.21)


北海道所管別森林面積 (拡大)
林野庁:北海道の所有形態別の森林面積
北海道の森林面積と国有林面積
304万haは森林管理局所管のみその他国有林も2万haある。(拡大)
北海道の森林面積は、2020年4月1日現在554万haと、北海道の土地面積(北方領土を除く)の70.6%となっています。 所管別では、森林面積の55.3%を国有林が占め、次いで私有林等27.9%、道有林11.0%、市町村有林5.7%となっています。このうち、国有林、道有林、 市町村有林といった公的な森林を合わせた割合は72.0%で、全国平均の42.6%に比べ高い比率となっています。」
林野庁:国有林の所在
(拡大)
北海道庁:道有林の所在 (拡大)









▲その他=行政面積−(国有地面積+都道府県有地面積+市町村有地面積+民有地面積)
【実面積表示】
A行政面積:8,342,422ha(北方領土を含む)
B行政面積:7,842,138ha(北方領土を除く)
国土交通省:令和3年度(2022年3月) 行政面積 4頁
北海道の行政面積
北方四島を除く北海道の行政面積は7,835,878haで確定。風連湖、然別湖を北海道の行政面積に入れる。(拡大)
国土交通省:平成27年度(2016年3月)
土地所有主体別面積

北方四島の面積内訳


(拡大)
湖沼等境界未確定
(拡大) 水面・河川・水路・道路
(拡大)

国有地面積:3,045,230ha 304万ha(30,452ku)
国有林面積:2,933,233ha 293万ha(29,332ku)
森林外国有地:111,997ha  11万ha (1,120ku)

自衛隊基地は国有林以外の 国有地1,120ku(11万ha)の中の459ku(4.6万ha)と考える。(2023.10.14)
米軍基地と自衛隊基地へ飛ぶ

A 1,451,482ha=8,342,422ha−(3,045,230ha+630,937ha+479,448ha+2,735,325ha)
B 951,198ha=7,842,138ha−(3,045,230ha+630,937ha+479,448ha+2,735,325ha)
その他951,198haの内訳を道庁で確認する事。(2023.11.22)
【%表示】
A その他17.4%=行政面積100%−(国有地36.5%+道有地7.6%+市町村有地5.7%+民有地32.8%)
B その他12.1%=行政面積100%−(国有地38.8%+道有地8.0%+市町村有地6.1%+民有地34.9%)
【公有地と民有地の割合】
A 公有地67.2% 民有地32.8%(2021.2.15)
B 公有地65.1% 民有地34.9%(2023.2.10)

A その他17.4%は道路、海岸及び河川等である。そのうち6.9%が水面・河川・水路・道路と思われる。
「平成27年度土地所有・利用概況調査報告書」91p土地利用現況面積―圏域別―の

B行政面積:7,842,138ha(北方領土を除く)を使う方が妥当だと思う。(2023.10.12)2022.7.8のA行政面積の使用を改める。

水面・河川・水路(3.5% 274,474ha)道路(3.4% 266,632ha)の6.9%であるのを利用。
水面・河川・水路・道路は541,107haと推定できる。
▲7,842,138ha×6.9%=541,107ha(2023.10.12)

▲水面の中身は(海岸、湖、沼)? 長野県須坂市のHPは
土地利用の現況調査の解説20頁で水面、海浜を次のように説明している。
水面 : 河川水面、湖沼、ため池、用水路、濠、運河水面
その他の自然地: 原野・牧野、荒れ地(注1)、低湿地、河川敷・河原、海浜、湖岸
従って「水面・河川・水路は3.5%」に海浜も含まれていると解釈しても大きなズレはなさそう。 むしろ定置網漁法がアイヌ民族にも確保されなければならないことから考えると海浜も、その先の沖合もアイヌモシリと考える必要がある。 (2023.2.13)
B この場合どうなるか
水面・河川・水路は3.5%を利用すると7,842,138ha×3.5%=274,475ha 道路は3.4%で266,632ha
合計6.9%で541,108ha
北方4島とその他を除く北海道の公有地面積(国・道・市町村):4,155,615ha(7,842,138−2,735,325−951,198ha)

▲その他951,198haのうち水面・河川・水路274,475haはアイヌ民族の生業にかかわる部分である。従って 北海道の公有地面積4,155,615ha(国3,045,230ha+道630,937ha+市町村479,448ha)全体、ないし少なくとも公有地のうち森林面積3,964,568haプラス水面等274,475haの合計4,239,043haが アイヌモシリ回復の対象となる。所有、管理の形態・方法は詰める必要がある。(2023.2.10)
国有地面積
(3,045,230ha)/7,842,138ha=38.8%
国有地面積+道有地面積
(3,045,230ha+630,937ha)/7,842,138ha=46.9%
国有地面積+道有地面積+市町村有地面積
(3,045,230ha+630,937ha+479,448ha)/7,842,138ha=53.0%
国有地面積+道有地面積+市町村有地面積+水面・河川・水路
(3,045,230ha+630,937ha+479,448ha+291,984ha)/7,842,138ha=56.7%
▲北海道の国・道・市町村の森林面積:3,964,568haこれのアイヌ民族による管理を(2022.4.14)。
▲チコロナイの森は25ha。(2022.4.15)

平成30年度(2019年3月)北海道林業統計
森林面積
(拡大)
土地総面積 8,342,383ha  「北方四島」500,305haを除く土地総面積 7,842,078ha
「北方四島」を除く土地総面積に対する森林面積割合 70.6%

森林面積合計 5,537,420ha
国有林計 3,063,404ha(内訳)
森林管理局所管国有林
        3,038,536ha
その他国有林  24,868ha
民有林計 2,474,016ha(内訳)
  道有林   608,013ha
  市町村有林 318,019ha
   私有林等 1,547,984ha

公有地森林面積と公有地
国有林森林面積/国有地:3,038,536ha (その他国有林24,868ha含まず)/ 3,045,230ha  99.8%
道有林森林面積/道有地:608,013ha / 630,937ha  96.4%
市町村有森林面積/市町村有地:318,019ha / 479,448ha  66.3%
   合計      3,964,568ha / 4,155,615ha  95.4%
公有地4,155,615haの「北方四島」を除く土地総面積7,842,078hに対する割合:53.0%

(国有林森林面積3,038,536ha +その他国有林24,868ha)/土地総面積7,842,078h:39.1%

(道有林 608,013ha+市町村有林318,019ha )/土地総面積7,842,078h:11.8%

公有森林面積3,989,436ha (その他国有林24,868ha含む)/土地総面積7,842,078h:50.8%

私有林等 1,547,984ha/土地総面積7,842,078h:19.7%

森林面積合計 5,537,420ha/土地総面積7,842,078h:70.6%

アイヌの人たちが「国有林すべて返せ」と言われるのは森林管理局所管国有林 3,038,536ha、道有林 608,013ha、 市町村有林 318,019haの合計3,964,568haなのか、それとも違ったイメージを持っておられるのか今後詰めていく必要がある。(2023.2.4)

▲「北方四島」 歯舞群島(9,484)色 丹 島(25,057) 国 後 島(148,990) 択 捉 島(316,774)の広さ(500,305)は千葉県とほぼ同じ。 (2023.2.5)
▲上記作業終了(2023.2.6)



▲ふと疑問が湧く。北海道の基地はどうなっているのだろうか、と?(2023.10.12)
北海道の米軍基地群 344ku 琵琶湖の約1/2。沖縄 223ku

北海道に点在する
自衛隊基地・駐屯地
(拡大)
航空自衛隊千歳 新千歳空港に隣接・
不知(拡大)
2022防衛白書 (拡大)
防衛北海道45号
「北海道に所在する自衛隊施設数は314、全国の自衛隊施設の面積約1,087kuの約42%、約459ku を占め、その中でも、演習場の面積は全国の47%が所在しております。」
都道府県別自衛隊施設数量一覧
▲圧倒的な集中。沖縄だけに目がいっていたが北海道も大きな課題を抱えている。(2023.10.13)
▲基地は北海道国有地の一部を占めている。459ku。
▲北海道の国有地30,452ku 基地460ku 森林面積30,385ku 基地は森林面積の中に含まれるのか?(2023.10.13)
           
財務省:国有財産現在額
財務省国有財産現在額令和4年3月 87,679ku=8,767,916ha。(拡大)

財務省:国有財産
国有地の面積・価格 立木価格
国有財産・土地の面積876万ha 価格19兆8056億円 立木竹(りゅうぼくちく)3兆6250億円 合計23兆4306億円(拡大)

MIP回復運動へ 306万ha 504万円/haで15兆円

▲国有財産 土地 876万ha 価格19兆8056億円を使うと 306万ha/876万ha×19兆8056億円=6兆9126億円  約7兆円という金額が導き出される。(2023.10.14)
立木3兆6250億円を入れると8兆1579億円になる。(2023.10.18)

▲「国有財産・土地の面積876万ha 価格19兆8056億円」から逆にha当たりの単価は226万円が出てくる。226×306=6兆9000億円が導き出せる。 全体を俯瞰する視点からはこちらの方が説得力がある。考えを改める。(2023.10.15)


▲北大演習林は特別。アイヌモシリであったことの大学評議会の確認が必要。北大は遺骨問題等、問題が大きい。 その割に元々アイヌモシリであったとの自覚に欠けている。(2023.2.11)
1982.7.25「北大百年史 演習林」小鹿勝利
1980.11紀要「大学演習林」小鹿勝利
演習林設置状況 紀要(拡大)

演習林創設年次
▲東大の北海道と北大の北海道に注目。演習林は所有形態別ではその他民有林。確認ズミ(2023.2.14)
紀要(拡大)
演習林設置場所
(拡大)
演習林は財産林 百年史(拡大)
演習林は永久の財源 百年史(拡大)
演習林は国有林の所管換え 百年史(拡大)
















(拡大)
(拡大)
▲北大の土地の来歴を調べること。 (「百年史」では演習林は国有林の所管換えとなっている。)元はアイヌモシリ。少なくとも「アイヌモシリの会」との契約が最低条件。 東大の北海道の演習林も調べること。アイヌ民族との関係で胸を張って来歴を説明できる筈はない。 遺骨の問題も絡んでくる。(2023.2.11)

所有形態別の森林面積 
その他国有林2万haに注意。演習林はその他民有林(2023.2.14林野庁確認)
国有林の所在
道有林の所在
2006年吉田論文 https://lex.juris.hokudai.ac.jp/coe/lecture/resume/2006/kunihiko_2.pdf
▼市川守弘『アイヌの法的地位……』38p。萱野さんの「国有地すべてを返せ」の根拠になる。
150p。 「私は、アイヌに対し、まずは土地の返還を考えるべきだと思う。」市川弁護士、ちゃんと言っている。なぜやらないのか、不思議。(2021.2.21)


貝澤耕一さんの主張
▼父上・貝沢正さんは著書『アイヌ わが人生』で「三井の山のアイヌへの返還」主張しておられる。 耕一さんは「ダムの水門を開け」れば元の川に戻るのでダムは残し、「鮭を取り戻す」と主張しておられる。
●普通ダムというのはコンクリートを積み上げて上から水を流しますね。 二風谷ダムは7つの水門があり、 その水門の扉を上から落として閉めなければ水が溜まりません。 つまり、水門を開ければ元の川に戻ってしまうのです。  だから、この7つの水門をあげて、このダムを保存してほしい。 そして大雨が降って、洪水が起こりそうになったら、 門を閉めて洪水調整してほしい。 そしてこの二風谷ダムを「負の遺産」として、開発事業やアイヌ民族への歴史的事実に対する負の遺産として、 保存してほしいと願います。
チコロナイの森 https://theslothclub.wixsite.com/2020/post/_1019
13p(拡大) 『レジリエントな地域社会』

「日本における先住民族、あるいは少数民族の権利を奪い取るかということが 、一番重要だと思います。」15p
ナマケモノ倶楽部 チコロナイの森
ユーチューブより
●鮭がアイヌにとっては主食だったんです。ですから私のお祖父さんは、 「自分たちが小さな頃は囲炉裏に鍋をかけて、それから川にいって鮭を捕って帰ってきても、まだ鍋は煮たっていなかった」と言っていました。
北海道新聞夕刊2021.3.26 「川や海の漁、山菜を採り木を切ること、これらすべての権利を求めていきたいというのが本音です。」
ウコチャランケ(拡大)

昔は大量の鮭が川を上ってきていたのです。。一匹の鮭は、2日や3日、一つの家族が食べる分には充分です。 その主食の鮭、早い時期には本当に食べる分しか取らない。
11月になって始めて、大量の鮭を捕ります。というのは、鮭は産卵を終えると全部死んでしまうのです。
捕ってきた鮭を開いて、軒下に干しておきます。 そしてある程度乾燥すると、囲炉裏の上の棚に置いておく。そうすると、黙っていて薫製ができるわけです。 薫製にしてまえば、何年でももつ保存食になります。 産卵を終えた鮭、その鮭をいただいてきて、主食としている。

萱野志朗さんの主張
●私は、2007年12月29日付け『朝日新聞』opinion 「異見/新言」欄に「先住民族と認め、土地返還を」という記事を書いたことがあります。 北海道は面積の6割以上が国有地です。そのほか北海道有地、市町村自治体の公有地まで入れると、 たぶん7割以上になります。残りも、明治時代に大企業へ土地が払い下げられた私有地が多くを占めています。
40年後の森(拡大)

貝澤さんは北海道の森の本来の姿、 40年後も見据えた取り組みをされている。アイヌモシリ回復訴訟につながる。(2021.11.14)
本来の森を!(拡大)

画像 貝澤耕一さん
チコロナイの森(拡大)
北海道在住のアイヌ人口が今、2万4000人。 北海道外のアイヌを入れたら最低でも3万人はいるだろうと想像できます。 その3万人に北海道の面積の6割以上を占める国有地を返せ、と ただ、いま仮にそれを返してもらっても、多くは国立公園地域を含む森林ですから、われわれだけでは管理しきれない。
理事長・貝澤太一さん (拡大)
そこで、われわれは権利だけを返してもらう。それを日本政府に貸し付ける形にして地代をいただき、 森林の管理業務は引き続き日本政府にアイヌ民族が委託するという形を取ってはどうか、と提案したのです。
「アイヌ民族生活実態」北海道大学アイヌ・先住民研究センター https://www.cais.hokudai.ac.jp/wp-content/uploads/2015/05/20150512_ochiai_report.pdf
『平成20年(2008)北海道アイヌ生活実態調査』によればアイヌ世帯の平均年収は 355.8 万円 。 『平成 25 年(2013)国民生活基礎調査』によれば、北海道の平均年収は 473.5 万円(差117.7万円) 全国の平均年収は 537.2 万円(差181.4万円)。
北海道アイヌ民族生活実態調査(2008 年)によれば、アイヌの男性の平均個人年収は 321.1 万円であ り、北海道平均の 488.0 万円(平成 20 年賃金構造基本統計調査)を大きく下回っていた。
世帯年収をみると、世帯主が男性の平均世帯年収は 400.7 万円、世帯主が女性の平均世帯年収は 316.6 万円
▲母子家庭には更に特別の対策が必要。(2022.11.8)
野崎剛毅(のざきよしき)によれば、北海道アイヌ民族生活実態調査対象者の うち個人年収が北海道の「平均以上」となったのは全体の 25.2%にすぎず、「アイヌの人々の厳しい経済 状況が改めて浮き彫りになっている」。

▼「ダムの水門を開ける」「鮭を取り戻す」そして聖地、二風谷を取り戻す。(2021.2.13)
▲「国有林すべてアイヌ民族に返せ」は萱野志朗さん、貝澤耕一さん、共通の主張です。貝澤さんはチコロナイの森の経験から 具体的に北海道全土の国有林をアイヌモシリの森に復活させるイメージとノウハウを持っておられます。(2021.10.31)



▲いま一度「アイヌモシリ回復」のイメージと常本見解を整理しておく。(2022.9.1〜9.3)

40年後の森(拡大)

本来の森を!(拡大)

イオル計画1

イオル計画2

イオル計画3

重要文化的景観図

(拡大)
●貝沢正さんは著書『アイヌ わが人生』で
「三井の山のアイヌへの返還」
「自然のままに撫育するなら200年後に復活するかも知れません。」

と書いておられる。

●耕一さん「(父の)願い」19981.25『裁判記録』で
「自然林を取り戻すための前提として、コタン(村)の裏山(社有林、国有林)を返し 、アイヌ民族共有とし、自然保護、文化伝承の場とすること。」
と書いておられる。

●「チコロナイの森」で貝澤耕一さん、太一さんは北海道の森の本来の姿、40年後も見据えた取り組みをされている。 上記右写真。

●「チコロナイの森」をベースにして、平取町の「イオル再生構想」と「重要文化的景観構想」(左写真)を取り込めないか。

萱野茂
  裁判を終えるにあたって


裁判記録506p(拡大)
●萱野茂さん
「でっかい島を日本人に売った覚えもないし、貸した覚えもない、日本人よ 年貢ぐらいだしたらいいでしょう。 (『アイヌの碑』)」


(拡大)
●萱野志朗さん
「私は、2007年12月29日付け『朝日新聞』opinion 「異見/新言」欄に、北海道在住のアイヌ人口が今、2万4000人、 北海道外のアイヌを入れたら最低でも3万人はいる、その3万人に北海道の面積の6割以上を占める国有地を返せ、と。
それを日本政府に貸し付ける形にして地代をいただく、と提案したのです。」


『日本北方史の論理』192p
和人地の拡大

「1865(元治2)年にはヲタルナイ場所が和人地に準ずる「村並」 の穂足内村となるほどだった。」
▲1833年〜1836年天保の飢饉で東北からヲタルナイに移住者が急増。 大坂拓論文より(2022.5.3)
榎森先生講演記録2022.1.23

「歴史に見る」1

「歴史に見る」2

「歴史に見る」3
●和人地
榎森先生講演記録2022.1.23より。
「ヲタルナイを含む「松前地」のみが 日本国の「領知」であった。」
▲それ以外はアイヌモシリとして回復の対象。(2022.5.15)



▼ここに収められている講演記録は主に1995年5.15〜1996年6.15のアイヌ文化講座での 問題提起とシンポジウムの発言ですです。 極めて貴重な記録です。今回の訴訟に大変役に立つと思います。(2021.1.30)
●常本照樹教授『アイヌ語が国会に響く』(1997年出版)99p〜102pで先住民族の権利を保障する立法に関する法的課題を検討。
@土地に対する権利
「憲法29条があるが、国公有地については問題がない。個人の所有地は、任意買収を前提に購入資金を 国庫から支出する方法が考えられる。」

A憲法の標榜する個人主義と集団的権利の両立の可能性
「民族の集団的権利」その3
「民族は、個人の生き方の文脈を提供するもの。個人の自律権ないし選択の自由を意味あるものとするために不可欠な存在。 その(個人の)存在を保障するために(民族の)権利主体性を認めるべきとの考え方がある。 こう見ることによって、集団としての民族の権利主体性と個人主義を両立させることが可能になるように思われます。

▲慎重な言い回しながら「個人主義と集団的権利の両立可能」との結論。当時常本教授は42歳の新進憲法学者。優秀。 (2022.9.3)

常本講演(平成26年)2014.10.24 https://www.jinken-library.jp/database/column/entry/10243/
法務省の委託を受けて(公財)人権教育啓発推進センターが地方公共団体向けに実施した人権啓発指導者養成研修会の記録です。 東京会場 講義6 平成26年10月24日(金)

▲2014年常本氏、59歳。
今日は「アイヌ民族の人権と政策」というタイトルでお話をさせていただきたいと思っております。アイヌ民族に関しては、北海道から海を渡って本州から四国・九州の方に来てお話をすると感じますが、アイヌ民族がどういう人々で何が問題なのかということについても、残念ながら必ずしも知られていないというのが実態です。 その点では、皆様が日頃関わっておられる同和問題などとはかなり違った面があるような気がします。
▲どういう場で、どういう人を対象に講演したのか知っておく必要を感じて調べた。 常本さん、罪深いですよ。この日の講演の内容は。日本の世論をミスリードする先頭に立っていますよ。(2023.11.7)

全国規模の統一的なアイヌ関係団体は存在していません。
▲たまたま目に止まる。反論しておきます。「アイヌモシリの会」を立ち上げる。(2023.11.6)

最も大きいのは北海道にある「北海道アイヌ協会」ですが、これは今年(2014(平成26)年)の4月から公益社団法人になっています。 最も大きいといっても会員数は約2,600人です。 ただし、だいたいは個人会員でそれも世帯主なので個人会員の配偶者ないし子どもも事実上の会員と考えれば、 家族込みの数は1万人くらいなのではないかとも言われています。
▲1万人。約半数。如何に小さいかを解説しようとしている。意図、魂胆がさもしい。 (2023.11.6)

アイヌの人々の声を政策推進に反映させる場として、それが具体的に形となったのはこのアイヌ政策推進会議と言われるものです。 2009(平成21)年12月に設置され、現在でも活動を続けています。
現在14名の委員がいますが、そのうちアイヌ民族出身の委員が5名、アイヌ関係団体の人も1名入っていますので、 血統的にはアイヌではありませんがアイヌ関係者という意味では6名と言えるかと思います。

政策推進作業部会は2011(平成23)年8月に設置され現在も活動しています。これは全部で10名の部会員がおりますが、そのうち5名、半分がアイヌ関係の委員から構成されています。 現在私はこの作業部会の部会長として取りまとめの仕事させていただいているところです。
▲2009(平成21)年12月のアイヌ政策推進会議、2011(平成23)年8月政策推進作業部会のほぼ半数がアイヌ関係者。 これで民主的にアイヌの意見も聞いている、と聴衆に語る。巧妙。(2023.11.6)

今年2014(平成26)年6月13日に「アイヌ文化の復興等を促進するための民族共生の象徴となる空間の整備および管理運営に関する基本方針について」というものが閣議決定されました。 つまり政府の最高の決定機関において、正式に象徴空間を設置することが決定されたわけです。

「民族の集団的権利」その2
日本国憲法はご承知のように異民族の存在を全く想定していません。アイヌはもとより、 民族というものの存在を前提にした規定は一切存在していないわけです。 憲法13条は「国民は個人として尊重される」ということをうたっていますし、憲法14条では「法の下の平等」をうたっています。
▲この断定は違う。(2022.12.2)20年前の自身の見解と違っていないか。(2022.12.5)
▲裁判所は民族的差別を14条の人種の条項を使って判断している。つまり人種の中に民族が含まれる前提で判断している。 札幌地裁昭和50年(1975)12月26日判決。房川論文より。
裁判所は 「旧土人という呼称は,右にみたように人種的範疇をもうけてそ の能力を一般的に著しく劣るものとしている点において蔑称としてのひびきがあり,人種的差別として憲法 14条に照らし 問題がないわけではない。(中略)右法(旧土人保護法)の実体が(中略)人種的差別をするものとは認めがたい。」と判示した。
裁判実務がこうである。常本先生、この判決をご存じでないわけはありませんね。(2023.11.9)

▲条文の確認
●第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、 差別されない。
▲人種のなかに民族が含まれる。つまりアイヌ民族が。(2022.12.2)
人種の定義  人種差別撤廃条約第1条
国際的には人種のなかに民族が含まれることが常識。(2023.11.9)

ですから、日本国民の中の一定のグループだけを特別扱いするということは、直接的にはこういった個人尊重の原理、 あるいは法の下の平等の規定に違反するという問題が出て来る恐れが強いわけです。
▲個人尊重の原理を強調し過ぎ。個人は民族に含まれる、と1997年の常本氏は考えていた。(2023.11.6)

もう1つ、「政策対象者の1%の壁」と言われる問題があります。
日本の場合には、そもそもアイヌ民族が何人いるかという正式な人口が分からないのです。仮に2〜3万というおおまかな数をベースに考えたとしても、全国の人口からいうと0.04%程度、道内に限っても0.5%程度ということですので、人口的には非常に少ないという現実があり、 政策対象として取り上げられることがなかなか難しいという現実がこれまであったわけです。
そういった目的に合理的な関連性を有する政策であれば憲法13条を根拠として正当化でき、憲法14条には違反しないということが言えると思います。しかし、こういった目的と合理的な関連性を持たない特別処遇は、憲法14条の「法の下の平等」に違反して、 憲法上許されないということになるだろうというのが憲法的な分析結果になるわけです。
▲憲法14条の人種に民族が入らない、と常本は考えている。間違い。 更に憲法以前の問題があることを意図的にすり抜けている。(2023.11.6)

先住民族であるということはどういう意味を持っているのかを整理しておきたいと思います。 アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会の報告書から関連する部分を抜粋してご紹介します。 ここには、なぜアイヌを先住民族として位置付けるのかということが歴史的な経緯として書かれています。 「今後のアイヌ政策は国の政策として近代化を進めた結果、アイヌ文化に深刻な打撃を与えたという歴史的な経緯を踏まえ、 国には先住民族であるアイヌ文化の復興に配慮すべき強い責任があるということから導き出されるべきである」。 ここで書かれている趣旨を整理してみると、1つは「日本の近代化政策の課程で民族の意に関わらずアイヌを支配し、 その文化に打撃を与えたということ。そして国は他のマイノリティに対するよりも一層強い文化復興の責任を有すること」。
▲文化のこの論法を土地、生業に広げる。打撃を与えたのは文化だけでないでしょう。(2022.12.2)
▲この講演、良くない意図が感じられる。2007年国連・先住民族権利宣言がまったく触れられていない。 文化だけになぜ特化できるのか。一面的でないのか。論理的でない。説得力に欠ける。(2023.11.7)

▲近代化の結果深刻な影響を与えたのは文化だけだったのか。 土地、鮭漁、鹿猟、住居等の生きる基盤そのものに深刻な影響を与えた、との記述があるはず。有識者懇談会報告書を精読し、探る。 (2023.11.10〜)

有識者懇談会での加藤理事長発言
平成21(2009)年7月「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書」(首相:福田・麻生 官房長官:町村・河村)
2p「アイヌの歴史と文化を我が国の歴史と文化の中で確実に把握し、 客観的に記述することは日本の多文化社会性を理解する上で肝要である」。
▲報告書は「日本の多文化社会性」と多様性を文化に限定している。 「多文化・多民族性」とするべき。そもそもの出発点がおかしい。(11.10)

5p「 松前藩は、和人が居住する地域を和人地(わじんち 渡島半島南端。函館、松前を中心とした地域)、その他の地域を蝦夷地(えぞち) (注) として区分」した。蝦夷地はアイヌの人々が生活できる区域であり、松前藩の許可なく和人が出入りすることは禁じられた。
▲「蝦夷地はアイヌの人々が生活できる区域」この表現自体おかしい。 元々アイヌ民族の大地なのに。蝦夷地は松前藩、江戸幕府から見ると化外の地、外国。あとで地図の証拠を出す。(11.10)

3p「異文化びと」と「和人」の接触〜交易(中世)
▲(中世)の見出しが「異文化びと」と「和人」の接触〜交易となっている。? アイヌ民族ではなく「異文化びと」。 あくまで日本国民の一員であるアイヌ。異民族を避けて造語「異文化びと」で有識者懇談会は通したいようだ。(11.11)

9p〜10p「 1855年の日魯通好条約により日本とロシア二国間の国境が確認された。 幕府は、ロシアとの交渉に際し、アイヌの人々は日本に所属する人民であり、アイヌの人々の居住地は日本の領土であると主張 した。協議の結果、日魯通好条約では、択捉以南の諸島を日本領 とし、北蝦夷地(樺太)は国境を設けず、これまでどおり両国民 の混在の地とすることが合意された。国際社会の圧力の下で国家 の近代化を進めた日本にとって、諸外国と自らの領域的境界を国 際的に定めることは避けることのできない過程であった。しかし、 この過程は、アイヌの人々の意に関わらず行われ、北海道はもと より千島や樺太に住む人々の生活に直接影響するものでもあった。 」
▲有識者懇談会報告書は政府も承認している。ということはロシアとの国境画定に際して 「アイヌの人々の意に関わらず行われ(た)」ということも承知している。それを明治政府も当然のこととして引き継いでいる。

10p「明治維新直後の明治2(1869)年、蝦夷地一円は北海道と改称されるとともに、日本の他の地域と同じく「国郡制」が導入され、北 海道は明治政府の統治下に置かれる。」
▲1855年の江戸幕府によるロシアとの国境画定、1869年8月15日の明治政府による蝦夷地の内国化、 つまりアイヌモシリの植民地化ということ。
「報告書」はこの過程を実に巧妙に一般読者に悟られないようにぼやかしながら、 しかし史実を踏まえながら表現している。
1945年の敗戦を終戦と言うことによって戦争に負けたという敗戦の事実を薄らげるように 植民地侵略の事実を明治政府の統治下に置かれたと表現している。「報告書」は事前に官僚の手が入っていること間違いない。 常本原案を官僚が完成させている、とみる。(11.11)


24p「今後のアイヌ政策は、アイヌの人々が先住民族であるという 認識に基づいて展開していくことが必要である。 すなわち、今後のアイヌ政策は、国の政策として近代化を進 めた結果、アイヌの文化に深刻な打撃を与えたという歴史的経 緯を踏まえ、国には先住民族であるアイヌの文化の復興に配慮 すべき強い責任があるということから導き出されるべきである。」
▲深刻な打撃は文化だけか。文化以外を 「有識者懇談会報告書」から拾う。
12p「明治政府は、全国的に租税制度を確立するため、北海道 においても近代的な土地所有制度を導入する。この中で従来アイ ヌの人々が狩猟、漁撈、採集を行っていた土地についても、持ち 主を明らかにして売払いを進めようとした。当時、アイヌの人々 で文字を理解する人はごく少数であり、イオ ル として集団的な土 地利用はあったものの近代的な意味での個人的な土地所有の観念 がなかったため、アイヌの人々で所有権を取得した人はほとんど いなかった。」
▲土地の収奪。これが根本。(2023.11.12)

12p「和人の移住に伴う区画割や市街地の形成の際などにアイヌの人々を移住させた例も見られる。」
▲強制移住。表現は、さらり。実は20数件ある。天皇家に関わる御料牧場・姉去強制移住もある。樺太、千島もある。(2023.11.12)

12p「明治5(1872)年に制定された地所規則・北海道土地売貸規則 では、北海道の土地は官用地並びに従前民間で拝借使用中の土地 を除いてすべて官において民間の希望者に売り払うこととされた。
この規則の中で、「従来土人等(アイヌの人々)が狩猟、漁撈、 伐木に使用してきた土地であっても、人跡の隔絶した土地を除き すべての土地の所有区分を明らかにする」旨規定され、アイヌの 人々の使用していた土地についても新たに所有権を設定し、付与 することとなった。
しかし、申請に必要なアイヌの人々の戸籍の完成が明治9 (1876)年ころであったこと、上述のようにアイヌの人々には、 近代的な意味での個人的な土地所有の観念がなかったこと、文字 を理解する人はごく少数 (注) であったことなどから、この規則 により所有権を取得したアイヌの人はほとんどいなかった。

(注)大正5(1916)年の調査で見ても、日本語の文字を理解で きるアイヌの人は、およそ 30%( 40 歳以上に限れば3%)と なっている。」

「狩猟、漁撈、伐木に使用してきた土地であっても」「土地の所有区分を明らかにする」「アイヌの人々には、 近代的な意味での個人的な土地所有の観念がなかった」しかも1872年から44年のちの 「1916年の調査で40 歳以上に限れば日本語の文字を理解で きるアイヌの人は3%」という。ましてや明治5年は皆無と言ってよいだろう。アイヌ民族にとっては外国語のこの規則は無きに等しい。 この土地収奪こそが文化と並んで、ある意味文化以上に「近代化を進めた結果の深刻な打撃」ではないのか。(2023.11.12)

▲以下の4点は「深刻な打撃」を離れて留意しておきたい箇所。(2023.11.12)

39p「アイヌ政策全体に関する総合的な窓口は置かれていない。」
▲総合的な窓口が内閣府に政策推進本部という形で設置された。(平成三十一年(2019)法律第十六号 アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律) 長は内閣官房長官(35条)。チャランケの相手は政策推進本部・内閣官房長官。本部案が決まったら内閣総理大臣に報告され、 閣議に掛けられる(7条)。 「政府は、情勢の推移により必要が生じたときは、基本方針を変更しなければならない」(7条5項)。アイヌモシリ回復はこれに該当する。 (2023.11.12〜13)

▲運動の形が見えた。「アイヌモシリの会」の立ち上げ。政策推進本部とチャランケ。アイヌモシリの回復。 内閣総理大臣に報告。閣議決定。「基本方針の変更」。(2023.11.14)
40p「同時にアイヌの人々にもアイヌの総意をまとめる体制づくりが求められることになろう。」
▲この指摘は耳が痛いがそのとおり。実現させること。「アイヌモシリの会」として。 (2023.11.12)

41p「懇談会の全会一致をもって取りまとめたものである。」
▲了解。この範囲で責任持ってください。(2023.11.12)

42p「アイヌの人々が「先住民族」として誇りを 持って積極的に生きることのできる豊かな共生の社会を現実のものとしようとする新たな局面に立っている。」
▲将来の方向としては同じ考え。賛成。(2023.11.12)

●「近代化政策の結果として打撃を被った先住民族としてのアイヌの人々の文化の復興」
文化に特化しているこのフレーズは何ヶ所使われているか数える。(11.11)
17p 2箇所、20p、24p、25p、28p 2箇所、29p、33p 計9箇所


▲その他「報告書」の記述で参考になる箇所、考え方。(2023.11.12)

21p「これまでの文化振興関連施策はアイヌの文化の承継や発展 にとって十分に機能していない側面があるのではないかとの指摘 もある。 」
▲珍しい反省のことば。(2023.11.12)

22p「国会決議は、まず、我が国が近代化する過程において、多数の アイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、 貧窮を余儀なくされたという歴史認識を示した。」
▲「貧窮を余儀なくされた」。土地から、文化から、生業まですべてを奪ったからね。国会決議のこの箇所を見落としていた。感謝。 (2023.11.12)

23p「平成8(1996)年のウタリ (注) 対策のあり方に関する有識 者懇談会報告書は、「少なくとも中世末期以降の歴史の中で見 ると、学問的に見ても、アイヌの人々は当時の『和人』との 関係において日本列島北部周辺、とりわけ我が国固有の領土 である北海道に先住していたことは否定できないと考えられ る」としてアイヌの人々の先住性を認めたが、これは事実の 確認にとどまり、新たな政策とは結びつけられていなかった。
それはその後制定されたアイヌ文化振興法においても同様で あり、同法が推進する文化振興施策はアイヌの人々の先住性 から導かれるものではなかった。 」
▲立派な批判。今回は先住性を認め、政策まで進むという決意。しかし実際は文化+土地の利活用にとどまっている。 (2023.11.12)

ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会
報告書
(拡大)
ウタリ対策のあり方に関する有識 者懇談会報告書(首相:橋本 官房長官:梶山)
▲平成8年(1996)の「報告書」6頁で「北海道の土地、資源等の返還、補償等に関わる自決権 という問題を、新たな施策の展開の基礎に置くことはできないものと考える。」と明言している。「アイヌ対策のあり方に関する」が 土地の問題を避けている理由がわかった。(2023.11.12.15:55)
24p「ここでいう文化とは土地利用の形態などを含む」
▲恐る恐るの土地への踏み込み。しかしこの程度。(2023.11.14)

26p「我が国が締結している「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」第 2条2 (注) が、締約国は特定の人種への平等な人権保障のた めに特別な措置をとることができるとしていることも視野に入 れる必要がある。 」
▲人種に民族も含めているとも読める。(2023.11.14)

28p「なお、個々のアイヌの人々のアイデンティティを保障するた めには、その拠り所となる民族の存在が不可欠であるから、そ の限りにおいて、先住民族としてのアイヌという集団を対象と する政策の必要性・合理性も認められなければならない。」
▲この考え方は常本委員のもの。(2023.11.14)

29p「国民一人ひとりが、自分たちも一民族であると認識するとともに、アイヌという独自の先住民族 が国内に生活していることを認識し、尊重するようになることが求められているといえよう。」
▲日本が他民族国家であることを「報告書」は認めている。(2023.11.14)

41p「本報告書においては、当懇談会に与えられた課題に照らし、国の政策のあり方を中心に論じた」
▲懇談会に与えられた課題は「文化だけ」だったことが推察される。(2023.11.12)
▲土地の問題は「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会報告書」で排除されている。 (2023.11.12)
虐殺でない正当化論の誤り1 2023.11.14朝日朝刊(拡大)
虐殺でない正当化論の誤り2 2023.11.14朝日朝刊(拡大)
▲懇談会報告書と政権の意向 新聞の切り抜き入れる
報告書と政権の意向「政府になりかわって報告書を書いたという意識は 持っていません。」「有識者の学問的良心に従った報告書を作ることが許されていました。 今、それができるかどうか……」▲この辺微妙。 (2023.11.15)
▲「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会報告書」から法案成立まで1年、 「アイヌ対策のあり方に関する有識者懇談会報告書」からは10年。この違いの理由は? 夜、電話でユポさんに聞く。アイヌ側に問題があった、と。(2023.11.13)


常本教授の経歴と業績
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/77205/1/lawreview_70_6_09_Saito.pdf
常本照樹教授の経歴と業績 齊 藤 正 彰
1999年5月から北海道大学総長補佐(2004年3月まで)、2007年4月から北海道大学アイヌ・先住民研究センター 長(2020年3月まで)を歴任、同時期の2008年12月から大学院法学 研究科長・法学部長(2010年12月まで)を務められた。

1970年代に始まったとされる先住民族の権利回復を目指す世界的な動きの中で、北海道ウタリ協会(2009年に北海道アイヌ協会に名称を復した)が1984 年の年次総会において「アイヌ民族に関する法律案(アイヌ新法案)」を採択した。
これを受けて当時の横路孝弘北海道知事が新たな法的措置の必要性を検討 する諮問機関として同年10月に「ウタリ問題懇話会・新法問題分科会」を設け、 その座長に中村睦男教授が招請された。先住民族の権利や先住民族法制という 当時の日本の学界にさしたる蓄積の無い「最縁辺」(さいえんぺん)で、常本教授は、懇話会委 員として中村教授を支えて「未踏の道を拓いてきた」。

1995年3月に内閣官房長官により「ウタリ対策の あり方に関する有識者懇談会」が設置され、伊藤正己・元最高裁判事が座長と なり、中村教授が座長代理に指名された。
この時期、常本教授が著した「人権 主体としての個人と集団」が、二風谷ダム事件に関する札幌地裁判決(1997年) の論理に大きな影響を与えたことは明らかである。「民族の文化は、個人の人 格的生存に関わる自律的選択の文脈を提供し、有為な選択を可能にするものな のであり、その文化の享有は憲法13条によって保障されている」(「憲法はアイ ヌ民族について何を語っているか」)
常本見解 キムリッカの理論 1995年4月10日出版(拡大)
憲法を考える
憲法は何を語っているか1 2016.5.3有斐閣

▲この論文(1995年「人権主体としての個人と集団」長谷部恭男編著『リーディングズ現代 の憲法』日本評論社)を読むこと。(2023.11.7)
▲左、今日読んでHPにUP。(2023.12.7)
中村睦男総長の下で2007年4月に「北海道大学アイヌ・先住民研究センター」 が開設されてから今日まで、常本教授は唯一のセンター長である。2008年には、 衆参両院における「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」の採択が あり、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」が設置されて、佐藤幸治 座長の下で常本教授も委員に就任された。さらに、北海道や札幌市の関係機関・ 会議体の委員長なども務められ、2011年8月からは内閣官房長官を座長とする アイヌ政策推進会議の政策推進作業部会の部会長に就任されている。常本教授の長年にわたる尽力が 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」(アイヌ施策推進法)として結実したとすれば、教授は、法学・者として 最大の「業績」をあげたといえるかもしれない。

憲法は何を語っているか2
憲法は何を語っているか3
2016.5.3有斐閣
▲この(1)〜(7)の整理は正確でない。
加藤理事長発言参照
▲「ウタリ協会理事長が懇談会のスタートにあたって提示した 政策要望に基づき」と常本論文では書かれているが理事長発言には土地、漁業権の要望がある。そこは削除されている。(2023.12.9)
その一方(7)で政治的参加への対応でアイヌ民族の総意をまとめる体制づくりを課題として挙げている。これは重要。(2023.12.11)
憲法は何を語っているか4 ▲北海道アイヌ協会を政府は民族自主組織と見ていない。大発見。 やはり自主組織「アイヌモシリの会」創設である。(2023.12.11)
▲ユポさんに確認。そのとおり、ということ。ならば北海道アイヌ協会への幻想を捨てて「アイヌモシリの会」に結集する必要 がある。(2023.12.15)
「委員の3分の1以上を当事者が占めるという厳しい状況」にあったウタリ 問題懇話会でも、内閣官房の官邸官僚と渡り合う政策推進作業部会長の職でも、 常本教授の思考の深みにあるのはアメリカ法についての識見に立脚するプロセ ス的関心からの研究であろうことは、1995年当時の「先住民族の権利」の実現 に関する具体的・比較法的研究に始まり、ハワイ先住民の比較的実証的研究か ら現代国家における先住権の具体的実現の可能性を探り、アメリカの先住民法 制から民主主義政治過程における先住民族についての示唆を求め、そこから、 先住民族の文化享有権・知的財産権の保障に眼を向けるとともに、「先住民族 の権利に関する国連宣言」の国内的実現の方策を検討して、学際的な視野から 「日本型先住民族政策」の憲法政策学的な考察を進めてこられた過程から看取 されるところであろう。

1999(平成11)年5月 北海道大学総長補佐(至2000年4月)2001(平成13)年5月 北海道大学総長補佐(至2004年3月)
2007(平成19)年4月 北海道大学アイヌ・先住民研究センター長(至2020年3月)
2020(令和2)年3月 退職

アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会委員
アイヌ政策推進会議委員(政策推進作業部会長)
文部科学省・大学等におけるアイヌの人々の人骨の保管状況の調査結果とりま とめに関する意見交換会委員
文部科学省・大学が保管するアイヌ遺骨の返還に向けた手続等に関する検討会 座長
国土交通省・民族共生の象徴となる空間のイメージの構築に向けた検討会委員
国土交通省北海道開発局室蘭開発建設部・平取ダム地域文化保全検討会委員
ウタリ問題懇話会・新法問題分科会委員
北海道アイヌ政策を考える懇談会員
北海道立アイヌ総合センター指定管理者候補者選定委員会委員長
札幌市アイヌ施策推進計画検討委員会委員長
札幌市アイヌ施策推進委員会委員長
平取町アイヌ文化振興推進協議会委員
公益財団法人アイヌ民族文化財団評議員

1995年 「人権主体としての個人と集団」長谷部恭男編著『リーディングズ現代 の憲法』日本評論社
1997年 『憲法裁判50年』(中村睦男と共著)悠々社
    『アイヌ語が国会に響く』(萱野茂ほか7名と共著)草風館
2000年 『アイヌ民族をめぐる法の変遷──旧土人保護法から「アイヌ文化振 興法」へ』さっぽろ自由学校
     「遊」ブックレット4
2007年 「民族自決権とアイヌ民族の「自治」」学術創成研究プロジェクト企画 「道州制とアイヌ民族──グ
     ローバル時代における地方政府と先住民 族」(北海道大学)
2010年 「「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の採択とその意義」、「アイ ヌ文化振興法の意義とアイ
     ヌ民族政策の課題」北海道大学アイヌ・先 住民研究センター編『北大アイヌ・先住民研究センター
     叢書1アイヌ 研究の現在と未来』北海道大学出版会
2011年 『アイヌ民族と教育政策──新しいアイヌ政策の流れのなかで』(札幌 大学附属総合研究所
      BOOKLET4号)
2019年 「アイヌ施策推進法──アイヌと日本に適合した先住民族政策を目指 して(新法解説)」法学教室
     468号

二風谷弁護士・房川樹芳(ふさがわ きよし)論文1999.12 ▲弁護士45歳の論文、現在69歳と思われる。(2023.11.8) https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/22311/1/6_P245-272.pdf
第 2款 判例
アイヌ民族の判例や法的問題は,これまでは主 として北海道旧土人保護法(33)に関連して論じら れてきた。
@ 北海道旧土人保護法と自作農創設措置法の関係が問題となった事例に関して,最高裁判所昭 和 37年 8月 21日判決がある(34)。
この事例は,アイヌが原告となり,原告が相続によって所有 権を取得していた農地を知事が不在地主の所有地として自創法により買収したことに対し,国 を被告として買収処分の無効確認を求めた事案である。
この事例につき,最高裁は「旧自作農創設特別措置法は,その第 1条にもあるように,(中略) その土地が北海道旧土人保護法によって無償で下付された土地であるからといって,これを買収から除外すべき理由は ない。(中略)右保護法をもって自創法の特別法と主張する論旨その他の論旨は独自の見解というべく採用の限りでない。」と判示した。
原告(は)北海道旧土人保護法の趣旨が土地の 所有権を旧土人に恒久的に保持させる趣旨であること,国といえども下付地の所有権の尊厳性 を侵さない義務を負っていることを主張しており,後の少数民族・先住民族の概念につながる ものがあることを窺わせる。

A 次に,北海道旧土人保護法に対して憲法判断が下されたものとして札幌地裁昭和 50年 12月 26日判決がある(35)。
この事件は,アイヌである原告の父が北海道旧土人保護法によって固から無償下付を受げた 土地を相続により取得し登記をしていたが,被告が同ーの土地につき売買を原因とする所有権 移転登記をし土地を占有していることに対し,抹消登記手続及び土地の引渡を求めたものであ る。
原告は,本件土地は北海道旧土人保護法第 2条によって,譲渡には北海道知事の許可が必要 であるが,被告は許可を得ていないと主張した。これに対し被告は 「同法は目的達成のために必 要かつ合理的な規範とはいえないものであり,個人の経済的活動の自由を制限し取引の安全を 害する」と主張し,更に「人的面からとらえると同法は北海道旧土人を保護の対象としている が,そもそもその名称において奇異であり」と主張した。
この主張に対し,裁判所は 「旧土人という呼称は,右にみたように人種的範轄をもうけてそ の能力を一般的に著しく劣るものとしている点において蔑称としてのひびきがあり,人種的差 別として憲法 14条に照らし問題がないわけではない。しかしながら同法第 1条は生活困窮に 立ち至った経済的弱者に保護を与え,その生活の維持をはかろうとするものであり,同法 2条 はこの目的の達成のために必要な制約を無償下付した土地に限定して力日えているものに過ぎ ず,特に同法第 2条 2項の制限は右許可事務処理要領からみても極めて控え目な必要且つ合理 的な最小限の制限にすぎないので,右法の実体が旧土人を無理矢理営農にしばりつけ人種的差 別をするものとは認めがたい。そうすると呼称やその取扱については多少の問題はあるが,こ れをもって直ちに憲法違反ということはできない。」と判示した。
この判決は土地売買の有効無効を論じる中で北海道旧土人保護法の合憲性を論じたもので あって,アイヌ民族の少数民族性や先住民族性を正面から論じた判決ではなかったが I旧土 人」という呼称には問題があることが論議されている。

B 北海道旧土人保護法をめぐる判決においてもアイヌ民族は少数民族・先住民族の観点から全 く論じられていない状況であった。その観点が正面に出て論じられた事件がある。いわゆる「ア イヌ肖像権裁判」である (36)
この事件は,アイヌ民族である原告が郷土史研究家として著名な被告に対し,被告が原告の 承諾を得ずに原告の写真を撮影し,被告が著書『アイヌ民族誌J においてアイヌ民族を「滅びゆ く民族」として紹介し,その文章に添えて原告の写真を掲載したことにより,原告はアイヌ民 族としての誇りを公然と傷つけられ,更に同化政策に賛成する立場を取るかの如き誤った印象 を公然流布されたとして民法第 723条に基き謝罪文の掲載及び損害賠償請求をした事案であ る。この裁判は 1988年 9月 20日に,被告が原告に「おわび」と題する書面を交付し,出版社 が和解金を支払うことで和解したため,裁判所としてのアイヌ民族の少数民族・先住民族に関 する判断は示されないままに終了した。

しかし,原告は裁判の中でアイヌ民族について以下のような主張をしていた。
「アイヌ民族は,我が国に現に存在する少数民族である。少数民族は,民族としても,又民族 的少数者の構成員としても,以下に述べるように種々の法的権利を有している。この法的権利 は,民族聞の血ぬられた歴史の中で,国際的に法的規範として承認されたものである。我が国 に存するアイヌ民族も,当然にこの権利を有し,法的保護が与えられなければならない」と主張 し,更に国際人権の発展や B規約の存在を指摘し,民族的少数者の概念について国連人権委員 会の差別と少数者保護に関する小委員会が行った民族的少数者の権利に関する特別報告を挙 げ,その特別報告は「特別の法的地位が与えられるべき先住民族として,北米におけるイン ディアン,北欧におけるラップ人,オーストラリアにおけるアボリジニとともに,日本のアイ ヌを挙げている」と主張している (37)。
原告側は明瞭にアイヌ民族を少数民族として位置付け, B規約等から民族的少数者の保護を 主張している。ただ,先住民族の問題については,肖像権の裁判であり,土地についての裁判 ではなかったためか,国連の特別報告を挙げた中に「先住民族」という語句が登場するにとど まり,積極的に「先住民族」に関する法的な論旨の展開は示されていない。そして,前述した とおり裁判所の判断も示されずに終結している。

第 3款 憲法学説等
代表的な憲法の概説書にはアイヌ民族が少数民族・先住民族であることについて記述されたもの は見あたらない。わずかに憲法第 14条後段列挙事由の「人種」を説明するにあたって,アイヌ民族 について触れたものがある程度である (38)。
憲法学者が先住権を論じた先駆的な論文は,江橋崇法政大学教授の「先住民族の権利と日本国憲 法」である (39)江橋論文では,先住権として,土地・資源への特別の権利を含んでいることを考え ると,そのような権利主張が憲法の解釈論として成り立つためには,その前提として,アイヌ民族 に固有の生存権の主張とアイヌ民族に固有の財産権の主張が認められる必要があり,そのためには 憲法第 25条の生存権規定の読み直しが必要であると述べている。結論はともかくとして,アイヌ 民族の先住権性について主張した論文としては二風谷ダム裁判提起当時としては殆ど唯一のもので はなかったかと思われる。
その後,吉川仁中京大学教授は二風谷ダム裁判の原告側主張を論述するなかで,江橋論文が「先 住権の主張と日本国憲法との衝突,矛盾のポイントの解明に努めてはいる」が,憲法第 25条を挙げ ていることについては次のように述べている。憲法第 25条は,資本主義社会の発展の中で自由・ 平等・独立な個人の自己実現の努力によっては解決し得ない体制的,構造的矛盾が登場する中で, 社会的弱者の人間に値する生存を保障するために憲法上取り入れられてきたものであり…,ここで 問題となっている『民族』という概念とは関連づけられては来なかったように思われる」として, 「先住権」の位置付けを憲法第 25条との関連で考えるのは「何か唐突な感じがする」とし, (「民族の集団的権利」その1)
「民族」の権利は「第 14条の下で議論される『合理的差別』と第 13条の『個人の尊重』という視点の組合せか ら考えることはできないであろうか」
と述べており,本件判決につながる考え方が示唆されている(40)。

▲この見解は1995年当時の常本と同じ。木村草太さんの見解を聞くこと。(2022.12.5)
このように,アイヌ民族の「先住民族」としての権利を憲法上に位置付けて論じたものは極めてわずかであり,議論は殆ど深まっていない状況で あった。

「民族の集団的権利」準備ノート 土地 1ーA
▲私のHPで憲法上の「民族の集団的権利」について触れているのは下記の6箇所です。 これらを総合すれば裁判でアイヌ民族の集団的権利の理論構成が 可能だと思います。憲法学者はじめ法曹界の人たちは裁判官もふくめ積極的に理論構成に尽力していただきたいと思います。 (2022.12.10)
@「民族の集団的権利」その1 房川樹芳(ふさかわ きよし)論文1999.12
A「民族の集団的権利」その2 常本講演(平成26年)2014.10.24
B「民族の集団的権利」その3 常本照樹教授『アイヌ語が国会に響く』
C「民族の集団的権利」その4 山川力『政治とアイヌ民族』137p〜138p
D人種の定義 人種差別撤廃条約第1条
E部落解放全国委員会と憲法第14条1項
▲この後二風谷ダム判決1997年。2020年ラポロネイションサケ漁裁判提起。 そしてわれわれが次にアイヌモシリ回復訴訟。機が熟してきているように思える。 (2022.12.4)

▼昨日ユポさんと打ち合わせしました。(2021.2.22)
訴訟物
▲ MIP回復運動から
1 明治以降のアイヌ民族に対する諸政策への国の謝罪。
2 北海道の大地をアイヌモシリとして回復。山林、原野、海岸等の国有地に限定しよう。道有地、市町村有地に広げない。
3 回復困難な土地からは代償として国から相当の「地代」の徴収。 
(2023.5.25)


ハンセン病裁判全史
(拡大)

本気の謝罪
『俺は魂をデザインする』136p(拡大)
ハンセン病謝罪請求裁判
訴状目次1

訴状目次2
1999(平成11)年
岡山地方裁判所(拡大)
▲謝罪請求のお手本。(2023.5.19)
▲「第六 原告らのー請求謝罪と損害賠償 二 謝罪広告」として謝罪広告まで具体的に請求されている。 (2023.5.20)
謝罪広告原案1
謝罪広告原案2
▲謝罪文の原案。請求でここまでやってある。(2023.5.19)(拡大)
T まず日本政府に「謝罪」を求めます。
明治政府により違法に土地を奪われ、主食の鮭の川漁を禁止され、山では鹿猟を禁止され、 文字通り生活の基盤をことごとくとりあげられ、言葉をうばわれ、名前も生活習慣も和人風に変更させられ、文化を否定され、 そのうえ多くのコタンが河口から山奥へ「強制移住」を強いられ、中でも新冠御料牧場の「強制移住」は惨めそのもので、 (これは天皇家にもかかわることですが)、 樺太アイヌ、千島アイヌの人たちも慣れない北海道の土地への「強制移住」と天然痘の災禍等。

世界の謝罪2(拡大)
C オーストラリア・ラッド首相2008年、先住民族への差別・虐待を議会で公式に謝罪。

D カナダ・ハーバー首相、2008年、先住民族の子供 たちを寄宿舎に住まわせる同化政策が100年以上にわたって採られ、15万人以上の子供が虐待を受けていたとして公式に謝罪。 トルドー首相は6月、ローマ教皇がカナダを訪れて先住民族に直接謝罪することが重要だと訴えた。

▲日本政府によるアイヌ民族への謝罪がいまだ為されていない。(2021.8.4)
▲謝罪について田中宏弁護士先生に相談してみよう。裁判でどのように理論構成ができるかを。裁判がむずかしければいきなり政治の場に。 トップによる世界の謝罪、裁判で勝ち取ったか否か。上村先生にも聞こう。(2022.7.15)
2021.7.15朝日朝刊
世界の謝罪1(拡大)
@ 有名なのは1970年ワルシャワ・ゲットーを訪れた西独ブラント首相の謝罪。

A 教皇ヨハネ・パウロ2世は1992年、ガリレオを異端としたことは誤りと認めた。 1204年の十字軍コンスタンチノプルの掠奪に謝罪。1204年の包囲戦から800年という節目を前にして、 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、第4回十字軍の蛮行に対する遺憾の意を2度にわたり示した。

B 米政府1993年、ハワイ王国転覆を謝罪。 2009年、ジム・クロウ法(奴隷制廃止後も人種差別を規定した法体系)を公式に謝罪。

「おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、 なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう」とまで知里幸恵さんに 言わしめたアイヌ民族の歴史を日本政府と日本社会に深く認識していただきたい。これらのことを踏まえて日本政府に「謝罪」求めます。
思案中:(2021.3.7〜3.8)
@北海道の呼称をアイヌモシリに戻すこと。
A天皇家の謝罪も求める。
B謝罪対象に遺骨返還の問題も入れること。
▲ハンセン病裁判全史に出会う。「謝罪」の理論構成が分かる。これで行こう。(2023.5.20)
U 上記歴史を踏まえ、明治政府により違法にうばわれた北海道の国公有地(道路、海岸、河川を含む)、 すなわち北海道全土の67.2%をアイヌ民族に返還していただきます。(1992年(H4)オーストラリア「マボ判決」は民法239条第2項の否定)
そのうえで国、道、市町村の必要な土地は 貸与・委託等の措置をとります。当然地代は支払ってもらいます。 (これはアイヌ民族の気持ちを代弁されている父上・萱野茂さんのお考えを受け継いでおられる萱野志朗さんの考え)
アイヌ民族は回復したアイヌモシリで 明治維新以前の、先住民族の先住権として河川・海岸での漁業、山野での狩猟を復活させ、カムイたちとの生活を取り戻します。

訴訟物と貼用印紙額
訴訟物と印紙代
▲いきなり北海道全体の国有地返還を求める訴訟は貼付印紙代が桁違いの金額になると思い自分たちの手に負える金額の印紙代ということで 取り敢えず平取の1000haの返還を想定していましたが、今日ハンセン病の訴状で訴訟物の価額20億261万7400円に対して貼付印紙代は 「訴訟救助申立中につき貼付しない」との記述を見つけました。これを使えば「平取の1000haの返還」を経由しないでもいきなり国有地返還、 300億円の「地代請求」も可能になりそう。
(救助の付与)
民事訴訟法第八十二条 訴訟の準備及び追行に必要な費用を支払う資力がない者又はその支払により生活に著しい支障を生ずる者に対しては、裁判所は、申立てにより、訴訟上の救助の決定をすることができる。ただし、勝訴の見込みがないとはいえないときに限る。 2 訴訟上の救助の決定は、審級ごとにする。(2023.5.23確認)
▲1000億円の訴訟物→1億円の一部請求とする。印紙代は30万円くらい。冨田さん。(2023.6.5)


2021.8.4朝日朝刊 立法不作為(拡大)
6月から池田先生に「立法不作為」を教えていただきました。その地裁判決が8.3に出た、という記事。
▲これまでの勉強の結果からは上記のようになる。
状況次第で思案しなければならない:(2021.3.7〜3.8)
@北海道全域が難しければ平取町の国公有地(道路、海岸、河川を含む)に限定する。
A所有権の返還が難しければ平取町全域での山、川の入会権を求める。
(最判昭和48(1973)3.13入会権が消滅しなかったとされた例。入会権の 考え方は沿岸漁業にも使えそう。先住権、つまりは民法的には263条、277条、294条の慣習に従う、ということに通ずる。)
B当然「ダムの水門を開ける」(これは貝澤耕一さんの主張)は請求する。
原告候補者(勝手な希望)
萱野さん、貝澤さん、木村さん、ユポさん、多原さん、田澤さん、川村さん、小川さん、 畠山さん、石井ポンペさん、アトイさん、その他東京在住者
琴似又市さん関係は断念。原告は旭川では難しい、と伺う。(2022.4.28)
提訴は東京で 被告は国なので東京地裁への提訴は問題ないことは民事訴訟法4条1項で確認済み(2021.3.5)
提訴日は  2021.9.13(先住民族権利宣言の日)又は 2022.5.27(「北海道ウタリ協会」総会決議の日)を希望。

▲行きつ戻りつの思索。
6月訴訟物構想1 ▲2022.6.28訴訟物構想をはじめてお二人に話す。(拡大)
まず土地問題。 森林の国公有地400万haのアイヌ民族への返還。管理はアイヌ民族で。太一さんに構想を。
民有地は地代で。固定資産税686億円の30%。200億円/年。アイヌモシリ自立化財団(旧「自立化基金」)へ。(2022.4.16)

▲改めて訴訟物の整理@国有地の返還A民有地の地代B国の謝罪(言葉・洗除・強制移住・遺骨問題) C鮭川漁の復活(2022.6.23)
二風谷ダム一宮判決
国際人権法と二風谷ダム裁判  田中宏弁護士
「B規約27条と憲法の関係について、この判決をどう読むかということですが、岩沢先生は、直接適用 説だと、直接適用とは言っていないけども、いわば直接適用をしたものだということを言っている訳です (注1の@)。私は、そうではなくて、これは憲法13条の中に、人格権としての文化享有権というもの を持ってきて、それが先住民族の場合には、一層尊重されなければならないという読み方をした、いわば 包摂の論理というふうに理解しております。国際人権規定に適合させた憲法解釈といっても良いと思いま す。その辺の読み方が違うのですが、そのよってきたる理由は分かりません。それから、憲法13条の人 格権の一部である、文化享有権を実質化したものだということで、B規約27条を持ってきたと理解して おります。」
▲この論理を先住権全般に使う。(2021.11.16)
▲理論構成:
一宮判決の文化的適用の考えを援用すれば、第一条1項と2項を、先住権すなわち 漁業権、狩猟権、森林権の回復に使えそう。
第一条
1 すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、 その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、 社会的及び文化的発展を自由に追求する。
2 すべての人民は、互恵の原則に基づく国際的経済協力から生ずる義務及び国際法上の義務に違反しない限り、 自己のためにその天然の富及び資源を自由に処分することができる。 人民は、いかなる場合にも、その生存のための手段を奪われることはない。
▲「自決権に基づき経済的、 社会的及び文化的発展を自由に追求する。」「自己のためにその天然の富及び資源を自由に処分することができる。 生存のための手段を奪われることはない。」 アイヌ民族はまさしくこのような権利を奪われてきた。この条項を根拠に漁業権、狩猟権、森林権の回復を主張していけそう。(2021.11.9)


アイヌ資料集 http://yamaoji.web.fc2.com/k_ainu.html#mokuji
資料蔵(アイヌ資料1) http://yamaoji.web.fc2.com/k_ainu1.html#page_top
 『アイヌ民族を生きる』野村義一さん 
9p「明治以前、北海道、千島列島、サハリンを、我々の祖先、アイヌは「アイヌモシリ」といっていました。
11p「アイヌ語の地名。東北はもちろん、四国九州にも。能登半島にも非常に多い。青森ねぶた祭り。弘前はねぷた祭り。PuとBuの違い。Neputaはアイヌ語でびっくりするの意味。」
1988年9月真歌丘
シャクシャインのイチャルパ

109p〜157p  1986年12月野村義一さんと貝澤正さんの対談
110p(野村)「寛政10年(1798)近藤重蔵エトロフ島「大日本恵登呂府」の標識を立てたとき以降のことしか触れていません。」
111p(貝澤)「アラスカでは1971年「アラスカ先住民請求権解決法」が制定された。」
114p(貝澤)「中曾根発言(1986年(昭和61))。日本ばかりでなく、外国のマスコミがずいぶん関心をもってくれたのにも驚きました。」
▼やっぱり!だから東京で提訴をずーと考えてきた。(2021.3.3)
115p〜116p(野村)「アイヌ新法」(1984年)を提起したときに、一番最初に挙げたのが「人権問題」です。今の日本の社会がこれまでどおり変わらないんでは 困るんです。日常レベルで格差をなくしていく法律が必要なんです。それが「アイヌ新法」です。」
▼人権、格差、全く部落の対策、要求と同じ。解放同盟の闘いが参考になる。(2021.3.3)
119p(貝澤)「この新法の精神は、根本的には萱野茂さんがいうように、貸した覚えも売った覚えもない、北海道のアイヌの自然に対する年貢をくれ、 という単純ないいい方なんです。やはり補償要求がこの法律の根本をなしているんです。過去四百年近く、アイヌが差別され虐待されてきた歴史に対して の補償要求なんです。北海道の植民地政策で、日本の資本主義が大きく伸びていきました。北海道の植民地政策で日本の帝国主義者達は山の木を伐り、 魚を捕り尽くし、石炭を掘り尽くして成功したんです。北海道で味をしめて、さらに台湾に、朝鮮に、中国に侵略したんです。
▼私がこれまで、ユポさんに年表をいただき、勉強してきた結果たどりついた結論が まさしく貝澤さんがここで発言されている事と全く同じです。(2021.3.4)

▼現在の北海道アイヌ協会の「路線」は野村理事長後の現象とおもわれる。(2021.3.4)
初代理事長(1946.2 〜 1960.4) 向井 山雄 Yamao Mukai(有珠)
第2代理事長(1960.4 〜 1964.4) 森 久吉 Kyukichi Mori(幌別村)
第3代理事長(1964.5 〜 1996.5) 野村 義一 Giichi Nomura(白老町)
第4代理事長(1996.5 〜 2001.8) 笹村 二朗 Jiro Sasamura(帯広市)
第5代理事長(2001.8 〜 2004.5) 秋田 春蔵 Haruzou Akita(新ひだか町)
第6代理事長(2004.5〜2020.6) 加藤 忠 Kato Tadashi(白老町)
第7代理事長(2020.6 〜  大川 勝 Masaru Okawa(新ひだか町)

▼たぶん加藤理事長の時代に変質したとおもわれる。日本政府のアイヌ施策が実行される時代に懐柔されたのでしょう。 1997年(H9)「二風谷ダム判決」(3月27日)。
「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(5月14日成立、7月1日公布)。
この「文化振興法」で舞い上がったのでしょう。
野村さん、貝澤さん、萱野さんの築いてこられた根本・基本を「脇へ置いた」のでしょう。
我々の訴訟は「本来の路線」に戻すことです。(2021.3.4)


120p(貝澤)「カブエカシさん、木を伐っていたら盗伐になるんだ、……俺達は昔からここで木を伐っている、お前たちが何をいえるのか、 ……昭和の初めまではそういう気概はあったらしいのです。」
▼入会権の手がかり。(2021.3.4)
林子平地図全体
天明5年1785年(拡大)
121p(貝澤)「(北海道はいつ日本国となったか)名前をつけた、ということが、日本国の領土に組み入れたということの表明だと思います。」
(野村)「根室の総理府の建物にいったとき林子平らの調査による地図(三国通覧図説)を見たんですが、 ……蝦夷が島は外国だという意識だったんですね。」
▼長老によりこれまで勉強してきたことがじかに裏付けられている思い。(2021.3.4)
122p(貝澤)「今、北海道の領土をアイヌに返せという要求をしたらどうなるのでしょうか」
(野村)「「アイヌ新法」を要求して、政府が通さないようだったら最後のチャランケとして、千島・樺太をアイヌに返せ、 北海道にいるシャモもそのまま北海道にいてもいいから、 特別な税金をアイヌに払え、それがいやなら津軽海峡を越えて帰れ、という宣言をしようじゃないですか。
▼全く同感。2020.11.10「民族自立化基金」を考えたとき 私も「特別な税金をアイヌに払え」というのと似たような発想 をしている。(2021.3.4)
▼野村義一さんのこの発言が鋭く突き刺さる。(2021.11.14)
127p〜128p(貝澤)「海や川辺に住んでいたアイヌを「北海道旧土人保護法」を作って、土地を耕せと、山の中に押し込めてしまったのは大きな間違いでした。 静内、厚岸のアイヌたちは皆山へ追いあげられてしまったんです。
(野村)山の中に土地を与えてどうして農業が可能でしょうか
▼野村さんは鋭い。(2021.11.14)
(貝澤)「一番被害を受けたのは、厚岸の辺りです。厚岸には今はほとんどアイヌはいなくなっています。以前は大きなアイヌの集落があったんです。」
▼そういえば萱野さんの祖父も厚岸で強制労働させられた、と読みました。 それだけ大きな集落だったということですね。(2021.3.4)
137p(貝澤)「アイヌを支配した天皇をバチェラーは褒めていました。」
▼こういう声が大事。(2021.3.4)

 『アイヌ わが人生』貝澤正さん 
7p「世界の植民地支配の歴史をあまり知らないが原住民族に対して 日本の支配者のとった支配はおそらく世界植民史上類例のない悪虐非道ではなかった かとおもう。」
16p「昭和4年、治安維持法改正案が可決、1人反対した山本宣治代議士がテロリストの手で刺殺された。私はこのことで強い衝撃を受けた。」
▼1929年、貝澤さん16歳。この方の感性に感じるところあり。(2021.2.28)
26p「銘石保存会の歌碑。昭和43年萱野茂と東京へ、金田一京助氏に書いてもらった。 物も言はず声も出さず 石はただ全身をもっておのれを語る」
▼1968年、貝澤さん55歳。萱野さん42歳。いつ頃から2人で活動されているのか。(2021.2.28)

ピパウシコタン地図
http://m-ac.jp/ainu/post/tourism/biratori_nibutani/nibutani/family_line/index_j.phtml
(拡大可)

川向うの畑にて1991年
 貝澤正さん(拡大)

『アイヌが生きる河』167p

三井の森(拡大可) 川の上流から見た写真。
左の東の山地が三井の森。右手が「川向い」。 右地図の湾曲している▲Niptaiの「川向い」の所
北川大著『アイヌが生きる河』67p


川向い20ha
「あるダムの履歴書 3」
この映像は下流から見たもの。 川の左手に広がる雪で覆われたところが
「川向い20ha」(拡大)
35p
1809年ニプタニ11軒ピパウシ(ニプタニの少し上流)10軒カンカン2軒 計23軒。
1858年ニプタニ28軒ピパウシ15軒カンカン3軒 計46軒。
明治40年(1907)66戸297人。
昭和30年(1955)111戸582人。
昭和55年(1980)167戸535人。
ピパウシコタン(ポロモイ(大きな淵)チャシ) 「考古学からみたアイヌの生活」講演記録ポロモイチャシ・ユオイチャシにも言及(2021.11.14見つける)
https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1521.pdf

102p「アイヌの農法は住んでいる近くに僅かの土地を耕し僅かの穀物、豆類、野菜だけで、外には沙流川が湾曲した流れをなし、うっそうとした 密林が川岸を埋めていた。増水するとどろ水が低い所にたまる。 肥沃な泥土が底に残る。そこへ春先ヒエの種をバラ播きにする。秋には立派に 実って収穫できる。穀物はそれだけで充分であった。」
▲nitayニタイ=森・林 ni木 tay集合(「知里小辞典」)
▼上の地図。Pipaushiを見ると確かに川が湾曲している。「川向う」が密林だった、ということ。 (2021.3.3)
103p「1898年の水害は人も家畜も家も押し流してしまった。」
明治31年の大水害 http://story.engaru.jp/event-today/%E5%A4%A7%E6%B0%B4%E5%AE%B3%E3%81%8C%E7%99%BA%E7%94%9F/

撮影 Jefferik Stocklassa
36p「昔のコタンは、シンプイ(湧き水)の周りを取りまくようにして、日当たりや風当りの強いところを避けた。アイヌはつつましくひっそりと生活 するのを信条としていた。」
40p「大正11年(1922)コタンピラが金田一京助氏に招かれてユカラを演じ、同席していた知里幸恵が「ノート2冊分141頁、約4000行の筆録。ただ1回 聞いただけで(全く不完全な)博士の速記を座右におき1週間で書き上げた。驚くべき記憶力である。」 (藤本英夫『銀のしずく降る降るまわりに』)コタンピラ夫妻は初孫の私を溺愛し、私も入り浸った。」
▼凄い血統。(2021.2.28)
54p「私は、アイヌを無知だときめつけ、優越感をもった封建的な先生や移住者の日本人が、アイヌを不幸にした元凶だと断言します。」
▼説得力ある。(2021.2.28)  ▼やはり謝罪と償いが必要。(2021.3.26)
57p「この町は全道でもアイヌ人口が多いだけにアイヌ差別が町民意識の中で大きいのです。昭和39年(1964)(校長を)町長候補にかつぎだしました。「アイヌが推した町長では」と逆転、敗れました。ここでも 差別の壁にはばまれました。先生は職を失い村を去りました。」
▼「アイヌ差別が町民意識の中で大きい」、意外だった。(2021.2.28)
62p「マンロー先生は、私は、日本の古い歴史を勉強していますが、日本の歴史には正しくないことがたくさん書いてあります。日本の歴史学者は、権力 にこびて正しい歴史を勉強しません。私は、それを知っています、と言われた。」
▼この話は貝澤さんの年表を見ると1943年、30歳の時だと思います。 早くからこのような知識を身につけられていた、ということ。(2021.2.28)
66p〜67p「厚岸の強制使役」
「漁場における雇の使役は、酷使そのもので幕吏でさえこれを見かねて『漁業の盛んに委せて昼夜の別なく苛責して之を使い、氷雪に入れて薪を取らせ 、波涛の中に掉さして終いに転覆の辛苦をさせ、三百三十六地獄の獄卒の苛責の責を以って之を使う』あるいは、 『アッシを一枚着てようようしのぎ居る者共を、薪あるいは、棒などで打擲する有様は焔王の鬼共が罪人を責むるもかくやと思わる』と言っている」ことからも、アイヌたちは人間としての扱いを 受けず、牛馬以上の労苦を押しつけられたことだったであろう。」
▼日本社会はまずこうした事実を知る必要がある。(2021.3.26)
68p〜71p「新冠から上貫気別」岩野泡鳴の『旅中印象記』あとで詳細を記す。
「生き物として飼殺しにするだけの保護を与えてやればよい。」インテリであるはずのこの筆者にしてアイヌを見る目はこうであった。
▼今日、読んで改めてショックを受けています。
因みに岩野泡鳴は(1873年(明治6)1月20日 - 1920年(大正9)5月9日)明治・大正期の日本の小説家・詩人(ウィキペディア)。(2021.3.29)

73p〜76p「アイヌ問題研究会」「女子高校生」ペウレウタリ(若い同朋)の会。
▼ここで取り上げられているのは敗戦後の「新しいアイヌ」の姿。「個人が自己を確立し、アイヌとして真の怒りを持った時、同化の良し悪しも片づける ことが出来ると思う。強く生きて、差別をはね返す強い人間になることだ。」と貝澤さんは語られる。(2021.3.29)
77p〜79p「ウタリ協会」
1931年 札幌でアイヌ大会。歴史的会議。
1946年 静内大会。社団法人北海道アイヌ協会設立。
1961年 「アイヌ協会をウタリ協会に変更」。
1962年 日高支部ウタリ実態調査、1965年調査結果発表。
1972年 北海道もウタリ実態調査。1979年再度実態調査。
 ▼北海道の実態調査
  昭和47(1972)年
  昭和54(1979)年
  昭和61(1986)年
  平成05(1993)年
  平成11(1999)年
  平成18(2006)年
  平成25(2013)年
  平成29(2017)年
1980年 3月現在ウタリ人口24,160人 協会加入11,734人、約半数。(現在は2,000人と聞いています)
▼組織の創設と実態調査が運動の根本。現在の課題は組織の立て直しと運動の起爆剤が必要。そのための裁判。 (2021.3.29)
▼「アイヌモシリの会」が組織の立て直しと考えるに至る。その運動の起爆剤が必要。そのための裁判。 この時点で朧げながら 考えていたことが「アイヌモシリの会」であった。半年かかった。(2021.10.6)

ピパウシ(拡大)
82p〜83p
「二風谷には、ピパウシというアイヌが一番古くから住んでいたコタンがあります。貝のことをアイヌ語でピパと言いますから、ピパウシというのは 貝があったところという意味です。そこでそのあたりに住んでいた者には、みんな貝澤とつけたわけです。
二風谷で貝澤のつぎに多い姓は二谷です。 二風谷はかつてニプタニコタンといわれていたので、そこに住んでいた者に二谷とつけたわけです。また、 平取にはピラウトルコタン(現在の平取本町)というのが ありましたが、そこに住んでいた者には、平村という姓をつけました。ですから姓名を聞けば、アイヌであることや、 どこの出身であるかということがすぐにわかります。」。
84p〜85p
「わたしはアイヌ語は単語が少しわかるくらいです。二風谷のアイヌはひどく貧乏をしていました。しかしはじめからアイヌが貧乏だった わけではありません。」
「奥地の乱開発と水害で二風谷のアイヌは貧乏のどん底になってしまったのでした。」
▼言葉を奪われ、貧困のどん底に突き落とされ、その状態が現在にまでつづいている。 この被害こそが2.12弁護団会議で出された質問への答え。(2021.3.1)
87p「アイヌ大会」札幌で。当時は社会主義的な思想が広まりはじめたころで、キリスト教が大きらいでした。
▼1931年18歳のときだと思います。世の中の動きを敏感に受け止められている。(2021.3.1)
90p「アメリカがアイヌにたいして誠意をもってのぞむ国でないことは、かれらの歴史が示しています。」
▼鋭い。(2021.3.1)
91p
「当時、厚岸湾の周辺で40戸ぐらいのアイヌが漁師をしていました。漁師をしていればアイヌはなんとか生活していけるのです。 豊浦、白老、静内、白糠など海岸沿いで漁師をしているアイヌの生活は、比較的安定しています。
(拡大可) 左赤枠 豊浦、右へ白老、新ひだか町が静内、釧路の手前に白糠
厚岸(拡大可)

ところが「旧土人保護法」ができたとき(1899年明治32)、

厚岸湾で漁師をしていたアイヌをみんな山の中へ追いやってしまいました。

▲漁業権の回復を見落としていました。せめて定置漁業権の取得で漁師として生きていける道を作り出して行きたいと思います。 菊地さんに相談しながら。(2023.3.14)静狩定置漁業権

▼これも「強制移住」の対象になる。もちろん被害は継続。
『アイヌ民族の歴史』418p〜428p北海道内の1872年(明治5)〜1902年(明治35)間の「強制移住」とそれによるアイヌ民族の生活破壊が詳述されている。 (2021.3.1)

90p〜92p「北海道アイヌ協会」の活動。1946年創立。
3つの活動方針
@アイヌの給与地を農地改革から除外せよ
A天皇や国の財産になってしまった土地 をアイヌい返してもらうこと
B旭川にあった給与予定地をアイヌに給与する
▼Aはこのときからの方針。実現されていない。今回の裁判の主目的。 Bは1949年近文の旧アイヌ共有地の借地人への売渡しが確定となっている。(2021.3.3)
共有地問題 https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/kurashi/329/348/354/p000151.html
93p
「1946年創立当初かかげた活動方針は実現できないまま挫折。1960年アイヌ協会再建大会」
100p
「40余年前の戦争の歴史さえも美化しようとする教科書の出版に対する、最も多くの被害を受けた中国や韓国からの抗議を、内政干渉だと 開きなおっている国会議員の先生がいる。…日本人の意識の中には、数百年前いらい、アイヌに対して侵した歴史など知るはずもなく、また知ろうなどと は考えてもいない。」
▼まさしくそのとおり。(2021.3.3)
102p「シャクシャイン戦争。鉄砲という火器の前に敗れ、和議というだまし討ちで敗北した。」
▼「鉄砲という火器の前に敗れ」、私の認識と全く同じ意見に出会う。(2021.3.3)
104p
未開地処分法の大宴会と保護法による残り物の下付
「明治政府は天皇の名で、アイヌの大地を国有地とし、政府に都合のよい法律を制定して、アイヌの生活や文化を抹殺しようとした。法律の中でも 1897年(明治30)制定の「国有未開地処分法」は、大資本家と華族と政治家が、この大地を無償で手に入れるための法律であった。
私達の住んでいる裏山を、アイヌはニナルカ(薪をとる高台)と呼んでいたが、社有林となり薪をとると盗伐になってしまった。 アイヌの住んでいる周りの山は、アイヌの権利は認められず、国有林と社有林になっている。
▼ニナルカ、知里真志保さんの「地名アイヌ語小辞典」で確認しました。(2021.10.6)
▼「旧土人保護法」は明治32年・1899年公布。
「未開地処分法」による18,098平方qの大資本家と華族たちの宴会のあとの 「旧土人保護法」による96平方qの残り物の下付!?(2021.10.30)


(拡大) 平取イメージ図 近代17p
霊山ポロシリ2052m
「国有未開地処分法」は1907年廃止されたが、その時は既にアイヌモシリは大地主のものとなっていた。
1910年(明治43)苫小牧に王子製紙工場ができ、パルプ原料の松丸太は、鵡川と沙流川の上流から伐り出された。水害多発の沙流川上流の伐採がはじまった。 冬の間伐採、川辺まではこんだのを春の雪解けを利用して流送するのだ。」
▼まさしくアイヌモシリを取り戻すための裁判。ニナルカ 入会地そのもの。(2021.3.3)
▼「国有未開地処分法」の果たした役割、実感できた。(2021.3.26)


▼今、1988年2月15日「北海道収用委員会における貝澤正の申立」を読み終えました。感動しました。 ご紹介します。(2021.3.26)
この1988.2.15「申立」と1991.11.19「直訴状」は貝澤さんの遺言です。(2021.3.30)

166p〜185p
「平取は、オキクルミの伝説にもあるように、アイヌの都と言われ、本州との交流も早く、文化の花を咲かせたところであります。」
▼オキクルミカムイ:沙流川に降臨したということでオキクルミの砦伝説などがある。(『萱野茂のアイヌ語辞典』)二風谷はこのような 聖地なのだ。(2021.3.28)
186p〜194p
「僅か120年の間によくも北海道をこんなに荒らしたものだと驚くのは私だけじゃないと思います。魚を捕り尽くし、木を伐り尽くし、
貝沢正さん直訴状
三井物産社長宛て1991.11.19(拡大)
地下資源を掘り尽くし、必要がなくなったといって鉄道を廃止したり、そのうえ、人口が少ないからと北海道を核のゴミ捨て場にしょうとして 今計画しているんであります。北海道をなんと考えているのか、本当に驚かざるを得ない状況であります。」
▼昨日、貝沢正さんの「申立」を読んで萱野茂さんのも読みたくなりました。手元に本田勝一さんの『先住民族アイヌの現在』があることを 思い出しました。見つけました。212p。紹介します。(2021.3.28)
▼本田勝一さんの「北海道アイヌ」への弔辞がまず目に止まりました。「北海道アイヌ」とは貝沢正さんのことで本田さんの貝沢正さんへの弔辞です。こころを打ちます。
「あなたの志は、あなたの 遺言どおり、あなたの後継者たちがひきついでゆくでしょう。」
まさしく私も自称後継者の一人。(2021.3.28)

『先住民族アイヌの現在』212p〜240p「萱野茂氏の陳述」
214p「アイヌ民族の血の吐く思いの叫びに対して、公正な判断をお願い申し上げる次第であります。」
215p「なぜアイヌが自分たちが生活している範囲に丁寧に名前をつけたかといえば、狩猟民族であったからであります。」
『アイヌの現在』137p
216p「アイヌは自分たちの国土をアイヌモシリ、「人間の静かな大地」と呼び、だれにはばかることなく自由に暮らしていたのであります。」
217p「いまでもアイヌモシリ、北海道はアイヌ民族の国土であると私は信じているものであります。このでっかい島北海道を日本国へ売った覚えも 貸した覚えもないないというのが、心あるアイヌたち、そしてアイヌ民族の考え方なのであります。1980年3月に朝日新聞社から出版した『アイヌの碑』という 自叙伝の中の193ページの5行目から195ページ3行目まで、次のように書いてあります。(略)
220p「(アイヌ民族を日本人に置き換え北からロシア人が入ってきて100年後に5百数十万になっていたと想像して)ここは日本の国だ、出ていけとは 言わないが、年貢くらいは出せ、と言うでありましょう。数や力で決められる民主主義なるものは、数の暴力に見えて仕方がないのであります。」

▼この例え、説得力がある。(2021.4.3)
北海道林業者一覧 https://www.pref.hokkaido.lg.jp/sr/rrm/iyokutonouryoku/hokkaidoiyokutonouryoku-ichiran.html
▲林業者にアイヌ民族の雇用の確保の要請(2022.4.11)
▼今、1991年11月19日「三井物産株式会社社長への訴え」を読み終えました。
北海道森林管理局の組織 総定員数は 872人(うち女性76人) https://www.jinji.go.jp/hokaido/img/file59.pdf
北海道森林管理局 (拡大)2022.4.5貝澤耕一さん訪問
▲山の管理をアイヌに、との提案。雇用の確保。アイデアすばらしい。企業の社有林の管理にも広げたい。(2022.4.11)
「コタンの人々の生活破壊の原因をつくった真の犯罪者は、三井を中心とした大資本家です。
同一係累の王子製紙も、明治40年に苫小牧に製紙工場 を建て、原料の針葉樹を鵡川や沙流川の奥地で伐採し、川を利用して流送しました。 丸太の散流によって蒔付けの終わった耕地が音をたてて決壊していきます。
三井財閥の中に一分の良心でもあったなら、北海道の先住民であったアイヌに対して謝罪し補償すべきではありませんか。 次のように直訴いたします。
一番よい方法は、搾取しつくしたこのあたりで三井の山を地元のコタンに住んでいるアイヌに返すことではないでしょうか。
アイヌの山返して(拡大) 1991.11.21朝日夕刊
返されれば、私たちアイヌは共同で管理して、かつてのような真の自然が保全されるような山にもどす方向で、 人間が共存できる利用をしていくでしょう。」

▲訴訟、「入口」で詰まっている。ならば貝澤正さんの「三井の山を地元のコタンに住んでいるアイヌに返す」を訴訟物 とする。原告は二風谷、平取のアイヌの人。プラス謝罪。原告はアイヌ民族であれば誰でも。被告は三井と国。却下されない方策。(2022.7.20)
▼全く同感です。貝澤さんの無念を晴らしたいです。(2021.3.27)
サケを取らせて(拡大) 1988.11.18朝日朝刊
サケ漁労権復権の請願 『先住民族アイヌの現在』272p(拡大)
▼左 北川大さん『アイヌが生きる河』25p
「サケを取らせて」1988.11.18朝日朝刊時時刻刻の記事。
▼土地収用委員会宛「サケ漁労権復権の請願」1988年(昭和63)3月5日
▼右 本田勝一さん『先住民族アイヌの現在』181p
「アイヌ古老が三井社長に病院から直訴状」の記事が朝日新聞1991.11.21夕刊に出ている。
本田さんの活動は中江利忠社長時代(1989〜1996)。(2021.3.28)



ハオリン修論イオルについて


『アイヌの碑』萱野茂さん
22p〜26p「コタンの四季」あきあじ(鮭)獲り。アイヌの碑、由来、
39p厚岸(あつけし)が「場所」。 二風谷から350`メートル以上、1日30`歩いても12、3日。祖父トッカラムの厚岸での指切断。河豚の胆汁での黄疸症状で帰宅。
46pから「強制移住」の話。51pまで。
72p〜77p「罪人にされた父」。鮭密漁逮捕のこと。「アイヌ・モシリを借りたというなら、借用証、買ったというなら、買い受け証がなければ なりますまい。」
200p「アイヌはアイヌ・モシリ……年貢を払うつもりでだすこと」
206「あとがき」昭和55年(1980)2月。

▼つまり1984年の4年前。萱野さんの思いのこもった1984年の「アイヌ新法案」だった。やはり新法案を実現すること。 その一歩としての今回の訴訟。(2021.2.25)

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萱野志朗さん
▼萱野志朗さん『レジリエントな地域社会』36p
「父は二風谷ダム裁判の判決について、「この先住民族という判決は、今後、アイヌの権利回復をするときの拠り所 となるだろう」とよく言っていました。    二風谷判決の意義
そして「今はダムをつくっているけれど、 やがて自然回復ということでダムは壊すしょうになるだろう」ともね。

やっぱり!!
38p 「子どもの権利条約に基づいて、アイヌ語を公教育で教えろと訴えることは可能です。そのほかにも、条約を法的な根拠として訴えを起こすことはできる とおもいます。可能性はあるけれども、まだ誰もやっていません。」やりましょう!!(2021.10.6)

朝日夕刊2021.9.6(拡大) 写真家・福島菊次郎
国への「私怨」声上げる原動力に。 「たとえ勝てなくても抵抗して、未来のために一粒の種でもいいからま」く。
私も全く同じ。(2021.9.8)

▼昨夜(3.23)ユポさんから電話がありました。萱野さん、貝澤さん、木村さんが今回の裁判に賛同してくださった、という。大喜び。 今朝、4時に目を覚まし、いつもなら6時ころまでもう一度寝るが眠れない。こうしてパソコンに向かう。 裁判で目指すべきものを考える。

@アイヌ民族の全歴史、特に明治維新以降の日本政府の政策に対する謝罪要求。
樺太アイヌを含む強制移住に対して。 アイヌ語・アイヌ民族の習慣の禁止を含む同化政策に対して。生きるための生業の破壊に対して。

Aアイヌモシリの回復。
萱野さん、貝澤さん の主張をベースに。北海道の7割の返還を含む。二風谷ダムの水門の開放を当然含む。国連先住民族権利宣言に沿った先住権の回復。 鮭漁・鯨漁を当然含む。アイヌ民族の自治権の回復を含む。

この裁判の基本思想は、過去の実行されていない植民地主義の清算・近代の克服と 未来に向けた多文化社会の日本の実現、自然との共生、マイノリティーが息苦しくない日本社会の実現。 (2021.3.24. 5:24)
Aアイヌモシリの回復に「三井の森」(三井物産)も入れる。国、道、市町村、三井物産を被告とする。確認済。(2021.3.30)
▼昨日(4/1)、北海道に行きました。まず萱野さんに会いました。萱野さんは立場上国有地だけの返還を求めたい、とのことでした。
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次に、お隣の貝澤さんを訪ねました。客人がいらっしゃって名刺交換だけでした。 車を飛ばして木村さんを訪ねました。木村さんは謝罪に遺骨返還を是非、ということでした。「年貢」構想に木村さんは深く納得してくださいました。 訴訟物については、当然のことながら、核となってくださる原告と今後よく話し合う必要があると思いました。
▲左の2007.12.29朝日新聞は2021.4.8萱野志朗さんを尋ねたときいただきました。「国有地の一部を返還する。国民が理解し、 政府が判断すれば可能なはずだ。」きわめて抑制のきいた主張です。可能にしたい。(2021.11.21)
▼電話で木村さんと話しました。遺骨の問題について木村さんの想いを書いていただくようにと。(2021.4.2)

●早速木村二三夫さんから「想い」の原稿が届きました。(2021.4.3)
2021.4.8萱野志朗事務所で

私は、皆さんもよくご存じの観光地でもあるエリモ岬までは2時間程の所に位置する、 平取(びらとり)町と言う「北海道でもアイヌ人口の一番多い」地区のコタン(集落)に生まれ、 今もそこに住んでいる「1949年生まれ72歳」のアイヌで木村二三夫と申します。
明治維新以降150年、廃藩置県により、あぶれていた武士階級を含めた200万人が、 アイヌモシリ(北海道)へ土足で踏み込んできた事が、アイヌ達の不幸の始まりでした。
文字と暴力を持ち込んだ大和民族は、あっという間にその勢力をのばし、穏和な先住民族であるアイヌを蹴散らし、 そのアイヌの領域を狭めていきました。
主食であるサケの漁業権、暖房用の薪、チセ(住宅)用材料の伐木権利が、盗人である大和民族によって、 アイヌ不参加の法律が制定され、禁止されてしまいました。
寒い北海道でアイヌ達はどう生きて行ったのか。想像すると胸が詰まり、より怒りが込み上げてきます。 そして日本政府、ずる賢い大和民族の不正義は延々と続きます。
農耕民の大和民族にとって、住みやすい豊かな良地拡大の為に、 国ぐるみで全道21か所でアイヌ民族の強制移住が始まりましたが、 その中の一つが私の先祖たちが暮らしていた新冠アネサル(現大富)でした。
元神部川1
元神部川源流と新冠川(約2.5q) (拡大)
強制移住の原告適格者
▲(戸籍謄本より)祖母・壁岸ヨソ 明治29.5.25生 元神部村無号地
父壁岸一夫(その後木村うさはの養子)大正10.7.2生 平取村荷負32番→昭和23.3.4貫気別番外地
木村二三夫昭和24.3.10生 荷負番外地→昭和52.3.10婚姻届 貫気別18-8
●元神部→荷負→貫気別はたどれる。強制移住の対象者であることは間違いない。(2022.3.14)

御料牧場開場の為に、宮内庁が琵琶湖程の広大なこの土地に目をつけ、シベチャリ(静内川)周辺、 アネサルに住んでいたアイヌ達を、天皇の名のもとに強引に集め、強制労働させるのでした。
真面目な人の良いアイヌ達は、僅かな賃金で、手弁当で牧場作りに精を出しましたが、牧場作りが終わると、 またも天皇の名のもと、イヌ、ネコでも追い払うかのように、楽園のようなアネサルの地から熊も住めないような奥地へ強制移住させました。
逆らう者は、チセ(家)を焼かれ、語るも悍ましい光景があったと、エカシ(古老)から伝え聞いていましたが、 アイヌに文字があったら、全道でどれ程、卑怯極まりない恐ろしい残虐な光景が書き記され、残されていた事でしょうか。
そしてもう一つ、神をも恐れぬ大虐殺が行われています。
アイヌ達と共存共栄していた、生態系の頂点に立ちアイヌ達に神と崇められていた、ホロケウカムイ(エゾオオカミ)でした。
馬を襲う害獣とされ、主に道南方面に生息していた3000頭のホロケウカムイを、 人間の都合、身勝手にて、アメリカから取り寄せた猛毒ストリキーネを用い、
遺骨朝日社説 2023.5.14(拡大)
▲この社説を手掛かりに謝罪 を迫って行こう。(2023.5.17)
▲この社説は田玉恵美さん、ということ。(2023.5.20)
または懸賞金を掛け全滅させてしまいました。「天皇の名のもと」行った、生態系のバランスを崩した行為、 地球温暖化の要因の一つかと私は思いますが、この責任の一端は誰に ?

さて遺骨問題ですが、遺骨も人間です。
強制移住にて耕作地に向かない荒れた土地の、山奥に追いやられたアイヌ達は、 艱難辛苦の末に心ならずも旭(旧上貫気別)の地で倒れ、眠りに着いた数人の中から 6遺体が研究目的の為に違法に大学、博物館に連れ去られました。

苫小牧駒澤大学教授、植木哲也氏の著書、『学問の暴力』にも書かれているように、 他の地区から持ち去った遺体の中には、闇夜に乗じて、脳みそのたれ落ちる頭蓋骨、肉片のついた骨をも持ち去ったと書かれてあります。
こんな事が本当に人間のする事なのでしょうか。

アイヌ民族の遺骨、人権、尊厳を踏みつけ侮辱し、今後も、研究を企む国家ぐるみの犯罪。 なんとしても、この不正義を正さなければと思います。
アイヌ民族の受難に対し、重大な責任がある日本政府の謝罪を求めます。 そして、アイヌ ネノアン アイヌ(人である人)として良識ある多くの皆様のお力添えをお願いいたします。 (2021.4.4掲載)
▼左の絵本は木村さんの作品です。厳しい主張のこころの中はこどものような純粋さでした。 今回(2021.4.8〜4.11)の弁護団の北海道研修で頂きました。(2021.4.13)
https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10955906/www.kantei.go.jp/jp/singi/ainu/dai10/siryou1.pdf
平山裕人著「アイヌ民族の現在、過去と未来!」
111頁「有識者懇」報告は、アイヌの復権活動自体を紹介するのを、極めて嫌がる傾向にある。その政策を超える活動をする人々、 世界レベルの先住権を主張する人たちの、足を徹底して引っ張っていく(7章、8章)。(拡大)
「有識者懇」報告書
平山著「アイヌ民族の現在」 162p(拡大)

▲遺骨問題。国家ぐるみの犯罪。どのように証明できるのですか。(2022.6.10)
▲平山著162pで「児玉は国家的盗掘としか言いようがない。」(2022.7.3)

アイヌ人骨収蔵経緯 http://www.kaijiken.sakura.ne.jp/archives/hokudai_report2018.pdf
児玉作左衛門盗掘
「調査報告書」111頁(拡大)
2018.3「北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書」
▲インターネットで上記報告書を見つける。(2022.7.10)

▲「訴訟物」――悩んでいるのはこの問題。今日時点の結論。国有林(地)の返還。 民有地に関しては北海道の土地に対する固定資産税から地代としてしかるべく金額をアイヌ民族に帰属させる。社有林でのイオル的利用の 協定を各社と結ぶ。鮭漁の復活の道すじを考えたい。さらに捕鯨。つまりすべての先住権の回復を。原告の要望をすべて取り上げる。 (2022.2.6)
▲道庁市町村課で教えていただく。土地に対する課税標準額と徴収実績(令和2年決算) 税収67,524,612千円(約675億円) 課税標準額4,968,180,562千円(約4兆9,600億円) 税率1.36% 。 土地税収675億円のうち100億円(土地税収の14.8%に当たる)を地代としてアイヌ民族に上納していただく。民有地にたいする 補償はこれで基本的に解決。あとは山、川、海での漁業、狩猟のイオル的権利の調整。昨日のサッポロ自由学校「遊」のズーム会議後の田澤さんとの電話の遺骨問題 も当然入れる。(2022.2.10)
▲不動産の専門家によると地代は固定資産税(土地)の3〜5倍だそうだ。ならば14.8%は全く問題はない。 (2022.3.1)その後さらに考えました。地代関連へ飛ぶ。平取町イオル計画へ

先住民族権利宣言

第1条 先住民族は、集団又は個人として、国際連合憲章、世界人権宣言及び国際人権法において認められるすべての人権及び基本的自由を十分に享有する権利を有する。

第4条 先住民族は、その自決の権利の行使に当たり、その内部的及び地域的問題並びにその自律的活動を賄うための資金調達方法について、自律又は自治の権利を有する
第8条 1.先住民族及び先住民である個人は、強制的に同化させられ、又はその文化を破壊されない権利を有する。
2.国は、次の行為の防止及び救済のための効果的な措置を講じなければならない。
(a)独自の民族としての一体性又はその文化的価値若しくは民族的アイデンティティを奪う目的又は効果を有するあらゆる行為。
(b)先住民族の土地、領域又は資源をはく奪する目的又は効果を有するあらゆる行為。
(c)先住民族の権利を侵害し、又は損なう目的又は効果を有するあらゆる形態の強制的な人口移動。
(d)あらゆる形態の強制的な同化又は統合。
(e)先住民族に対する人種的又は民族的差別の助長又は扇動を意図するあらゆる形態の宣伝。
▲土地、鮭漁、鹿猟、捕鯨、強制移住、言語

第10条 先住民族は、その土地又は領域から強制的に移動させられることはない。 当該先住民族の自由で事前の及び事情を了知した上での同意なしには、 並びに正当かつ公平な補償に関して合意した後でなければ、また可能な場合には、復帰の選択権を与えられるのでなければ、 移動を行ってはならない。
▲強制移住

第11条 1.先住民族は、その文化的な伝統及び慣習を実践し、及び再活性化させる権利を有する。 これには、考古学的及び歴史的な場所、工芸品、意匠、儀式、技術並びに視覚的及び舞台的芸術並びに文学のような、 自己の文化の過去、現在及び未来の表現を維持し、保護し、及び発展させる権利が含まれる。
2.国は、先住民族の自由で事前の及び事情を了知した上での同意なしに、又はその法、 伝統及び慣習に反して奪われた先住民族の文化的、知的、宗教的及び精神的財産については、先住民族と協力して設けた、 原状回復を含む、効果的な仕組みによる救済を行わなければならない。

第12条 1.先住民族は、その精神的及び宗教的な伝統、慣習及び儀式を表現し、実践し、発展させ、及び教育する権利、 その宗教的及び文化的な場所を維持し、保護し及び干渉を受けることなく立ち入る権利、 儀式用具の使用及び管理の権利並びにその遺体及び遺骨の返還に対する権利を有する。
2.国は、関係する先住民族と協力して設けた公正で透明かつ効果的な措置によって、 国が保有する儀式用具並びにその遺体及び遺骨へのアクセス並びに/又は返還を可能にするよう努めなければならない。
▲遺骨返還――国の義務

第14条 1.先住民族は、その文化に沿った教育及び学習の方法に適した仕方で、その固有の言語で教育を提供する教育制度及び施設を設立し、 及び管理する権利を有する。
2.先住民である個人、特に子どもは、差別されることなく国のすべての段階及び形態の教育を受ける権利を有する。
3.国は、先住民族と協力して、その共同体の外で生活している者を含む、先住民である個人、 特に子どもが、可能なときには、その固有の文化及び言語で行われる教育を受ける機会を得られるようにするため、 効果的な措置をとらなければならない。
▲アイヌ民族学校・大学・研究所の設置――国の設置義務

第20条 1.先住民族は、その政治的、経済的及び社会的制度又は機関を維持し、及び発展させる権利、 その生存及び発展のための固有の手段を確実に享有する権利並びにそのあらゆる伝統的活動やその他の経済的活動に自由に従事する権利を有する。
2.生存及び発展の手段を奪われた先住民族は、正当かつ公平な救済を受けることができる。
▲鮭漁、捕鯨、鹿猟の復活――国の救済義務

第28条 1.先住民族は、自己が伝統的に所有し、又はその他の方法で占有若しくは使用してきた土地、領域及び資源で、 その自由で事前の及び事情を了知した上での同意なしに、没収され、占拠され、使用され、又は損害を受けたものについて、 原状回復を含む方法により、それが可能でない場合には正当で公平かつ衡平な補償によって、救済を受ける権利を有する。
2.関係する民族が自由に別段の合意をしない限り、補償は、同等の質、規模及び法的地位を有する土地、領域及び資源という形態、 金銭的補償又はその他の適当な救済の形態をとらなければならない。
▲国有地返還。民有地に対する地代相当額の補償は国の救済義務
    アイヌ民族と近代法
     上村論文(拡大)
「近代法は市民社会の形成に大きく関係するが、同時に帝国主義や植民地主義の土台ともなった。 差別や偏見を土台に、支配や搾取の道具あるいは文化や伝統の破壊者としての役割を、日本政府によって持ち込まれた近代法が担うことになる。」 203p
▲まずこの点をしっかり押さえておくこと。(2023.1.26)


第31条 1.先住民族は、その文化財、伝統的知識及び伝統的な文化的表現並びに人間やその他の遺伝物質、種子、薬品、動植物の特性についての知識、 口承伝統、文学、意匠、スポーツと伝統的競技並びに視覚的及び舞台的芸術を含む自己の科学、技術及び文化の表現を維持し、 管理し、保護し、及び発展させる権利を有する。また、先住民族は、この文化財、伝統的知識及び伝統的な文化的表現に係る知的財産を維持し、 管理し、保護し、及び発展させる権利を有する。
2.国は、先住民族と協力して、これらの権利の行使を承認し、及び保護するため、効果的な措置をとらなければならない。

第38条 国は、先住民族と協議及び協力して、この宣言の目的を達成するため、立法措置を含む適当な措置を取らなければならない。
▲立法不作為

第39条 先住民族は、この宣言に含まれる権利を享有するため、国からの及び国際協力を通じた資金的及び技術的な援助を受ける権利を有する。
▲自立化基金の創設
▲上記コメントは2022.2.7
「2022.11.14 上村鑑定意見書」「UNDRIPにも法的拘束力が存在していることを確認しておきたい。」
宣言の法的拘束力1 2022.11.14 上村意見書(拡大)
宣言の法的拘束力2 2022.11.14 上村意見書(拡大)
▲この見解はすばらしい。(2023.1.17)









法源としての慣習法1
法源としての慣習法2 UNDRIPの中の「慣習法」1 (拡大)
UNDRIPの中の「慣習法」2 UNDRIPの中の「慣習法」3 (拡大)
UNDRIPの中の「慣習法」4
法律と同一の効力を有する慣習 (拡大)
UNDRIPの国際法上の効力1 UNDRIPの国際法上の効力2
UNDRIPの国際法上の効力3 (拡大)













UNDRIPの中の慣習法 (拡大)
通則法第3条

▲UNDRIPの中の慣習法を通則法第3条を通すと裁判規範になるとおもう。(2023.1.20)

▲さらに上村論文「「UNDRIP」獲得への長い道のり」(2008.3)を読んで、UNDRIPは 憲法98条第2項の「確立された国際法規」に該当するのではないかと考えた。ハーグの国際司法裁判所の提訴も視野に入れて このことを正面から日本の裁判所に訴える、これはある意味大きな挑戦である。(2023.2.7)
「「UNDRIP」獲得への長い道のり」
「2007年9月の総会本会議決議では、 再び米国と袂を分かって賛成に復帰した。 但し、 採択直後に3点に及ぶ解釈宣言を行い、 以下の留保条件 を付けた。
第1に、 独立・分離権を認めないこと、
第2に、 集団的権利としての人権を認めないこと、 そして
第3に、 財産権は第三者 や公共の利益との調和を優先することである。」
「集団的権利を人権として認めない態度 も、 人権の ABC の学習問題である。 何度も紹介 してきたが、 本宣言第3条は、 国際人権規約・共 通第1条を、 先住民族を主語として書き直したも のである。 国際人権規約は、 国際人権規準におい ては基本条約の中核に当たるが、 国連総会で採択 されたのが1966年であり、 日本政府が批准したの が1979年である。 」
▲つまり集団的権利は国際人権規約の地位にあり日本政府も批准している内容である。 よって憲法98条第2項の「確立された国際法規」に該当する、ということ。(2023.2.9)
▲2023.2.12池田先生と会う。
「確立された国際法規」の英文の示唆。英文は「established laws of nations 」となっている。 lawを「webster's new world dictionary 」(copyright 1978)で調べる。
「all the rules of conduct established and enforced by the authority,legislation, or custom of a given community,state, or other group」
日本語の「国際法規」より遥かに広いイメージ。undripはlaws of nationsと言えるが、問題はestablishedまで成熟しているかどうかである。 そこが争点。この際、国際的議論を巻き起こす必要がある。ハーグの国際司法裁判所を含めて。(2023.2.13) (拡大)

▲慣習法に関する池田見解の補足(2023.1.18)
世界史的にも実に多様な民族問題、少数民民族、被制圧民族問題がありますが、アイヌ問題の特質に照らして、 しかしその特質に鋭く特殊に迫りながらも、世界の民族問題、被圧迫/被制圧民族問題として共通・普遍の切り口に繋げる、 近代法的(したがって近代国家的)切り口が「人格権」なのです。 その意味では、近代的「人格権」(広義)は、慣習的入会権にも慣習漁業権にも矛盾したり、違背したりしません。
そもそも後者たち(慣習的入会権、慣習漁業権)は、本質上純粋個人的権利ではない、それぞれの国での少なくとも 中世以来形成され、時代の波に揉まれて変容を遂げてきた慣習法に拠りながらも、近代法として再規定されるや、 その瞬間に近代法に適合した権利つまり個人権に成り代わるのです。 端的な指標を示せば、基本的には部落(集落)単位のそれら慣習的権利は、慣習上はその部落の構成員たる「戸」のものですが、 入会権者・漁業権者は、各戸を代表する家長たる個人です。個人人権として再編されざるを得ない、 これが近代法の下で捉えられる慣習的集団権です。(中略)前者(入会権・漁業権)は、その内容は、あくまで慣習が第一次法源であって、 慣習によってその内容が基本的には規定されます。

「法律と生きた慣習」翻訳 小梁吉章(こはりよしあき) 広島法学39巻2号(2015 年)
本稿は、フランス・ストラスブール大学法学部の法制史担当イブ・ジャンクロ名誉教授が 2014 年に発表した論文、Si la loi etait une coutume qui a reussi ? (法律は慣習が出世 したものか?)の翻訳である。

【訳者解説】
本論文で著者は、主権者が形式的な立法作用によって定める法律と民衆が社会の維持のために自発 的に生み出す慣習を対比し、慣習が慣習法(les coutumes)に編纂され、公表 され、註釈されて、社会に普及すること、さらにパリ慣習法がフランス民法 典の編纂で参考にされたように、一部の慣習法が主権者によって法律に格上 げされることを述べている。標題の「法律は慣習が出世したものか?」は慣 習または慣習法が法律に変じることを意味している。
わが国民法の編纂者の一人である穂積陳重博士に『慣習と法律』と題 する一書がある(訳注2)。同書で穂積博士は「文字の使用が愈々廣まるに至 るときは、不文慣習の法律以外に成文の法を制定して、其需用に應ずるに至 り、竟に成文法は法の本體であって、慣習法は其變體であると為し」と説明し、 法律は立法作用によらなければならないと述べている。成文法が支配的にな るにつれ、慣習は根拠を失うというもので、穂積博士の法実証主義者の面目 躍如たる文章である。ジャンクロ教授の論文はこれと対立し、成文法は慣習 と民衆の意識に支えられて初めて法たる資格を有するという、フランス固有 の自然法的発想に基づいている。本論文は、わが国における慣習と法律の比 較論と対比しても相当の示唆を与えるものと思われる。

【本文】
法律家は何世紀も議論して、法律を堅固なものと信じ込ませようとしたが、 実はいうほど堅固ではない。部分的にもあるいはまったくといっていいほど 適用できない行動様式を前にしては、法律は譲歩せざるをえないのである。 社会の要求に適合できなければ、法規範として無用であり、消え去らざるを えない。過去の現実に固執しても無駄なのである。社会の要求に応えること ができるようなあたらしい形式で再登場せざるをえない。

人々の日常生活から外れていれば、立法者自身によって、法律は忘れられ、廃止される。 法律が法規範して存在するためには、慣習のように社会の要求を満足させなけれ ばならない。この点において、法律には慣習が生きているのである。 学者の論争(disputationes)は、現実の前には影が薄い。法規範の形成にお ける慣習と法律の組合せ(apariage)を知るべきである。社会、経済、心理 および医学の変化から見れば、法律とは慣習が出世したものであることを示 している。
▲UNDRIPは先住民族の慣習の国際的基準。通則法3条で法的効力を持つ。法と慣習の理論的解明が イブ・ジャンクロ名誉教授によって 2014年発表の論文(小梁教授翻訳)によってなされている。(2023.1.19)


ジョン・ロック『市民政府論』(1690年 元禄3年)13424-13633
▼元禄3年にヨーロッパでは以下のような議論がおこなわれていた、ということに注目。(2021.7.1)
第4章奴隷について
28p「社会における人間の自由は、同意によって国家内に定立された立法権以外の下に立たないことにある」
▲アイヌ民族は日本国家に日本国民となる同意を与えていない。そもそもここが問題。(2021.6.27)
「政府の下にある人間の自由とはその社会のだれにも共通な 、そうしてその中に立てられた立法権によって作られた、恒常的な規定に従って生きることにある」
第5章所有権について
32p「自然状態にあるかぎり、私的支配権をもたない。」
牛尾年表(拡大) 牛尾年表(拡大) 牛尾先生に「寄り道」の話をしたら年表を送ってきてくださいました。2021年度講義原案です。(2021.7.2)
▲アイヌ民族の自然観と同じ。(2021.6.27)
33p「労働をまじえたものは彼の所有となる」

▼寄り道:近代を準備した人たち
デカルト1596-1650  ロック1632-(名誉革命1688)-1704    ルソー1712-(アメリカ独立宣言1776)-1778
カント1724-1804  ベートーベン1770-(フランス革命1789)-1827 ヘーゲル1770-1831 マルクス1818-1883

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)「バッハチェロ組曲」作曲年代は、詳しくは分からないものの、J.S.バッハが器楽曲の名曲を多く作曲したケーテン 時代の1717年〜1723年だろうと言われています。
ピアノソナタ第30番ホ長調作品109は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1820年に作曲したピアノソナタ。
36p「われわれに所有権を与えるその同じ自然法が、この所有権をもまた拘束する」 「生活の役に立て得るだけのものについては、誰でも自分の労働によってそれに所有権を確立することができる。」
▲アイヌ民族の所有観念と同じ。(2021.6.27)
50p〜54p「労働が、最初、共有物に所有権を設定したのである。」「はっきりした合意によって、地球のおのおのの部分について、相互に所有権を 確定したのである。」「貨幣の用途と価値とをもっている何らかのものを発見すると、その人はやがて自分の財産を増やしはじめることがわかる。」
第6章父権について
56p「理性または啓示に問うてみるならば、母親もまた平等の権原をもつことがわかるであろう。 それ故にこれを親権と呼ぶ方が、もっと適当ではなかろうか。」
▲本書は1689年に印刷されている。今から332年前。ジェンダーの問題、男系の天皇制へのこだわり、 男女の平等が何と時間がかかっていることか。(2021.6.27)
58p「アダムは一個の完全な人間として創造され、彼の身体と精神は体力と理性とを完全に備えており、このようにしてその存在のはじめから自分自身 の維持存続に必要なものを調えることができ、また神が彼の中に植えつけたところの理性の法の命ずるところに従って自分の行動を支配することが できた。」
▲このような当時の社会の前提を承知しておかないとロックが理解できない。(2021.6.27)
60p「法の目的は、自由を廃止または制限するのではなくして、それを保持拡大するにある。」
▲ヘーゲルは自由とは必然性の認識である、と言っていたと思う。ロックの言葉を哲学的に表現した。(2021.6.27)
65p「人間の自由および自分の意志に従って行為する自由は、理性を彼がもっている、ということに基づいているといえる。」
▲56p〜80p第6章父権について 展開が私には説得力不足。再度読んでみるが。(2021.6.30)
第8章政治社会の発生について
100p「幾人かの人々が、各人の同意によって共同体を作った場合には、彼らはこれによって、その共同体が一体として決議する力をもつように したのであるが、この力はただ多数者の意志と決定によってのみおこなわれるのである。」
▲日本人には自分たちの同意で市民社会を作った、という意識がまず無い。多数決原理がひとり歩きしている。多数者決定の弊害が 横行している。330年前のこの原理の見直しが求められている。(2021.7.1)
115p「外敵に対して防禦するために指揮をする一人の大将が必要である。」
116p〜117p「君主制がjuri divino(神に掟によって)であるとは夢想しなかった。こういう考えは近代の神学がわれわれに啓示するまでは、決して人類 の間で聞かれなかったところである。また、父親の権力も、それが支配する権利をもち、 あるいは一切の政府の基礎になるとは、認められていなかった。
以上のようにして、歴史の示す限りは、明らかに、一切の、平和的に始まった政府の起源は人民の同意によったものであることを、われわれは結論 する理由をもっている。」
▲日本の歴史は征服だとおもうが。(2021.7.2)
122p「親子の間の自然的義務の覊絆は、王国や共和国が実定法で定めた限界によっては制限されない。」
▲やっとここまできて憲法より市民法(民法)がベースという意味が理解できた。(2021.7.3)
126p「確実な協約および明示の協定契約によって、自ら現実にそれに加わること以外には、人を臣民とするものは他にないのである。これが政治社会 の起源および人を国家の一員とするところの同意について、私の考えているところである。」
▲今を生きているような議論だ。ところで当時のイギリスは王制、共和制?(2021.7.3)
当時のイギリス(拡大) やっぱり共和制の時期があった!(2021.7.2)
Wikipedia:イングランド共和国(イングランドきょうわこく、英語: Commonwealth of England)は、 清教徒革命(イングランド内戦)の時期に当たる1649年から1660年までの間、イングランド王国(ウェールズを含む)と、 後にはアイルランド王国・スコットランド王国を支配した共和制の政治体制。
▲ロックは1632年生まれ。青年期、共和制を体験している。これが市民政府論の背景にあるとおもう。 共和制は約100年後アメリカ、フランスで実現される(2021.7.3)
第9章政治社会と政府の目的について
127p「彼らが生命自由および資産、すなわち総括的に私が所有propertyとよぼうとするものの相互的維持のために、すでに結合しまたは結合 しようと望んでいる他の人々と、社会を組成することを求めかつ欲するのは、理由がないことではない。」
▲propertyの意味。生命自由まで含まれる。注意。(2021.7.3)
128p「自然法はすべての理性ある被造物にとって、明白であり理解し得るものであるが…」
▲自然法という法律があるわけではない。理性で理解できるルール、ぐらいの意味で自然法ということばが使われている。 (2021.7.3)
134p「国家(commonwealth)という言葉で私が意味しているのは、ラテン語でcivitasということばが示しているような、独立の共同体 を指している。国王ジェームスT世(在位1603〜25)によってこの意味に用いられた。」
135p「立法権自身をも支配すべき第一のかつ基礎的な自然法は、社会および(公共の福祉と両立し得る限り)その内部の各人の維持にある。」
▲ロック、自然法ということばをどこかで定義している?(2021.7.3)
用語の定義
9p政治権力 10p自然状態について 12p自然法 13p自然法 14p自然状態の権力 15p自然法の執行者 15p外国人を処罰する権力の根拠  18p耳新しい説(ロックのこと)
▲135pまで読んできて9p〜18pを振り返ると最初読んだとき気づかなかったことが理解できるようになる。ロックの市民政府論は イングランド共和制の経験を理論化した、時代の産物であることが理解できる。ただこの共和制は11年間で崩壊する。本格的に実現されるのは100年後のアメリカ、フランスにおいてである。 (2021.7.4)
135p「民衆が選任した立法権によって承認を得ていないものは、法として効力拘束力をもつことはできない。
▲現代人の常識が語られている。(2021.7.5)
フーカを調べること
10p〜11p「人間の自然の平等をあの明敏なフーカ(hooker)は、本来全く明白疑いをいれないものだとした。」
▲『教会政治』第1巻からの引用。すばらしい。
リチャード・フッカー

Wikipedia:リチャード・フッカー(Richard Hooker、1554年3月 - 1600年11月3日)は、イングランド国教会の有力な神学者である。 フッカーはトマス・アクィナスに学んでいたが、そのスコラ思想を自由主義的なやり方に適応させた。理性と寛容の強調は、ジョン・ロックの哲学より先に国教会の教義に影響した。 ロックはまた、フッカーの権威を用いて人間の自然状態における平等を論証した。
136p「人間は本来人間の全政治集団に命令すべき完全な権力をもつものではない。したがってわれわれが全然同意しない場合には、われわれはこのように、 何人の命令のもとにも生存するものではない。」(フーカ第1編第10章)
▲アイヌの人たちは日本政府の支配下に入ることを同意したわけではない。そもそもここからが問題。 (2021.7.5)
137p「立法権は、究極の限界としては、社会の公共の福祉に限定されている。」
138p「自然法は、万人に、すなわち立法者にもその他の者と同じように、永遠の規則として存続する。自然法の根本法は人類の保存にあるから、どんな 人定法も、それに背反しては正当でも有効でもあり得ないのである。」
▲この自然法の考え方は普遍性がある。現代でも通用する。(2021.7.5)
141p「一切の政府の権力は、……確定し公布された法によって行使されねばならないのである。」
142p「最高権は、何人からも、その所有の一部といえども、その者自身の同意なしにとることはできない。何故なら、所有の維持は、政府の目的であり、そのために人が 社会を取結んだのだからである。」
▲ここがアイヌモシリでは侵された。(2021.7.5)
146p「法は個々の場合に異なってはならない。富者にも貧者にも、宮廷の寵児にも、農村の百姓にも、 同様に規定はただ一つだけでなければならない。」
▲「官民区分」において差別があった。これはとても重要。近代法の根本が侵害された。 (2021.7.5)
Wikipedia:
トマス・アクィナス

トマス・アクィナス(羅: Thomas Aquinas、1225年頃 - 1274年3月7日)は、中世ヨーロッパ、イタリアの神学者、哲学者。 『神学大全』はトマス・アクィナスの数ある著作の中でも最も有名なものであるが、 序文の言葉によれば神学の初学者向けの教科書として書かれたものであるという。
決してキリスト教徒でない人々を想定して書かれているわけではないが、 それでもきわめて明快に理性と啓示(信仰)の融合がはかられ、 読者がキリスト教信仰に関する事柄でも理性で納得できるように書かれている。
トマスは、神の摂理が世界を支配しているという神学的な前提から、永久法の観念を導きだし、 そこから理性的被造物である人間が永遠法を「分有」することによって把握する自然法を導き出し、 その上で、人間社会の秩序付けるために必要なものとして、人間の一時的な便宜のために制定される 人定法と神から啓示によって与えられた神定法 という二つの観念を導きだした。
その詳細は以下のとおり。 永久法とは、この宇宙を支配する神の理念であり、そのうち、理性的被造物たる人間が分有しているものが、自然法である。
そして、自然法のうち、人間が何らかの効用のために特殊的に規定するものが人定法であり、 人間がより強く永久法に与れるように、神から補助的に与えられたものが神定法である。
神定法として念頭に置かれているのは、旧約聖書と新約聖書において命じられている事柄であり、 前者は旧法(lex vetus)、後者は新法(lex nova)と呼ばれる。


慈円

道元
▲慈円(1155-1225)『愚管抄』1220年頃。道理の書。『神学大全』に通ずる。(2021.7.6)
▲道元(1200-53)トマス・アクィナスと同時代人。『正法眼蔵』は1231-53にわたる道元の説示を集めた法語集、 日本の最高の知性の書、『神学大全』に引けを取らない、と私は思っている。日本では残念ながらヨーロッパのように近代を準備した人が出ていない。 (2021.7.5)

151p「立法権は、ある特定の目的のために行動する信託的権力にすぎない。」
▲330年前、元禄3年のこの著書に教えられることが新鮮である。今も色褪せていない。驚き。(2021.7.6)
156p「後者の場合、立法府を招集する権力は、普通、執行権がもっている。」
▲憲法で確認。第7条天皇の国事行為の中に国会の招集が入っている。内閣の助言と承認により、となっている。 ということは内閣が招集権を持っているということ。(2021.7.6)
157p「信任を裏切ることは、人民と戦争状態に陥ることであり、人民は立法府が、その権力の行使を行い得るよう、元の地位に復する権利をもつ。」
▲私自身を含め人民の主権意識が薄い。議員、政党にゆだね過ぎている。300年前のロックさんの方がはるかに主権意識が強い。 (2021.7.6)
158p「(立法府の招集と閉会の時期)執行部の手中に帰する。それは、恣意的な権力としてでなく、つねに公共の福利のために、時宜に応じて用いられる という信頼をもって、与えられるのである。」
▲内閣総理大臣の解散権もそもそもなぜそのような権限が与えられているか、から議論すべき。 (2021.7.6)
164p「法の規定によらず、時にはそれに反してでも、公共の福祉のために、裁量にしたがって行為するこの権力は、 すなわち大権と呼ばれるものである。」
174p「専制的権力というのは、一人が他人を支配し、その欲する時に、彼の生命を奪うことのできる絶対的、恣意的権力のことである。」
▲バイデン、中国を専制主義と呼ぶが定義を求めたい。(2021.7.7)
176p「絶対主義的王国は、どんな構造であろうと、市民的社会の一種では決してあり得ない。」
191p「征服者の統治は、それが被征服者に向かって力で強制されたときには、征服者が、この被征服者に戦争をする権利をもっていない場合でも、 あるいは権利をもっていたけれども、被征服者が、彼に対する戦争に参加しなかった場合でも、被征服者に対して、 何の拘束力ももたないのである。」
▲アイヌモシリの占領は拘束力をもたない。まずこのことを確認したうえで日本の法律の適用でも違法だ、 という論理展開。(2021.7.7)
193p「強制で政府のくびきに服従することを強いられた人びとの子孫であるとか、あるいはその他の関係を彼らともっている人々は、 いつでもこのくびきを振りほどき、剣が彼らの上にもたらした簒奪、専制から、自分たちを解放し、ついには自ら選択して同意するような政体の下に 支配者が彼らをおくようにし得るのである。」
▲私にとって全く当然の理屈だが、これは今日でも通用するのか。障碍になる理論がロック以降生み出されていないのか。(2021.7.7)
201p〜202p「(ジェームス1世の1603年と1609年の国会での演説を引用したあとに)物事の観念をよく理解している博学な国王は、君主と専制君主の差 は一に、前者が法を、自らの権力の限界とし、公共の福祉を政府の目的としているのに対し、後者は、すべてが、彼自身の意志と欲望とに譲らなければ ならぬとしている点にあることを指摘しているのである。」
▲ジェームス1世、家康と同時代人。ユニオンジャックはジェームス1世の時、制定された。 (2021.7.7)
229p「政府の目的は、人類の福祉にある。ところで、人民がいつも専制政治の無限界な意志にさらされているのと、もし支配者たちが、その権力 行使に当たって法外なものになり、その人民たちの財産の保全ではなしに、破壊のためにそれを用いる場合には、これに抵抗してもよいというのと、 どちらがいったい人類の最善の福祉にかなうだろう。」
▲革命の容認。1776年7月4日米国独立宣言の日。たまたま245年後の今日、ここを読んだ。 (2021.7.7)
231p〜232p「臣下にせよ、外国人にせよ、他国民の財産を力で狙うものは、力で抵抗されても仕方がないということは、すべての者が同意する。 けれども為政者が同じことをした場合、抵抗してもいいということは、最近まで否認されていた。…かのバークレー自ら、人民はある場合には抵抗 してもいいのであるから、、君主に対する一切の抵抗が叛逆なのではないことである。(以下ラテン語原文)翻訳すればこうなる。」
▲理性による思索の深化が神学の変化を促した、ということだとおもう。(2021.7.8)
241p「君主と立法府のどちらが信任に背いたかについて、誰が審判者となるか…人民が審判者となるべきである。」
▲「市民政府論」「人民政府論」構想である。民主主義の根本。これが330年前、元禄3年に書かれている。日本の近代化は決定的に 遅れた。本当の意味で追いつかなければいけない。市民政府論を浸透させること。アイヌ民族の問題は日本社会の市民化に直結している。 (2021.7.8)

「わが友阿部ユポさんと私のアイヌモシリ回復に寄せる思い」
今日からこのコーナーで日本の政治家、裁判官を含めた日本列島に住むすべての人たちに宛てたユポさんと私の思いを綴ります。(2021.12.7)


1 北海道のアイヌ語地名
@アイヌ語の地名「北海道のホームページより」
北海道の市町村名のうち、約8割がアイヌ語に由来しています。
現在では、そのほとんどが漢字で書き表されています。 そのために、アイヌ語と気付かない人もいますが、北海道に暮らす人たちのほとんどは、自分の住む町や山などの名前がアイヌ語 であることを知っているでしょう。
▲逆に本州に住む多くの日本人はそのことすら知らない現実があります。
アイヌの人たちの多くが川筋に住んで、生活に必要な資材を求めていました。 また、狩猟や交易のための交通路としても、川は重要な存在でした。 ですから、川(ペッ pet)や沢(ナイ nay) を意味する地名がとても多くあります。
アイヌ語地名は、その地形の特徴や土地の産物、そこでよく行われることなどを語源としています。 たとえば、キナ・チャ・ウシ kina-ca-usi という地名の語源は「蒲・を切り取る・場所」ですから、 そこはゴザを編む材料が豊富であったことがわかるわけです。
  「北海道のアイヌ語地名のいわれ」 全図    (拡大) 部分

平成20年(2008)2月7日山田治さん作成。ご本人の許可を得て掲載させていただきました。(2021.12.14)
このように、アイヌ語地名は必要に応じて名付けられたものであり、地名をつけた当時の人たちの生活が反映されているものです。 その意味で、アイヌ語地名は歴史的にも重要な文化財ということができます。
A右の山田治さんの手書きの地図は北海道全道がアイヌモシリ(アイヌ民族の大地)であったことを視覚的に訴えてくれます。
▲このことから北海道は元々アイヌの人たちの住む大地であったことは明白ですね。

2 日本列島でのアイヌ民族の受難の歴史から 和人はアイヌ民族に何をしたのか
▲このアイヌの人たちの大地に何が起きたのでしょうか。 江戸時代の「場所」(アイヌの人たちに奴隷的労働を強要した労働現場)の実態。松浦武四郎さんの聞き取り調査『左留日誌』から。萱野茂さんの祖父トッカラムさんの話。『アイヌの碑』より。
まず「場所」での実態。


@シャクシャインの戦いの頃(1669年)
クナシリは右上の島
メナシは根室・釧路辺り
(『アイヌ民族の歴史』p247)(拡大可)

*メナシ領シベツ(士別)では、粕作りが始まってから〆粕割合の手当てというものはまったく無く、 〆粕の雇い代は首長が米一俵にたばこ一把、一般アイヌはたばこ半把にマキリ(小刀)一丁なので、 …自分の荷物も何もなく、 土産がもらえるわけでない。去年から〆粕作りが始まっているので冬中食べ物が不足し、 妻子を養うにも難渋している。ことにシトノエというアイヌ女性は、働きが悪いということで薪で強く打たれて病気になり、亡くなった。

*同所(メナシ領シベツのこと)のシリウというアイヌは、妻と妾の二人がともに稼ぎ方の和人たちに密夫(姦淫・凌辱)されたが、 抗議したら逆に道理に合わない文句を言われるので、言えないでいる。

*同所(メナシ領シベツで)働かないと、男女を問わず残らず粕とともに殺すぞ、と稼ぎ方に言われた。

*同所(メナシ領シベツで)稼ぎ方は、当年よりアイヌを残らず殺すといって、犬を縄に縛って川へ沈めて殺した。 シャモ(和人)が多数のアイヌを殺すのだな、とアイヌは推量した。

*メナシ領チュウルイ(阿寒湖には、大島、小島、ヤイタイ島、チュウルイ島の四つの島がある。)では、 稼ぎ方たちが昨夏より大きな釜を三つ用意し、男と女と子供のアイヌに分けて粕とともに煮て殺すと脅し、 実際に子供を背負った女性を釜に入れたが、大勢のアイヌがやってきてこの時はなんとか助かった。

*同所(メナシ領チュウルイでは)ケウトモヒシケは、妻と妾に稼ぎ方が密夫したので、 アイヌ式のツグナイを求めたら理不尽にもぶっ叩かれた。

*同所(メナシ領チュウルイの)サンヒルというアイヌが、妻が密夫されたので抗議したら、 稼ぎ方は激しく腹を立てて サンヒルの髭をマキリで切ると脅された。

*クナシリのセセキ(セセキ温泉は知床半島の羅臼町にある海中温泉地)という所の支配人左兵衛は、 ウテクンテというアイヌ女性を居所へ引き連れて夫婦同様にして子供を産ませた。その他に密夫している例は多く、 悔しい思いでいるが、抗議すれば逆にツグナイを求められるので黙っている。

*同所(クナシリ)支配人の左兵衛の言うには、当年のお目付け役の勘平は難しい人物で、 アイヌが〆粕作りでしっかり働かないと当島に下さる米、酒、味噌に至るまで毒を入れ、アイヌを残らず殺して、 これまでアイヌが住んでいた所へ町屋をこしらえて江戸より和人を多数取り寄せて商売をすると言ったそうだ。
▲ ユポさんの年表の「*メナシ領シベツ(士別)では、…」の記述は『アイヌ民族の歴史』榎森進著・草風館出版2007年3月1日発行251頁以下 「メナシ夷共申口」「クナシリ夷共申口」からの引用のようです。 私も読んでみて、ユポさんが取り上げられているのは、松前藩の鎮圧隊の最高責任者・新井田(にいいだ)孫三郎の 「寛政蝦夷乱取調日記」が元資料で、「クナシリ」アイヌの和人を殺害した14名と、「メナシ地域」アイヌの和人を殺害した23名から、 事の経緯について「申口(もうしぐち)」つまり調査官の聞き取りに対するアイヌの人たちの証言記録からでした。 ところでメナシはアイヌ語で東という意味で、北海道の東の地方ということです。

Aそして200年後幕末1858年、松浦武四郎さん調査行記録『知床日誌』の記述。

「見る影もなく破れて只肩に懸る斗のアツシを着 如何にも菜色をなしける病人等 杖に助りセカチ男子  カナチ女子等大勢其汐干にあさりけるか
我等を見て皆寄来りし故 其訳を聞に
舎利アハシリ両所にては 女は最早十六七にもなり夫を持へき時に至れは  クナシリ島へ遣られ
 諸国より入来る漁者船方の為に身を自由に取扱ハれ
 男子は娶る比に成は遣られて  昼夜の差別なく責遣ハれ
 其年盛を百里外の離島にて過す事故
 終に生涯無妻にて暮す者多く
  男女共に種々の病にて身を生れ附ぬ
病者となりては働稼のなる間は五年十年の間も故郷に帰る事成難く
  又夫婦にて彼地へ遣らるゝ時ハ 其夫は遠き漁場へ遣し 妻は会所また番屋等へ置て番人稼人皆和人也の慰ミ者としられ
  何時迄も隔置れ
それをいなめは聞し由を委に話しけるに 此一事ハ同人も深く心を用ひ居らゝ由にて
  懇にうけかひ呉られけるも嬉し
余も今はかゝる事まても彼等の言の訳る迄に其国言に通せしそ嬉しけれは  取敢す一首の腰折を其壁にしるし置ものなり
日数へし程もしられて 蝦夷人の言も聞わくまてに成けり
          知床日誌終」
▲これはつい160年前、われわれ和人の祖先がアイヌ民族に対して行った仕打ちです。 こころが痛みます。申し訳ない気持ちでいっぱいです。われわれの世代、 今の時代に償いをしてこの列島で共に生きていく道を整えておきたいです。(2021.12.12)

B身近な例。

▲松浦武四郎さん1858年(安政5年)二風谷での聞き取り調査『左留日誌』と萱野茂さん『アイヌの碑』から
1858年、当時12歳だった萱野茂さんの祖父トッカラムさんのこと。『アイヌの碑』に「和人の奴隷だった祖父」の話があります。

「二風谷から厚岸まで350キロ以上。歩いて10日以上。燃料の薪集めと水汲みの仕事。重労働で毎日泣きながら。指を切り落として早く帰らせ

宇井眞紀子さん 13589 http://asacoco.jp/topnews/ainu-photo/
▼はじめての先住権裁判。(2020.10.8)
先住権裁判訴状 http://hiratatsuyoshi.com/KamuycepProject2020/archive/20200817raporoainunation_complaint.pdf
北大文書開示研究会・ラポロアイヌネイション支援センター http://www.kaijiken.sakura.ne.jp/fishingrights/index.html

差間正樹さん
浦幌アイヌ協会
第2回口頭弁論 2020年12月17日(木曜)15:00
差間正樹ラポロアイヌネイション名誉会長の意見陳述
1 私は、ラポロアイヌネイションの名誉代表をしております。 ラポロアイヌネイションは、旧称は浦幌アイヌ協会といい、私は長年この会長をしておりました。 今年の7月にラポロアイヌネイションと名称を変更し、名誉会長になりました。 ラポロとは浦幌の名の由来であるアイヌ語のオーラポロから取りました。なぜ、名称の変更をしたかというと、私たちの祖先はコタンという集団を作り、この集団が十勝川でサケ捕獲権を有していたことから、私たち子孫もこのサケ捕獲権を復活させることを目指す団体になろうと決断したからです。私たちもかつてのコタンのようにサケ捕獲権を持ち、自己決定権を持つ組織になっていくことができれば、 という決意を込めて名称を変更しました。

朝日朝刊2020.8.18(拡大可)
訴状(拡大可)
▼この訴訟の担当弁護士は市川守弘さんのようです。今日、市川さんの著書 『アイヌの法的地位と国の不正義』を読み終えました。
請求の内容は「浦幌コタン」による 浦幌十勝川河口から4`メートルまでのシロザケの刺し網漁の確認訴訟。訴状を読んでみて 著書で展開されている主張、すなわち「コタン」こそが先住権の権利主体に成れる、との主張がそのまま書かれてありました。 著書についての私の感想は日を改めて書きます。 (2021.2.23)

市川論文3(拡大可)  
市川論文2(拡大可) 「青年法律家」2020.3.25発行
市川論文1(拡大可) 池田先生より。(2021.7.14パリ祭)
▼ 『アイヌの法的地位』ここでまとめます。(2021.9.9)
明治5年の頁
市川『アイヌの法的地位』99p
「アイヌの人たちが今まで漁猟してきた土地であっても土地を分割して地券を発行して和人へ払下げ ていく、 ということにしたのである。したがって、これらの規則によって、 それまでコタンが有していた独占的・排他的支配地であった漁猟・狩猟 の土地が奪われたことになる。」
▲こういう事実をまず日本政府に認めさせ、ひろく日本社会に周知したい。 政策はその次。長期戦(2021.9.6)
明治2年の頁
91p
「もし明治政府が蝦夷地の土地を欲するならば、明治政府はアイヌの各コタンと条約を結んで土地を買い取る必要がある。 一官庁(太政官外局)にすぎない 開拓使がアイヌの権利・権限に関わる事柄を決定し、執行していたということは、 その合法性において大いに問題のあるところである。」
▼この指摘もすばらしい。市川弁護士はここを裁判で確認されたか?(2021.9.6)
追加:147p

「明治政府が条約を締結することもなしに、各コタンが有していた主権や先住権を各コタンの意思にかかわらずに 奪うことはやはり合法的とはいえず、 明確に違法行為、つまり日本国家、ときの明治政府による侵略行為であった。 したがって、各アイヌコタンは、依然としてその主権や〈先住権〉を回復 する正当な権利を持っているのである。」
▲すばらしい内容だが文章のトーンに弱さを感じる。私が8.28に考えた国連の「先住民族権利宣言」からでなく、 市川氏指摘のこの歴史的事実と1830年代のマーシャル判決以来の国際慣習法を根拠に、アイヌモシリ回復を主張できないか。(2021.9.7) 国連の「先住民族権利宣言」は補強でよいと思う。(2021.9.9)
追加:150p

「私は、アイヌに対し、まずは土地の返還を考えるべきだと思う。」
▲私がこの本を前回読んだのは、2021.2.21。そのときのコメントに、なぜこれをやらないのか?と書いている。 今回も同じ 感想を持った。(2021.9.8)
常本照樹「アイヌ民族と「日本型」先住民族政策」 常本論文 https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/16/9/16_9_9_79/_pdf/-char/ja
▲上記論文は恰好の批判の対象。市川本と同時に読み進めること。(2021.9.8)
先に行きます。166p
「アイヌが自らの意思によって、その集団を解散し、先住権を放棄していない以上、アイヌコタンは、依然として日本国家と対峙し、日本国家の支配 を受けずに先住権を主張できるはずなのである。」
▲これを主張していきたい。(2021.9.9)
168p
「内閣官房アイヌ総合政策推進室アイヌ政策推進会議の作業部会はアイヌ遺骨の返還先について、現代において「コタンもしくはコタンに代わる 受け皿となる集団は存在しない」と明言している。」
アイヌ遺骨の返還・集約に係る基本的な考え方について
平成25年(2013年)6月14日政 策 推 進 作業部 会
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainusuishin/dai5/siryou1-3.pdf
作業部会の記述
「海外では、遺骨の返還に当たり、民族又は部族に返還する事例が多く 見られること、また、アイヌ民族においても、かつてはコタンを単位と して祭祀を行っていたこと等を考慮すると、コタン又はそれに対応する 地域のアイヌ関係団体に遺骨を返還することが、アイヌの精神文化を尊 重するという観点からは望ましいとも言える。 一方、現実問題として、現在、コタンや、それに代わって地域のアイ ヌの人々すべてを代表する組織など、返還の受け皿となり得る組織が整 備されているとは言い難い状況にあることも考慮する必要がある。 」
▲作業部会の議事録はこのように記述されている。市川氏の表現とは違う。 慎重に考えるないと足元をすくわれる恐れがある。(2021.9.9)
181p〜182p
「シャクシャインの蜂起(1669年)の頃の大きなコタンは消滅したのだろうか?
(参考:海保峯夫『日本北方史の論理』 河野広道『墓標の形式より見みたるアイヌの諸系譜』)
日本北方史の論理 (拡大)
寛文9年メナシクル 昭和初期メナシクル 107頁(拡大)

海保は、自身の研究と河野の研究を比較して、昭和初期(昭和6年6月ー引用者)に行った河野の調査によるアイヌ集団の範囲と海保の研究による1669年前後のアイヌの 集団のそれぞれの範囲がかなり類似していることを指摘している。昭和初期から現代までコタンに関する調査は行われていない。現在においても これらのコタンは存続していると推測することは十分可能なのである。」
▲すばらしい着眼。奈良県大和出身の私の体験からも「村」は簡単に崩れない。 私の子どもの頃の大和には500年前の室町時代の雰囲気が残っていた。 ましてやアイヌモシリという流動性の少ない土地に300年前のコタンが存続していると考えるほうがむしろ自然である。日本社会の激しい流動性は 1960年代の高度経済成長期以後の現象である。それに惑わされてはいけない。(2021.9.9)
前日このように書きましたが修正します。北海道への明治以降の和人の流入の激しさを落としていました。 北海道の明治以降の人口の 推移をクリックしてください。正しくはこのような流入のなかでもコタンは生き残った、と認識すべきである、 と考えるべきでした。(2021.9.10)
193p
「このように、(臼杵コタン、浦幌アイヌ協会などの)アイヌ自身によるコタンの復活・再生は、コタンの主権回復と先住権回復への基礎となるのである。」
▲せっかくの研究がこういう方向づけをされていることに疑問を感じる。市川氏が考えるように復活・再生できるコタンもあることは 確かだが、全国に散らばっているアイヌの人たちはどうなるのか。コタンが再生できない北海道全土の土地、多くの川での鮭漁、山での鹿狩りはどうなるのか。 そうではなくて全アイヌ的規模で、全北海道的規模で現代のコタンの復活・再生を考える必要がある。私は全国のアイヌの人が参加できる、参加する、 北海道のすべての土地、資源を先住権として現代風に回復することの権利・権限の主体となる「アイヌモシリの会」を創設して日本社会に、 裁判に訴え、実現していくことが市川氏の研究を活かす道だと思う。(2021.9.10)
▲今朝、上記発想を裏付ける市川氏の記述に気づいた。172p〜174p「重層的コタン」。
「コタンというのは、単なる小さな集団だけを意味するのではなく、 それらを束ねる大きな共同体のことでもあるのである。数家族の小コタン、一つの河川流域に広がる中規模コタン、 複数の河川共同体を束ねた大規模なコタンも存在していた、と見ることができる。」
市川氏はこのような前提の コタンの再生・復活によってアイヌ民族としての権利・権限の主体をイメージされている。私は更に一歩進めて、 現代にアイヌの人たちの民族としての権利・権限 を考えるには、日本全国に住む人たちをも包含する超大規模コタンを発想する必要があるのではないかとおもう。「アイヌモシリの会」はそういう コタンである。
おそらく2万人超のコタンになるだろう。この超大規模コタンが明治維新以前のアイヌコタンの先住権回復の主体になり、 ウポポイに収納されている遺骨返還の受け皿にもなれる。これであれば木村二三夫さんの「「ウポポイ」の納骨堂を空っぽにしたい」との気持ち にも応えられるのではないかと思う。(2021.9.11)
203p

「(日本の国会では)北海道旧土人保護法の制定時はもちろん、その廃止時においてすら、北海道の土地はアイヌの土地であったという議論 が全くなく」
▲私の知る所では1893年(明治26年)第5回帝国議会で加藤政之助さんが自身の 「北海道土人保護法」提案理由で「アイノ人種は近古迄は北海道即ち日本のほとんど四分の一に当る所の面積を彼等自ら占領致して、 此の北海道の大地を以て己れの衣食の料に供して、己れの生活の資に充てゝ居ったものに疑はござりませぬ、」と述べておられる。 もちろん明治政府提案の提案理由では触れられていないが。加藤政之助さんの指摘は重要だと考えています。 ユポさんから教わりました。(2021.9.10)
▲政府の見解を確認するには内閣官房アイヌ総合政策室のHPが正確です。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainusuishin/
▲この市川氏の『アイヌの法的地位』は222pの著書です。 203pまで読んできて市川氏が代理人となっておられる2020.8.17に提訴された浦幌サケ漁の先住権裁判の訴状を読んでみた。 先住権裁判の原型としては用意周到に準備されているとの印象を持った。 私はこの原型を借りながら「アイヌモシリ回復訴訟」を考えはじめている。(2021.9.10)
▲「はじめての先住権裁判」の訴状を読む。原告の訴状は「サケ捕獲権」の存在確認の形をとっている。 被告の国・道はそういう権利は存在しない、と反論している。 私の考えはアイヌ民族の伝統的な「川サケ捕獲」を禁止した「明治9年開拓使乙第9号布達・明治11年開拓使乙第30号布達」が無効、 という形の訴訟にすることだと思う。池田先生と理論構成を相談すること。(2022.5.7)
北大文書開示研究会・ラポロアイヌネイション支援センター http://www.kaijiken.sakura.ne.jp/fishingrights/index.html
政府の見解1(拡大) 被告第1準備書面。2020.12.11。12頁 

政府はアイヌ民族の集団的権利は認めないが、基本的人権は認める。
▲立法不作為も念頭に置く。(2022.5.8)
政府の見解2(拡大) 被告第1準備書面。2020.12.11。12頁 

国際法としても集団的権利は定着していないとの政府の主張。
▲ならば、アイヌ民族の個人としての人格権(池田理論)から攻める。(2022.5.7)
政府の見解3(拡大) 被告第3準備書面。2021.6.13。5頁 
訴訟物の特定。
「いかなる実体法上の法的根拠に基づく権利又は 法律関係であるのかであるのかが特定されていないと、訴訟物は特定されていないことになる。」
▲国・道の反論。@アイヌ民族の集団的権利は認めない。A実体法上の権利。この土俵で勝負しないこと。(2022.5.8)
原告の政府見解への反論(拡大)

原告第4準備書面。2021.11.11 47頁

▲原告はここで慣習を持ち出す。しかし1878年のアイヌ民族へのサケ・マス漁の「開拓使」 の禁止を最初に否定することから始めるべき。(2022.5.7)
政府の見解4(拡大) 被告第4準備書面。2022.2.10。5頁
被告の反論。(慣習は)「既存の法律に反しないことが必要」
▲ 侵略者の法律に反しない慣習だけが法源として認められるということ。おかしい。(2022.5.7)













ラポロアイヌネイションシンポジウム (拡大)
シンポジウム 愛牛(あいうし)、十勝太(とかちぶと)コタン(拡大)



アイヌ政策検討市民会議 https://ainupolicy.jimdofree.com
市民会議

2017年3月18日
アイヌ漁業権回復を目指して    宇梶静江
首都圏から参加しました宇梶静江です。
私はアイヌ 漁業権についてお話しさせていただきます。
前回、畠山さんが漁業権について魂を込めて話されまし た。それを聞いて本当に感動しました。そして、私たちの先祖の生業だった漁業、特にサケ漁の権利 回復に向けて、私たちアイヌが動き出さねばならないと思いを新たにしました。
すべて文化というものは日々の暮らしから生まれます。とりわけ、先住民族の文化はそうです。自 然やカムイが身近に感じられる暮らしから切り離されたアイヌの文化には力強さがありません。
私の 父親は山の仕事が終わってお金が入ると、そのお金で魚や酒を買って、近所のアイヌのおじさんやお ばさんたちにふるまっていました。夜を徹して語り、歌い、踊ります。その踊りのダイナミックなこ と、いまのアイヌの踊りとは全然違います。体からほとばしるエネルギーから生まれる踊りです。ま さに生きた踊りです。暮らしのなかにある踊りです。
しかし、アイヌ文化は、暮らしから切り離されて、博物館に飾られるものになってしまいました。 現在、アイヌ政策推進会議が進めているアイヌ政策のかなめが博物館を中心とした「象徴空間」であ ることは、そのことをよく表しています。
アイヌがアイヌとして生きるすべを手に入れたときにはじめて、アイヌ文化が生きたものとなるの です。アイヌ語はすたれてしまいましたが、アイヌの刺繍、木彫り、歌・踊りは私たちの間に受け継 がれてきました。しかし、おおもとのアイヌとしての生活がなければ、アイヌの刺繍、木彫り、歌・ 踊りも細ってしまいます。形をなぞるだけのものになってしまいます。 もし、政府がアイヌの文化を推進したいと思うのなら、その文化を支えるアイヌとしての暮らしも 保証されなければなりません。
北海道が河川一本、二本でもいい、そこで独占的にサケ漁をする権利を取り戻したい。

そうすれば、 アイヌに力が戻ってきます。住宅資金、奨学金も大事です。でも、福祉対策だけでは、アイヌがアイ ヌであることに喜びを感じることはできません。私は、まだ私の生がこの世に残っているあいだに、 同胞がアイヌとして生きる喜びを感じられる日が来て欲しいと切に願っています。
現在、アイヌ政策推進会議がまとめようとしている政策は、先住権にもとづくものではないと聞い ています。「象徴空間」を全面的に否定はしません。でも、私たちは、何十億円もかかる大きな箱もの を、ほかのことに優先して作ってもらいたいと本当に望んでいるのでしょうか。
アメリカでは、アメリカ・インディアン博物館が2004年にオープンしましたが、博物館建設のた めの法律が出来たのは1989年だとのことです。それまでにいろいろな先住民族政策の積み重ねがあ り、そのうえに立って博物館計画が構想されたのだと思います。まず博物館から作ろうという日本と は大違いです。博物館はもつとあとでいいと私は言いたい。
「象徴空間」の建設準備は着々と進んでいます。建設を止めることはもう難しいかもしれません。で も、それ以外にアイヌが望んでいることがあると政府に要求することは可能です。私はアイヌの同胞 に訴えたいんです。アイヌの漁業権を取り戻すために立ち上がろうではありませんか。
漁業権の回復にはさまざま法律問題が横たわっています。それを解決するには、学者の先生や弁護 士の協力が必要です。この市民会議に弁護士の先生が参加しておられるでしょうか。アイヌの先住権 要求は基本的に法律の問題です。ぜひ、弁護士の先生方に加わってもらいたいと思います。
もう一つ重要なことは、権利の受け皿となるアイヌの組織づくりです。アイヌが集団として漁業権 を行使するには∴明確な組織が必要です。北海道には、北海道アイヌ協会と各地のアイヌ協会があり ますが、権利行使の組織として存在しているわけではありません。もし、漁業権回復を政府に要求す るとしたら、漁業権という先住権を行使するためにどんな組織が必要なのか、既存の組織でいいのか、 新しい組織を作らなければいけないのかを話し合って、合意を形成しなければいけません。
アイヌが合意を形成することがいかにむずしいか、私はこれまでの人生でいやというほど経験して きました。それは、アイヌが長い差別と収奪の歴史のなかで分断されてきたからです。しかし、それ を乗り越えないとアイヌには未来がありません。アイヌがアイヌであるためには、和人まかせの運動 ではだめです。アイヌの漁業権回復を目指して、アイヌが主体である運動を立ち上げたい、そのため にこの市民会議のお力を借りたいと思います。
このところ、天国からのお迎えの夢で目が覚めます。私にはもう長い時間は残されていません。体 も弱っています。でも、私たちアイヌが日本の先住民族であるためにまだやることがある。いま、ア イヌ民族の将来が決まる重要な岐路に立っている。そういう思いで必死に生きています。同胞の皆さ んに心からのお願いです。先祖から受け継いだアイヌの魂と豊かなアイヌ文化を子孫に受け渡せるよ うに、アイヌの暮らしを取り戻す、その第一歩としてアイヌの漁業権の回復のために立ち上がろうで はありませんか。
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▼昨日ユポさんとお会いしまた。「アイヌ政策検討市民会議」の資料をいただきました。 その資料を頼りに市民会議のHPに出会い、上記の宇梶さんの講演を見つけました。当事者が何を考えておられるかを知ることができました。 わたしが今準備していることに大変参考になりました。下記の記録もあることを知りました。(2020.1011)
アイヌ政策検討市民会議 設立にあたって
問題意識
現行のアイヌ政策の骨子は「有識者」による密室の会議によってつくられ、当事者のアイヌは蚊帳の外に置かれてきた。 これは国際人権文書で謳われている先住民族の権利FPIC原則【自由意思による、事前の、十分な情報に基づく同意(free, prior and informedconsent)】から逸脱しており、アイヌの人権を著しく損なっている。 現行のアイヌ政策はまた、「先住民族の権利に関する国連宣言」はもとより、法的拘束力のある国際人権規約などの国際人権法も無視して進められている。このことは国際法の誠実な遵守を謳った日本国憲法98条2項にも反する。 現行のアイヌ政策はしたがって、社会政策であって、先住民族政策ではない。それは「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」が日本による北海道の植民地化の歴史を直視せず、その歴史に終止符を打っていないことからも明らかだ。 同有識者懇談会は8名の「有識者」のうち、5名が研究者である。それにもかかわらず、その報告書は上記のように国際人権法、日本国憲法や植民地化の歴史に照らして多くの問題がある以上、学問の在り方も問われなければならない。 現行のアイヌ政策は日本社会の問題を反映していると考えられる。 したがって、アイヌ政策の問題点を市民社会に広く知らしめ、歴史、文化、権利の観点から、 当事者アイヌを中心に据え、ボトムアップで代替案を探る必要がある。
目的
アイヌ政策から直接影響を受けるアイヌはもとより、アイヌ政策に懸念をもつ国内外の研究者、教育者、 ジャーナリスト、芸術家、社会活動家、政治家、学生や市民らが集まり、現状のアイヌ政策について開かれた場で批判的に検討する。 その結果明らかになった問題点を広く市民社会と共有し、国や道主導から当事者アイヌの自決権に基づくものへと転換するための基盤、 すなわち代替策をつくり、日本政府や国連人権監視委員会など国内外の関係諸機関に提示する。
2016年4月9日 (一部訂正 2016年12月23日)
アイヌ政策検討市民会議設立呼びかけ人 丸山博
                     (室蘭工業大学名誉教授、ウプサラ大学名誉博士、客員教授)
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▼設立の問題意識と目的を読むと政策検討の市民会議。運動体ではない、 ということのようです。(2020.10.12)
市民会議の記録2016-2017
第1回(2016年4月9日、札幌市・北海道大学)
丸山博氏「アイヌ政策検討市民会議の設立にあたって」
吉田邦彦氏「アイヌ民族の政策諸課題──論点整理の試み」

第2回(2016年8月20日、札幌市・北海道大学)
丸山博氏「第2回市民会議の開催にあたって」
井上勝生氏「アイヌ共有財産裁判からの報告」
清水裕二氏、小川隆吉氏、畠山敏氏「アイヌ人骨返還リレートーク」
吉田邦彦氏「アイヌ人骨返還に関する声明文」

第3回(2016年11月19日、札幌市・北海道大学)
宇梶静江氏「アイヌなるものを探し求めて」
畠山敏氏「アイヌ先住権復興を目指す〜クジラ漁業をめぐって〜」
若月美緒子氏「教科書問題」
若月美緒子氏「落合講演問題」
上村英明氏「森林認証と先住民族」

第4回(2017年3月18日、札幌市・北海道大学)
若月美緒子氏「2.18集会の報告と落合講演問題の今後」 宇梶静江氏「アイヌ漁業権の回復をめざして」 島田あけみ氏「ダコタ・パイプラインをめぐるネイティブアメリカンの闘いへの連帯/政府のアイヌ政策と市民会議に対する私の思い」 吉田邦彦氏「国立アイヌ博物館構想への対案」 貝澤耕一氏「アイヌの土地・森林の管理について」 丸山博氏「生物多様性条約8条j項と先住民族文化」 ウィンチェスター・マーク氏「ヘイトスピーチ解消法とアイヌ」

第5回(2017年6月18日、札幌市・北海道大学)
広瀬健一郎氏「先住民族教育権回復の戦略―カナダからの示唆」
田澤守氏「樺太アイヌからみたアイヌ政策の根本問題」
萱野志朗氏「アイヌ語の復興」
ジェフ・ゲイマン氏「先住民族の教育文化権について」

第6回(2017年10月1日)
田中宏 二風谷訴訟が投ずる問題点・課題
吉田邦彦 アイヌ遺骨は何故アイヌ民族に戻らないか
若月美緒子/平山裕人 落合問題の顛末

▼過去の記録の中から トップへ戻る
第5回(2017年6月18日) 樺太アイヌ協会の田澤守さんの
「樺太アイヌからみたアイヌ政策の根本問題」をご紹介させていただきます。

2022.6.28撮影(拡大)
慰霊祭
 昨日、樺太アイヌの慰霊祭がありました。千島・樺太交換条約によって1875年、 841人の樺太アイヌが宗谷に強制移住させられました。その翌年の6月、854人が江別の対雁というところにさらに強制移住されました。 そこでわずか数年の間に三百数十名がコレラとか天然痘によって犠牲になりました。 その慰霊祭を毎年6月の第三土曜日に午後2時から、 今年は39回目、昨日行ないました。私は実行委員長をさせていただいておりまして、 天気は晴れて、幸せな時間を過ごすことができました。

日本民藝館「アイヌの美しき手仕事」チラシより樺太アイヌ刺繍衣装
 ここでみなさんに本当に最初にお礼を申し上げなければならないのは、 私がここで話をさせてもらえること、本当に感謝申し上げます。なぜなら、 アイヌ政策の中で樺太アイヌはほとんど出てきません。エンチウと言ってもほとんどでてこないんです。
自己決定権
私がずっと言い続けているのは自己決定権、自分たちの未来は自分たちで決めることができるんだ、 国連の先住民の権利宣言で認められているにもかかわらず、日本政府はそれを承認した、とかいいながら官房長官談話 で終わって法律にも何もできていない。それが現実です。
法律ではなくて、憲法に「日本に先住民族アイヌがいる」と、なぜ書かないのか。  私は憲法学者、特に北大のアイヌ先住民研究センターの、 落合さんの講演を聞いたとき「国とはなんだ」と言ったら、「人民じゃないんだ、憲法が国だ」と言われた。 「だから憲法が優先されるんだよ」と言われました。 だったらそこにアイヌが入っていないのはおかしいですね。 なぜ日本の先住民族アイヌがそこに入っていないのですか。
樺太アイヌの戸籍
やっぱりアイヌは日本という国の中で存在しないということと同じになっているわけですね。  それは樺太アイヌにとってみれば、はっきりわかる。 私が戸籍を取っても、樺太アイヌ民族だと証明できるものは何も出てきません。 「外務省に問い合わせてください」と言われました。樺太アイヌと証明できるのは、 わずか6人しかいません。北海道アイヌ協会は(会員資格として) 「戸籍をもってアイヌ民族だと証明する」と言い張っています。 そうでない人は、文化を継承している隣近所の人から「あそこはアイヌだよ」という、 そういう証明がなければ行政的には一切アイヌだと証明されません。
樺太タラントマリ 田澤守さんの故郷
平山『地図でみる』
(拡大)
 今、アイヌ対策が実施され、多くの子どもたちは、 高校や大学へ行くとき、アイヌの就学資金を借りている。 でも樺太アイヌは正直、借りられません。私は協会を辞めたので、 (自分がアイヌだと)証明することができないんですね。道アイヌ協会に問い合わせてもできません。 北海道庁に言っても、戸籍がなければ樺太アイヌとしては認められません。 ですから「申請は受付られません」と突き放されました。それは今も変わっていません。
樺太アイヌの過去帳
 「自己決定権」ってすごくかっこいいですよね。私は自分で決めている。 みなさんに配布したレジュメ3枚の中で私の思いを書いておきました。
稚咲内(樺太アイヌ協会) タラントマリまで約170キロ(拡大)
 自分たちで自分たちのルーツを調べましょう。私は、調べて、樺太アイヌの過去帳を作っています。 それによって(あなたは)樺太アイヌだよということを──私が樺太アイヌ協会というのを作っているのですが ──樺太アイヌ協会が証明します。聞き取り調査ってすごく大事なんです。まだ志半ばまでいきません。  ここでいろんな問題が起きてきて。自己決定権(と言うけれど)、 樺太アイヌが(主体になって)決めるのがすごく難しい。日本の中でもアイヌの中でも、 樺太アイヌの存在はないに等しいです。無視し続けています。(これまでさまざまな)政策懇話会の中で、 「先住民アイヌだよ」と言いながら、千島(アイヌ)も樺太(アイヌ)もその中には入っていません。 政策に関すること全て、「あなたたちはどうしたいのか?」と聞かれたことはありません。
骨の返還 樺太アイヌは返されても困ります
 骨(の返還)に関すること、市民会議で盛んにやってますけど、私は第1回目(2016年4月会議) に来たときに反対したと思います。「簡単に返しちゃだめだ」と。 国や北大も謝罪もなしに「(訴訟和解で実質的にアイヌ原告が)勝った」と(評価するのは)、これは違います。 私たち樺太アイヌは返されても困ります。どこに持っていきます?  (遺骨発掘地の現在の統治国は)ロシアですから。  オーストラリア、ドイツから今遺骨が返ってきます。道アイヌ協会は喜んで「土に返すために引き取ります」って。 困りますよ、誰が(樺太アイヌではない)北海道の人に頼んだんですか?  自己決定権、どうするかを決めるのは私たちなんです。  樺太アイヌばかりじゃなくて、アイヌがどういうことを望んで、どうしたいかを決めて、 それを政府がバックアップするならわかるんです。今は政府が「アイヌ(政策)はこうだよ」(と決めている)。 アイヌ振興法を作って。
同化政策
 正月、私は夢を見ました。同化政策。旧土人保護法ができたとき、同化政策、アイヌはもう同化して 日本人になりなさいよという政策だったと思います。でも同化されないから百数十年たって今ここにいるんですよね。  でもみなさん、考えてみてください。アイヌ文化振興法ができて20年経つんですね。 日本で見事に同化政策が成立していると思いません? アイヌがアイヌである自尊心が何もなくなっているのが 一番すごいことだと思っているんです。お金をふりまくところにはアイヌは来る。でもこれだと、 お金をもらえないところとか(にはアイヌは集まれない)。
強制移住
 昨日の供養祭も、私は一切、行政とかどっかから補助金をもらっていません。 自前でやっています。対雁の供養祭は。昨日は60〜70人くらい、全国から口コミで「いつあるんだ」と (開催情報が広まって)集まったかと思います。半分くらいしか案内文出せてないんですけれども、 それだけの方が慰霊祭に参加してくれました。私が(実行団体に)入ったころの慰霊祭は、7〜8人で、11月に雪降って寒い中、 凍えながらやってました。(開催時期を)6月にしたのは偶然ですが、宗谷から対雁に強制移住させられたのが6月だったそうです。 それも船によって。陸路じゃありません、船で。
樺太・千島から強制移住 平山『地図でみる』
(拡大)
 宗谷に移住させられたのも──研究者、日本人の多くは「強制じゃないよ」と言います。 「(自主的な)移住ですよ」と言います。「本人たちの同意を得てそこに行ったんですよ」と言います。 でも日本語も話せない、書けない、そういう人たちが署名捺印して日本語の名前を付けられてわずか 3カ月の間に800人以上が移住してくるって、どういうこと? ありえます? 本当に研究者がそういうことを 言えば言うほどおかしなことになると思うのですが。  それも含めて、樺太アイヌに対しては、3度か4度の強制移住があります。 宗谷、対雁、樺太でも10カ所ほどの居住地に集められます。集められて、自国民でもない「土人」 を強制的に集めて支配します。「旧土人」じゃないんですね、対雁に来たアイヌは旧土人。 でも樺太に残った多くの樺太アイヌは「土人」なんです。日本の管轄外なんですけれども。
「北方領土」
 アイヌにとって、北方領土なんて名前ないですから、千島といったほうがはっきりわかりますよね。 千島とか、あるいはウルップ島とかアイヌ名がついた島々があって、アイヌが先住していた土地であって、 日本人が先住していた土地でもないし、日本人が占領していたことでもないんです。まして北方領土と言わなければならない領土なんです、 あえて言えば。そういうとこで、樺太も含めていっぱいあちこちアイヌを集めてアイヌ連中を日本人扱いして、 だからここは北方領土なんだよ、日本の領土なんだよということをやっていたのが過去の歴史です。 それを何も清算しないままやっているのが現実なのだと思います。
昭和8年から樺太アイヌは「日本人」となります
 昭和8年までは、多くの残留樺太アイヌには、日本名はついてても戸籍はありませんでした。 昭和8年から多くの樺太アイヌに日本の戸籍を付けられて「日本人」となります。そして「樺太アイヌ」はいなくなります。 日本国民ですから日本人です。  でも戦争が1945年に終結して、多くの日本人が(樺太=サハリンから「内地」に)引き揚げてきます。 その中に樺太アイヌも「引き揚げ」……てはきません、「移住」してきます。 皆さんの中でも研究者の中でも「引き揚げ」です。(会場には)教科書問題の若月さんもいますが、あれを見てると、 「樺太アイヌのことはああ、無視なんだな」と思います。樺太アイヌにとっては、教科書の中では、いくら (歴史認識を正して欲しいと)言っても変わらないんだな、ということがわかります。
歴史は180度変えないといけない
私が一番言いたいのは、歴史は180度変えないといけない、ということです。実際に「アイヌの学校」って言われて、喜んでてはいけないんです。 「アイヌの学校」じゃなくて、「アイヌを日本人化する学校」なんです。「アイヌの学校」って当たり前に聞いているけど、 アイヌを日本人化するための学校じゃないですか、アイヌの文化を教える学校ではないですよ。  江別の対雁小学校は、樺太アイヌの縁でできた学校なんですが、そこで「アイヌの学校」ができるんですね。 そこで勉強した山辺安之助さんは(後年)、樺太に行ってアイヌの学校を作るんです。『あいぬ物語』なんて本も出します。 絶賛されてます。しかし樺太アイヌにとっては、日本人化されたアイヌに、さらに日本人化されるシステムを作られてしまうんです。 考えてほしいのはそこなんですよ。
少数者の権利も守れないような多数者ってのはあっちゃいけない
 みなさんは、根本的に権利があるんだよと言っても、誰も主張しないじゃないですか。 権利があるなら義務もあるんだろうって。それだったら常本(照樹・北海道大学アイヌ・先住民センター教授)さんではないけど、 「(先住権は)あっても(アイヌには行使)できないんだよ」って。要は多数者の権利が優先で、 「あなたたち(アイヌ)には、少数者の権利は多数者の理解がなければ(行使)できないんだよ」って。 これっておかしくないですか。少数者の権利も守れないような多数者ってのはあっちゃいけないんじゃないですか。 私はだから歴史を180度変えないと、アイヌ政策検討市民会議の意味はないと思ってます。
国にお願いするんじゃなくて、権利があるんですからこうやってくださいよって
 ここの市民会議が180度変えるような提言を出せるんだったら、私もこれからも一緒にやっていきたいけど、 でもただ「国がやっている政策のここが違うんじゃない?」「あそこが違うんじゃない?」っていうだけだと、 私はだめだと思っています。アイヌが望む、アイヌは本来あるべき姿を提案し実行するのがこの会議の目的だと思っているんですね。 それ以外ありえないと思っているんですね。  だって国がやっているやつ(アイヌ政策)に、棚卸しみたいに降りてくるものに、 「ここをこうしてください」「ああしてください」というのはおかしいじゃないですか。 そういうお願い事なんてしなくていいんです。お願いするんじゃなくて、こういうふうに権利があるんですからこうやってくださいよって。 それを国が、アイヌの権利を応援しますよ、っていうのが国の責任じゃないですか?
北海道も千島・樺太も、全部返してください
 よくある「国有地を返せ」なんて、とんでもないですよ。北海道も千島・樺太も、全部返してくださいよ。 一般市民が所有してるのは、国の責任で解決することなんですよ。国の問題も、一般市民の問題も残さないといけないんです。 区分けしないといけないんです。
アイヌも、アイヌの問題をとっとと解決しないといけない
 アイヌも、アイヌの問題をとっとと解決しないといけないんです。アイヌ自身、今まで何十年かかってもしないからこうなるんです。 自分も含めて言っています。いつまでそれを続けるのか、アイヌ自身もとっとと答えを出さないといけないんです。 歴史を変えるアイヌ政策検討市民会議であってほしいなと、自分がその一人になれたら本当に幸せだなと思っています。  そのためにできることはなんでもするって決めるのが、自己決定権だと思ってます。 ここで発言するのも自己決定権だと思っています。
東京オリンピックまでに象徴空間を作りますよ
「東京オリンピックまでに象徴空間を作りますよ」 「それで貴方たちを満足させますよ」と言ってますが、(日本政府が過去)数百年、アイヌにやってきたことに、 たかだか象徴的空間で観光アイヌを作る目的で、2020年に間に合わす、こんなことに賛同している人がいるとしたら……。 なぜ観光アイヌを作ることに賛同しなければならないのかわからない。なぜ2020年までにそれを作らなければならないのか意味がわからない。
アイヌ同士が自分たちの未来をもう一度リセットし直していかなければ
 一つ一つ問題を解決していくことが、時間がかかっても、十年かかろうが、二十年かかろうが、 アイヌ自身が出した答えを政府が応援するのがあるべき姿だと思います。アイヌが本当に、それこそ何十日、何十年かかってもいいから、 アイヌ同士が自分たちの未来をもう一度リセットし直していかなければアイヌの権利は獲得できないと思う。
 「権利はある」と言われているのに、権利を放棄しているのはアイヌです。間違いなく。 先生方、丸山先生も吉田先生も、「あなたたちも権利があるんだからなんとかしなさいよ」と再三言っているのに、 権利を主張しないのはアイヌなんです。市民会議がその権利を当たり前に主張できる、 この権利を明確に主張できる市民会議であってくれたらなと思います。
少数者の中の少数者を認めることをしないのがアイヌなんです
 私は樺太アイヌ。「北海道アイヌも同じだろ?」と何度も何度も何度も言われました。 「少数者の中の少数者がいるんだよ」と言っても無視され続けました。無視され続けて、ああ、 もう自分たちにはいくら言っても変わらないんだなと思いました。それはアイヌ自身もやってるんですよ。 国民に対して「アイヌを認めてくれよ」「アイヌの主権を認めろよ」と言っているんだけど、 少数者の中の少数者を認めることをしないのがアイヌなんです。だから一緒に、自分たちの問題も、 自分たちでない人の問題も一緒に行動する、そういうことが大事だと思ってるんですね。
明確なビジョンは、アイヌ自身が未来を自己決定するってことだと思います
 昨日感動したのは、アイヌばかりじゃなく、北海道アイヌの人も、樺太アイヌの人も、日本人も、 中国の人も、みんな集って真剣にアイヌの未来を語ってくれました。初めての人も、現状を見て非常に真剣に語ってくれました。 本当にそうあるべきだなと思っています。  明確なビジョンと目的設定って、一般社会でよく言われますが、明確なビジョンは、アイヌ自身 が未来を自己決定するってことだと思います。それをみなさんと一緒にできて、和人の人はサポートしながら、早く、 どういうふうな未来を思い描くのか、アイヌに「決めなさいよ」と、一緒にやってくれたらいいなと思ってます。  それが自分たちの生きる道だと思っています。私がルーツを探して家系図を作ってアイヌを証明する。 1日でも早く作り上げていく。各世界にいっている骨も、早く樺太アイヌ自身の手で受け入れて早く土に返してあげたいなと思っています。 そういう意味でも、今年中に樺太アイヌの遺族会を作ります。そこが窓口になります。それで前に進みます。
南極探検隊
 少し道を逸れるかもしれませんが……。  この写真、何かわかります? 南極探検隊なんです。探検隊の秋田から白瀬矗さんの関係というか、 探検隊の本を出した佐藤忠悦が(昨日の慰霊祭に)来てくれたんですけれど。(当時)犬ゾリ用に成犬30頭を連れて行ったそうです。 (南極に向かう途中)オーストラリアで成犬が亡くなって、新たに30頭を追加して、南極探検隊したんだそうです。 それはすごく賞賛されました。ここに2人、写ってるのは、山辺安之助さんと花守新吉さん。この人は樺太アイヌです。 この二人が犬の訓練係です。二人が着ている毛皮、なんだと思います? 樺太犬の子犬の毛皮です。 裏表あるので、一人20頭分くらいです。かける(隊員の)人数分です。それで、多くの樺太アイヌは飢えと貧困に苦しむんです。 樺太アイヌにとって犬は労働犬でもあり食料でもあるんです。  歴史上なにもでてきません。わかりますか、歴史を変えたいというのはそのためなんです。 綺麗事じゃないんですよ。綺麗事じゃない歴史を、きっと取り戻さないといけないんですよ。
アイヌであることを(知られまいと)避けている仲間もいるんです
 いろんな学者さんが、いろんなことを調べてくれます。「郷土を掘る会」っていう会に呼ばれて行って、 もらった資料の中に、(亡くなったアイヌの名前を記した)過去張が出てきました。私は「すぐ取り下げてください」 と抗議をして、取り下げてもらいました。私たちの手にも入らないものが、民衆史の、いくら研究者といえども、 一般社会にばらまくのは許せないんです。歴史を正しく知ることと、歴史をありのままに伝えることと(同時に)、 嫌がる人がいるということを理解してほしい。過去帳とか、亡くなった樺太アイヌの名前を三百数十名、全部入れてしまったり。  アイヌであることを(知られまいと)避けている仲間もいるんです。それも認めないとならないんです。 だからいろんな仲間と協議しながら、出していいものなのかどうかも含めて、前に進んでいってほしいな。  30分て短いな。終わります。
自己決定権について覚書
 あと、これも言いたかった。自己決定権について覚書を交わしています。
田澤文書サハリン州知事2011年 田澤さんより(拡大)
永住帰国、自由居住者の地位、土地・水域に対する権原等の確認。
北海道・サハリン州
対話集会1992年6月
対話集会(つづき) 国際会議資料集
(北海道ウタリ協会2001年2月28日発行)183p〜185p
(拡大)
第3回北方圏会議覚え書サハリン州知事1990年 田澤さんより(拡大)帰国希望
(相手は)サハリン州知事バレンティン。
当時計画がありまして、今よりも道アイヌ協会の理事たちは活動していたと思いますが、 聞き取りして、「覚書を交わしていいか」と国際電話で私に電話がきて、「ぜひやってください」と答えて、結ばれたものなんです。 これが自己決定権につながっていくと思います。自分たちの島に帰るのだということで。  終わります。
▲2023.2.25成田得平さんにお会いしました。フョードロフさんとの覚書のことを伺いました。 田澤さんのメール2022.11.1、公表してよいとご本人の承諾を得ました、会場で。(2023.2.27)
▲今朝、改めて田澤さんの訴えを読み返しました。訴えの数々を読み落としていることに気づきました。 オーストラリアの遺骨の問題、北海道アイヌ協会の樺太アイヌ、千島アイヌへの対応、やはりこの方は根本から物事を考える方 だと思いました。(2023.2.28)
北海道アイヌ協会の定款
第5条 この法人に次の会員を置く。
(1) 正会員
@第1類正会員 この法人の目的に賛同して入会した、この法人と主たる目的を同一 とし、その主たる構成員がアイヌの血を引く者又はアイヌの血は引かないがア イヌの血を引く者の配偶者若しくはアイヌ家庭で養育された一代限りの者であ る団体
A第2類正会員 アイヌの血を引く者又はアイヌの血は引かないがアイヌの血を引く 者の配偶者若しくはアイヌ家庭で養育された一代限りの者で、理事会において 定める基準により前号の団体の推薦を受けた北海道在住の18歳以上の個人
(2)名誉会員 この法人の運営又は事業推進に関し特に功労のあった者で、総会の決 議を経て推挙した者
(3)賛助会員 この法人の目的に賛同して入会した個人又は団体
▲「アイヌの血を引く」の判定は戸籍によっているようだ。(2023.2.28)

▼これぞ当事者の声、マイノリティーの声です。このような声を求めていました。田澤守さんの気持ちに応えられるような裁判 にしていきたいと思います。(2020.10.12)
▼「市民会議中間リポート」吉田先生から2021.4.20消印の郵便でいただきました。 (2021.4.30)

         市民会議中間リポート

中間リポート 目次
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市民会議1回〜6回
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話者の絶えた樺太アイヌ語   https://www.jstage.jst.go.jp/article/jajls/14/2/14_KJ00008208139/_pdf
          ーそ の 終焉 と再 生 の 可能性ー村 崎 恭 子 (元横 浜 国立 大 学教 授)

ア イ ヌ 語 は,現 在 日本 列 島 に しか な い 日本 語以 外 の 土 着言語の 一つ で す .今 か りに大 和 民 族 の こ とば を 日本語 と呼ぶ な ら ば, ア イ ヌ語は , 日本語が こ の 日本列 島で 形成 されて 話 され る よ うに な る以前か ら 列 島北 部 を 中心 に 話 さ れて い た 先 住 民族 の 言語 で , 日本語 の 基 盤 を成 す重要 な 言語だ とい うこ とが で き ます .
ア イ ヌ 語 に は 文字は あ りませ ん .ア イ ヌ 語 は 大 き く北海 道方 言 ,樺太 方 言 ,千 島方 言 の 3 つ の 方 言 に分 け られ ま す. こ の うち こ こで 扱 うの は 樺太 方 言 で す. こ れ を樺 太 ア イ ヌ 語 (KA と略 す ) (エ ン チ ウ 語 )と 呼ぶ こ と に し ま す . 文字 の な い ア イ ヌ 語 の ,過 去 に お け る分布状況 を 確 認 され た ア イ ヌ 語地 名 に よ っ て 示す と (図 1)の よ うに な ります .
 図1(拡大可)


つまり,北海道を中心に南は本州の東北地方,北はサハリン(旧樺太)の南半分 ,束は北海道の根室からカムチャッカ南端までの千島列 島の地域にアイヌ語が話されていたことがわかります.これは山田(1982)に基づいて筆者が描いた図です.

樺太 ア イ ヌ語 (エ ン チ ウ語 とい う別 称 が 最近 生 ま れ ま した )とい うの は , か つ て は サ ハ リ ン 島 の 南部, つ ま り日本 の 植民地 で あっ た 南樺太 で 話 され て い た 言語 で ,文字 が な か っ た た め に , また戦 前 か ら戦後 に 及ぶ 日本 語 同化政 策 に よ っ て 話者 が 激減 し, 1994 年 に 最後 の 話 者 が 亡 くな っ て 絶 え て し ま い ました

樺 太 ア イ ヌ 語 (KA )は , 多 くの 点 で 北海道 ア イ ヌ 語 と異 な っ て お り, 普通 の 話 し言 葉で は 互 い に 通 じ ない ほ ど距離 が あ ります.東京弁 と京都弁 ぐら い で しょ うか .因み に 世界最 古の ア イ ヌ 語音声 資料 とい わ れ る B .ピ ウ ス ツ キ の 蝋管 の KA の 再生 音 声 (こ れ に つ い て は 後 で 詳述 ) を 1980年代 に 道 内の ア イ ヌ 語話者 に 聞 い て も らっ た こ とが あ ります が , そ の とき北海 道方言話 者の 多い 二 風谷 (ニ ブタニ )の 古 老 た ちは , ぜ んぜ ん 分か りませ ん で した .

1990年の 夏, 内 外 の 研 究者 10 人 の 調査 団 を 組織 して 私 は 憧れ の サ ハ リ ン へ 行 き ま し た . ど こ か に ア イ ヌ 語 が で き る 人が い るか もしれ な い とい うひ そ か な期待 を 持 っ て タ ケ さん の 故郷 を 巡 っ て , また あ らゆる 筋 を た どっ て 捜 し求 め ま した が , 駄 目で した. 同 じサ ハ リン の 少数 民族 で あ る ニ ヴ フや ウ ィ ル タの 人 々 は 少数 なが らちゃ ん と言語 を保 っ て い る の に , ア イヌ語 が で き る 人 に は 一人 も出会 うこ とが で きませ んで した .昔 栄 え た ア イ ヌ コ タ ン の あっ た と こ ろ に は ,風 光 明 媚 な海 と川 と湖 の 自然が あ るだ けで した . こ の 旅 は私 に とっ て , ど う して ア イ ヌ語 だ けが こ ん な 風 に根 こ そ ぎ日本語 に 同化 され る運命 に な っ て し ま っ た の か を改 め て 考 え させ られ る ,非常に 重 い 経験 で した .

21世紀 に な っ て 10 人以下 に減 っ て し まっ た ア イ ヌ 語の 第 一級 話者 の 中で ,最 も若 い 萱野 茂 さ ん (1926-2006)が 2006年 に 79歳 で 亡 くな っ て , ア イ ヌ 語 を直接伝 え る古老 は ほ とん どい な くな っ て し ま っ た とい うの が 現 実 で す ,新法制定 に 当た っ て 萱 野茂 さ んの や り遂げた功 績は 偉大 で した. も し,参 議院議員,萱 野茂 さん が い な か っ た ら,ア イ ヌ新法 は い まだ に 成 立 して い な か っ た と,私 は確信 を も っ て言 うこ とが で き ます .

現在 の 目本社会 で は , ア イ ヌ 語の 便 用 の 必要性 が 皆無で す .ア イ ヌ語 を使 わ な けれ ば困 る社 会 な ど,日本の ど こ に も存 在 し ませ ん.そ れ は , 強力 な 日本 語同化政 策の 結 果だ か ら仕 方が あ りませ ん .ア イ ヌ語で 暮 ら した ア イ ヌ の 親 た ち が , ア イ ヌ 語 を次代 に 伝え るの を拒否 して か らすで に ,三 世代 の ギ ャ ッ プが あ る の で す .

現代 の 日本社 会に お い て 実際 に は 全 く使わ れ て い ない 「ア イ ヌ語 の 再生 の 可能性 」 を探索 す る 意義, つ ま り, 日本 社会 に お け る 「ア イ ヌ 語再 生」 の 社会 的意 義,必 要 性に つ い て 確 認 して お か な けれ ば な りませ ん .そ れ は ,「ア イ ヌ 語 が 日本 に しか な い , 日本 の 土 着 言語 だ 」 とい う確 認が 大 前提 と な る と思 い ま す. 言い換えれば,ア イ ヌ語 の 故郷 は古代 の 日本 列 島以 外で は あ りえない の で す.

そ の 証拠 に , 日本列 島の 各地 に ア イ ヌ 語地 名が 存 在 して い ます,現在 は ロ シ ア 領 に な っ て い るサ ハ リ ン 南部 や 千島列 島に もア イヌ 語地 名が 色濃 く存在 し ます が ,サ ハ リ ン や千 島の ア イ ヌ 民族 は歴 史的 に 見 て 古 い 時期 に 北海 道か ら移 住 した と思 わ れ るの で , 矛盾 し ませ ん .

も う一度 ,ア イ ヌ語地 名 の 範 囲 (図 1)を ご 覧 くだ さ い . こ れ は , 金 田一京 助先生 ,知 里真 志保先生 ,山 田 秀 三 先生 な ど優れ た先 人 た ちに よっ て 検証 され た ア イ ヌ語地 名の 分布 図を基 に , 山 田秀 三 先生 の 手法 に よっ て ,現 地 に地名探 索 を重 ね て ア イ ヌ 語地 名の 可 能性 を調 査 して ,筆 者が 補充 し た 図で す. こ れ に よ っ て ,文 字以 前 の 日本列 島の 言 語 文化 の 姿 を想像 す る こ とが で き ます.ア イ ヌ 語地 名研 究 は ,未 だ 解明 され て い な い 文 字以 前の 古代 日 本語 の 歴史 を解 く鍵 を握 っ て い るか も しれ ませ ん .

最近 とて もうれ しい こ とが あ り ます .そ れ は , 樺 太 ア イ ヌ の 血 を 引 く若い 人 々 が 作 る 「樺太 ア イヌ 協 会 」 の 活動が 活発 に な っ て きた こ とで す. 『樺 太 ア イ ヌ協会』 また の 名前 を 「エ ン チ ウ協会」 と い う こ の 協 会 は,戦 後樺 太 か ら北海 道 の 稚 咲 内 ワ ッ カ サ ク ナ イ , ワ ッ カ サ カ ナ イ (北 海道豊富町 内 の 地 域 名) に 移住 して きた KA の 子孫 の 同 志数 人 が 集 ま っ て ,10 年 前 2001年 に, 自分 た ちの 言語文 化 が 北海道 ア イ ヌ 文化 とは 大 き く違 っ て い る こ と,エ ン チ ウは ウ タ リ (北 海 道 ア イ ヌ ) とは 一緒に して ほ し くな い , とい う思 い か ら,北海道 ウタ リ協会 に は 所 属せ ず に , 独 自の 協会 を設 立 した もの で す. こ れ は 田 澤 守 会長 を 中心 に まだ , ご く少数 の グ ル ープで す が 今 も地道 な活動 を 続 け て い ます.

▼このような素晴らしい研究に出会えたことをうれしく思います。(2020.10.13)



朝日朝刊2020.10.10 (拡大)
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▼左 北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授 北原モコットゥナシさん
石純姫(ソクスニ)『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』―帝国の先住民・植民地支配の重層性ー。両者がともに植民地主義下で国家への包摂と 異民族としての排除というダブルバインドを経験してきたことがわかる。
土橋芳美『痛みのペンリウク』は、縁者の遺骨が北海道大学にある と知ったときの心境を「自分が裸にされ、十字架に架けられ、札幌の大通街にでもさらされているかのような恥ずかしさ、悔しさに涙した」と記す。
「黒人文化だけでなく黒人も愛してほしい」というBLM運動から発せられた言葉は、アイヌの状況にもそのまま重なっている。
▼北原モコットゥナシさんのような研究者が現れてきていることはよろこばしいです。(2020.11.4)

                     日テレ問題 差別
(拡大) 2021.4.10
朝日朝刊
上田真由美記者
(拡大)
2021.9.24
朝日朝刊
小町谷先生(拡大) 2021.7.22朝日朝刊
無知によって繰り返される差別(拡大) 2021.3.23朝日朝刊
BPO委員長「放送人としての感度のアンテナが低かった。」(小町谷先生)
「無知によって繰り返される差別」(投稿)
「自分自身にも突きつけられていると感じた。」
(上田真由美記者)


「北海道旧土人保護法」
保護法11条
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▲この11条の存在は明治32年(1899)当時、 「いわゆる差別の悪質化が暴行のたぐいまでおよんだのではないか。」と山川力さんは(『いま、「アイヌ新法」を考える』16p)推察される。 島崎藤村の「破戒」は明治39年(1905)。山川さんの推察はうなづける。(2022.12.17)

『アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律』2019年4月19日
第四条 何人も、アイヌの人々に対して、アイヌであることを理由として、 差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。
▲「北海道旧土人保護法」からちょうど120年。未だにこのような法律が必要。これでも足りない現実。(2023.6.14)


杉田水脈抗議集会
共同代表ジェフさん
2023.2.25(拡大)
杉田水脈抗議集会
「私たちの声」
早く議員を辞めてください。
品格に問題があるのは、あなたです。
差別を差別だとわからないあなたこそ日本国の恥さらしです。
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▲若い女性たちの声は的確です。(2023.2.28)
▲多原代表が若い人たちに勇気をだして自分の思いを表現するように促されたそうです。立派。電話で直接聞きました。 (2023.3.1)




配布資料1 2023.2.25(拡大)
配布資料2 2023.2.25(拡大)

当日会場で配られた資料より。
アイヌ民族否定を行ってきた右派市民団体(北海道を中心にして)
政治家、水島系団体、日本会議、
北海道百年記念塔解体反対関連団体(北海道を考える会、北海道百年記念塔を守る会、)
その他(在特会、的場光昭)。

▲なぜちゃんと歴史を勉強しないのか。(2023.3.1)
▲こういう人たちとも論争することになる。(2023.6.14)
杉田水脈なる人物
▲大きな記事3本。
 @西日本新聞社説
 Aヤフーニュース9/29(金)19:32配信
 Bヤフーニュース9/29(金)21:00配信 

杉田水脈問題11 (拡大)
杉田水脈問題3 nhk.2023.09.20
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【社説】杉田氏の差別言動 自民党は不問にするのか
2023.10/8(日) 9:01配信 西日本新聞 社説

性の多様性を認めず、特定の民族や文化に差別的な言動を繰り返す。このような人物に、もはや国会議員の資格はない。
自民党の杉田水脈(みお)衆院議員(比例中国)が自身のブログにアイヌ民族への侮辱的な投稿をしたことに対し、 札幌法務局は「人権侵犯の事実があった」と認定した。アイヌ文化を学び、発言に注意するよう「啓発」の措置も取った。
杉田水脈問題1 2023.9.20北海道新聞(拡大)
国民の代表である国会議員が、国の機関から人権侵犯を突き付けられるのは異常な事態だ。だが、杉田氏が反省しているかどうか疑わしい。
認定されたのは、杉田氏が落選していた2016年の国連女性差別撤廃委員会に関連した3件の投稿だ。

日本からの参加者について「チマ・チョゴリやアイヌの民族衣装のコスプレおばさんまで登場。完全に品格に問題があります」 「同じ空気を吸っているだけでも気分が悪くなる」などと書いた。
杉田水脈問題4 asahi.com(拡大)
在日コリアンやアイヌ民族を侮蔑し、到底許されるものではない。当事者が人権救済を申し立てるのも当然だ。 19年に成立したアイヌ施策推進法はアイヌの人々の誇りが尊重される社会の実現を目的とし、差別や権利の侵害を禁じた。 杉田氏は国民の先頭に立って順守し、尊重すべき立場にある。 人権侵犯と認定された後、杉田氏は公の場で何も語っていない。このままだんまりを決め込むのか。速やかに謝罪すべきだ。 杉田氏は衆院議員の立場で他者の人権や尊厳を踏みにじる言動を繰り返している。

杉田水脈問題5 2023.9.23朝日朝刊「もう議員の資格はない」(拡大)
18年にはLGBTなど性的少数者について「子供を作らない、つまり『生産性』がない」と月刊誌で持論を展開した。

20年の自民党の会合では性暴力被害者の相談事業に関連して「女性はいくらでもうそをつけますから」と発言している。

あろうことか、岸田文雄首相は昨年夏の内閣改造で総務政務官に任命した。 野党が更迭を要求しても「能力を持った人物」と拒否したが、批判は収まらず、12月の閣僚更迭に合わせて交代させた。
杉田水脈問題6 2023.9.23東京新聞
▲ 前川さんの「極めつけ」
「啓発」とは無知・無理解な者に教え、分からせることだ。杉田氏はちゃんと分かっただろうか?(拡大)
杉田氏はこの間、総務相の指示に従ってブログへの投稿を謝罪、撤回した。ただし、差別は認めていない。
その杉田氏を、今度は自民党が環境部会長代理に起用した。しかも、人権侵犯が認定された直後の決定である。
人権侵犯への見解を求められた茂木敏充幹事長は「残念だと思う」と人ごとのように述べた。差別的な言動をやめさせず、 要職に充てるとは開いた口がふさがらない。

杉田氏の問題で問われているのは、自民党総裁の岸田首相をはじめ政権与党の人権感覚でもある。その自覚は少しも感じられない。
杉田水脈問題7 2023.9.23北海道新聞社説(拡大)
国会議員の差別発言は後を絶たない。反省せず、やり過ごす議員もいる。本人に差別の認識がないなら、ただすのは政党の責務である。
西日本新聞 社説ここまで

▲前川さんによると「「啓発」とは無知・無理解な者に教え、分からせること」。 人権侵犯事件を起こしてこのような恥ずかしい立場に国会議員の杉田水脈は置かれている。 それを岸田も萩生田もかばう。組織としての政党の責務も果たされていないし、機能もしていない。 自民党はどうなっているのか。その他の政党もどうなっているのか。 声を上げないのか。日弁連、どうしている。ヒントを探してインターネットで調べる。(2023.10.10)
wikipedia:杉田水脈
2021年衆議院議員選挙
岸の実兄の安倍は直接、遠藤選対委員長に杉田の上位登載を要求。電話で30分間自説を語った[26][27]。 10月18日、自民党は比例名簿を発表。安倍、岸らの圧力により、建一は比例北関東ブロックからの出馬に急遽変更され[28]、 杉田は比例中国ブロック名簿に単独候補として上から3番目に登載された(党内全候補者の中では19位)。 同年10月31日に行われた衆院選に比例中国ブロック単独で立候補。自民党は6議席獲得し、杉田は3選した[29]。
▲結局ここへ辿り着く。(2023.10.10)

「新潮45」2018年8月号に「LGBTのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。
彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり生産性がないのです」などと寄稿したことが批判を受けていると報じられた[75][76]。

与党内では、自民党の石破茂[84]・稲田朋美[85]・小泉進次郎[86]・野田聖子[87]、公明党代表の山口那津男[88]らが杉田の寄稿内容を批判した。

杉田の発言は与野党から批判を受けた[128]。野党側では、日本共産党が杉田の議員辞職を要求し[125][129]、 立憲民主党国対委員長の安住淳は、自民党は杉田の離党を促すべきと述べた[125]。
与党側でも、五輪担当相の橋本聖子が、「非常に残念だ。党として適切な措置がされていくべきではないか」と述べ[130]、自民党参議院幹事長の世耕弘成は、杉田の発言は党の方針と全く相いれないものであるとし、杉田が下村から注意を受けたことなどにも触れ「今回が最後だ。彼女は何回も繰り返している。次あった場合は、 参院として厳しく物申していかなければいけない」と述べた[131]。
▲安倍の岩盤。どうしても動かせない。よく分かった。(2023.10.10)


news.yahoo
9/29(金) 19:32配信
タレントの松尾貴史が29日、「X」(旧ツイッター)を更新し、自民党が松川るい参院議員を副幹事長、杉田水脈衆院議員を環境部会長代理に起用する 人事を発表したことを痛烈に批判した。

松川氏は今年7月に行った女性局のフランス研修で、エッフェル塔の前で撮影した写真をSNSにアップしたところ、 「まるで観光旅行」などと猛批判を浴び、その後、女性局長を辞任した。
一方の杉田氏は、ブログにアイヌ民族への差別的投稿をしたとして、札幌法務局が「人権侵犯」と認定したばかりだ。
 松尾はこのことを報じた記事を貼付したうえで「岸田文雄氏は、国民の声を聞くどころか、あえて逆の行動を取ることで 『自分が君臨している』実感に浸っているのでしょう」と岸田文雄首相を皮肉った。
さらに「人事だけではなく、さまざまな愚策を実行し、やるべきことはすべて『検討』にとどめる。もう完全に狂ってしまった政権です」と切り捨てた。

 いわくつきの2人を党の要職に起用した自民党の人事に対しては、松尾だけでなくネットにも批判的な意見が目立っており、 「これはひどい」「なめてる」など、SNSには不満の声が噴出している。

松川るい
wikipedia:松川るい
2014年、安倍内閣が掲げる「女性が輝く世界」を推進するため、外務省に新設された女性参画推進室の初代室長に起用された[4]。
▲ここでも安倍の影が。奈良県出身おどろく。畝傍高校の後輩。(2023.10.11)

wikipedia:高市早苗
高市早苗
2011年(平成23年)、清和政策研究会(森喜朗派)を離脱し、無派閥となった。 理由は「次期総裁選で、派閥会長の町村信孝ではなく、安倍晋三を支援したいため」だったという[40]。
翌2012年(平成24年)の総裁選では、公言していた通り安倍晋三を支援し、推薦人にも名を連ねた。 新総裁となった安倍より、自民党広報本部長を任命され就任[18][41]。次期総選挙に向けて「日本を、取り戻す。」 のキャッチコピーのもと、安倍と、幹事長の石破茂が連記されたポスターを作成し、話題となる[42]。
▲杉田水脈、松川るい(奈良)、高市早苗(奈良)いずれも安倍晋三につらなる。読めた。 (2023.10.11)

▲安倍晋三、2022.7.8の遭難から1年余。安倍の息のかかった人事は岸田では当分手をつけられない。(2023.10.12)
▲松川るい(奈良)、高市早苗(奈良)、さらに前川喜平さん(奈良)それに私。大和の風土は両極を生む。(2023.10.12)


news.yahoo
9/29(金) 21:00配信
“人権侵犯認定”杉田水脈議員を要職起用…自民党の“恥知らず人事”に非難殺到 コメント454件

9月29日、自民党が杉田水脈議員(56)を環境部会長代理に起用することを決定したことが報じられた。ネットでは怒りの声が多数上がっている。
杉田水脈問題8 (拡大)
誹謗中傷や差別的な発言を繰り返している杉田水脈衆議院議員 これまで「男女平等は、絶対に実現しえない反道徳の妄想」や「思春期の子供に“同性愛者も堂々と胸を張って生きましょう” と教育したら正常に戻れなくなる」など数々の発言が問題視されてきた杉田議員。

『新潮45』18年8月号に寄せた文章ではLGBTについて《彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです》と綴り、 同誌を休刊に追い込んだ。

『新潮45』廃刊に至るwikipedia.の解説
2018年8月号「【特集】日本を不幸にする『朝日新聞』」で自民党衆議院議員の杉田水脈が「「LGBT」支援の度が過ぎる」を寄稿[39]。

文中で杉田はLGBTはそれほど差別されていないのではないか、「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。 彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と書き、LGBTの権利を拡張する動きに疑問を投げかけた[40]。
この杉田の寄稿文は、与野党の政治家[41][42]やLGBTの当事者・識者[43]など様々な立場から批判を受けた[44]。

杉田水脈問題9 2018年10月号
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批判に対する回答として、2018年10月号に「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」と題する特別企画を掲載した。

この企画には小川榮太郎や松浦大悟[45]ら、7人が杉田の主張を擁護する趣旨の文章を寄稿した[46]。

月刊Hanadaによると若杉編集長は杉田論文に批判的な論者にも寄稿を求めたが、全員に断られたという[47]。

論文の中で八幡和郎は、メディア・リンチともいうべきことが純然たる言論に対して行われたことは前代未聞とし、 左翼の矛先が杉田に向かう所以と批判している[48]。
▲八幡和郎のような言論人も横行している。心しよう。(2023.10.10)

この特別企画に関して、作家の平野啓一郎が「どうしてあんな低劣な差別に加担するのか」と新潮社を非難するなど、 再び批判の声が上がった[45]。

また新潮社の文芸部が使用するTwitterの公式アカウントが、 新潮社を批判する作家らのツイートをリツイートしたことから、新潮社内部からも本誌を非難する動きがあると報じられた[49]。
▲これだけの経緯があったのだ。不明を恥じる。(2023.10.10)

それでも22年8月に第2次岸田改造内閣で総務政務官に就任。しかし同年10月、ジャーナリストの伊藤詩織氏が名誉棄損で訴えた裁判で、 東京高等裁判所から55万円の賠償を命じられることとなり、その後、杉田議員は総務政務官を12月末に辞任している。

▲杉田水脈こんなところにも関わっている。
Twitter中傷投稿「いいね」訴訟 とは、
自民党所属の衆議院議員である杉田水脈とフリージャーナリストの伊藤詩織の間で争われている訴訟である。 Twitter上で伊藤を誹謗中傷する25件の投稿に対して杉田が「いいね」を押したことが名誉感情の侵害に当たるかどうかが裁判で争われている[1]。
2022年10月20日、東京高裁は「いいね」に至る前後の文脈と経緯を考慮して名誉毀損を認め(詳細は後述)、 杉田に55万円の賠償を命じた。Twitterの「いいね」で名誉毀損を認めた初めての判決とみられる[1]。
2022年11月2日、杉田は賠償不服として上告した[2]。

2020年8月20日、
2018年6月から7月にかけて伊藤を中傷する多数のツイートに対し賛同を意味する「いいね!ボタン」 を自由民主党衆議院議員の杉田水脈が押したことにより名誉感情を傷つけられたとして220万円の損害賠償を請求する訴状を東京地方裁判所へ提出した[49]。

2022年3月25日、東京地方裁判所は「いいねボタン」が必ずしも肯定的な感情を表すものではないとし伊藤の訴えを退けた[50]。

伊藤は控訴し、2022年10月20日、東京高等裁判所は逆に伊藤の主張を認め、杉田に55万円の支払いを命じた[51]。

そんな杉田議員だが、再び言動が厳しく追及されることに。杉田議員は’16年にスイスで開かれた国連女性差別撤廃委員会の参加者について 《チマ・チョゴリやアイヌの民族衣装のコスプレおばさんまで登場》《同じ空気を吸っているだけでも気分が悪くなる》 などとブログやSNSに投稿していたことが発覚。

これらについて今年9月7日、札幌法務局が”人権侵犯の事実があった”と認定したのだ。さらにアイヌ文化を学び、今後発言に注意するよう「啓発」を受けた。

「共同通信」によると、この件について杉田議員の事務所は「9月14日に法務省職員が事務所に来て本人が対応した」と明かしたという。

しかし杉田議員は何事もなかったかのように9月15日、阪神タイガースが優勝したことをXで祝福し、 《お祝いモードに浸りたいです♪》などと大喜びで投稿していた。

国会議員による人権侵害という異例の事態について、いまだ公の場でもSNSでも何の説明もしていない杉田議員と自民党。 そのような状況下でまさかの人事が。杉田議員が、再び要職に起用されることとなったのだ。

「TBS NEWS DIG」によると自民党は9月29日、総務会を開き、政府が提出する法案の審査や政策立案を行う党の部会長などの人事を決定。 そこで杉田議員を環境部会長代理に起用することを決めたという。

自民党の党首である岸田文雄首相(66)は、9月19日(現地時間)に、アメリカ・ニューヨークの国連本部で 「『人間の尊厳』に光を当てることで、国際社会が体制や価値観の違いを乗り越えて『人間中心の国際協力』を着実に進めていける」と演説したばかりだ。

そんななかで、「人間の尊厳」を踏みにじるような数々の発言が問題視され、説明責任も果たさない杉田議員を起用する自民党。 SNS上では今回の人事について岸田首相や自民党への非難が殺到している。

《国連で岸田総理が「人間の尊厳」などと偉そうに語っていたけど、本当にそう思ってたら杉田水脈のような差別主義者は処分して離党させるよね》
《このような人権問題になる差別発言をする議員を要職につけるなど岸田政権は何を考えているのか全く理解に苦しむ》
《こんなことをやっていたら日本は本気で世界から取り残されていくでしょうね》
《人権侵害の杉田水脈が党環境部会長代理 日本の恥》
差別扇動者と決別せよ 2023.11.22朝日朝刊(拡大)
《自民党が杉田の発言を支持しているような人事。恥を知らない自民党政権。腐っている》
▲どうしょうもない議員!(2023.10.10)
▲杉田水脈問題を追ってきたが、安倍晋三に源流がある。この岩盤を崩さないかぎり、変わらない。(2023.10.11)
▲2023.11.22朝日社説「差別扇動者と決別せよ」まできた。田原さんたちの闘いの成果。(2023.11.29)


竹田恒泰敗訴
中日新聞
差別指摘投稿は「公正な論評」 名誉毀損訴訟で竹田恒泰氏敗訴<東京地裁判決>2021年2月6日 16時11分
竹田恒泰講演会チラシ
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山崎雅弘
 ルアンダ内戦

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佃克彦弁護士 (拡大)
▲ことの発端は右のチラシ。2020.1.20竹田恒泰が山崎雅弘氏を提訴。 一審判決2021.2.5。山崎雅弘氏にとっては竹田恒泰は許せない存在だった。「ルアンダ内戦」の体験から。
判決の構成。
第3 争点に対する判断
1 認定事実
(1)原告の立場
(2)原告の言動等
(3)被告の立場、言動等
(4)本件各ツイート前における原告と被告の投稿経過
(5)本件各ツイートの投稿経過
(6)本件各ツイート後における原告と被告の投稿経過
2 争点1(本件各投稿による名誉棄損又は名誉感情侵害の有無)
3 争点2(本件各ツイートに関する違法性阻却事由の有無)
第4 結論
▲読者に公平に判断していただくために判決で取り上げられた(2)原告の言動等 から抜粋する。竹田恒泰氏が普段からどういう 言辞を弄しているかが明らかになる。(2023.10.3)
判決文21pより
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韓国人について「パクるしかない」「前近代の尻尾をぶら下げた中途半端な近代人」「理性というものが働かない民族」 「民族まるごとモンスター・クレイマー」「ゆすり・たかり病」等あえて不穏当で侮辱的ともとれる表現を多数用いている。 原告の主張は「差別主義的」との評価を受ける余地があるものというほかない。

判決文22pより
原告のツイートには、韓国の元従軍慰安婦の像に関連して自らを元従軍慰安婦と主張する人々につき、「ゆすりたかり」「韓国は、ゆすりたかりの名人 で、暴力団よりたちが悪い国」「そもそも韓国に、毀損されるような名誉があるのか」「韓国が世界に誇れる偉人は、テロリストと売春婦だけ」等、韓国に つきあえて攻撃的で侮蔑的ともとれる表現を多数、少なくない頻度で用いており

▲左は司法の判断ですよ。竹田恒泰氏が憎悪する韓国に対する現在の上皇夫妻の思いを伝えておきます。
2017年9月20日高麗神社を参拝された天皇陛下と美智子さまの記事をクリックしてください。竹田氏の韓国像と雲泥の差があります。 ところでこの裁判は令和4(2022)年4月13日、上告不受理で決着しています。竹田氏は今も活発に講演活動を展開しているようです。 何かに憑りつかれたように。(2023.10.3)

和人が蝦夷地に初めて渡ってアイヌの人と接触した時期について知りたい。レファレンス協同データベース
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望月衣塑子さん
1975年、東京都生まれ。2000年に中日新聞(東京新聞)に入社。千葉、神奈川、埼玉の各県警、東京地検特捜部で事件を取材。2004年、日本歯科医師連盟のヤミ献金疑惑をスクープし、自民党と医療業界の利権構造を暴く。東京地裁・高裁での裁判を担当、その後、経済、社会部記者として、防衛省の武器輸出、軍学共同を取材。17年2月から「森友学園」と「加計(かけ)学園」を巡る問題を追及するため、菅義偉官房長官(当時)の記者会見に出席。20年から日本学術会議問題、21年からは入管で収容中に死亡したスリランカ人女性問題や、入管法、外国人問題、コロナ禍での医療、雇用問題なども取材している。 竹田恒泰と茂木誠のYouTubeを検討

解放新聞2020.12.5

2020.9.14「先住民族アイヌの今を考える会」主催 多原良子さんの講演会。多原さんはアイヌ文化伝承者、 札幌アイヌ協会副会長、アイヌ女性会議メノコモシモシの代表。 来年県内各地でアイヌ民族展をひらく予定
                           ▼右多原良子さん
https://ainu-guide.visit-hokkaido.jp/interview/interview_02/
北海道観光振興機構HP(2020.12.8)
絵本:物語 多原良子さん 絵 あべ弘士さん
2017年にメノコモシモシを設立したのは、もともとアイヌ女性の「複合差別」の解消が目的でした。先住民族としての差別に加え、 ジェンダーの差別という複合差別を受けている私たちアイヌ女性の権利回復のために、当事者が自ら声を上げていかなければという思いで、 女性の団体が必要だということになったのです。
ところが、会の立ち上げ準備をしていた際に知り合った日本スローフード協会の方から「ストレートに差別の撤廃を訴えるよりも、まずはアイヌ民族の食を通して興味を持ってもらうほうがいい」とアドバイスされて、目からウロコが落ちたようでした。 その後、短期間に別の方々からも同じような話を聞き、そうかもしれないと本当に感じました。
2021.4.10北海道研修旅行:女性会議でのユポさん
以前は取材などで「アイヌ民族として誇りは持てますか」と聞かれると、差別されているのに誇りなんか持てるわけがないと思っていました。 やっとこのごろ、アイヌで良かったと思えるようになりました。
歌も踊りもできるし、美しい工芸もあるし、私たちはアイヌ文化の魅力を再発見しました。 それが自信になって、アイヌの誇りを持てるようになりました。そして、世界のどこにもない食文化は私たちの誇りです。 大切なアイヌの食文化をこれからも発信していきたいですね。(2019年7月)
先住民族アイヌいまを考える会https://ainu.amebaownd.com/(2021.4.15)
差別発言に抗議(拡大)
2019年「アイヌ新法」が成立しました。奈良県内に於いては、平素アイヌの人々との交流が希薄なこともあって、 アイヌの人権に関する基本認識が充分ではありません。 そこで、私たちはこの問題を共に学ぶ機会として、将来に亘る多文化共生の一助となるよう、 この度、巡回展「先住民族アイヌは、いま」を開催することといたしました。  
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巡回展「先住民族アイヌは、いま」
先住民族であるアイヌが住んでいた大地はアイヌモシリと呼ばれ、 アイヌはそこで独自の民族文化を築き生活してきました。あらゆるものにカムイ の存在を認めるアイヌは、 カムイと共生し、また、民族の文化を伝承することで、子どもに民族の精神や自然との共存を教えました。
言葉を媒介とした語りで子どもの心を豊かに育んできた口承文芸。自然の恩恵に浴したことに心から感謝し、 再来を願ってうやうやしく神の国に送り返すイオマンテ 。この深い、いのちへの愛と祈りに満ちたアイヌ民族の文化と世界観には、 自然の中で生きていく人間本来の姿が見られます。
巡回展最終日(拡大) 2021.12.15解放新聞
帰りを待ちわびて(拡大)

2023.5.10朝日夕刊
 世界の先住民族の生存や尊厳、自決に関する権利を規定した 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が、2007年に採択されました。 この宣言に日本も賛成しましたが、2019年に施行された「アイヌ新法」は、 アイヌの自己決定権、自治権、土地や領域、資源回復や補償などには触れておらず、 国連の宣言とはかけ離れており、アイヌの暮らしと誇りを立て直す内容とはなりませんでした。 私たちはアイヌ民族と日本人(和人)の歴史的関係性やアイヌ民族がおかれている現状をもっと知る必要があります。
 幕藩体制下の支配や、アイヌを日本国民にさせる近代国家の政策などの抑圧や差別に抗してきたアイヌ民族の歴史や、 伝統的に継承されてきた文化を紹介する本展示の開催が、アイヌ民族の先住権・自決権を尊重し、 アイヌ民族をはじめとする多民族・多文化との共生社会を実現する一助となることを願っています。


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川村兼一さん
https://www.ff-ainu.or.jp/web/overview/business/details/2158.html
北海道旭川市在住
氏は、川村カ子トアイヌ記念館館長として館の運営にあたるとともに、旭川チカップニ・アイヌ民族文化保存会会長、同館旭川チカップニ・アイヌ民族文化保存会会長、同館旭川アイヌ語教室運営委員長として中心的な立場に立ち、小中学校でのアイヌ古式舞踊の指導実演、旭川アイヌ文化フェスティバルの開催など、アイヌ文化の普及啓発における活発な活動を行ってきた。 また、自らも伝統儀式や祭礼の伝承指導、笹葺きチセの製作・技術指導、各種講演活動を行うなど、アイヌ文化の伝承・保存に大きく貢献している。
略歴
昭和58年 川村カ子トアイヌ記念館館長に就任
昭和59年 旭川チカップニ・アイヌ民族文化保存会会長に就任 同会が国の重要無形民俗文化財の指定を受ける
昭和60年 イヨマンテ(熊送り)の開催、カナダ先住民族との交流
昭和62年 旭川アイヌ語教室運営委員長に就任
平成4年 タイ・バンコクでの先住民族会議に参加
平成8年 日本民族学会、日本考古学会に参加
平成9年 全米文化人類学会に参加
平成10年 第1回旭川アイヌ文化フェスティバル開催(以後毎年開催)
平成11年 旭川市教育委員会主催アイヌ民族楽器演奏会公演(以後毎年開催) スミソニアン博物館でのアイヌ民族展に参加
平成13年 韓国・東アジア国際人権会議に参加
旭川アイヌの近・現代史 https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1009.pdf
▼上記「旭川アイヌの近・現代史」川村兼一さんの語りがまず見事です。飽きないです。記憶もすばらしいです。3部構成。1部は旭川の近代史。2部は現代史。ご自身の 活動が入ってきます。3部はアイヌの神様と日常生活。ここも和人にとってはアイヌ民族の文化を知るうえで大変興味が惹かれます。 昨日一日かけて読みました。(2021.2.1)
川村久恵さん https://ainu-guide.visit-hokkaido.jp/interview/interview_14/
川村カ子トという個人が作った私設の記念館ですが、旭川のアイヌ文化を支えているという自負はあります。

昔のことを熟知した年長者が亡くなっていく中で儀式を執り行うにあたり、一家の働き手である男性が中心となって 準備を進めるということが難しくなっています。 ここ20年くらいは、道具類を含めた準備をほとんど当館で引き受けています。 それを次世代に伝えていくというのが大きな課題です。誰かがやらないと、地域の伝承が途絶えてしまいますから。

公的な援助がないので運営も厳しいのですが、逆に私設だからこそ続けられたという面もあります。 今も、公民館に希望者を集めてさばいてもらったサケを、一週間くらいかけて敷地内のチセで燻して「鮭トバ」を作っています。 このように、公的な施設では難しいことが自由にできるのは私設ならでは。記念館の展示内容に関しても、 アイヌの目線ですべてを決めていくことが可能なので、今後はより地域に根差したものに変えていければと考えています。
2021.4.11記念館訪問(拡大)
シマフクロウは、アイヌにとっては「村の守り神」ですし、環境を考える上でも大切な存在です。 森の奥深くではなく、冬でも凍らない川や湖の近くで、巨木があるような環境でないと生きていけないのですが、環境の変化で今はそんな場所がなくて。大体160羽くらいと言われているシマフクロウの数を増やす計画が進められているものの、なかなか増えません。 自然豊かと言われる北海道にも、実はそういった問題があるということを伝えています。
旭川は札幌に次いで人口が多いまちで、ものづくりも盛んです。アイヌの美しいデザインを活かして、そんな旭川ならではの活動をしていければ。

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木村二三夫さん http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20190417011810002.html
平取「アイヌ遺骨」を考える会共同代表・木村二三夫さん(70)=平取町
五十嵐彰 埋蔵物研究センター
マキリ
もうひとつの日本文化(アイヌ文化) https://fine.ap.teacup.com/makiri/271.html
▲「もうひとつの日本文化(アイヌ文化)」クリックしてください。木村さんのお考えがよくわかります。(2021.7.30)
御料牧場と強制移住
「正しい未来をつくるには、過去から学ばないとだめ。国会議員も道議会議員も知事も、 アイヌがたどった歴史を振り向かないと始まらない」。アイヌ民族の木村さんは、こう強調する。
2021.8.5朝日夕刊 オリバー・ストーン
映画監督(拡大)
教育・記憶・歴史

 祖先は、新冠町から平取町に強制移住を余儀なくされたという。4年前、たまたま「土人学校跡」と刻まれた碑を見てから、 先祖たちのために何かしなければと思い立った。先祖供養の儀式を行ったり、遺骨問題を考える会を立ち上げたりして取り組み始めた。  今国会で成立を目指すアイヌ新法案は、アイヌ民族を「先住民族」と明記した点では「半歩前進」と見る。 でも、アイヌ文化振興のための新しい交付金制度や、白老町に整備される民族共生象徴空間(愛称ウポポイ)は、 「東京五輪・パラリンピックを機会に、海外に向けたパフォーマンスとしか思えない」と批判する。
 アイヌ民族を対象にした給付型奨学金や生活困窮実態に対応した施策は不可欠との立場だ。 「過去の歴史を認識し、30年〜50年先を見据えたアイヌ政策ができる人を求めたい」 (芳垣文子)
▼こういう方が原告になっていただけると有難い。「アイヌ民族自立化基金」創設、新冠御料牧場、強制移住(謝罪)、 二風谷ダム取り壊し、今回の訴訟で予定している課題にすべて関わっておられる。(2021.2.1)

一通の嘆願書
一通の嘆願書1(拡大) 一通の嘆願書2-1(拡大) 一通の嘆願書2-2(拡大)
一通の嘆願書3(拡大) 一通の嘆願書4(拡大) 一通の嘆願書5(拡大)
一通の嘆願書6(拡大) 一通の嘆願書7(拡大)
一通の嘆願書8(拡大) 一通の嘆願書9(拡大)




















▼この「一通の嘆願書」は詳細に御料牧場からの強制移住の実態を伝えている第1級の資料です。ユポさんが 木村さんから頂かれたものです。木村さん電話して分かったことですがこの研究は木村さんではありませんでした。 山本融定さんに確認してみます。(2021.4.5)
「一通の嘆願書」から読み取れることは、
明治25年 アネサル、マニソロ、ナメワッカ→下アネサルに強制移住
黒岩場長の申し渡し、永久無料で給与地を貸与の条件で3里離れたイチブ(御園)で日給20〜25銭で労働。
姉去、万揃、去童など250町歩開墾、無給。
明治36年頃 支配人奥山吉五郎就任。10年間かけて開墾した250町歩を取り上げる。永久無料の約束を無視し、一戸につき2〜3町歩、 1反20銭の貸地料を徴収(1町歩2円)。開墾した土地のうち貸地は120町歩。

浅川義一氏明治15年(1882年)生まれ。写真は明治44年(1911年29歳)12月30日結婚記念のもの『五十年 浅川義一・美禰共著』(1962年発行80歳の年)より。
40p「時は大正の初期だ。相手は宮内省と、行政官庁との間に取交わされた決定事項だ。矢はすでに弦を放れて居るのだ。「いかにすれば騒ぎなく彼等を より有利に移転させることができるか」これ以外に道はないと覚って、この衝に当ろうと肚をきめた。」
▲上記出来事は大正3年(1914年)、浅川義一32歳。確かに若かった。しかし義一、その後の50年間の人生で アイヌ民族のために何を為したかが問われる。
▲アネサルはアネサルのモシリ回復の方法・道があることに気づいた。(2021.7.30)


明治42年頃 奥山の後任浅川義一就任。
明治45年(大正元年) 貫木別転出命令。 3年の移転延期願い。 明治45年5月新冠郡姉去拝借地内74名の連名の契約書。 (この中のお一人元田國秋さんが木村二三夫さんのご親族)120町歩のうち30町歩を貯金畑とし1年900円貯金。
宮内省主馬寮
藤波言忠
▲この男こそがアネサル・アイヌ強制移住の仕掛け人。資料を探して政府の謝罪を求める。(2021.7.30)
『五十年』表紙 (拡大)
『五十年』38p〜39p (拡大)
大正5年春 下姉去→貫木別に強制移住。貫木別の給与地の管理人は浅川健二郎。浅川健二郎、給与地の木を伐って製炭業。
唯今(大正14年)  貫気別居住、5、6戸。我々は新冠に立ち帰った。食うだけの土地を拝借したい。
これが「一通の嘆願書」の内容

大正14年2月26日 新冠郡新冠村在住元姉去部落居住
旧土人代表葛野頓三他49名。
新冠郡新冠村長 十倉十六美殿。
以上です。
▲大正5年の移転からこの嘆願書まで9年。5、6戸を残して葛野さんほか50人(50戸?)は姉去に戻ったということ? (2023.4.7)
強制移住 「はてなブログ」参考

「一通の嘆願書」をワープロで打ちました。(2021.4.14)
一通の嘆願書/はじめに
「あそこはな、俺たちの親が先祖代々住んでいた所だ、そこからぼったくられ、追い出されたんだ」 ときっぱりアイヌの古老/エカシは事あるごとに申します。
その土地とは旧新冠御料牧場をさしその後、新冠種畜牧場、そして今は独立行政法人家畜改良センター新冠牧場 へと名称こそ変わりましたがアイヌ語でポロケボと呼ばれております。
古くは明治34年、閑院宮載仁(かんいんのみや ことひと)親王がその新冠御料牧場を視察に来られ、夕刻、お酒を賜っている時、ある白髪のアイヌの古老/エカシが 「この地方は我等祖先の開墾せしものなるを御取り上げとなり、為に我々は今日難渋を極め居るを以て、何卒返還あらん事を請う」 と明晰に陳情され、並居る人々大いに驚き殿下はお這入りあり…云々と各書から当時の新聞に至るまで記載されており、 往時大きな話題になったことは想像に難しくありません。
この「アイヌの土地を返還してください」と懇願した事実は100年以上経過した今でもこの地では語り継がれており、 その方こそアイヌの豪傑、古川 足(フルカワ アシンノカル)であることは故郷である新冠町泉地区に今も伝わっております。
研修旅行(拡大)

古川アシンノカル
余談ですが古川 足(フルカワ アシンノカル)は泉地区で大規模な牧場を経営され、そこで得た莫大な富で世に言う′テ川御殿≠建て、 「御料のお役人はよく泊まりに来たもんだ」と言い伝えられております。
山本融定『新冠御料牧場史』261頁(拡大可)
▼泉地区は新冠川の北の上流。高江、朝日は河口近く。(2021.11.9)
併せて種馬所も経営され、馬の種付けは今でこそ高江、朝日ですが当時は皆、北に向かったもんだと古き牧場主等は申します。
静内さくら祭りで全国的に知られる二十間道路はその牧場内にあります。 厚賀を流れる厚別川以東、新冠から静内に至るとてつもない面積をほこった牧場は牧柵の長さだけでも琵琶湖周囲をはるかに越え、天皇の牧場として明治5年に作られました。 そこには薩摩の北海道開拓使黒田清隆、アメリカのホーレンス・ケプロン/H・Capron、エドウィン・ダン/Edwin・Dun等の歴史的人物の名前も登場します。 札幌大通りには彼等の銅像も建立されておりますが、はたして歴史的ヒーローだったのか否か、 これからも今以上に検証されなければなりませんし、何より旧新冠御料牧場の歴史的意義、功罪は検証する必要があります。
後々、持て余す事になる7万ha(70,000町歩=700平方q)ともいわれたその新冠御料牧場の前身はアイヌの生活の場、つまりイウオロ/イオルでした。
アイヌは天皇の名のもとにイウオロ/イオルで酷使された挙句にその土地を奪われ、追い出された無残な歴史も併せて語り継がなければ、 近代化とは所詮、忘却の積み重ねでしかなく、二十間道路の桜花に酔う無知で幼稚な単眼的思考でしかありません。

あるアイヌの史家が、数十年前往時の新冠御料牧場より、場長の了解のもと、後述する£Q願書≠入手され、保存されておりました。
その嘆願書には大正末期に隣町である現在の新冠町大富地区、旧姉去(アネサル)と呼ばれた村(上記地図参照) に住んでいたアイヌの生い立ち、生活状況、そして貫気別に強制移住させられるに至った経緯も詳細に書かれております。
アイヌを言葉巧みに騙し、奴隷の如く使役し、やがて邪魔になるとゴミ捨て場に遺棄するが 如き天皇並びに天皇の牧場が実際に行った悪行というよりは犯罪に等しい行為に対して、 アイヌ民族自らの存亡をかけて哀願した10項目であります。
ノルウェイで反イズラムをかかげた極右の若者によるジェノサイトの結果、多文化vs反多文化主義の議論が今、ヨーロッパで再燃しております。 その若者が褒め称える日本に於いて異文化とかち合った時に先人等が晒した本能丸出しの獣的生態ともいえるこの歴史の証言集をより多くの方々に知って頂きたく、熟慮の末、実名入りで次回以降公開いたします。

一通の嘆願書
大正末期、現在の新冠町大富地区、旧姉去(アネサル)と呼ばれた村に住んでいたアイヌ民族が自らの存亡をかけた  10項目よりなる嘆願書 ≠以下原文のママ表記します。
お願
一、我々旧土人は新冠郡の内、姉去(アネサル、現在の大富地区)万揃 (マニソロ、現在の万世地区)、滑若(ナメワッカ、現在の古岸、若園地区)の三部落に祖先より代々住居して暮らして居りました。 何百年も自分の土地と思って骨を折って土地を開き農業をして何の心配もなく一同が安心して来たのであります。その戸数は七十戸ばかりありました。

二、明治二十五年頃かと思ひますが、新冠御料の黒岩場長殿が牧場のために我々があちこちと 散在して居ては都合が悪いというて永いあいだ住んでおった土地も無理に取り上げて下姉去に移したのであります、 姉去はまだ森林で日中も暗くてあるけない所でありました、 それでも此の給與地は子孫が永く居住して暮す事が出来ると思ひましたので一同は一銭の手当も御料から貰わないで 元の耕地を捨てて姉去村に集り苦労艱難して未開地を開きました。
▲姉去は給與地。この事実をまず押さえておく。(2021.11.9)

三、其の時黒岩場長殿の申し渡しにはお前達に永久無料で給與地を貸すからその御礼として 御料の農園の労働をせよとのことでありました、我々一同は其の土地で命をつないでおる
姉去・御園3里以上の地図(拡大) 大富・御園の距離を見てください。(2021.11.9)

親方の話である快く承知して自分で弁当を持って姉去村から三里以上も離れておる 市父(筆者注*イチブ、今の新ひだか町御園)農園まで毎日毎日労働に行ったのであります、其の時の日給は二十銭から二十五銭でありました。 それでも我々はけっして文句を言ひませんでした。
▲この約束は守られなければならない。(2021.11.9)
▲大富の土地台帳を法務局日高支所で調べること。(2021.11.14)
▲2022.4.6法務局日高支所に木村さん、ユポさんと行きました。 土地台帳は4月14日郵送してもらいました。(2022.4.22)


四、姉去に移ってから我々は御料の農園に労働をする あいまあいまに御料の言いつけで 姉去、万揃、去童などの新地二百五十町歩ばかりも伐木して開墾しました。
▲開墾の事実がある。(2021.11.10)
其開墾の手当などは一銭も御料から貰いません。 それから明治三十六年頃と思いますが御料で我々の支配人に奥山吉五郎さんをよこしました。 それから奥山さんは我々一同が10年間一しょけんめいに開いた二百五十町歩の耕地を無理やりに取り上げてしまいました。
▲この不当性も問われるべき。(2021.11.12)
そして御料は姉去に移した時の約束を忘れて旧土人一戸につき二町歩か三町歩より土地をかしません。それも一反歩から二十銭づつ貸地料を取る事にしました。 我々は無理だと願ったけれども聞いてくれませんからそのままになりました。

五、我々が開いた二百五十町歩の内、我々に二、三町歩づつ貸した土地は全部で百二十町歩位よりありませんでした。
▲この120町歩の行方は?土地台帳で確認したい。(2021.11.10)
▲戦後、「詮衡委員会」で割り振りされ、アイヌの人々には万世に30町歩あてがわれた、という事実が残っている。 (2022.4.22)
残り百三十町歩位の土地は御料から借りて奥山吉五郎、浅川義一、宮下丹次郎、近藤信吉、温泉茂平と言う人々が 自分も耕作し又他の人々に又かしをして利益を取って居りました。 我々は折角開いた土地もだんだん取り上げられて食ふに困るから漁場や農家日雇に出てやうやく暮らして居りました。
▲130町歩も取り上げられた、ということか。(2021.11.10)
▲すべて取り上げられ万世の30町歩だけになった。(2022.4.22)

六、明治四十二年頃奥山吉五郎さんが金子をもうけて秋田に帰へりそのあとを浅川義一さんが支配いたしました。 大正元年突然御料の命であるとして浅川さんが我々に沙流郡貫気別の山奥の土人給與地に転出せよと申し渡しました。
研修旅行 2021.4.9 新冠牧場
我々は姉去のようなよい土地に住んでおっても暮しに難儀して居るから到底大深山の新地に行っては喰ふに困るとて再三、 再四御料の重役さんや又浅川さんに移転の御赦しを嘆願いたしましたが何等御慈悲なく是非とも立ち退けとの事でありました。
▲大正元年の北海道庁の記録を調べること。藤波言忠とのやり取りが出てくるはず。(2021.7.31)

七、新しく移転する貫気別は岩石まじりの傾斜地で農耕する土地が少なく とても貧乏な我々が行っても生きて行く事が出来ないし又移転料もないから移転する事が出来ないと申したら 御料の重役の方が立退かなければ家を焼き拂ふとか、打ちこわすとか又それだけの権利があるとかの話につき 止むを得ず涙と共に長く住みなれた姉去村を立退く事にあきらめました。 姉去村を立退くとしても御料では移転料をくれないので困って三ケ年間移転延期を願ひました、そして我々一同は分に應じて耕地を減じて三十町歩をあまして貯金畑を作り浅川さんに処理してもらい自分の土地を耕しながら一反歩につき三円宛の年貢を浅川さんに納めて貯金しました。 一ヶ年九百円でありますから三ヵ年で二千七百円ほどになりました、それに利子を加ふると三千円位になったかと思ひます。
▲新冠牧場と上貫気別の墓地を比較すると強制移住の時のアイヌの人の心情が察しられる。(2021.11.10)

研修旅行 2021.4.9 旧上貫気別墓地
八、大正五年春無理やりに一同が姉去から貫気別の山奥に追い込まるる時に総額二千円と思ひますが浅川さんから 一同が分配して貰いました。あとの金子はいろいろの雑用にかかったと思ひますがどうなったか? 不明であります。 姉去を退去した我々は 貫気別はとても皆が行っても喰ふに困るから貫気別に行ったものもあり、
(拡大) 平取外八箇村アイヌ人口
泉精一論文「沙流アイヌのイヲル」より。 大正4年と大正8年の比較で貫気別が戸数・人口(67人)とも大きく増えている。 (2021.11.1)
荷負も増えている(82人)。木村さんの祖父は荷負。むしろ荷負の方が多い。新しい発見。(2022.4.22)

上厚別や平取あたりに行った者もあり思ひ思ひに転居
いたしました、 それ以来一同の者は色々と辛苦を重ね病気災難などで死亡する者が多く僅か十年間に 姉去御料地から追われた旧土人は大部滅亡して我々のみ やうやく生き残っております。これを思う時全く残念に存じて居ります。 ▲こころが痛む。戦後、僅かな人しか姉去に戻らなかったのは既に かの地・貫気別で絶えていた、ということ。(2022.4.22)


九、貫木別の給與地は浅川健二郎さんと云ふ人が管理して木材は十ヵ年間の期間で沙流郡門別村富本朝二氏ニ売り渡しました、いくらで売ったか権利のある我々は知りません、 判を持って来いと云うから持って行ったら判を預かっておいてあとで木材を売った金子だとして一戸につき三円位 づつくれました。他人の話だと三十円位の受取証に判をおさせたのだと聞きましたがそれはわかりません。 今は浅川健二郎さんが勝手に給與地の木を伐って製炭業をやっておりますがその利益はどうなって居るのか分かりません。

十、唯今 貫気別にそのまま住居しておるものは五、六戸よりありません。 我々生き残った者共は祖先以来住みなれた新冠の土地が懐かしく立ち帰へったのでありますが 土地もなく食ふにも困ってそちらこちらに流浪のような暮しをしております。
▲大正14年には貫気別に五、六戸だけ。あとは命絶えたり、懐かしさの余り戻った新冠での流浪生活。その人たち50人(50戸)の嘆願書。 20年後の「詮衡委員会」で30町歩。どのように償いすればいいのか思案に暮れる。50戸分250町歩をアイヌの人たちに今でもいいから返還すべし。(2022.4.22)

今日生活に困るのを思ふと御料地から立退きを命ぜられなかったらこうなる事がなかりしと考へられます。 なんとか村長さんの御助けによって御料から食ふたけの土地を拝借出来るように願います、それが出来なければ姉去村で新地を開いた開墾代でも貰うように御骨折りを願ひたいと思います。 此の願書はこの姉去給與地の旧土人一同に代わって御願するのであります。どうか御料によろしく御話を願ひます。

大正十四年二月二十六日
新冠郡新冠村在住
元姉去部落居住旧土人代表者
葛野 頓三 他四拾九名

新冠郡新冠村長 十倉十六美殿
宇原本ニ依り謄写ス
大正十四年三月三日 新冠郡新冠村長 十倉十六美(筆者注*村長印あり)
                            以上原文のママ 終わり

一通の嘆願書に記載されている他四十九名とは一体誰だったのでしょう。 アイヌは貫気別へ強制移住命令に対して3年間の延長を請願します。 そこで不条理と云うより馬鹿げた事にアイヌ自らが開墾した本来自分らのものである土地を天皇より御借りするという趣旨の借地契約を旧新冠御料牧場と結びます。 その契約書ともいえる書の写しが手元にあり、その書の最後に以下の様な一文が付いております。
以下原文のママ。
万一にして期限満了の後尚逡巡移住を怠り候等不都合有るの候時は家屋御取毀或いは 御焼払等の御処分有りとも決して異存無きの従順御厳命に服し可申し 堅く誓約致処に有の候故に何卒前述の事情御高察の上願意是是非とも御許可被成下度 一同連署状を而奉〇候
恐煌頓首 新冠郡姉去拝借地内 明治四十五年五月

『旧土人保護沿革史』339頁(拡大)

昭和5年(1930)コタンの数は228個。戸数3,314戸、人口15,683人。 今は?
給与地面積85,381町歩 開墾面積51,673町歩 開墾不能地積15,652町歩(18.2%)
胆振、日高、十勝の3箇所は特別。( )内は全体からみた%。
コタンの数109個(47.8%)
戸数は2,305戸(69.5%)、
人口は9,873人(62.9.0%)、
給与地面積58,231町歩(68.2%)、
開墾面積37,821町歩(73.2%)、
開墾不能地積7,525町歩(12.9.0%)全体の開墾不能地積が18.2%であるのに対し12.9%。
以上の数字からこの地域の重要性がわかる。 (2021.11.3)

高月元吉 芦澤長松 胡桑野板八 芦澤サキ 芦澤糟六 芦澤斧吉代りに又太郎  芦沢重太郎 芦沢新次 芦沢ハシリ 里平鍬四郎 芦沢到代りに里平鍬吉 芦沢乱足代りに金一 芦沢イト  清水年六 芦沢ハナ 清水小吉 清水四郎松 芦沢イサ 芦沢八重苫 清水才六 小岸粟六 芦沢悦田 芦沢母吉  清水米平代りに新太郎 梨元タネ 清水金太郎 清水大六 清水払吉 梨本清五郎 葛野伊辺多久 渕瀬遠知通加  梨本?吉 葛野殿作 渕瀬筏? 渕瀬?之 渕瀬酒次 梨本寸星 清?寅吉 清水政吉 渕瀬佐九郎 清水瓜八  清水初太郎 小倉 均 清水少吉 渕瀬三徳 清水伊?喜?加 渕瀬多作代りにイト 清水?八  就本蛯太郎 梨本酒八 梨本クメ 渕瀬琴吉 芦澤清吉 清水千松 川越頼亀 川越福太郎 梨本鍬七代りに國吉  芦沢堅次郎 渕瀬治平 芦沢勘太 芦沢鯉太語 芦沢友太郎 芦沢籬? 芦沢六助 芦沢小丹龍 
元神部川3
木村さんの元神部川 (拡大)

川越頼吉 清水才吉 元田國秋 里平栂八 半沢三問代りに喜一郎 清水新造  芦沢板庵 半沢高造。
▲元田國秋さんが木村さんの御親戚? 川越福太郎は(副読本では喜太郎?)川越貢さんのご先祖。明治29年に姉去に集められた。 元田さんは元神部の人。
筆頭者である高月元吉さんを含む74名の連名になっており、往時住んでおられて方達と思われます。 つまり74戸のアイヌ民族が住んでいたのです。 その内、実際に貫気別に行ったのは50戸位といわれております。
なお義憤にかられた十倉十六美 新冠村長は大正14年3月3日、宮内省大臣牧野伸顕あての「新冠村旧土人嘆願書ニ関スル件」の書状を書き上げますがその写しも手元にあります。 最初に「嘆願書提出セル内容ヲ慎重ニ調査セルニ事実ノ大体ヲ認ムル」との一行を、中ほどには「何卒一視同仁ノ御慈悲ヲ以テ・・」と書き込み、最終行には右旧土人葛野頓三他四十九名ニ代リ此段奉請願候也の一行が添えられております。
戦後、姉去に再入植出来たのは僅か22戸となっております。

▼研修旅行(2021.4/8/〜4/11)後なので当時の様子が手に取るようにわかります。 (2021.4.14)
▼このブログの中に「アイヌという鏡に映し出されたシャモ/和人の自画像は余にも即物、独善的で醜い姿を晒しておりますが…日高に住む私を含む 和人…」の一文を見つけました。発信者は日高の和人でした。お会いしたいです。(2021.11.13)


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萱野志朗さん/ 市民会議の記録
第5回アイヌ政策検討市民会議 2017年6月18日
「アイヌ語の復興」  萱野茂二風谷アイヌ資料館館長
みなさん、こんにちは。ただいまご紹介いただきました萱野志朗です。 アイヌ文化振興法の成立する以前、北海道ウタリ協会(現北海道アイヌ協会)が求めていたのは、 アイヌ民族としての定義ですね。アイヌ民族とはなんぞや、というのをきちっと定義づけて、 「アイヌ民族法が必要だ」と言っていました。それから「アイヌ民族自立化基金」の創設。何十億か何百億か分かりませんが、 基金を積んで──利率が低くても必要なだけ原資を積めばいいわけです ──アイヌ民族として自立していくのに必要なお金を調達することを求めていました。
私は、2007年12月29日付け『朝日新聞』opinion 「異見/新言」欄に「先住民族と認め、土地返還を」という記事を書いたことがあります。 北海道は面積の6割以上が国有地です。そのほか北海道有地、市町村自治体の公有地まで入れると、 たぶん7割以上になります。残りも、明治時代に大企業へ土地が払い下げられた私有地が多くを占めています。 アイヌ民族には、北海道旧土人保護法(1899年制定、1997年廃止)という法律によって、 1戸あたり1万5000坪(約5ヘクタール)以内を下賜(かし)すると言いながら、実際に1万5000坪が下賜された例は少ない。 下賜されても、そこは豊かな土地ではなかった。対照的に大企業にはバンバン払い下げているわけです。
私が『朝日新聞』で主張したのは、こういうことです。北海道在住のアイヌ人口が今、2万4000人。 北海道外のアイヌを入れたら最低でも3万人はいるだろうと想像できます。 その3万人に北海道の面積の6割以上を占める国有地を返せ、と。
ただ、いま仮にそれを返してもらっても、多くは国立公園地域を含む森林ですから、われわれだけでは管理しきれない。 そこで、われわれは権利だけを返してもらう。それを日本政府に貸し付ける形にして地代をいただき、 森林の管理業務は引き続き日本政府にアイヌ民族が委託するという形を取ってはどうか、と提案したのです。

うちの父もよく言っていました。『アイヌの碑』(朝日文庫)にも書いています。 「(アイヌは)この北海道の大地を、日本国政府に売った覚えも貸した覚えもない」と。 「もし売ったというのなら、売買契約書を見せろ」「借りたというなら賃貸契約書を見せろ」と言っていたのです。 そう書いていたけれど、国からは何の返事もなかった。「これは何たることか」と、生前、怒っていました。
そんななか唯一、美唄市のキリスト教の団体だけが、毎年「年貢」と書いて、(現金を)うちの資料館に持ってくるんですよ。 父は「自分は受け取ることが出来ないから」と、北海道アイヌ協会に送っていました。 じつは今でも届けられていて、私が北海道アイヌ協会に送っています。これが、アイヌが和人から受け取っている唯一の「年貢」です。 キリスト教会からの寄付金ですから、本当の年貢と言えるかどうかは別問題ですが、その団体は、 うちの父が亡くなってもう11年になりますけど、毎年12月の初めに資料館に来てくれています。 先ほど言ったように、私は30歳でアイヌ語教室の事務局員として働き始め、資料館の館長もやっていますが、 この29年間、私が始めたころに比べれば、(アイヌ語教室の運営など)財政的には少し良くなっている面もあります。 しかし本当にアイヌ語を復興させるには、全く不十分な状況だと思います。自分たちで好きなように「どうしたいか」を決める。 自治権というやつですが、それがない限り、難しいと思うんです。「アイヌに自治権を」というのが本当に重要なことだと思います。 その自治権さえあれば、アイヌ語の復興を含め、自分たちは自分たちの好きなようにできると思います。 駆け足で話したのと、阿寒から長距離をドライブしてきてちょっと疲れていて、お聞き苦しいところもあったと思います。 私の話はこれで閉じさせていただきます。どうもありがとうございました。
▼萱野さんが考えておられることと、私が考えてきたことはかなり共通している点があります。土地返還、基金創設、 自治権、等。お会いして、一緒に裁判をやっていきたい。(2021.2.3)
▼この講演は2017.6.18第5回アイヌ政策検討市民会議でのものです。やはり原告になっていただきたい内容です。(2021.11.14)


▼原告になっていただきたい方をさがしていたらこのアイヌ民族党サイトに出会いました。(2021.2.13)
萱野さん 木村さん 石井さん のお三方のお名前はユポさん、吉田先生から伺っていました。 アイヌ民族党のメンバーとはじめて知りました。

アイヌ民族党ウェブサイト -アイヌ民族の権利回復と多文化・多民族共生社会の実現を目指して-
顧  問 川奈野惣七(再任)
     代  表 萱野  志朗(再任)
     副代表 清水  裕二(再任)
 副代表 木村二三夫(新任)
     副代表 秋辺日出男(再任)
     副代表 石井ポンペ(再任)
     幹事長 加藤  敬人(再任)
     監  事 豊田 礼子(新任)

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nikkei.com
畠山敏さん/ 市民会議の記録

「アイヌ先住権復興を目指す〜クジラ漁業をめぐって〜」  紋別アイヌ協会会長

イランカラプテ! ご存じの方もいらっしゃると思いますが、私は一介の漁師で、聞き苦しいところが多々あると思われます。 理解しながら聞いてください。 私の生まれというのは、吉田(邦彦・市民会議呼びかけ人)先生のご紹介のとおり、紋別市元紋別の、 昔はアイヌ部族コタン(だった地区です)。(全戸で)17〜18軒、(そのうち)アイヌの方が15〜16軒、和人の方が2〜3軒ありました。 (私は)そこで生まれ育ちました。
紋別(拡大可)

それで実は、私の曾孫ばあさんというのが、(アイヌプリで)口(の周囲)を(入れ墨で)染めたアイヌばあさんで、 マツヨばあさん。このばあさんが、私が中学生ぐらいで亡くなったんですが、その時はもう90いくつか、 でも頭はしっかりしていて。このばあさんからアイヌの昔の話、それから歌も(おしえてもらって)、 おぼろげに今でもちょっと覚えているところもあるのです。私が言うと、どうも日本語と混じったようなアイヌの歌なんですが(笑)。
このマツヨばあさんから聞いた話と、それから私の(ルーツを遡って)歴史を調べてくれた方々が何人かいるのですが、 それでこのばあさんの、要するに昔話というんですかね。
(コタンは)本当の海岸沿いで、海が時化ると波が玄関前を走る、波が玄関前までザーっとくるようなところで生活していたのです。 (現在は)市のほうから「危険性がある」ということで(住宅や事務所を)別の場所に移転したのですが。
その移転前に、私のうちの掘っ立て小屋、柱から何からみんな粗末なもので、掘っ立て小屋だったんです。 その家のすぐ山手側のほうは、ばあさんの口癖で「汚いことするなよ」と。(当時)男の子はみんなちんこ出して、 どこでもおしっこしていた。でも「そこではそんな汚いことすんなよ」と、ばあさん(が言い聞かせていた)。
「なぜか?」と私が聞いたのかどうか、その辺の記憶はないのですが、うちの母親から聞いた話では、 そこが昔の部落の祭場、儀式があった祭場だったところだと。(その後)津波(高潮)で砂が上がって(一帯の) 地形が変わってしまっていたけれども、「その辺が祭場だった」ということなんです。
(その祭場で)何を象徴にしてお参りしていたかと言えば、クジラの頭骨だったのです。 津波(高潮)が(紋別市の沿岸部に大きな被害を及ぼしたのは)大正5年(1916年)ですか。 ちょうどうちの山手側のほうに沢地があるのですが、(後年になって)「紋別側の沢の土手のほうにクジラの頭骨があった」と、 徳一おじさんっていう(叔父が知らせてくれた)。この人はマタギ(猟師)だったんです、若い頃はね。 当時は今のように重機も何もない時で、(私が)「(見つけたクジラの頭骨を)4、5人くらいで担いで来られないですか?」と言ったけど、 「トシ(畠山敏)、何言ってんのよ、人力では到底無理だ」と。
これは(骨の一部分だけが)サッと(地表面に)出てて、(残りの部分は)草が腐ってみんな土に還ってしまって、 スコップ持って行ってなかったからどこが端なのかわからないほど大きな頭骨だった、ということは、このおじさんから聞かされていました。
何年か前に(叔父が頭骨を見つけた場所に)この頭骨を探しに行ってみたんですけど、 (すでに現場では)山(や沢)をみんな、今の重機で平らにならしてしっまっていて、全然それを発見することはできなかったんです。
その頭骨を祀っていたという話からいっても、やはりうちらの先祖はクジラを利用していたのだと(いうことは明らかです)。
(紋別だけではなく)北海道中いたるところに、太平洋、日本海、石狩のほうにも、クジラの顎を祀ったような(証拠があります)。 そしてフンベ──アイヌ語でクジラのことをフンベというんですが──、日高のほう、襟裳のほう、あそこにもフンベの沢 とかフンベトンネルとか、フンベの名前がつけられているところがあちこちにある(ことからも、 アイヌとクジラの関係が深いことが分かる)んです。


今から17〜18年前に、「アイヌのクジラ利用研究の第一人者」という学者さん(誰?)に巡り合って、 その先生が北海道中のアイヌの資料を集めて文献にしてくれたものも何冊か持っているのですが、 その中にクジラを利用していた我々の先祖のことが(詳細にまとめられています)。
当時はクジラを1頭獲ると、2〜3つの村が潤うと。それぐらいの大きな恵みをもたらしてくれた(のが)クジラだということです。
私、実は今から20年くらい前から、(イシ)イルカ獲りを(行なっていました)。 冬の間、10月末から5月いっぱいくらいまで(が漁期です)。(厳冬期は)紋別は流氷がきて (前浜では)漁にならないから、三陸一帯から茨城、 千葉の房総半島のほうまで、毎年冬の間は漁にでかけていました。
▲イルカ漁の権利の確保は?(2022.8.27)
(紋別地方は)寒冷地帯で、冬はクマと同じで、漁師はみな冬眠生活に入る。 自分はそれが嫌で「船を持ったからには冬も働くんだ」という考え方でしたね。 平成7年(1995年)と、その前は(平成)3年(1991年)だったか(にそれぞれ船を新造しました)。 造った船は3〜4年くらいで使い物にならなくなるほど、使いこなしました。 (映像を見せながら)これは2007年に作った船です。
北海道(船)籍(の)我々(当時4隻)の(イシ)イルカ漁獲枠は(年間)1000頭(以下)を水産庁から配分されていました。 東北(船)籍の(イシイルカ漁業船)ほうは、東北で漁獲枠が決められていて、その範囲内で操業をしていたのです。
国立科学博物館(拡大) 
イシイルカ
 体長1.8〜2.2m 体重100〜200kg


ミンククジラ
 体長8.5〜9.2m 体重6t〜9t

(私は)当時、水産庁に年3回は(ミンククジラ漁を認可するよう)陳情に行ってました。水産庁に行くたびに聞かれるのは、 「(あなたはイシ)イルカ獲りやってて(錯誤捕獲でミンク)クジラ獲ったことはありますか?」と。 「ない」と言ったら嘘になります。だから「ありますよ」と言いました。その時に対応してくれた方(水産庁担当者)はOさん。 (私が)「Oさん、あんた(ミンク)クジラと(イシ)イルカの相互関係(を)分かって聞いてるのか?」って言ったら、 「分かってますよ」と(Oさんは答えました)。「分かってるなら聞くことないでしょ?」と私が言うと、 「でも畠山さん、(イシイルカ漁の最中にミンククジラを錯誤捕獲で)獲ったこと話してください」と言うから、 自分が体験したことを話しました。

弱ったクジラというのか、(海中で動きが鈍くなっているクジラに)イルカが (近づいて、クジラの)腹をつつくと、クジラが餌を吐き出す。 (それまで食べていた)小魚とかオキアミとかを吐き出す。それをイルカが拾って食べる(という行動をとる)んです。 (だから)イルカの群れ(の中)にクジラがいたなと思いながらも、その中から(捕獲が許されている)イルカ(だけ)を獲らなくてはいけない。 で、(銛を)構えるんです。(しかしいくらイルカを狙っていても)野球選手が「なんであんなボール球(を)投げるんだ」って (思うほどの暴投をしてしまう)のと同じような時もあります。イルカ目がけて銛を投げるつもりが黒いの(ミンククジラ) がボーっと出てきたら……。投げながら「あっクジラだ!」って思いながら(動作を途中で止められずに銛の) 竿を投げることもしばしばあるんです。人間、「あーっ」と思ってても体が自然に動いてつい銛を投げてしまう。

「それで(銛を受けたミンククジラを)手負いにして(回収せずに瀕死の状態のまま)離してしまったら、 あんたら水産庁から何てお叱りを受ける?」(と、私はOさんに言いました)。
(クジラの体に刺さった銛竿には)反射塗料を塗った赤いブイをつけてね、それには船名も書かれている。 「紋別港58」と。(そのまま放置して、銛を打たれた瀕死のクジラが海岸に漂着しているのが見つかったら) 「手負いのクジラを引っ張りまわしていたらあんたたちからとんでもないお叱りを受けるだろう」と。 「だからそんな(錯誤捕獲でミンククジラに銛を打ってしまった)時はイルカ漁やってる仲間を呼んで、 みんなで解体して(違法な販売などせずに)分かち合って食べました」と言ったら、 (Oさんは)「ああ、それじゃ問題ないです」ということでした。

3、4年前に水産庁に行った時は、「ヒゲクジラ(類、ミンククジラを含む)はIWC(国際捕鯨委員会) の捕獲規制枠内だから、IWCの了承を得なければ(捕獲しては)だめですよ」と言われました。

 ヒゲクジラ https://www.chiba-muse.or.jp/UMIHAKU/kikaku/13marisai/13-higetoha.htm
一つめは、餌とともに大量の海水を口にふくみ、ヒゲ板の間から海水だけを吐き出す方法です。 シロナガスクジラやミンククジラ、ザトウクジラなど、ヒゲクジラの仲間の多くが、この方法で餌をこし取ります。  この方法は、一度に大量の海水を口にふくむため、のどもとからへそにかけて延び縮みする畝(うね) と呼ばれるヒダがペリカンの口のようにふくらみます。一口の海水の量は、体長約12mのザトウクジラの場合で、約55トン(3.5×3.5×4.5m)にもなります。

(ミンククジラの捕獲規制緩和をIWCに求めている日本の)水産庁では、断る(国内漁業者のミンククジラ漁を止める) 理由(が)ないんです。IWCもなにも、先住民族には全然関係のないこと(IWCは「先住民族生存捕鯨」をモラトリアム の適用外と定めている。にもかかわらず、IWCの規制)を引っ張り出してきて、水産庁は断る理由づけというのか、 そういうことに利用している。
それとシャチ。よくテレビでも放送されていますが、
シャチ (拡大)マイルカ科の仲間では最大の種であり、平均ではオスの体長は5.8 - 6.7メートル、 メスの体長は4.9 - 5.8メートル、オスの体重は3,628 - 5,442キログラム、 メスの体重は1,361 - 3,628キログラム。最大級のオスでは体長は9.8メートル、 体重は10トンに達する[4]。マイルカ科 (Delphinidae) は、鯨偶蹄目ハクジラ亜目に属する科の一つ。

クジラの子どもにかぶりついている映像。 (シャチはミンククジラにとって捕食者)だから、「畠山さん、シャチであれば獲ってもいいですよ」 というのが水産庁の見解でした。ただ、我々はクジラを食べる──クジラのけんちん汁っていうんですかね── 北海道の内陸(地方のアイヌの食習慣)は分かりませんが、(オホーツク)海岸沿いから日本海沿岸では、 クジラのけんちん汁を食べる食習慣があったんです。でもシャチの脂は、はたして人間の体で消化しうるものなのかも分からないし、 私も食べたことがありません。なので、それはちょっと獲るのをやめようと思って、いまのところ控えております。

(先ほども話しましたが)今から17〜18年くらい前(に出会った)アイヌの研究やクジラに 関しても権威のある女性の学者なんですが、その当時、(アイヌ民族の)捕鯨(許可を求める)の陳情をしに水産庁へ2〜3回、 一緒に行ってくれました。しかし何度行っても水産庁の対応は同じだったので、(陳情の後に) 先生が「畠山さん、(現有の漁船で)クジラ獲れないのですか?」と(私に質問しました)。
「いや、獲って獲れないこともないです」と私(が答えると)、「それなら畠山さん、今すぐ獲ってらっしゃい」と言ってくださいました。 「何ら法的に問題ない(はず)」とも(助言してくれました)。
それでも私の中には、アイヌ民族の自覚もありながら、和人(と同じ日本国籍の漁業者)としての気持ちもあるのです。 もし私が(捕獲規制を無視してミンククジラを)獲ってきた(としたら、)後に法的な問題はどうなるのか? 世間の反応や評価は?  やはりそう考えたら二の足を踏むといいますか。
さらに我々にとって、大学の先生と言えば、「先生、これを獲ったらどうなるんですか? 弁護士とかが必要なんですか?」 などと気軽に話のできない方々でしたからね、畏れ多くて……。その時はそういう雰囲気だったんです。 でも権威のある先生は「獲ってらっしゃい」と言ってくれたんです。(助言を受けたのは)私だけでなく、 私の兄、もう(亡くなって)この世の人ではないですけれども、その兄と、当時(経営する会社の)事務方をやっていた人と 三人で先生に会いに行った時に、そう話してくださいました。

時たま、こういう席で話すこともあるんですけど、クジラを日本政府ではね、私も24年(にわたって)捕鯨推進活動してるんですが、やはり向こう(政府)は、向こうなりの断り方といいますか……。 今日本でやられている捕鯨というのは──釧路(港)でミンククジラ(が毎年およそ)60頭揚がってますが──3〜4年くらい前までは、 1000トンくらいの大型船で、ミンククジラを獲っていたんです。(日本政府から特別許可証を発給された財団法人日本鯨類研究所の委託を受け、資源)調査のため、学術調査のためということで獲っていたんです。でも、どうもそれ(大型船操業)では規模(捕獲枠)が小さくて(漁業者の)利益が上がらないってことで、小型捕鯨協会(一般財団法人地域捕鯨推進協会)、小型捕鯨(船)といっても30〜40トンのくらいの船で操業しているのですが(そうした規模の捕鯨船が出漁しています)。(全国で)5隻くらいいるのかな、現在。 その方々に「あなた方、研究しなさい」ということで(調査研究の名目で捕鯨をさせています)。
(調査委託を受けた日本の捕鯨船が)今は時期的にどうかわからないですが、太平洋の(小笠原諸島の)父島、母島、 そちらの方面で大型のクジラを獲っています。それについてはインターネットなんかで情報として上げられてるかどうか調べてみたのですが、 今のところ情報開示はしていないようです。 しかし、その点からも水産庁独自に決めた自分たちの捕鯨枠としか言えない。その団体も250人くらいの天下り先と言いますか、 水産庁もそういう組織(を維持するために調査捕鯨事業を続けているのではないか)だと勘ぐってしまいます。 税金も55億円ほど使われてるとか……。
私が一番腹立たしいのは、(2011年に大震災被害を受けた)三陸の復興資金(の中)から、 調査捕鯨(関係団体)の方々が「(反捕鯨団体の)シーシェパード対策費用」だと言って5億円持って行って(予算計上して)、 それは政治家ではなく官僚の決めたことだと思われるんですけど、大事な復興資金をシーシェパード対策費として持って行ってるんです。 こんな矛盾したことが、日本政府では行なわれているということです。まったくの無駄金。
自分たちの捕鯨活動に関しては情報も公開せず大型クジラの捕獲なんかをやっているわけですが、 アイヌには何十年(捕鯨権獲得)推進運動やっていても窓口すら開いてくれないということです。 だから私は昨年(2015年)、(海上)保安庁に捕まるか警察に捕まるか分からなかったけど、強行突破で捕鯨に行ったんです。 「私はクジラを獲ります」と宣言して、弁護士もお願いしてね、獲りに行きました。 でも今操業してる船、速力が足りなくて、クジラを発見したものの、クジラが先に泳いで逃げちゃう。 何度か発見しても、そういうことで獲れなかったというのが実情でした。 だから、来年またできるか、いつになるか、私の足腰の元気なうちにね。子孫、アイヌの人々に、捕鯨がすべてではないけれど、 そういう技術だとか、私が経験してきたことを伝えていきたいなという思いでおります。
それと、今クジラの話をしてきましたが、以前、高橋はるみ(北海道)知事への(アイヌ民族に対する漁業支援を)陳情をした時に、 知事も私の話を理解してくださって、「畠山さん、その陳情は急ぐのでしょう。それなら文書にして今すぐ上げてください。」 と言ってくださったので、さっそく文書にしてあげてみたけれど、待てど暮らせどそれに対して返事がなかったという。 3〜4年前くらいにそういう経緯があったんです。
それは、オホーツク海にある「未利用資源」(の漁業権をアイヌに認めて欲しいという要望でした)。 (かつてはオホーツク海沿岸部でも)ツブだとかエビだとか、獲っていたのです。 (しかし)昭和53年(1978年)ですか、日本とロシアの国境(の外側)に200海里(までの漁業専管水域)が設定された (タイミングで、そうした水産資源に対する漁業が行なわれなくなった)。 その内側に、そういう資源が漁獲枠設定もされずに無造作にあるということでね。 それを、和人たちが自分勝手に決めた(とはいえ、既存の)漁業権に抵触するのではなく、 「未利用資源として(アイヌに)獲らせてください、」と。
▼ここでも当然「先住権」が主張できる。先住権の具体的事例として我々の裁判で主張しておけないか。 日本政府の過去の、明治期の土地政策のみならず、現在でも不当な差別的アイヌ政策が行われている、との事例として主張したい。 (2021.2.3)
それが可能となれば、その操業には5人なり6人なりの従業員が必要なわけです。 さらに遠い海区まで行くとなると、一隻だけだと海難上問題があるので、二隻(以上が必要になります)。 すると(合わせて)10数名の乗組員(の雇用が生まれます)。可能であれば、アイヌの人々を優先的に(雇用して)ね。 「我々と一緒にやろうじゃないか」という人が出てくれば、そういう方々と一緒に、未利用資源の漁業就労という形でやれるのではないかと、 今でも考えています。
▼ささやかな要求。「先住権」を前面に出して主張できないか。(2021.2.3)
このようなことを、知事に言われた通り文書にして上げた(提出した)けれど、なかなか回答が返って来なかった(という)経緯がありました。
(北海道アイヌ)協会も、あえて(私の思い描いたアイヌ漁業支援プラン)推進に協力するようなこともなく、 (私は)孤立した気持ちから、私は協会を脱退するまでに至りました。
協会、よくない。我々の裁判で何とか取り上げよう。 (2021.2.3)
しかし、(地元の先住民族と協議しないままの森林開発を認めないというFSC)認証林の件で、 (北海道)アイヌ協会のほうから、今年夏ごろ「畠山さんが考えていることは、 長くても一年程度で実現するような状況になっています」と聞かされました。そういうことも前向きにとらえて、 心穏やかにしてあまり過激なことをしないで待っていたほうがいいのかなと、最近ではそういう気持ちでおります。
▼この報告は2016年11月19日。実現しているのか? 実現していれば協会に復帰しておられるはず。
みなさん、私がいまここで言うまでもなく、アイヌについては勉強なさっていることと思われますが、 (「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の)第3条に「自己決定権=先住民族は自己決定の権利を有する。 自らの政治的地位を自由に決定し、ならびに経済的、社会的、および文化的発展を自由に追求する」と(あります)。 これが民族宣言の第3条ですね。 それから第4条、「先住民族は決定権行使において、 このような自治機能の財源を確保するための方法を含めて、自らの内部的、および地方的事柄にかんする事々、 あるいは人事に対する権利を有する」。 まあこういうことは私が言わなくとも、みなさん(ご承知のことでしょう)。 第24条「土地領域資源に対する権利。先住民族は自らが伝統的に利用し、所有し、占有し、 もしくは習得してきた土地の領域資源に対する権利を有する」。 こうした権利の実現を盛り込んだ「対アイヌ政策」が、これからは成されていくのではないか、 ▼先住権の実現がこの裁判の目的。(2021.2.4)
という思いではいるのですが、 ただ私も、年を重ねるたびに「いつまで現役で船に乗って若い者たちに仕事を指導したりできるか」「ここ1〜2年がヤマ場かな」と。 私がよく漁師連中と話をするのは(こんなことです)。

三陸沿岸から日本海、松前から利尻、礼文、それからこのオホーツク海。(私は)もう27〜28年、30年近くの間、年に2〜3か月くらいは、 イルカを獲りながらずっとこの海沿いを回ってきた。そうして、それぞれの地域で海水温が何度になればどういうものがそこに寄り付くか (が分かるようになりました)。それからイルカの生態系。クジラも同様に、どんな時に群れをなすのか。 食物連鎖の観点から、何でもそうですよね、餌のある所で、水温がどうなればそういう生き物が寄り集まるのか。 特に利尻・礼文方面なんかの海の様子とか、そういうことが私の頭の中に蓄積されている。 そういうことや経験を伝えていく、やはりそれが貴重なことだと思うのだけれど、ただ今のところ、それを伝えるすべがないという現状です。 はっきり言って。 それと少し話が飛ぶかもしれませんが、現在紋別では住友関係の会社(住友林業株式会社と住友共同電力株式会社) がバイオマスの工場、発電所(紋別木質バイオマス火力発電所、出力50メガワット)を建てました。 そこでは1日に600トンの原木、丸太を(チップ化して)焚くんだそうです。そうすると──紋別についてはあまりご存じないと思いますが、 紋別には「大山」という山があるんです──その山ひとつ分(に生えている)の木を1日に焚くということなんです。 こういう施設は、紋別市長なり次期漁業組合長なり、 そういった(和人の有力者の)方々が率先して企業誘致という名目で誘致してきたわけです。 (しかし)私から言わせれば、木が、山が、森がいかに大切なものであるか、(彼らは)知っていてやっていることなのかと。
オホーツク海はかつて世界の三大漁場だといわれました。あの狭い海がね。それだけ資源が豊富だったのです。それは源をたどれば、ロシアのアムール川までたどりついて、そこから栄養源豊富な水が流れてきていた。流氷などに乗って。そのおかげでオホーツク海は資源が豊富だった。私はそう認識しています。 私はサハリンの漁業関係者の方、二組くらいの方々と今でも付き合いがあるのですが、 その方々が「ロシアの山から木がなくなっている、サハリンの山も坊主状態になってしまった」と(話していました)。 かつて、小樽、稚内、網走、紋別(各港)にもロシアから原木、丸太がたくさん入ってきていました。 ロシアもそれ(材木)をお金にしたくて山を坊主にした。だけどそれはそれで、ロシアの国のことだからやむを得ないし、 (北海道の)我々が何を言うこともできない。でも、(オホーツク海の)そういう栄養の豊富な水、海洋生物をはぐくんでいるのは (健全な森の中から流れてくる)川の水だということでね、栄養のある水を海へ自然な形で出してやる。そういうことです。
▼三大漁場=資源が豊富=栄養のある水を海へ出してやる。説得力があります。世界の南北問題が国内で進行している。先住民の生きる権利を奪いながら。(2021.2.4)
それとやはり、ここ数年の温暖化。地球のことを言うとあまりにも話が大きくなってしまうけれど、海水温の上昇だとかも含めて、CO2が増えてきたせいだと。 それでCO2を削減しなきゃって時に、ひとつの(バイオマス発電)施設が山の木を(1日に)600トンずつ焚くような、 そういうものを造ってしまっている。 私もその(発電所に出荷するためにオホーツク地方の森林から)丸太を積み込んでいる場所を何度も見に行きましたけど、 ナラの木だとかシラカバとか、(いわゆる)雑木ってやつですね、広葉樹。そういう丸太がたくさん積まれているわけです。 針葉樹であれば──これは50〜70年前に植林したものだから──まだしも、再利用という名目でも許容範囲だろうと思いますが、 広葉樹を保護することなく伐採してしまって燃料にしてしまう、燃やしてしまうということには、私から言わせれば、 (発電事業者の)この方々は何を考えて地球上で生活しているのかな? と(思わざるを得ません)。
▼広葉樹、針葉樹。私は勉強不足(2021.2.4)
広葉樹と針葉樹 http://acorn.okamura.co.jp/topics/column/2019/06/11/kouyoujushinyouju/
広葉樹と針葉樹では、葉の形が驚くほど異なります。広葉樹の葉は、広くて平べったい形。 一方、針葉樹は文字通り、針のように細く尖った形状が一般的です。スギやモミ、マツは、針葉樹の代表格といっていいでしょう。 広葉樹はなんと世界に20万種以上存在するといわれます。対して針葉樹は500種ほどしかありません。 針葉樹はというと、日本では昔から全国的に人工林としての植栽が進められてきました。 スギ、ヒノキ、カラマツが植林木として有名です。広葉樹のなかでも、 特に温帯に成立する常緑広葉樹を「照葉樹」と呼びます。照葉樹の特徴は、表面にクチクラ層(角質の層) が発達し光沢のある深緑色の葉を持つことで、日本ではシイやカシなどが照葉樹に該当します。 かつて、照葉樹の森林は日本の全土に広がっていました。しかし開発による過度な森林伐採により、 照葉樹林は失われ、現在の全照葉樹林の面積は日本の総森林面積のたった1.2%程度に過ぎません。 照葉樹林は、ドングリなど堅果(けんか)類の恵みをもたらし、 日本の原点とも呼べる縄文文化の成立と発展に欠かせない森林でした。 食物以外にも、ウルシの木から樹液を採って漆器を作る技術も、照葉樹林が発祥となっています。
▲上記勉強をしました。(2021.2.5)
もう時間がきたみたいで、話が中途半端なのですが、だいたいこんなところで。どうもありがとうございました。 

自由学校遊

藻べつ川
十勝川
沙流川
石狩川

▼大変興味深い話でした。先住民の鯨漁を全く考えないで禁止だけしている実態が掴めました。 いずれ再読して大事な点を引き出します。(2021.2.3)
▼読み直しました。気づいたところは下線を引きました。コメントも入れました。現在でも先住民族排除がまかり通っている、 この事実は裁判で明らかにしていくべきだと思いました。(2021.2.4)
▼サケの川漁のパンフレットを木村さんのお手配で自由学校「遊」から送られてきました。先住権の一つとしてサケの川漁の復活が二風谷でも 当然取り上げることになると思いますが、とても参考になる資料です。(2021.4.21)
▲クジラ漁の道が拓けないか。先住権の一つとして。国際規約を前提にあるはず。サケの川漁と海のクジラ漁、 それに昆布等の採取を含む沿岸漁業、一括して先住権の資源として主張していく。(2022.8.29)
▲水産庁とチャランケをする必要ある。オホーツクの海に漁業の可能性がありそう。網走と紋別で協力して道を探そう。(2023.5.2)
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井上勝生さん/ 市民会議の記録 2018年8月20日
アイヌ共有財産裁判からの報告・レジュメ
1)アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会「報告書」について
アイヌ民族近代史
B近代的土地所有制の導入とアイヌの人々
C伝統的生業(狩猟、漁業)の制限
F北海道旧土人保護法の施行
「売り払い」の記述(12頁)
「近代的な意味での個人的な土地所有の観念がなかったため」(同)
「売り払うこととされた」(同)
無主の法理、「私的所有の欠如」 主権を認めない 十九世紀までの法理 この「無 主の法理」を克服することで、先住民族問題が進展してきた。「報告書」は、逆行。
旧土人保護法の歴史的意味
帝国議会(初期議会)の議事
「一通りの対策を示したもの」(15頁)
「1万5千坪(5ha)を基準としたものであった」(同)
「農業指導はほとんど行われず」(同)
2)北海道ウタリ協会総会(当時)「アイヌ民族に関する法律(案)・前文」
アイヌ民族近代史の展開
近世「民族としての自主性を固持」 有識懇「報告書」と対照的
「土地も森も海もうばわれ」、「すさまじい乱開発」 有識懇「報告書」には欠ける
『新北海道史』のアイヌ民族共有財産、説明  「アイヌの共同事業」
明治期アイヌ民族運動の掘り起こし 富田虎男1990(アメリカ・先住民族史)「資料2」
十勝アイヌ民族の全戸総会・民族運動(1892(m25)年)
日高アイヌ民族サンロテーの帝国議会請願(1895(m28)年)
アイヌ演説会 有珠アイヌ、パラピタ演説 札幌北水会館 来会者400名.階段まで充満 ○ アイヌ民族 集団的権利の運動   (なぜ充満するほどになったか 重要)
3)北海道旧土人保護法の役割(「アイヌ民族全滅法」)
「1万5千坪以内を限り」(5町歩=5ha)「以内を限り」文言
免税・墾成猶予期間 30年 「特別の保護民扱い」
譲渡権、質権、抵当権、永小作権なし。従来のアイヌ民族所有地も、制限
8条 アイヌ民族共有財産の「収益」で
4条「農具・種子」、5条「薬価」、6条「治療費、埋葬料」_7条「授業料」
北海道庁長官とアイヌ民族共有財産 管理権 処分権 分割拒否権 指定権
対雁アイヌ民族組合長 上野正 北海道旧土人保護法案・痛烈批判
「(アイヌ民族)禁治産者と同様 意志の自由の束縛」
債権者は、殺到するだろう アイヌ民族は「無資産者と」
「アイヌ民族全滅法たるの奇観を呈するに至るべし」

土地の下附、集団的権利の解体 それへの抵抗運動
旧土人保護法土地下附の事例調査は、十勝全域についての詳細な成果がある。アイヌ民 族は、国有未開地処分法による下附も法的には可能と法案説明されたが、実際は例外的な 2例だけであった(当時の道庁調査)。
「保護法」の存在を理由として、国有未開地処分 法からアイヌ民族排除がされたことも検証されている(山田伸一『近代北海道とアイヌ民 族』238頁など参照)。
山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』 (拡大)
▲山田さんの問題意識 第2条第3項
「第2条第3項この条項は「保護法」後の「国有未開地処分法」によるアイヌ民族の土地取得に影響を及ぼさなかったか」 (311p)
「この条項新設後に、アイヌ民族が和人と同一の制度の枠内で土地を取得する時には、より厳しいチェックにさらされることにならないだろうか。」(314p)
「私がここで指摘したいのは、「保護法」制定時の政府見解に反して、法の運用現場で「国有未開地処分法」からのアイヌ民族の排除に官吏が言及 する要因は、現場の官吏の法に対する理解不足にあるのではなく、「保護法」自体が含んでいるのだということである。特に第2条第3項は、アイヌ民族 一般について、和人と同一の法令に基づく所有地を自ら管理する能力を否定しているのであり、 直接の規定対象が「保護法」以前の所有地であっても、 アイヌ民族が「保護法」後に「国有未開地処分法」によって土地を得ようとするとき、目立たない形ではあるが、 しかし確実に、阻害する機能を果たし 続けたのではないだろうか。」(323p〜324p)

▲山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』は、法令の成り立ち、解釈よりも実際の現場での運用の実態を検証している点が凄い。 現場の実態として貝澤正さんの『アイヌわが人生』165p「一般規定(国有未開地処分法)に依って出願すれば、お前達には特別の保護法があるから一般規定に依って土地をやる事はならぬ と言って一蹴されます。保護法がある為めに非常に迷惑を蒙ることがあります。」を引き、証明されている。極めて貴重。 (2022.8.7)
▲上記下線の部分が特に重要。(2022.8.8)

国有未開地処分法の土地下附面積150万坪(500ha)のおよそ100分1。
アイヌ民族は、「開拓」による土地獲得から排除された。

4)旧土人保護法前夜のアイヌ民族
1892年 十勝アイヌ民族の十勝川共有漁場自営・共有財産取り戻し運動
「われらアイヌは、相当の(アイヌ民族共有)財産があるのに、圧制され、自営活 計の道をさまたげられ、(まるで)重罪人の治産を禁止されたもののようだ」

和人代理人への、アイヌ民族代表たち連名、委任状
○アイヌ民族 集団的権利の主張
5)中川アイヌ民族共有財産保管組合規約
「財産台帳は、何時にても閲覧することができる」、「収益、残る半額は、各戸に配 布するべし」、「役員、(総代人、取締役、組頭、雇員)」、「役員は、無給料上「雇員 (和人)、「ヶ年120円以内」、「出張規程1日規定費用、雇員は実費」、「組合支 出(租税、地方税、村費、組合費用)」、組合協議会
・『北海道殖民状況報文 日高之国』
豊頃・蓋派(池田)
白人(幕別)
(拡大可)
プラウ (拡大)

豊頃原野 アイヌ保護地 ……目下一町歩ないし二町歩の墾成地あるもの敷戸あり、「プ ラオ、ハロー」は大津村アイヌ「ソブトイ」より借り、輪換使用せり。その作るところは、 黒大豆を主とし、黍・稗・玉葱、読菜類、これに次ぐ、黒大豆は皆これを穀商に販売せり

蓋派(けなしは)原野 アイヌ保護地 ……シクシアイヌ、イタウクアイヌ、メクエンカアイヌらは、 各「プラオ」「ハロー」と馬とを有し、五町歩の既墾地を耕作し、明治三十年秋期には、 各々大豆五十俵ないし七十俵を売却せりと言う、その他のアイヌも、一町五反ないし二町 歩余の作付けをなし、開墾耕種に熱心なるは実に賞すべきなり、また七八頭ないし二十頭 ・の土産馬を有する者、数名あり、日常使用するものは、舎飼し、その他は‥‥‥

白人(ちろっと)原野 アイヌ保護地 ……白人・幕別両村のアイヌ、凡三十余戸、部落をなし、皆 農業に従事シ、平均一戸一町歩余を開墾せり、就中アイヌ幸太郎、アマイタキの両人は「プ ラオ」「ハロー」を有しすでに五町歩内外の地を開墾し、その他二三町歩を墾するもの少 なからず、

札幌製糖会社の株券事件 電報、
橋口文蔵履歴書、薩摩藩士、戊辰戦争、マサチューセッツ農学校留学、北海道庁理事官、
札幌農学校校長、非職、台湾、総督府民政局殖産部長(樟脳専売など)、再度非職 橋口校長の非職事件、「北海道大学大学史では、触れられてこなかった事件」
旧土人保護法の役割 共有財産の管理権を取りあげた。出張費(活動費)など自由な運 用を不可能にした。アイヌ民族の保護法前夜の活動、農業拡張などをできなくした。
アイヌ民族を「開拓」による土地獲得から排除した。
とくに、「保護民」扱い。民族の尊厳を踏みにじった。

アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会「報告書」(先住民族の集団的権利を留保 する立場。先住民族の権利獲得の歴史からはずれた異例な立場)「有識者」懇談会「報告 ・書」は、近年の研究をまったく学んでいない。民族自身の「集団的」運動などを取り入 れないアイヌ近代史叙述。従前のものとくらべても、学問的に通用するものではない。後 世に悪例として残るだろう。その社会的悪影響は、きわめて大きい。教科書、政策など。桑原真人・滝澤正等『アイヌ民族の歴史』山川出版社2015は、近年の成果を入れアイ ヌ近現代史叙述を大きく進歩させている。「有識者」懇「報告書」は、あまりに対照的)
▼これはすごい論文。根拠資料も添付されている。裁判に即つかえる。(2021.2.2)
▼今朝あらためて読みました。いい論文です。気になった箇所は茶色文字にしました。(2021.4.28)

▲井上論文再度きちんと読むこと。(2022.2.27)再度読み気づいた所はゴチにした。
「旧土人保護法の役割 
共有財産の管理権を取りあげた。出張費(活動費)など自由な運 用を不可能にした。アイヌ民族の保護法前夜の活動、農業拡張などをできなくした。 アイヌ民族を「開拓」による土地獲得から排除した。とくに、「保護民」扱い。民族の尊厳を踏みにじった。」 は全く新しい知見。(2022.2.27)
▲「旧土人保護法の役割」 アイヌ民族を「開拓」による土地獲得から排除した。 法的観点から井上論文のこの点を詳しく伺うこと。(2022.7.28)井上論文、本格的に勉強すること。(2022.7.29)
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吉田邦彦さん/ 市民会議の記録 第1回市民会議 2016年4月9日
アイヌ民族の政策諸課題――論点整理の試み
吉田邦彦(北大大学院法学研究科教授) 2016.4.9 「アイヌ政策検討会議」発足に際して

1.問題背景 2005年国連補償ガイドライン、2007年国連先住民族の権利宣言を受けて、2008年の国会決議を経て、2009年の有識者懇談会報告書の下で、アイヌ政策が進行中であるが、実は国際的動向を受けた動きにはなっておらず、2014年国連人権委員会からも勧告を受けるに至っている。 改めて、目下のアイヌ民族政策のどこが問題であるかを明らかにし、社会的に問題意識を共有する必要がある。 国際的眼差しの高まり。グローバル教育化との関係でも、諸外国に対しても、あまり時代錯誤的な先住民族政策を続けていては、恥ずかしく、 健全化する必要がある。
2.目下の喫緊の論点から――とくに、「北大アイヌ人骨」問題
(1)アイヌ人骨問題
「北大などのアイヌ人骨盗掘問題」・・・これに関連して、2012年9月以来の提訴。 2016年3月に、第1次提訴分について、和解で「コタンへの遺骨返還の道」は開かれる。しかし、慰謝料請求の取り下げ。 白老の象徴空間へのアイヌ人骨移転のプロセスは、進行中。 盗掘についての過去の歴史的不正義を問題としてないことのもどかしさ。和解による慰謝料請求取下げは、 その問題を浮き立たせている。北海道各地のコタンの遺骨管理態勢が弱体ならば、それを支えるべく支援するのも、補償救済の意義であろう。
*北大から、これだけの歴史的不正義について、《謝罪の一つ》すら聞かれない和解への抵抗感。
(2)教科書記述問題
アイヌ地の収奪の歴史的経緯については、しっかり教科書叙述していく必要。 Cf.逆行する近時のアイヌ記述に関する教科書検定問題。 副読本問題も未解決。高校生用の副読本も、凍結状態で、速やかに刊行すべきである。
3.その他の各論的な重要課題
(1)共有財産問題
更なる共有財産調査の必要性。共有財産管理の杜撰さ、その責任問題の究明も。 名目主義(1997年アイヌ文化振興法付則)の変更の必要性。
(2)環境汚染問題(先住民族に対する環境的不正義)
例えば、紋別の廃棄物処理場による鮭の遡上への影響。 Cf. シラキューズのオノンダガ湖の環境汚染・・・これに関連して、オノンダガ族(先住民族)からの土地返還、環境浄化の訴訟(2000年代半ば)。 二風谷ダム判決の教訓が活かされていない。・・・平取ダムの建設。元の木阿弥状態。二風谷ダム判決を称揚して海外に紹介しながら、 そこから導かれる政策的立場を承継しなくて良いのか?研究者が利権に呑み込まれる状態で良いのか?
(3)土地の信託管理の可能性
北海道の国有地、私有地(例えば、製紙会社の所有地)について、信託を導入してアイヌ民族への形式的な所有権返還の余地はないか。 例えば、国際的組織の「森林管理協議会」(Forest Stewardship Council[FSC])における先住的権利保護の動き。
(4)いわゆる遺伝的・伝統的知識保護(近代的知的所有権法制との不整合)
その克服の国際的動き。例えば、南アフリカのCSIR(Council for Science and Industrial Research)(南ア科学・産業研究院)の取り組み。 それとの関係で、アイヌ文様、アイヌの薬草文化などをどう保護するか?
(5)アイヌ福祉対策
福祉予算をどう充実させるか?従来道の予算でなされてきたが、実際的にも、原理的にも、国の予算が充てられるべきではないか。 Cf.「逆差別」(reverse discrimination)という批判にどう答えるか?ネット上のヘートスピーチにどう対処するか?
3.総論的・原理的問題
(1)補償アプローチの必要性
これらの各論問題を根本的に考えるためにも、総論的・原理的問題解決は不可欠である。 諸外国の先住民族問題においては、当然とられている《補償(reparations)アプローチ》が、 上記有識者懇報告書では、意識的に避けられているのが、根本問題である。
(2)民主的政策形成及び組織論検討の必要性
手続き的にも、アイヌ民族の頭越しになされる「非民主的アプローチ」を変えていく必要。 これは国連宣言などでも最重要視される、先住民族の「自己決定権」(self-determination)が、我がアイヌ民族には、保障されていないこととも関係する。 北海道アイヌ協会の「理事会主義」(会員の頭越しに理事会メンバーだけで決めてしまうと言うやり方)もおかしい。 アイヌ民族の組織強化の必要性。
首都圏アイヌなど北海道以外在住のアイヌ民族も糾合する必要。
*なお従来から議論がある、民主主義プロセスに関しては、「民族議席問題」がある。
(3)教育機関の役割(広く、和人の先住民族支援態勢)
歴史的に人権蹂躙されてきたアイヌ民族の権利保護のために、真の意味での人道的・国際人権法的なスタンスに裏付けられた、教育機関でなければならない。 Cf.国・道の旧態依然とした先住民族のコントロールのための理屈の提供という「御用学者」問題への反省の必要性。研究者倫理の問題でもある。 長年の同化主義で周縁化されたわが先住民族の境遇に留意した、自己批判的な和人からのサポートシステムの必要性。
(4)国際的連携強化の必要性
例えば、アラスカ大学・アラスカ原住民研究・地域発展学部、シラキューズ大学・スキャノンセンター、ジョージア州立大学などと、先住民族政策を巡る連携ネットワーク作り。 近い将来の計画として、シンポやサマースクールはもとより、北大の学生・院生の連携教育。 *北大メディアコミュニケーション研究学院では、この夏(2016年7月)に、オーストラリア国立大学のテッサ・モリス=スズキ教授との連携講義(サマースクール)。 海外からの監視。国際的連携の下での、アイヌ政策の改善。
(関連文献)
私の近時のものとして、吉田邦彦「北海道強制連行・労働の拠点朱鞠内で《遺骨奉還事業》を考える――補償法学の原点としての 『被害者に寄り添う』ということ」Forum Opinion31号(2015)52〜60頁、 同「近時のアイヌ民族記述教科書検定と所有権問題――先住民族への過去の不正義補償との関連で」 Forum Opinion31号(2015)69〜77頁、同「アイヌ民族補償の現況と課題――諸外国の先住民族補償 (とくにアラスカ原住民の場合)との比較で」久摺14集(2016)(近刊) 著作として、吉田邦彦・東アジア民法学と災害・居住・民族補償(前編)(民法理論研究5巻) (信山社、2015)第6章、同・多文化時代と所有・居住福祉・補償問題(民法理論研究3巻) (有斐閣、2006)第7章。
▼ たった今、2016年市民会議での「論点整理の試み」を読ませていただきました。 すばらしいです。頭がよく整理できました。先生の責任感もよく伝わってきます。弁護士の方々にも読んでいただくよう、 福田先生にお送りしておきます。(2021.2.4)
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九州芸術工科大学 http://www.design.kyushu-u.ac.jp/~tomotari/kaizawa.html

「開発と文化」 講師 貝澤耕一氏 アイヌ文化体験交流会/講演会 (九州芸術工科大学)
鮭に飛ぶ
 皆さん、こんにちは。ご紹介にあずかりました貝澤耕一です。私の本職は百姓ですので、話はあまり上手ではありません。 ただ私の講演会を聞いていただきたいというのは、日本でもこういうことが行われているんだと。 (皆さん九州の方々なのでご存じになる機会が少ないかと思いますが) 人間を侮辱するような事が行われていることを理解して下されば幸いかと存じます。
 私が生まれたところは、北海道の南側、昆布・競走馬の産地である日高山脈の近くの村です。 千歳飛行場にも近く、札幌までも2時間もあれば着くという地理的には便利な所です。その二風谷という村で私は生まれ育ちました。
アイヌ語では「ニプタイ」木の生い茂る所という意味です。この村というのは、戸数で140数個、人口500人ほどの小さな村です。 この村の7割以上の人々がアイヌ民族の血を引いていると言われています。言い換えますと、アイヌ民族が世界の中で一番密度濃く生活している場です。 北海道庁の調べによると、自分をアイヌ民族と名乗った人は約2万4千人います。 しかしその10倍はアイヌ民族はいるだろうといわれています。なぜ名乗らないかというと、 歴史的にまた現在も、アイヌ民族はひとつの民族として認められていないためなのです。
中曽根発言

1986年(拡大)
 皆さんの中にもご記憶の方いらっしゃるかもしれませんが、元首相である中曽根さんが「日本は単一民族国家である」という発言をしました。また神戸大震災の時、ある大臣が「日本は単一民族国家だから、こんなに復興が早かった。」という発言をしましたね。そういう考えのもとで、日本はアイヌ民族を認めていないんですよね。そして認めていないのは、アイヌ民族だけでなく、第二次世界大戦の時に日本政府に協力し、旧ソ連に住めなくなって北海道に移り住んだギリヤークの人たち。それよりもたくさん、皆さんのすぐそば在住している朝鮮半島から来られた方々がいます。その人たちだって日本における少数民族なんです。その人たちをを日本は認めずに、日本は単一民族国家だという。  在日の方々より少しは私たちが幸せなのかなと思うことは、私たちには日本国籍と共に選挙権がある。 在日の方々は、皆さんと同じように義務教育を受け生活をしているにもかかわらず、日本国籍も選挙権ももらえないという現実。 こういう矛盾を皆さんに気づいていただきたいな、と思います。そういう方々ばかりでなく、 東南アジアやいろいろな国から来た人々が日本に住み着いています。その人々だって、日本の少数民族なんです。 独自の言語と文化を持っている民族なんです。
 1992年まで外務省は国連に対して、日本には少数民族は存在しないと報告していました。1993年になってはじめて 「日本に少数民族がいてもやぶさかでない」という報告書をだしたのです。日本の大好きな曖昧な表現です。 いるといってもいい、いないといってもいい、それは勝手だよ、でも私たち政府としては存在するということをはっきり認めませんよ、 という報告書が、未だ訂正されずにそのままになっています。

 それではなぜ私たちアイヌ民族がこうなったかということについてお話しします。あまりにも私たちの最後の 天地・北海道.......最後の天地というのは、おそらくアイヌ民族というのは全国にいたのです。 先日NHKでDNAに関する番組があっていましたが、アイヌ民族と沖縄の人々ではDNAが一つしか違わない。 たぶん同一民族だったのでしょうね。だから私なんか沖縄にいくと「宮古んちゅう」といわれて地元の言葉で話しかけられて困るんですね。 何を言っているのかわからないからニヤニヤしてると、答えないから怒られる。番組でも言ってましたが、 たぶん朝鮮半島から来た人々にアイヌ民族は北に追いやられた。そしてどんどん追いやられた最後の天地が、北海道だったんでしょう。
.......最後と思っていた北海道、しかしそこもだめでした。あまりにも「自然の幸」が多すぎたんですね。自然が豊かすぎた。 「見渡す限りの草原」と観光パンフレットに色々書かれていますが、もともとの北海道というのは大木に覆われた密林の島です。  その密林の島北海道で、アイヌ民族は周りの木や草や動物・川から自分たちの生活の全てをいただいて生きていた。 ですから周りの動植物がなければ、自分たちが生きることができないということを充分知っていた民族なのです。
その生活が、つい100数十年前までは行われていたのです。ところが、そこは日本にとって非常にお金儲けが可能な島だった。 皆さん、日本で一番昆布の消費量が多いのは、沖縄ですよね。ところが沖縄で昆布取れないんです。取れないのに、 なんで消費量が多いのか。答えは簡単なのです。
 はじめに持ち出された北海道の幸は、海の幸でした。海草であれば乾燥させて、北前船にのせ、 北海道から日本海を越えて関西の方まで運ばれた。魚であれば塩漬けにするとか、乾燥させるとか、 あるいは煮詰めて油を取り、残りは農業用の肥料にするなどして、どんどん関西地方に運ばれた。 大量に来れば処理に困る。処理に困ったものをどこにぶつけたかというと薩摩藩です。 薩摩藩だってそんなに消費できない。それではどこにいくかというと沖縄です。 そのようにして昆布のとれない沖縄が、日本最大の昆布の消費地になっていった。 そのコンプ、日本語で昆布と発音してますけど、あれはアイヌ語なんですね。......アイヌ語では濁音の発音がありませんから、 コンプと発音します。皆さんがよく知っている言葉の中でアイヌ語のものといえば、トナカイ、 あるいは動物園で人気を読んでいるラッコもアイヌ語です..
まずは海の幸が北海道から持ち出され、次に内陸へと向かっていった。内陸に向かうということは、山の幸です。 先ほども、申し上げたとおり密林に覆われた島・北海道には木々がたくさんあった。 昭和初期までその木々をどんどん運び出して、ヨーロッパに売りつけています。ナラの木を1メートル立法の角材にし、 船に積み、ヨーロッパに運び出しています。木を切り出す作業から、船積みまでの労働のほとんどは、 アイヌ民族が強制的にやらされていたといいます。日本には奴隷制度はなかったと思っている方もいると思いますが、 アイヌ民族は実質的な奴隷として使われておりました。
 北海道を何度も探検している松浦武四郎が言っています。記載されているものによると武四郎は、二風谷に上陸したと。 なぜ「上陸」という言葉を使っているかというと、密林の島北海道では歩ける道がない。川を船で渡り歩いたんですね。 川から一つの村に上がるから、上陸なんです。そのとき松浦武四郎は、二風谷の村には15才から50才くらいの男性が誰もいない、
二風谷・厚岸(釧路の東)約300q(拡大可)

と記しています。その男の人たちがどこに行ったかというと、北海道の西・厚岸という所に連れて行かれていたのです。 魚を捕って、その魚を煮詰め油を取って、その粕を詰める作業をさせられていた。
皆さんもおそらくこの名前を知っているかと思いますが、萱野茂さん(元参議院委員、2006年逝去)のお爺さんはそこに連れていかれました。 労働がきつい、まともな食事を与えられない....そこから逃げ出したくて、自分の指を切ったほどなんですね。 指がなければ帰してくれるだろうと。それでも帰してもらえずに、一年中働かされた。奴隷と変わりないですよね。
▼まったくの植民地の奴隷。怒りがますますこみあげてくる。何としてもやる!(2021.2.5)

 一年働いて与えられた物といえば、本州では普通に生活の中で使われていた漆塗りの器一個です。 それが年間の報酬として与えられた。一年も働いて貰ったものなのだから、おそらく高価なものなのであろうと、 アイヌ民族は思ったんですね。博物館などでアイヌのものが展示されてあったら観て下さい。 必ず、漆塗りの容器が展示されています。それはアイヌが宝物と思って、大事に保管していたからなんです。 北海道では漆塗りという技術がなかったのです。
 なぜこんな事をしたかというと、日本は北海道という「土地」が欲しかったからなのです。

アイヌはロシアとも中国とも交易しておりました。耳飾りやネックレスなどの宝石、アイヌの衣装の中のきらびやかな絹衣装、 それはほとんど中国から来ているのです。日本はそれだけでも欲しかった。知床にある遺跡からは、ワインを作った痕跡も出土している。 アイヌ語のなかでプレシサムという言葉があります。「プレ」は赤い、「シサム」というのは隣人という意味です。 白人はすぐ赤ら顔になりますね。髪が赤いからプレシサムではなくて、顔が赤くなるからプレシサムというんです。 これらのことは、ロシアとも交易していたということを物語っています。
 このように自然の幸が豊かだった北海道を、日本の土地にしたい、ということで日本人は北海道に侵出してきました。 その過程で一番邪魔になったのが、私たちの先祖アイヌ民族なのです。ですからアイヌ民族を無きものしなくてはならない。 もしアイヌ民族が住んでいることが世界に知れたら....まぁその時代は今ほど情報網が発達していなかったのですけれど.... 自分たちの領土にする事ができない。
そこで日本政府(江戸幕府)は、北海道に3つ大きなお寺を建てました。 伊達地方のダテ、道南のウス(道東の厚岸の記憶違い?)というところ、そして日高地方のサマニというところです。
伊達・様似・厚岸(拡大可)
伊達市・有珠善光寺
様似・等ジュ院
厚岸・国泰寺






蝦夷三官寺・伊達市教育委員会
蝦夷三官寺とは江戸幕府が1804年に現在の伊達市・様似町・厚岸町に建立した3つの寺院の総称です。 各寺は蝦夷地で死亡した和人の葬儀とアイヌ民族への仏教布教を目的に建てられました。 背景には対ロシア政策として幕府による蝦夷地支配を示す狙いがありました。(2021.2.6掲載)
 これは北海道は俺たちの領土だ、という証なんですよ。対外的にここは日本の土地だという証として建てている。 そのなかで、アイヌと交渉したり、調印したりしたことがあったかというと、一切そんなことは行っていないんですね。 世界広しといえども日本のように、もともとその土地に住んでいる人となんの話し合いもなく、 約束もなく入り込んできたというのは殆ど例がありません。
▲だから先住権の裁判です。(2022.8.11)

そういう状況の中、 日本人がどんどん北海道に入ってきた。そして自然の幸を持ち去った。
特に第二次世界大戦が終わった時に海外から帰ってきた人々、仕事はない、お金はない、その人たちを北海道に送り込んできた。
 人がやってくるという事は、森を壊すという事なんです。 森を壊して畑にして食料増産を計った。 森を壊すというと何が起きるかというと、災害が起きるんです。
病床の正さん (拡大)
▲病床の正さん。「やっぱり日本人は悪い。北海道をこれだけ禿山にしてしまったんだから。」 (「あるダムの履歴書 4」)(2022.8.12)

森というのは雨が降れば水を落ち葉の下に蓄え、 その中では植物が育ち微生物が育ちその排泄物が水に溶けて川に流れる。川に流れると、水生植物や魚、昆虫を育ててくれる。 海に流れれば海草や、魚や海の動物を育ててくれる。そうだから北海道は自然の幸が多かったのです。 森がなくなっていくと、どうなるのでしょう。北海道では昔ほど海の幸が取れなくなっています。 ただ鮭だけは、人工増殖で昔より取れるようになった。おかげで皆さんも安く食べられるようになったと思います。 つい、3年前くらいからですね。人工増殖ができたからです。 しかし、未だに近海にシシャモも入ってこない、ニシンもはいってこない。これは単に、森を壊してしまったからなのです。
そのように、一つの体系が壊してしまったら人間が生きていけないということを、アイヌは知っていたんです。生物が生きていく、地球上のものが生きていくには、一つの「まんまるい輪」でなくてはいけないんです。そのまんまるい輪を人間は平気で壊していってる。そもそも自分たちが力が強いかのように、何でも支配できるかのように...。それをはっきり証明しているのが、北海道だと思います。  ですから皆さん、今度北海道に訪れるときは、そのようなことを頭に入れて北海道を見て下さい。広々とした北海道、見渡す限りの草原は、明るくて確かにいいかもしれない。でもそれは我が勝手に、自分の思いで人間が作り出したものなのです。  幸いに、リゾート法が無くなったからいいようなものの....。人間が木を切り倒して、ゴルフ場を作った場合、 ゴルフ場というのは恐ろしいのです。もしゴルフ場を経営されている方がいらっしゃったら申し訳ないのですけど、 私たち百姓からみてもゴルフ場というのは非常に恐ろしい。ゴルフ場には、虫がいないのです。 あれだけの草地の中に、虫がいないというのはおかしい。それはなぜかというと、ゴルフ場では少なくとも週に一度は殺虫剤が散布される。 それでも死なない場合はガス状にして、土の中に散布している。ゴルフ場だけで終わればいいのですけど、 皆さんよく考えて下さい。ゴルフ場は山の上にあります。雨が降ればそれらは水に溶けて、湧き水になって小川に流れ、 皆さんの生活の場に入り込んでくるのです。その水を、みなさんは知らないで飲まされている。
 話がそれてしまいましたけど、北海道にやってきた人々は北海道の自然の幸がどうしても欲しかった。 戦後の人口流入による食料増産、その後はリゾート法によって森は壊されていったのです。それが何を残したかというと、 少し雨がふれば洪水が起こる状況を作っていった。畑が水に沈むのです。九州でも五木のダム問題、 子守歌の里五木村が今でもダム建設でもめています。皆さんもテレビでごらんになったかと思いますが、 その五木の里も数年前台風でものすごい数の木が倒されましたね。そのすぐ後、私はあの土地を歩いてみました。 木の倒れているところ、土砂が流れているところはどんな所であったか。殆ど人間が植えた、杉・檜の山です。 私が歩いた範囲では、 昔から自然に任せている森、木がバランスよく自由に育っている木々は倒れていなかったのです。
耕一さん 森の復活 「あるダムの履歴書 9」(拡大)
 ですから、皆さんの住んでいる土地を守るためには、その土地、その空気、その気候ににあった植物が自由に育つのが一番なのです。 それを人間が勝手に、これがいいあれがいい、これがためになるんだと、それだけを植えてしまう。花粉症だってそうですよね。 昔なんて花粉症なかったんですよ。人間がお金になるからといって杉・檜ばかりを植えるから、ひとつだけ多くなるから、 こういうことが起きてしまう。アトピーに関してもいえることだと思います。
▼多様性につながる。(2021.2.7)

私は現在53才、終戦の翌年に生まれています。私が小さい時は、アトピーなんかなかった、聞いたこともありませんでした。 戦後の食糧増産の際使われた農薬が、私たちの体に蓄積されている。その体から産まれてきた子供たちは、なにかひとつ抵抗力を失っている。 それがアトピーではないかと考えますが、これは私の勝手な判断です。特に百姓をやって農薬を使っているから、感じるのですが。 豊かな北海道に人々はやってきて、アイヌ民族をなきものにしようとした。では、アイヌ民族が抵抗しなかったかというと、 抵抗はしています。しかし、アイヌ民族の使う武器といえば、木で作った鑓や数十メートルしか飛ばない弓矢です。 また兵士の数でも日本には及ばない。そうして負けていった。遠い昔にはアイヌは中国に行き元の軍とも戦ったことがある、 それだけ外国と交易していた民族ということなのですが。  残念なことは日本はアイヌ民族に対してだけに、侵略を行ったわけではないということです。 日本は、海外侵略しています。台湾や朝鮮半島を侵略していってます。その時何を行ったかというと、 アイヌに対してやったことと同じ事をやっている。 その土地に根付いた言語・生活・風習を禁じ、天皇を崇拝させ、日本文化を強要しています。 日本が幸いにも、戦争に負けていたからよかったんですね。
日本が戦争に負けたときに、アイヌ民族に対しての間違いも正してくれればよかった。
▲改めてはっと気付かされました。(2022.8.11)

そうしてくれていれば......私が今ここで皆さんの前に立って、お話する必要もないわけです。 アイヌに対しては明治4年に、生活や風習、言語を禁じております。そして、 明治32年にはどうせ今に滅び、滅亡する民族であるがうんぬんという文脈で、帝國議会の中で旧土人保護法という法律を制定しました。 その旧土人保護法、3年前まで法律の中に存在していたんですよ。おそらく皆さんはこのようなことを知らないと思います。 旧土人保護法....日本政府もすごいですよね。「土人」の上に「旧」までつけるのですから。見事にアイヌ民族の生活風習を禁じました。 いかに数が多いから、力が強いからといって、一つの民族を完全に消し去ることはできません。一つの民族の精神、 心というものは、つみとれるものではありません。それが証拠に、皆さんの前で私たちワークショップをやったり、 こうして私が話してる。それが証です。
▼旧土人保護法。「明治32年にはどうせ今に滅び、滅亡する民族であるがうんぬんという文脈で」。 アイヌの人々にとってのこの 法律のとらえ方。こころに刻むべし(2021.2.7)
▲これだけの思いを持っておられる。アイヌモシリ回復裁判に反対される理由が見当たらない。(2022.8.11)

 日本政府は明治34年に旧土人教育規定というのを作って、アイヌの子供たちを集めて日本語教育をしてきました。これは21年続きました。大正11年に廃案になっています。廃案になった後は、同じ日本国民として日本の義務教育を課せられている。でも今になって不思議に思うのは、私は日本国籍を持つ日本人、日本人の中のアイヌ民族です。日本国籍を持つ以上、そしてアイヌ民族として独自の文化を持ち、独自の言語を持つ民族ならば、義務教育のなかでアイヌ文化と言語を学ぶ権利があるはずです。教えられて当然なんですよ。ところが未だに行われていません。不思議です。アイヌだけでなく、ギリアークの人々、在日の人々も同じです。日本国内で生きている限りは、義務教育の中で自分たちの文化や言葉を学ぶ権利があるんです。でもそれを認めたくないから、単一民族国家といっているのでしょう。単一民族といってれば政府は非常に楽なのです。皆さん同じですよ、同じ民族ですよ、何も文句言う必要ない、みんな同じだからいいじゃないか....パッと聞くとかっこいい言葉にきこえますよね。でもそのことが数の少ない人、弱い人をいかに苦しめているかということです。いかにその人たちの口を封じているかということです。   このような訳で、私たちの先祖の文化や言葉はほとんど残っていない。幸いにも私たちの村、500人程度の小さな村ですが、 7割以上がアイヌ民族の血を引いているということで、かすかにも文化や風習を受け継いできたのです。 かすかにも民族としての誇りを持っている人がいる村です。村全体であるとはいえません。 私のように堂々と名乗っているのはほんの一握りです。皆さんの身近には同和問題があると思います。 それを思い出してもらってもわかると思います。同和の人が「私は同和である」と堂々と言わないのと同じ事なんです。
▼同和の人が「私は同和である」と堂々と言わないのと同じ事なんです。核心を突く人。 この講演、1999年、私が国立マンション問題を始めた頃。(2021.2.7)

田中角栄 (拡大)
 こういう経緯の中で、二風谷にダムを造るという話が持ち上がった。1969年ですから、今からもう30年前ですね。 日本列島改造論、田中角栄さん、とんでもないことしてくれました。もう破綻してしまった計画ですが、 苫小牧の勇払平野に日本最大の工場地帯を作ろうした。


『日本列島改造論』は、1972年(昭和47年)6月20日に日刊工業新聞社から刊行された。 田中が総理の座を射止めたこともあって当初91万部を売り上げ、年間第4位 のベストセラーとなった。

ではその工業地帯を作るにはどうしたらいいか。水はどこから持ってくるか。
二風谷ダムの目的(拡大) 苫小牧東部工業基地へ水を供給すること。
沙流川から持ってこようと...二風谷を流れている川です。北海道で一番長い川です。 その川は私たちアイヌ民族にとっては主食を供給する場所であった。
 主食というのは、皆さんはアイヌ民族は熊と生活し、熊や鹿を食べているとお思いでしょうがそれは観光のキャッチフレーズにすぎません。 先ほど申し上げましたように、アイヌの武器は2、30メートルしか飛ばない弓矢です。そんなに簡単に熊や鹿が取れるわけはない。
一番手軽に、一番大量に取れるのが、この川の魚です。鮭です。 鮭は早ければ7月末、遅くとも8月には産卵のために川を上ってきます。その時期から10月、11月まで産卵のために上ってくるのです。 その鮭がアイヌにとっては主食だったんです。ですから私のお祖父さんは、 「自分たちが小さな頃は囲炉裏に鍋をかけて、それから川にいって鮭を捕って帰ってきても、まだ鍋は煮たっていなかった」と言っていました。 川底の鮭は腹をすり、川面の鮭は日焼けするという言葉があるとおり、 昔は大量の鮭が川を上ってきていたのです。 一回に一トンも食べるわけでない。一匹の鮭は、4、5Lあります。2日や3日、一つの家族が食べる分には充分です。 その主食の鮭、早い時期には本当に食べる分しか取らない。
11月になって雪もちらついてくると、落ち葉が全部落ちて茶色の大地になります。 その頃になって始めて、大量の鮭を捕ります。というのは、鮭は産卵を終えると全部死んでしまうのです。
つまり、産卵の終わった鮭をその時期になると捕り始めます。捕ってきた鮭を開いて、軒下に干しておきます。 そしてある程度乾燥すると、囲炉裏の上の棚に置いておく。そうすると、黙っていて薫製ができるわけです。 薫製にしてまえば、何年でももつ保存食になります。  産卵を終えた鮭、ともすると川いっぱいに死んでいるんですよ。その鮭をいただいてきて、主食としている。

それを...日本政府、それさえも捕ることを禁じたのですよ。
▲川に入った鮭は国の財産になる。(「あるダムの履歴書 3」)知らなかった。土地だけでなく川もアイヌモシリとして回復 しなければならない。(2022.8.12)
世界にいる先住民族の中で、 主食を捕ることを禁じられたのは、恐らく日本にいるアイヌ民族だけでしょう。
▲これも謝罪の対象。(2022.8.10)

殆どの先住民族は、売ることはできないまでも、 食べる分の主食を得ることは許されています。ところが私たちアイヌにはそれが許されない。 言い換えれば、皆さんの主食はお米ですよね、それは「明日からおまえたち米は食べてはだめだ」といっているのと同じなんですよ。 それをアイヌに対して、やってくれた。それは、人間のやることですか?どうせいつかは滅びる民族だから、 という日本政府の考えなんでしょうが。
 そういう経過のもと、戦後の山の崩壊があり、そして日本列島改造論・苫小牧工業地帯創設の名の下に、 私たちの村にダムを造る計画が持ち上がったのです。その計画に私と父と、萱野茂さんが反対の声を上げたのです。 私の父の言葉を借りると「日本政府は、今まで一度たりともアイヌ民族に耳を傾けてくれなかった。話を聞こうともしてくれなかった。 だからこの大型公共事業を盾にして、俺たちの声を日本政府に届けたいんだ。」そう言っております。 そう言ったなら最後までやってくれればいいのですが......92年に亡くなってしまいました。 このことを手がける前に「こういうことをやりたいんだけどどうしたらいいか」と相談された際、 私も気楽に「死んだら、引き受けるよ」と言いました。しょうがないから....というのは嘘で、

私も本当はやりたかったんですけどね。

親父さんがやるっていうのに、親子でそんなことやってると生活成り立ちませんから。 最後までやってもらおうと思っていたのに、勝手に死んでしまった。
 日本政府にアイヌの声を届けたいと、まずは土地収用委員会に異議申し立てをしました。 でも、この収用委員会に異議を申し立てても、何が行われたかというと、親父と萱野さんが1時間の制限付きの意見陳述。 そして委員会が現地調査だといい3時間、何百平方メートルの土地が沈むのにたったの3時間来て、そして強制収用となりました。 強制収用採決が決まった段階で、萱野さんの知り合いの弁護士の所に会いに行ったのです。  「どうしてもっと早く相談にこなかったのですか。いまからじゃもう遅いですよ。でも私たちは応援します。 それはなぜかというと、非業だからです。しかし、この裁判は日本国内ではきっと負けるでしょう。 だけれども日本の人々に少しでも事実を知ってもらうために、やりましょう。」ということで、始まりました。  幸いなことに、この裁判に関わってくれた弁護士がのべ15人です。途中で2人ほど亡くなっています。 まぁ、それほど長く続いた裁判だったわけですが。全員、無償です。弁護士たちから食事をおごってもらったことはあるけど、 私たちがおごったことはなかったなぁ。
かかったお金といったら、裁判所に提出する印紙代くらい。8年間の裁判の中で10万円くらいでしょうか。

1時間2万円もとられる弁護士の人たちを15人も使って...、こんないい裁判まだやりたいのですが。これは冗談ですけど。(笑)  弁護士の方々が無償で協力して下さったから、できた裁判です。最初から、勝つはずはないとわかってスタートした裁判。 この裁判の中で、私たちの歴史的事実、そして民族としての文化、つまり私たちには民族としての誇りがあるのですよ、ということを訴えました。 証人に立ってくれた人も全員無償です。建設省における参考人意見陳述として、もと北大教授・吉崎昌一さん。 皆さんよくご存じかと思いますがジャーナリストの本田勝一さん。私たちアイヌ民族の最大の組織の長であった野村義一さん。 そんな人たちが建設省では証人に立ってくれました。裁判所では、大阪にある国立民族博物館の教授をしております大塚和義さん、 学術の人がああいうところに立ってよいのかよくわからないのですけど。今は小樽商科大学に勤めている相内俊一教授、 北海道教育大学岩見沢分校にいる田端宏教授。それは彼らが研究して得た歴史的事実を裁判所で申し立てるというものでした。 いくらそのような証言があったとしても、わたしたちに勝因があるとは思えなかった。

▼1989年(平成元)提訴。1997年(平成9年)判決
  判決がでたのが1997年、3月27日。その日は私は前日から札幌にでて、弁護士といろいろ打ち合わせをしていた。俺たちが勝つことはないのだから、 負けたときの抗議声明文を考えよう。そうして声明文の内容を考えて、 札幌の町に飲みに行きました。ホテルに帰ったのが11時か12時と思うのに、 マスコミってすごいですよね。教えてもいないホテルなのに、どんどん電話がかかってくる。 「明日、負けたらどうします?」マスコミも最初から負けると思っているんですよね。 「いまどういう心境ですか?」と聞いてくる。「最初から負けたら、なんていうなよな」と思いながら、 こう答えました。「もし、裁判所に、人の心があったなら、勝つでしょう。」と。 その段階では、それはただの願望だったのです。そうであれば、いいな、日本の司法がそうであったなら、 という願望。ただそう思っていただけです。 判決当日、私たちは負けると思っているから、みんな暗い表情です。
 一方被告は...私たちは土地収用委員会を訴えたのですが「これは私たちに非常に関係が深い」ということで、 建設省が被告を勝手に引き受けたんですけどね。まぁそれで終わりかと思っていたら、国まで入ってきた。 国は参加員という形で被告になってくれた。これに関しては、弁護人も驚いていました。こういった行政裁判において、 国が被告になることはまずあり得ない。普通、国は行政問題に絶対タッチしないそうなんです。 なのに、この裁判ではわざわざ国が参加員という形で被告になってくれた。 まぁ、裏をかえせば、国はこの裁判に絶対負けたくなかったという、証なんです。負けては困るという証です。 それはなぜかといえば、今までの隠された事実、皆さんが教えられなかった事実、それが明らかになるということですから。
 話は戻りますが判決の日、私たちの暗い顔に対して、被告の方はにこにこしていた。裁判の度に思ったんですけど、国、 つまり建設省や法務省の方々は東京から出張旅費をかけて前日からやってくる。寝不足なのか被告の一番前の席でコックリコックリやっている。 何を飲んでいたのやら、確認したわけではないけれど....アイヌの前でそうやっている。私も税金の無駄遣いを訴えるために、 税金の無駄遣いをさせてしまったことになるのですが。

  国は負けるなんて、思ってもいなかった。ただその判決は私たちの予想を覆したものでした。
つまり、私が一番求めていた「アイヌは先住民族である」という判決文が盛り込まれていた。
▲我々の今回の裁判は先住権の具体化を求める裁判である。貝澤さんの二風谷ダム裁判の延長上のものである。(2022.8.10)

歴史的にも、文化的にも、アイヌは先住民族であると、少なくとも北海道における先住民族であると。 裁判所としては最大の努力を払ったことと思います。そして、ダムを造るにあたって、その地域の調査を怠った。 その地域に住んでいる人々の文化などを一切無視して建設を着工してしまった。だから、 このダムは違法である。
かつてのチノミシリ ペウレプウッカ(熊の姿)のチノミシリ
「あるダムの履歴書 6」(拡大)


裁判記録 482p
 三つのチノミシリ
Aの場所 
ここでうち切ってくれればよかったんですけど、 ただしこの完成し運用しているこのダムを今から取り壊すというのは、 公的損失が大きすぎるということで存続を認めるという判決でした。

例えば選挙でいえば、違法行為があっても選挙のやり直しはしなくてよいというのがありますが、 それと同じやり方なのです。この判決の場合、実質的には国が勝ったことになります。ダムは残していいというのですから。 おまけに判決文そのものには「原告の訴えを棄却する」となっている。「却下する」というのでないだけよかったですけど。
 いろんな人に言われました。「あれだけの判決がでたなら、アイヌ民族としての損害賠償を求めなさいよ。上告しなさいよ。 今までの歴史的な償いを国からもらいなさいよ。」と言われました。でも、私たちはそれはやりませんでした。つまり、控訴しませんでした。 それはなぜかというと、今までの例からいうと、上にいけばいくほど、国寄りの判決になってしまう。私たちの希望の90%以上認めてくれた、 その判決を覆したくない。このまま確定してくれれば、それが残りますからね。そこで控訴しなかったわけです。
▲この時のやり残したことをやるのが「アイヌモシリ回復」。「歴史的な償い」を求める裁判。 (2022.8.11)

当時議員だった萱野さんの情報によると、この判決に不服があった国の方が、むしろ控訴したかったそうです。 つまり先住民族として認めてしまったことに対して、法務省が控訴したかったそうです。ですが勝った裁判に対して控訴するなんておかしな話ですし、 控訴を取りやめたため、この判決が確定しました。
▼原告のこの心情は国立裁判の江見決定に似ている。(2021.2.8)

 この裁判の判決文の中に、
私が一番好きな言葉があったのです。それは「自分の受け継ぐ文化を、誰をも侵すことはできない」 という文でした。
これは、すばらしいなあと思いました。これはどういうことかというと、自分が受け継ぐ文化に対して誰も笑ったり阻害できないのだよ、 そうしてはいけないのだよ、という意味なんです。一番近いものに例えれば、家のみそ汁の味と隣の家のみそ汁の味は違いますよね、 全く同じということありえないでしょ?でもその違うみそ汁の味は、その家の「文化」なんです。お爺ちゃん、お婆ちゃんの代からずっと 伝わってきた文化なのです。その家庭の生活のサイクルだってそうです。生活のサイクルは家々によって違うはずです。 勤めであれ自営であれ、それぞれの生活はその家の文化なんです。  私は文化というものは、ひとつに固定されたものでなくて、生活の中で息づいていって変わっていく、 それが文化だと思います。ただし、それを誰も妨げたりしてはいけないということ。憲法13条から引用した判決文らしいのですが。
 私はその言葉が、とても好きであったし、またそれがアイヌ民族が第一に望んでいたことです。
▲明治政府の同化政策。文化の否定。謝罪の対象になる。(2022.8.10)

それは私たちの文化を認めて下さい、皆さんと違ったものを認めて下さい、違って当たり前ではないですか...そういうことなんです。ですから今の日本で一番不思議に思うのは「方言を笑う」ということです。方言というのは、その土地独特の気候、風土、生活から生まれた言葉でしょ?その土地に生まれた人々が、長年築いてきたことばでしょ?どうして、笑うのですか?どうしてそれがいけないのだろう。日本の国には方言たくさんあります。北海道から沖縄まで約2000?Hあり、常に温度差20度以上あるこの日本。それだけの温度差、気候の違いのある日本で、言葉を一緒にして、生活文化を一緒にして...それは無理な話でしょう。それがこの判決文のなかに盛り込まれていたということなのです。だからすごく嬉しかったのです。   自分の生まれ育った所を誇りに持てるというのは、嬉しかったんですよね。それが判決文の中で述べられ、みんながその内容を理解したとき、「日本が単一民族国家だ」という発言はでてこないでしょう。そして方言を使った人を笑うということもなくなるでしょう。共通語は必要かもしれませんが。  アイヌ民族が民族としての言葉をもっている、それを奪われた私たちが言うのですよ。 皆さんの地区それぞれの方言や、生活がなくなってしまってからでは遅いのです。 みんなが助け合って築いていくそうでなければ、本当に楽しい社会なんて生まれないのではないかと思いますよ。
 ダムができて3年たつのかな。ダムができてどういう影響がでるのかなと思ってみていますと、 あれはもともと工業用水を目的としていたはずなのですが、いつの間にか洪水予防、 発電のためという名目にすり替わっています。確かに、雨がふればある程度の水を止める力はあります。
一日3000キロワットの発電、1000戸分の電気量。800億円かけて、1000戸分の電気ですよ。お宝級です。
▲800億円(公式には700億円と言われている)。平取ダムは1300億円。約2倍。地代250億円の参考になる。 一つの大事な金額。(2022.8.11)

 ダムの水がどれくらい浄化されるのか見ていたのですが。北海道は冬になると土が凍って、絶対水なんか汚れることはない。だから冬の間は水はとてもきれいなのです。雪解けが始まると、水は汚れだします。雪解けでなぜ水が汚れるかというと、寒さで土が凍ると土の中の水分が膨張します。つまり土を持ち上げる、霜柱を思い出して頂ければいいかと思います。それで持ち上げられた細かい土が、水にとけてさらさらと流れ出す。  今年は4月の25日から濁り始めて、終わったのは6月21日だったかな。なぜ私はこのように見ていたかというと、 ダムができる以前は5月中頃には、川の水がきれいになっていたからなのです。しかし今は1ヶ月近くも長くかかっている。 それはなぜかというと、ダムで水がせき止められています。雪解け水でダムに濁った水が流れ込みます。 いくらきれいな水が流れ込んだとしても、ダム底にあるのは汚れた水なんですね。少しでも雨でもふればダム内の水は濁ってしまい、 いつまでもダムから下流にきれいな水がいかなくなってしまう。そのためにダムができてからは、水がきれいになりにくくなった。
 もうひとつは、沙流川は私たちの言葉でいえばシシリムカ
(雨が降るたびに上流から土砂が流出し河口が門別の方へ寄ったり鵡川の方へ寄ったりした。 それを河口がつまるとアイヌは考えてあたりがつまる川 と名づけた。―萱野茂アイヌ語辞典)なんですが、

誰がつけたか知りませんが、 読んで字のごとく砂の流れる川。それだけ上流から土砂が流れる場所なのです。 上流から落ち葉などの土砂が堆積します。その中では微生物が生まれます。その微生物が生きるには酸素が必要なのです。 その酸素は水に含まれているものを使いながら彼らは生きている。ダムにたまった水というのは、酸欠状態になっているわけです。 酸欠状態になった水が下流に流れていく。ダムでは上部の水が、下流に流れることはないのです。 水圧によって、必ず下部の水が上へ押し上げられてダムを落ちていく。 ダムができたために、ダムの下流では常に摂氏7度から8度くらいの水しか落ちていかなくなった。 そして冬は、外気より温かくなってしまったために水が凍らなくなった。逆に夏は、水が冷たくなったおかげで、 農業には非常に不利な状態になりました。ただ減反政策によって、米を作る人が減りましたから、あまり文句を言う人がいないというだけです。 ダムができても、いいことはないなと感じます。
 さらに重要なことは、村の7割以上がアイヌ民族であるということで禁止されてもささやかに受け継いできた私たちの文化は、 ほんの100年前までは森で生活していた人々の文化だったわけです。だから、森、川、地形などが変わってしまったら、 受け継ぐことが困難な文化なのです。私たちの村の地形を変えられたら、私たちの文化を伝えることを禁止されたことになってしまう。
二風谷という、もとの地形が必要なのです。
▲国有林のアイヌモシリ化で実現していきたい。(2022.8.11)

それが壊されてしまった。 判決文の中でも「日本政府は速やかにこの事態に対処しなければならない」とあるものの、 判決から3年たってもなんの対応策もありません。でも日本政府だって、人間の心があります。 この判決文を無視した行動をとらないということを信じています。いつの日になるかは、わからないですけど。
▲だから「アイヌモシリ回復」訴訟なのです。(2022.8.11)

写真はチプサンケに使われる舟
  私はあのダムを「5日ダム」と呼んでいます。萱野茂さんが、毎年8月20日に行っていたチプサンケという川の船の行事をやろうと言いました。 アイヌ民族にとって川は食料源でもあり交通機関でもありました。このお祭りは船の進水式のようなものです。 木をくりぬいた船、今は博物館に飾られている船を水におろしましょうということになった。ダムに水がたまった年、 せめて最後のチプサンケを、ということでダムの水を抜いてもらいました。 洪水調整という二風谷ダム....ダムの水を抜くのにたった4日しか、
ダム決壊の恐れ
2003年8月10日午前1時54分



「あるダムの履歴書 7」(拡大)

8月10日のダムへの流木 流域の自然を考えるネットワーク(拡大)
かからなかった。満水状態で、下流に影響を与えずに水を抜くのにたった4日。チプサンケが終わって、水を溜めるのにたった3日。 まぁ、4日ダムっていったらあまりに可哀想なので、5日ダムと呼んでいるのです。それだけ洪水調整能力がないダムだということです。

二風谷ダム水門の構図 (拡大)
もうひとつ、普通ダムというのはコンクリートを積み上げて上から水を流しますね。二風谷ダムは7つの水門があり、 その水門の扉を上から落として閉めなければ水が溜まりません。つまり、水門を開ければ元の川に戻ってしまうのです。  だから、この7つの水門をあげて、このダムを保存してほしい。そして大雨が降って、洪水が起こりそうになったら、 門を閉めて洪水調整してほしい。そしてこの二風谷ダムを「負の遺産」として、開発事業やアイヌ民族への歴史的事実に対する負の遺産として、 保存してほしいと願います。
▼ここまで知りませんでした。そうなると訴訟では普段は水門を上げる、という請求になりそう。大発見。 貝澤さんとよく話して請求内容を詰めること。(2021.2.8) 

 私は農業を営んでいますが、不思議に思うのは、例えば輸入物のグリーンアスパラの場合、 少なくとも収穫するのに1日かかります。そして飛行機に乗せるのまでに2日。食物検査で3日かかります。 そして市場に出て店頭に並ぶのに1日。つまり一週間かかるわけです。 それが、どうしてあんなにみずみずしく、おいしそうに店頭に並んでいるのか。 私もグリーンアスパラをつくり、消費者に直に発送しています。つい先日収穫が終わったところです。 グリーンアスパラは朝採って、昼頃になるとしなっと柔らかくなるんですね。 そんな敏感なグリーンアスパラ。店頭ではどうしてあんなに瑞々しいままなのか。 いったい郵送中(輸送中)に何を使われているのか、何を振りかけああいった状態を保っているのか....。 よく考えていただきたいと思います。外国から輸入した飼料を食べている家畜には身体的な異常が多く発生しています。 それは、恐らく大量の農薬やホルモン剤が使用されているからでしょう。動物だからいいというものでもありません。 人間もこれを自らの問題として考えなくてはいけません。本来の生き方を自分たちが守っていかなくてはいけないのです。
 アイヌの精神文化は、まわりに存在するもの全てが神です。動物だからといって、人間より下ではないのです。人間と対等です。 人間と同じように地球上に存在するもの全てが大切なんです。そうあってほしいなと思います。
(1999年7月10日)
▼大変、大変、勉強になりました。この講演記録に出会えて本当によかった。(2021.2.8)

石井ポンペさん https://lifemagazine.yahoo.co.jp/articles/26225
1945年、北海道勇払郡穂別町生まれ。 サッポロピリカコタン(札幌市アイヌ文化交流センター)元職員。 北海道アイヌ協会札幌支部長、支部役員を歴任。ムックリ、トンコリの演奏、木工などのアイヌ民族の文化の担い手で、 1992年にサハリンを訪問し、サハリンアイヌ、北方諸民族とも交流している。



asahi.com https://www.asahi.com/articles/ASM614HK6M61IIPE008.html
アイヌ施策推進法に抗議 道内のアイヌ民族男性 芳垣文子2019年6月2日 7時33分

アイヌ民族を「先住民族」と明記し、アイヌ施策を国や自治体の責務と定めた「アイヌ施策推進法」が(2019年)5月に施行された。 この法律に反対するアイヌ民族の男性が(6月)1日、札幌市中央区の大通公園などで抗議活動を行った。
街頭に立ったのは、札幌市の石井ポンペさん(74)と紋別市の畠山敏さん(77)。 「新しい法律に期待していたが、求めてきた(先住民族固有の)先住権や自決権が盛り込まれていない」 「昔奪われた資源などを返してほしい」などと訴え、支援者とともにチラシを配った。
アイヌ施策推進法は、土地や資源などについての先住民族固有の権利については触れておらず、アイヌ民族の人々の間でも評価が分かれている。(芳垣文子)
▼今朝、ポンペさんを追いました。lifemagazine.yahooとasahi.comに出会いました。両方ともいい記事でした。 ポンペさん、畠山さん、お二方に原告をお願いしたいとおもっていたので、ちょうどいい記事に出会いました。特にasahi.comに感謝です。 (2021.2.16)

秋辺得平さん
小玉貞良のアイヌ絵に描かれたイタオマチプ。交易品としての毛皮や干し鮭が満載されている。 これは絵としてデフォルメされた姿であり、実際の船体は人よりはるかに大型である。(拡大)
1943年、千島ウルプ島生まれ。アイヌの人権問題に広くかかわるとともに、 文化継承にも力を入れ、釧路アイヌ民芸企業組合をベースに精力的に活動を続ける。
1989年、ねじも釘も使わない15人乗りのアイヌの海洋船「イタオマチプ」を180年ぶりに 復元・進水を担った国内唯一の存在。船体の大きさは200石積みの和船と同じくらい(約20トン)となる。 2005年、日本国際博覧会(愛・地球博)地球市民村「先住民族の文化館」を出展、2008年夏にスペイン・サラゴザ国際博覧会に出演する予定、 国内外でアイヌ文化が人間と自然が共生するものとして理解されつつある。

アト゜イさん https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%82%9C%E3%82%A4
アベ カムイ
火の神よ
パセ カムイ
重き位の神よ
カムイ ウタリ
神々の仲間よ
アイヌの同胞 そしてシサムの生活を よくよく お見守り下さいますよう 真心込めて 礼拝いたします
▲アイヌとシサムの共存の思想。(2023.2.15)
(Atuy、本名:豊岡征則(とよおか まさのり)、1945年11月18日生まれ )
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1980年に釧路支庁弟子屈町でドライブイン「丸木舟」を開業。
1981年、「アイヌ詞曲舞踊団モシリ」を設立し、作詞・作曲を手がける。
1982年、アイヌ語研究家・片山龍峯とともに北海道アイヌ協会の有力者・椎久堅市、小川佐助、森久吉、 文字常太郎にインタビューを申し込み、その会談記録を北海道ウタリ協会が出版した『アイヌ史 資料編3』に収録した。
それによると、1947年の春に4名はGHQ第九軍団司令部に呼び出され、ジョセフ・スウィング少将と会い、アイヌ民族に日本から独立する意志があるかを打診されたという。椎久たちは独立する意志はなく「日本国民として祖国の再建に尽くす」旨を答え、少将は独立運動など起こさず日本人と対立しないよう釘をさした。 この「終戦秘話」といってもよい事実は、40年もたった1989年1月13日付『朝日新聞』に掲載されている[7]。

カントコロカムイ 2016.11.25札幌ライブプログラムより
縄文人は大自然を畏れ、敬い、神だと信じた。一万年平和に暮した。 共生と循環の縄文思想と近代文明が融合したならば人類を救済する扉が開く。
▲この四つの歌に縄文思想とアトイさんの哲学が簡潔に表現されているように思う。(拡大)
イレスサポ アイヌ民族は考える日本人とともに/日本人は考えるアイヌ民族とともに/互いに育て合い自らを育てよう/ 天空界から人間の身の上を/さらにまた虫や動物たちの身の上に/何の禍も何の悪さも降りかかりませんように/ 諸々の神々よよろしくお見守りくださいますようお願い申し上げます(拡大)
▲こころ優しいアトイさん。(2023.3.11)
アトイのユカラ 縄文人は戦争しない/平和な時代一万年/縄文思想は命の循環だ/縄文文化は世界の遺産
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ペウタンケ 人間も地球に存在してほしいと思われる生き方を(拡大)
『俺は魂をデザインする』
21世紀の地球とつき合う哲学を構築できればと願う。(75p) 1987年釧路湿原国立公園指定。生態系重視。近代がアイヌ文化に近づいてきたことを実感し、とてもうれしかった。 (106p)
▲近代の超え方の実例。(2023.3.12)

CDレクイエム20世紀(拡大)

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芸術は生活の根
2023.4.13朝日朝刊
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2023.9.9第24回 絶滅種「鎮魂祭」
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2023.9.9 絶滅種「鎮魂祭」 
屈斜路湖 湖畔の森で(拡大)
20世紀 人間は大自然や人間とのふれあいを忘れ…森や空を破壊…そのことにより絶滅したたくさんの生きものたちはいまはもう 神の国へ旅立ったのです
21世紀 人間は生きとし生ける生命あるものが互いに育て合い大自然とともに生きる魂を手元に引き寄せてほしいのです(2023.3.24掲載)
▲2023.9.9絶滅種「鎮魂祭」に参列。1999年2月、CDレクイエム20世紀がリリース。翌2000年から「鎮魂祭」実施。 ことし2023年は24回目。CDの世界が現実のものとして実践されている。すごいこと。全国、全世界に発信したい。 基本は昨日アトイさんの了解を得る。(2023.9.12)
1995年(平成7年)4月14日、NHK教育テレビで「マイライフ 自然とともに人間らしく〜アイヌ文化継承者 豊岡征則」放映。
▲NHK教育テレビの先例がある。(2023.9.12)「心の時代」2002.3.24も

釧路湿原 (拡大)

釧路湿原の形成
阿寒国立公園133p
阿寒国立公園地図

▼アイヌ民族には才能豊かな人が多い。「終戦秘話」は考えさせられる。80年代から空気が変わってきた。 先住民族の尊厳へと。(2021.2.17)

▲ユポさんの紹介で2023.2.14 Atuyさんと20分電話で話す。政治と芸術の両輪で運動を進めることで意気投合。 (2023.2.15)
▲アトイさんの「縄文」をライブ公演プログラムで学ぶ。MIP回復運動の思想的支柱となる思想。 (2023.3.10)
絶滅種への鎮魂 『俺は魂をデザインする』306p〜307p(拡大)
▲「レクイエム20世紀」の根源にある思想。すばらしい。(2023.4.2)
アイヌ式土器
『俺は魂をデザインする』187p(拡大)
アイヌ式土器とアイヌ文様

日本列島の土器出現の特質
小林 謙一/中央大学文学部准教授 専門分野 日本考古学

日本列島での歴史のみならず、人類史的な発展段階についても、その環境への適応や技術的手段としての土器の発明は、重大事件であった。
その後の文化に直接続かなかった中国南部やアムール川流域と異なり、日本列島では、出現期の土器から縄文時代草創期以降の土器文化が継続し、 土器を契機として定住化や弓矢が出現し(3)、現代に続く日本の基層をなす縄文文化となった。 日本列島の豊かな自然環境に適応した縄文文化は、世界史的にも珍しい本格的な農耕を長く採用しなかった先史文化である。

次第に原初的な農耕段階へ進みつつも採集狩猟を中心に自然と共存し、戦争などの社会的ストレスも少ない安定した社会をもたらし、 交易などのネットワークを持ちつつ関東・東北・中部・西日本など地域ごとの 土器文化を発達させた。縄文文化は日本列島に暮らす人々の歴史的特色の背景となっており、その端緒となった土器出現は歴史の一大画期と いえるのである。
▲あれ?北海道が入っていない。(2023.3.12)
釧路川 https://www.hkd.mlit.go.jp/ky/kn/kawa_kei/ud49g70000001dzp.html
釧路川は、阿寒国立公園内の屈斜路湖から流れ出し、弟子屈原野を流れ、標茶町において釧路原野に入ります。 その後、オソベツ川、久著呂川等を合わせ、岩保木において新釧路川となり、釧路市で太平洋に注いでいます。 急流の多い日本の川にあって、上下流の標高差が120m程度しかないおだやかな川です。  中下流部に広がる釧路湿原は、面積17,570haの日本最大の低層湿原です。特別天然記念物に指定されたタンチョウをはじめとする 貴重な動植物の生息地、渡り鳥の飛来地として有名で、ラムサール条約による国際的保護が図られるとともに、 昭和62年には国立公園にも指定されました。  流域には、釧路湿原の他にも阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖などがあり、豊かな自然に恵まれています。

砂澤ビッキーさん
https://drive.google.com/file/d/1Yyo35XObvlHvgCkOGLh17h0ACRd5hVP1/view?usp=share_link
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砂澤ビッキ展 北海道近代美術館
砂澤ビッキー
モニュメント
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砂澤ビッキ(1931〜1989)。旭川に生まれ、阿寒、鎌倉、札幌で澁澤龍彦や五十嵐広三などの文化人らと交流し、 独学ながら彫刻や絵画に自己表現の道を見出した異色の造形家です。 1978年から、大自然に抱かれた音威子府(おといねっぷ)の旧小学校をアトリエ兼住居として、巨木と向き合い制作の幅を広げ、 83年には、カナダのブリティッシュ・コロンビア州に3ヶ月滞在し、当地の木材を使って抽象表現を深化させました。 86年の野外彫刻《四つの風》をはじめとして、モニュメンタルな大作を展開するも89年、57歳で急逝。 蠢動するようなエネルギーをはらむ旺盛かつ膨大な作品群は、彫刻、工芸、絵画、書などそれぞれの分野で、 ビッキならではの表現世界を構築し、今なお異彩を放っています。

▲「アイヌMIP回復運動」を展開するために(2022.11.13)
関根摩耶さん (拡大)
アイヌ語の車内バス (拡大)
宇梶静江さん集まる場所 (拡大)
山丸郁夫さん
民族博物館(拡大)
本間詩穂さん (拡大)
結城幸司さん (拡大)






エテケカンパの会
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木村マサエさん (拡大)
酒井学さん (拡大)
エテケカンパの会 https://www.youtube.com/watch?v=UtIka32ehrI&t=183s
木村マサヱさん https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01064/
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木枯し紋次郎
▼編集委員・小泉信一さんのシリーズ。基礎的なアイヌ民族の知識を日本社会に啓蒙するにはすばらしい。(2021.3.6)
2021.1.12朝日夕刊(拡大)
2021.1.13朝日夕刊(拡大)
2021.1.14朝日夕刊(拡大)
2021.1.15朝日夕刊(拡大)













2021.2.1朝日朝刊 小泉信一さん(拡大)
2021.7.21朝日夕刊 木枯し紋次郎(拡大)
▼右「木枯し紋次郎」の記事。小泉信一さん。この人のこころはアイヌの人たちへの思いに通ずる。(2021.7.29)


シャクシャイン像
▼2021.1.12朝日夕刊の新しいシャクシャイン像に違和感を抱いていました。
この度、研修旅行でシャクシャイン像を現地で見て、元の像への 復刻運動があることを知りました。(2021.4.10)

シャクシャイン像碑文 https://www.kitakaido.com/douow/tavi-02.html

新シャクシャイン像 (拡大)2022.4.6撮影
木村プロジェクトhttps://fine.ap.teacup.com/makiri/271.html
▼復刻への協賛のことば。
平取アイヌ協会副会長木村二三夫
「英傑シャクシャイン。私達アイヌ民族の、心の拠り所であり、アイヌの誰もが認める、ニ シ パ(人徳のある人)。
(拡大)平田剛士さん
シャクシャイン像が、政府に千切れんばかりにシッポを振る、心無い者たちの詭弁により、像の撤去という憂き目に会い、屈辱的な日々を送るも、 アイヌ ネノアン アイヌ(アイヌらしいアイヌ)メナスンクル(静内アイヌ達)のペウタンケ(危急の叫び)、辛抱強いチャランケ(話し合い)にて、 再び蘇る。
わが同胞の偉大な英傑シャクシャインよ、いつまでも毅然とした勇姿にてアイヌモシリ  私達の同胞 を見守り、永久に在らんことを。」
▼木村さんの想いに感動しました。私の心は木村さんと同じです。(2021.4.20)
▲静内のとある丘に新しいシャクシャイン像が完成していました。生粋のアイヌの木村さんに顔が似ていました。 (2022.4.10)

平田剛士さん https://blogos.com/article/94108/
週刊金曜日編集部2014年09月09日 10:13「アイヌ」めぐり札幌市議が暴論――「先住権」課題か - 平田剛士
日本政府がアイヌを先住民族と認めたのは08年だが、先住権をめぐる課題は先送りし続けている。差別構造を残し、「アイヌとは誰か」を明確化できない社会のままでは、同様の“暴論者”を生む素地はなお残る。 (平田剛士・フリーランス記者、8月29日号)

北海道大学札幌キャンパス内のアイヌのコタン
北海道大学札幌キャンパスについて。
北大校内のサクシ琴似川 (拡大)
北大札幌キャンパス (拡大)
北大札幌キャンパスのみで約1.8平方キロメートル(1周7キロメートル)の広さです。
▼下の講演録「琴似又市と幕末・維新期のアイヌ社会」をまず読みました。
(拡大)
講演録「琴似又市と幕末・
維新期のアイヌ社会」

▼北海道大学札幌キャンパス内アイヌのコタン探しはこの谷本論文から出発しました。(2021.5.10)
講演「琴似又市と幕末・維新期のアイヌ社会」2002.8.8(谷本晃久) https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1414.pdf
▼谷本さん自身が後の2018年の論文で「琴似又市氏の事跡に関する叙述ついては、谷本(2003)に書誌情報を記した。」と書いておられるように琴似又市さん のことは基本的に2003年の論文でほぼ尽くされています。(2021.5.16)

▼次に「サクシュ琴似川の再生について」のHPを見つけました。 北大校内の琴似川 上の地図2枚です。

▼4/25ユポさんから「小川早苗さんの文書」がファクスで届きました。

小川早苗さん
ウィキペディアで小川早苗さんを調べました。意外なことがわかりました。
:小川 隆吉(おがわ りゅうきち、1935年 - )は、北海道(アイヌモシリ)浦河町生まれのアイヌ民族運動家。 アイヌ民族共有財産裁判原告団長、アイヌ民族文化伝承の会会長、北海道教育大学非常勤講師。妻はアイヌ文様刺繍家の小川早苗。

▼「小川早苗さんの文書」を読みました。判じ物でした。読み取りが難しかったです。
「豊川重雄さんが悔しがって語りました。『私たちの祖先はあすこに住んでいたんだ。』 何度も何度も訴えられました。偕楽園のほうを指差して涙をぬぐう。」(瀧澤先生談)
「北海道大学の中を流れるサクシコトニ川には図書館の角に鮭捕獲場があり…」(谷本先生談)
「琴似叉市は偕楽園で暮していた札幌市の最後の原住民のひとり」(山田秀三著から)
▼豊川重雄さん、偕楽園、図書館の角の確認作業にはいりました。

たまたま次のHPに出会いました。

生振地区の碑と開拓の歴史を訪ねて(場所請負人村山家子孫の村山耀一さん) http://www.ishikari-c-college.com/topics/2019/07/5-25.html
「生振(おやふる)は、豊川アンノランという琴似アイヌの一族が移住してきたことから始まる。 明治4年(1871)に生振村として形成された」
▼豊川重雄さんのご先祖に豊川アンノランという立派な方がおられたことがわかりました。

生振(おやふる) (拡大)
清華亭(拡大) 北7条西7〜8丁目
偕楽園公園 (拡大)

▼「小川早苗さんの文書」から少なくとも清華亭公園の偕楽園のあたりにアイヌのコタンがあり、 北大校内のサクシュ琴似川は鮭の捕獲場としてコタンの生活圏であることまで明らかになりました。(2021.4.26)



サクシュ琴似川→セロンベツ川
(拡大)
上の地図は『北海道大学もうひとつのキャンパスマップ』からです。 赤い番号3はコトニ・コタン跡。ユポさんの大部の資料を全部読んで結論が ここにたどり着きました。石山通と北8条通の交差点付近の北大構内です。琴似又市さんは間違いなくここに住んで居られと思いました。(2021.5.10)
私の電子書籍
琴似家の墓(拡大) 2021.4.11撮影
吉田先生と八橋さん
▼八橋幸子さんは琴似家のご子孫でお墓は旭川にある。吉田先生から教わりました。ところで豊川重雄さんは琴似家のご親戚?(2021.4.29)
▼豊川重雄さんは琴似家のご親戚でないことがユポさんの資料(後出 家系図)で判明(2021.5.3)

▼先の4/25の「小川早苗さん文書」の元になった資料が5/1ユポさんから送られてきました。大部のコピー。

●『北海道大学もうひとつのキャンパスマップ  隠された風景を見る、消された声を聞く』など。 (2021.5.1)
▼この本は北大有志の方々による極めて良心的な自省的な内容の本です。電子書籍の2冊目として購入しました。 この本のNO.5/211に上記の地図があります。地図の3番にコトニ・コタン跡として北大構内のこの場所にコトニ・コタンがかつてあったと標示されています。 私としては北大当局の誠実な対応を求めたいとの思いです。
まったくの余談ですが電子書籍の1冊目は Mikhail Gorbachev - Essential Thoughts: Learning from the man who changed the world (English Edition) でした。(2021.5.17)

「琴似又市所有地」の地理的布置再考 2018.3(谷本晃久)
「又市の居住地を具体的に示す文書がある。明治 11 年 1 月の文書で、開拓使勧業課農事係 による農事試験場(「種植地」)整備に際し「旧土人琴似又市所有地」の処分を検討した内容 となっている。 開拓使はまがりなりにも、法的にその地を「旧土人」たる又市の「所有地」と認め、その「処分」に際し所有 者たる又市の意志を徴せざるを得なかったからである。」(論文98p)
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/70078/1/11_06_tanimoto.pdf
▼この谷本論文は又市さんの居所の特定と法的エビデンスに近いものまで迫ってくださっていると思います。(2021.5.17)
※印刷時24個の「空欄 br」を入れること。

▼5/1から読み進め、様相が一変しました。今日、10日間の読み取りをまとめています。(2021.5.10)

コトニ・コタンの位置(拡大)
「コトニ・コタンは現在の北大構内に所在していた可能性が高い」
「コトニ・コタンと琴似又市氏」谷本晃久
(CM26p)
豊川家の家系図(拡大)
豊川重雄さんは
豊川アイノランさんのご子息
『19世紀後半の…アイヌ民族』(加藤好男)
琴似家の家系図(拡大)
八橋幸子さんは琴似又市さんの曾孫
『19世紀後半のサッポロ・イシカリのアイヌ民族』
(加藤好男)
アイヌ遺骨のふるさと(拡大) 『もうひとつのキャンパスマップ』
(CM14p)












札幌付近略図1(拡大) 札幌岳から石狩川に注ぐ川筋。東から伏籠川、琴似川、発寒川(CM25p)
札幌市内の川筋1(拡大) (CM24p)
知事公邸 昔の池(拡大) 北1条通り 森源三邸 現在の知事公邸(セロンベツ川源流?) 明治32年
知事公邸の森(拡大) 北1条西16丁目
知事公邸(拡大)











「これらの川筋は、江戸時代にはアイヌの人々の生活の場であった。明治のはじめには、流域を束ねるアイヌ首長の家があり、 茨戸には茨戸氏、伏籠川筋には古川氏、発寒川筋には発寒氏、そして琴似川筋には琴似氏が拠点を構えていた。」

▼「琴似又市さんの所有地」のまとめ(2021.5.10)
●谷本晃久論文「北方人文研究」(2018年第11号)
「琴似又市所有地」の地理的布置再考。(102p) 「第五十六番地」は、偕楽園西方のセロンベツ川筋にあったとする山田説に、改めてより妥当性があるような印象が深い。

「札幌のアイヌ地名を尋ねて」上48p下55p(拡大) コトニ本流へ合流するマロンベツ川の近くに話題の3戸のアイヌコタンがあります
知事公邸のキムクシメムから流れ出た川が北上してコトニ本流に入ります。 道庁、北大農学部、セロンベツ川(=マロンベツ川)の位置を確認してください。上の地図と合わせると3戸のアイヌコタンが 北大構内にあったことが確認できます。
●山田秀三著「札幌のアイヌ地名を尋ねて」(1965年7月10日発行)
札幌市中央図書館から「札幌のアイヌ地名を尋ねて」を借りました。
山田秀三さん
知里真志保著 附録 山田秀三(拡大)
萱野茂のアイヌ語辞典
コトニ・コタン:地図から推すと植物園の北、北大農学部本館西裏、農園の端のあたり。(58p)
▼山田秀三さんは明治32年(1899)生まれ、知里真志保さんと親友。知里真志保さんの「地名アイヌ語小辞典」は学問的にすごいとおもいます。この 「小辞典」がアイヌ語の骨格で、萱野茂さんの「アイヌ語辞典」は肉付けだと感じました。(2021.5.15)
石狩市民図書館より調布市図書館経由で借りる
(拡大)
●加藤好男著『19世紀後半のサッポロ・イシカリのアイヌ民族』(113頁)の出版記念シンポジウム資料「補論」(1枚のプリント)
「コタンは偕楽園内ではなく、琴似村に位置づいていた。コタンの人々の戸籍がそれぞれ琴似村56,57,58番地となっていることがそれを証明 している。コタンは偕楽園の西方、セロンベツ川に近い所ににあった。 現代の地図でいうと、北区北7条〜8条西9丁目〜10丁目の範囲に位置づくと言えるだろう。」(2017.8.24)

北8条西9丁目(拡大) 北大農学部・コトニコタン・清華亭 緑地の部分上から
北大農学部・線路を越えて大学植物園・左下知事公邸
●谷本晃久 近世 院ゼミレジメ(2008.5.27)
▼年表を参照。
「琴似又市56番地」は明治8年〜明治13年まで確認できる。
明治11年5月偕楽園の一部13万3千坪(43ha)「札幌育種場」の計画。
明治15年「札幌郡篠路村番外地琴似亦一郎」。

Wikipedia:網走刑務所の「番外地」という呼び名も本来の所在地が「網走市字三眺官有無番地」であったものが 「刑務所=娑婆と切り離された別世界」というイメージで、そこに手紙を出す受刑者の家族などによって作られたものと考えられる。

▼以上を考え合わせると「琴似又市56番地」は当初考えていた北7条西7〜8丁目の清華亭公園付近ではなく 「現代の地図でいうと、北区北7条〜8条西9丁目〜10丁目の範囲」(加藤) つまり北大農学部南西方面の北8条通りと石山通りの交差する角(かど)(北7条西7〜8丁目→北7条〜 8条西9〜10丁目は距離にすると300メートルほど西北)にあり、 「札幌育種場」の計画で、明治15年までに琴似又市さんは「札幌郡篠路村番外地」に移転されたと合理的に推測できる。 航空写真を見ますと北8条通りの南に清華亭があり、「琴似又市56番地」は北8条通りの北の北大構内ということです。 研究者の探求に頭が下がります。

(拡大) 石狩場所絵図
加藤好男著「サッポロ・イシカリのアイヌ民族」28p

石狩川の河口は1本、2本の川ではなく全くの沼地であったことをイメージすることが大事ですね。 今日はじめて知りました。(2021.5.13)

松浦図(拡大)
札幌市中央図書館から「札幌のアイヌ地名を尋ねて」を借りました。 上記の地図が83pにありました。松浦武四郎さんのスケッチです。 (2021.5.25)

改修前の石狩川
石狩川漁場図(拡大)
▼この漁場図を見てどこで誰が漁をできるかがきっちり決められていたことを知りました。 土人持が2箇所あります。
「札幌のアイヌ地名を尋ねて」104p(2021.5.31)
(拡大) 明治23年以降
加藤好男著「石狩アイヌ史資料集」124p

カマヤウシのツイピリに明治22年頃移住するが湿地帯で農業に適しない土地、多くが旭川に移住。 旭川を調べると手がかりがあるかも。少なくとも藤戸さん、能登さん、鹿川さん。(2021.5.21)


カマヤウシ(拡大)
釜矢臼(カマヤウシ)が石狩川の近くにあります。地図で明らかなように豊平川、伏篭川、創成川、琴似川、発寒川、すべてが 石狩川に流れ込みます。辺りは沼地帯です。
石狩川筋で鮭漁
古くから石狩川筋で鮭漁を生業としていたのは先住民族のアイヌである。
松前藩の石狩場所設定による商場知行制とは、 松前藩家臣が年に一度石狩を訪れ、地元のアイヌとの干鮭をはじめとする物品の交易を行ったことであった。
商人が藩士に代わり経営する場所請負制では次第にアイヌを使役して鮭漁を行うようになり、 いわゆる石狩十三場所経営時には石狩アイヌはじめ各地のアイヌが出稼ぎに訪れた。
鮭漁期後は結氷前に各コタンに帰り、川筋には石狩アイヌだけが残った。
また、幕末の石狩改革において村山家一括請負が廃止され入札制度に改められたとき、 石狩川筋にはアイヌの人たちの綱引場が7カ所、48カ統(?)定められた。
明治時代に入り多くの和人が定住し、漁業経営に就いたが、石狩アイヌも自ら経営主として積極的に漁業活動を行った。 現在の茨戸川(旧石狩川)両岸にはたくさんの鮭漁場が設定されていたのである。

佐藤利信さんの卒論より
(1 石=200 貫=約 760kg=ニシン約 3000 尾)
(シャクシャインの争乱(1669)後、アイヌ人側に勢力者が現れるのを恐れた松前藩はアイヌ人の鉄製利器の使用 を禁止した。)
(建網漁の基本単位である「1 ヶ統」の人数は約 30人で構成され、厳密な職階制により経営者である親方の指示を受けた大船頭の指示に従う。)

▼この間、目を通した文書。
山田秀三著「札幌のアイヌ地名を尋ねて」(昭和40年(1965)7月10日発行 楡書房)
山田秀三著「アイヌ語地名を歩く」(昭和61年(1986)6月25日発行 北海道新聞社)
加藤好男著「石狩アイヌ資料集」(1991年1月27日発行 加藤好男)
加藤好男著「19世紀後半のサッポロ・イシカリのアイヌ民族」(2017年8月1日発行 サッポロ堂書店)
加藤好男 資料「19世紀後半のサッポロ・イシカリのアイヌ民族」に於けるサクシュコトニのコタンの位置についての補論(2017年8月24日)
関秀志著「札幌の地名がわかる本」(2018年11月16日発行株式会社亜璃西社(ありすしゃ))
北大ACMプロジェクト編「北海道大学もうひとつのキャンパスマップ」(2019年6月20日有限会社 寿郎社)
河野常吉編「アイヌ聞取書」(昭和59年(1984)10月30日アイヌ史資料集第7巻 北海道出版企画センター)
藤村久和「札幌で話されていたアイヌ語の行方」(昭和58年(1983)2月第4号「新札幌市史」機関紙「札幌の歴史」)
堀三義「北役日誌」(明治8年)上・中(昭和60年(1985)2月第8号、8月第9号「札幌の歴史」)
高倉新一郎「能登酉雄談話聞書」(昭和10年(1935)「北海道社会事業」第37号)
松本十郎「石狩十勝兩河紀行」(1969年6月30日「日本庶民生活史料集成」第4巻三一書房)
谷本晃久「琴似又市と幕末・維新期のアイヌ社会」(2003.3)
谷本晃久「偕楽園地続琴似又市所有地」の周辺(2008.5.27)
谷本晃久「近代初頭における札幌本府膝下のアイヌ集落をめぐって:「琴似又市所有地」の地理的布置再考」(北方人文研究2018年第11号)
(2021.5.13)
コタンの形式(拡大)
知里真志保「地名アイヌ語小辞典」の説明より。 (2021.5.22) イオルの意味(拡大)
コタンの意味(拡大)
▼最後の2018年の谷本論文が集大成。
なお本題からそれますが「アイヌ聞取書」は今で言う琴似又市さんへのインタビユーです。又市さんの お人柄、教養を知るのに貴重です。

それと加藤好男著「19世紀後半のサッポロ・イシカリのアイヌ民族」の「石狩場所絵図」は衝撃的でした。 幕末当時の札幌・石狩を私はこのようには全く想像できていませんでした。目から鱗でした。

それに谷本論文のタイトル「札幌本府膝下のアイヌ集落」 がここまで勉強してきてよくわかりました。札幌本府(現北海道庁)から数百メートル北、まさしく本府のお膝下に又市さんが住んでおられた、 ということですね。(2021.5.15)
伏篭川の上流(拡大)
幕末・明治初期の札幌のコタン(拡大)










▼サッポロ中心部には4つのコタンがありました。上の地図(2枚の繋ぎ目にコトニコタンがあります。)
左からハッサムコタン、コトニコタン、上サッポロコタン、フシコサッポロコタンです。
コトニコタンは北海道大学の構内にありました。
上サッポロコタン、フシコサッポロコタンは右の「伏篭川の上流」地図を拡大して位置を確認してください。
ほぼ1ヵ月の北海道構内のアイヌコタンの追跡は一応ここまでです。(2021.5.29)

札幌本府 https://sapporo-jouhoukan.jp/sapporo-siryoukan/lekishibunko/sapporo_histry/meiji/meiji3.html
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明治6年10月開拓使本庁が落成しました。写真は落成式のもの。
地上より屋上八角座の尖端までの高さが14間1尺(約26メートル)の洋風三層楼の建物です。 この本庁構想はケプロンの設計で、現在の道庁を中央として、東は現在の西4丁目駅前通、 西は、西8丁目通、南は、現在の北1条通、北は、現在の北6条通まで約5町四方を開拓使本庁の敷地に設定しました。
▼東西500メートル・南北800メートルの長方形の4町歩の区画、残りの1町歩は植物園?知事公邸? いずれにしてもほぼトーキョードームの広さ。(2021.5.16)

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▲(拡大)8に依ると「琴似川筋のコタンはセロンベツ(マロンベツ)川河畔の北区北7〜8条西9〜10丁目付近」。 念のためにサクシュ琴似(シャクシコトニ)(2021.8.14)

マロンベツ川(拡大)
サクシュ琴似川→セロンベツ川 (拡大)
クラーク博士
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▲カラーの地図は『北海道大学もうひとつのキャンパスマップ』からです。 赤い番号3はコトニ・コタン跡。
ユポさんの大部の資料を全部読んで結論が ここにたどり着きました。石山通と北8条通の交差点付近の北大構内です。 琴似又市さんは間違いなくここに住んで居られと思いました。(2021.5.10)
▲今日、二つの地図を並べて見ました。これで間違いないです。確信しました。(2021.8.15)
▲左 10/13谷本講座「コタンはどこにあったか?」で宮坂省三氏「北8西9〜10」〈2019.5.11市民セミナーレジメ〉を紹介。(2021.10.16)
北大コタン北8条西10丁目3-1 (拡大)
北大又市さんゆかりの地 (拡大)
▲温室の建っているあたりが小高い平地になっている。ここがアイヌコタンのあった場所だろうと、 ユポさん、木村さん、谷本先生、小田先生の見解。(2021.11.25) ▲2022.10.6〜10.12再構成


新しいアイヌモシリの創造
▲このコーナは私がイメージする新しいアイヌモシリに関する見識を掲載する。「耕さない土」は第一号。(2023.11.1)
耕さない土 2023.9.8.朝日夕刊
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